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3 日常的な信仰から見つめ直す「日本人の天皇」──島根県松江市・美保神社の巻 その3 国家の中枢とは異なる縄文人の信仰 [神社]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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3 日常的な信仰から見つめ直す「日本人の天皇」
──島根県松江市・美保神社の巻 その3
国家の中枢とは異なる縄文人の信仰
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▽1 米ではなく芋(イモ)が常食

 今週も出雲(いずも)・島根の旅をつづけます。

 松江市美保関町の美保神社は、一般には漁業の神様だとされていますが、それだけではなく稲作の神でもあった、ということが前号までお読みくださった読者はご理解いただいたのではないか、と思います。

 それならば、なぜ稲作の神とされたのか? 信仰の基礎にある稲作とはもともとどういう稲作なのか?

 8世紀に完成し、朝廷に献上されたといわれる『出雲国風土記』には出雲地方の神話などが収められていますが、その既述からはこの地方が古代において稲作が盛んだったようには見受けられません。「美保崎……北は百姓の家なり、志※魚(しび。※は田へんに比)を捕る」と書かれているからです。

 また、美保神社の祭神・事代主命(ことしろぬしのみこと)が鳥遊(とりあそび)、取魚(すなどり)をされた、というような古事記・日本書紀の伝承からすれば、この地方は古くから漁業と狩猟の土地柄だったことが推測されます。

 時代が下って、近世・藩政下においても、村高はわずか2石(1石は約180リットル)といわれます。現在ですら、旧美保関町の総面積5007ヘクタールのうち、85パーセントは森林で、耕地は3パーセントに過ぎません。米の生産量は40トン(私が取材した平成8年現在)といわれます。

 したがって美保神社の横山宮司さんは「美保関の常食はかつて米ではなく芋だった」と推測します。たぶんそれは間違いのないことでしょう。別ないい方をすると、古くは水田稲作農耕とは縁のない地域だということです。


▽2 米が登場しない祭り

 そのことはほかならぬ美保神社のお祭りからも想像されます。

 たとえば、神社の最大の祭りである蒼柴垣(あおふしがき)神事(4月7日)や諸田船(もろたぶね)神事(12月3日)には直会(なおらい)の席に芋膳が登場します。蒸し芋2個、大根魚切身の生酢、鰤(ぶり)の刺身、箸、御神酒(おみき)が食膳に並ぶのですが、お米のご飯もモチもありません。

 例外は宵祭り(よいまつり)です。直径二十数センチの大きなお椀(わん)に高く盛った強飯(こわめし)が出てきます。美保神社の2つの本殿、つまり事代主神をまつった右殿、三穂津姫命をまつった左殿に、75椀、供えられ、このため江戸時代には松江藩から4俵2斗の米が奉納されたのですが、直会のときに本殿から下げられたあとの強飯は食べられることなく、氏子が家に持ち帰ることになっているようです。

 このように米所とはおよそ縁遠い土地柄に立地する神社で、祭りにも稲作農耕の文化がほとんどうかがえない。それでいて、稲作の神と位置づけられ、多くの農民が参拝するのは、美保神社の稲作信仰は水田稲作の信仰とは異なる、水田稲作が伝来する以前の古い信仰だということが想像されます。つまり、縄文の信仰です。

 美保神社の社殿は、大社造りの社殿が2棟ならぶ独特の形式で、「美保造り」とよばれ、その秀麗さから国の重要文化財に指定されています。本殿にしずまる祭神は、既述したように、右殿が事代主命、左殿が三穂津姫命ですが、『出雲国風土記』には不思議なことに、いずれの名前も記載がなく、代わりに「御穂須須美命、この神います」と記されています。

 国家の中枢と地方では対立はしないまでも、異なる信仰が伝えられているようです。どういうことなのか。神社の歴史をあらためて振り返ることにします。


▽3 民俗学者の説明と宮司さんの異論

 島根大学の石塚尊俊先生(民俗学)は、美保神社の歴史を次のように説明しています(『式内社調査報告第20巻』など)。

 ───『風土記』の時代は、美保神社は地域的な信仰対象でしかなかった。記紀神話が中央から地方に広がっていったあと、国譲りの2柱の神がまつられるようになった。『延喜式』がまとめ上げられた10世紀のころも、国家的な「神階神勲」の栄誉に浴すことのない小社だった。

 中世以降になってようやく広く知られるようになるけれども、尼子氏と毛利氏とが覇を競った戦いで社殿も文書も焼失してしまう。文禄5(1596)年に国主・吉川広家が秀吉の朝鮮出兵の際に武運を祈って社殿を再建したことから、面目を一新した。

 近世になり、美保関が海上交通の要衝(ようしょう)として重要視され、藩主の崇敬が高まり、一社一令の神社という高い地位を得るにいたり、民衆の信仰も集まった。事代主命=恵比須神と信じられるようになり、海上安全、豊漁守護の神であると同時に副神恵比須神の本宮となった。

 明治期に入って、一躍、出雲大社(出雲市大社町)、熊野神社(熊野大社。松江市八雲町)につぐ出雲国第3位の神社となった。

 こうした石塚先生の歴史解説に疑問を呈するのは、ほかならぬ美保神社の横山宮司さんです。


▽4 岬と先島をめぐる神の道

 ──島根半島の西の端にしずまる日御碕(ひのみさき)神社(出雲市大社町)に「上の社」と「下の社」があるように、岬にしずまる神社は2座とする考えがあった。美保神社の場合も、あとになって2神がまつられるようになったというのではなく、『風土記』の時代からすでに2座で、稲作の信仰を集めていた、と推定できる。

 つまり、朝廷の権威が地方に伝播した結果、2柱の神をまつるようになり、信仰の中心地に発展していったのではない、というのです。石塚先生の見方は中央の歴史から美保神社を見ているのに対して、宮司さんの方は地方からの視点で神社の歴史を見ているようです。

 それなら、もともと2座だとする根拠は何か? なぜ岬の神社は2座、といえるのか?

 ヒントになりそうなのは、民俗学の立場から「岬とその先島(さきじま)をめぐる神の道の伝承」に注目している近畿大学の野本寛一先生の研究です(『神々の風景』)。

 出雲美保関には地蔵崎という岬があり、その先に沖の御前があります。若狭湾(福井県)には常神岬(つねがみみさき)と御神島(おんかみじま)、志摩(三重県)には大王崎と大王島、静岡県には御前崎(おまえざき)と依り神の岩礁である駒形岩、男鹿半島(秋田県)には入道崎(にゅうどうざき)と明道岩、があります。

 表にまとめ直すと、こうです。

秋田県 男鹿半島 入道崎 明道岩
静岡県 遠州灘  御前崎 駒形岩
三重県 志摩   大王崎 大王島
福井県 若狭湾  常神岬 御神島
島根県 美保関  地蔵崎 沖の御前

 野本先生によると、日本人は古来、陸と海がせめぎ合う岬を、魂の原郷である「常世(とこよ)」への旅立ちの場と意識し、また常世から神々がより来る聖地として守り続けてきた。岬の先にある「先島」は常世の岬が陸地によりつく飛び地なのだ、というのです。

 縄文人の自然観が伝わってくるようです。(次号につづく)

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2 日常的な信仰から見つめ直す「日本人の天皇」──島根県松江市・美保神社の巻 その2 [神社]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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2 日常的な信仰から見つめ直す「日本人の天皇」
──島根県松江市・美保神社の巻 その2
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▽1 にぎやかな港町だった

 出雲(いずも)・島根の旅を続けます。

 松江市・美保(みほ)神社の目の前には猫の額ほどの美保湾があり、湾を取り囲んで古い旅館が肩を寄せ合っています。じつに静かなたたずまいです。

 けれども、昔からそうだったのか、といえば、そうではないようです。かの小泉八雲(こいず・やくも)が「日が落ちると美保関(みほのせき)は西日本でもっとも陽気でにぎやかな港町に早変わりする」と書き残しているからです。

 そのにぎわいは何に由来していたのか。ふつうには全国的な海の民の信仰対象として知られる美保神社ですが、八雲の時代には漁民だけではなく、稲作農民の信仰を集めていました。前号で書いたように、「種替(たねかえ)神事」のような神事が行われていたからです。

 その昔、閑院宮(かんいんのみや)親王殿下や二条公爵も、そして八雲も投宿したという由緒ある老舗(しにせ)旅館に宿を取った私は、「種替神事」が行われた節分のころのにぎわいについて、人生の大先輩である女将(おかみ)さんに聞いてみました。


▽2 失われた祭り

 女将さんによると、昭和20年代まで、節分のころは蒸気船の臨時便が増発されるほどで、岡山や広島などからの宿泊客で、9軒ある旅館は大いににぎわったそうです。「節分詣り(まいり)」と呼ばれたそうですが、それは節分行事というより、むしろ旧正月の年越えで、人々は深夜に神社に参拝し、年越しそばを食べた。新暦の正月よりもにぎやかだった、というのでした。

 しかし、いつのことか、節分祭それ自体が絶えました。そして種替神事は幻と消えました。したがって節分詣りがそもそも新年を迎える正月行事だったのか、それとも稲作儀礼としての田の神迎えだったのか、よく分かりません。

 代々、美保神社に奉仕する横山宮司さんに聞いても同じでした。

「親父が昭和19年に亡くなり、そのころ神職の顔ぶれががらりと変わった。当時の日誌は紙質が悪く、ボロボロで読むに読めない。祭儀についての記載も見当たらない。いまでは節分祭の内容は分からない」

 記録が失われているだけではありません。大正末期の生まれの宮司さん自身の記憶にもない、と嘆くのでした。


▽3 稲作の祭礼があった

 あらためて古い文献を探してみることにしました。

 すると、『国幣中社美保神社明細図書』(明治19[1886]年)に、御田植祭および田実祭(たのみのまつり)に関する記述があるのを見つけました。

 旧暦五月一日に行われる御田植祭、同じく旧暦八月一日の田実祭は古来、美保郷内および美保関、森山村、下宇部尾村、七類浦、諸喰浦、雲津浦などが神領つまり神社の所領だったころはずいぶんと盛んだったというのですが、豊臣氏の時代に所有権が離れてから、祭りが絶えてしまった、と漢字カタカナ交じりで書いてあります。

 つまり、豊臣氏が神領を没収するまで、美保神社では稲作の祭礼が行われてきたということになります。

 そのほか、五月一日の式年祭に「出雲十郡」と呼ばれた旧神領地からお供えが献上されたことを裏づける、江戸末期のものらしい禁制札も残されています。社殿の造営は神領民が奉仕し、献上は神領地の没収後も続きました。それぞれの旧神領地には美保神社の分霊をまつる神社があるといわれます。

 他方、田実祭りの方は、といえば、おそらく八月一日に行われる八朔(はっさく)の祭りなのでしょうが、お祭りの内容はまるで分かりません。

 とはいえ、田植えが終わり、一番草の除草がすんだあと、豊作祈願に参拝する農家の楽しみは昭和20、30年ころまで続いたようです。


▽4 八雲が見た農村風景

 このときは市が立つほどのにぎわいから、「夏市」と呼ばれました。米や濁り酒を持参してお詣りする宿泊客は旅館の廊下にまであふれ、宿にとっては1年でもっとも多忙をきわめるかき入れ時だった、と老舗の女将さんは語ります。

 参詣者は神社で「関札(せきふだ)」と呼ばれる神札(おふだ)と榊(さかき)、神水の授与を受けました。神札は虫除けのために水田の畦に立てられ、神社の山からわく宮水は干ばつよけのため農業用水の水口(みなくち)に注がれました。

 そんな農村の風景を八雲が記録しています。

 八雲が松江にやってきたのは明治23年8月でした。姫路から人力車に乗り、山を越え、津山を経て、山陰街道に出た八雲は、鳥取県の山あいで「田んぼのいたるところに何か奇妙なもの」を見ました。

 それは、榊の三つ葉を頭にして竹ざおにはさんだ、ほかならぬ美保神社の神札でした。「まるで青々とした野面に点々と白い花でも咲いているようだった」と表現されています。

 けれども、緑の稲田に映える「祈願の矢」はいまは見られません。「迷信因習の打破」などを目標に掲げる、戦後の「新生活運動」で、村を代表して神社にお詣りした代参者が帰宅後、各農家に神札などを配る風習はすっかり廃れたからだ、と宮司さんが説明していました。

 そうはいいながら、稲作信仰の名残はかすかではありますが、美保神社の神事のなかにうかがえます。


▽5 稲作信仰の残映

 たとえば、美保神社の祭神・三穂津姫命(みほつひめのみこと)の神紋(シンボル・マーク)は「二重亀甲(きっこう)」に「渦雲(うずくも)」がデザインされたものですが、これは祭神が雲に乗って高天原(たかまがはら)から稲穂をもたらしたという伝説に由来しています。

 稲をたずさえて天降ったという伝説はいうまでもなく、日本という国の成り立ちに関連する天孫降臨(てんそんこうりん)神話が知られますが、そればかりでなく地方にはいろいろ類似する神話が伝えられているようです。

 それはともかく、美保神社の神紋はもっとも古くは「鶴丸」のデザインが用いられました。たとえば、いまでも有名な蒼柴垣(あおふしがき)神事に登場する猿田彦(さるたひこ)が着る上着には径1尺におよぶ大きさの「鶴丸」の神紋があしらわれています。

 鶴が美保神社から周辺地域に稲を伝播させた、という伝承があり、それに基づいているのですが、それはまぎれもなく神社が稲作信仰の中心だったことの証明です。

 朝廷に領土をゆずったという「国譲り」神話に由来するのが蒼柴垣神事ですから、つかわれる装束はこの神話に関係するのか、というと、そうではありません。たとえば、田楽(でんがく)の小袖(こそで)は、空を飛ぶ鶴と稲束の刺繍がいくつも施されています。

 このように美保神社の祭礼は漁民の信仰というより、稲作民の信仰が濃厚に反映されているのです。

 一般的には海の民の神社として知られる美保神社の祭礼は、和歌森太郎先生の『美保神社の研究』によると、中世末、京都から流れてきて、この地で憤死した太田政清という名の公卿が最初に始めた、と説明されています。しかし、中世以前の祭礼・行事の体系はまったく別だったのかもしれません。(次号に続く)
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1 日常的な信仰から見つめ直す「日本人の天皇」──島根県松江市・美保神社の巻 その1 [神社]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


 今月中旬、出雲(いずも)大社(島根県出雲市)で同社最大のお祭りである「大祭礼」が3日間にわたって行われました。

 13日の前夜祭に始まり、翌14日には天皇のお使いである勅使(ちょくし)をお迎えして、例祭が執り行われました。

 伝統の装束に身を包んだ勅使の山田掌典(しょうてん)らが陛下からのお供え物を納めた唐櫃(からひつ)を御仮殿まで運んだと伝えられます。

 ご存じの通り、出雲大社は古い歴史と同時に、高い格式を持つ神社です。たとえば、平安時代にまとめられた「延喜式(えんぎしき)」という古い格式に関する書物には3000社近い全国の神社の名前が載っていますが、そのなかで「大社」と記されているのは出雲大社(杵築(きづき)大社)だけです。

 皇室との歴史的関わりが深いことはいうまでもありません。国土を皇室の祖先にゆずった大国主(おおくにぬし)大神の国譲り(くにゆずり)神話がそのまま出雲大社の起こりとされ、大神の子孫が同社の神事を代々、奉仕してきたといわれています。

 そんな歴史と信仰の世界に触れてみたいと思って、10年前に島根県を取材したことがありますが、あまりの奥深さに圧倒され、百分の一のこともまとめられなかったことをいまも覚えています。

 それから10年、私の知識や思索が何ら深まったわけではありませんが、今週からしばらくのあいだ、神社と皇室について書いてみようと思います。私たちにとって天皇とは何か、私たち日本人は何を信じてきたのか、を日本人の日常的な信仰のシンボルとしての神社から問い直してみたいからです。


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 1 日常的な信仰から見つめ直す「日本人の天皇」
   ──島根県松江市・美保神社の巻 その1
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▽1 小泉八雲が書き残した聞き慣れない神事

 私が10年前に島根を旅したのは、美保(みほ)神社の横山宮司さんから珍しい神事について取材にこないか、と誘われたのがきっかけです。

 美保神社は、兵庫県の西宮神社(西宮市)と並んで、全国のえびす信仰の総本社として知られています。つまり日本の海の信仰の中心地です。

 ところが、宮司さんによると、海の民の神社であるはずの美保神社に稲作のお祭りがあったというのです。その証拠に、いまも「御種(おたね)」という名で小さな袋入りの種籾が参拝者に配られています。

 そのころの私は日本人の主食であるコメについて強い関心があり、日本のお米の文化を集中して調査取材していました。それを知って、横山宮司さんは誘ってくれたのでした。

 取材旅行の前の下調べが始まりましたが、民俗学者として知らない人のいない和歌森太郎先生の『美保神社の研究』を読んでも、国譲り神話と関連する有名な青柴垣(あおふしがき)神事(4月7日)や諸手船(もろたぶね)神事(12月3日)についてはやたらに詳しいのに、宮司さんが教えてくれた「種替(たねかえ)神事」と呼ばれる神事のことは見当たりません。

 神事のことが書かれてあったのは、日本研究家の小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が来日後の印象をつづった最初の著作「知られぬ日本の印象」でした。

 八雲が島根県松江市に移り住んだのは明治23年で、わずか1年あまりの滞在でしたが、古代の日本文化を伝える「神々の国の首都」をこよなく愛し、第2の故郷と考えたのでした。


▽2 農民の願いをなんでもかなえてくれる

 八雲は3度、島根半島を旅行し、美保神社を参拝したといいます。そして「種替神事」について書き残しています。

「神社で売っているもののなかでもいちばん面白いのは、米粒を入れた小さな包みである。祈りを唱えながらこれを蒔けば、なんでも望みのものが生えてくるという。竹でも、綿でも、豆でも、ハスでも、スイカでも何でもかまわない。種を蒔き、そして信じれば、望みの作物が生えてくるのである」(第10章美保関、奥田裕子訳。適宜編集しています。以下同じ)

 神社でくばられる「御種(おたね)」は、農家の願いをなんでもかなえてくれる、じつに不思議な稲種だったようです。

 いまは絶えてしまった種替神事が行われたのは節分の夜でした。江戸末期にまとめられた『出雲国式社考』という本には、祭りのようすが次のように書かれています。

「この神社の祭事のうち、種替神事という奇異な神事がある。それは節分の夜に、大きな桶(おけ)に種籾(たねもみ)を盛っておく。それを遠近の農家が、代わりの籾を持ってきて『何々の種をください』というと、神職が受け取り、桶にある籾を取って渡す。やがて代わりの籾も桶に混ぜ入れる」(『神祇全書第五集』所収。適宜編集しています)

 美保湾を目の前にのぞむ、さほど広くない神社の境内(けいだい)には、御種から生えたと伝えられる竹やぶが複数あります。聞くところによると、竹を望んだ農民が、受け取った御種をよく見ると稲籾だったので、怒って袋を破り捨てたところ、そこから竹が生えてきたのだそうです。

 八雲が「晴れた日に、蒸気船で松江から美保関へ渡るのはすばらしい」と書き、「日本でももっとも趣のある町のひとつである」と絶賛する美保関を、私は10年前の晩秋、東京から夜行列車に乗って訪ねました。翌朝、到着した米子駅のホームは雪がちらつくほど、冷え込んでいました。(次週に続く)


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神への畏れがない──三社祭だけではない。知識人ほど宗教性が希薄 [神社]

以下は旧「斎藤吉久のブログ」(平成19年5月22日火曜日)からの転載です

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神への畏れがない
──三社祭だけではない。知識人ほど宗教性が希薄
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 東京・浅草神社の三社祭は先日の日曜日が最終日で、三基の本社神輿が五月晴れの町に繰り出し、浅草は人々の熱気と興奮に包まれましたが、神社と奉賛会が呼びかけていた「神輿乗り禁止」が徹底されず、担ぎ手の1人が迷惑条例違反で現行犯逮捕されるという異常事態となりました。

 神輿は神様の乗り物であって、人が乗るべきものではないのですが、以前から再三の注意にもかかわらず「神霊を汚す行為」が繰り返されてきました。そして昨年、十数人の大勢の担ぎ手が神輿(二之宮)に乗り、担ぎ棒が折れるという「前代未聞の不祥事」が起きたことから、神社側は同好会などに対して

「神聖な神輿には絶対に乗らない」

 などの遵守事項を示し、神輿乗りが行われれば次年度の宮出しはしないという重大な決意で望むことになったのでした。
http://www.sanjasama.jp/tsutatsu0705.html

 しかし注意は守られませんでした。なぜこのようなことになったのか。原因として指摘されるのは、1つは神社側と担ぎ手の感覚のズレ、もう1つは神社や祭りの社会的変質、3つ目は現代人の神観念の稀薄さでしょうか。

 祭りを主催する神社側は祭りや神輿を神聖なものと考えています。神様に失礼があってはならないというのが宗教的な基本的姿勢ですが、同好会などの担ぎ手は、神輿が壊れない程度なら乗ってもかまわないだろう、という解釈です。神社や祭り、神輿に対する神聖な感覚がともすると失われています。

 その背景には社会の変化があります。神社も祭りも本来は地域のものですが、現代社会は国民の半数が給与所得者というサラリーマン社会であり、10年前の古い数字でいえば、1人平均2.75回の転勤を経験します。一生を同じ土地で過ごす日本人は4人に1人もいません(伊達達也『生活の中の人口学』など)。その結果、氏神信仰の前提となる地域共同体意識が風前の灯火となり、神社は宗教法人法の所有であり、祭りは主催であるという感覚が一般化しています。

 祭りの神輿の担ぎ手は地域内ではなく、地域外から集まります。氏子ではない外部の担ぎ手の存在なくして祭りが成り立たない状況が生まれて、すでに久しく、こうしてかつては神聖だった氏子地域の祭りが、やややもするとお祭り騒ぎのイベントと化します。

 これに拍車をかけているのは、啓蒙主義的な教育の普及です。家庭でも学校でも宗教的情操教育はおろか、知識教育も行われず、その結果、基本的な知識が欠け、神への感覚は稀薄になり、知識人ほど神への畏れを失っています。たとえば、祭りの様子を伝えるマスメディアの画像はしばしば神輿を見下ろしています。神輿の神聖を侵しているのはけっして神輿乗りの担ぎ手ばかりではありません。

 ある神社の神職が

「神様っていうのは怖いものなんですよ」

 と、1つの神体験を語ってくれたことがありますが、宗教的な体験や感覚は現代人にとってはおよそ縁遠いものとなっています。日本人が日本人である限り、神社の祭りに血が騒ぐけれども、神への立ち居振る舞いを教えてくれる人がないとなれば、ときに暴走や逸脱が起きるのは当然でしょう。

 三社祭のケースでは神社側は盛んに祭りの神聖さを語っていますが、これはむしろ希有な例で、宗教家自身が日本人の精神史に関して多くを知らないということもあり得ます。ときには不十分な理解のままに、俗受けする歴史批判などに血道を上げる宗教家さえいます。

 聞くところによると、最近、ある国の大使が伊勢神宮をお詣りされたそうです。大使はイスラム教徒のようですが、日本の神社に敬意を表し、神道の作法にのっとってお詣りされました。大使は記紀神話の英語訳を熟読し、神々の名前をそらんじ、イスラム化される前のアラブ世界の神話と日本神話との共通性を語り、懇談の場に居合わせた神社関係者を驚かせたといいます。

 日本人が何を信じてきたのか、もはや外国人から教えてもらう時代になったのかも知れません。

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日本の自然美と日本人の純粋性を発見したアインシュタイン──大正11年の日本旅行記から [神社]

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日本の自然美と日本人の純粋性を発見したアインシュタイン
──大正11年の日本旅行記から
(「神社新報」平成15年8月4日号から)
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 まもなく原爆忌──。

 アメリカの核開発の歴史は、原子物理学者のアインシュタインがルーズベルト大統領宛に書いた核兵器開発を促す手紙に始まるともいはれる。ナチス・ドイツによる原爆開発を恐れての進言だったが、歴史の皮肉といふべきか、最初の原子爆弾はドイツにではなく、彼がこよなく愛した日本に投下された。

 相対性理論で知られるアインシュタインは、科学者として世界史に名を残す一方、日本の伝統美と日本人の純粋性を深く理解した代表的西洋人の一人として知られる。


▢ 美しい自然と上品な日本人

 アインシュタインはいまから八十年前の大正十一(一九二二)年十一月、日本の出版社の招きに応じて来日した。九州から東北まで、大学で相対性理論を講演したばかりでなく、明治神宮や日光東照宮、熱田神宮、厳島神社などに参詣し、皇后陛下に謁見、能楽や雅楽を鑑賞し、多くの日本人と交はり、「日本のすばらしさ」に魅せられた。

 招請を受けたとき、アインシュタインは「このチャンスを逃したならば、後悔してもしきれない」と思った。世界各国を旅した彼だが、「日本ほど神秘のベールに包まれてゐる国はない」からであった。

 彼の旅日記によると、まづ感動したのは美しい自然であった。彼は、「日本の海峡を進むとき、朝日に照らされた無数のすばらしい緑の島々を見た」。

 アインシュタインは各地で日本の「光」に惹かれた。京都では、「魔法のやうな光が通りや小さな家を照らしてゐた。……下に見える町のほうには光の海が連なってゐた。非常に感銘を受けた」。展望車に乗って東京に向かふ途上では、「雪に覆はれた富士山は遠くまで陸地を照らしてゐた。富士山近くの日没はこの上なく美しかった」。

 自然以上に輝いてゐたのは、日本人の「顔」である。

 日本行きの船上で出会った日本人客を観察し、「日本人は他のどの国の人よりも自分の国と人々を愛してゐる」ことを知る。彼が会った日本人は、「欧米人に対してとくに遠慮深かった」。京都のホテルの給仕は「素朴で、おとなしく、とりわけ感じがいい」。東京で、芸者の踊りも見た。「かかる種類の女性を標準にして、その国民性が分かる。日本の芸者は非常に謙遜な態度で上品ではないか。……日本国民の上品でゆかしいことがこれ一事で分かる」。


▢ 自然と人間の一体化を神道に見る

 さうした国民性はどこに由来するのか。アインシュタインは自然との共生と見抜く。

「日本では、自然と人間は一体化してゐるやうに見える。この国に由来するすべてのものは、愛らしく、朗らかであり、自然を通じて与へられたものと密接に結びついてゐる」

「自然と人間の一体化」を示すものは、日本の神道と神社建築であった。

 高松四郎宮司の案内で参拝した日光東照宮は、「自然と建築物が華麗に調和してゐる。……中央の建物は多彩な木彫りで飾られてをり、すばらしい。……自然を描写する慶びがなほいっそう建築や宗教を上回ってゐる」。

 厳島神社では、「優美な鳥居のある水の中に建てられた社殿に向かって魅惑的な海岸を散歩する。……山の頂上から見渡す瀬戸内海はすばらしい眺めだった」。

 彼の探求心は天皇にも及ぶ。

 熱田神宮では「国家によって用ゐられる自然宗教。多くの神々、先祖と天皇が祀られてゐる。木は神社建築にとって大事なものである」と印象を述べ、京都御所では「私がかつて見たなかで最も美しい建物だった。……天皇は神と一体化してゐる」と見る。


▢ 伝統と西洋化の軋轢を懸念

 美しい自然とその自然に育まれた日本人の国民性を高く評価したアインシュタインは、他方で伝統と西洋化の狭間で揺れる日本の近代化を熟知してゐた。

 だからこそ、旅の途中で書いた「印象記」のなかで、「西洋の知的業績に感嘆し、成功と大きな理想主義を掲げて、科学に飛び込んでゐる」日本に理解を示しつつ、「生活の芸術化、個人に必要な謙虚さと質素さ、日本人の純粋で静かな心、それらを純粋に保って、忘れずにゐて欲しい」と訴へることを忘れなかった。

 二十数年後、日本は戦禍で焦土と化した上に原爆が投下される。アインシュタインはルーズベルトに手紙を書いたことを生涯の過ちとして悔い、平和運動に取り組むことを決意したといはれる。(参考文献=『アインシュタイン、日本で相対論を語る』ほか)

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米倉から生まれた神社──タイ北部で見た日本の神社そっくりの農家 [神社]

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米倉から生まれた神社
──タイ北部で見た日本の神社そっくりの農家
(「農業経営者」平成11年6月号)
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 日本のどの村にも町にも神社があります。その数は約8万社といわれます。四季折々にそこで行われるさまざまな祭りは、農業の営みを抜きにしては語れません。

 古来、人々は生きるために祈り、大地を耕し、自然の恵みによって命を長らえ、尊い命を連綿として子孫に伝えてきました。神社の祭りは民族の生の証であり、自然と生きる農業こそは民族の命を支えるとともに、崇高な精神文明を築き上げてきました。

 農業の危機ともいうべき現代、日本人の信仰と農業の関わり合いをあらためて見つめ直してみたい。たとえば、神社とはどのように発生したのか。

 数年前のことです。タイ北部を旅行していた僕は、ラオスとの国境に近いチェンライ県の村で意外なものを見ました。

 小学校のそばに農家があって、若夫婦がヤマハのバイクに麻袋入りの米1俵をのせ、これからどこかへ出かけようとしていました。ウソのように暑い日で、主人は上半身裸です。荷台が小さくてバランスよく積み荷を載せることができません。どういうわけか、通りすがりの僕が手伝う羽目になりました。重い米の袋を載せ終えると、夫婦はお礼の言葉もなく、二人乗りでヨロヨロしながら家を出て行きました。

 意外なもの、というのは、日本の神社そっくりのかたちをした農家の建物です。母屋が高床式の木造家屋なのは北部タイでは珍しくありませんが、わらぶき屋根の納屋は、屋根の両端に千木(ちぎ)がつき出し、尾根のところには鰹木(かつおぎ)のような重しが見えます。伊勢神宮の洗練された美しさには遠くおよびませんが、基本構造は驚くほど似ています。

 民家だけではありません。北部第一の都市で、バンコクに次ぐ観光都市・古都チェンマイでは、由緒正しい仏教寺院や、博物館の近代建築、あるいはバス停の屋根にまで、火炎のかたちをした千木があしらわれています。

 千木や鰹木といえば、日本の神社だけかと思っていたのですが、どうもそうではありません。けれどもよりによって、タイ北部に神社に似た建物があるのはどういうわけなのでしょうか。

 ある人類学者によると、中国・長江(揚子江)流域の低湿地で発生した高床式住居が、のちに水田稲作とともに各地に伝わり、漢の時代までに中国南部全域、東南アジア、西南日本にまで広がったといいます。

 面白いのは、古代中国・前漢の時代、高床倉庫は稲倉であるだけでなく、祭りの場であったらしいことです。インドネシアのボルネオでは、葬儀のときに仮設の高床家屋が登場します。高床は天上世界のひな形であり、穀霊、死霊、祖霊をまつる祭場でもあるといわれます。

 3年前(平成8年)、「御鎮座2000年」を迎えた、伊勢神宮の内宮(皇大神宮)に御稲御倉(みしねのみくら)とよばれる殿舎が、杉木立のなかにひっそりとたたずんでいます。

 皇室の祖神・天照大神(あまてらすおおかみ)をまつる神宮は全国8万社の神社の頂点に位置します。日々、おこなわれる神宮の祭りは天皇の祭りであり、稲の祭りです。とくに10月中旬に行われる神嘗祭(かんなめさい)は神田で収穫された稲の初穂を大神にお供えする、1年でもっとも重要な祭りなのですが、このとき収穫される抜穂(ぬいぼ)を収める米倉がこの御稲御倉です。

 しかし単なる倉庫ではありません。御稲御倉神をまつる、れっきとした社殿なのです。古人は稲を神と見なし、守護神をまつりました。その守護神とは稲の神霊つまり穀霊そのものです。

 稲の神霊である穀霊が米を収める米倉に宿るという信仰が派生し、米倉がやがて神が住まわれる社殿へと転化していったというのではなくて、むしろ高床の米倉が最初から穀霊に関わる祭りの場であった、と考えた方が理解しやすいでしょう。

 素朴な自然崇拝の時代、日本人は山や滝、巨岩などを信仰の対象とし、神殿を必要としませんでした。しかしやがて高床建築が稲作とともに伝わり、これが神殿に発展し、神々は神殿に常住する、と人々は考えるようになったのではないでしょうか。稲作が日本の神社を発生させたと見て、たぶん間違いないのでしょう。

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農業神から武家・町人の信仰へ ──おびただしい数の江戸・京橋の稲荷 [神社]

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農業神から武家・町人の信仰へ
──おびただしい数の江戸・京橋の稲荷
(「神社新報」平成10年7月13日)
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「伊勢屋、稲荷に犬の糞」

 口の悪い江戸っ子はものの多いことのたとえにそう表現した。

 それほど江戸の町にはおびただしい数の稲荷社が鎮座した。初午の日には提灯に灯がともり、五彩の幟が連なり、人々は赤飯と煮しめで祭りを祝ったという。

 天正18(1590)年の家康の入府以後、潮入りの葦原に水路が開かれ、入江が埋め立てられ、町が造られた。17世紀初頭には江戸は人口500万人の世界最大の都市となる。

 それほどの大都市に、農業神であったはずの稲荷信仰がなぜ他を圧するほどに浸透していったのだろうか。農民の信仰がなぜ武家の屋敷神や町人の福神信仰に転換したのだろう。

 興味深いことに、無数に近いほどの稲荷社は近代を経て、現代の硬度工業化社会に淡々と受け継がれている。その多くはビルの屋上の小祠だが、信仰は生きている。それはなぜか。

 かつての職人町で、いまは企業の本社ビルが林立する東京・八重洲口のオフィス街・京橋に視点を定めて、考えてみたい。


▢ 伊勢屋、稲荷に犬の糞
▢ 今はビルの屋上の小祠


 いま地下鉄の銀座線が走る中央通りに、幕府は日本橋、京橋、新橋の3つの橋を架けた。欄干を擬宝珠で飾った橋はこれらだけで、この道筋は江戸の目抜き通りと位置づけられた。

 日本橋と京橋の間が「京橋」地区で、「日本橋」とともに江戸の商工業の中心であった。商業地と武家地が相半ばする町で、稲荷のメッカでもあった(『中央区史』など)。

『中央区史』に掲げられた「江戸時代における区内の社祠一覧表」では、69の社祠のうち、稲荷社は57社を数え、圧倒的な数の多さを誇る。

 また、江戸期に出版された区分地図『江戸切絵図』の「八町堀霊岸嶋日本橋南之絵図」(文久再鐫)では、大工町、鍛冶町、畳町などの町名が並ぶ、いまの八重洲・京橋地区に、11社もの「イナリ」を確認できる。

 そのほかには「不動」が1祠あるだけだから、いかに稲荷が多いかが分かる。

 しかし、実際の数はこの程度のものではなかったらしい。

『江戸名所図会』や『武江年表』の作者として知られる、斎藤月岑が江戸の年中行事を詳細に記述した『東都歳時記』(天保9年刊)の「初午」の項には、武家は屋敷ごとに稲荷を祀り、市中では1町に3社、5社と勧請した、とある。

(平成10年)5月26日の午後、八重洲口の小さなビルの屋上に鎮まる出世稲荷神社の例大祭が行われた。

 いまにも降り出してきそうな天候を心配しながら、広さ10畳ほどの「境内」にビルのオーナーや町内の崇敬者約20名が参列した。建設工事や交通騒音など都心の喧噪で、祝詞の声も打ち消されがちだが、神事は粛々と進行する。

「ビルの屋上の神社なんて」

 といってしまえばそれまでだろうが、創建は5代将軍綱吉の治世、貞享4(1687)年とされ、300年以上の歴史がある。『江戸切絵図』には「出世イナリ」と大書され、当時から広く知られていたらしい。

 けれども、ここに誰がどのような経緯で祀ったのか、詳しい由緒は分からない。戦災で古い記録が灰燼に帰したからである。

 502機のB29が15万発の焼夷弾を投下し、東京を火の海にしたのは、昭和20年5月25日の夜半である。

 このとき社司の高次秀直氏は永田町の日枝神社に奉仕していて、不在だった。のちに神社本庁職員となる一人娘の喜久さんが出世稲荷の御霊代をリュックにお納めし、猛火のなかを日枝神社に逃れた。

「山王様へ」

 が厳父の言いつけだった。

 しかしこのとき日枝神社も被災する。父・秀直氏は他の神職とともに御神鏡を辛櫃に納め、国会議事堂に避難した。

 その後、ススだらけになりながら、九死に一生を得た父娘が偶然にも日比谷のお壕端で再会し、無事を確認するというドラマが伝えられている(熊田正治『山王の森』など)。


▢ 信仰の担い手は御用職人か
▢ 流行化の背後に「社会不安」


 民俗学者の宮田登先生によると、江戸の稲荷社は近世初頭から17世紀後半ごろまでは、他国から勧請された例が多い。ところが、17世紀末から18世紀、元禄年間になると、江戸近郊の農村に霊験あらたかな社が急に目立ち始める。

 そして、宝暦〜明和、18世紀後半にはいっせいに流行神現象が起こり、人々が各社に参詣し、利益が説かれるようになる(「江戸町人の信仰」=西山松之助編『江戸町人の研究2』所収)。

 八重洲2丁目の出世稲荷が鎮まる土地は、江戸期は「南鍛冶町」と呼ばれた。

『中央区史』によると、鍛冶町、紺屋町、大工町、大鋸町などが生まれたのは、江戸初期の慶長10年ごろのことという。江戸城築城に当たり、関八州から多くの職人が強制的に集められ、御用職人の町が造られた(乾宏巳「江戸の職人」=西山編『江戸町人の研究3』)ようだが、信仰の担い手は御用職人なのだろうか。

 東京教育大学の直江廣治教授によれば、「原初的には稲の神、すなわち作神として始まった」稲荷信仰が「一方では都市の商工業者の守護神として、広い信仰層を持っている。この点はイナリ山(京都・伏見稲荷大社)の祭祀権をにぎった秦氏の商工業面での活躍に端を発していると考えられる」(「稲荷信仰普及の民俗的基盤」=「朱」昭和43年4月)という。

 けれども、直江先生自身が指摘するように、東京や関東の稲荷が「すべて伏見大社の統率下にある、と言い切るわけにはいかない」。

 その証拠に、出世稲荷がそうであるように、「屋敷神としての稲荷の祭日は、常識化した2月初午説に必ずしも統一されていない」。

 乾氏がいうように、江戸職人の出身地が関八州だとすれば、少なくとも直接的な秦氏との結びつきは考えにくくなり、江戸の稲荷と京都・伏見稲荷との関連は遠のく。江戸の稲荷を「京都伏見稲荷が伝播した現象と見なすのは早急」(宮田前掲論文)なのだろう。

 しかも江戸で稲荷の創建ラッシュが始まるのは、職人町が生まれてから百年もあとの元禄ごろからである。なぜ中期以降、爆発的に浸透していったのか。

 宮田先生は、5つの類型を想定して、次のような考察を加えている(前掲書)。

①田の神型・農業神型=王子稲荷、三囲稲荷など。

 江戸が農村としての性格を強く持っていた段階に水田地帯に祀られ、牛王宝印を出す修験や狐を呼び寄せる老婆(巫女)が関与した。農作の豊凶を示し、恵みをもたらすといった田の神の性格が顕著である。

②聖地型=烏森稲荷、杉森稲荷、宮戸森稲荷など。

 以前は鬱蒼たる森で、烏や狐が棲みつき、人間の入ることを拒む聖地であった。江戸の都市化とともに、祟り地として畏怖され、棲みついていた狐が稲荷として祀りこまれた。媒介者として修験の活躍があった。

③土地神型=茶の木稲荷、日比谷稲荷、桜田稲荷など。

 いろいろな霊験を説かれる前は、その土地の地主神で、とりわけ稲荷の名で呼ばれなくても在来信仰として存在したのだが、江戸の発展に応じて、稲荷神として民衆の前に出現した。

 これら3類型を基底として、江戸の都市化とともに、稲荷信仰が変容する。

 すなわち

④屋敷神型=小日向江戸川端・久保田何某の屋敷の稲荷、大久保本村最寄・小笠原大膳太夫の下屋敷の稲荷、麻布白銀御殿跡の富士見稲荷など。

 都市化によって多くの屋敷地が江戸の町に造成されていったが、古くからの地主神が屋敷地の守護神に転化し、そのまま祀られた。つかわしめの狐が登場し、稲荷として表現される。

 また、小石川春日町の出世稲荷のように、新たに拝領された土地に屋敷神として勧請される例は枚挙にいとまがない。勧請は時期的に集中し、寛文〜元禄期までで、遅くとも享保年間である。屋敷神の稲荷は、下級武士の拝領地に勧請され、次第に拡大した。

⑤憑きもの型=神田明神境内に建てられた定吉稲荷など。

 幕末に近くなると、憑きものが多くなり、それに連れて稲荷社も増加した。

 また、下谷国珠稲荷のように、救いの願いが強調される場合もある。

 江戸中期には町人に社会不安がみなぎっていて、その守護神として稲荷が祀られた。憑きものによる託宣、狐による稲荷神の予言が強く期待されたからで、とくに享保年間以降、増加し、流行神と結びついて展開した。

 宮田先生は、江戸前期には農業神、聖地・土地神の要素をもって稲荷が発現し、江戸中期から、とりわけ後期にかけて屋敷神・憑きもの型が流行神として現れたと述べている。

 流行化の背景に「社会不安」を想定しているのが注目される。


▢ 食物の神が経済的な福神に
▢ 時代の流転を目撃した神職


 江戸の稲荷は、稲作信仰とは別の視点から検討し直す必要がある、とはいっても、まるで無関係ともいいにくい。その点では、大谷大学の豊島修先生が、畿内の稲荷に限定しながらも、次のように考察しているのは興味深い(「稲荷信仰と福神」=五来重監修『稲荷信仰の研究』所収)。

 農民は五穀豊穣の神として稲荷を福神として祀り、その利益にあずかろうとした。都市民の間に屋敷の守護、商売繁盛の神としての信仰が根強いのは、食物の神としての稲荷信仰が根源にある。

 室町以後、商業主義の発展に従って、都市民だけではなく農民の欲望が多様化し、食物の神から経済的福神に転換、さらに室町時代に成立する七福神信仰とも習合した、というのだ。

 星の数ほどあった江戸の稲荷は、その後の歴史の荒波にもまれ、耐えきれずに廃された例も少なくないようだが、祭りが継承されているケースももちろんある。

 たとえば戦災後、日枝神社境内の仮宮に祀られていた出世稲荷は、戦後の混乱期に境内地を奪われるという苦難を経験したものの、地元の崇敬者の尽力によって、昭和26年、盛大な遷座祭が斎行され、京橋の旧地に奉遷した。

 こうした歴史の流転を目撃したのが高次氏である。

 明治28年の生まれで、國學院大学高等師範部を卒業後、日枝神社主典、鉄砲洲稲荷神社社司、東京大神宮禰宜などを歴任した。

 愚直なほどに神明奉仕に厳しい人だったようだが、どうやら親譲りらしい。昭和2年刊の『きょうば志』が、明治期に紀州熊野権現の一臘職だった音無盛臣のほか、黒田清綱、東久世、徳川慶喜など、著名な歌人が当地に集まったのを機に、氏子拡張を勧めたが宮司が無欲だったので果たせなかったと記しているのは、父・正司氏のことのようだ。

 秀直氏の「無欲」は父親顔負けで、ご奉仕する日枝神社を「給料日というと、しばしば休みを取った」。神明奉仕で“労働の対価”を得ることを恥としたらしい。

 神に仕えることは“メシの種”ではないとする頑なな信念は、神職という“職業”のありようを鋭く問いかけている。

 戦時中は戦陣に散った英霊が戦地から続々と無言の帰還を果たした。東京駅頭での慰霊祭を奉仕したのは秀次氏である。

 東京府神職会理事にまで上り詰め、戦後は神社本庁設立に関わった。「祝詞の名人だった」らしく、『新作諸祭祝詞選集』(神社新報社刊、昭和35年)に14作の祝詞が載っている。

 高次氏が帰幽したのは昭和36年。そのころから京橋は日本を代表するオフィス街へと変貌する。ビル建設ラッシュが始まり、外堀は埋められ、高速道路が走るようになる。

 江戸の大火のほか、関東大震災や戦災を生き抜いた稲荷社の多くは、高度成長時代を“企業の神社”として、ビルの屋上で生き延びる。晩年の高次氏は町の変貌とお宮の変わり様をどのような思いで見つめていたのであろうか。(肩書きは当時)


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天孫降臨の高千穂を訪ねて──皇室と稲作発祥の聖地 [神社]

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天孫降臨の高千穂を訪ねて
──皇室と稲作発祥の聖地
(「神社新報」平成9年8月11日)
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(平成9年)7月上旬、天孫降臨の聖地、皇祖発祥の地であり、日本の稲作発祥の地と伝えられる宮崎県高千穂を訪ねた。

『古事記』は、天照大神(あまてらすおおかみ)と高木神(たかぎのかみ)の仰せで、邇邇藝命(ににぎのみこと)が

「竺紫(つくし)の日向(ひむか)の高千穂の久士布流多気(くじふるたけ)」

 に天降られた、と記している。いうまでもなく伝承地には2説があり、新井白石以来、霧島説も有力だが、今回はご勘弁願って宮崎を目指した。

 梅雨前線がどっかと居座り、各地に大雨洪水警報が発令される生憎の天候だが、要所要所では不思議に晴れた。

 高千穂神社・後藤俊彦宮司夫妻の運転で、阿蘇山まで足を伸ばした帰り、『日向風土記』逸文に瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が天降られた、と記される「高千穂の二上の峯」、二上山が雨雲から顔をのぞかせる。

 山頂が男岳と女岳のふたつに分かれる秀麗な姿には、神々しさを感じる。

 それにしてもなぜ、1000メートル級の山々が連なるこの山里が、皇祖発祥の地として伝えられてきたのだろうか?


▢西日本最大の女狭穂塚
▢神武天皇お船出の港町

 日向国、そして高千穂は、じつに不思議なところである。2000年以上の時を超えて、古代の神話がいまもそのまま生きているからだ。

 早朝の便で宮崎空港に降り立ったあと、車で西都(さいと)市に向かった。目指すのは、古墳群としては日本最大規模の西都原(さいとばる)古墳群だ。東西2キロ、南北3・5キロの広大な台地に、309基もの古墳が群集するのは圧巻である。

 民家や畑が点在し、蝉時雨のなか、ナツアカネが舞う。

 史跡公園としてすっかり整備された中央部に、柵に囲まれ、鬱蒼たる巨木に覆われた、ひときわ大きな古墳が2基、重なるように寄り添っている。九州随一の陵墓参考地、男狭穂塚(おさほづか)と女狭穂塚(めさほづか)だ。

 風が吹くと、葉擦れの音が怖いほど、神気に圧倒される。

 先月(平成9年7月)下旬、県教育委員会の測量調査が始まった。自治体単独による陵墓参考地の調査を宮内庁がはじめて許可し、議論を巻き起こしているのは周知の通りである。

 男狭穂塚は瓊瓊杵尊の御陵、女狭穂塚は尊の妃・木花開耶姫(このはなさくやひめ)の御陵と伝えられる。数百年前まで可愛(えの)神社が鎮まり、祭りが斎行されていたと聞く。

 とくに女狭穂塚は西日本最大の前方後円墳である。西都は律令時代に国府が置かれ、国分寺なども建立された古代日向の中心地であり、そこに御陵が伝えられている。

 しかも、である。

 女狭穂塚からわずか2キロのところに姫を祭神とする式内社・都万(つま)神社が鎮まる。

 境内の周辺には、瓊瓊杵尊が姫を見初められた逢初(あいぞめ)川、新婚宮殿の八尋殿跡、姫が火中で3皇子を出産した無戸室(むつむろ)、3皇子が産湯をつかった児湯(こゆ)の池、2神がはじめて田を開かれた井門田里(いもんだのさと)がある。

 瓊瓊杵尊と木花開耶姫の間に生まれたのが海幸彦・山幸彦の兄弟である。宮崎市の青島神社は弟の彦火火出見(ひこほほでみ)命を祀る。

 社伝によると、失った兄の釣針を求めて海神宮を訪問、そこで結ばれた豊玉姫とこの島に帰還され、大宮を建てられた。旧暦12月の裸祭りは、命の急な帰還を村人が衣服を着る暇もなく、赤裸のまま出迎えた故事にちなむ。

 命は鵜(う)の羽を葺草にして海浜に産屋を作られた。屋根が葺き終わらないうちにお生まれになったのが鵜鶿草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)である。日向市の鵜戸神宮に祀られる。尊の生誕地という。

 宮崎市の宮崎神宮が尊の4子・第1代神武天皇を祀るのはいうまでもない。

 西都の北東35キロ、耳川の河口に、古い港町、美々津がある。神武天皇は御東征のため、ここから船出された。

 そのとき航海の安全を祈願、底筒男命・中筒男命・表筒男命を祀られ、そののち景行天皇の御代に創祀されたとされる立磐(たていわ)神社の小さな境内には、何と注連縄を張られた「神武天皇御腰掛岩」がある。

 社伝によると、天候が良くなって、お船出の日取りは急に変更になった。旧暦8月1日の夜明けに、

「起きよ、起きよ」

 と神の声が聞こえると、村人は奉祝の旗を掲げて浜辺に馳せ参じ、別れを惜しんだとされる。

 この日、美々津では七夕飾りを手にした子供たちが早朝、各家の戸を叩いて起こす「起きよ祭り」が斎行される。

 町には「つきいれ団子」という名物がある。小豆餡と餅をつき混ぜたもので、急なお船出に慌ててこしらえたのが始まりという。残念ながら食べ損ねた。

 河口の波打ち際を歩いてみた。日向灘から押し寄せる波は思いのほか荒い。目をこらしても、四国も瀬戸内の島々も見えない。ここを出港された神武天皇には、遙かなる大和の地がお見えになったのであろうか?


▢稲作の起源地は山また山
▢南北アジアの文化的接点

 延岡から国道218号線に入る。雨足が強まる。やがて高千穂の峰々が見えてきた。白雲が谷間から次々に湧いてくる。

 翌朝、高千穂神社の後藤宮司さんに案内されて、国見ヶ丘に上った。筑紫国の統治を命じられた神武天皇の皇孫・健磐龍(たけいわたつ)命が四方を望んだと伝える高台で、山里が一望できる。

 天孫降臨に際して、天照大神は

「高天原にある斎庭(ゆにわ)の穂をわが子に与えよ」

 と勅された。斎庭稲穂の神勅。天孫降臨は稲作の始まりでもある。

 だが、行乞の俳人・種田山頭火が

「分け入っても分け入っても青い山」

 と詠んだように、高千穂は山また山である。静岡・登呂遺跡のような平地の水田農耕を想定していると、疑念ばかりが頭をもたげてくる。考古学者がもっぱら稲作は朝鮮半島から北部九州に伝えられたと主張し、高千穂が眼中にないのも無理はない。

 ところが、静岡大学の佐藤洋一郎先生(植物遺伝学)が提唱し、注目される、稲の「南北二元説」からすると、俄然、現実味を帯びてくる。

 日本の稲は遺伝的に2系統があり、温帯ジャポニカは中国・揚子江流域が起源の水稲、熱帯ジャポニカは東南アジア島嶼地域から伝播した陸稲的な稲である。両者が日本列島で自然交雑し、早生が発生、稲作は北部日本にまでまたたく間に伝播することが可能になったという。

 自然交雑はどこで起きたのかといえば、西南暖地だという。東北の早生品種と西南暖地の早生品種は遺伝的に兄弟関係にあるらしい(佐藤『稲のきた道』)。

 中国に起源する温帯型の稲と東南アジアに連なる熱帯型の稲が、日向の高千穂で運命的に出会い、新しいタイプの稲と稲作が生まれたとしたどうだろう。やがて早生品種による新たな水田稲作はさながら神武東征のごとく、日本列島に浸透していくのである。

 上古、高千穂は日向、豊後、阿蘇にまたがる広大な丘陵地域一帯を指したらしい。肥後に42か村、日向に18か村。『日本書紀』本文は

「日向の襲(そ)の高千穂峯に天降ります」

 と記しているが、西都原古墳研究所の日高正晴先生は、この山岳地帯に「襲」という勢力圏があったと推理する(日高『古代日向の国』)。

 ついでにいうなら、上代の日向はいまの宮崎県をはるかに越え、南九州全体を指した。大隅、薩摩が分置されたのは8世紀である。高千穂は南北九州の分水嶺に位置し、日向は南北アジアの文化的接点に当たる。

 神が山に降臨する天降(あも)り神話は朝鮮から内陸アジアにかけて広く分布するという。朝鮮の檀君神話は、天神が子神に三種の宝器をもたせ、風師、雨師、雲師を伴わせて、太白山上の壇という木の傍らに降臨させ、国を開いたと伝える。

 他方、『古事記』は、瓊瓊杵尊が醜女の石長比売(いわながひめ)を避け、美人の木花之佐久夜毘売(このはなのさくやひめ)を娶った。姉妹の父・大山津見神は

「岩のように揺るぎなく、木の花のように繁栄することを願ってふたりを奉ったのに」

 と深く恥じたと記している。

 これに似た人間の寿命に関する神話は「バナナ型神話」と呼ばれ、インドネシア系の隼人族が伝えたといわれる。

 たとえば、セレベス島の神話は、人々はバナナを命の糧としていた。ある日、神が石を下すと人々はバナナを求める。神は語る。

「人間の命は石のようではなく、バナナのようにはかなくなろう」

 失った釣針をめぐって兄弟が争う海幸・山幸の物語に似た神話は、インドネシアやメラネシアなどに広く見られるという(松村武雄『日本神話の研究』など)。

 日本三大神話に数えられる日向神話に、北方アジアと南方アジアの神話の混合が見られるのは興味深い。

 高千穂神社では旧暦12月3日に猪々掛(ししかけ)祭が斎行される。鎌倉以前に遡る古い神事で、3升3合3勺(古くはこの10倍)の米飯のほかに、初猪がまるごと供せられる。南方的な縄文の狩猟文化と北方的な弥生の稲作文化が同居している。

 山がちな高千穂では石垣を積んだ棚田が目につく。後藤宮司さんによれば、農民は

「迫田(さこだ)で作った米ほど、美味しい米はない」

 と語るという。小さな扇状地に、ヨシやアシを踏み固めて作られた猫の額ほどの水田。古代の農業を彷彿とさせる稲作がいまも行われている。


▢周辺には高天原や天岩戸
▢百済や江南とのつながり

『日向風土記』逸文に、天孫降臨のとき、この地が暗かったので、瓊瓊杵尊は先住民の土蜘蛛の進言を聞き入れて、稲籾を四方に蒔かれると明るくなり、日月が輝いた。それで高千穂という地名になったとある。

 厚い雲が垂れ込める高千穂を歩くと、古代の神話が昨日の出来事のように思えてくるから、不思議だ。

 宿から数百メートルのところに槵触(くしふる)神社が鎮座する。瓊瓊杵尊を祀る。

 付近には天孫降臨後に神々が高天原を遥拝したといわれる高天原、神武天皇の兄弟4皇子が降臨されたと伝えられる四皇子峰がある。

 高千穂峡で知られる五ヶ瀬川は、神武天皇の兄・五瀬(いつせ)命の名に由来するといわれる。

 その翌日は朝から雨。ときおり激しく降りしきるなか、天岩戸神社へ向かう。祭神は天照大神である。岩戸川を挟んで東本宮と西本宮が鎮座する。西本宮は拝殿のみで本殿はなく、対岸の岩窟を御神体とする。大神がお隠れになった天岩戸と伝えられる。

 流量を増した深い渓谷の底から轟音が響く。

 神社の近くには、大神の岩戸隠れの際、神々が神議されたという天安河原(あめのやすかわら)がある。

 高千穂に天香山(あまのかぐやま)という山がある。日向市には伊勢ヶ浜があり、その近くを五十鈴川が流れる。大和や伊勢との関連を感じさせる地名が散見される。考古学者が女狭穂塚に関心を示すのは畿内との比較である。

 時代が下ると、朝鮮半島とのつながりは一段と明確になる。いよいよ雨足が強まるなか、「百済の里」として脚光を浴びる南郷村に車を走らせた。

 奥深いのどかな村に百済の王侯が移り住んだという伝説が残る。百済の王族・禎嘉王を祀るのは神門(みかど)神社である。神さびた境内に異国の香りが漂う。

 村の伝説では、百済滅亡後、畿内に亡命した人々はやがて筑紫を目指した。その途中、時化に遭い、日向に漂着したのだという。

 それなら、なぜこの村を第2の故郷としたのだろうか。朝鮮と日向を結ぶ、さらに古い時代の記憶がそうさせたのかも知れない。

 他方、九州と中国・江南地方との関連性を指摘するのは、民俗学者の谷川健一先生である。

 神武天皇が船出された美々津は耳川の河口だが、上流の諸塚山は呉(ご)の太伯が住んだところと伝えられる。神武帝の皇子には多芸志美美命、岐須美美命など、不思議に御名に「耳」が含まれる。

 谷川先生は、南中国に起源する耳輪の習俗の名残ではないかとする。江戸期の国学者・藤井貞幹は同帝が太伯の後裔とする説を唱え、本居宣長はこれを罵倒したが、俗説と退けることはできないというのだ。

 百済や新羅は山東半島を経由して、南中国と密接な関係を持っていたともいう(『谷川健一著作集5』)。

 古代の謎は明らかになったかと思う間もなく、ふたたび闇に覆われる。雲に見え隠れする高千穂の峰々のようである。

 しかし日本の建国神話は、悠久の時を超えて、いまも継承されている。そこに日本の特色がある。後藤宮司さんはある鼎談でそう語っている(『神棲む森の思想』)。

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白鳥と化して飛ぶ穀霊 ──京都・伏見稲荷大社の起源説話 [神社]

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白鳥と化して飛ぶ穀霊
──京都・伏見稲荷大社の起源説話
(「神社新報」平成8年6月10日)
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 明治天皇の御陵・伏見桃山山陵は京都・伏見区のほぼ中央に位置し、東山三十六峰の南端・古城山の南斜面にある。400年前、秀吉が築いた伏見城の本丸址に当たる。

 北西600メートルのところには桓武天皇の柏原陵があり、平安京が開かれたときの天皇と、近代になって首都が東京へ遷されたときの天皇の御陵が隣り合っているというのは、何か歴史的な因縁めいたものを感じさせる。

 さらに北へ3キロ、稲荷山の西麓に鎮座するのは伏見稲荷大社である。全国に約4万社あるといわれる稲荷神社の総本社であることは、いうまでもない。『山城国風土記』逸文に同社の起源説話が描かれているが、そこには1羽の白鳥(しらとり)が登場する。

 狐ならいざ知らず、稲荷信仰と白鳥とは意外な組み合わせのようにも見えるが、そうではない。白鳥とはじつは穀霊の化身なのである。


▢ 「白き鳥と化成りて飛び翔りて
▢ 山の峯に居り伊禰奈利生ひき」


『山城国風土記』逸文には、こう記されている。

「伊奈利(いなり)というは、秦中家忌寸(はたのなかつえのいみき)らが遠つ祖・伊侶具(いろぐ)の秦公(はたのきみ)、稲粱(いね)を積みて富み裕(さいわ)いき。
 すなわち餅(もちい)を用いて的(いくは)となししかば、白き鳥と化成(な)りて飛び翔(かけ)りて山の峯におり、伊禰(いね)奈利生(なりお)いき。ついに社の名となしき。
 その苗裔(すえ)にいたり、先の過(あやまち)を悔いて、社の木を抜(ねこ)じて、家に植えて祷(の)み祭りき。いま、その木を植えて蘇(い)きば福(さきわい)を得、その木を植えて枯れば福あらず」

 前段の解釈は、富豪となった秦伊呂具が持ちを的にするなど、米を粗末に扱ったために神罰が当たったとするのが一般的だが、帝塚山大学の山上伊豆母先生は、そうではないという。

 原文は遊び半分とは書いておらず、豪族の驕り高ぶりと解するのは封建時代の教訓的なこじつけだというのだ(「帝塚山大学論集」38号、82年9月)。

 餅が真っ白な鳥に化身して大空を舞い、やがて緑なす山の峯にとどまり、稲が生える。古代のロマンを感じさせずにはおかない物語だが、山上先生はこの白鳥は単なる霊鳥ではなく、穀霊だとして、「穀霊白鳥」と名づけている。

 鳥が穂をくわえて運び、稲がもたらされたという伝承は、民俗学では「穂落とし神」と呼ばれる。

 柳田国男は『海上の道』に、千葉・大通寺、三重・伊勢神宮および伊雑宮、沖縄・久高島の例を挙げている。

 千葉・市原市米原(よねはら)の曹洞宗・長粳山大通寺は応永7(1400)年の開基とされる古刹で、地名や山号がいやでも稲作との関連を想像させる。

 かつては100坪ほどの稲田があり、仙鶴がもたらしたとされる稲籾の大きさが卵ほどもある赤米が栽培されていたといわれる。

 ただ住職は、私の取材に対して、開山のときに奥州水沢の女仙人から長粒のウルチ米をもらい受け、これが地名になったのが真相だといい、

「鶴が稲をくれたなんてあるはずがない」

 と怒っていた。

 鎌倉中期成立とみられる神道五部書のひとつ、『倭姫命世記』には、垂仁天皇27年のこととして、皇大神宮の朝夕の御饌を奉るのにふさわしい地を求めて巡行する皇女・倭姫命の物語が記されている。

 昼夜、鳴き続ける鳥があったので臣下を遣わすと、葦原に1茎で1000穂の霊稲があり、白真名鶴が稲穂をくわえて鳴いていた。

「鳥でさえ田を作って大神に奉っている」

 命は稲を御料とし、この千田の地に伊雑宮を建て、真名鶴を大歳神として佐美長神社をまつる。

『日本書紀』によれば、命によって天照大神をまつる祠(内宮)が「傍国(かたくに)の化怜(うま)し国」伊勢国に建てられ、斎宮が五十鈴川のほとりにおかれるのは、2年前の垂仁天皇25年である。

 國學院大学の中西正幸先生は、神宮の神嘗祭はこの「白真名鶴」の伝承にまでさかのぼることができると指摘する(國學院大學日本文化研究所編『神道事典』)。

 沖縄の伝承に登場するのは、白鳥ではなく鷲である。

 柳田によると、沖縄本島の東南・久高島に白い小甕に入って、五つの種子が流れ寄ってきたが、シラチャネすなわち稲種だけが欠けていたので、アマミキョが祈ったところ、鷲が飛んでいって300日後に戻ってきた。これを植えた田が三穂田だという。

 アマミキョ(阿摩美久)は琉球の開闢神である。久高島は古代神事イザイホーで知られ、「神の島」といわれる民俗の宝庫でもある。


▢ 死者の霊魂が赴く「稲荷山」
▢ 古墳を祭場とする祖霊信仰


 伏見稲荷大社は寛元3(1245)年に火災に遭うまで、稲荷山の山上に鎮座していたといわれる(『山州名跡志』など)。

 白鳥が飛んでいって山の峯に稲が生えたとする創祀伝承からすれば不思議はないが、稲作が平地の水田で始まったというのならまだしも、なぜ山の峯なのか?

 京都大学の渡部忠世先生は、古代の稲作は、

①山岳・丘陵地の畑と山間小湿地、
②小河川の河谷盆地、
③河川中流域の扇状地、
④海岸平野、
⑤デルタ上部、
⑥デルタ沖積地

 ──というように展開したと説明する(『稲の大地』)。

「耕して天に到る」(『資治通鑑』)のではなくて、稲作は山間で発生し、平地に降ったというのだが、だとしたら伏見稲荷大社の起源説話は、①の段階の古い稲作の発生を暗示しているのだろうか?

 同社では4月12日には水口播種祭、6月10日には御田植祭、10月25日には抜穂祭が斎行される。奉仕するのは大阪・三島講の奉耕者たちだ。約3アールの神田は社殿の裏手、稲荷山の谷間にあり、山の峯に稲が生えたとする説話を思い起こさずにはいられない。

 京都産業大学の所功先生は、御田植祭がいまのような形態で執行されるようになったのは昭和以後だ(「“耕す文化”の再生」=「大いなり」平成8年4月号所収)と書いているが、同社によると、「中世に斎行されていたことを示す記録もある」。

 ただ、場所や祭りの形態までは分からないらしい。

 起源説話は稲荷信仰の古層に潜む「山の神」信仰が示されていると見た方が、むしろ自然のようだ。

 大谷大学の五来重先生によると、「稲荷山」と呼ばれる古墳が全国に120以上あるという。

 食物の神とくに稲霊である宇迦之御魂(うかのみたま)神を崇拝する稲荷信仰の根底には、食(け)の根すなわち「ケツネ」は祖先のたまものとして与えられるとする祖霊信仰が潜んでいる。

 古代において死者の霊が赴く他界は山であり、人々は古墳を祖霊が鎮まるところと定めて祭祀を執行した。こうして「山の神稲荷」の信仰が発生する(上田正昭ら『京の社』)。

 米の生産装置である稲田は大がかりな土木工事が必要で、一朝一夕にしては築き得ない。まして米作敵地ではない日本列島での稲作は祖先の汗と涙の結晶の果実であると人々が考えるのは実感だったろう。

 注目すべきことは、感謝の祈りを捧げる対象としての祖先は特定の祖先を想定していないことである。したがって、祭場となる古墳の被葬者がたとい自分たちと縁もゆかりもなかったとしても、問題にはならない。

 死霊は祖霊へと昇華し、さらに神霊へと神格化していくのだろう。

▽ 「お塚」とは何か

 伏見稲荷大社には、全国から数多くの稲荷講の人たちがお詣りにやってくる。

 本社に参拝したあと、講員はそれぞれ「商売繁盛」を願って建てられた赤い千本鳥居のトンネルをくぐり、三ノ峯、二ノ峯、一ノ峯とめぐり、1時間以上もかけて、1万基あるという石垣や神狐に囲まれた「お塚」に詣でる。

 この「お塚めぐり」のことを、ひとびとは「お山する」と表現する。「大祓祝詞」を奏上し、「大般若経」を唱和するのだが、信仰の拠点であり、磐境信仰を思わせる「お塚」とは、そもそもいったい何だろうか?

 京都大学の上田正昭先生は、稲荷山の二ノ峯には4世紀半ばごろの古墳、三ノ峯には竪穴石室古墳があり、中国の古代銅鏡を模した鏡や勾玉などが出土しているという(上田氏ら前掲書)。

 ただし本格的な発掘調査が実施されたことはないようである。

 大岩山南麓から伏見桃山丘陵にかけては黄金塚古墳と呼ばれる古墳群が分布しているという。そのいくつかは秀吉による伏見城築城の際に破壊されたようだが、やはり祖霊信仰との関連が見えてくる。

 伏見稲荷大社の創祀は、和銅年間(8世紀初頭)とされている(『二十二社註式』など)。しかしそれはあくまで秦氏による本格的な社殿の創建であって、それ以前におそらく「山の神稲荷」、祖霊稲荷の信仰が成立していたのであろう。


▢ 八尋白智鳥と化す倭建命
▢ 馬韓地方の鬼神との類似


 なぜ穀霊や祖霊と白鳥とが結びつくのだろうか?

『古事記』は、倭姫命から草薙剣を授けられて東国征伐に出発し、これを果たし終えた倭建命が大和への帰還を目前にして病没し、「八尋白智鳥(やひろしろちどり)となって飛び去ったと描いている。その御陵は白鳥御陵(しらとりのみはか)と称される。

 倭建命の場合は千鳥であるが、ふつう白鳥といえば、コウノトリやサギ、ツル、ハクチョウも含まれる。

 都会の雑踏では望むべくもないが、広大な自然のなかで大地の緑にも、大空の青にも染まらずに、悠然と飛ぶ姿は感動的でさえある。白鳥が飛翔する優美なさまに、古代人がこの世のものならぬ霊力を感じたとしても不思議はない。

 天理大学の金関恕先生によると、3世紀の南朝鮮・馬韓地方では、農耕神として鬼神がまつられたという。

 鬼神信仰は稲作の伝来とともに日本列島に伝わり、弥生人は村々でこれをまつった。死者の霊魂は海の彼方の父祖のクニへ移り、子孫を加護してくれる。鬼神はそうした祖霊と考えられた。春になると、祖霊は渡り鳥に守られて戻ってくる。渡り鳥そのものが祖霊の化身と信じられた。祖霊の力で万物は新たな息吹を得、山や野に緑が蘇る。

 祖霊はまた穀霊でもあった。春が到来して稲籾も芽吹く。弥生人は穀霊は翼を持った人間の姿をしていると考えた。穀倉を兼ねた神祠に男女一対の祖霊像がまつられ、木の鳥をあしらった背の高い竿(鳥杵。そと)を並べて聖域とし、鳥装の司祭が祭儀を執行した(『弥生文化の研究8 祭と墓の装い』)。

 鳥杵は大阪や島根の遺跡から出土しているほか、梅光女学院大学の国分直一先生によると、朝鮮半島ではいまも鳥杵の風習が残されているという。

 山口・下関の忌宮神社の特殊神事「スホウテー(数方庭)」は、鳥霊信仰の名残を伝えているという。

 8月中旬の1週間、毎夜、繰り広げられる祭りでは、境内の「鬼石」の周囲を男女が太鼓や鉦、笛に合わせて舞い踊る。男たちが抱えているのは天にも届く竹竿で、先端には鳥の羽根と幟と鈴が取り付けられる。

 ただ、羽の色は白ではなく黒だ。

 同社の創建は神功皇后が新羅遠征のあと、仲哀天皇の神霊をまつったときとされ、鬼石はこのとき大軍を率いて進攻してきた新羅の敵将の首を埋め、上を覆った石といわれる。スホウテーの竹竿は朝鮮半島の鳥杵とつながる可能性が強いという(谷川健一編『日本の神々2』)。

 なるほどスホウテーと鳥杵は音も似ている。同様の幟舞は下関市のほかの神社にも見られるが、南方から伝えられたともいわれる。

 さて、京都・東山は古来、葬送の地として知られる。その名も「鳥辺野」。古くは阿弥陀ヶ峰北山麓から稲荷山の北側までの広い地域を指した。

 地名の由来は伏見稲荷大社の起源と関わっている。『山城国風土記』逸文は、餅が鳥と化して飛んでいった森が「鳥部」だと記している。

 平安遷都以後、葬送地となり、中世になって『徒然草』に、

「あだし野の露きゆる時なく、鳥部山の烟立ちさらでのみ住みはつる習い」(第7段)

 と記されるほど、代表的な葬地となった。

 穀霊白鳥にはやっかいな問題がある。

 春に祖霊を運んでくるならば、南国から渡ってくる渡り鳥でなければならないはずだが、夏鳥には白鳥はない。白鳥は留鳥のツルをのぞけば越冬のために北国からやってくる冬鳥ばかりだ。

 山上先生に聞いてみた。

「穀霊の活躍する季節を限定して考えるべきではない。渡り鳥かどうか、ツルかサギかもこだわるべきではない。古代人は白鳥を見て神聖な穀霊だと素朴に考えた」

 古代人が動物分類学や生態学の高度な体系的知識を持っていたわけではないだろう。清浄さや神聖感を思わせる白い色、白い鳥の組み合わせには、近代的な知識を寄せ付けない鮮烈なイメージの世界が広がっている。

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義人たちはいま何処──全国「芋神様」総覧 [神社]

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義人たちはいま何処──全国「芋神様」総覧
(「神社新報」平成7年10月9日)
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 前々回の記事で、18世紀初頭に“国禁”を犯して琉球に渡り、鹿児島にサツマイモ(甘藷)をもたらした漁師の前田利右衛門が人々から「甘藷爺(からいもおんじょ)」とあがめられ、故郷の山川町・徳光神社に祀られていることをご紹介したところ、

「“芋神様”は利右衛門だけではない。忘れてもらっては困る」

 という苦情を若干ながら頂戴した。

 べつに忘れたわけではないけれども、ご要望にお応えして、今回は全国の代表的な芋神様を取り上げてみたい。そろそろ焼き芋の恋しい季節でもあるから──。(文中敬称略)


▢ 中国に漂流した御物宰領の手土産=沖縄

「唐芋(からいも) 加良(から)とは西土(もろこし)を指せる言にて、書紀、万葉集に漢とも唐ともあり」

 中南米原産といわれる甘藷は、江戸後期、薩摩でまとめられた農学書『成形図説』に記されているように、「唐の国」中国から渡ってきた。

 その由来から考えるなら、全国の芋神杣のなかで最初に名をあげるべきなのは、沖縄・宮古島の長真氏旨屋(ちょうしんうじしおく)であろう。

『平良(ひらら)市史』などによると、貢物運搬の責任者・御物(ごもつ)宰領に任じられた旨屋は、尚寧6(文禄3、1594)年、中山(首里)に行っての帰途、暴風に遭遇し、中国に漂流する。3年後、帰郷する際、甘藷のつるを持ち帰り、島中に広めた。

 これが日本への伝来の最初という。

 琉球地方は土地が狭いうえに、痩せている。ただでさえ米や粟の収穫が少ないのに、自然の猛威にさらされた。ひとたび台風に襲われると、たちまち食糧の欠乏を来たし、

「富貴の人も銭箱を枕に餓死した」

 と島袋源一郎は『琉球百話』に書いている。カネはあっても食糧そのものがない悲劇である。

 旨屋がもたらした甘藷ははじめは救荒作物だったがやがて主食となる。

 島民の感謝の思いは深く、旨屋は平良市(いまは宮古島市)西仲宗根の小祠いわゆる御嶽(うたき)に祀られ、初甘藷を捧げる「芋豊礼(いもぶり)」の祭りが行われるようになったという。

 大正14年には宮古神社の境内に、「産業界之恩人記念碑」が建てられ、造林および宮古上布の功労者とともに旨屋の名が刻まれた。


▢ 町主催で行われる「野国総官まつり」=沖縄

 沖縄本島に最初に甘藷が伝えられたのは尚寧17(慶長10、1602)年という。

『嘉手納町史』などによると、進貢船の管理責任者の1人であった、通称野国総官と呼ばれる人物が、公務で中国・福州(福建省)に渡って帰国したとき、甘藷の鉢植えを持ち帰り、野国いまの嘉手納町内の集落に広めたという。

 本名も生没年も知られていない野国総官だが、人々は「芋大主(うむうふしゅ)」「蕃藷大王(うむふうすう)」とあがめた。

 野国から苗をもらい受けるとともに、栽培技術を学んで甘藷の普及を推進したのは、儀間真常(ぎましんじょう)である。真常は生長に献策して琉球中に栽培を奨励したという。

 その後、甘藷は五穀に代わる沖縄の重要作物となった。真常は甘藷普及のほかに、琉球木綿や製糖にも功績があり、沖縄最大の商業功労者といわれている。

 約100年後の康熙39(元禄13、1700)年、野国村地頭の野国正恒は、野国総官の偉功を追慕して、私費で石壇と石厨子をしつらえ、移葬した。毎年早春になると、土地の人々は墓前で豊年を祈ったという。

 乾隆16(寛延4、1751)年には子孫によって墓前に顕彰碑「総官野国由来記」が、昭和18年には「甘藷発祥之地」の碑が産業組合によって建てられた。いまこれらは米軍基地内にある。

 昭和8年に官民を挙げて世持(よもち)神社が那覇に創建されたとき、野国と真常は、江戸中期の琉球の政治指導者・蔡恩(さいおん)とともに祭神に祀られた。昭和30年には甘藷伝来350周年事業として嘉手納町内に野国総官宮が創建された。

 昭和54年からは町主催の嘉手納祭が「野国総官まつり」と名称変更され、12月初旬に賑やかに繰り広げられ、その一環として野国総官宮の祭典が執行されている。

 児童文学者・儀間海邦の『沖縄の少年』に

「部落の集まりや祭りの結びつきの強い沖縄では、子供から大人まで結束して総官祭を祝った」

 と書かれている。野国の名前はいまも生き続けているようだ。


▢ 英明なる薩摩家老「種子島久基」の功績=鹿児島

「治世に民を済うの功は食を給すより大なるは莫し、五穀の産出に限りありて、ひとたび凶饉に遇うば民たちまち食に乏しく、餓莩路に横わるを、はじめてかの甘藷を琉球国より猟て、海内に伝播してよりは、五穀の足らざるを補うて、生民の流離救えり、その徳沢もまた大なりというべし、その人を誰とかなす、種子島の十九代弾正久基なり」

『南島偉功伝』は種子島久基の遺徳を高く賞賛している。

 久基は島津氏の家臣で、1領国をなしていた種子島の第19代島主である。国家老の地位にあった元禄11(1698)年、薩摩の支配下にある琉球から甘藷の苗を移入した。

 甘藷が琉球で広く栽培されているのを知り、中山王尚貞と折衝し、甘藷1籠を贈呈されたのだという。

 実際に栽培を成功させたのは、種子島・下石寺に住む篤農家で、製塩業なども営んでいた大瀬休左衛門である。休左衞門は食べ方なども工夫した。

 この努力が甘藷をたちまちにして島内はおろか、藩中に普及させたという。国道58号沿いに「日本甘藷栽培地之碑」が建っている。

 甘藷の導入によって飢える者は食を得、病人は癒やされた。人々は久基の遺徳を偲び、家々で朝に夕に甘藷を床のうえに供え、久基の霊に捧げたという。

 久基は甘藷導入のほか、不毛の地であった国分地方の開田など、治水・文教・産業振興に優れた行政手腕を発揮した。

 ことに追慕の念の深い種子島では、没後122年目の文久3(1863)年、久基をまつる栖林神社が創建された。栖林大権現の神号は藩主から与えられたものだが、もともとは久基が晩年、栖林と号したことに由来する。


▢ 名代官の遺徳たたえる碑の数じつに200余り=島根

 島根で「芋代官」「芋殿さん」とあがめられたのは、天領・石見銀山領の第19代代官井戸平左衛門である。

『島根県史』は、

「究民救恤甘藷栽培の功労者として、はたまた至誠もってその職に尽くし、厚世利民の美蹟芳しき」

 と記す。

『大田市三十年誌』などによると、清廉さと誠実な勤務で将軍吉宗から黄金2枚を賞賜されたほどの平左衛門が、60歳の高齢で大森代官に登用されたのは享保16(1731)年だった。奉行大岡忠相の推挙という。

 着任の翌年、日本国中を大飢饉が襲った。享保の飢饉。平左衛門は

「領内荒涼もっとも酸鼻を極める」

 という領民の窮状を見るに見かねて、年貢を大幅に減免し、村によっては完全に免除したばかりでなく、私財を投じ、義捐金を募り、さらに幕府の許可を待たずに独断で米倉を開いた。領内からは1人の餓死者も出さなかったが、囲米放出の責任を取って自刃したとも伝えられる。

 平左衛門はさらに、旅の僧から

「薩摩の国に奇種あり」

 との話を聞き及び、薩摩領外への持ち出しを禁じられていた芋種100斤を幕府のお声掛かりで入手し、砂地の多い海岸地方の村々に試作させた。このため天明・天保の飢饉では多くの人命が救われたという。

 甘藷は年貢取立の対象外で、その有利さから、やがて中国地方全域に広まっていく。

 石見路を歩くと、平左衛門の戒名である「泰雲院」とか「井戸明府」などと刻書した、身の丈ほどもある頌徳碑を頻繁に見かける。

 米を作る農家でありながら、めったに米の飯を口にすることができなかった民衆が、平左衛門の遺徳をたたえて建てた「いもづか」で、数は200を超える。

 いまも芋名月の夜に、初物を碑前に供える「芋供養」が行われるという。

 明治12年には、篤農家たちの手で、平左衛門を祀る井戸神社が創建された。

 ただ平左衛門の甘藷導入はかならずしも成功しなかったようだ。甘藷の育成に功労があったのは、医師の青木秀清と篤農家の石田初右衛門で、江津地方では平左衛門とともに、甘藷の3大恩人と仰がれている。


▢ 難破した薩摩藩御用船を救った高潔の「芋爺さん」=静岡

 静岡・御前崎で「いもじいさん」といえば、大沢権右衛門だ。『榛原郡誌』などによると、権右衛門は半農半漁の人であった。

 もとより岩礁の多い御前崎は難所で、明和3(1766)年の春、御前崎の沖、いまの御前埼灯台があるあたりで、江戸に向かう薩摩の御用船・豊徳丸が難破した。

 当時74歳の権右衛門は2人の子供とともに救助に当たり、瀕死の船員23名の命と財物とを救った。

 その功は江戸の薩摩屋敷にまで聞こえてきた。やってきた2人の見届役が報奨金の20両を取らせようとしたのだが、平左衛門は固辞する。

「人の難を救うは常道なり、なんぞ報を望まんや、ただ願う、前夜舟人の食しいたる山吹色の煉油のごときものを賜らんことを」

 積み荷の略奪など当然だった時代のこと、感心した藩士は国外不出の甘藷3個と栽培法を伝授したという。砂地でまったく米が穫れない御前崎で、甘藷はまたたく間に広がっていった。

 町内の海福寺には権右衛門の墓碑がある。明治11年の100年忌に村民たちが五層の宝篋印形の墓を建立、41年には墓前の大銀杏の根元に「大沢権右衛門君碑」が建った。碑には

「おおよそ善を積んで厚徳を有する者は、後人欽慕して諸世に伝え、諸口に誦して赫々前日のごとし。なんじ大沢権右衛門君は、すなわちその人なり」

 とある。

 いま(平成7年秋)本堂の再建に合わせて覆屋などを改修中だが、年内には完成するという。

 子孫が健在だと知って、足を運んだ。ご当主の大沢平八郎さんは19代目。残念ながら、ご本人は不在だったが、奥さんの話では、

「戦前・戦中派の人で『いもじいさん』を知らない人はいません。むかしは学校で修身の時間に習いましたし、命日の芋供養にも参列したそうです」。

 いまも秋には町の有力者が勢揃いして、法要が営まれるという。

 19世紀になって栗林庄蔵が苦心して開発したという芋切干は同地方の名産である。


▢ 幕府に甘藷栽培を建白した昆陽は神職の末裔=千葉

 甘藷の全国的普及の功労者として忘れてならないのは、甘藷先生こと、青木昆陽である。

『昆陽先生甘藷の由来』などによると、昆陽は摂津の神職の末裔という。日本橋魚河岸の魚問屋に生まれたが、勉強が好きで、長じては京都の儒学者・伊藤東涯に学び、江戸に帰って寺子屋を開く。

 父母亡き後、6年の喪に服した篤行によって推挙され、奉行大岡忠相の知遇を得た昆陽は、享保18(1733)年、甘藷栽培の必要を建白した。

 長崎では100年以上も甘藷が栽培されていたから、その有利さを若き日に見聞していたのであろう。

 昆陽の『蕃藷考』は将軍吉宗の耳にも達した。甘藷栽培は幕府に採用され、昆陽は薩摩芋御用掛りとなり、同20年、薩摩から取り寄せられた甘藷は小石川後楽園、千葉・馬加(まくわり。いまの幕張)で試作される。

 しかし全国普及への道のりは必ずしも平坦ではなかったようだ。

 上総国不動堂というところでも試作されたが、運の悪いことに不漁の原因を押しつけられたあげくに、有毒だとの風説を呼んで、普及しなかった。

 馬加だけが栽培を続け、50年後の天明の飢饉をしのぐことができた。このためようやく甘藷の評価が高まり、馬加は苗の生産で莫大な利益を得たという。

 当然、昆陽の評価も高まり、弘化3(1846)年には甘藷試作地の向かい、鎮守・秋葉神社の境内に昆陽神社が創建された。

 大正8(1919)年には村の有志たちによって「試作之地記念碑」が試作地跡に建てられ、神社の改修も行われた。

 千葉市の京成幕張駅のすぐ前に昆陽神社がこの(平成7年)春まで鎮座していたが、いまはない。というのは、すぐそばのJRと京成線が並行して走る踏切が朝夕は「開かずの踏切」になってしまうことから、道路を地下に通す工事の真っ最中だからである。

 中須賀武文宮司は

「神社は5年後、道路が完成次第、再興される」

 と語る。


▢ 義人を祀るということ

 柳田国男は『海南小記』に書いている。

「水に乏しい岬や島のかげで、以前は多分に人を住ましむる望みもなかった畠場が、この唐芋の輸入によって、はじめて意味における安楽郷となり、瞬くうちに今日のごとき人口密集を見るに至ったのである。

 ……この小さな島国の山国に、5900万人を盛り得たのは、一半はすなわちカライモの奇蹟である。あるいは激語してカライモの災いといった人さえもあるのである」

 稲作不適地の人々、とりわけ貧しい農民たちが、凶作の年であっても一定の収穫を得られる甘藷をありがたく思ったのは想像に難くない。そこに芋神様の信仰が生まれるのだが、穀霊信仰を基本とする稲作信仰と違って、芋神様は甘藷の伝来と普及の功労者を神式もしくは仏式で祀るのが特徴である。

 芋神様のような、郷土の義人をまつる神社もしくは信仰は近世以前にはほとんど見られない。芋神様は近世の所産である。

 芋神様の信仰のもうひとつの特徴は、社会批判あるいは体制批判がうかがえることである。

 民俗学者の宮本常一は『甘藷の歴史』に

「この作物に関心を持ち、これを広めていった人々のほとんどが、その時代に対して単なる謳歌者ではなく、何らかの意味でその時代や周囲に対して批判も持ち、抵抗も感じ、あるいは時世改良の志の厚かった人々である」

 と書いている。

 だとすれば、地方での芋神様顕彰の神社創建は、国家への功労者を祭神とする神社を全国に創建させていった明治政府の動きとは一線を画すことになる。

 芋神様への信仰は「芋食い」を笑う、富と権力をにぎる階層への反抗でもあったのかも知れない。

「芋代官」などの徳行は昨今の高級官僚の腐敗ぶりとも雲泥の差であるが、現代ほど義人と無縁な時代はない。人のため、公のために身命をなげうつなどという行為は、ややもすれば物笑いの種になりかねない。

 そもそも「義人」なる日本語を聞かなくなって、久しい。「芋食い」という差別語が「1億総グルメ時代」に意味を失ってしまったように、「義人」も死語になったのだろうか。

 現代人にとって、義人信仰、ことに芋神様の遺徳を顕彰し、崇敬する信仰が意味を失ってしまったのだとしたら、寂しい。


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