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頭山満とイスラム───亡命ムスリムを支援した戦前の日本人 [イスラム]

以下は斎藤吉久メールマガジン(2013年4月21日)からの転載です


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頭山満とイスラム───亡命ムスリムを支援した戦前の日本人
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 ボストン爆弾テロ事件の容疑者兄弟は一家がチェチェン共和国出身で、敬虔なイスラム教徒だと伝えられます。祖国との関係は途絶え、イスラム過激派との関連もないようですが、だとすると、なぜ2人が事件を起こしたのか、今後の解明が待たれます。

 というわけで、今日は戦前の日本とイスラムとの交流史について書いた拙文を転載します。宗教専門紙(平成18年4月)に掲載された記事を一部、加筆少し修正しています。

 戦前の日本では「国家神道」による宗教弾圧があったかのような歴史論がしばしば語られていますが、実際はそれとはまったく異なる事実がありました。俗に「右翼の総帥」といわれる頭山満たちがロシア革命後、日本に亡命してきたムスリムたちを支援していたのです。



 今年平成18年は頭山満(とうやま・みつる。安政2~昭和19年)の生誕150年に当たり、2月には年祭が盛大に執り行われました。

 頭山は、戦前世代にとっては知らぬ者のいない、いわゆる大アジア主義の巨人ですが、敗戦後、占領軍は頭山たちが興した玄洋社を「侵略戦争推進団体」と決めつけて解散させ、左翼色の強い戦後の学界、言論界は「負」のイメージに染まった頭山を顧みることがありませんでした。このため長い間、多くの日本人の記憶から消えていました。

 けれども近年になってようやく歴史の封印が解かれつつあり、中国や朝鮮との深い関わり、とくに金玉均や孫文などアジアの革命家を支援していたことなどが一般にも知られるようになってきました。

 頭山の功績で異色なのはここで取り上げるイスラム教徒への支援で、ソ連の圧政を逃れて亡命してきたイスラム教徒たちが故国にあったとき以上に平安なる生活を送っただけでなく、戦時下の日本に協力したという史実は、一般に流布している「国家神道による他宗教迫害」という常識論的な近現代史の書き換えを迫るものといえます。


▽ 東京モスクの建設

 東京都渋谷区大山町──。明治神宮にほど近い住宅街に、異国情緒たっぷりの円形ドームと尖塔を備えた本格的なモスク「東京ジャーミイ」が建っています。現在の建物は6年前に完成した2代目で、「ケーキのように美しくそびえる」と形容された初代モスクがここに落成したのはおよそ70年前の昭和13年5月。そこには知られざる歴史があります。

 当時の新聞報道によると、モスクの建設は在日イスラム教徒にとって20年来の夢であったといわれます。

 落成式は預言者マホメットの誕生日に合わせて行われ、イエメン王子ほか世界40数カ国の使節が参列しました。午後2時、イスラム聖職者が塔にのぼり、「オーオー」と開会の合図を送ると、頭山がとびらを開け、参列者がしずしずと入場しました。続く野外での祝賀式では、「君が代」斉唱のあと、満州国皇帝溥儀の従弟・溥侊の発声による「天皇陛下万歳」、松井石根大将の音頭で「回教徒万歳」が唱和されました。

 なぜ頭山が開扉することになったのでしょうか。記事は「日本人の手ではじめて造られたモスク」で、イスラム教徒が建てたモスクではないと説明しています。どういうことなのでしょう。

 東京ジャーミイの資料によれば、1917年にロシアで共産革命が起きたとき、トルコ系(トルキスタン)イスラム教徒が大挙して国外に避難することになりました。モスクワとウラル山脈との間に位置するカザン州のトルコ人の多くが満州を経由して日本にやってきました。渋谷・富ヶ谷小学校の分校という位置づけで避難民たちの小学校が設立され、日本政府が援助して礼拝堂やイスラム学校が建設されたと記述されています。

 ところが「日本政府の援助」ではなく、イスラム世界を含めた大アジアの復興を目指していた民間の有志による義侠の精神から、亡命者たちに深い同情を寄せたことがモスク建設の始まりだった、とする記録もあります。

 日本イスラム界の長老であった小村不二男氏の『日本イスラーム史』(日本イスラーム友好連盟)によると、尊皇愛国と反共排ソを主義主張とし、しかもイスラムにきわめて深い理解力を持っていたのが実川時次郎、岩田愛之助、権藤成卿らで、彼らは杉浦重剛、三宅雪嶺らとのつながりもあって、やがてその熱情は頭山や内田良平を動かした。

 その後、犬養毅や大隈重信が共鳴して財界に呼びかけ、山下汽船社長が土地約五百坪を提供、森村、三井、三菱、住友の各財閥が寄金し、モスクが建設された、と記録されています。

 頭山はモスク建設の要の位置にいたことになります。


▽ イスラム・ブーム

 東京モスクが完成した昭和13年は、日本宗教史の節目となる宗教団体法案が国会に提出された年であると同時に、日本のイスラム史にとっても転換期でした。この年を境に、林銑十郎前首相・陸軍大将を初代会長とする大日本回教協会を中心に、外国人ではない、日本人イスラム教徒の組織的な活動が開始されたのです(重親知左子「宗教団体法をめぐる回教公認運動の背景」)。

 宗教団体法が成立、公布されたのは翌14年4月です。最初に宗教法案が提案されてからじつに40年の歳月を経て、名前も改まり、非常時の波に乗って国会を通過したのでした。

 同法は治安維持法とともに戦前・戦中の宗教弾圧を象徴する元凶のように見なされ、敗戦直後に占領軍によって廃止されましたが、じつは宗教団体法の審議過程では、「弾圧」どころか、イスラム教公認運動が起きています。

 イスラム教徒は同法第一条の「宗教団体とは教派神道、仏教宗派およびキリスト教その他の宗教の教団」に「回教」の二文字を入れるよう強く政府に要望しました。イスラム教は世界三大宗教の一つであるから、日本で唯一の宗教関係法ができようとするいま、これを見落とすべきではないし、満洲や蒙古、北支などに多くのイスラム教徒がいるので、大陸政策上も必要だ、というのがその主張でした(杉山元治郎『宗教団体法詳解』)。

当時の新聞には、イエメン王子に随行して来日した同国宗教大臣が「防共日本よ、イスラム教を公認せよ」と語るインタビュー記事が大きく取り上げられていますが、イスラム教公認運動には大日本回教協会や内田良平の黒龍会などが積極的に関与したといわれます。

 結局、努力は実らず、神仏基三教体制に加わることはできませんでしたが、14年11月には上野のデパートでイスラム団体が主催し、中央官庁や新聞社が後援、宮家ゆかりの品も展示する日本史上空前絶後の「回教圏展覧会」が開かれるなど、イスラム・ブームが起きました。

 そして3年後、日米開戦を受け、17年4月に結成された国策機関・興亜宗教同盟は神仏基三教のほかにイスラム教が加えられ、イスラム教は事実上、公認されました。


▽ 「米英撃滅」を祈る

 外国人であれ、日本人であれ、イスラム教徒は戦争中、国策遂行への協力を惜しみませんでした。

 当時の新聞には、「回教徒児童の献納」「回教徒も聖鍬、宮城前で奉仕」「天帝に祈る回教徒。鬼畜米英撃滅に神助あれ」の記事が載っています。

 先述の『日本イスラーム史』によれば、日本人イスラム教徒による戦争協力の白眉はインドネシアのジャワ、セレベス両島での対イスラム教徒工作であったといいます。ジャワでは優秀なイスラム青年が育成され、のちの独立運動の闘士や独立後の指導者が輩出されました。

 日本のイスラム教徒は国に身を捧げたことを誇りとしています。

 祖国の非常時に国民が身を挺するのは当然で、そこには宗教による違いはないはずですが、キリスト教とイスラム教ではなぜか好対照を見せます。

 むろんキリスト者たちも国家の戦争政策に大いに協力したのですが、戦後になると一転して自身の戦争協力を懺悔する一方で、宗教弾圧の存在を強く主張しています。「宗教が政治の手段として利用された。ある宗教を特別扱いし、他の宗教は弾圧してはばからなかった」(飯坂良明『キリスト者の政治的責任』)というようにです。

 けれどもイスラム教徒は「そんな(宗教弾圧の)話は聞いたことがない」と否定します。
  

イスラムの怒りはなぜ収まらないのか、ほか [イスラム]

以下は旧「斎藤吉久のブログ」(平成19年12月3日月曜日)からの転載です


◇10月から週刊(火曜日発行)の「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンがスタートしました。
先週発行の第7号のテーマは「白酒と黒酒──新嘗祭に捧げられる2種類の神酒」です。
http://www.melma.com/backnumber_170937/


〈〈 本日の気になるニュース 〉〉


1、「AFPBB News」12月2日、「テディベアに『ムハンマド』で禁固刑の英語教師の恩赦求め英上院議員がスーダン入り」
http://www.afpbb.com/article/disaster-accidents-crime/crime/2320409/2421265

 テディベア事件が沈静化しないようです。イスラム教徒のイギリス上院議員がスーダン大統領への面会を求めています。

 スーダンのイスラム教徒たちの怒りはなぜ収まらないのでしょうか。以前、デンマークで起きた風刺漫画事件のとき、複数のイスラム教徒に取材したことがあります。

 そのときの話を総合すると、第一にイスラム教ではユダヤ教やキリスト教と同様、唯一神が信仰され、偶像崇拝が禁止されます。偶像禁止は「万物を創造した絶対唯一で無二の超越者」への信仰から導かれ、時空の創造者であり、時空に拘束されないアッラーを具象化することは不可能であり、具象化は信仰に反するとされています。

 ユダヤ教やキリスト教と異なるのは、偶像崇拝の禁止がより徹底していて、具象的な宗教的絵画や彫刻までもが禁止されていることです。キリスト教世界ではイエス・キリストを題材に絵画や彫刻、映画などが作られますが、イスラムではムハンマドを具象化することは認められていません。30年前に中東で製作された『ザ・メッセージ──砂漠の旋風』はムハンマドを主人公にした唯一の映画といわれますが、ムハンマド役の俳優は登場しません。

 日本でも10年ほど前、大手出版社がムハンマドを漫画にし、そして事件が起きたことがありました。

 当時の報道によれば、小学生向けの学習漫画『世界の歴史』シリーズの第7巻「イスラム帝国と預言者マホメット」に、ターバン姿のムハンマドが描かれていました。イスラム団体が「信仰を傷つける」と抗議し、同社は謝罪の上、出荷を取りやめ、流通していた約1000部を回収しました。7巻は「西ヨーロッパの成立とカール大帝」に差し替えられました。

 イスラム教はイスラム教徒への教えであって、異教徒にまで遵守を求めるべきではありません。実際、イスラム教徒が異教徒に禁酒の戒律を要求したりはしませんが、「ムハンマドは別」のようです。

 コーランに登場する24人の預言者の中でもっとも偉大な最終預言者と信じられているからです。信仰告白の「アッラーのほかに神はなく、ムハンマドはその使徒である」が端的に示しているように、ムハンマドを最後の預言者と信じることはイスラムの信仰の神髄です。ムハンマドへの信仰が「表現の自由」という、いわばキリスト教文化圏の思想によって侵されることに、イスラム教徒は耐えられないのです。

 ましてやムハンマドが中傷されることはとうてい許されないのです。

 約20年前、イギリスの作家サルマン・ラシディがムハンマドの生涯を題材にした小説『悪魔の詩』を書きました。イスラムへの揶揄がちりばめられていたため、イランのイスラム指導者ホメイニは「ムハンマドとイスラム教を冒涜した」として「死刑宣告」をしました。イタリアでは翻訳者らが襲撃され、日本でも翻訳した大学教授が何者かに殺害されるという事件が起きました。

 先述した日本の出版社の事件では、版元が折れて、事態は理性的に収拾されましたが、ラシディはいまなお警察の保護下にあるともいわれます。

 しかし、風刺漫画事件もそうでしたが、いくらイスラムの教えを分析しても、抗議行動の激しさは説明しきれないのではないかと思います。なぜなのか。

 イスラム教徒による破壊といえば、アフガニスタン・バーミアンの仏教遺跡爆破が思い起こされます。世界最大の石仏はイスラム原理主義政権タリバンによって数年前、完全に破壊されました。しかしイスラム教が偶像を禁止しているとはいえ、破壊を教えているわけではないことは、エジプトのスフィンクスがイスラム時代にも守られたことから理解されます。つまり破壊行為は宗教的理由では説明できません。

 スーダンでの事件は今後、どこまで発展するのでしょう。もしかすると、何か別の要素が見えてくるかも知れません。


2、「MNS産経ニュース」12月2日、「米情報機関、中国の核戦略開発を過大評価。ニクソン政権時」
http://sankei.jp.msn.com/world/america/071202/amr0712021913002-n1.htm

 過大評価がニクソン訪中、関係改善へとつながった、ということでしょうか。逆にいえば、当時、中ソ対立の恐怖におびえていた中国は、ニクソン政権に「過大評価」させることにまんまと成功したということなのでしょう。

 相手が見えずに対応を誤ることは人間の常ですが、国際政治の世界では取り返しの付かないような失敗を犯すこともままあります。大量兵器があるとして、アメリカがイラク攻撃に踏み切ったのもそうでしょうし、かつて占領軍が「国家神道」を「軍国主義、超国家主義」の主要な源泉と見て、被占領国の宗教に干渉してはならないとする国際法に違反し、神道撲滅運動に血道を上げたのも、「国家神道」を過大評価していたからなのでしょう。

 占領軍は、「国家神道」が狂信的宗教であり、その中心施設こと靖国神社だと本気で考えていたようです。日本にやってきたアメリカ人はどれほど狂信的なのか、見定めようと、昭和20年11月の臨時招魂祭・合祀祭を従来の形式でやるよう求めました。自由に泳がせてみて、その結果から存廃を判断しようというのでした(小林健三ら『招魂社成立史の研究』昭和44年)。

 軍楽演奏をすることなど心配する向きもありましたが、結果はまったく逆で、「たいへん荘厳でよかった」と好評でした。

 さらにこんなこともありました。直会の席で、ダイク准将は「職員は何人いるか?」「職員に召集はあるのか?」と聞いたといいます。

 「靖国神社の職員でも、何らの特典はなく、一般と同じように普通の兵卒として応召がある」

 どうやらアメリカは靖国神社の職員が戦争指導の中心にいるものと本気で考えていたようです。神道指導者が世界的戦争を直接、指導する立場にいたのだとすれば、それこそ国家神道です。

 しかしそんな事実はまったくありません。こうして占領軍は自分たちが風車に立ち向かうドン・キホーテであったことを知ることになったのでしょう。

 占領前期には駅の注連縄や門松までも撤去したのに、占領後期になると、そのような神道敵視政策はとられなくなり、松平参議院議長の参議院葬は神式で行われ、吉田茂首相の靖国参拝も認められるようになったのでした。

 しかしなぜ占領軍はドン・キホーテを演じてしまったのか、は謎のまま残ったのです。ニクソンはなぜ誤ったのか、と同様、大きな研究テーマです。


3、「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」12月3日、「M15(英国情報局保安部)が銀行に警告、『中国国有企業の金融活動に警戒せよ』」
http://www.melma.com/backnumber_45206_3921192/

 中国が各国に政治的謀略資金をばらまいている、というのでイギリスの特定銀行に対して、異例の警告を発したのだそうです。

 各国とも警戒に努めているようですが、日本は無防備です。イージス艦まで見せようとしたのですから。

4、「MNS産経ニュース」12月2日、「対中円借款に感謝。唐家セン氏」
http://sankei.jp.msn.com/world/china/071202/chn0712021829003-n1.htm

 温家宝は「感謝」しなかったが、立場の異なる、そして日本よく知る唐家センは「感謝」の言葉を述べた。心憎いばかりです。

 それにしても何人もの大臣が連れだって訪中し、昔の政治家と会談してどうするつもりなんでしょう。他に会ってくれる要人がいないんでしょうか。


 以上、本日の気になるニュースでした。

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アメリカ同時多発テロから5年 [イスラム]

以下は旧「斎藤吉久のブログ」からの転載です


「9.11」同時多発テロから5年がたちました。

 あの痛ましい事件のあと、それでなくとも20年以上も戦乱のさなかにあるアフガニスタンが連日、国際社会からの武力攻撃をを浴びました。テロ事件の首謀者とされるオサマ・ビンラディンとそのテロ組織アル・カイダ、そして彼らをかくまっているタリバン政権を標的とする、米英軍などの激しい「報復」でした。

 そのころ私は宗教専門紙の連載で、東西文明を結ぶシルクロードの要衝であるアフガニスタンを拠点とし、国際社会を敵にまわしたテロ事件はなぜ起きたのか、何がこの国を、「目には目を」の世界的規模のテロ戦争の舞台に仕立てたのか、について書きました。

 ビンラディンそしてタリバンは米英軍の前に膝を屈するだろうか、と私は記事の中で自問しました。コーランにはこう書かれています。「神を持たぬ異端者にムスリムを支配する権利はない」。聖戦に敗北はあり得ないのです。だとすれば、イスラム勝利の日まで戦いは続くのではないか、というのが私の結論でした。

 歴史をさかのぼれば、19世紀、アジア諸地域がヨーロッパ列強の侵略にさらされていたころ、アフガンも例外ではありませんでした。

 英露両国のはざまで、困難な国家運営を迫られました。ハーン国王がロシアと友好条約を結ぶと、これを「対ロシア接近」と見たイギリスは軍隊を侵入させます。第一次アフガニスタン・イギリス戦争です。

 カブールは陥落し、国王は降伏するのですが、異教徒の支配を許さないアフガン人のゲリラ戦は続き、結局、16000人のイギリス軍は全滅しました。

 そのような歴史からすれば、イスラムの敗北はない、というのが私の予想だったのですが、5年後のいま、その予想は的中しました。アフガンで、さしてイラクで戦乱は泥沼化する一方です。

 5年前の記事は「アーカイヴズ」に近日中にアップする予定です。

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頭山満とイスラム──ムスリムを支援した戦前の日本 [イスラム]

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頭山満とイスラム──ムスリムを支援した戦前の日本
(「神社新報」平成18年4月17日)
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今年(平成18年)は頭山満(安政2~昭和19年)の生誕150年に当たり、2月には年祭が盛大に行われました。

頭山は、戦前世代にとっては知らぬ者のいない、いわゆる大アジア主義の巨人ですが、敗戦後、占領軍は頭山たちが興した玄洋社を

「侵略戦争推進団体」

と決めつけて解散させ、左翼色の強い戦後の学界、言論界は「負」のイメージに染まった頭山を顧みることがありませんでした。このため長い間、多くの日本人の記憶から消えていました。

けれども近年になってようやく歴史の封印が解かれつつあり、中国や朝鮮との深い関わり、とくに金玉均や孫文などアジアの革命家を支援していたことなどが一般にも知られるようになってきました。

頭山の功績で異色なのはここで取り上げるイスラム教徒への支援で、ソ連の圧政を逃れて亡命してきたイスラム教徒たちが故国にあったとき以上に平安なる生活を送っただけでなく、戦時下の日本に協力したという史実は、一般に流布している

「国家神道による他宗教迫害」

という常識論的な近現代史の書き換えを迫るものといえます。


▢ 東京モスクの建設

東京都渋谷区大山町──。明治神宮にほど近い住宅街に、異国情緒たっぷりの円形ドームと尖塔を備えた本格的なモスク「東京ジャーミイ」が建っています。現在の建物は6年前に完成した2代目で、
尖塔.gif
「ケーキのように美しくそびえる」

と形容された初代モスクがここに落成したのはおよそ70年前の昭和13年5月。そこには知られざる歴史があります。

当時の新聞報道によると、モスクの建設は在日イスラム教徒にとって20年来の夢であったといわれます。落成式は預言者マホメットの誕生日に合わせて行われ、イエメン王子ほか世界40数カ国の使節が参列しました。午後2時、イスラム聖職者が塔にのぼり、

「オーオー」

と開会の合図を送ると、頭山がとびらを開け、参列者がしずしずと入場しました。続く野外での祝賀式では、「君が代」斉唱のあと、満州国皇帝溥儀の従弟・溥侊の発声による

「天皇陛下万歳」、

松井石根大将の音頭で

「回教徒万歳」

が唱和されました。

なぜ頭山が開扉することになったのでしょうか。記事は

「日本人の手ではじめて造られたモスク」

で、イスラム教徒が建てたモスクではないと説明しています。どういうことなのでしょう。

東京ジャーミイの資料によれば、1917年にロシアで共産革命が起きたとき、トルコ系(トルキスタン)イスラム教徒が大挙して国外に避難することになりました。モスクワとウラル山脈との間に位置するカザン州のトルコ人の多くが満州を経由して日本にやってきました。渋谷・富ヶ谷小学校の分校という位置づけで避難民たちの小学校が設立され、日本政府が援助して礼拝堂やイスラム学校が建設されたと記述されています。

ところが

「日本政府の援助」

ではなく、イスラム世界を含めた大アジアの復興を目指していた民間の有志による義侠の精神から、亡命者たちに深い同情を寄せたことがモスク建設の始まりだった、とする記録もあります。

日本イスラム界の長老であった小村不二男氏の『日本イスラーム史』(日本イスラーム友好連盟)によると、尊皇愛国と反共排ソを主義主張とし、しかもイスラムにきわめて深い理解力を持っていたのが実川時次郎、岩田愛之助、権藤成卿らで、彼らは杉浦重剛、三宅雪嶺らとのつながりもあって、やがてその熱情は頭山や内田良平を動かした。その後、犬養毅や大隈重信が共鳴して財界に呼びかけ、山下汽船社長が土地約五百坪を提供、森村、三井、三菱、住友の各財閥が寄金し、モスクが建設された、と記録されています。

頭山はモスク建設の要の位置にいたことになります。


▢ イスラム・ブーム

東京モスクが完成した昭和13年は、日本宗教史の節目となる宗教団体法案が国会に提出された年であると同時に、日本のイスラム史にとっても転換期でした。この年を境に、林銑十郎前首相・陸軍大将を初代会長とする大日本回教協会を中心に、外国人ではない、日本人イスラム教徒の組織的な活動が開始されたのです(重親知左子「宗教団体法をめぐる回教公認運動の背景」)。

宗教団体法が成立、公布されたのは翌14年4月です。最初に宗教法案が提案されてからじつに40年の歳月を経て、名前も改まり、非常時の波に乗って国会を通過したのでした。

同法は治安維持法とともに戦前・戦中の宗教弾圧を象徴する元凶のように見なされ、敗戦直後に占領軍によって廃止されましたが、じつは宗教団体法の審議過程では、「弾圧」どころか、イスラム教公認運動が起きています。

イスラム教徒は同法第一条の

「宗教団体とは教派神道、仏教宗派およびキリスト教その他の宗教の教団」

に「回教」の二文字を入れるよう強く政府に要望しました。イスラム教は世界三大宗教の一つであるから、日本で唯一の宗教関係法ができようとするいま、これを見落とすべきではないし、満洲や蒙古、北支などに多くのイスラム教徒がいるので、大陸政策上も必要だ、というのがその主張でした(杉山元治郎『宗教団体法詳解』)。

当時の新聞には、イエメン王子に随行して来日した同国宗教大臣が

「防共日本よ、イスラム教を公認せよ」

と語るインタビュー記事が大きく取り上げられていますが、イスラム教公認運動には大日本回教協会や内田良平の黒龍会などが積極的に関与したといわれます。

結局、努力は実らず、神仏基三教体制に加わることはできませんでしたが、14年11月には上野のデパートでイスラム団体が主催し、中央官庁や新聞社が後援、宮家ゆかりの品も展示する日本史上空前絶後の「回教圏展覧会」が開かれるなど、イスラム・ブームが起きました。

そして3年後、日米開戦を受け、17年4月に結成された国策機関・興亜宗教同盟は神仏基三教のほかにイスラム教が加えられ、イスラム教は事実上、公認されました。


▢ 「米英撃滅」を祈る

外国人であれ、日本人であれ、イスラム教徒は戦争中、国策遂行への協力を惜しみませんでした。

当時の新聞には、

「回教徒児童の献納」
「回教徒も聖鍬、宮城前で奉仕」
「天帝に祈る回教徒。鬼畜米英撃滅に神助あれ」

の記事が載っています。

先述の『日本イスラーム史』によれば、日本人イスラム教徒による戦争協力の白眉はインドネシアのジャワ、セレベス両島での対イスラム教徒工作であったといいます。ジャワでは優秀なイスラム青年が育成され、のちの独立運動の闘士や独立後の指導者が輩出されました。

日本のイスラム教徒は国に身を捧げたことを誇りとしています。

祖国の非常時に国民が身を挺するのは当然で、そこには宗教による違いはないはずですが、キリスト教とイスラム教ではなぜか好対照を見せます。

むろんキリスト者たちも国家の戦争政策に大いに協力したのですが、戦後になると一転して自身の戦争協力を懺悔する一方で、宗教弾圧の存在を強く主張しています。

「宗教が政治の手段として利用された。ある宗教を特別扱いし、他の宗教は弾圧してはばからなかった」(飯坂良明『キリスト者の政治的責任』)

というようにです。

けれどもイスラム教徒は

「そんな(宗教弾圧の)話は聞いたことがない」

と否定します。


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ムハンマド風刺漫画暴動 ──宗教的理由だけでは説明できない [イスラム]

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ムハンマド風刺漫画暴動
──宗教的理由だけでは説明できない
(「神社新報」平成18年4月3日)
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▽ イスラムを冒涜


 北欧デンマークの有力紙がイスラム教の預言者ムハンマド(マホメット)を風刺する漫画を掲載したことに対するイスラム教徒の抗議行動が世界的に拡大し、激しさを増してゐる。
尖塔.gif
 海外からの報道によると、発端は、昨年(平成17年)九月末に同国ユランズ・ポステン紙が「表現の自由」に関する記事とともに、十二枚の漫画を掲載したことだった。たとへばその一枚は、ヒゲをたくはへたムハンマドが導火線に火のついた爆弾型のターバンを頭に巻き、そのターバンにはイスラムの信仰告白がアラビア語で書き入れられてゐた。

 イスラム教徒による自爆テロを連想させるのに十分な衝撃的な絵を、同国在住のイスラム教指導者は「尾ひれ」をつけて世界中のイスラム教徒に知らせ、

「デンマーク人は我々を憎んでゐる」

 と訴へたことから、イスラムの怒りが爆発した。

 事件には伏線がある。ある作家がイスラムの歴史をデンマークの子供たち向けに一冊の本にまとめようと考へ、ムハンマドの挿絵を募ったところ、イスラム教徒が抗議した。

「描いたら殺すぞ」

 と脅迫された挿絵作家もゐたといふ。これに対してポステン紙は「表現の自由」の保障を証明しようとムハンマドのイラストを募集し、応募作十二枚を掲載、これにイスラム教徒は

「冒涜」

 と反撥したのである。

 在留邦人からの情報では、事件はしばらくして収束に向かひ、年末には一件落着したかに見られてゐた。ところが、今年(平成18年)一月末になって仏国や独など欧州の他国の新聞が漫画を転載したことでぶり返され、デンマーク製品の不買運動が広がったばかりでなく、「表現の自由」擁護の議論が高まるのに比例してイスラムの反撥は強まり、中東地域のデンマーク大使館放火へと発展し、さらに混乱は世界に広がった。


▽ 偶像禁止の徹底


 イスラム教徒の怒りはなぜかくも激しいのか。複数のイスラム教徒に取材した。

 話を総合すると、第一にイスラム教はユダヤ教やキリスト教と同様、唯一神を信仰し、偶像崇拝を禁止する。偶像禁止は

「万物を創造した絶対唯一で無二の超越者」

 への信仰から導かれ、時空の創造者であり、時空に拘束されないアッラーを具象化することは不可能であり、具象化は信仰に反するとされてゐる。

 ユダヤ教やキリスト教と異なるのは、偶像崇拝の禁止がより徹底してゐて、具象的な宗教的絵画や彫刻までが禁止されてゐることだ。キリスト教世界ではイエス・キリストを題材に絵画や彫刻、映画などが作られるが、イスラムではムハンマドを具象化することは認められない。三十年前に中東で製作された『ザ・メッセージ──砂漠の旋風』はムハンマドを主人公にした唯一の映画といはれるが、ムハンマド役の俳優は登場しない。

 日本でも十年ほど前、大手出版社がムハンマドを漫画にし、そして事件が起きた。当時の報道によれば、小学生向けの学習漫画『世界の歴史』シリーズの第七巻「イスラム帝国と預言者マホメット」に、ターバン姿のムハンマドが描かれてゐた。イスラム団体が

「信仰を傷つける」

 と抗議、同社は謝罪の上、出荷を取りやめ、流通してゐた約千部を回収した。七巻は「西ヨーロッパの成立とカール大帝」に差し替へられた。

 イスラム教はイスラム教徒の教へであって、異教徒にまで遵守を求めるべきではない。実際、イスラム教徒が異教徒に禁酒の戒律を要求したりはしないが、「ムハンマドは別」らしい。コーランに登場する二十四人の預言者の中でもっとも偉大な最終預言者と信じられてゐるからだ。信仰告白の

「アッラーのほかに神はなく、ムハンマドはその使徒である」

 が端的に示してゐるやうに、ムハンマドを最後の預言者と信じることはイスラムの信仰の神髄である。ムハンマドへの信仰が「表現の自由」といふいはばキリスト教文化圏の思想によって侵されることに、イスラム教徒は耐へられないのである。


▽ 教へに合はない


 ましてやムハンマドが中傷されることはとうてい許されない。

 約二十年前、英国の作家サルマン・ラシディがムハンマドの生涯を題材にした小説『悪魔の詩』を書いた。イスラムへの揶揄がちりばめられてゐたため、イランのイスラム指導者ホメイニは

「ムハンマドとイスラム教を冒涜した」

 として「死刑宣告」した。イタリアでは翻訳者らが襲撃され、日本でも翻訳した大学教授が何者かに殺害されるといふ事件が起きた。

 先述した日本の出版社の事件では、版元が折れて、事態は理性的に収拾されたが、ラシディはいまなほ警察の保護下にあるともいはれ、今回の風刺漫画事件では暴力と破壊が拡大の一途をたどってゐる。なぜなのか。

 イスラム教徒による破壊といへば、アフガニスタン・バーミアンの仏教遺跡爆破が思ひ起こされる。世界最大の石仏はイスラム原理主義政権タリバンによって五年前、完全に破壊された。

 しかしイスラム教が偶像を禁止するものの、破壊を教へてゐるわけではないことはエジプトのスフィンクスがイスラム時代にも守られたことから理解される。

 つまり破壊行為は宗教的理由では説明できない。事実、イスラム国家やイスラム団体の指導者は今回の一連の暴力行為を非難し、

「暴力の煽動は教へに合はない」

 と呼びかけてゐる。

 それなら破壊はなぜ起きたのか。

 中東のレバノンに在住する日本人ジャーナリストの指摘は傾聴に値する。大使館放火事件が起きたシリアやレバノンはイスラム原理主義の勢力が弱い。シリアは集会の自由も制限されてゐる警察国家なのに暴動が起きた。米国のライス国務長官は

「政府が煽動した」

 と批判してゐる。「軍事独裁」と国際的批判を浴びてきたシリアのアサド政権は、風刺漫画事件を利用して、自分たちを倒せば、今度は過激な原理主義者が政権を握ることになると意思表示したのではないかといふのである。

 その隣国のレバノンは昨年(平成17年)、数十万人規模のデモが頻発したとはいへ、暴動には到らなかった。

 今回の焼き討ち事件はシリアの関与が濃厚だといはれる。集会を呼びかけたのは政府公認の穏健なイスラム組織であり、参加者の多くは家族連れだったが、デンマーク大使館に近付くに連れ、武器や石を手にする若者が増え、ついには教会や商店の略奪が始まった。

 イスラム指導者は身を挺して阻止を試みたが、果たせず、

「過激分子が潜入している」

 と批判声明を出した。数百人の逮捕者の半数はシリア人やパレスチナ人だった。

 少なくとも両国に関しては、イスラム教徒を暴力と破壊に駆り立ててゐるのは、表向きの宗教的理由ではなく、むしろ政治的理由であることが見えてくる。

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遙かなるアフガニスタン──大宗教が興隆衰亡する文明の十字路 [イスラム]

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遙かなるアフガニスタン
──大宗教が興隆衰亡する文明の十字路
(「神社新報」連載「ひとは何を信じてきたか」23)
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 20年以上も戦乱のさなかにあり、さらにここ数年は「20世紀最悪」ともいわれる旱魃に苦しめられてきたアフガニスタンが、昨年(2001)10月以降、連日、「国際社会」からの凄まじい武力攻撃にさらされてきました。

 いうまでもなく、数千人に及ぶ犠牲者をもたらした痛ましいアメリカでの同時多発テロ事件の首謀者とされるオサマ・ビンラディンとそのテロ組織アル・カイダ、そして彼らをかくまっている同国のタリバン政権を標的とする、米英軍などの激しい「報復」です。

 ふり返ってみれば、アフガニスタンは、『西遊記』のモデルとして馴染みの深い唐の仏僧玄奘(げんじょう)三蔵が滞在し、仏教を学んだこともある、東西文明を結ぶシルクロードの要衝で、古来、多くの日本人の旅情を誘ってきました。

 そのアフガニスタンを拠点とし、「国際社会」を敵にまわした憎むべきテロ事件はなぜ起きたのでしょうか。何がこの国を、「目には目を」の世界的規模の反テロ戦争の舞台に仕立て上げたのでしょうか。あらためてアフガニスタンという国の歴史を考えてみたいと思います。


▢繰り返された民族の移動と侵入
▢異文明が出会い、ときには融合

 アフガニスタンは、「世界の屋根」パミール高原の西南に位置しています。北側は旧ソ連の中央アジア諸国と国境を接し、東と南側はパキスタン、西側はイランにとり囲まれた内陸国です。ワハン回廊によって、一部ですが、中国とも接しています。日本にとってはアフガニスタンは遠い国ですが、中国にとっては直接的な利害関係を持つ隣国なのです。

 面積は約65万平方キロ、日本の1.7倍です。首都カブールは東京、大阪とほぼ同緯度ですが、標高は1800メートルもあります。中央部を東西に走るヒンズークシ山脈は「インド人殺しの山」という意味で、平均海抜5000メートルの大雪山が続きます。

 山岳地帯は国土の4分の3を占めます。内陸性気候で、冬は凍てつく高原地帯もあれば、夏には気温四十度を超える砂漠もあります。降雨に恵まれた森林地帯も、わずかですがあります。
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 人口は約2600百万人(2000年)。といっても正確な数字は分かりません。戸籍というものがないらしいのです。人種的にはパシュトン人(アフガン人)が半数以上を占め、その他、タジク人、ウズベク人、モンゴル系のハザラ人と続きます。

 言語はパシュトン語、ダリ語(ペルシャ語)が使用されます。しかし識字率は3割とか。

 宗教的には国民の99%がイスラムで、ハザラ人以外はスンニー派に属します。シーア派を「国教」とするお隣のイランとは異なります。

 主食は小麦ですが、米も食べます。20数年前、日本政府が無償援助で稲作開発センター建設計画を進めたことがありました。一人当たり国内総生産(GDP)は日本の100分の1に及びません。平均寿命は45歳。

 この地には古い歴史があります。そして、東西両文明をつなぐ交差点に位置する地理的条件から、有史以来、民族の移動と侵入、征服をたびたび経験してきました。同時にそれは宗教興亡史でもあります。

 遊牧の民のアーリア人が旧ソ連との国境でもあるオクスス川を越え、いまのアフガン北部に定住したのは4000年前のことといわれます。アフラ・マズダを最高神と仰ぐゾロアスター教は紀元前7世紀にこの地で生まれ、いまのアフガニスタンとイランに広まりました。

 アレクサンダー大王の軍隊がマケドニアから侵入したのは前332年。ギリシャ、エジプト、アジアにまたがる大帝国を築いた大王の侵攻は、ゾロアスター教の滅亡を招きました。

 代わって広まったのが仏教です。インドで生まれた仏教は偶像崇拝を否定したはずですが、この地方でギリシャ文明と衝撃的に出会い、ガンダーラの仏像を生みました。私たちに馴染みの深い大乗仏教が生まれたのもここです。

 仏教の一大中心地バーミアンには、かつては金色に輝く石仏がありました。高さ55メートル。世界最大。シルクロードの終着駅、奈良の大仏の約4倍の大きさです。2世紀に創立された仏教大学には玄奘が一時、滞在したといいます。のちにシルクロードを旅したマルコ・ポーロは、数十の伽藍、数千人の僧侶がいたと記録しています。

 世界遺産指定の石仏は今年2月、タリバンによって完全に破壊されました。しかし、最初の破壊者は彼らではありません。

 8世紀になり、イスラムを信仰するアラブ人が侵入し、アフガン人は新しい宗教に改宗します。

 イスラム文化の大輪が花開くのですが、13世紀に今度はモンゴルの侵入を受けます。ジンギスカンの20万の大軍はバーミアン渓谷で殺戮と破壊と略奪のかぎりを尽くしました。「アジアの庭園」と称された沃地は砂漠と化し、虐殺の町「ゴルゴリの丘」はいまも土色の廃墟のままです。

 異なる民族と文明が出会い、ときに融合し、ときには激しく衝突する。それがアフガニスタンなのです。


▢強国の狭間で困難な国家経営
▢露・英と戦った日本に親近感

 今年10月下旬、ローマ法王は中国政府に対して、19世紀の植民地主義的布教の誤りを認めて謝罪し、関係改善を呼びかけましたが、同じ19世紀、アジア諸地域がヨーロッパ列強の侵略にさらされていたころ、アフガンも例外ではありませんでした。
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 近代アフガニスタンの建国は1747年。ペルシャによる支配の間隙を縫って部族連合の長として立ち上がり、アフガン建国の父となったのが、アフマド・シャーです。しかし国家は統一されたものの、その後の歴史も平坦ではありません。王朝も、強国の都合で、目まぐるしく交替しました。

 最初はインドを支配するイギリスの攻勢です。次第に南下するロシアを牽制するため、イギリスは緩衝地帯としてのアフガンを必要としていました。圧迫を受けて、1818年、サドザイ朝が倒れます。カシミール、パンジャーブなどの領地が失われました。

 アフガニスタンは英露両国の狭間で、困難な国家運営を迫られました。ところが、ドスト・モハマッド・ハーン国王はロシアと友好条約を結びます。これを「ロシア接近」とみたイギリスは、38年、軍隊を侵入させました。第一次アフガニスタン・イギリス戦争です。

 カブールは陥落し、国王は降伏しますが、異教徒の支配を許さないアフガン人のゲリラ戦は続き、結局、16,000のイギリス軍は全滅します。

 19世紀末、いよいよロシアが南下政策を強めて軍事顧問団をむりやり送り込んできました。アフガンを手中に収め、インド洋に面したバルチスタン(いまはパキスタン領)に軍港をおくことが狙いでした。当然、イギリスが対抗して軍事顧問団をカブールに派遣します。国王は拒否するのですが、イギリスは強引にアフガンを保護国とします。

 インド(いまはパキスタン領)との国境はこのとき画定されます。パシュトン人の居住地域を二分し、中央アジアとインド世界とを隔てるカイバル峠を「インド領」とする不合理な国境は、「ザ・グレート・ゲーム」と呼ばれるイギリスとロシアの確執の結果です。ただ、遊牧民たちは昔も今もパスポートすら持たずに、羊を追って、公然と往来するそうです。

 20世紀初頭、アジアの新興国日本がヨーロッパの大国ロシアを敗った日露戦争は、この地にも大きな影響を与えました。ロシアはアフガン介入をあきらめ、イギリスは対露対抗姿勢をうち切りました。アフガン人は親日的といいますが、最大の理由はここにあるようです。アフガン人は、日本がイギリスと戦争したことも、ヒロシマ・ナガサキも知っています。

 第二次大戦中は中立を守ったアフガンですが、戦後の冷戦時代になると米ソの対立構造に翻弄されます。援助合戦を繰り返す両国。王族宰相の時代が幕を閉じると政権は不安定化し、1973年のクーデターでザヒル・シャー国王が退位します。政変の背後にはソ連がいました。78年にはふたたびクーデター、翌年、ソ連軍が侵攻します。


▢テロリストを育てた海外勢力
▢容疑者にアフガン人はいない

 89年にソ連軍が撤退し、共産政権に代わってイスラム連立政権が樹立しますが、ムジャヘディン政権内部で内戦が勃発して混乱は逆に激化します。民族や宗教宗派の異なる各派の対立を、周辺諸国が煽ったのです。

 混乱のなかから台頭したのがタリバンです。タリバンとは「学生たち」という意味です。パキスタンの難民キャンプで育ったアフガンの若者たちは、キャンプ周辺のイスラムの宗教学校に通い、戦士に鍛え上げられました。彼らの悲願は祖国の内戦終結と正義の回復です。

 戦争に倦み疲れたアフガン国民は彼らに期待しました。96年、タリバンが政権を掌握します。背後にはむろんパキスタンの影がちらつきます。
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 イスラム法に基づく犯罪取り締まりの強化で、治安は回復しました。タリバンは純粋なイスラム国家の建設をめざしました。

 厳格な宗教政策をとるタリバンを、アメリカは当初、黙認しました。けれども、オサマ・ビンラディンの亡命、対米テロの激化で、関係は険悪化します。

 ビンラディンはサウジの富豪の息子で、中東諸国の多くの若者と同様、ソ連との「聖戦」に馳せ参じました。サウジやパキスタンが推進する「イスラム同胞を救え」というキャンペーンの背後には、アメリカがいました。この時点ではアメリカは敵ではなかったのです。

 しかし湾岸戦争で状況は変わります。対イラク戦をめぐり、ビンラディンはサウジ王室と対立しました。アフガン帰りの兵士を率いてイラク軍と戦うことを持ちかけましたが、王室は拒否し、代わりに異教徒アメリカの軍隊を国内に駐留させました。ビンラディンは王室およびアメリカと敵対し、その後は国際的なネットワークを使い、「真のイスラム国家」建設に動き出します。

 母国を追われ、やがてアフガンに身を寄せたビンラディンは、アメリカに対して宣戦を布告します。93年にはニューヨークの世界貿易センタービルで、98年にはケニア、タンザニアのアメリカ大使館で爆弾テロが発生しました。

 翌年、国連はアフガニスタンに対する経済制裁を決議します。「容疑者」ビンラディンの引き渡しが要求されますが、タリバンは拒否しました。侵略者ソ連と戦った恩人であり、客をもてなすというイスラムの伝統を重視するからです。昨年末、タリバンは国連を追放されました。

 そして今年九月、アメリカで同時多発テロが起こり、翌月、報復のアフガン空爆が始まりました。しかしアメリカFBIが公表した容疑者19人にアフガン人は一人もいません。12人までがサウジ国籍です。対米テロの本丸はアフガンではありません。けれども、米英軍の攻撃は激しさを増しました。

 12月上旬現在、戦闘は最終局面に入ったといわれますが、ビンラディンそしてタリバンは米英軍の前に膝を屈するでしょうか。コーランにはこう書かれています。「神を持たぬ異端者にムスリムを支配する権利はない」。いわゆる聖戦に敗北はあり得ません。とすれば、「イスラム勝利の日」まで戦いは、残念ながら、いかなる形であれ、続くのではないでしょうか。

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追伸 この記事は宗教専門紙「神社新報」平成13年11月10日号に掲載された拙文「遙かなるアフガニスタン」に若干の修正を加えたものです。

 執筆に当たっては、M・H・カリミ『危険の道』、P・ホップカーク『ザ・グレート・ゲーム』、A・ラシッド『タリバン』、田中宇『タリバン』などを参考にさせていただきました。謹んでお礼を申し上げます。

 それにしても、いまアフガンはどのような状況なのでしょうか。首都カブールなどは戦闘が終わり、平和が戻った、というような報道もありますが、ほんとうにそうなのでしょうか。

 昨年(2001)11月の段階でのことですが、アフガン国内での医療活動で15年以上の実績をもつ日本のNGOペシャワール会によると、惨状は聞きしにまさるようでした。

 すでに20年以上も続いている戦争で300万人を超える人々が犠牲になったといわれますが、人々を苦しめているのは戦争ばかりではないからです。先進国ではほとんど知られていないことですが、この3年間は「20世紀最悪」ともいわれる大干ばつが苦況に拍車をかけています。

 中央アジア周辺諸国を広範囲に襲った旱魃ですが、なかでもアフガンは最悪で、被災者は1200万人。国民の半数が被害を受けたのです。地球の温暖化で、ヒンズークシ山脈に降る雪の量が近年、目立って減っています。当然、雪解け水が激減し、地下水の水位は下がり、井戸は枯れ、川は干上がりました。耕地は砂漠化し、昨年は収穫が例年の半分にまで落ち込んだのです。

 昨年6月時点で、世界保健機関(WHO)は、400万人が飢餓に直面し、100万人が飢餓線上にあると発表しました。農民や遊牧民は村を捨て、都市に流れ込んでいます。その数は100万人。主要都市は町全体が難民収容所と化しました。

 そこへ今度のテロ戦争が起きたのです。

 ペシャワール会代表・中村哲氏によると、意外なのは、ジャララバードなど大都市の平静さだそうです。事情を知らないのではありません。人々はイギリス・BBCラジオのバシュトン語放送で、世界情勢を正確に把握しているそうです。

 国連機関や各国団体はタリバン政権の崩壊を前提とし、数百万人規模の大量の難民発生をまるで期待するかのような態度でしたが、パキスタン国境へ逃れてくる人の数は案外、多くはありませんでした。

 国境が閉鎖されたからではありません。国外へ脱出するのは、パキスタンなどに親類縁者がいて、食いつなげる見通しのある富裕層であって、なかには戦況を眺めながらカブールとペシャワールとを行き来するものもいるのだそうです。もともとペシャワールはバシュトン人の都なのですから、何の不思議もありません。

 他方、行き場のない貧農や遊牧民は国内に取り残されているそうです。難民にすらなれない人々の生活は逼迫するばかりで、大規模な飢餓発生の可能性すら指摘されています。それでも動こうとしないのです。

 国連機関などの推計では、750万人が飢餓線上にあります。問題はこの冬です。

 ペシャワール会では、「アフガンでは250円の薬が買えずに人々が死んでいく。2000円もあれば、10人家族を1カ月、支えることができる。水と食糧が足りない」と緊急支援を呼びかけています。

 ペシャワール会からの最新情報によれば、いまカブールでは子供たちの間でも軍服ファッションが流行しているそうです。女性たちがブルカを脱ぎ、街は解放感に包まれている、という報道が流れていますが、これも実際は一部富裕層に限られた現象のようです。

 ボクが注目するのは、「雪が降らない」ことです。「例年になく暖かくしのぎやすい」のは避難民にとっては好ましいことでしょうが、今年もまた深刻な水不足が予想されます。(平成14.1.28)
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