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小林よしのりさんの橋本明批判に欠けている戦後史論───橋本明『平成皇室論』を批判する 番外編 [橋本明天皇論]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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 小林よしのりさんの橋本明批判に欠けている戦後史論
 ───橋本明『平成皇室論』を批判する 番外編
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▽橋本批判のポイント8点

 小林さんの橋本批判の主要なポイントは、以下の8点かと思います。西尾批判についてはこの際、割愛します。

(1)「皇太子には人徳がないから『廃太子』して皇統を秋篠宮に譲れ」などと言っているが、皇室は万世一系の血統によるもので「徳」は関係がない。この呼びかけは革命を誘導する。

(2)無知に加え、戦後民主主義と国民主権意識が相まって、「俺たちが認めない人間は天皇になれない」「廃太子せよ」と迫るのはおこがましい。それが実現すれば、皇室は終わる。

(3)伝統的な皇室を論じるのに近代的批判精神を発揮するのは、矛盾である。

(4)「雅子妃殿下がご病気で公務や祭祀を行えないこと」を理由に、皇太子殿下、雅子妃殿下が天皇皇后両陛下になられると「皇室はめちゃくちゃになる」と思っているようだが、2つの根本的な誤解がある。

(5)1つは祭祀についてで、祭祀は天皇ひとりでも成り立つ。

(6)もう1つの誤解は「天皇と皇后は2人そろって公務に行かれなければならない」と思い込んでいる点である。両陛下がそろって公務をこなされるのは「平成流」であり、伝統ではない。

(7)皇太子殿下が妃殿下といることで心が平穏なら十分であり、「離婚」まで持ち出して、間を裂こうとするのは異常である。

(8)何より心配しなければならないのは悠仁親王で、その代まで皇室をほったらかしにすれば皇族がお一人になる、もっとも逼迫(ひっぱく)した「皇室の危機」を迎える。


▽小林さんと私の4つの違い

 私はここ数カ月にわたって、橋本さんの「廃太子論」を批判してきましたが、結局のところ、橋本さんの誤りは、(1)「級友」としての進言の手法、(2)橋本さんの天皇・皇室観、(3)歴史理解および事実認識、の3つの観点から指摘されると思います。

 その点で言えば、小林さんと私の批判は、君徳論、祭祀論、一夫一婦天皇制など、共通するところが多いのですが、違いもあります。

 1つは、(3)の伝統と近代の対立という発想を小林さんがしていることです。しかし私は、この発想は誤りだと考えています。

 皇室は伝統の世界であり、近代と対立する、という考えは、小林さんが批判する西尾先生と同じになってしまいます。皇室は伝統のシンボルであると同時に、変革のエネルギーであることは、明治維新の歴史を振り返れば明らかです。

 2つ目は、「平成流」とされる一夫一婦天皇制について、です。

 小林さんのいうとおり、一夫一婦天皇制は歴史的に古いものではありません。しかしそこで指摘しなければならないのは、「平成流」と指摘するだけでは不十分だということです。

 つまり、その背景には、両陛下を支えるべき藩屏(はんぺい)の不在という否定しがたい事実があります。それは、戦後、祭祀の正常化が政府をあげて取り組まれたのに、現在では逆に、陛下の意思に反して、側近たちによって平成の祭祀簡略化が断行されていることからも明らかです。

 3番目は、そのことと関連するのですが、小林さんには戦後の歴史論が抜けています。

 たとえば、皇太子妃殿下がご病気のため、長らく祭祀にお出ましにならなかったこと、そのために批判を浴びたことについて、小林さんは「祭祀は天皇ひとりでも成り立つ」と反論しています。

 そのことはまったく正しい指摘ですが、昭和50年8月15日宮内庁長官室での会議において、硬直した政教分離主義の考えから、皇后、皇太子、皇太子妃のご代拝の制度が廃止された、という歴史的事実に目を向ける必要があります。


▽なぜ「女系継承容認」なのか

 ご代拝の制度さえあれば、ご自身が拝礼できない場合は、側近に拝礼させればすむことであり、妃殿下が批判される必要はありません。批判されるべきなのは、ご代拝の制度を一方的に廃止した官僚たちです。

 小林さんの橋本批判には、昭和ならびに平成の祭祀簡略化の歴史についての言及がありません。宮中祭祀の重要性、すなわち天皇が祭祀を行うことによって日本という国を統治してきたという歴史と伝統の大原則について、漫画という手法によって、一冊の著書をあらわし、多くの読者を得ていることはたいへん大きな功績で、賞賛に値しますが、惜しいことに、より現実的な戦後の天皇史の観点が欠けています。

 もう1つ、4番目として、大きな違いを指摘しなければなりません。それは、小林さんの「女系容認」です。

 小林さんも私も天皇の祭祀をもっとも重要視していますが、この点についてはまったく異なります。

 なぜそうなるのか? 私の場合は、国と民に捧げられる天皇の祈りが公正無私なるものであるがゆえに、その継承は必然的に男系男子たることが要件となると考えています。

 しかし、小林さんの場合は、なぜ女系継承容認なのか、分かりません。少なくとも「WiLL」の論考では、「伝統とは何か」と問いかけ、形骸化を戒めた皇后陛下のお言葉を引用しているだけです。

 伝統は大切だが、固守するだけでは不足だ、というのはごく当たり前のことです。「綱渡り」とも表現されている男系男子による皇位継承が、それでも歴史的に固守されてきたのはなぜなのか、を謙虚に見つめ直さなければ、「伝統的な皇室を論ずるのに、近代的な批判精神を発揮している」と小林さん自身が批判している人たちと同じになってしまいます。

 さて、それなら、この難問をどう考えればいいのか? それは次週、「正論」最新号に掲載されている小堀桂一郎先生の「『平成皇室論』『天皇論』を読む」を読み合わせつつ、考えたいと思います。

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「二重性」は昭和天皇ではなく、共同通信にある──橋本明『平成皇室論』を批判する 最終回 [橋本明天皇論]

「二重性」は昭和天皇ではなく、共同通信にある
──橋本明『平成皇室論』を批判する 最終回
(斎藤吉久の「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン2009年11月3日)


 橋本明さんの『平成皇室論』の批判をつづけます。今回は「第6章 近代の皇室」を読みます。第7章はすでに取り上げていますので、今回が最終回になります。


▽1 「ご学友」と「同級生」の違い

 批判の前に、ひと言申し上げたいのは、先週、少しふれた岡田外相の「お言葉」発言です。外相は個人のブログで、

「官僚的発想、あるいは無難に無難にという発想のなかで、あまりにもそれが行き過ぎていないか、形式主義に陥っていないかということを、私としては問題提起した」

 と釈明しています。
http://katsuya.weblogs.jp/blog/2009/10/post-19c9.html#more

「誤解を解いて欲しい」

 と外相は訴えているのですが、逆にこの人の問題意識の低さを露呈しています。いま政府が考えるべき皇室の問題とは、このメルマガの読者ならお分かりのように、思いつきですむような各論ではなく、国家と文明の根幹に関わる本質的なことだからです。

 さて、橋本さんの「廃太子論」ですが、橋本さんは第6章で、近代の皇室史を、明治天皇の即位から日清・日露戦争、大正天皇の即位などを、きわめてざっくりと振り返っています。

 意外に思ったのは、橋本さんが、裕仁親王、すなわち、のちの昭和天皇の「ご学友」と自身のことについて、正直に説明していることでした。

 いわく、昭和天皇の「ご学友」は、御学問所開設期に学習院初等科の修了生から5人が選ばれ、起居をともにしたけれども、橋本さんは学習院で机を並べただけの「同級生」に過ぎない。マスコミが勝手に「ご学友」と呼んできただけだ、と説明しています。

 それを読んで、案外、正直さと謙虚さを兼ね備えた方かもしれない、と認識を新たにしたのですが、大勢の「同級生」のなかの1人に過ぎない、というクールに理解するなら、陛下との個人的な人間関係を強調したり、

「陛下の級友がいま世に問う」

 などと著書の帯に入れる行為は慎むべきでしょう。

 地上の支配者たるヨーロッパ王室とは異なる、日本の皇族にとっての最大の美徳は、謙虚さでしょうが、「同級生」スポークスマンは、外信部も経験したはずなのに、世界にまれなる統治者の徳目を致命的なほどに理解していないようです。


▽2 一昔前の図式的な近代史理解

 第6章からうかがえる、橋本さんの近代史理解の特徴は、以下の5点かと思います。

(1)天皇という存在を、それぞれ肉体を持った、国民の目から見える生身の個人として理解していること

(2)朝廷対徳川幕府、君主制対共和制、戦争と平和という対立の図式で、日本近代史を理解していること

(3)立憲君主であった戦前の昭和天皇が、みずから政治意思を貫く3回の「逸脱」をやってのけた、という歴史理解を持っていること

(4)敗戦後、窮地に陥った昭和天皇を救ったのは「天皇を守る」という国民の意思だった、と理解していること

(5)昭和天皇は戦争と平和の時代を異なる価値観で生きた二重性を帯びた天皇だったが、新憲法の申し子である新天皇は、新憲法が定める象徴天皇のあり方に正面から取り組み、骨格づくりに骨身を削ったという理解をしていること、

 歴史家やジャーナリストが天皇個人にスポットライトを当て、あるいは二項対立の図式を持ち込んで、歴史を理解しようとすることはしばしば行われていますが、そのような手法が万能かといえば、そうではありません。

 以前にも指摘したように、とくにジャーナリズムの役割は図式では捉えきれない事実を明らかにし、より深い真実の追究を促すことにあるのだろうと思います。その意味で、橋本さんの著書は一世代前の図式から一歩も脱していないように私には見えます。


▽3 策謀を承知の上で従った後水尾天皇

 たとえば、この章の冒頭、後水尾天皇(1611~29)の時代を取り上げたくだりがそうです。

 橋本さんは、幕末明治維新の権力交代の歴史を描くために、家康らが

「天皇から政治権限を取り除いた」

 とする徳川時代初頭の朝幕対立の歴史を振り返ります。

 権力対立の構図のなかで、政治の実権が朝廷から徳川幕府へ、そして幕末に朝廷にもどされた、さらに敗戦後、国民に移ったという単線的な歴史理解から、そのような議論を展開させているのでしょう。

 しかし、朝幕対立の構図なら、すでに後水尾天皇の父・後陽成天皇(1571~1617)の時代に始まっています。それはともかくとしても、重要なのは、若き日においてはなるほど幕府とのつばぜり合いを経験せざるを得なかった後水尾天皇が、晩年においては円熟され、単なる対立関係に終わらなかったことです。

 橋本さんは、「禁中並公家諸法度」を「押しつけた」と言い切っていますが、その第一条は天皇の御務めを「御学問」「和歌」とするもので、後水尾天皇こそは幕府の法律をもっともよく守られたのです。

 後水尾天皇は皇室の弱体化を陰に陽に図ろうとする幕府の策謀は百も承知のうえで、争うことを捨て、僭越・非道の幕府の措置に従容と従い、平安の境地にまでご自身の心を磨かれるという至難の帝王学を実践し、皇室の尊厳を守られたのでした(辻善之助『日本仏教史』『日本文化史』など)。

 天皇の統治は文治であり、徳治です。後水尾天皇は天皇統治の本質を、生涯を通じて、徳川に示し、やがてその志は明治維新の源流となりました。
http://homepage.mac.com/saito_sy/tennou/H140311JSgomizunoo.html


▽4 統治大権はつねに天皇にあり

 争わずに受け入れるという天皇の帝王学は、二項対立的な歴史理解の限界を教えています。橋本さんは権力の対立・闘争というような単純な図式で、単線的に歴史を見ているために、江戸期の朝幕関係、現代の皇室と国民との関係が一面的にならざるを得ないのです。

 さらにいうならば、橋本さんは「統治大権」の意味を小さく、低く理解しているように思います。

 天皇が神代にまでさかのぼる日本の統治者であると理解されてきましたが、天皇が政治の実権をふるってきたわけではありません。統治の大権は古来、つねに天皇にあるけれども、現実の政治は天皇の委任を受けた為政者が行ってきたのであり、したがって 橋本さんが解説するように、幕末の大政奉還は徳川慶喜が

「政治大権を天皇に奉還した」

 のではなく、委任統治権を返上したと理解すべきでしょう。

 昭和天皇の「逸脱」もしかりです。

 橋本さんは、

(1)張作霖爆殺事件後、田中義一首相に辞職を迫ったこと、

(2)2・26事件の決起部隊を反乱軍として切り捨てたこと、

(3)戦争末期、御前会議でポツダム宣言受諾の聖断をくだしたこと、

 の3つを立憲君主の権限を「逸脱」していると理解しているようですが、統治権者ではなく、統治大権者としての判断だとすれば、「逸脱」とは言い切れないでしょう。

 皇祖神の命に従い、

「国中平らかに、安らけく」

 という祭祀王の祈りを継承し、国と民をまとめ上げてきた統治大権者であればこそ、戦争で国土が焦土となり、多くの生命が失われたことに対して、昭和天皇は生涯、高い次元から、ご自身を責め続けられたのでしょう。けっして「二重性を帯びた天皇」ではありません。


▽5 自己批判なきジャーナリズム

 もし昭和天皇の「二重性」をきびしく指摘したいのなら、橋本さんが身を置いた共同通信社の自己批判はないのですか。

 共同の前身である同盟通信は人員5500名を擁する当時、世界最大の国策通信社であり、「大本営発表」は同盟を通じて新聞、ラジオに流されたことは、ほとんど誰でも知っているでしょう。

 敗戦後は、経営トップの英断により、自発的に解散しましたが、その実態は、共同通信と時事通信への分離・分割であって、通信網も人員も温存されたのです。橋本さん流にいえば、戦争協力の社是を弊履のごとく脱ぎ捨て、平和と民主主義の時代を生き延びているのです。

 その証拠に、10年前に刊行された『共同通信社50年史』は、「第4部 前史」で同盟通信の歴史を32ページにわたって記述しているのですが、みずからの「戦争責任」についてはまったく言及していません。役員が自発的に総退陣したために、同盟の戦争責任を徹底的に反省し、総括する機会を逸した、とたった数行、書いているだけです。

「道義的戦争責任を曖昧に」しているのは日本のジャーナリズムであり、昭和天皇の責任を強硬に追及しながら、みずからの古傷に沈黙するという「二重性」に安住しているのが橋本さんの古巣・共同通信です。天皇を批判する資格はありません。

 長くなってしまいました。橋本さんの「廃太子」論を批判する、小林よのしのりさんの「WiLL」の論考は次回、取り上げます。
http://melma.com/backnumber_170937_4659088/

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今上陛下の「祭祀継承」が見えていない───橋本明『平成皇室論』を読む その4 [橋本明天皇論]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


 橋本明『平成皇室論』の批判をつづけます。今回は第4章を読みます。

 橋本さんは、第3章で今上陛下の皇太子時代を見渡したのにつづいて、この章では即位後の足跡について、昭和天皇の崩御から即位大嘗祭へ、と平成の時代を振り返り、さらにご公務、宮中祭祀について論じています。

 しかし、じつのところ私には、橋本さんが何を言いたいのかよく分かりません。歴史理解の間違いが目立つだけでなく、全体的な論理性に欠けていると思うからです。


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 今上陛下の「祭祀継承」が見えていない
 ───橋本明『平成皇室論』を読む その4
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▽昭和天皇が戦争を指導した?

 まず、歴史理解の誤りについて、指摘します。

 橋本さんの「象徴天皇」論は、天皇個人の行動が時代を作る。だからそれぞれの天皇は各時代の象徴となる、と考えるのが特徴で、たとえば、戦前・戦中は大元帥として戦争を指導した昭和天皇が時代の象徴であった。戦後、成長を遂げた昭和天皇は、A級戦犯などを合祀した靖国神社に背を向け、世界平和を祈念することで戦後日本を象徴した、といういい方をします。

 しかし、昭和天皇が直接、戦争を指導したという歴史はないし、靖国神社が戦争犯罪者を神としてあがめ奉ってきた歴史も、昭和天皇が同社を嫌った歴史もないでしょう。

 いつの時代でも国の平和と国民の平安を祈るのが祭祀王たる天皇であり、昭和天皇も同様です。橋本さんの歴史理解はあまりに一面的、観念的すぎます。

 橋本「象徴天皇」論は、天皇個人に視点を定め、細切れの歴史を観察しますが、個人を超えた、もっと高い次元に位置するのが天皇なのであり、歴史的存在としての天皇が悠久の歴史を通じて国と国民統合の象徴、つまり文明の象徴と考えるべきだと思います。

 もう1つだけ、例をあげると、橋本さんによれば、今上陛下が即位時に「朝鮮民主主義人民共和国を視野に入れた旧交戦国との和解」を表明された、と解説しています。

 しかし、朝鮮半島が南北に分断され、北朝鮮がソ連の後ろ盾で成立したのは1949年であり、日本と戦火を交えた「旧交戦国」ではありません。

 このくだりは、今上陛下の即位礼当日に、共同通信から加盟社に配信された記事の一部で、およそ非歴史的といわざるを得ないこのような記事が、世界に配信されただけでも驚きですが、さらに得々としてというべきか、20年後のいままた自著に転載する神経が理解に苦しむところです。


▽旧時代否定のためのご公務?

 それよりも、第4章の問題は全体の論理性です。

 橋本さんの考えでは、今上陛下の原点は「敗戦」です。陛下は東宮時代から妃殿下(皇后陛下)とともに、国民主権下の新しい象徴天皇像を切り開いてきた。この今上天皇の気風に合った責任を果たすことが平成の東宮に求められている。すなわち、旧時代とは異なる、新しい象徴天皇像の踏襲が求められている。なのに、皇太子同妃両殿下はその期待を裏切っている。だから「廃太子」を、というのが著書全体の論理です。

 したがって、橋本さんの主張では、新たな象徴天皇像を拓く今上陛下は、東宮時代から一貫して、旧時代を否定し続けなければなりません。

 橋本さんは天皇の歴史を、(1)平安~江戸期の理想的な時代、(2)幕藩体制から太政官制度に移行したあとの明治~戦前・戦中期、(3)敗戦後、明治憲法から現憲法に変わった現代、の3つの時代に区分したうえで、(2)の時代を否定し、さらに今上天皇もそのようなお考えだ、と大胆に推測します。

 近世までの天皇は政治に直接関与しない、文化と伝統の守護者であり、理想の天皇像だが、明治以後3代の天皇は外国王制の擬似態であって、現天皇はもっとも不幸な時期ととらえている。現天皇は民衆レベルまで天皇家を押し下げ、国民に奉仕し、韓国に謝罪し、憲法を高く持して、平和を希求し、北朝鮮など旧交戦国との和解を求める。過去の過ちにメスを入れ、不戦の誓いを立てた世代の代表者として、国民レベルにあって燦然(さんぜん)と輝いてほしい──というわけです。

「天皇陛下、バンザイ」と言わせて、人の命を奪う。そのような天皇あり方には敢然と抵抗し、平和の基盤をゆずらず、我々を守ってほしい、と考える橋本さんにとって、明仁陛下が国事行為などのほかに、沖縄、広島をはじめ戦跡地慰霊の旅を重ね、美智子皇后が夫人として支えていることは、望ましいことであるということになります。

 両陛下の慰霊の旅は旧時代の否定である、と橋本さんには映るようです。しかしそうでしょうか?


▽なぜ陛下は祭祀を重視されるのか?

 問題はこのようなご公務と祭祀との関係です。

 今上陛下が「弔いの旅」を重ねてきたのは、皇后のお言葉である「皇室は祈りでありたい」という精神だというのが、橋本さんの理解です。しかしここでいう「祈り」が、歴代天皇によって継承されてきた祭祀とどう関わるのか、が見えません。

 祭祀についての橋本さんの理解は、両陛下には祭政一致から切り離された祭祀という私的分野がある、というものです。旧時代は祭政一致の政治が行われていたが、現憲法下では祭祀は私的行為として行われている、という意味なのでしょう。

 ───皇国史観が隆盛を極めた時代は、神道は八百万(やおよろず)の神をあがめる宗教というより、絶対現人神(あらひとがみ)の天皇を国の家長とあがめる人心掌握の手段だったが、軍国主義一掃とともに政治から切り離され、皇祖以来、継承されてきた精神的な文化遺産に変質した。陛下は「遊び」の精神を神道に持ち込み、老いの歩みにまかせて、先祖と遊んでいる。

 つまり、これら橋本さんの表現から浮かび上がってくるのは、古い時代が過ぎてもなお、アナクロニズムに浸っている今上天皇というイメージです。「皇室は祈りでありたい」という精神と祭祀は別物なのです。

 それでいながら、橋本さんはかなりのページを割いて、「文化遺産」「遊び」であるはずの祭祀に言及しようとします。

 橋本さんは、祭祀は戦前までは公的行事だったが、現憲法下では天皇・皇族の私的行為であって、公務ではない。しかし人魂(ひとだま。皇祖神の意味か?)と交わり、五穀豊穣の祈りを真面目に実践する男がこの日本に1人いることこそ貴重であり、ありがたい、と話を展開するのでした。

 橋本さんは、祭祀を重視する陛下の姿勢が理解できるのでしょう。けれども、なぜ祭祀を重視するのか、が橋本さんには理解できていないのだと思います。


▽「天皇に私なし」と「級友」は矛盾する

 つまり、今上陛下が継承されたのは、旧時代の否定ではなくて、「国中平らかに、民安かれ」と祈る祭祀であり、内外での慰霊の旅はその結果であることが、橋本さんには理解されていないのです。

 天皇の祈りは先祖と遊ぶことではありません。皇祖天照大神を太陽神と決めつけることもできません。祖先崇拝や太陽信仰という理解は正確ではありません。天皇の祭りは農耕儀礼ではなく、神と天皇と人間が命を共有する食儀礼です。日々の祭祀を通じて、喜びや悲しみだけでなく、命をも共有しようとする天皇だからこそ、橋本さんが指摘するように、天皇は「身障者」や「沖縄」、そしてすべての国民に心を寄せられるのです。

 皇太子時代とは異なり、みずから真剣な祈りを捧げる天皇であればこそ、国民に寄せる心はいよいよ切なるものとなるのでしょう。

「陛下の級友」だというのなら、なぜそれが理解できないのでしょうか?

「陛下の級友」を自認する橋本さんの著書ですから、橋本さんしか知らないようなエピソードがいくつも登場します。ところが、たいへん興味深いことに、この第4章に即位後の体験談は見当たりません。「級友」と称するほど、身近におられるなら、陛下の祭祀に対する思いを独自の取材で描けるはずなのに、それがありません。

 おそらく皇位継承後は「級友」取材ができないからでしょう。

「天皇に私なし」といわれます。皇太子時代ならいざ知らず、天皇はすべての国民にとっての存在です。個人的な友だち関係は大原則に反します。「級友」という立場は即位後の陛下にはふさわしくありません。したがって「級友」天皇論も望ましくありません。

 まして、一面的で不正確な知識を振り回し、憶測にもとづいて、あまつさえ皇太子殿下の「廃太子」を国民的な議論にせよ、などと迫るのは、およそ「陛下の級友」のすることではない、と私は思います。


▽ご結婚の儀は「国事」であった

 さて、今週も長くなってしまいました。最後に1点だけ、すなわち祭祀の歴史について、補足します。

 橋本さんは、50年前、賢所で行われた両陛下のご結婚の儀が国事として行われたという事実を完全に見落としています。憲法が変わって、祭祀が天皇の私的行為と解釈されるようになったのではありません。祭祀の法的位置づけは、戦後、二転、三転しています。

 敗戦直後は過酷な神道指令で神道圧迫政策が行われましたが、占領後期になれば、占領軍の政策は変わり、貞明皇后の大喪儀はほぼ伝統に従い、事実上の国葬として行われました。政教分離原則の厳格主義が蔓延するようになったのは昭和40年以降であって、それでも58年には宮内庁は「(宮中祭祀は)ことによっては国事、ことによっては公事」とする「公式見解」を表明しています。

 歴代天皇が第一のお務めとしてきたのが祭祀ですが、その歴史からいえば、(1)近世まで、(2)明治以後、敗戦まで、(3)戦後という、義務教育の歴史教科書に載っているような単線的な歴史区分では不十分です。

 橋本さんは、皇后陛下がなぜ「皇室は祈りでありたい」とおっしゃったのか、天皇の祭祀との関係について、歴史的に、そして謙虚に学ぶべきでした。それがあれば、例の単純素朴な「新学習院」史観を克服できたのではないかと思います。橋本さんの祭祀の解説はあまりに即物的で、神聖さが感じられません。


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沈黙した政治学者・橋川文三───知られざる「象徴天皇」論争 その3 [橋本明天皇論]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2009年9月15日)からの転載です


 先週お休みした橋本明『平成皇室論』の批判を続けます。

 その前に、ひとこと申し上げます。新連立政権の発足を直前にひかえ、羽毛田長官が先週の10日、記者会見で、皇室典範の改正問題に取り組むよう要請する意向を表明した、と伝えられます。
http://www.47news.jp/CN/200909/CN2009091001000994.html

 つまり、男系男子に限定している現行の皇室典範を改正し、女性天皇のみならず、女系継承をも認める法改正を推進しようというわけです。

 一点だけ手短に申し上げます。「歴史上、女性天皇がおられるのに、なぜ認めないのか」とおっしゃる方がしばしばいますが、不正確な歴史理解だと私は考えます。

 なるほど推古天皇以来、女性天皇は古代から近世まで、8人10代おられます。しかしすべて未亡人か未婚で、独身を貫かれています。夫をもつ女性、あるいは妊娠中や子育て中の女性が即位した歴史はありません。この事実が重要です。

 理由は何か。祭祀が天皇第一のお務めだからでしょう。私心を捨て、国と民のために、ひたすら公正無私なる祈りを捧げることを最優先するからです。

 女性が夫を愛することは大切です。命をかけてでも子供を愛する女性は美しい。その価値を認めるならば、祭祀王にはふさわしくありません。女性に祭祀が務まらないというのではありません。女性差別でもありません。むしろ逆です。

 天皇の切なる祈りの継承によって、国の平和と民の平安を築いてきた文明のかたちを深く理解するならば、女性天皇容認、女系継承容認の法改正は反対せざるを得ません。宮内官僚らが進める皇室典範「改正」は、日本の歴史と伝統を破壊し、天皇を完全に名目上の国家機関化する「ネオ象徴天皇国家」への変質を招きます。


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 1 沈黙した政治学者・橋川文三
   ───知られざる「象徴天皇」論争 その3
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▽これまでのおさらい

 さて、当メルマガはvol.91から、皇太子殿下の「廃太子」を進言する「ご学友」橋本明・元共同通信記者の『平成皇室論』を取り上げ批判しています。vol.94からは、約50年前に「思想の科学」誌上で展開された、知られざる論争を紹介しています。

 目的は、政治体制の歴史を世界史的に単線的にとらえる一方で、国の安定性の要因を君主の倫理性に求める橋本さんの皇室論の誤りを、浮き彫りにするためです。

 簡単におさらいすると、同誌昭和37年4月号の天皇制特集号に載った、戦後唯一の神道思想家・葦津珍彦(あしづ・うずひこ)の論文は、唯一の天皇擁護論で、敗戦国の王朝はかならず廃滅し、共和制に一様に移行する、というようなドグマに根本的な疑問を呈しました。

 これに対して、明治大学教授で評論家の橋川文三による批判論文が同年8月号に載ります。しかし内容は批判とはほど遠いものでした。橋川は真正面からの論争を避け、自分の十八番(おはこ)の政治学、政治思想史の分野で天皇制批判を試みます。

 つまり、(1)近代天皇制は、悠久の天皇史とは異なる、明治時代の創作ではないのか、(2)明治以後の国体論は膨張主義、帝国主義のシンボルだったのではないか、と指摘するのでした。


▽根拠をつまみ食いする非科学的態度

 葦津の問題提起を避け、橋川は自分の土俵に引き込もうとします。これに対して、葦津は翌年10月号で、相手の土俵のうえでの論争に真っ向から応じ、具体的に丹念に批判します。

 まず第1点。明治の「国体」思想は無からの創造だったのか否か。橋川と葦津の見方を以下、対比させてみます。

 まず、思想を科学する手法について、です。橋川は「老人のつぶやき」に耳を傾けます。

橋川 明治維新は上からの革新で、それまで日本人の生き方になかった要素を加えた。宮本常一『村里を行く』にあるように、「昔は良かった」というのが終戦までの老人たちのつぶやきのほとんどだったが、終戦後はまるで変わった。「昔は良かった」という者はほとんどいない。明治維新と敗戦のあいだにあったものが過渡的な異物であったことを暗示する。

 しかし葦津は、この橋川の姿勢を、根拠のつまみ食いであり、「非科学的」と批判します。

葦津 幾人かの老人の言葉から解釈を引き出し、明治維新の問題を提出するのは、まったく非科学的だ。同じ手法で異なる言葉を引用すれば、まったく反対の説がたやすく展開される。橋川氏も宮本氏も「昔は良かったという者がほとんどない」と思っているようだが、私はそうは思わない。たとえば、憲法改正論が多数派を大きく揺り動かしている。

 次は、明治維新をどう見るのか、です。橋川は「国体」の創出者として伊藤博文を取り上げます。

橋川 伊藤博文らが起草した明治憲法は、国民的統合の創出を最大の任務としていた。それは現代では想像もつかない困難な課題であった。「国家の基軸」とすべきものが欠如していたからである。そこで伊藤は、国体の憲法を作ろうとした。学校や鉄道、運河と同じように、「国民」を作り、「貴族」を作り、「国家の基軸」を創出した。近代国家となるには、自然的・伝統的天皇と異なる超越的統治権者の創出が必要だった。この国体は、民衆の宮廷崇拝やおかげ参りの意識とは異質のものだった。

 これに対して葦津は、伊藤の人物論からはじめ、橋本の言い分をほとんどコテンパンに否定します。


▽基軸として存在するのは皇室のみ

葦津 橋川氏は伊藤を明治帝国建設の英雄と見ているらしいが、大久保利通亡き後、閣内で有力だったのは保守的岩倉具実と進歩的大隈重信の2潮流である。伊藤は欧化貴族主義者で、議会の無力化に熱心なだけだった。そのことは中野正剛が『明治民権私論』に書いている。伊藤は俗物的官僚主義者に過ぎない。「国体を創造」するような政治思想家ではない。

 橋川氏は「我が国にありて基軸とすべきはひとり皇室のみ」という伊藤の演説を引用するが、基軸が現存しないから、新しく創出するという意味ではない。基軸としてすでに存するのは「皇室」だけだということである。『憲法稿本』の朱書にみずから明記しているのを見ても疑う余地がない。伊藤に国体創出のアムビションがあろうはずはない。

 橋川氏は、伊藤が仏教や神道の力を軽視した点に興味を示しているが、問題にするほどではない。伊藤は全野党から極端な欧化主義を糾弾された。神道や仏教を軽視したのは怪しむに足らない。宗教問題を検討するなら、伊藤1人の見解ではなく、憲法そのものの神道に対する公的関係をこそ究明しなくてはならない。

 橋川氏は伊藤と金子堅太郎の「国体」論争を引用しているが、2人の論争は用語論争であって、思想的対決があったわけではない。結局、伊藤は金子説に同意している。しかるに橋川氏は、議論の一致した事実を知らないかのように書いている。事実を知っていながら故意にゆがめるような修辞法は、科学的論文の上では認めがたい。

 帝国憲法の制定によって国体価値が創造された、という説には無理がある。しかし明治維新によって、統治権者としての天皇の本質が創造された、との説をとる学者は少なくない。江戸時代には統治権者としての性格がなかった、という説で、新憲法を弁護する御用学説として現れた。佐佐木惣一博士と和辻哲郎博士の論争が有名で、橋川氏が江戸時代の宮廷崇拝と明治の天皇制とは異質だと主張するのと通ずる。

 私は、佐佐木説の方が正しいと思う。最近、西田広義氏が詳細な研究を発表し、江戸時代における天皇の統治権総覧者としての地位を明快に論証している。そのほか、オランダ商館長など、江戸時代の日本を見た外国人が、天皇を「精神的帝王」と表現している。日常の行政に直接関与しないというだけで、最終の国家統治権は天皇に属すると認めている。

 江戸時代の宮廷崇拝が政治と無縁だったと考えると、明治維新の政治思想史は理解しがたいものとなる。ひな祭りに見られる天皇崇拝と天皇統治の神国思想とは結びついており、現代まで脈々と続いている。伊藤が「創造」したと言うほど、根の浅いものではない。

 しかし「伊藤が貴族を作り出した」とする橋川氏の主張には反対しない。明治の貴族制度は伊藤の創出したものと解釈していい、根の浅いものだったが、国体意識の根の深さはまったく異なる。


▽異民族解放と結びついた国体論

 第2点目として橋川が提起したのは、日本の国体と植民地の人々との関係でした。

橋川 明治の領土拡張のあと、国体は普遍的価値として、「八紘一宇(はっこういちう)」の根源的原理として現れている。単に日本の歴史的特殊事情に基づく国柄という域を超え、人類のための当為─規範の意味を帯びるに至った。膨張主義的規範であった。

 国体論は、「帝国主義」権力そのものの神義論という本質をもっていた。宗教と政治の無差別な一体性の空間的拡大ということが日本の帝国主義の顕著な特質であった。日本の「国体論」はこの百年の歴史について責任を負っている。

 一方、葦津は、橋川のあげた例を否定はしないが、それだけでは不十分だと批判します。

葦津 第1に、明治以来の日本の国体思想家とアジア解放運動との関係を見ていく必要がある。アジア解放の思想と植民地朝鮮・台湾問題とがどのような関係にあるか。頭山満や内田良平、北一輝らアジア解放運動に不惜身命(ふしゃくしんみょう)の活動をし、命を捧げた人もいる。ロシア革命の援助に熱意を示した人もいる。橋川氏のように「帝国主義権力そのものの神学という本質をもっていた」と割り切れない。

 問題は複雑である。内田良平は「日韓合邦」の推進者の筆頭で、典型的な帝国主義者とされているが、韓国農民の指導者・李容九は内田と結び、一進会百万人を動員して日韓合邦のために努力した。しかし、理想は裏切られ、「朝鮮併合」となり、李容九は悲劇的な死を迎えた。国体思想と植民地問題を究明するにのに、もっとも大切な点だ。

 第2に、大戦中の国体論者として、満州国建国の推進者・石原莞爾の国体論は無視できない。満州国を日本の軍と官僚の専制支配下に置くことに反対した石原は、朝鮮・台湾の民族解放に熱意をもっていた。そのため植民地解放を望んだ朝鮮人のなかにも熱心な東亜連盟員がいた。また石原の東亜連盟思想は日本の軍官民にかなりの影響力を持っていた。熱心な仏教的国体論者の石原を、主流派は「反国体的」と評したが、石原は主流派の権力思想こそ「反国体的」と猛烈に批判した。それほど同じ国体論でも性格が異なる。

 神道的国体論についていえば、神道神学者の今泉定助や神兵隊指導者の前田虎雄は、朝鮮独立運動指導者の呂運亨を熱心に支援した。背景には、朝鮮神宮に天照大神を奉祀すべきではないとするなど、異民族の信仰強制に反対してきた思想の流れがある。橋本氏が書いているような側面だけではなく、使命感としての国体論が、異民族解放の論理と結びつくケースもある。


▽国体意識の多様性

葦津 第3番目として、社会主義者の国体論を無視してはならない。たとえば幸徳秋水は、皇統が一系連綿たるのは、歴代天皇がつねに社会人民全体の平和と進歩、幸福を目的としたため、繁栄を来したのである。これこそ東洋の社会主義者の誇りでなければならない。社会主義に反対するものこそかえって国体と矛盾するものではないか、と書いている。仁徳天皇を社会主義と一致するとし、国体を誇っている。これらは当時の社会主義者のあいだでは、不思議な現象ではなかった。

 大正・昭和の安部磯雄にも共通性がある。満州事変後の無産党の国家社会主義的転向時代にはこの論理が著しい。積極的に「国体明徴」を望んだわけではなく、国体論的権力による社会主義思想の圧迫を回避する目的で国体論を利用したと理解するのが自然だろう。つまり、社会主義者たちは国体意識のなかに、みずからの主義主張を防衛しうるもの、政治権力の圧迫を防ぎ得る側面のあることを認識していた。そのような認識を引き出す要素が国体意識のなかにあったのだ。

 このように、日本人の国体意識というものは、途方もなく複雑で、相反するような多様の思想が錯綜(さくそう)している。これを分類整理して、植民地の人々とのあいだにどのような意味を持ったか、論理づけることは容易ではない。けれども、だからといって2、3の例だけで割り切ってしまえば、「思想の科学」は成り立たない。

 政治学、政治思想史の専門家である橋川は自分がもっとも得意とする分野で、一介の市井の神道思想家に過ぎない葦津に完膚無きまでに批判されました。そしてこれに対して、橋川がその後、再批判を試みたのかといえば、どうもそうではなく、完全に沈黙してしまいました。天皇制を思想として科学する機会は、尻切れトンボに終わったのです。

 さて、話を橋本論文批判にもどします。すでに繰り返し申し上げているように、ポイントは、(1)議論の手法、(2)天皇・皇室観、(3)事実認識の3点です。葦津・橋川論争を踏まえて、次週は橋本さんの著書を読み進むことにします。

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橋本明さんの見かけ倒し、西尾幹二先生のお門違い───「WiLL」10月号の緊急対談を読む [橋本明天皇論]


以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2009年9月1日)からの転載です


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2 橋本明さんの見かけ倒し、西尾幹二先生のお門違い
 ───「WiLL」10月号の緊急対談を読む
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 今週も橋本明『平成天皇論』の批判を続けます。ただし、予定を変更して、雑誌「WiLL」10月号に掲載されている、橋本さんと西尾幹二先生の「雅子妃問題・緊急対談 雅子妃のご病気と小和田王朝」を取り上げ、批判することにします。

 すでに何度も指摘しているように、この問題のポイントは大きくいえば、3点です。つまり、(1)議論の手法、(2)天皇・皇室観、(3)事実認識の3つです。


▽正確にいえば「昔の級友」

 まず第1に、議論の手法について。

 西尾先生は、「雅子妃問題」を皇太子妃殿下個人の問題ととらえ、療養中の妃殿下に対して、「船酔い」で船に乗っていられないなら「下船せよ」と迫ります。

 一方、橋本さんは、「2代目」の皇太子殿下は公務の大半が単独行動で、今上天皇と皇后陛下がお2人で積み重ねてこられた「象徴天皇」像の継承が難しい、という理由から、殿下の「廃太子」を勧めています。

 西尾先生も、「陛下の級友」の橋本さんも、いずれもマスコミという公の場で議論を進めようとしているところに最大の共通性があります。そして、問題の解決を望んでいるように見せかけて、逆に社会の混乱を呼び寄せているように、私には見えます。

 お2人の対談がのっけから興味深いのは、とくに橋本さんが「級友」を自任し、特別親密な立場から「天皇の心を推し量ることに全力を挙げた」と、あたかも陛下の意思に基づいた「象徴天皇」論であるかのように精いっぱい装いながら、見かけ倒しが見え見えだということです。

 橋本さんは対談の冒頭で、著書の執筆に当たって「天皇に直接、お聞きしなかった」と告白していますが、それどころか「直接、聞ける」立場にないのだろう、と私は想像しています。

 というのも、橋本さんの一連の文章や発言に例示される今上陛下との直接的会話や交流は、50年前の学習院時代か、20年以上前の皇太子時代といった古い記憶しか見当たらないからです。

 橋本さんは、いまも交流が続く「級友」ではなくて、かつて机を並べていた「昔の級友」なのでしょう。


▽友人同士の言語空間を逸脱

 そもそも友人関係というのは、お互いに親友だと認め合えばいいことです。他人に向かって「俺はあいつと友だちだ」などと、ことさら公表する必要はありません。

 しかもです。その親友が取り返しのつかない、大きな過ちを犯しているとしたら、もし親友だというのなら、直接、面と向かって諫言(かんげん)すればいいのです。いくらいっても分かってくれない友人なら、机をたたき、涙を流し、ときには命を張ってでも、説得するはずです。

「友のために命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と教えたのはイエス・キリストですが、それが親友です。書店に並ぶ分厚い本を書いている時間などないし、その必要もありません。私信で十分です。

 橋本さんが、「皇室は日本文化の砦(とりで)で、いちばん大事なもの」といいつつ、マスコミなど第三者の力を借り、安易に国民的な議論を喚起しようとするのは友情に反することで、橋本さん自身の言葉を借りるなら、「気楽」な印象さえ受けます。

 要するに、親友という立場をすでに失い、余人を交えない親友同士の言語空間を失っているため、直接的に進言したくても、できないのでしょう。そして、もはや「級友」としての言語空間を逸脱した橋本さんの進言は、「級友」としての立場をも、いまや完全に放棄することになったのではないかと心配します。

 皇室が「残さなくてはならない、いちばん大事なもの」だとすれば、公の場で議論するには、それなりの節度があってしかるべきですが、あるべき節度を失っているのは友情を失っている結果でしょう。

 皇太子ならまだしも、天皇は私なきお立場です。すべての国民の天皇であるなら、一部の人間の「友人」という立場はとれません。橋本さんは「陛下の級友」を一方的に装っているに過ぎないということです。


▽問題を直視しないのではない

 さらに橋本さんは、「天皇陛下や宮内庁から反応はあったか」という西尾先生の問いに、「とくにない」と答え、「とくに問題がないからだと思っている」と解説していますが、独善の上塗りというべきです。

「争わずに受け入れる」のが天皇の帝王学であり、したがって天皇は臣下を批判なさらないのです。反応がないのは「とくに問題がない」ことの証明にはなりません。もし「天皇無敵」という天皇のお立場を知ったうえで、自己正当化に利用しているのなら、いよいよ罪が深いといわねばなりません。

 西尾先生もまた「ご忠言」にふさわしい言語空間を見失っています。

 たとえば先生は、皇室問題について知識人たちがそろって「妃殿下には問題はいっさいない」といっていると指摘し、皇室の尊厳が内側から傷つけられ、汚されても、病気なら黙って治癒されることをお祈りしている以外にないといっている、と批判するのですが、これもまた橋本さんと同様、一方的な理解です。

「問題がない」と理解しているのではなくて、皇室を大切に思うがゆえに、公の場で議論すべきではない、と判断するからでしょう。問題を直視しないのではなく、国民としては静かに見守ることが重要だと考えるからです。

 西尾先生にはそうしたデリカシーが決定的に欠けています。

 妃殿下の一日も早いご快復を願うなら、とりわけ主治医を複数にするなど、治療体制の改善が必要だというのなら、私も同感ですが、そのように進言すれば足りることです。「下船せよ」だの「廃太子」だのと、マスメディアを使って声を張り上げれば、張り上げるほど、妃殿下のご快復はますます長引くでしょう。もしやそれがほんとうの目的でしょうか。

 西尾先生も橋本さんも、宮中に頻繁に出入りする小和田家の人々に節度を求め、「小和田王朝の危険」さえ指摘しています。節度は間違いなく必要ですが、節度を求められているのは小和田家の人々だけではなさそうです。


▽橋本さんたちこそ「つべこべ」

 第2に、天皇・皇室観です。

 西尾先生も橋本さんも、(1)一夫一婦天皇制、(2)徳治主義、(3)倫理的要求のドグマから抜け出せないでいます。

 橋本さんはこう述べています。「両陛下がお互いに協力し合って支えるところに『日本の皇室』を守る姿があった」。

 一方、西尾先生は、「現実を見ない人たちは、雅子妃の現状に問題がないことの論拠として、宮中祭祀は天皇が行うもので、皇后が行うものではない、と強調している」と指摘し、これに同意する橋本さんは「論点のすり替え、『つべこべ』だ」と非難しています。

 さらに、「『天皇はひとりでやっていればいい』ということだ。けしからん」(橋本)、「香淳皇后は戦争中、どれだけ昭和天皇を支えたか」(西尾)、「支え合っている姿が重要なんじゃないか」(橋本)と2人の批判はとどまるところを知りません。一夫一婦天皇制こそ本来のあり方であるかのような口ぶりです。

 たしかに、いまは「天皇皇后両陛下」と併称され、宮内庁発表はお2人がおそろいでご公務をこなされているように発表し、マスコミもそのように報道しています。けれども、昔は天皇を「上御一人(かみごいちにん)」と呼び、さらに古くは「陛下」は天皇のみの尊称だったのです。いまも憲法上の国事行為は天皇のみが行います。

「つべこべ」と議論をすり替えているのは、橋本さんたち自身なのです。

 両陛下が互いに支え合うお姿は麗しいことですが、その美徳が天皇制を維持する要因ではありません。天皇は国と民のため無私なる祈りを捧げることを第一のお務めとし、国民の多様なる天皇意識が皇室を支えてきたのであって、天皇皇后両陛下の意識的な行動が皇室を守ってきたのではないと私は考えます。

 したがって、雅子妃問題が国民の天皇意識を揺るがしている。皇室は徳治の世界だが、東宮ご夫妻は逸脱している、などとして、両殿下に倫理性を要求するのも誤りです。

 橋本さんが、皇室を徳治の世界と考える根拠はいったい何でしょう。有徳の士が皇位に就くのではなくて、皇位は世襲によって継承されています。そして祭祀を重ねることで徳を磨かれるのが天皇なのです。


▽まったく逆の事実認識

 3番目、最後は、事実認識の問題です。これには2つの問題があります。(1)雅子妃問題の経緯、(2)陛下のご心痛とは何か、の2つです。

 西尾先生は、自分が「ご忠言」を書いたのは、「両陛下が心配でならなかったからだ。ご病気もあるし、皇統問題や東宮家のことでご心痛が重なっているようにお見受けした」と説明しています。

 そして「案の定、昨年12月、羽毛田長官がご心痛を報告され、皇室が妃殿下にとってストレスであるとの考えに傷つかれたと仰せになった。妃殿下のお振る舞いに対する天皇のご心痛は、同時に国家、国民の問題でもあるからだ」と続けています。

 長官は両陛下が妃殿下のお振る舞いについて心を痛めていることを明らかにしたが、自分はそのことを予見していた、と西尾先生は自慢げですが、まったくのお門違いです。

 もう少し正確に引用すると、昨年暮れの長官「所見」は、こうです。

「妃殿下の適応障害との診断に関し、『皇室そのものが妃殿下に対するストレスであり、ご病気の原因ではないか』、また『妃殿下がやりがいのある公務をなされるようにすることが、ご快復の鍵である』といった論がしばしばなされることに対し、皇室の伝統を受け継がれて、今日の時代の要請に応えて一心に働き続けてこられた両陛下は、深く傷つかれた」

 今上陛下が妃殿下の行動自体に心を痛めているのでもありません。

 いみじくも長官の「所見」は、「天皇陛下は、皇后陛下とともに妃殿下の快復を願われ、心にかけてこられた。この数年、一部の報道の中に『両陛下は、皇太子妃殿下が公務をなさらないことを不満に思っている』『両陛下は、皇太子、同妃両殿下がオランダに赴かれたことに批判的であった』といった記事が散見されるが、妃殿下がご病気と診断されてこの方、両陛下からこのたぐいのお言葉を伺ったことは一度もない」と、逆の内容になっています。


▽的外れの「所見」を先取りしたトンチンカン

 何度も申し上げてきたことですが、この長官の「所見」自体にこそ、誤解を招く原因があります。

「所見」は陛下のご不例のあと、発表されました。医師が「急性胃粘膜病変があったのではないか」と説明した2日後、長官は何を思ったか、「ここ何年かにわたり、ご自身のお立場からお心を離れることのない皇統の問題をはじめ、皇室に関わるもろもろの問題をご憂慮のご様子……」と述べ、東宮家の問題に言及したのです。

 陛下のご病気が「急性」なら、その原因とされる心身のストレスが「ここ何年かにわたる」問題であろうはずはありません。「所見」自体が的外れなのです。

 トンチンカンな「所見」を先取りして、「ご忠言」を書いた、などというのは、誇るべきことではありません。むしろ逆でしょう。

 西尾先生は「皇室の『民を思う心』と国民の信仰が一致している。その関係が危うくなっていくのではないかというのが、雅子妃のご不例以降の問題である」と語り、一方、橋本さんは「東宮は雅子妃のご病気によってガタガタになってしまった」と述べて、もっぱら妃殿下あるいは両殿下を非難します。

 しかし、平成11年暮れに、全国紙が妃殿下の「懐妊の兆候」をスクープし、その後、流産という悲劇を招いた「勇み足」報道がそもそもの発端であることへの説明は、対談のどこにも見当たりません。情報をリークした宮内官僚とプライバシー暴きを続けるマスコミという外的要因を、西尾先生も橋本さんも完全に黙殺しています。

 ところで、西尾先生は、妃殿下が精神の病を抱えることになることなど、いくつも予感を的中させたと鼻を高くしています。それなら、先生が主張される妃殿下の「下船」のあと、どんなバラ色の世界が広がるとお考えなのでしょう。皇室の平安、社会の安定を招くことになるのでしょうか。

 少なくとも私はそのようには思えません。むしろ逆でしょう。したがって先生の意見に同調することはできません。

 長くなりましたので、今週はこの辺で終わります。 

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1 皇室擁護を謳いつつ破壊をもたらす橋本明『平成皇室論』 [橋本明天皇論]


以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2009年8月11日)からの転載です


 当メルマガはこのところ、皇太子同妃両殿下の「別居」「離婚」「廃太子」を進言する、陛下の「級友」橋本明氏の『平成皇室論』を取り上げ、批判しています。

 これまでのおさらいをすると、「週刊朝日」「WiLL」の記事などを読み、次のような指摘をしました。大きく分けると3点になろうかと思います。

 第1に、進言の方法です。陛下の「級友」だというのなら、陛下に直接、申し上げればいいのです。「級友」と称して、陛下の権威やマスコミの力を借り、国民的議論を求めるのは、問題解決より混乱を志向しているように見えます。

 第2は、橋本さんの天皇・皇室観です。橋本さんの天皇論は千年以上続く、祭祀王としての天皇ではなく、現行憲法を起点とする象徴天皇論であり、一夫一婦天皇制です。戦後の象徴天皇像は両陛下が協力して編み上げたと断定し、昭和天皇の存在すら黙殺されています。皇位を継承するわけではない皇后に徳を要求するのも誤りです。皇室像の継承を主張しながら、じつは勝手な皇室像を押しつけようとしています。

 第3は、事実認識です。いわゆる雅子妃問題の背後にある、マスコミが果たした負の役割に目をつぶり、もっぱら妃殿下批判に集中しています。「懐妊の兆候」スクープ報道が流産という悲劇を招いたこと、ショッキングな皇太子殿下の「プライバシー」発言の前にプライバシー暴き報道が繰り返されたことへの言及は見当たりません。

 以上、軽くおさらいしたところで、今回は著書の第七章を読んでみることにします。本のエッセンスがすべて書き込まれている、と思うからです。

 忘れないうちに申し上げますが、来週はお盆のため、メルマガをお休みさせていただきます。


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1 皇室擁護を謳いつつ破壊をもたらす橋本明『平成皇室論』
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▽3つの選択肢
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 橋本さんはこの最終章で、次のように論を展開させています。

1、皇太子は大半の仕事を単独でこなされている。残念なことに、雅子妃のお姿が見られない。「象徴天皇制」では、政治大権、主権は唯一国民にある。天皇の務めは国家と国民の象徴にあり、皇后の支えが大切だが、このままでは皇太子は1人で象徴の務めを果たさなくてはならない。東宮時代からつねにご一緒だった現皇室の哲学が継承されるか、陛下は悩まれているのではないか。

2、妃殿下の速やかなご回復を祈るけれども、万一の場合は、一連のご大喪儀に皇后の不参加を想定しなければならない。平成の即位礼で確立した様式も皇后不在となると適用が難しい。「歌会始」もどうなるのか。国賓接遇にあたってもそれなりのプロトコールを編み出さなければならない。予見される不都合を解消する唯一の道は早期のご回復であるが、現状は中途半端であり、抜本的な治療方針を確立すべきである。

 このように議論を進めたあとで、橋本さんは次の3つの選択肢を議論の手がかりとして例示します。

ア、思い切って雅子妃を皇室から遠ざけ、ストレス因子の存在しない空間に身を移し替え、回復に専念する「別居」(完治するまで、皇太子は単独で仕事をさばく)

イ、論理のうえで検討しておく必要のある「離婚」(皇室典範の改正が必要になる)

ウ、治療してもよくならない場合、仮に皇太子が一家庭人として幸福を追求するなら、天皇になる道を捨てる「廃太子」(皇次子秋篠宮文仁親王が立太子礼を経て皇太子になる。同時に徳仁親王は新宮家を創設し、継承順位は秋篠宮、悠仁親王、徳仁親王の順になる)


▽天皇を支えるのは内閣

 以上のように述べたうえで、橋本さんは最後にこう締めくくります。

3、日本の国家と国民を結ぶ節目は、正統な血の流れを保ち、だれもが敬意を表する徳を保持する天皇であり、天皇が高い徳を養ってこそ、象徴性は拡大し、国民は安心を覚える。基本的人権尊重の流れはイギリスの名誉革命にはじまり、戦後の日本に到達した。民衆に逆らう王制で長続きした例はない。国民も皇室も心してこの体制を運用し、世界に類を見ない国家統治の形を国の宝と見つめるべきだ。

 さて、批判です。

 基本的なことは冒頭に申し上げた3点に尽きると思います。とくに、天皇に関する本質論、歴史認識の2つについて誤りを指摘しなければなりません。

1、まず、橋本さんの一夫一婦天皇制について。今上天皇が東宮時代から皇后陛下とつねにご一緒だった、というのは正確ではありません。皇后が天皇を支えているという理解も必ずしも正しくありません。

 現行憲法は、天皇の国事行為は、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が責任を負うこと、しかも国事行為のみを行うことと定めています。天皇を支えるのは内閣です。

 実際、宮内庁が公表している「ご日程」によれば、ご執務や認証官任命式、あるいは国会開会式のご臨席などはお1人でお務めです。宮中祭祀の場合、皇室第1の重儀である新嘗祭などは、皇后の拝礼をそもそも制度的に予定していません。

 両陛下が仲睦まじいのは国民にとって喜ばしいことですが、天皇のご公務はあくまで天皇のものです。お2人でご公務をこなされているように見えるのは、各種行事へのご臨席やお出ましについて、マスコミがそのように報道している結果でしょう。

 したがって、皇太子殿下単独のご公務を神経質に気に病む必要はありません。

 皇室の伝統にはない天皇制を、あたかも伝統のように偽って継承せよと迫るのは、皇室の伝統の破壊にほかなりません。


▽君徳は祭祀によって磨かれる

2、橋本さんの象徴天皇論は、皇室と国民との二項対立を前提とし、憲法が定める国民主権下での天皇には徳が要求される、主権者に逆らえば長続きしないと脅していますが、根拠がありません。

 憲法の枠組みでいえば、皇位はあくまで世襲です。徳などは要求されていません。徳がなければ皇位を継承する資格がない。別居だ、離婚だ、廃太子だ、という橋本さんの進言は、GHQ憲法を前提としても、明らかな逸脱です。

 天皇の徳というのは、拙著『天皇の祈りはなぜ簡略化されたか』で述べたように、「国中平らかに、安らけく」と祈り、命を共有する祭祀を継承されてきたことの結果です。祭祀を重ねることによって天皇の徳はみがかれるのです。徳がないから皇太子たることをやめよ、と進言するのは本末が転倒しています。

 皇室と国民とを対立的に理解し、天皇主権か国民主権かと考える近代的な発想も、天皇の歴史を正しく理解するものではないでしょう。ヨーロッパの王室と日本の皇室は違うのです。

 世界に数ある王制のなかで、王妃にまで君徳を要求する国など聞いたことがありません。民主政治がイギリスからアメリカ、フランス、日本に到達したという歴史観も観念的すぎます。

 いま求められているのは、宮内官僚たちによって破壊され、空洞化された祭祀を正常化することです。今年に入って、ご公務ご負担の軽減と称して、毎月1日の旬祭が年2回となり、11月の新嘗祭の簡略化も企てられています。天皇の徳が象徴天皇制の重要な要素だとお考えなら、橋本さんは祭祀の正常化を宮内庁に強く要求すべきです。


▽そのあと何が起きるのか

3、橋本さんは「廃太子」こそがいちばん現実味がある、と結論づけているようですが、いうところの廃太子のあとで、何が起こると考えるのでしょうか。

 皇太子殿下は、マスコミの不作法なプライバシー暴き報道に抗して、ご病気の妃殿下を精いっぱい明るく支えておられます。ご高齢で、しかも療養中の陛下もそうですが、いっしょに病気と闘っている両殿下の姿は、同じように闘病のさなかにある、少なからぬ国民にとっては、希望ではないのでしょうか。

 だとしたら、橋本さんが勧める別居や離婚が行われたとき、日本の社会にどんな影響をもたらすのか。いわゆる家庭の崩壊を一段と進めることになりはしないか。少なくとも私には、いい結果をもたらすとは思えないのです。君徳をきびしく求めるあまり、社会の乱れを引き起こすことは矛盾以外の何ものでもありません。

4、橋本さんは、陛下のご心労について、致命的な誤解をしています。昨年暮れの陛下のご不例は、身心のストレスが原因だとされ、羽毛田長官は「所見」で皇位継承問題などを示しました。橋本さんの進言は羽毛田「所見」を論拠にしていますが、拙著に書きましたように、この「所見」自体が誤っています。

 つねに国と民のために祈る天皇にとって、ご心労は数限りないはずで、特定することは困難です。まして医師は「急性病変」と診断していますから、「ここに何年間かにわたり、ご憂慮の様子」とした羽毛田「所見」はまったくの的外れです。誤った「所見」に基づく橋本さんの進言は誤りです。

 また、皇位継承について、国民が口を出すことは、皇室の伝統に反します。というより、口を差し挟む必要がないといった方がふさわしいかもしれません。皇位は皇祖神の神意に基づき、御代替わりを重ねつつ、地上に蘇り、継承されると信じられてきたのであり、北畠親房(きたばたけ・ちかふさ)の『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』以来、万一、仁政が行われ難きときには、皇位は傍系の仁者に移る、と認められてきたからです。人間よりも神の意思がそうさせるのです。

 結局、結論的にいえば、「ご学友」と称する橋本さんの進言は、皇室擁護を謳いつつ、それとは逆に破壊をもたらすものであるといわざるを得ません。皇室の破壊を国民的な議論にしようとする「ご学友」など、私の理解をはるかに超えています。

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2 「ご学友」天皇論の限界──橋本明さんの不思議な文体 [橋本明天皇論]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2009年8月4日)からの転載です


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 2 「ご学友」天皇論の限界
 ──橋本明さんの不思議な文体
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 橋本明・元共同通信記者の文章は不思議な文体です。

『平成皇室論』の最終ページには「本文では敬称を略しました」とありますが、これはきわめて不正確ないい方で、実際は天皇・皇室に関する敬語、敬称の使い方が不統一というべきです。


▽日本語の作法に従わない

 たとえば、「まえがき」を例にとってみます。

 最初の文は「……事実を明仁天皇は目にした」です。これは敬語・敬称が略されているだけではありません。日本語の伝統、ひいては皇室観の違いをうかがわせます。

 伝統的な考え方からすれば、「明仁天皇」という呼び方はしません。

 1つは、直接、相手の名前を呼ぶことをしないのが、日本語の伝統的作法だからです。たとえば、秀吉は関白様と呼ばれ、家康は大御所様と呼び習わされた、と歴史は教えています。ましてや天皇を固有名詞で呼ぶことは、伝統的な日本語の作法として、ふつうはしない、と私は思います。

 2つ目に指摘しなければいけない、と思うのは、そのことは、天皇は固有名詞で呼ばれる、肉体を持った個人ではない、ということとつながっているということです。歴史家にとって、あるいはジャーナリストにとっては、天皇個人への関心は当然、あり得ますが、天皇とは歴史的存在であって、個人ではない、というのが伝統的考え方なのだと私は思います。天皇に対して天皇としての名がおくられ、天皇が固有名詞で呼ばれるのは、崩御(ほうぎょ)のあとにおいてです。

 3つ目は、英語ならば Emperor Akihito という表現が成り立ちます。ヨーロッパ王政の歴史と伝統からすれば、そのように呼ぶ文化的土壌があるからです。私が橋本さんの文章を読んで感じる不思議さは、遠く万葉の時代から続く日本語ではなく、まるで英語を和訳したような違和感です。

 西郷隆盛の遺訓第八ケ条に、「広く各国の制度を採り、開明に進まんとならば、まず我が国の本体をすえ、風教を張り、しかしてのち、しずかに、かの長所を斟酌(しんしゃく)するものぞ」とあります。自国の本体をよくわきまえて、そのあとに海外の文化を取り入れるというのでなければ、本末が転倒し、国は乱れるという指摘です。橋本さんの皇室論には、その危うさがうかがえます。


▽天皇を敬愛しない天皇観

 面白いことに、橋本さんは次の文で、「……お気持ちが強く働いた様子である」と、部分的に敬語を用いています。かと思うと、「新天皇」「美智子皇后」あるいは「天皇」と両陛下を表現します。

 これは「敬称を略した」ということなのでしょうか。どうもそうではないように、私には感じられます。ジャーナリズムが客観報道という名目で、あるいはわかりやすい報道という大義名分から、伝統的な敬語敬称を略す、あるいは一般用語に代えて表現するということはあり得ます。しかし橋本さんの場合は少し違うようです。

 たった6ページの「まえがき」で、橋本さんは「天皇皇后両陛下」を「お二人」と敬語表現し、ときには逆に突き放した呼び方をする。一方、「皇太子」「徳仁親王」「雅子妃」は敬語も敬称もありません。客観報道の基準以外のものを感じるのは、私だけでしょうか。

「敬称を略した」のではなく、「部分的にあとから敬語表現をつけ加えた」のであって、それは敬語表現の前提としての、他者を敬うという感覚の不在を、私に感じさせます。

 つまり、天皇を天皇として敬愛の対象と考えられない天皇観です。それがすなわち、橋本さんの象徴天皇論の本質なのではないか。一般性を装ったあくまで個人的な皇室論である、と私には映ります。なぜそうなるのか、それはみずから「ご学友」を自任し、同じ教室で机を並べて学んだ学生時代のイメージに、いつまで経ってもしばられているからではないか、と私は考えます。

 たとえば、今年は戦後唯一の神道思想家といわれる葦津珍彦(あしづ・うずひこ)の生誕100年ですが、数々の天皇・皇室論を書き残した葦津が、陛下の拝謁をたまわることは生涯、なかったそうです。お目通り願えば、あるいは日常的に頻繁に接することになれば、人間的な側面しか見えなくなり、高次元の天皇が、個人を超えた歴史的存在としての天皇が見えなくなる、という理由からだろう、と私は解釈しています。

 橋本さんの目には、逆に、人間的な天皇個人しか映っていないのではないか、と私は考えます。それは天皇ではありません。「ご学友」天皇論の限界です。

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1 これがご学友の皇室論か──橋本明「廃太子論」を読む [橋本明天皇論]


以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2009年8月4日)からの転載です


 人生の先輩方を批判するのは気が重い、と思いつつ、先々週から、橋本明・元共同通信記者の『平成皇室論』を検証しています。

 つたない私の文章ですが、価値を認めてくださる方もいて、先週も渡部亮次郎さんが主宰するメールマガジン「頂門の一針」に転載されました。
http://www.melma.com/backnumber_108241_4558379/

 そんなわけで、今週も蛮勇をふるって、橋本さんの皇室論を取り上げます。


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 1 これがご学友の皇室論か
   ──橋本明「廃太子論」を読む
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▽先週までのおさらい
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 前号までのおさらいを簡単にすると、先々週は「週刊朝日」の記事、先週は著書の「まえがき」を取り上げ、次のような指摘をしました。

1、問題解決より混乱を志向しているように見える。「級友」なら陛下に直接、申し上げればいことで、マスコミの力を借り、国民的議論などを求める必要はない。

2、西尾幹二先生の東宮批判と同様、いわゆる雅子妃問題の背後にある、マスコミが果たした負の役割に目をつぶり、もっぱら妃殿下批判に集中している。全体的な視点に欠けている。

3、橋本さんの天皇論は千年以上続く、祭祀王としての天皇ではなく、現行憲法を起点とする象徴天皇論であり、一夫一婦天皇制である。皇室像の継承を主張しているが、むしろ歴史の断絶が濃厚に感じられる。天皇の本質を見誤っている。

4、皇太子殿下の単独行動の多さを気にする一方で、昭和50年に皇后、皇太子、妃殿下の御代拝制度を一方的に廃止した宮内庁に対する批判はない。西尾先生と同様に、戦後史の重大な事実を見落としているのではないか。

5、ご学友という身近な立場から陛下のご心情を代弁しているようで、じつは自身の想像を語っているにすぎないように感じられる。

 といっても、まだ本文を読んでいるわけではありません。先週の予告にしたがって、いよいよ橋本さんの著書の核心部分を読み進めるところですが、その前に、「WiLL」9月号に載った橋本さんの記事を取り上げます。


▽一夫一婦天皇制論

 橋本さんは朝日新聞出版の雑誌だけでなく、ここでも皇太子殿下あるいは両殿下の「別居」「離婚」「廃太子」を国民的な議論とせよ、とけしかけています。

 記事のストーリーをなぞりながら、批判を試みたい、と思います。

1、今年は両陛下の結婚50年、在位20年の節目の年で、この1年に皇室の問題をきちんと書いておく必要があると考え、日本にとって皇室とは何か、戦後の皇室とはいかなるものか、が分かる本を書きたいと思った。

 橋本さんは、ご在位20年より、ご結婚50年を優先的にお考えのようです。この記事はのっけから、橋本さん独自の一夫一婦天皇制が顔をのぞかせています。そして、そのお祝いの席に乱を呼び込もうとしています。

2、私は天皇陛下の級友だが、執筆に際して天皇にはいっさい相談せず、独自の構想で書いた。私の見方、判断は、天皇にとっては、国民の理解が鏡に映ったようになると思ったからだ。

 陛下に相談し、執筆する、という発想が前提におかれているのが、私には不可解です。複数のご学友のなかから天皇のスポークスマンとして選ばれた、と考えるのは自意識過剰か、勝手な思い込みではないか、と私は考えます。自分が国民の代表であるかのような見方も同様です。

 思想・良心は自由ですから、いろんな考え方があっていいのですが、陛下の個人的友人という衣をかぶって、天皇を語るのは百害あるのみといわねばなりません。

3、戦後、日本憲法下の象徴天皇は両陛下がお二人の協力で編み上げてこられたもので、無から有を生み出すようなご苦労があった。

 橋本さんの天皇論は、昭和天皇の存在が軽視され、ほとんど言及がありません。戦後の皇室は今上陛下が皇后陛下とともに築き上げてきた、という評価は、どうひいき目に見ても、公平を欠いています。一夫一婦天皇制的見方も非伝統的です。


▽皇后は太陽か

4、しかし皇太子はお一人である。両陛下の若いころとまったく違う。皇后さまは明るく光り輝いているが、現在の雅子さまは非常に暗い。

 橋本さんの皇室論は、両陛下を持ち上げるだけ持ち上げ、返す刀で皇太子妃殿下に斬りかかるのが最大の特徴です。

 皇太子殿下が1人なのは、藩屏(はんぺい)の不在が原因です。そのことは今上陛下も同様です。級友と称する人でさえ、この程度なのですから、皇后陛下がめいっぱい支えているというのが現実でしょう。その結果、一夫一婦天皇制のように見えるのだと思います。

 橋本さんは、皇后陛下を太陽神である天照大神になぞらえ、明るい女神であり、天照大神のように光り輝いている、と表現していますが、神道学的にいえば、天照大神は皇祖神であって、太陽神ではない、という議論があります。

『日本書紀』は、大神が「天下の主者(あめのしたのきみたるもの)」として誕生されたと明記しているだけです。津田左右吉が指摘したように、神代史に太陽の自然説話はありません。

 まして皇后が太陽に比すべきお立場なのではありません。皇后が天皇の御位(みくらい)を継承するのではありません。皇后の輝きは天皇の存在を前提としています。けっしてその逆ではありません。

 笑顔の輝きを称えるのなら、世界を魅了した香淳皇后の「皇后スマイル」を忘れるべきではありません。橋本さんは皇后陛下を賞賛するあまり、ここでも昭和天皇・香淳皇后の功績を軽視しています。

 橋本さんは、皇后さまは日本人が幸せになる源です。美智子皇后は天皇とご一緒にそれを築き上げ、まさに源となられました。しかし雅子さまはそういう存在になれるでしょうか。雅子さまは非常に暗い、と論を進めるのですが、西尾幹二先生の東宮批判と同様の過ちを犯しています。

 西尾先生は君主の徳を皇太子殿下に要求しましたが、橋本さんは皇后の徳を妃殿下に求めています。現行憲法も「皇位は世襲」と定めています。本来、天皇統治は徳治主義とは無縁なのです。

 当メルマガが何度も引用してきたように、順徳天皇の「禁秘抄」(1221年)は天皇第一のお務めは祭祀であると明記しています。歴代天皇は、国と民のためにひたすら祈り、命の儀礼を受け継いでこられた。橋本さんがおっしゃる「徳」はその結果です。しかし妃殿下の場合は、御代拝の機会さえ奪われています。それでも橋本さんは、妃殿下に罪あり、と責めるのですか。


▽「皇后さま」天皇制

5、皇后さまのご体調が心配だ。何が起こってもおかしくない。国民は皇室のあり方を真剣に考えるべきときである。皇室問題を公の議論の場に引っ張り出すことを天皇陛下はお約束されている。国民的な議論を起こすことが皇室の健全なあり方を決めていく。

 橋本さんは太陽である皇后陛下のご健康がとりわけ心配のようですが、ご高齢で、しかも療養中の天皇陛下については言及がありません。これはまるで「皇后さま」天皇制です。

 議論が必要なことは同感ですが、橋本さんのようなやり方は健全でしょうか。陛下が議論を「約束」されたとも思えません。

6、天皇皇后両陛下は沖縄や障害者にみずから心を寄せてこられたが、このようなことがなぜ東宮から聞こえてこないのか。来年は日韓併合100年、反日感情が高まる。天皇が行かれないなら、皇太子さまに率先して私が行きますといっていただきたい。

 両陛下が社会的に弱い立場の人たちに心を寄せてこられたのは事実です。それは、わがしろしめす国に飢えた民が1人いても申し訳ない、とすべての国民と命を共有する儀礼を日々、欠かさない皇室の伝統に発しています。

 また、両陛下の行動はいたって控えめです。政治的でもありません。しかし橋本さんには控えめさ、非政治性が見えないようです。


▽東宮大夫の頻繁な首のすげ替えは「事実」か

7、皇太子さまは、天皇を襲位される資質は申し分ないが、近年は残念に思う。雅子さまに影響されたからだ。オクに入ると、完全に雅子さまの判断、常識、主張になってしまう。別人になってしまった。

 なぜそのように見えるのか、が最大の問題です。

8、「人格否定」発言の前、東宮職人事を点検したが、東宮大夫だけでも4人を数え、東宮侍従長も平成14年までに7人も代わっている。首のすげ替えが頻繁に行われた客観的な事実は、先行する形で発生した異変を予知する動きではなかったかと考えた。

 東宮大夫について調べると、次のようになります。

  菅野弘夫 平成元(1989)年5月~6年4月(4年11か月)
  森幸男  6年4月~8年1月(1年9か月あまり)
  古川清  8年1月~14年5月(6年3か月あまり)
  林田英樹 14年5月~18年4月(4年弱)

 両殿下の結婚の儀が行われたのは平成5(1993)年、「人格否定」発言は16年5月ですから、この間、たしかに東宮大夫は4人代わっています。

 しかし妃殿下が「暗く」なったのはここ10年です。発端は11(1999)年暮れの朝日新聞による「懐妊の兆候」スクープと流産の悲劇です。翌年の12年2月に皇太子殿下は「プライバシー発言」をされ、それから4年後の16年5月、人格否定発言は飛び出しました。

 橋本さんの議論にはこの経緯がまったく欠けています。妃殿下の「暗さ」を招いた内的要因にのみ注目し、外的要因を無視しています。一面的な現代史理解です。

 懐妊スクープから人格否定発言までなら、東宮大夫は2人で、頻繁に首がすげ替えられた、という「客観的な事実」はありません。


▽妃殿下に徳を求めるのは誤り

9、最近、野村東宮大夫から妃殿下の病気は「精神疾患」とはっきり聞いた。「よくないときの妃殿下のお姿を外に出したら大変なことになる」ともいっていた。小和田恒氏とは会っていない、東宮職医師団が侍従になってしまうような状況が一時期あったという。

10、皇太子さまと雅子さまの「ロオジエ」事件は、私が学習院高等科時代に陛下と決行した「銀ブラ」事件と根源的に違う。悲壮感漂う勇気と決断が必要だったのに対して、あまりに気楽な日常茶飯事めいている。

11、陛下は平成16年の誕生日前の文書回答で、「時代に即した新しい公務」を求めた皇太子ご夫妻の気持ちは尊重するが、勝手は許さないとも申された。東宮ご一家のお出かけは場合によっては居合わせた人たちに迷惑をかける。主権在民の立場を捨て、皇太子妃の御位に就くことは民間の生活の全否定であり、意識上の区切りが求められる。皇后になられる方は尊敬されなければならない。

 すでに書いたように、また拙著『天皇の祈りはなぜ簡略化されたか』にくわしく書いたように、妃殿下に徳を求めるのは誤りです。日本の古典はとても尊敬の対象とはいえないような天皇を天皇として記録しています。

12、両陛下は「雅子妃の病が皇室の環境のなかにあるストレス因子による」といういわれ方にいたく傷ついておられる。いちばん心配しているのは、天皇が心因性の出血痕が認められたことで、これほどまでの心労を察すると、「民間立妃の失敗」という観点からの意見が出ていることに関係している。

 西尾先生もそうでしたが、妃殿下の病因が「皇室という環境にある」と考えれば、「別居」「離婚」あるいは「民間立妃の失敗」ということになりますが、拙著に書きましたように、皇室という環境そのものではなく、皇室のなかのある状況ではないかと私は考えています。

 いずれにしても、妃殿下にまで徳を求めようとするところに、誤りがあります。


▽初代象徴天皇

13、雅子妃がご病気を克服されるため、徹底的に治療する環境をつくるのは1つの方策で、それは別居して治療に専念することだ。もうひとつは離婚、もうひとつは廃太子、つまり秋篠宮を皇位継承第1位にする方策もある。

14、「勝手な皇室像を押しつけている」わけではない。そんなことをいえば、両陛下の象徴天皇をつくられてきた努力の歩みを否定することになる。試行錯誤しながら、お二人は「国民と共にある」皇室の経営に即した生き様に到達した。お二人が一人になったかと見まごう姿が戦後皇室のあり方ではないか。

15、「東宮職医師団」は妃殿下の「健康」をどの状態に戻そうとしているのかを明快にすべきだ。東宮妃という機能性だけを見れば、喪失している。どの状態に戻すか、治るのか、治らないのか、すべてが中途半端だ。

16、皇太子さま、秋篠宮さま、黒田清子さまのごきょうだい3人で皇位継承について、話し合っていただき、天皇に判断を仰ぐのがベストだと思う。

 指摘すべきことはほとんど申し上げたと思います。歴代天皇は祭祀を天皇第一のお務めと考えてこられました。今上陛下も皇位継承後、皇后陛下とともに、祭祀を学び直され、昭和天皇の晩年、側近たちによって破壊された祭祀の正常化に努められたと聞きます。

 しかし級友だという橋本さんの皇室論には、そのような証言は見当たりません。橋本さんの皇室論に従えば、今上天皇は125代天皇ではなく、いわば初代象徴天皇です。そのような皇室論を国民的に議論しようと呼びかけ、「廃太子」まで勧告することが、級友のすることだとは、私にはとうてい理解できません。

 などと書いているうちに、著書の本文を読み進むことができませんでした。次回は間違いなく、読んでみることにします。

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1 文化部記者ではなかった橋本明さん──『平成皇室論』の「まえがき」を読む [橋本明天皇論]


以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2009年7月28日)からの転載です


 先週のメルマガ発行後、渡部亮次郎さんからメールが届きました。渡部さんは私と同じ東北のご出身で、NHK記者として長く政界を取材したあと、園田直外相の秘書官などを務めた方で、いまは「頂門の一針」メールマガジンを主宰しています。
http://www.melma.com/backnumber_108241/

 その渡部さんが拙文を転載したいと仰るのです。もちろん異論があるはずもありません。つたない文章を認めてくださったのは光栄で、より多くの方に当メルマガが読まれるのはありがたいことです。おかげさまで、読者登録もまた少し増えました。

 さて、先週は、今上陛下の級友である橋本明・元共同通信記者の「進言」を取り上げました。「週刊朝日」の記事によれば、橋本さんは、皇太子妃殿下に皇后の激務がこなせるのか、と疑問を投げかけ、一家庭人となる「廃太子」などを呼びかけています。

 これに対して、当メルマガは、問題解決より混乱を志向しているように見えるだけでなく、歴史の断絶が感じられる。天皇の本質についての理解も十分ではない、と批判しました。

 今号はその続きです。「週刊朝日」に載ったパブ記事ではなく、橋本さんの著書を実際に読んでみることにします。


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 1 文化部記者ではなかった橋本明さん
   ──『平成皇室論』の「まえがき」を読む
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▽現行憲法の抜粋から始まる
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 橋本さんの新著『平成天皇論─次の御世にむけて』で、私が最初に興味深く思ったのは、本の構成です。

 まず日本国憲法の第一章天皇の抜粋があり、近現代の皇室の系図、まえがきと続いています。本文は、第一章平成皇室と国民、第二章東宮家の軌跡、第三章明仁の「東宮」、第四章平成の天皇、第五章王権の試練、第六章近代の皇室、第七章東宮家の選択肢、の7つの章から成り立っています。

 明らかに、橋本さんの発想の出発点は現行憲法にあり、明治以後の皇室しか、念頭にないようです。第六章のはじめに、近世初期の後水尾天皇に言及しているのですが、幕末の大政奉還の説明上、たった10行、ふれているだけです。

 前号で申し上げたように、橋本さんの天皇論は千年以上続く天皇ではなく、現行憲法を起点とする象徴天皇論なのだ、と理解せざるを得ないのです。

 著書の帯には、「70年間皇室を見続けてきた」とあります。つまり、学習院初等科の時代から、さらに共同通信時代以後、ジャーナリストとして、ほとんど生涯をかけて、という意味なのでしょう。学習院の大先輩を相手にこんなことを言いたくはないのですが、取材の時間が長ければいいというものではありません。


▽滅びを歌う学習院院歌

 私が学習院大学に入学を許された最初の日、入学式で歌った「学習院院歌」には強い違和感をおぼえました。

 ♪もゆる火の火中(ほなか)に死にて
  また生(あ)るる不死鳥のごと
  破(や)れさびし廃墟の上に
  たちあがれ新学習院

 哲学者で第18代院長の安倍能成が作詞した院歌は、滅びのあとの蘇りを歌っています。占領末期の昭和26年5月に大学開設2周年の記念式典で発表されたとされます。

 実際、戦前の学習院は22年に学習院学制が廃止され、終止符を打ちました。24年に新制大学となり、26年に学校法人となりました。

 院歌ですから、幼稚園児から大学院生までみんなが歌います。私と違って、下から上がってきた学生たちはものの見事に歌いあげます。しかし「死」や「廃墟」を上手に歌えば歌うほど、私は違和感を禁じ得ませんでした。

 私の母方の祖先は奥州二本松落城の半年後に生まれています。百数十年の時を経て、形見の品が伝わっています。賊軍とさげすまれ、戊辰戦争に敗れたわが祖先は、復興への願いを心に秘めることはあっても、滅びの歌をおおっぴらに歌うようなことはなかったはずです。簡単に歴史を否定することはできないし、右から左に器用に変身などできないからです。


▽歴史的視点が乏しい共同通信史

 もっとも安倍先生はそれほど単純ではありません。話が少しずれますが、『戦後の自叙伝』(昭和34年)によると、前田多門のあと文部大臣となった安倍先生は、非難の対象となっていた教育勅語の弁護、すなわち皇室擁護を試みていたといいます。

 南原繁らは新しい教育勅語の奏請を求めていたし、ひとり共産党だけが絶対反対だった。戦争末期、アメリカでは中国の宋子文(蒋介石の義兄)が、日本皇室の抹殺を主張し、皇室がいつの時代にも日本の権威であったわけではない、と説いていた。アメリカの世論も皇室抹殺に傾いていたらしいが、進駐後、日本の実情を見た総司令部のダイク代将は新勅語の下付(かふ)を勧めたことがある、と安倍先生は書いています。

 では、共同通信はどうでしょうか。

 全国約60社の新聞社とNHKが加盟する社団法人の配信記事は、加盟紙だけでも2500万部に掲載されます。朝日、読売、毎日など全国紙が束になってもかなわないほどの媒体力です。

 前身は戦前の同盟通信です。5500名の人員を擁する当時世界最大の国策通信社で、「大本営発表」は同盟を通じて新聞、ラジオに流されました。敗戦後、自発的に解散したのは古野伊之助社長の英断ですが、実態は共同通信、時事通信への分離・分割で、通信網も人員も温存されました。

『共同通信50年史』の「第4部 前史」は同盟について30ページ以上にわたって詳述しています。しかし、戦争の時代の検証は十分とはいえません。戦前から続く大新聞も同様ですが、古傷に触れたくない、触れられたくない、ということなのでしょうか。

 学習院院歌は滅びを歌い、共同通信社史は戦争史の検証が不十分。いずれも歴史的視点が乏しいのです。


▽憲法が変わっても天皇は天皇

 同様にして、橋本さんの新著は、さすが社会部記者らしく、また外信部記者らしく、内外の情報に切り込んでいます。しかし橋本さんは文化部記者ではなかった、ということなのか、千年を超える天皇史へのまなざしがうかがえません。

 あらためて「まえがき」を読んでみます。橋本さんは冒頭、即位の大礼後、英字新聞に掲載された「憲法を守り」という記事が、I protect と訳されているのを目にした明仁天皇が、象徴天皇の実態に合わない訳語である、との立場を明らかにした、と述べ、それは綿密な歴史観と自己分析によるものだと説明しています。

 つまり、橋本さんは、天皇は明治憲法上の元首ではない。政治大権も軍事大権もない。現行憲法は国民主権を定め、象徴天皇を定めている。国民の上に立つ者が下位の者を保護する意味合いになる protect はふさわしくない、と天皇は結論したのだ、というのです。

 敗戦後の国体の危機は、天皇の象徴化・温存によって回避された。天皇の機能が変化しなければ時代について行けない。明仁天皇は、美智子皇后と協力し合って、日本国憲法が柱とする象徴天皇制を育て上げ、機能させるため努力してきた、と橋本さんは解説します。

 ところが、皇太子徳仁親王はほとんどひとりで公務をこなしている。雅子妃が皇太子に強く求められながら、なぜ挫折したか。何が雅子妃を追い詰めたか、それを探ることが橋本さんの目的である、と説明されています。


▽もし解説が正しいなら……

 けれども、そうではない、と私は思います。

 第一に、明治憲法、現行憲法も、第一章に天皇を規定しています。憲法が変わっても、天皇は天皇であり、国家の中心的存在であることに変わりはありません。

 第二に、天皇は古来、祈りによってこの国を治めてこられたのであり、みずから政治権力をふるう立場にあったわけではありません。それが統治大権であって、象徴天皇と矛盾しません。

 今上天皇は、橋本さんの近代史的説明とは異なり、古代からの歴史に基づいて、象徴天皇のあり方を追求してこられたのでしょう。そのことは即位後、皇室の伝統である宮中祭祀の正常化に努められたことからも理解されます。

 第三に、皇位を継承するのは天皇であり、皇后ではありません。橋本さんが仰るような、一夫一婦天皇制的発想は、そもそも憲法に反します。

 第四に、もし橋本さんの解説が正しい、となると、今上陛下ご自身が誤った歴史観と自己分析をしておられる、という結論になります。それは逆であって、誤った目で陛下のご心情を説明しているだけではないのでしょうか。

 と書いているうちに、長くなりました。この続きは次回にします。次回は本文を読むことにします。

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1 あきれた「ご学友」橋本明・元記者の進言 [橋本明天皇論]


以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2009年7月21日)からの転載です


 東宮批判の再来でしょうか。アカデミズムの次はジャーナリズムから、しかも少年期に今上陛下のお側にいたという級友が震源です。

 昨年は西尾幹二電通大名誉教授が雑誌記事などで無遠慮な東宮批判を展開しました。療養中の妃殿下を「獅子身中の虫」とまで指弾するもので、大きな話題を呼びました。

 しかし、西尾先生は皇室に関する基本的認識ばかりでなく、問題意識や議論の立て方など、ほとんどすべてに誤りがありました。詳しいことは繰り返しませんが、当メルマガおよび拙著『天皇の祈りはなぜ簡略化されたか』は、そのように批判しました。

 その後、西尾先生の東宮批判はやみましたが、今度はご学友(級友)だという人物が「別居」「離婚」「廃太子」などと言い出しています。朝日新聞出版から出版された、橋本明・元共同通信記者の『平成皇室論』です。


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 1 あきれた「ご学友」橋本明・元記者の進言
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▽「別居」「離婚」「廃太子」
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 同じ朝日新聞出版が発行する「週刊朝日」7月17日号に、神田知子同誌記者が書いたパブ記事が載っていますので、読んでみることにします。

 記事のリードによると、いずれ皇太子さまが即位し、雅子さまが皇后となる。しかし療養中の雅子さまに皇后の激務がこなせるのか。橋本氏は皇太子夫妻に大胆な3つの選択肢を進言している、というのです。それが先述した「別居」「離婚」「廃太子」です。

 神田記者の記事によれば、天皇の級友である橋本氏は危惧の念を持っているといいます。つまり、天皇と美智子さまはこれまでとはまったく異なる「国民と共にある」皇室を切り開いてこられた。しかし雅子さまの病は癒(い)えていない。皇太子ご夫妻に道は受け継がれるのか、という危惧です。

 戦前の昭和天皇は神格化されていた。戦後、象徴天皇になったが、ほんとうの意味で象徴天皇のあり方を作り上げたのは現天皇であり、美智子さまの役割も大きかった。しかし、二人三脚で歩んでこられたお二人を思うにつけ、橋本氏は皇太子さまの単独行動が心配でならないというのです。

 橋本氏はこう語ります。「美智子さまは太陽のように輝いている。雅子さまにもそのような存在であってほしい。そのためにまず健康を回復していただきたい」

 神田記者によれば、学習院初等科以来、天皇の同級生であり、ジャーナリストとしても皇室を長く見つめてきた橋本氏は、病にある雅子さまと支えようと努力される皇太子さまの結婚そのものを失敗ととらえる勢力が台頭することを懸念しているのだ、といいます。

 そして橋本氏は、さらに「民間立妃」が失敗だったというところに行き着くのではないか、とおそれている。「いかに象徴となるべきか」を苦悩し、努力してきた天皇と美智子さまの歩みの否定につながりかねないからだ、というのです。

 だからこそ、橋本氏は、治療に専念するための「別居」、論理として検討しておく必要のある「離婚」、天皇ではなく家庭人となる「廃太子」の3つの選択肢をあげ、さらに「廃太子」がいちばん現実味がある、と述べたうえで、国民的な議論を願うとともに、3人のご兄弟での自主的な話し合いを期待している、と結論するのです。


▽問題解決か混乱か

「週刊朝日」のパブ記事は次の7月24日号にも載っています。橋本氏の本が話題を呼んでいる。識者たちは提言をどう見るか、というので、西尾先生ら4人の見方を紹介しています。

 なかでも西尾先生は、「級友」という立場でよくぞ発言なさった。皇太子さまと雅子さまには「民を思う心」が感じられない。ひとえに雅子さまのパーソナリティが問題だ、といっこうに懲(こ)りる気配がありません。

 しかし、西尾先生ご自身が仰るように、「級友」という立場が天皇に近い、というのなら、直接、陛下にご進言申し上げればいいのです。西尾先生の「ご忠言」と同様に、なぜマスコミの力を借りる必要があるのでしょうか。私には問題解決より混乱を志向しているようにさえ見えます。

 マスコミの場で議論することは、往々にして、マスコミが果たした役割に目をつぶることにもなります。つまり、いわゆる雅子妃問題の背後にある不作法な勇み足報道です。

 拙著の西尾先生批判の章で詳しく書きましたように、平成11年暮れ、朝日新聞が妃殿下の「懐妊の兆候」を報道しました。しかし妃殿下は流産されます。4週目という不安定な時期を十分に配慮しない報道の結果と指摘されます。

 皇太子殿下の「プライベート」発言も衝撃的でしたが、その背後にはマスコミの挑発・誘導という外的側面があります。しかし西尾先生がそうだったように、ジャーナリストである橋本氏はマスコミの役割を見落としています。

 橋本氏の視線は、雅子さまに対するばかりで、マスコミ人としての自省は、少なくとも「週刊朝日」の記事には見受けられません。朝日新聞の系列会社から出た本であり、週刊誌であれば当然かもしれませんが、雅子妃問題を俯瞰(ふかん)せずに、「別居」だ、何だと大騒ぎするのは滑稽であるばかりでなく、ジャーナリストとしての資質を疑わせます。


▽天皇とは何か?

 橋本氏は盛んに今上天皇の皇室像の継承を訴えていますが、逆に私には、むしろ歴史の断絶が濃厚に感じられます。橋本氏の天皇像は、千年以上続いてきた天皇ではなく、現行憲法を起点とする象徴天皇であり、天皇お一人が祭祀を行う祭祀王ではなく、お二人で歩まれたという一夫一婦天皇制です。

 妃殿下にも太陽のように輝いてほしい、という願いは理解できますが、妃殿下が皇位を継承するわけではありません。皇后はあくまで皇后です。皇太子殿下の単独行動の多さを気にする方が誤っています。

 逆に、そのように心配するのなら、皇后、皇太子、妃殿下の御代拝制度を一方的に廃止した宮内庁をこそ批判すべきです。西尾先生などは、療養中の妃殿下が宮中三殿にいっさい立ち入らないといって手厳しく批判します。妃殿下の御代拝制度を宮内庁が愚かにも昭和50年に廃止したのを知らないからでしょう。橋本氏はどうでしょうか。

 マスコミにとっては、元記者の、しかも陛下の級友だった橋本氏は重宝です。けれども、橋本氏が天皇の本質をふかく理解したうえで発言しているのかどうか、はまた別問題です。

 たとえば数カ月前、橋本氏は、ご結婚50年記念のテレビ番組で、今上陛下の少年時代のエピソードを紹介していました。教室で級友たちが「俺、きのう、親父に叱られたよ」と話しているのを聞いていた陛下は「父親とはそういうものか」と仰ったというのです。

 皇室には乳人(めのと)制度というのがありましたが、これを破って香淳皇后は母乳で子育てをされ、戦後、はじめてお手元で子育てをされたのがいまの皇后陛下です。橋本氏の発言からは皇室の親子関係はまったく温かみのない旧弊としか映らず、両陛下こそ旧弊を打破した現代の名君という印象を与えます。

 しかし一見、非人間的にも見える乳人制度がなぜ続いてきたのか、その背景にある「天皇に私なし」とする皇室の伝統への問題関心が、少なくとも橋本氏のテレビ発言からはうかがえませんでした。天皇とは何か、という本質論が曲がっていれば、「危惧」や「心配」、「懸念」を言葉でいかに繰り返しても、あきれた進言と結論するほかはありません。

 とまれかくまれ、週刊誌記者の記事のみで断言するのははばかれますので、次週は橋本氏の著書を実際に読んでみることにします。

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