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なぜ悠紀殿と主基殿があるのか。田中英道先生の大嘗祭論を読む [大嘗祭]

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なぜ悠紀殿と主基殿があるのか。田中英道先生の大嘗祭論を読む
《斎藤吉久のブログ 令和2年2月16日》
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日本会議の機関誌「日本の息吹」2月号に、保守派言論人として著名な田中英道東北大学名誉教授(専攻は美術史。日本国史学会代表理事)が大嘗祭に関する興味深いエッセイを寄せています。

連載「世界史の中の日本を語ろう」の第25回で、タイトルは「大嘗宮はなぜ悠紀殿と主基殿の二殿あるのか」。着眼点の斬新さはさすがです。
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▽1 悠紀殿=東国、主基殿=西国

先生は、大嘗祭の祭祀が二度繰り返され、斎田も2か所あり、悠紀、主基と呼ばれることに注目し、なぜ二殿で同じことが繰り返されるのかという素朴な問いかけをなさっています。國學院の展覧会でも、折口信夫の「大嘗祭の本義」にも説明はありませんでした。

先生によると、天武・持統朝に定められた大嘗祭は当然、壬申の乱と関係があり、東日本と西日本それぞれの殿舎を建てるということには理由があった。東国には高天原=日高見国の長い伝統があり、持統天皇の諱には「高天原」が含まれている。

『新撰姓氏録』は氏族を「神別」「皇別」「諸蕃」に分けているが、神別の氏族の故郷が東国で、藤原、物部、大伴らの有力氏族が属していた。ユダヤ人埴輪もすべて東国の埴輪にあった。

東国と西国は同等と考えられていたことの現れが悠紀殿と主基殿の二殿である。茅葺き、丸柱は東国の伝統で、「大倭日高見国」が日本なのである。日高見国と大和国が天皇によって統一された事実が大嘗祭に示されている、というのが先生の見方です。

仰せのように、大嘗祭が悠紀殿と主基殿の二殿で行われるのは大きな謎です。かつては新嘗祭と大嘗祭との区別はなく、規模を改めた大嘗祭が行われるようになったのが、まさに天武天皇のころ、壬申の乱のあとでした。

国を二分する内乱のあと、国と民を再統一する仕掛けが必要とされたことは想像に難くありませんが、それが大嘗祭発生のカギだったとしても、悠紀殿=東国、主基殿=西国という図式で捉えることには慎重を要するのではないかと私は思います。


▽2 新嘗祭の夕の儀と暁の儀は?

毎秋の新嘗祭は神嘉殿で行われます。明治の初年までは臨時の殿舎が建てられたそうですが、大嘗祭とは異なり、一棟です。夕(よい)の儀と暁の儀と同じ神事が二度繰り返されますが、悠紀・主基とは呼ばれません。

ふつうは夕の儀は夕御饌(ゆうみけ)で、御寝座でお休みいただいたあと、暁の儀で朝御饌(あさみけ)を差し上げるというように説明されています。新嘗祭は同じ殿舎ですが、大嘗祭は儀場も改められ、より丁重さが加わるということではないでしょうか。

日本の高床式建築には2つのルーツがあるそうですが、悠紀殿と主基殿には大きな違いはありません。ふだんは何もない空間に八重畳の御神座、天皇の御座などが配置されるのも変わりません。

 【関連記事】神社建築発生の謎──高床式穀倉から生まれた!?https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2013-05-20-2

先生のエッセイには言及がありませんが、祭神論からすると、悠紀殿の儀、主基殿の儀とも変わりません。前者は天神、後者は地祇を祀ると説明した古い資料もありますが、新帝の御告文は皇祖神ほか天神地祇に捧げられるはずです。

先生の説だと、悠紀殿には東国の神々、主基殿には西国の神々が祀られるのでしょうか。そうなると逆に国の再統一という目的から外れてしまわないでしょうか。

 【関連記事】なぜ八百万の神なのか──多神教文明成立の背景https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2013-05-06-1
 【関連記事】天皇はあらゆる神に祈りを捧げる──日本教育再生機構広報誌の連載からhttps://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2013-04-12-1


▽3 米と粟の儀礼こそ祭りの核心

神饌はどうでしょう。先生ご指摘のように、近世までは京都の東に悠紀国、西に主基国が設定され、悠紀殿の儀、主基殿の儀にはそれぞれの御料が用いられました。なぜ東が悠紀で、西が主基なのかは大きな謎です。主基は「次」の意味とされています。

これも先生の文章にはありませんが、主饌となるのは米と粟の御飯(おんいい)と白酒・黒酒の神酒です。悠紀殿の儀、主基殿の儀とも変わりはありません。しかしここにこそ内乱後の国と民の再統一という大命題の意味が見出されるのではないでしょうか。

日本の神祭りは神々との神人共食が本義です。争乱で分裂した国中の神々をすべて祀り、天つ神の米と国つ神の粟を捧げ、祈り、新帝も召し上がる。さらに続く節会で民の饗宴が行われ、神々と天皇と民との命が共有される。それが大嘗祭の核心部分ではないかと私は思います。

先生は、大嘗祭を稲の祭りと決めつけず、米と粟が供されることに注目した岡田荘司國學院大学教授の大嘗祭論を「戦後の歴史家の唯物論的見方」と一刀両断にしていますが、米と粟の神事こそ国と民を1つにまとめあげるスメラミコトの真骨頂でしょう。

ただ、粟=東国、稲=西国というわけではありません。田中先生の説は東国vs西国の図式に引きずられ過ぎているように思われます。

 【関連記事】大嘗祭は米と粟の複合儀礼──あらためて研究資料を読み直すhttps://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2011-12-18
 【関連記事】大嘗祭は、何を、どのように、なぜ祀るのか ──岡田荘司「稲と粟の祭り」論を批判するhttps://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2019-11-10
 【関連記事】やっと巡り合えた粟の酒 ──稲作文化とは異なる日本人の美意識https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2019-09-23


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やはりそうだったか、令和大嘗宮の違和感 ──宮内庁さま、経費節減はまだしも政教分離違反では? [大嘗祭]

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やはりそうだったか、令和大嘗宮の違和感
──宮内庁さま、経費節減はまだしも政教分離違反では?
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前から気になっていたことがありました。大嘗宮周辺の地面の色です。

遠目で見ると廻立殿と大嘗宮の周りだけが白く見えます。プレハブ幄舎の屋根のように、白いビニールを敷いたのか、まさかそんなことはないだろうと疑っていました。

それで方々に話を聞いてみたところ、前回同様、細かい白い砂(砂利)を敷いたというのです。もともと芝生があったところなどは、「歩くとフワフワする」ようです。

でもヘンなんです。中途半端なんです。白砂の部分が一部に限られているのです。で、やっぱりそうだったんです。


▽1 一部にしか白砂利がない

前回はどうだったのか、工事に関わったという社寺建設業者のサイトを見ると、幄舎のビニール屋根の違和感は同じですが、地面はというと、外周垣まで一面に白砂利が敷き詰められていることが分かります。
http://www.daibun.co.jp/photo/work-h02-2.html

それなら、今回はどうなのでしょう。

大嘗宮の儀の前日に撮影されたという新聞掲載の画像を見ると一目瞭然ですが、板葺屋根の違和感だけではありません。幄舎のほか膳屋や斎庫その他に、無機的なビニール屋根が侵食しています。そして地面です。

柴垣内すなわち悠紀殿と主基殿および廻立殿の周辺だけに限定して白砂利が敷かれているようで、柴垣の外すなわち膳屋や幄舎周辺は色違いの砂利になっています。違和感を覚えざるを得ないのはそのためです。自然な統一感がないのです。
https://www.chunichi.co.jp/article/front/list/CK2019110902000269.html

政府は前例踏襲を基本方針の1つに掲げたはずですが、それならばなぜ全面に白砂利を敷かなかったのでしょう。

都立図書館に木子文庫があります。明治の初期に宮中の作事に関わった宮大工で、帝国大学で教鞭をとったこともある木子清敬さんの関係資料が所蔵され、そのなかに明治の大嘗宮の透視図があります。
https://intojapanwaraku.com/travel/48605/

これを見ると、今回と基本構造が酷似していることが分かります。近代の巨大化した大嘗宮の原型なのでしょう。

かつては紫宸殿の南庭に建てられたのが大嘗宮です。南北40メートル、東西60メートルに収まっていたということです。いまはほぼ2倍の1ヘクタールあります。

巨大化の原因は幄舎です。もともと人に見せることを予定しない大嘗宮の儀なのに、1000人にも及ぶ内外の要人を参列させようとしたからです。欧米諸国と張り合おうとした結果でしょう。


▽2 皇居宮殿東庭では駄目なのか

明治22年の皇室典範では即位礼、大嘗祭は京都で行うこととされました。現行の皇室典範ではそれはありません。皇位継承儀式は都で行うことが原則であるなら、皇居宮殿東庭に大嘗宮を建てることは不可能でしょうか?

幄舎を建てないなら4500坪の広さは十分のはずです。問題は全面に敷かれた安山岩の石畳です。一時的に撤去するか、土砂を敷き入れるか、対策が必要です。

もし可能なら、参列者は寒くて暗い屋外の幄舎ではなく、宮殿内でビデオ解説を見ながら大嘗宮の儀の進行を見守ることになるでしょう。少なくとも外周垣の外はアスファルトむき出しという無粋な光景は避けられるのではないでしょうか?

ちなみにですが、砂利というのは、1立米あれば5センチの厚みで20平米に敷くことができるようです。とすると、1ヘクタール=10000平米なら、500立米で足ります。仮に1立米1万円でも、500万円です。実際はもっと安いし、3センチの暑さなら33平米に敷けます。大嘗祭が済めば再利用も可能でしょう。
http://www.takagikenzai.com/syouhin_tuti.htm

大嘗祭は宗教儀式だというのが政府の見解で、だから政教分離の観点から、国の行事ではなく、皇室行事とされました。それなのに、経費節減を口実に、やれ茅葺ではなく板葺だ、なんだと不当に介入することは、それこそ政教分離違反ではないでしょうか。裁判をも辞さないと構えているキリスト者たちなどは、ぜひ政府を批判してほしい。

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新帝はいかなる神と一体化するのですか? ──「正論」12月号掲載、竹田恒泰大嘗祭論を批判する [大嘗祭]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2019年11月28日)からの転載です。

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新帝はいかなる神と一体化するのですか?
──「正論」12月号掲載、竹田恒泰大嘗祭論を批判する
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「正論」12月号に、「『大嘗祭』の意味を理解する」(12月号)と題する竹田恒泰さんのエッセイが掲載されました。残念ながら、保守派言論人の大嘗祭論としては物足りなさを強く感じました。「意味を理解する」前に、新帝が何をなさるのが大嘗祭なのか、理解の前提として必要とされる事実認識が中途半端に思えるからです。

竹田さんは、前回の御代替わりで話題になった、折口信夫流のオカルトチックで、非実証的な真床覆衾論を否定しています。天皇が神になるのではなく、天神地祇を拝し、直会なさるのが大嘗祭のあり方であることも指摘されています。いずれも正しい理解でしょう。

そのうえで、大嘗祭の「意味」について、竹田さんは、神人共食の儀礼によって、神と一体化し、即位が神に承認されることだと説明しておられます。竹田さんの文章では、天神地祇に新穀を捧げる神人共食の儀礼によって神と一体化し、承認を受けるということですが、それで意味が通じますか。


▽1 天神地祇と一体化する?

必要な事実のポイントは、祭神と神饌の2点。いかなる神に、何を捧げるのか、です。竹田さんの解説は論理が首尾一貫しないように思われます。

竹田さんの論理では、もし新帝が大嘗宮で皇祖天照大神をまつり、稲の新穀を供え、祈り、直会なさるというのなら、斎庭の稲穂の神勅に基づいて、皇祖神と一体化し、皇祖神の承認を受けるという意味に解され、納得もできそうです。

けれども、大嘗宮の儀はそういう儀礼ではありません。

まず祭神ですが、竹田さんご自身が書いておられるように、大嘗宮内陣に祀られるのは皇祖神ほか天神地祇であり、皇祖神のみではありません。そのことはすでに知られている過去の御告文を見れば明らかです。

もし皇祖神のみを祀るのであれば、祭場は賢所で十分であり、新嘗祭の神嘉殿も大嘗祭の大嘗宮も不要でしょう。逆に、皇祖神との一体化が大嘗祭の本義なら、天神地祇を祀る必要はありません。

つまり、大嘗宮を建て、皇祖神ほか天神地祇を祀るという大嘗祭の実態からすれば、竹田さんの主張なさる一体化と承認説には無理があります。

キリスト教会の典礼なら、葡萄酒とパンはキリストの血と肉であり、聖体拝領は文字通り神との一体化を意味しますが、天皇による神饌御親供と御直会はむしろ命の共有という意味ではないでしょうか。

明治に惜しくも廃されてしまった「サバの行事」は、竹田さんもご存知でしょう。歴代天皇は毎食ごとに、わがしろしめす国土に飢えたる民が1人あっても申し訳ないとの思し召しから、食膳からみずから一箸ずつ取り分け、衆生に捧げたと聞きます。民と命を共有してきたのが天皇です。


▽2 命の共有による国民統合

2つ目は、大嘗祭の神饌です。

竹田さんの今回のエッセイでは「神饌」としか書いてありませんが、『皇統保守』などを拝読すると、以前は、新嘗祭や大嘗祭は稲の祭りだと説明されています。日本人は「稲作民族」「米食民族」であることが強調されています。

しかし、以前、指摘したように、これは間違いです。

古来、粟を食し、粟を聖なる食物として供饌する民や神社の存在が知られています。正月に米の餅を食べない「餅なし正月」の民俗は全国各地に分布しています。日本列島は「稲作」「米食」一色ではありません。粟の民は粟の神に粟を捧げ、稲の民は稲の神に稲を供してきたのです。

例外は天皇です。

天皇が新嘗祭や大嘗祭で、神前に供し、直会なさるのは、米と粟の御飯(おんいい。強飯)と白酒・黒酒です。稲だけではありません。天皇だけが天神地祇に米と粟の新穀を捧げて祈りを重ねてきたのです。なぜなのか。

稲の民なら、稲の神のほかに粟の神を祀り、粟を捧げる必要はありません。粟の民も同様です。しかし国と民と1つに統合するお立場の天皇なら、稲の神、粟の神、あらゆる神に祈りを捧げる。そのためには米と粟の神饌が当然、必要でしょう。多神教を前提とする複合儀礼とならざるを得ないのです。

歴代天皇が即位の直後に大嘗祭を、毎年秋には新嘗祭を執り行ってこられたのは、「国中平らかに、安らけく」という祈りからです。皇祖神のみならず天神地祇に、米ならず粟の新穀を捧げるのは当然です。

大嘗祭のあとには節会が行われ、神と天皇と民の命の共有が図られ、国は1つに統合されるのです。天皇は古来、国民統合の象徴なのです。新嘗祭、大嘗祭は命の共有による国民統合の国家的儀礼なのです。

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伊勢雅臣さん、大嘗祭は水田稲作の農耕儀礼ですか? ──国際派日本人養成講座の大嘗祭論に異議あり [大嘗祭]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2019年11月24日)からの転載です

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伊勢雅臣さん、大嘗祭は水田稲作の農耕儀礼ですか?
──国際派日本人養成講座の大嘗祭論に異議あり
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 伊勢雅臣さんの「国際派日本人養成講座」は定評あるブログで、私もファンですが、11月17日の「大嘗祭」はいただけませんでした。思い込みに囚われ過ぎているからです。とはいえ、他人様の文章にいちいちケチをつけるのも大人気ないし、唇を噛んでおりました。

 しかし、渡部亮次郎・元NHK 記者主宰の人気メルマガ「頂門の一針」に転載されるに及んで、看過できなくなりました。というわけで、以下、押っ取り刀で批判させていただきます。

 ポイントは、(1)大嘗祭の「根っこ」は稲の収穫儀礼なのか、(2)稲作=水田耕作なのか、(3)大嘗祭は天孫降臨神話のみを根拠とすべきなのか、(4)大嘗祭の精神はアニミズムなのか、などでしょうか。


▽1 工藤隆名誉教授に依拠した必然

 具体的に検証します。

 まず、伊勢さんは、新嘗祭、大嘗祭を、「稲の収穫儀礼」と断定し、無批判に議論を進めています。最大の問題はこれです。

 当メルマガの読者なら常識でしょうが、神嘉殿の新嘗祭、大嘗宮の大嘗祭で天皇が神前に捧げ、直会されるのは米と粟の新穀です。伊勢さん自身、メルマガの後半で「米と粟」と明記する『国史大辞典』を引用しています。

それなら、なぜ伊勢さんは「稲の収穫儀礼」として解説するのですか。一面的な議論に終わることは明らかでしょうに。大嘗祭の粟は付け足しなのですか。

 伊勢さんの論拠となっているのは、工藤隆・大東文化大学名誉教授の大嘗祭論でした。一昨年、発刊された著書は、新嘗祭、大嘗祭をアマテラスオオカミに新稲を捧げる祭りと決め付けています。しかも、工藤教授にとっては稲作=水田稲作です。焼畑の陸稲が無視されています。

 これに依拠する伊勢さんの大嘗祭論がねじ曲がっていくのは必定です。

 伊勢さんが引用しているように、工藤教授は水田稲作の源流を長江文明とし、そこから派生したマレー半島の稲作の収穫儀礼と大嘗祭との類似点を指摘します。「大嘗祭の重要な要素のほとんどすべてが揃っている」というわけです。

 しかし日本の稲の源流は1つではないことが分かっています。遺伝学者の佐藤洋一郎さんによると、東南アジア島嶼部を源流とする熱帯ジャポニカと長江中下流域から伝わった温帯ジャポニカとがあり、日本列島で両者が自然交雑し、日本の稲が生まれたというのが「南北二元説」です。早稲の出現で稲作は瞬く間に北進したのです。

 工藤教授が説明しているのは後者だけです。

 前者すなわち熱帯ジャポニカはいわゆる「海上の道」を通ってやってきたと考えられています。東南アジアと共通する踏耕(ホイトウ)は黒潮沿いの神社の祭礼に伝わり、伊勢神宮のお田植祭はその1つと指摘されています。

 熱帯ジャポニカは陸稲で、もち米といわれます。焼畑農耕文化です。大嘗祭の米は甑で蒸して調理されます。古くはもち米だったのでしょう。私はタイ北部の焼畑農耕地域で、もち稲の蒸し米を常食とする農家にお世話になったことがあります。ほっぺたが落ちるほど、美味しいご飯でした。

 工藤教授および伊勢さんは、大嘗宮の神座(寝座)にも言及し、天孫降臨神話について説明するのですが、神話学の知見では、天降り神話はユーラシア大陸全域に伝わっているようです。関連する穀物は日本以外はすべて麦であり、日本の天孫降臨神話は大陸の天降り神話と東南アジアの稲作神話との融合だと神話学者の大林太良さんは推理しています。

 天孫降臨神話は火の神との関連で伝わっており、焼畑農耕の伝承と想像されます。そういえば、神話の原郷である高千穂も霧島も、稲荷信仰の総本社である伏見稲荷大社もすべて山です。霧島はいまも火を噴いています。


▽2 真弓常忠教授も粟を無視

 伊勢さんは真弓常忠・皇學館大学教授の大嘗祭論も引用していますが、真弓教授にも粟は登場しません。むろん天孫降臨神話には粟は無関係です。

 伊勢さんのように、工藤教授や真弓教授も同様ですが、水田稲作や天孫降臨神話で新嘗祭や大嘗祭を説明しようとするところに限界があるのです。伊勢さんは、そして渡部亮次郎先生は、新嘗祭や大嘗祭の粟は何だとお考えですか。

 古来、粟を捧げる新嘗の祭りや神社が知られています。粟穂は、稲穂と同様、豊穣のシンボルであり、「粟穂に鶉」は絵画や彫刻の題材とされてきました。そうした日本の伝統的観念が宮中の祭祀とつながっていることは容易に想像されますが、無視されていいのでしょうか。

 何度も指摘してきたことですが、天孫降臨神話に基づいて、稲の新穀を皇祖神に捧げる祭りなら、祭儀は賢所で十分なのであり、神嘉殿も大嘗宮も不要でしょう。なぜ天皇は米と粟を捧げ、祈り、直会なさるのか、あらためて考えるべきではありませんか。

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大嘗祭は、何を、どのように、なぜ祀るのか ──岡田荘司「稲と粟の祭り」論を批判する [大嘗祭]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メルマガジンからの転載(2019年11月10日)です

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大嘗祭は、何を、どのように、なぜ祀るのか
──岡田荘司「稲と粟の祭り」論を批判する
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 大嘗祭は「稲の祭り」であるという思い込みに、国学者や国文学者、歴史学者、そして政府などが取り憑かれています。雑誌「正論」最新号に掲載された、保守派論客・竹田恒泰氏の論考もまた、残念なことに「稲」でした。
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 そんななかで、ほとんど唯一、「稲と粟の祭り」論を展開しているのが、岡田荘司・國學院大学教授です。前回の御代替わりでは折口信夫の直観に始まる、非実証的なマドコオブスマ論の否定と克復に貢献された岡田先生が、献饌される「米と粟」の存在に着目されたのはさすがの慧眼で、賞賛に値します。しかし、その内容にはとうてい納得しがたいものがあります。

 いかなる神を祭るのか、粟とは何か、なぜ粟を捧げるのか、説明が不十分で、少なくとも私の理解とは天と地ほどの違いがあリます。


▽1 なぜ神宮祭祀と比較するのか

 先生は今春、『大嘗祭と古代の祭祀』を出版されました。第二部第一章は「稲と粟の祭り──大嘗祭と新嘗」です。初出は「國學院雑誌」(2018年12月)ですが、ここにご主張が網羅されていると思われますので、少し詳しく読んでみることにします。

 けれども、論考は事実認識および問題意識がのっけから誤っています。先生はまず、神祇祭祀一般と伊勢神宮祭祀、そして宮中の神今食(じんこんじき、6月と12月)および新嘗祭・大嘗祭とを比較していますが、比較のあり方に問題があります。

 先生は「古代いらい神祇祭祀は稲祭りであることが常識」と仰せですが、違います。粟を捧げる神社が近江の日吉大社をはじめ、各地に存在します。非稲作文化を継承する地域は全国に広がっていることが見落とされています。

 他方、神宮の祭祀は確かに徹頭徹尾、稲の祭りですが、同様に宮中三殿の祭祀も稲の祭りです。案外、知られていないことですが、現在では、神嘉殿の新嘗祭と大嘗宮の大嘗祭のみが「稲と粟の祭り」なのです。

 先生は神宮祭祀と宮中祭祀が祭神を同じくするにも関わらず、天皇の祭祀はなぜ稲と粟なのか、と発問するのですが、そうではなくて、天照大神を祭神とする伊勢神宮および賢所(宮中三殿)の祭祀と、皇祖神ほか天神地祇を祀る新嘗祭・大嘗祭との違いにこそ着目すべきなのです。

 先生はつい最近まで広範囲に、いやいまなお粟が栽培され、神社の祭りに捧げられていることをご存知ないようです。それどころか、せっかく粟に着目しているのに、粟そのものについての情報が不十分です。その結果、「粟は飢饉の備蓄のため」という珍説を導くことになったものと思われます。粟を主食とする民が古来、日本列島に間違いなくいたのです。畑作民にとっては粟は神聖な食物であり、だからこそ神への捧げものともなるのです。

 先生の論で面白いのは、ご自身で粟ご飯を炊いてみたという「実験祭祀学」です。米のご飯に比べると、美味しいとはいえないが腹持ちするのが特性で、古代の食事には適していたと指摘されるのですが、先生が実験に用いた米は水稲でしょうか、陸稲でしょうか。もち米でしょうか、うるち米でしょうか。品種はなんですか。調理は炊飯器を使用されたのでしょうか。粟はどうですか。

 米の場合、古くはもち米をこしきで蒸して食べていたのだといわれています。粟も同様でしょう。大嘗祭に登場する米と粟の御飯(おんいい)は蒸した強飯で、現在の炊き干し法の原型となる煮飯(姫飯、粥)は平安時代に始まるようです。前者はもち米、後者はうるち米なのでしょう。

 実験で確認されようとした意欲には敬意を表しますが、方法に誤りがありそうです。というより、日本列島に住む日本民族の食文化はけっして一様ではなく、稲の民と粟の民は別だという歴史にこそ目を向けるべきではないでしょうか。

 民族の成り立ちが単線的ではなく、ルーツは1つではないからこそ、国と民を1つにまとめ上げるスメラミコとの存在と祈りが必要とされたのではありませんか。


▽2 記紀神話を根拠とする限界

 先生は次に、水田稲作と畑作の源流を神話のなかに探り当てようとなさるのですが、神話学者ではないのですからやむを得ないとはいえ、かなり荒っぽいように思われます。

 日本書紀には、先生が引用するように、五穀の発生を物語るくだりがあります。天照大神は「民が生きていくのに必要な食物だ」と喜ばれ、粟、稗、麦、豆を畑の種とし、稲を水田の種とされたというのですが、先生が引用しない重要部分があります。

 古事記の場合は、須佐之男命による大気津比売(おおげつひめ)神殺害の物語として描かれ、死体の頭部に蚕、両目に稲穂、両耳に粟、鼻に小豆、陰部に麦、尻に大豆が生った。神産巣日御祖(かみむすびのみおや)命はこれを五穀の種とした、と記述されています。

 神話学では「死体化生型神話」と呼ばれるのですが、日本書紀の本文には見当たらず、国生み神話のあとの日神、月神、素戔鳴尊出生のくだりにあり、とくに詳しいのは一書の十一で、古事記とは異なり、月夜見(つくよみ)尊による保食神の殺害に変わっています。

 岡田先生の論考では、このあと斎庭の稲穂の神勅に話を展開させるのですが、この物語は「天降(あも)り神話」と呼ばれ、既述した「死体化成型神話」とは源流が異なるといわれます。

 斎庭の稲穂の神勅は、日本書紀の天孫降臨の場面に登場しますが、本文にはありません。宝鏡奉斎の神勅の物語のあと、天照大神は「わが高天原にある斎庭の穂をわが子に与えよ」と斎庭の稲穂の神勅を勅されました。

 興味深いことに、天照大神お一人で瓊瓊杵尊を降臨させたとするのは日本書記の一書一のみで、古事記と日本書紀の一書の二は大神と高皇産霊尊(高木神)が、日本書紀本文および一書四、六では高皇産霊尊お一人が降臨を指令しています。天孫降臨神話全体のなかで、意外にも天照大神の影は薄いのです。

 神話学者の大林太良先生によると、女神の死体から作物が出現するという神話は、きわめて広い地域に分布するそうです。そのなかで日本の大気津比売型神話は粟など雑穀を栽培する焼畑耕作の文化に属し、その源郷は東南アジアの大陸北部から華南にかけてで、縄文末期に中国・江南から西日本地域に伝えられた、と推理されています。

 根拠のひとつは大気津比売の神名で、古事記の国生みの条には「粟(阿波)の国は大宜都比売という」と記されているのでした。大気津比売は粟の女神なのです。

 また、火の起源神話と農耕起源神話が密接に結びついているのも注目されます。火神の軻遇突智から農耕神の稚産霊が生まれ、さらに五穀が化生するのは、焼畑農耕の有力な手がかりといわれます。実際、作物起源神話に登場する、保食神の死体に化生する作物は稲を除けば、すべて焼畑の作物です。

 いや、陸稲なら話は別です。今日では、大気津比売型神話は民間伝承には見出すことができません。もしこの神話が水稲の起源神話だったなら、いまなお伝えられる稲作の伝説や儀礼に痕跡が多く残っているはずですが、そうでないのは水稲栽培に圧迫された焼畑穀物と結びついているからだろう、と大林氏は推測しています。

 海外では、大気津比売型神話は中国南部から東南アジア北部の焼畑農耕地域に点々と分布しているそうです。日本神話だけで論じようとするところに限界があるのです。ちなみに伊勢神宮の稲作起源神話は死体化成神話でも天降り神話でもなく、鳥が稲穂をもたらす「穂落とし神」という類型になります。穂落とし神は記紀にはなぜか記載がありません。


▽3 皇祖神だけなら賢所で十分

 岡田先生は、伊勢神宮の祭祀も宮中の新嘗祭・大嘗祭も、祭神が同じ皇祖天照大神なのに、神饌が後者が稲と粟なのはなぜかと問いかけ、それが新嘗祭・大嘗祭の本質を明らかにする研究課題だと指摘されるのですが、前者は皇祖神のみを祀り、後者は皇祖神ほか天神地祇を祀るからではありませんか。祈りの対象が異なるのです。

 宮内庁は先月、大礼委員会に大嘗祭の関連資料として御告文の先例を5例提示しましたが、たとえば建暦2年の順徳天皇の大嘗祭の場合は、「伊勢の五十鈴の川上に坐す天照大神、また天神地祇諸の神に明らけく曰さく」に始まり、祀られる祭神が皇祖神だけでないことは明らかです。ほかも同様です。

 岡田先生ともあろう方が、天皇の祭祀の基本を誤るとは信じ難い気がします。天皇が皇祖神に祈るだけならば、神嘉殿ではなく賢所で、米のみを捧げて祈れば足りるはずです。粟を捧げて祈るのは、粟の神が祈りの対象に含まれるからでしょう。皇祖神のみならず天神地祇を同時に祀るのなら、特別の祭場として神嘉殿や大嘗宮が必要になるのでしょう。

 最後に蛇足ですが、岡田先生は大嘗祭研究に多大な貢献をされました。5W1Hのうち、誰が、いつ、どこで、までは誰でもわかりますが、何を(祭神論)、どのように(祭祀論)、なぜ(意味論)はまだ学問的な課題が尽きないようです。祭祀論研究に果たされた先生の功績を、後進の研究者が引き継ぎ、発展させていくことが望まれます。


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所先生、葦津「大嘗祭」論の前提を見落としてませんか ──葦津珍彦vs上田賢治の大嘗祭「国事」論争 4 [大嘗祭]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2019年10月22日)からの転載です

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所先生、葦津「大嘗祭」論の前提を見落としてませんか
──葦津珍彦vs上田賢治の大嘗祭「国事」論争 4
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 即位礼正殿の儀を目前にして、18日の日経(電子版)に、「儀式は持続と変化の象徴」と題する所功・京都産業大名誉教授のインタビュー記事(聞き手は井上亮編集委員)が載った。

「古代(の儀式)はもっと豪華盛大で、平城宮や平安京における即位儀式の規模は近代を凌いでいます」「明治以降、それまでの中国式を改め、日本式のものを工夫して作り上げた知恵は大切にしてほしい」「(戦前の意匠が削除されたことについて)古事記、日本書記の伝承だから排除するというのは疑問です」などの指摘は、さすがに傾聴に値すると思う。

 しかし、FBでも指摘したことだが、政教分離問題に関連して、戦後唯一の神道思想家といわれる葦津珍彦先生の名前を出してのコメントには同意しかねる。葦津先生のいわゆる大嘗祭「公事」論には暗黙の前提があるということが、無視されていると思うからだ。

 政府は、大嘗祭には宗教性があるとの認識で、前回同様、今回も、大嘗祭は「国の行事」ではなく「皇室行事」として挙行されることになっている。ただし、公的性があるとして、内廷費ではなく、宮廷費から経費が支出されることとされている。

 このことについて、所先生のインタビューでは、前回、葦津先生は「国の儀式と皇室の行事に優劣があると考えるのは大間違いだという指摘」をしたことになっている。そのうえで、所先生は、次のように述べ、インタビューは締めくくられている。

「国の儀式は政府が関与するものですが、皇室の儀式、とりわけ宮中祭祀は独自の聖域の行事なのだから、その独自性を守ることに意味があります。つまり、すみ分けをして、即位礼は国の儀式として政府主催でやるが、大嘗祭は皇室の伝統行事として宮内庁中心にやればよい。両者にそういう性格分けをして、堂々と行えるようにしていくことが賢明だと思われます」

 たしかに天皇の聖域である祭祀に公権力が干渉、介入するのを許さないため、「国の行事」と法的に位置づけないことは1つの知恵であり、実際、当初は現行憲法下での挙行さえ危ぶまれた大嘗祭が無事に執り行われたことは大きな成果といえる。

 しかし、全体として国事であるべき御代替わりの諸儀礼が「国の行事」と「皇室行事」に分断され、予算執行も区別されることは、「賢明」(所先生)なことであろうか。前回、昭和天皇の大喪の礼で、「国の儀式」としての大喪の礼と「皇室行事」としての斂葬の儀が分断して行われたことを、所先生は「賢明」なことと評価するのだろうか。

 所先生がいう「葦津珍彦さんの言われてきたこと」というのは、当メルマガでも何度か言及した、昭和59年2月に宗教専門紙「中外日報」に掲載された「皇室の祭儀礼典論──国事、私事両説解釈論の間で」での主張を指しているものと思われる。

 葦津先生の論考は、大嘗祭=非「国の行事」=「皇室行事」論の論拠とされ、所先生もそのように信じ込んでいるようだが、私はそういう理解は完全な誤りだと考える。

 すでに指摘したように、戦後の神社界をリードしたはずの葦津先生が神社界の専門紙ではなく「中外日報」に所論を発表した意味を考えるべきだろう。レトリックを多用した葦津先生の文章は字面だけを読むべきではない。そして当時の自民党政権はきわめて弱体だったことを忘れるべきではない。

 つまり、今日とは政治状況がまったく異なり、憲法改正など夢のまた夢であり、なおかつ、内閣法制局が政教分離の厳格主義に凝り固まっていた時期である。その厳しい状況下で、御代替わりが刻一刻と目の前に迫りつつあったとき、便法として編み出されたのが、いうところの大嘗祭「公事」論なのだと私は思う。

 その目的は、良識ある神道人に信頼して、まっとうな議論を喚起し、問題点を浮き彫りにすることだったのだと思う。それにアウンの呼吸で反応したのが、上田賢治・国学院大学教授(のちの学長)だったのだろう。

 葦津先生の議論は正確にいえば、皇室の祭儀礼典に関するものなのに、ひとり大嘗祭に関する主張に曲げられて解釈され、驚いたことに、宮中祭祀一般は「私事」だが、大嘗祭は「公事」などという理解しがたい議論にまで発展している。「天皇に私なし」という皇室の原理の否定を葦津先生が容認するわけはないのに。

 古来、国の中心である天皇の御位の継承が国事でないはずはない。ところが、いまの憲法では「国事」といえば、「国事に関する行為」しかない。憲法は「国事行為」を列挙しているが、「国事」自体の定義はない。

 皇位継承に関する問題の核心は畢竟、憲法それ自体にある。しかし憲法を改正できないなら、次善の策を見出すしかない。その苦悩のなかで葦津先生がもがいていたであろうことを、所先生はまったく理解していないのではないか。

「国の儀式と皇室の行事に優劣があると考えるのは大間違いだ」などというのは、言い訳に過ぎない。


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意味論がすっぽりと欠けている ──荷田在満『大嘗会便蒙』を読む 14 [大嘗祭]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2019年10月19日)からの転載です

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意味論がすっぽりと欠けている
──荷田在満『大嘗会便蒙』を読む 14
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『大嘗会便蒙』下 大嘗会当日次第

▽14 意味論がすっぽりと欠けている

お、次に帛の御衣を著御し、本殿に還御す。伴、佐伯、南門を閉ず
大嘗宮地図@大嘗会便蒙@御大礼図譜.png

 回立殿で帛の御衣に召し改めなさり、紫宸殿をさして還御なさるのである。その渡御のあいだの儀は最前の戌の刻の渡御のときに同じである。今年(斎藤吉久註=元文3年)はこの還御が卯の刻(斎藤吉久註=午前6時)におよんだ。

(斎藤吉久註=『昭和大礼要録』(大礼記録編纂委員会編、昭和6年)によると、昭和天皇の場合、回立殿から頓宮に還御されたのは午前3時10分と記録されています。
 宮内庁がまとめた『平成大礼記録』では、平成の大嘗祭で、天皇が主基殿を御退出になったのは午前3時25分でした。
 元文3年の桜町天皇の大嘗宮の儀はずいぶんと時間がかかったもののようです)

 翌辰の日に悠紀の節会ということがある。すべて大嘗会はその年の新穀をまず天神地祇に供しなさり、つぎに天子も嘗なさる儀である。昨卯の日に神祇への供進は畢(おわ)ったので、今明両日は、天子が新穀を召し上がり、そのついでに諸臣へもたまうのである。

 今辰の日は悠紀の節会で、悠紀の国司から物を賜り、明辰の日は主基の節会で、主基の国司から物を賜る。

 ただ、今日の悠紀の節会のあとで、まず主基の節会の略儀なるをも行い、明日の主基節会の前に、また悠紀の節会の略儀なるをも行われるがゆえに、両日それぞれ両節会があるのである。

 まず今日の悠紀の節会には、天子が紫宸殿の悠紀の帳に出御なさる。昔は悠紀の帳、主基の帳といって、帳を別に設けられたのだが、いまは帳は1つで、その帳のまわりに悠紀の御屏風を立てめぐらせるので悠紀の帳と呼び、主基の御屏風を立てめぐらせるので主基の帳と呼び替えるのである。

 そして、中臣が賢木(さかき)を捧げ、紫宸殿前の版位について、天神の寿詞を奏し、群臣もともに奏することがある。

 また常の供膳のほかに、白黒の御酒を供する。白酒(しろき)というのはつねのすめる酒である。黒酒(くろき)というのは常山(くさぎ)の灰を入れた酒である。黒酒をこのようにするのは、延喜のころから見られ、いまも同じである。しかし、なかごろ(遠くない昔)は、黒酒には黒胡麻の粉を振ったことが見られる。

 そんなこともあったのだろうか、また一献のあとに、悠紀方の鮮味といって、雉子を梅の枝に付けたのと、蜜柑と搗ち栗とを髭籠(ひげこ)に入れて、松の枝につけて奉るのである。これは行事の弁といって、葉室権右弁頼要、悠紀の国司並びに膳部に持たせて、庭中に立てるのである。

 また三献のあとには、御挿頭(かざし)を奉り、臣下にも挿頭をたまう儀がある。その挿頭は、天子は桜で、銀で作る。大臣は藤、大納言は山吹、参議は梅で、いずれも真鍮で作り、滅金(めっき)をかける。ただ、この定めは昔と同じではない。

 このほかは内弁の行事、群卿の進退、供膳の次第等、常の節会に異なるところがないので、これを略する。

 また主基の節会には主基の帳に出御があるばかりで、常の節会と同じである。

 翌辰の日にも、まず、悠紀の節会がある。天子が悠紀の帳に出御があるばかりで、常の節会と同様である。

 つぎに主基の節会がある。主基の帳に出御があり、おおかたは昨日の悠紀の節会に同じである。ただ、寿詞の奏はなく、白黒の御酒を供しない。主基方の鮮味は、梟を楓の枝につけたのと、鶉を萩の枝に付けたのとを奉る。

 主基の行事の弁は、烏丸左少弁清胤、主基の国司ならびに膳部に持たせて、庭中に立てるのである。

 御挿頭を奉り、臣下にも挿頭をたまうのは昨日の悠紀の節会と同様である。

 このほかは常の節会と同じである。節会が畢(おわ)って、清暑堂代で御神楽がある。

 翌午の日に豊明節会ということがある。これは大嘗の礼が畢ったので、群臣と遊宴なさる儀である。

 今日は紫宸殿に高御座を飾り、天子がここに出御なさる。内弁の行事、群卿の進退、供膳の次第等以下、常の節会に異なることはない。

 ただ三献のあとに、吉志舞(きしまい)を奏する。昔は大嘗一会のあいだにあまたの歌舞があった。いまは辰巳両日、4度の節会に各風俗を奏し、豊明節会に国栖(くず)の奏とこの吉志舞とだけである。

 ただし、この舞も伝わらないということで、ただ伶人数輩が巡回するだけである。

 大嘗一会の儀式はこの豊明節会でことが畢わる。ただし、11月晦日まではなお散斎である。これを後斎という。

以在麿自筆本之写本比校完

文政12年7月26日 信友

(斎藤吉久註=以上、荷田在満『大嘗会便蒙』を簡単に現代訳した上で、全編をご紹介しました。大嘗祭の全容が手に取るように分かります。
 ただ、在満は5W1Hのうち、誰が、いつ、どこで、何を、どのように、までは説明してくれるのですが、なぜ、までは解説していません。
 なぜ大嘗宮は皮付きの柱を用いるのか、なぜ屋根は萱葺きなのか、なぜ皇祖神のみならず天神地祇を祀るのか、なぜ米と粟の新穀を捧げるのか、なぜ新穀を捧げる祭りが皇位継承の儀礼となるのか、在満は答えてくれません。
 在満だけではありません。天皇の祭祀について解説する、国学者、国文学者、祭祀学者、神道学者らが、天皇の祭祀の実態だけでなく、その持つ意味にまで踏み込んで、あるいは古来、天皇が祭祀をなさってきたことの本質的意味をも説明しているのを、少なくとも私は知りません。意味論がすっぽりと欠けているのです。
 今日、さまざまな混乱が生じているのは、当然の結果であろうと私は考えています。皇位継承論もまたしかりです。天皇学の深まりが急務なのです)


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寅の半刻にまで及んだ回立殿への還御 ──荷田在満『大嘗会便蒙』を読む 13 [大嘗祭]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2019年10月18日)からの転載です

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寅の半刻にまで及んだ回立殿への還御
──荷田在満『大嘗会便蒙』を読む 13
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『大嘗会便蒙』下 大嘗会当日次第

▽13 寅の半刻にまで及んだ回立殿への還御

レ、子の一の刻、神祇官、内膳膳部等を率い、主基の膳屋に還り、神饌を料理す
大嘗宮地図@大嘗会便蒙@御大礼図譜.png
 悠紀のときと同様である。


ロ、次に主基寮、御湯を供す

 これもまた小忌の御湯という。


ワ、御湯殿以下、一に悠紀の儀のごとし
回立殿内図@大嘗会便蒙@御大礼図譜.png
 御湯殿の儀で、祭服を召し替えなさることは、悠紀の儀との同様である。ただし、御冠は改めなさらない。

 次に御手水を供する。陪膳は悠紀のときと同様である。役送は勧修寺右中弁と烏丸左少弁清風とが勤められる。

 次に采女が時を申すことは悠紀と同様である。


ヰ、主基の嘗殿に還御す

 この道もまた大蔵の官人が2幅の布の単を敷く。ただし、回立殿から大嘗宮の、北の鳥居の内までは悠紀のときの道と同じである。

 北の鳥居を入って、行き当たりの袖垣と鳥居との中央から東へ折れて敷く。袖垣の東の端と悠紀殿の縁の端との中央から南へ折れて敷き、正中の鳥居の前から西へ折れて敷く。鳥居と主基殿の東の縁の端との中央から南へ折れて敷く、南の柴垣と主基殿の南の縁との端との中央から西へ折れて敷く。南階の中央に当たって北へ折れて、階下まで敷いて、この上を渡御がある。

 宮内輔が葉薦を敷き、掃部寮のこれを巻くより以下、路地の供奉ならびに渡御が終わって、大蔵、宮内以下、鳥居の外に出て、関白、外陣の西壁の下に著座しなさるまで、悠紀のときに少しも変わることはない。

 今年はこの還御が丑の刻(斎藤吉久註=午前2時)におよんだ。


ヱ、小忌の郡官、各著座。大臣、南鳥居内、西辺東南、納言以下、同鳥居外、東面北上

 悠紀のときに準じて知るべきである。すなわち納言以下の座は、右大臣の座の巡からやや西に当たる。


ヲ、大忌の公卿、移著の儀なし。

 これは小忌の人に対していうのである。昔は、このあいだに小忌の人が悠紀の幄の座を起って、主基の幄の座に移り就いた。いまは幄がないけれども、小忌の公卿は主基の座に改め就くのである。

 ただし、大忌の公卿は座を改め就く儀はない。これは小忌の人に対していうことである。昔も大忌の幄は、悠紀、主基の別がないため、移り就く儀がないからである。


ン、次に大忌の公卿、庭中の版位に就きて、手を拍つ

 悠紀のときと同様である。ただし、このたびは醍醐大納言は西の方にあり、清閑寺中納言はその東に少し退いて就かれる。また、この前に、開門のことは悠紀のときと同様である。ここに書かないのは、悠紀のときに準じて略したのである。


あ、寅の一の刻に御膳を供し、四の刻にこれを撤し、回立殿に還御す
大嘗宮内図@大嘗会便蒙.png
 いずれも悠紀のときと同じである。今年はこの還御が寅の半刻(斎藤吉久註=午前5時)におよんだ。

(斎藤吉久註=『昭和大礼要録』(大礼記録編纂委員会編、昭和6年)によると、昭和天皇が主基殿の儀で、御告文を奏上されたのが午前2時18分、回立殿から頓宮に還御されたのは3時10分と記録されています。
 宮内庁の『平成大礼記録』によると、平成の大嘗祭では、天皇が主基殿内陣の御座に就かれたのは1時04分、神饌御親供ののち御拝礼、御告文奏上をされたのは2時40分、主基殿を退出されたのは3時24分でした)


い、次に采女、南戸に進み、還り申すのことあり

 この采女も、時を申す采女と同じである。還申の詞は「あさめもとり、ゆふべあかつきのみけ、たひらかにつかんまつりつ」と申すという。


う、勅曰云々

 云々はかくのごとくという心で、この勅はよしとのたもう御ひと言である。


え、采女、称唯して退出す

 称唯は答えである。その詞はうう。


 次回は節会です。



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悠紀殿の神饌御親供は「神秘」にして語られず ──荷田在満『大嘗会便蒙』を読む 12 [大嘗祭]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2019年10月17日)からの転載です。

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悠紀殿の神饌御親供は「神秘」にして語られず
──荷田在満『大嘗会便蒙』を読む 12
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『大嘗会便蒙』下 大嘗会当日次第

▽12 悠紀殿の神饌御親供は「神秘」にして語られず

ム、近衛将、剣璽を捧げ、嘗殿の四面の簀子に候し、中臣、忌部、御巫、猿女ら、鳥居内に跪き、主殿、燭を執り、階下に候す

 これは天子が大嘗宮に到りたもうたときのことである。ゆえに貞享(斎藤吉久註=東山天皇の大嘗祭)の次第には、首に「到大嘗宮」の4文字があって聞こえやすい。

 嘗殿西面簀子は西の方の縁である。悠紀殿のときも、主基殿のときも、各その西の方の入口の、左右の縁の上に候せられる。

 その宝剣を捧げるのは北の方で、神璽を捧げるのは南の方にあって、階下は南階下である。天子が宮内におられる間、主殿の官人は始終、燭を取って、階下にいるのである。


メ、悠紀嘗殿に御す。大嘗宮の北門ならびに悠紀殿の西を経て、南面戸より入らしめ、大蔵の宮内、掃部、車持、子部、笠取等、鳥居の外に出でて、関白、便所に候す

 この道筋は、上の布単を敷くところに、委(くわ)しく書いたごとくである。南面の戸は、南向きの入口である。「関白、便所に候す」というのは、定まった座の形式がないがために、こうはいっても、貞享のときの摂政も、このたびの関白も、大嘗宮の外陣の西壁の下に、畳一畳を敷く。ここに東面して著座しなさるのである。


モ、小忌群官、各著座。大臣は南鳥居の内の東辺に西面す、納言以下は同鳥居の外の西面に北上す

 この座どもは、昔はみな幄中にあった。いまは幄を略されている。あらかじめ簀薦のうえに畳を敷いて設けておく。

 右大臣は南の鳥居の内の東辺に、渡御の道の布単から少し南に西面して著座される。大炊御門大納言は南の鳥居の外の東辺に西面して著座される。東面に東園中納言、その南に松木宰相中将が並び座される。ただし、この3人の座は右大臣の座の巡からはやや東に当たって、これを設ける。


ヤ、近代、弁、少納言、外記、史ら、これに著せず

 基本は弁以下も著座することから、小忌郡官であっても、右に見た4人ばかり著かれるのである。


ユ、次に開門、伴、佐伯、大嘗宮の南門を開く。次に大忌の公卿、庭中の版位に就く。南鳥居の外、異位重行。拍手訖(おわ)りて復座

 この版位は、上に見た、式部が設けた版位である。大忌の公卿が初著座されたところから少しばかり北に進んで、版位のもとにつくのである。

「異位重行」という並び方は、貞観儀式、西宮記以下に見えるけれども、近代、用いられるのは、後の成恩寺関白の説のように、大臣の後ろに3納言、その後ろに三位の中納言、その後ろに四位の宰相が列し、二位の中納言は大納言の末に少し退いて列し、三位の宰相は中納言の末に少し退いて列する。

 しかしこれは、大勢が列するときのことであって、ここの大忌の公卿はただ2人なので、清閑寺中納言、二位の中納言であるために、醍醐大納言の西の方に少し退いてつかれるだけである。

 拍手は2つずつ拍つだけである。このときの拍手は4つずつ8度、あわせて1人の拍手の数は32である。これを八平手という。

 大忌の公卿は、版のもとに就き、跪いて笏を差しはさみ、拍手しおわって、小拝して、本の座に復される。


ヨ、亥の一の刻、御膳を供す
神饌物之図1@大嘗会便蒙@御大礼図譜.png
神饌物之図2@大嘗会便蒙@御大礼図譜.png
 これすなわち、上に見た、神祇官の悠紀の膳屋で料理した神膳であって、これより前に東の鳥居の内柴垣の下に八脚の案を立てて、そのうえに運び、並べ置いて、それから悠紀の殿内へ供するのである。

 その儀は、伴造が火矩を取って前行し、卜部ならびに高橋、安曇の、内膳司、造酒司、主水司などがこれに預かる。

 その供する次第は、神秘であって、語られないので、いまの様は知ることがないが、貞観儀式、江次第などに詳しく見えているので、大して変わることはないだろう。

(斎藤吉久註=荷田在満が、大嘗祭の祭式について最大限に詳述しているのに、神饌御親供、御告文奏上、御直会についてはほとんど説明らしきものがないのは、秘儀としていかに強く認識されているかが分かります。まさに「凡そ神国の大事ハ大嘗会也。大嘗会の大事ハ神膳に過たることハなし」(一条経嗣「応永大嘗会記」応永22年)なのです。
 これに対して、昭和天皇の即位礼・大嘗祭についてまとめた『昭和大礼要録』(大礼記録編纂委員会、昭和6年)には、以下のようにさらに詳しく記述されています。
「晩秋の夜気身に迫るの時 陛下にはただ1人内陣の中、半帖のみを敷かれたる御座の上に厳然として端座あらせらる。燈籠の火影ほの淡く、神厳の気自ら乾坤に満つ。
 神食薦以下の女官、相次いで外陣に参入し、蚫汁漬を執れる掌典以下順次簀子に進み、捧持せる神饌を女官に伝えて本の所に復す。女官は受くるに随ひて、後取女官に傅へ、後取女官は之を陪膳女官に進め、陪膳女官すなはち進みて之を陛下に供し奉れば、畏くも神前に御親供あらせらる。
 御親供訖らせ給へば、御拝礼の後、御告文を奏し給ふ。時に8時40分。此の瞬間こそ、大嘗宮の儀のうちにも最も崇厳なる御時刻と申し奉るべく、御親ら大祀を行はせ給ひ大孝を申べさせ給ふ大御心、大神の感応、如何にましまさむ。
 次に御直会の儀に移る。即ち神に捧げ給へると御同様の御食・御酒を 陛下御躬らきこしめし給ふなり。此等の御食・御酒こそ、神々の威霊と大御宝の至誠との凝り成せる悠紀斎田の斎米もて造られしなれ」
 また、前回、宮内庁がまとめた『平成大礼記録』(平成6年)では、次のように記録されています。
「同(斎藤吉久註=午後)7時06分、天皇陛下が内陣の御座にお着きになった。掌典長および掌典次長が外陣に参入して内陣の御幌外左右に候し、侍従長は外陣に参入して東方に候した。この間、式部官の合図により、参列の諸員は起立した。
 海老鰭盥槽の掌典が簀子に進み、これを両采女に伝え、所定の位置に復した。陪膳采女および後取采女が御刀子筥及び御巾子筥とともに海老鰭盥槽を奉じて内陣に参入した。多志良加の掌典が簀子に進み、これを後取采女に伝え、後取采女は陪膳采女に伝え、陪膳采女が御手水を供した。掌典が簀子に進み、陪膳および後取の采女から多志良加および海老鰭盥槽を受けて所定の位置に復した。
 神食薦以下の采女8人が外陣に参入した。蚫汁漬を執る掌典以下が簀子に進み、これを外陣の采女に伝えた。采女は神饌等を後取采女に伝え、同采女はこれを陪膳采女に伝えた。
 天皇陛下が神饌を御親供になった。
 同8時39分30秒、天皇陛下が御拝礼になり、御告文をお奏しになった。この間、式部官の合図により、参列の諸員は起立した。
 次に御直会の儀があった」
 昭和、平成の記録とも、在満にもまして詳しいのに、もっとも中心的な神饌御親供については、具体的な説明らしきものが欠けています。神饌の御食は、昭和の場合は米としか書いてありません。平成は言及がありません)


ラ、四の刻、これを撤す

 天子が供し畢(おわ)られて、外陣の屏風の内に入り、休息され、四の刻にいたって撤しなさる。


リ、宮主、采女等、その儀に従う

 宮主は、いまの宮主は吉田神祇権少副兼成がこれを勤めるべきだが、今日はあまりに近い勤めなので、地下の人を用いがたいことから、吉田神祇権大副兼雄卿が宮主代としてこれを勤められる。

 采女は代とともに6人が出仕して役送を勤め、外に1人が内侍をもって代とし、内陣の供神の御手伝いを勤められる。

 宮主も采女も供するとき、撤するとき、ともに預かり勤められるのである。


ル、次に回立殿に還御す。その儀は初めのごとし

 御道筋は初めの道を用いなさる。御路の間、前行の大臣以下、御後ろの関白まで出御のときのようにする。今年はこの還御は子の刻すぎにおよび、これから左の儀式は準じて刻限が遅れたのである。


 次回は主基殿のお出ましです。


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回立殿から悠紀殿への渡御 ──荷田在満『大嘗会便蒙』を読む 11 [大嘗祭]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2019年10月16日)からの転載です

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回立殿から悠紀殿への渡御
──荷田在満『大嘗会便蒙』を読む 11
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『大嘗会便蒙』下 大嘗会当日次第

▽11 回立殿から悠紀殿への渡御

ノ、出御。その道、大蔵省、あらかじめ2幅の布単を敷き、宮内輔、葉薦をもって御歩に随い、布単の上に敷き、掃部寮、御後に随い、これを巻き、人はあえて踏まず

 これは回立殿より大嘗宮まで渡御の道である。

 先立って大蔵の官人が2幅の単の布を敷き置く。

 その敷き様は、回立殿の竹簀子の間の、南の方へ下る踏み段の下から南へ敷く。板囲いの手前8尺ばかりのところから西の方へ折れて敷く。大嘗宮の北の鳥居の前から南へ折れて敷く。鳥居をくぐり、行き当たりの袖垣と鳥居との中央から西へ折れて敷く。袖垣の西の端と主基殿の縁の端との中央から南へ折れて敷く。正中の鳥居の前から東へ折れて敷く。鳥居と悠紀殿の西の縁の端との中央から南へ折れて敷く。南の柴垣と悠紀殿の南の縁との端との中央から東へ折れて敷く。南階の中央に当たって北へ折れて、階下まで敷く。

 これが悠紀殿への渡御の道である。昔は柴垣の内の地面には8尺の布を敷くと見える。いまはそうではない。

 宮内は掃部の管領の官であるがゆえに葉薦を敷くのである。このたびは生島大輔治孝朝臣がこれを勤める。

 これはひととおり布単を敷いた上にまた葉薦を敷いて、そのうえを渡御しなさるのである。ただし、前方に敷き置くのではなく、御歩の次第に、御先へせんぐりに膝行して敷きゆくのである。昔は宮内輔両人が左右に膝行して、萱の薦を敷くとある。いまはそうではない。

 掃部の官人は御跡に随い、これを巻く。ただし、一度に巻かないで、御歩の次第に御後からせんぐりに巻きゆくのである。

 天子のほかの人はこの薦を踏まない。ただ、関白は御裾を持ちなさるので、少しは踏まれなければできない。


ハ、まず大臣、中臣忌部を率いて、前行す。大臣、中央にあり。中臣、左にあり。忌部、右にあり

 この大臣は、すなわち回立殿の坤の角の座に著座している大臣である。中央にありというけれど、正中では葉薦を踏んでしまうので、少し傍らへ寄って前行なさる。


ヒ、次に御巫猿女

 御巫は神を斎き祭る女である。昔は大御巫、生島の御巫、座摩の御巫、御門の御巫などというのがあった。いまは絶えてしまったので、このたびは斎藤讃岐守利盛朝臣の女を御巫に定めた。

 猿女は氏の名前である。昔、天照大神が天石窟にこもられたとき、猿女の君の遠祖、天の鈿女命が石窟の前でわざをぎし、神がかりして、天照大神を出しなさり、また天孫が天降りなさったときに、先立ちした功によって、神事の前行などは猿女を用いるのである。いまは絶えてしまったので、このたびは山口中務少丞盛行の女を猿女に定めている。

 この御巫、猿女も、大臣に率いられて、左右に前行する。


フ、次に主殿の官人2人、燭を執る

 もっとも上にいえる主殿寮の両人である。重威は左に立ち、燭を左の方へなして持ち、職秀は右に立ち、燭を右の方へなして持つのである。


へ、近衛の将、剣璽を取り、左右に候す

 近衛は御側を警固する官で、剣璽は宝剣剣璽といって必ず御身に随えて、放たれない。したがって近衛の次将がこれを取って御左右に候す。

 このたびは橋本左中将実文朝臣が剣を取って御左にあり、小倉右中将宣季朝臣が璽を取って御右にある。


ホ、御歩

 宮内輔の敷きゆく葉薦のうえを歩行しなさるために、御徒跣で、御履はない。供奉の人も布単のうえを行くため徒跣である。


マ、車持の朝臣、菅蓋を取り、差し覆い奉り、子部の宿禰、笠取の直、各1人、蓋の綱を取る

 車持朝臣、子部宿禰、笠取直はみな姓氏の名で、上世これらの諸氏の人が多かったときに、この役に当てたのを古例として、いまはその姓の人がいないために、他氏の人を代として勤めさせる。

 そのなかにも近例必ず六位の蔵人をもって代とする。これはいたって御側なる役であるため、蔵人を用い、手にわざがあるために高位を用いずに、六位を用いられるとみられる。このたびも車持の朝臣代は北小路極﨟大江俊包、子部宿禰代は慈光寺差次蔵人源澄仲、笠取の直代は小森丹蔵人丹波頼亮がこれを勤められる。

 菅蓋は、菅にて作られる差しかけ笠である。別に長い柄がある。柄の末が曲がって、少し下にその曲がったところに鳳凰のように、尾の長くない鳥を作りすえ、その鳥の啄を貫いて紐を下げ、その紐の末を蓋の頭にある鐶に通したもので、その柄をもって、蓋を天子の御上に差し覆い奉るのである。

 よって車持の朝臣は天子の御後にあり、また蓋の綱は蓋の裏の正中に、円に少し出たところがあって、これを綱で貫き、その綱の末を左右に分けて、これをとるのである。これは御蓋をかならず天子の御頭上へ、巡に置かんがためである。

 よって子部宿禰は天子の御左にあり、笠取直は御右にある。


ミ、次に関白

 御裾に候せられる。これまでが渡御の行列である。


 次回はいよいよ大嘗宮での作法です。


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