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東京・川の手の「水神伝説」4題──郷土の物語は風前の灯火 [神社]

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東京・川の手の「水神伝説」4題
──郷土の物語は風前の灯火
(「神社新報」平成7年6月12日号から)
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▽ 千住天王

 隅田川(旧荒川)には江戸時代まで橋がなかった。

 最初に架橋工事を手がけたのは伊奈忠次である。何しろ「渡裸(とら)川」の異名を持つ暴れ川に橋を架けようというのだから、一筋縄でいくはずがない。

 忠次は千住大橋のたもとの熊野神社に工事の完成を断食祈願した。その甲斐あってか、大橋は文禄3(1594)年に完成し、その後、同社は橋の守り神として崇敬され、架け替えのたびに社殿もまた改修されるようになったという。

 江戸中期・宝暦年間まで、大橋では農作物の豊凶を占う綱引きが、千住天王(素盞雄神社)の例祭の神事として奉納され、江戸名物となっていた。


▽ 小菅どん

 葛飾区小菅の東京拘置所あたりは、かつて10万800余坪におよぶ伊奈氏の下屋敷があった。徳川家光が伊奈忠次に賜ったのである。歴代将軍はここを鷹狩りの際の御膳所、休息所として利用し、小菅御殿と称した。

 その小菅に洪水のとき村人の命を救った「小菅どん」という蛇の神様の伝説が伝わっている。

 ある夏、長梅雨で川が氾濫し、村は水に浸かった。橋は流され、逃げるに逃げられない。村人たちは槐(えんじゅ)の大木がある古い塚に逃げ延びたが、風雨は強まるばかり。

 そのとき塚に棲み着いていた大蛇が濁流に身を躍らせて、対岸までの橋をこしらえた。村人たちが背中をつたって渡りきったところで、大蛇は力尽きて濁流に呑み込まれる。

 嵐が収まって村人は塚に小菅どんを祀る社を建てたという。しかしいまでは所在すら分からない。


▽ 蛇橋

 拘置所の傍らを綾瀬川が流れている。かつては増水すると小菅御殿をしばしば濁流が襲った。

 そこで上流の毛長川と伝宇川、綾瀬川が合流するあたりに堤防を造ったのだが、今度は大曽根以北の集落が水害を受けることになった。

 ある年、やはり村は洪水の危機にさらされた。危急のときにあって、名主の新八は堤を破り、濁流を小菅方向に流すことを決意する。

 だが、事前に露見して、下流の村民に襲われ、新八は命を失う。

 家は断絶、家族は村を追われた。新八の母は発狂し、「新八や、蛇になれ」と泣き叫んで、綾瀬川に身を投げたという。

 最近まで新八母子が命を落とした地に、蛇橋という橋と墓碑があったようだが、いまは穏やかな流れがあるばかりである。


▽ 源右衛門

 葛飾区の中央を流れる中川のほとり、西水元の堤上に、ひときわ大きな銀杏と水神社の祠がある。以前は「猿町の渡し」があった場所だが、何の説明もありはしない。

 しかしここには人柱となった猿新田の老名主・源右衛門の伝説が伝わっている。

 文政3(1820)年、大洪水が襲い、猿が又堤の決壊は時間の問題となった。

 源右衛門は「老い先短いわが命、江戸50万人に成り代わり人柱となって堤を守らん」と覚悟の白装束姿で、念仏を唱えながら濁流に身を投じた。

 その直後、不思議にも水勢は衰え、堤防は壊れずにすんだという。


▽ 伝説のつまみ食い

 いま郷土の伝説は風前の灯火のように見える。

 柳田国男は、歴史家による伝説のつまみ食いが、日本人が過去に関して「哀れな知識」しか持てない原因だ、と非難した。

 私たちが過去の記憶を共有できなくなっていくとき、祖先崇拝や産土(うぶすな)信仰は観念的、抽象的にならざるを得ないだろう。

 江東デルタ地帯を歩くとき、神社の境内の多くが自然堤防の微高地にあることを知る。それは水害時の備えであると同時に、被災民への炊き出し場であったからだという。

 平時にあっても、危機にあっても、神社は人々の命と心の支えであった。いまはどうであろうか。

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