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大嘗祭に携わる官人たちの今昔 2 ──荷田在満『大嘗会便蒙』を読む 10 [大嘗祭]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2019年10月15日)からの転載です

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大嘗祭に携わる官人たちの今昔 2
──荷田在満『大嘗会便蒙』を読む 10
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『大嘗会便蒙』下 大嘗会当日次第

▽10 大嘗祭に携わる官人たちの今昔 2

ソ、亥の刻、回立殿に御す。帛御衣。警蹕せず。入御ののち、ことに高声を禁む
回立殿内図@大嘗会便蒙@御大礼図譜.png

 御すというのは渡御されることである。帛御衣は白絹の御袍で、天子の御神事に著御の御衣である。

 まず、本殿で御衣を召し、回立殿まで渡御なさる。御衣紋は高倉前の中納言永房卿、御前衣紋は坊城大納言俊将卿が参られる。

 警蹕は先をおうと調して、天子出御のときなどに、人々慎めよとの戒めに、近衛の将が声を上げて、ををををと呼ぶことである。しかしながらいまの世は、ををとはいわずに、直に警蹕と呼ばれるのは誤りである。つねのときの出御には、かならず警蹕する。このときは御致斎によって物音がなく静かならんがために、警蹕するのである。

 入御とは、ここでは、回立殿にお入りなさるのをいう。入御以前からも高声高音は禁じられるのだが、入御からのちはことに戒めるのである。

 昔は、回立殿に渡御なさるのに、鸞輿や腰輿などを用いられた。これは本殿から遠いからである。いまは渡御の間に土間がないため、御歩きなさる。

 ただし、夜中であるため、脂燭の殿上人がいる。このたびは五辻右衛門佐盛仲朝臣、堀河河中務大輔冬輔朝臣、船橋右兵衛佐親賢、富小路右京大夫総直、山科内蔵頭師言、北小路左兵衛権佐光香、藤井新蔵人卜部兼矩が、各燭を執り前行される。

 また内侍両人が剣璽を持って従い申し上げる。扶持将といって、介添えに近衛の次将1人ずつが内侍につく。このたびは東久世右中将通積朝臣が宝剣を扶持し、植松右中将賞雅朝臣が神璽を扶持される。


タ、関白、便所に候す

 当時の関白は一條兼香公である。便所は便宜のところであって、俗にいう勝手のいいところである。この間、関白の座所は定式がない。いずこなりとも便なるところに候しなさるのである。


チ、小忌の公卿、巽角庭上の座に著く。西面北上

 小忌の公卿の義は、上の大忌版位の下に註してある。このたびの小忌の公卿は大炊御門大納言経秀卿、東園中納言基楨(もとえだ)卿、松木宰相中将宗長の朝臣の3人である。
私小忌・諸司小忌@大嘗会便蒙@御大礼図譜.png

 庭上は回立殿の庭上である。回立殿の東の方の、板囲いの内殿より南に当たって、板囲いのもとに初めから簀薦を敷き、そのうえに畳を敷いて、3人の座を設けておく。そして3人の北の方を上座とし、西向かいに座につかれるのである。


ツ、大臣1人、小忌を著け、坤の角の座に就く。東面

 この大臣は、すなわち大嘗宮へ渡御なさるときの前行を勤めなさる。これを前行の大臣という。このたびは一條右大臣道香公がお勤めになる。

 これも上世にはひととおりには見えず、中古以後は私の小忌、諸司の小忌、出納の小忌、如形(かたのごとく)の小忌などといって、裁縫品々があった。いずれももとは私の小忌であるのを、略して製したものと見える。模様もいろいろあり、大嘗の当日、出仕の人々は大方小忌を着るのである。
出納小忌・如形小忌@大嘗会便蒙@御大礼図譜.png

 この大臣の座は、回立殿の西南、紫宸殿の東階の南に当たっていて、小忌の公卿と遥かに隔てて、対座にすごものうえに畳を敷き置き、大臣はこれに東向著座なさるのである。


テ、大忌の公卿、著座。南鳥居の外、北面東上

 大忌の公卿のことは、大忌の版位の下に註した。昔は大忌幄といって、南門の外に幄を建て、大忌の人は幄中の座に著いたが、貞享(斎藤吉久註=東山天皇の大嘗祭)ならびにこのたび(斎藤吉久註=桜町天皇の大嘗祭)などは、幄を略されて、ただ簀薦のうえに畳を敷いている。

 ただ、貞享には南の鳥居の外の少し東に、両人が南北に対座された。このたびは鳥居の外の正中の巡に当たって、両人ともに北面で、醍醐大納言は東、清閑寺中納言は西の方に座せられる。


ト、次に主殿寮、小忌の御湯を供す

 小忌の御湯のことは、上の御湯の下に註した。この御湯は回立殿の東の戸から供する。


ナ、御湯殿のことあり

 これは回立殿の東の間、竹簀子のところで、御湯を召されるのである。蔵人頭、五位の蔵人、六位の蔵人などが奉仕なさる。


ニ、次に御祭服を著く

 これは上に見た白生の御祭服で、すなわち中臣忌部の、内蔵官人を率いて、回立殿に置いた、二襲の御服のうちの御祭服である。

 これまで著御なさった帛の御衣御下襲を改められて、御祭服一襲を著御なさり、御冠をも絹の御冠に改め、御幘を御巾子に回されるのである。ただし、御表袴以下は、中古以来、改めなさらない。

 御衣紋は高倉前中納言永房卿、御前衣紋は葉室前大納言頼胤卿が参られる。


ヌ、次に御手水を供す

 陪膳は蔵人頭1人で、このたびは庭田頭中将重煕朝臣が勤められる。役送は五位蔵人2人で、勧修寺右中弁顕道、葉室権右中弁頼要が勤められる。


ネ、采女、時を申す

 この采女は、このたびは高橋采女正宗直がこれを勤める。

 回立殿の南の戸の辺について、これを申し上げる。ただし、この采女は昔の書に見られるのは女の采女であるようで、男官の采女司がこれを申し上げることはいまだに甘心しない。


 次回はいよいよ新帝のお出ましです。


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大嘗祭に携わる官人たちの今昔 1 ──荷田在満『大嘗会便蒙』を読む 9 [大嘗祭]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2019年10月14日)からの転載です

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大嘗祭に携わる官人たちの今昔 1
──荷田在満『大嘗会便蒙』を読む 9
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『大嘗会便蒙』下 大嘗会当日次第

▽9 大嘗祭に携わる官人たちの今昔 1

ケ、次に中臣、忌部各1人、縫殿大蔵等の官人を率いて、衾単を悠紀殿に置く。主基もこれに同じ。内蔵の官人を率いて、御服二襲絹の御*(巾ヘンに僕のつくり)頭を回立殿に置き奉る
回立殿内図@大嘗会便蒙@御大礼図譜.png

 中臣が当日、出仕するのは、藤波三位和忠卿、伊勢大宮司長矩の両人である。いずれも大中臣氏だからである。

 忌部も中臣と同じく、祭礼のことに預かる役である。昔は忌部氏の人が多かった。いまは大方消えたために、他氏の人を代わりに当てる。このたび忌部代として出仕するのは、伏原右兵衞権佐宣條、行事官神祇大祐紀春清の両人である。

 縫殿は衣服を司る役であるため、衾単のことに預かるのである。このたび縫殿の官人は深井縫殿大丞橘蕃術(しげみち)、大蔵の官人は清水大蔵少丞藤原利尹がこれを勤める。御衾御単はいずれも生(すずし)である。御衾は八重畳の上にのべ敷いて、御単は御衾の上、南の端のところにたたみて置く。

 内蔵は御服を司る役で、このたびは内蔵寮の年預出納(ねんよしゅっとう)右近将監職甫がこれを勤める。

 御服は白生(しろすずし)の御祭服と白御下襲を一襲として、悠紀の御殿に御せらるるときの料の一襲、主基の御殿へ御せらるるときの料の一襲、あわせて二襲である。

 絹の御*(巾ヘンに僕のつくり)頭というのは、*(巾ヘンに僕のつくり)頭はかんむりである。つねの御冠は羅で包み、菱をとじ付けて、有文のよしである。絹の御*(巾ヘンに僕のつくり)頭は絹で包み、菱のとじ付けはない。神事であるがゆえに、無文を用いなさる。

 この御服は回立殿内の南辺にあり、西の中央に当たって、一襲ずつ並べておく。御冠は柳筥にすえて、御服の西に並べておくのである。


コ、次に、神祇官1人が、神服(かんはとり)の宿禰を率い、入りて、繪服(にぎたえ)の案を悠紀殿の神座の上(ほとり)へ奠く。主基も是に同じ。忌部2人が入りて、麁服(あらたえ)の案を同座の上へ奠く。主基もこれに同じ。

 繪服、麁服ともに、ここは神服なるがゆえに、神祇官忌部がこれにあずかる。神服の宿禰は姓氏の名で、古来、神服を織ることを業とする家である。いまはこの姓の人はいないので、他氏の人を代わりに立てる。このたびの神服宿禰代は小野主計大丞紀氏兼がこれを勤める。

 繪服は「にぎたえ」と訓ずる。「にぎ」は和なる儀、「たえ」は絹布の総名で、「にぎたえ」はすなわち絹の古名である(昔は、このにぎたえは必ず神服が織ったものを用いた)。麁服は「あらたえ」と訓ずる。「あら」は麁悪の儀で、「あらたえ」はすなわち布の古名である(昔は、このあらたえは必ず阿波国忌部が織ったのを用いた)。

 このにぎたえ、あらたえは、各竹のひげこに入れ、四角に龍眼木(さかき)の葉をさして、八脚の案にのせる。これを繪服案、麁服案という。神座上は神席のほとりである。うえではない。この2つの案は神座の北辺、左右に分かち置く。繪服の案は西にあり、麁服の案は東にある。

(斎藤吉久註=麁服はふつうは麻の織物といわれますが、在満は単に「布」としか説明していません)


サ、次に、神祇官、内膳膳部等を悠紀の膳屋に率い、神饌を料理する

 内膳は御膳を司る官であるがゆえに、神膳を料理する。昔は、内膳官は高橋氏と安曇(あずみ)氏と、両氏からこれに任じた。その後、安曇氏が絶え、高橋氏ばかりになって、両氏がそろわないので、高橋氏が伴氏のうちの人を安曇氏代とした。

 このたびは高橋氏内膳は浜島内膳奉膳(ぶぜん)等清(ともきよ)がこれを勤め、安曇氏内膳は石塚左近伴嘉亭がこれを勤める。

 膳部は内膳に属する職であり、俗にいう料理人である。膳屋の作り様は、上に記した。

 神饌は神膳というのと同じで、供神のものである。御飯、米御粥、の御粥、和布羹、鮮物4種、干物4種がある。

(斎藤吉久注=荷田在満が、国郡卜定のくだりでは米のみで、粟について言及しなかったのに、ここでは大嘗祭の神饌に米と粟があると解説していることが注目されます)


シ、主殿寮、忌火をもって燈燎を両院に設ける。おのおの2燈2燎

 主殿寮は燈燭を司る燭であるので、燈燎を設ける。このたび出仕するのは小野主殿権助重威、小野主殿少丞職秀の両人である。

 忌火は斎火であって、別段の火があるわけではない。新たに火を鑽って、大嘗宮にともすがゆえに忌火というのである。

 燈燎とは、燈はとみし火で、燎はたき火であるが、このところでは大嘗宮のうちの北の端にある黒木の燈楼をさして燈といい、中央にある白木の燈台をさして燎というとも見える。

 両院は悠紀殿と主基殿とである。一院に2燈2燎ずつ、両院で4燈4燎、あわせてともし火の数は8つである。

 昔の燈は、布で燈柱とした。いまはそうではない。


ス、伴、佐伯、門部を率い、庭燎を南門外に設ける

 伴、佐伯は、上に述べた、胡床に著いた両人である。門部は衛門府の下に属し、御門を守る者である。

 この庭火は、大嘗宮の南門の外、正面に1カ所にこれを置く。伴と佐伯と、おのおの設けるのではない。また昔は、門部8人で、この火をたいた。いまは2人で焚くのである。


セ、主殿寮、大忌の御湯を供す

 湯沐のことも主殿寮の役である。大忌の御湯とは、大忌の意味は上に註したごとしである。御斎戒が重いがゆえに、御湯をたびたび召される。そのまず一度召される湯を、大忌の御湯と名づけ、のちに両度召されるのを小忌の御湯と名づけているだけである。


 次回は新帝のお出ましまでです。

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御神座、御座を誰がどのように設えるのか ──荷田在満『大嘗会便蒙』を読む 8 [大嘗祭]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2019年10月13日)からの転載です。

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御神座、御座を誰がどのように設えるのか
──荷田在満『大嘗会便蒙』を読む 8
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『大嘗会便蒙』下

大嘗会当日次第

▽8 明け方から始まる祭祀

ア、平明、中臣、大嘗の宮殿および門を祭る

 平明は卯の刻に用いられる。中臣は祭詞のことに預かる職である。今度は藤波三位和忠卿が勤められる。大中臣氏だからである。

 大嘗宮殿を祭られるのは、大殿祭といって、殿中に禍がないように、屋船久々遅命(やふねくくのちのみこと)、屋船豊宇気姫命(やふねとようけひめのみこと)に。大宮売命(おおみやのめのみこと)を取りそえて祭られる。

 また、門を祭られるのは、御門祭といって、荒ぶるものが入り来たるのを防ぎたまうために、櫛磐牖命(くしいわまどのみこと)、豊岩牖命(とようけまどのみこと)を祭られる儀である。

 中古までは、毎年6月12月に、大殿御門の祭りがあった。いまの代は絶えたのだろうか。つねには聞かなくなった。また、この祭りは大嘗の当日ではなく、寅の日以前に行われることとみられる。


イ、兵庫寮、神楯戟を大嘗宮の南門の東西に立てる。各1枚1竿

 兵庫寮は武器を司るがゆえに、楯戟を立てる。今度は川越兵庫頭賢兼がこれを励む(昔は石上榎井両氏の人が内物部を率いて、これを立てた。兵庫寮は預からなかった)。

 神楯は長さ3尺ばかり、広さ1尺2寸ばかり。頭は闕たるがごとくで、とがったところが3つばかり出ている。裏の方に執っ手がある。表裏ともに黒塗りである(昔の楯は、岳も長く、幅も広く、数も南北門で4枚あった。後世は略されて、南門にばかり2枚をおく)。

(斎藤吉久注=荷田在満が要所要所で、昔の大嘗祭との相違点を細かく指摘していることは注目されます。そしてそのことが公卿たちの反感を招き、在満が幕府から閉門を命じられる一因ともなったのでした)

 神鉾は、柄の太さが7寸、廻りは黒塗り。鍔には金箔を貼る。鍔の下に大和錦のひれがある。ひれの末が3つに裂けて、3つともその端がとがっている。この鉾は大嘗宮の南門の外の東西に、ひと竿ずつ地に突き立てる(昔はこの鉾が8本だった)。

 は鉾の外の方に一枚ずつ表を外の方になして、柴垣に立てかけておく。


ウ、次に伴、佐伯各1人、南門の左右の外腋の胡床に分かれて著く

 伴、佐伯は、氏の名が昔からこのような大儀には、伴氏と佐伯氏と、大門を開閉することである。中古まで両氏の人が多かった。いまは両氏ともに少しだけ残っているため、代わりに他氏の人を用いられる。こんど、伴氏の代わりには榊原右衛門大志和気董正、佐伯氏の代わりには岩崎右官掌紀氏信がこれを勤める。

 胡床は腰をかけるものである。伴氏の胡床は、南門の外の左の方にあって西面し、佐伯氏の胡床は右の方にあって東面する。ただし、両人とも、少し南へ曲げて向かう。正確に東西には向かわない。


エ、次に、式部、大忌の版位を南門の外庭に設ける

 式部は礼儀を司る官であるがゆえに、版位を設けることを役とする。今度は、宗岡式部少丞経重がこれを勤める。

 大忌とは大斎である。大嘗につき斎戒する。諸司のうち、厳密に斎戒するのを小忌といい、大概に斎戒するのを大忌という。

 昔は諸司百官のうち、卜にあたって神事に預かるものは小忌であり、そのほかはみな大忌であった。いまはただその風を残して、小忌の公卿何人、大忌の公卿何人と定められる。このたびは、大忌の公卿は、醍醐大納言兼潔卿、清閑寺中納言秀定卿の両人である。

 版位とは、版は札である。位は場所である。

 これは朝廷で、何ごとにつけ儀式が行われ、庭上に大勢が列立するとき、広いところだから、その出仕する人の心に任せて列立すれば、その場所がよろしくないから、それ以前にここに何位の立つべき場、ここに何官の立つべき場という印に札を置く。その札を範囲ともいい、版とだけともいう。

 昔の版位は、大きさが7寸四方、厚さ5寸と儀制令に見られるが、いまはやや大きく見える。ここに設ける版位は、下に見える大忌の公卿の初の座より進み、拍手する場所の印に、南門の外に置くのである。


オ、大臣、打拂筥を取り参上す

 これより下6箇条は、大嘗宮の内をしつらう所作である。

 打拂筥とは、打拂の布といって、神座を拂う料の布を入れた柳筥である。大臣は、これを大嘗宮まで持参なさるだけである。


カ、次に参議、弁、坂枕を舁く
大嘗宮内図@大嘗会便蒙.png

 坂枕というのは、大嘗宮神座の八重畳の下に敷く枕である。これまた参議と弁とこれを舁いて、大嘗宮まで持参するだけである。


キ、次に侍従、内舎人、大舎人ら、神座、御座等を舁き参入

 侍従は石井侍従行忠朝臣、内舎人は西村飛騨守則貞、大舎人は荒木大舎人少丞高橋栄庸、これを勤める。

 神座は1丈2尺の畳、9尺の畳、6尺の畳、八重畳などである。御座は主上の御座の半畳である。これまたいずれも大嘗宮まで持参するだけである。


ク、次に掃部、殿内に入り、これを供す

 掃部は座を布き、席を設ける役なので、これを供するのである。当日、出仕するのは、押小路掃部頭師守、清水掃部助藤原利音、平岡掃部少丞藤原俊方の3人である。

 これは上に見た大臣以下の持参するものを飾り設えるのである。

 まず神座は内陣の中央に1丈2尺の畳を敷き、そのうえに6尺の畳を、たてに2畳ずつ二重かさねて、4畳敷く。この4畳の内、南の方の2畳には、白布の裏がある。そのうえに9尺の畳を敷く。この畳はこれより下の畳と南の端をそろえて敷くので、北の方は3尺あくことになる。そのあいたところに、6尺の畳の上に錦の御沓1足を北面に置く。

 この9尺の畳は、昔は7畳を重ねて敷き、そのうち1畳を少し東の方に引き出して、その引き出したところに打拂の筥を置くとあり、貞享には、ただ4畳かさね、そのうち上の2畳に白裏をつけ、下の2畳を少し東へ引き出して、その引き出したところの南の端から、すこし北の所に打拂の布を置かれ、筥はその東に畳を離れて、置かれる。

 このたびも貞享のようなのか、神秘なので、その役人が語らないので、詳らかではない。

 この9尺の畳の上、南の端に坂枕を敷いて、そのうえに9尺の八重畳を敷いて、これを神座とする。すべて畳は白縁である。

 また御座は神座の東、八重畳の中央から北の方へ寄せて巽向に半畳を敷く。神座、御座のしつらい様は、悠紀の御殿にひととおりかくの如しで、また主基の御殿にもひととおりかくの如しで、少しも変わることはなく、ふたとおり設けるのである。

 次回は回立殿から。

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回立殿は板葺き、膳屋はプレハブの異常 ──荷田在満『大嘗会便蒙』を読む 7 [大嘗祭]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2019年10月12日)からの転載です

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回立殿は板葺き、膳屋はプレハブの異常
──荷田在満『大嘗会便蒙』を読む 7
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『大嘗会便蒙』上巻 元文3年大嘗会

▽7 回立殿、膳屋その他

ト、回立殿
大嘗宮地図@大嘗会便蒙@御大礼図譜.png
 さて、紫宸殿の東庭、内侍所の西の方、少し北に寄って、回立殿を建てる。これは大嘗宮に渡御なさるとき、まずこの殿に渡御があり、御湯を召され、御装束を改めなさるところである。

ナ、回立殿の建て様

 建て様は、南北3間、東西5間(昔は長さ4丈、広さ1丈6尺だった)。ただし、西の方3間を1間とし、これにはそのなか2間四方に畳を敷き、東の方2間を1間として、これは竹簀子である。

 その2間の界は、南北3間のうち、なかの1間は開き戸2枚で、南と北との1間ずつの張り出し、近江表にぬきを入れることは大嘗宮と同様である。


ニ、回立殿の柱

 柱の立て様は、みな1間ずつの間で、4面合わせて16本あり、2間の界に2本、あわせて柱数18本である。


ヌ、回立殿の縁、階段

 四方に縁はない。南面西から第4の柱と、第5の柱との間、1間に箱段を付けて、渡御のときに降りられる道とする。北面、西より第2の柱と、第3の柱との間は、1間は御茶湯所との界となる。

 同じく第3の柱と、第4の柱との間は、1間に箱段を付け、御茶湯所へ下がる道とする。西面、南第2の柱の南から、第3の柱の少し北までは、1丈の間に、紫宸殿寄りの橋廊下を取り付ける。


ネ、回立殿の壁、開き戸

 さて、四方に壁はない。近江表を当て、皮付きの松の木でぬきを入れる。ただし、南面西から第2の柱と第3の柱との間は、1間は2枚の開き戸である。また第4の柱と第5の柱との間は、1間も2枚の開き戸で、かんぬきは内締めである。

 また東面は幅3間のうち、なかの1間の間と、北面西から第3の柱と第4の柱との間は1間と、西面3間のうち、なかの1間の間と3所ともに2枚の開き戸で、かんぬきは外締めである。


ノ、回立殿の天井、屋根

 殿のうちは、天井はみな近江表である。屋根は苫葺きで、桁行が東西5間、梁行が南北3間である。

(斎藤吉久注=今回、宮内庁は屋根を苫葺きではなく、板葺きとすることを決めています)


ハ、回立殿の廊下その他

 さて、18間廊下の中央に、回立殿の西から、第2の柱から第4の柱までの間に当たって、2間の間は、御廊下を取り放し、回立殿の北の端から18間、廊下の北の端まで、南北3間半、東西2間のうち、土間に板を敷き、そのうえに畳を敷き、苫葺きの屋根をかけ、そのうち南の方2間四方は御茶湯所とし、近江表で東西を囲む。

 ただし、外の方は板囲いである。北の方の2間に、1間半のところはただ北の方、小御所への通い道である。その西北の隅に、西の方、御廊下へあがるべき箱段を付ける。


ヒ、紫宸殿から回立殿まで

 さて、紫宸殿の東の縁の、東南の隅の少し北より、回立殿の西表、中央より南へ少し寄ったところまでに、筋交いに橋廊下をかける。長さ7間半、幅は1丈ある。南北両方、近江表で囲い、竹と松の皮付きとで押縁をうち、屋根は苫葺き、垂木駒居はみな竹である。


フ、回立殿東側・西側の板囲いその他

 さて、回立殿の東の方、1間余も東へ寄せて、北は18間廊下まで、南は大嘗宮の北の柴垣の通りまでに、板囲いを建てる。その板囲いの南の端に、東の方から入るべき入口を付ける。

 そのところより柴垣の東北の角までに、また板囲いをめぐらせる。また、紫宸殿の西より、第2の柱の通りに当たり、北は紫宸殿の縁のもと、南は大嘗宮の北の柴垣までに、また板囲いを建てる。


ヘ、悠紀の膳屋

 また月華門の南の廊を、近江表で囲いめぐらし、悠紀の膳屋とし(昔の悠紀、主基の膳屋は柴垣の内にあった)、悠紀の神膳をここで料理する。

 その膳屋の東南の隅に、長さ南北2間、幅1尺5寸の棚を作る。割竹を釘にして打ち付けるのである(昔の棚は*(木偏に若)でつくる)。棚の高さは土間から2尺余り、供神のものは、盛り立てて、この棚の上に置くのである。

 その棚のある通りには、外の方、筵囲いの上に、椎の葉を当て、割竹で押縁を二通り当てる。

(斎藤吉久注=宮内庁は今回、木造ではなく、組み立て式建物への変更を決めました。異常です)


ホ、主基の膳屋

 また、月華門と宜陽殿との間の廊を、同じく近江表で囲い隠し、主基の膳屋とし、主基の神膳を、このところで料理する。

 この膳屋には竹棚はない。


マ、膳屋の開き戸

 2つの膳屋はともにそれぞれその西南の隅に、西の方より入るべき開き戸がある。竹の折り戸の両面から近江表を当てたのを、縄で結びつけておくのである。


ミ、御行水の釜

 また月華門の北の廊の内に、御行水の湯を沸かす釜を置く。釜の座は3尺ばかりで、四方の廊の柱に、近江表を当てて、囲いめぐらし、3尺ずつの腰板を当てる。ただし、ここは主殿寮の役人が作る。

 総じて、大嘗会について、新たに作られる所が昔は夥しいことで、書き連ねるべきことではない。いま作られる所は大略、以上である。

(斎藤吉久注=大嘗宮の構造について、ここまで詳しい資料は、私は読んだことがありません。戦前・戦後を通じてもっとも偉大な神道思想家といわれる今泉定助が、大正天皇の即位礼・大嘗祭を目前に編述した『御大礼図譜』(池辺義象との共編。大正4年8月)の付録に、この書を活字に直して全文引用したのには意味があることでした。
 ただ、凡例に、大嘗祭が戦国乱世以後、中絶し、徳川時代に再興したのではあるけれど、古儀を遵奉していることは『大嘗会便蒙』を読めば分かると指摘する一方で、斎田点定について、上古は全国から卜定されたのを、中古以来は国を限り、郡のみを卜定されていたが、明治以降、これを改め、大正以後は京都の東西に悠紀主基を卜定されることになったと解説しているだけなのは十分とはいえません。
 端的にいって、大嘗宮の規模拡大について、今泉はどう考えていたのでしょうか。
 宮内庁の大礼委員会は、大嘗宮の規模や形態について歴史的な変遷があり、近代以降、大正・昭和に定型化され、前回は昭和の大嘗宮に準拠したと理解し、そのうえで今回、屋根や柱の変更を決めています。
 大礼委員会は「儀式の本義に影響のない範囲」「建設コストの抑制にも留意」と説明していますが、過去の歴史にない変更はあり得ないのではありませんか。荷田在満ならどう思うでしょう。
 最後に蛇足ながら、在満の『大嘗会便蒙』上巻は大嘗会の歴史、斎田点定、荒見河の祓御禊、由の奉幣、大嘗宮の設営などについて説明していますが、一条兼良『代始和抄(御代始鈔)』(寛正2年)に解説されている抜穂標山についての言及がありません。
 明治の登極令では民衆との接点が生まれる荒見河の祓、御禊、標山が失われ、その一方で、登極令では大嘗祭前日の鎮魂式が規定されています。既述したように、登極令以後、石清水、賀茂社への奉幣はなくなり、山陵への勅使参向に代わりました。その背後に何があるのでしょう)

 次回から『大嘗会便蒙』下巻を読みます。


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大嘗宮の屋根を板葺きに変更するのは政教分離違反!? ──荷田在満『大嘗会便蒙』を読む 6 [大嘗祭]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2019年10月11日)からの転載です

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大嘗宮の屋根を板葺きに変更するのは政教分離違反!?
──荷田在満『大嘗会便蒙』を読む 6
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『大嘗会便蒙』上巻 元文3年大嘗会

▽6 悠紀殿と主基殿

コ、悠紀殿の祭神、規模
大嘗宮地図@大嘗会便蒙@御大礼図譜.png
 さて、東の鳥居のうちに1間しりぞけて悠紀の御殿を建てる。このうちに天神を祭られる。建て様は南北5間、東西3間(昔は長さ4丈、広さ2丈6尺)。

(斎藤吉久注=荷田在満が、大嘗祭で祀られる祭神について、悠紀殿は天神、主基殿は地祇だと理解しているのは、注目されます)


サ、大嘗宮の整地

 まず、あつか草といって青葉を地にしき、そのうえに竹簀子をかき、そのうえに近江表をしく(昔は大嘗宮に用いられたのはすべて葛野席、小野席、伊勢の斑席などだった。いま用いられるのはすべて近江表である)。


シ、悠紀殿の内陣、外陣

 南北5間のうち、北の方3間を内陣とし、南の方2間を外陣とする。内外陣の界には、東西より4尺5寸ずつの張り出しがある。なかの1間半の間は筵にぬきを当てた開戸が4枚、2枚ずつ蝶つがいで両開きである。


ス、悠紀殿の柱

 柱はいずれも松の皮付きである。立て様は南の方、北の方は1間半ずつの間で、両端と中央とに1本ずつばかりある。西の方、東の方は、内陣は1間ずつの間で、北の端と外陣の界との柱の外に間柱が2本ある。外陣は1間半と間中との2間で、南の端の柱から間中北に1本がある。それより内陣の境の柱まで1間半である。この外に東西の張り出しのとまりに1本ずつ、すべて内外陣の柱数16本である。


セ、悠紀殿の縁、階

 さて、四方に竹縁がある。南の縁は幅1間、残り3方は幅半間ずつである。南の縁の西のはずれから間中を去って、幅1間半の階を付ける。その作り様は、皮付きの松の木を2つ割りにして、皮目の方を外になして当て、そのうえに平らな板を打ち付け打ち付けして、3段にする。また西の縁の南のはずれから1間半去って、幅1間半の階を付ける。作り様は、南の階に同じである。


ソ、悠紀殿の壁、南表の開き戸

 さて、四方壁はない。みな近江表を当て、皮付きの松の木でぬきを5本ずつ入れる。ただし、南表は幅3間のうち中央の柱から西の方1間半を入口とする。開き戸がある。

 近江表に皮付きの松の木にて四方の縁とぬきを3つずつ当てる。このようなものを1間半の間に4枚ある。ただし、2枚ずつ蝶つがいにつなぎ、南開きにする。かんぬきは、これも松の皮付き、藤でからくり外締めである。

 この開き戸のうちには葭の簾がある。へりは白紙で付ける。簾の内の方は白い布の幌を垂らす。幌のうえに白い布の房を2筋垂らす。花鬘むすびが8段ある。また、中央の柱から東1間半は四方のように近江表を当てたうえに、ただ葭の簾を垂れておく。


タ、悠紀殿の西表、北表、東表

 また、西表は、これも階の付いた1間半の間を入口とする。開き戸はこれも近江表で、松の木を当てることなど、すべて南表の開き戸と同じである。ただし、この開き戸は1間半の間に2枚で両開きである。蝶つがいはない。

 そのうちに葭簾、巻き上げ布、幌房など、南表に異なることはない。入口より外、内陣外陣あわせて3間半の間、ならびに北表の分は近江表とぬきとばかりで、簾もかけないで、また東表は内陣の間3間、ならびに南の端、間中の間は北面と同じく、近江表とぬきとだけである。残る1間半の間は、そのうえに葭の簾を垂れておく。南表の東の間と同じである。


チ、悠紀殿の鴨居から上棟の下まで

 さて、南表の鴨居から上棟の下までは、3間ともに、近江表にぬきを当てただけである。北表もこれと同じである。ただし、北は下までこの通りで、ひと続きである(延喜式には東南西の三面、みな簾をかける。ただし、西面2間は簾を巻くと見える。いまはこれと同じではない)。御殿の内天井はみな近江表である。


ツ、悠紀殿の屋根

 さて、屋根の長さは、南北7間、ただし南の端は縁の端と等しく、北の端は縁より間中が長い。南北ともに柴垣より屋根の端までの間、1間半ずつある。東西は勾配に下がって、軒口と縁の端と同じである。

 屋根はすべて萱葺き、棟は皮付きの松の木で、南北の端にかたそぎがある。外の方をそぐ。棟に鰹木を渡すことが3箇所、南北のけらばの下に榑風がある。千木といって、期の頭を出すこと、棟より西に4つ、東に4つある。

 萱葺きの下に、南北に渡した木がある。棟より西に8つ、東に8つある。その8つのうち、最上にあるのは白木で、その次は黒木、これより白木と黒木を互いに置いて、第8本の黒木は鴨居の巡に当たる。東西合わせて16本あり、ともにその端が南北に余り出でる。ただし、榑風よりは1間ばかり奥の方で、萱葺きの屋根裏に見える。

(斎藤吉久注=宮内庁は昨年暮れの大礼委員会で、大嘗宮の設営方針を示し、「儀式の本義に影響のない範囲での工法・材料の見直し」「建設コストの抑制」を行うことを決めました。その結果のひとつが、「回立殿、悠紀殿、主基殿の屋根材を萱葺から板葺に変更」することでした。
 古来、萱葺きとされてきた大嘗宮の屋根を経費節減のために変更することは、儀式の本義に影響しないといえるのでしょうか。皇室の伝統より経費節減を優先させなければならない理由は何でしょうか。
 政府は大嘗祭を神式の宗教儀式と解釈し、このため政教分離の観点から「国の儀式」とはできないという姿勢ですが、経費節減を根拠に儀場の設営のあり方に介入することは政教分離違反ではないのでしょうか)


テ、主基殿

 さて、また柴垣の西の鳥居のうちに、1間しりぞけて主基の御殿を建てる。このうちにて地祇を祭られる。

 建て様は、大きさが入口の付け様まで悠紀の御殿に少しも異なることがない。ただ、片そ木のそぎ様は外の方をそがずに、下の方をそぐ。これよりほかには変わるところはない。


 次回は、回立殿、膳屋その他です。

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近代化で大規模化した大嘗宮 ──荷田在満『大嘗会便蒙』を読む 5 [大嘗祭]

以下は『誤解だらけの天皇・皇室』メールマガジン(2019年10月10日)からの転載です。

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近代化で大規模化した大嘗宮
──荷田在満『大嘗会便蒙』を読む 5
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『大嘗会便蒙』上巻 元文3年大嘗会

▽5 大嘗祭の期日、大嘗宮の規模

ア、大嘗会の期日

 さて、大嘗会の当日は、いつも霜月下の卯の日に定まっていて、もし卯の日が3つあれば、中の卯の日を用いられる。今年(元文3年)は霜月19日丁卯に当たっている。

(斎藤吉久注=今回は11月に卯の日が3回あり、中の卯の日の14日の夜から大嘗祭が予定されています。
 ただし、これは前回も同様ですが、太陽暦(グレゴリオ暦)の月と陰暦(太陰太陽暦。天保暦)の日を組み合わせた変則的な期日設定の結果で、このためさまざまな不都合が生まれています。神饌の稲は極早稲しか対応できず、干し柿作りはたいへんな苦労を強いられるそうです。
 明治5年の改暦で、翌年以降、毎年の新嘗祭は11月23日に固定されています。一方、平成の大嘗祭は22日でした。それらより約10日早いのですから、現場の混乱は必至でしょう。もし月も陰暦にするなら、12月20日が陰暦11月の下の卯の日に当たります)


イ、設営

 まず、当日の4、5日以前までに、修理職の役人が大嘗宮を作り畢(おわ)る。
大嘗宮地図@大嘗会便蒙@御大礼図譜.png
(斎藤吉久注=儀式によれば、10月になって用材を準備し、大嘗祭当日の7日前に造営に着手、5日間で完成させたようです。在満のころは少し違うようです。
 近代になる、大嘗宮が大規模化し、さらに日数がかかるようになりました。今回は7月着工、今月末に完成の予定と伝えられます)


ウ、全体の規模

 その作り様は、まず、紫宸殿の南の庭に、東西16間、南北10間(斎藤吉久注=1間が6尺=1・8メートルとすると28・8×18メートル)の柴垣を作りめぐらす(昔の垣は東西21丈4尺、南北15丈(斎藤注=1丈が3メートルとすると64・2×45メートル)である)。

(斎藤吉久注=紫宸殿南庭は東西約60×南北40メートルの広さがあります。そのなかに柴垣がめぐらされ、大嘗宮が建てられました。在満によると、儀式のころに比べると、桜町天皇の大嘗宮はこぢんまりしています。
 明治以降、巨大化した大嘗宮は紫宸殿南庭では納まらず、近代法による最初の大嘗祭となった大正の大嘗宮は、京都・仙洞御所の北側を新たに切り開き、東西60間、南北60間を板垣で囲い、そのなかにさらに東西40間、南北30間を柴垣で区切ったなかに、悠紀殿・主基殿が建てられました(岩井利夫『大嘗祭の今日的意義』昭和63年)。
 今回も、前回より8割程度に縮小されるとはいえ、東西89・7×南北88・15×1・1メートルの外周垣で敷地が設定され、そのなかに東西58・1×南北40・85×高さ1・1メートルの柴垣がめぐらされます(昨年12月の宮内庁大礼委員会資料)。
 近代以後、大嘗宮が大規模化した原因について、岩井利夫・元毎日新聞記者は、近代化で、国の威信を世界に示す必要があっことを指摘しています。
 もっと具体的にいえば、参列する皇族用の小忌幄舎や招待者用の幄舎が設けられるからです。参列しても祭祀は直接は見られません。天皇の祭祀は拝観を予定していません。晩秋の夜間の神事です。「秘儀」だからです。
 屋外の幄舎は暗いし、寒いでしょう。内外から高齢の要人を招くなら、大嘗宮の付属施設ではなく、宮殿内に席を設け、ビデオで解説するなどの便宜を図ったらどうでしょうか。
 近代以前の回立殿、悠紀殿、主基殿、膳屋の基本構造だけなら、京都の紫宸殿南庭とはいわないまでも、東京の皇居宮殿東庭で十分行えるはずです。
 大正の大嘗祭に事務方として携わった柳田国男は、「およそ今回の大嘗祭のごとく、莫大の経費と労力を給与せられしことは、まったく前代未聞とこと」と批判していますが、現代にも通じます)


エ、柴垣

 垣の高さは6尺ばかり。柴は内の方は北山柴、外の方は萩の柴、いずれも2たけである。竹で押縁(おしぶち)をし、縄で横に5ところを結う。4方角に皮付きの桧の副え柱がある。その柱を柴で太く包み、上の方を開き、すそ細に作る。

 前日になって、椎の枝を垣一面にさしめぐらす。これを椎の和恵(わえ)という。

(斎藤吉久注=前回、今回とも1・1メートルで低くなっています。参列者から見やすいようにという無用の配慮でしょうか)


オ、皮付きの鳥居

 垣の四方にくの木の皮付きの鳥居を立てる。ただし、南北の鳥居は垣の中央にあり、南北の鳥居は中央より少し南へ寄せる。

 鳥居の幅は4つとも8尺ずつ、高さは南西東の3方は一の笠木の下端より9尺、北のばかりは二の笠木の下端より9尺である。そうでないと渡御のとき、御菅蓋がつかえるため、あとから改められた(貞観のころの門は高さが1丈2尺、広さ1丈2尺である。延喜にいたって、4つとも高さ9尺、広さ8尺となった)。


カ、屏籬

 また、西東の鳥居の外に一間ほど置いて、南北2間の袖垣を立てる(これを屏籬という。昔は長さ2丈5尺あった)。垣の作り様は四方の垣に同じ。垣の南北の端には副え柱がある。これも柴で太く包む。四方の垣の角と同じである。


キ、開き戸

 また、四方の鳥居に開戸がある。これも同じく柴で作り、割竹で縁を四方に回し、表裏よりも筋交いに綾杉のように当て、かんぬきは松の皮付き、藤でからくり差し込み(昔の扉はシモト(木偏に若)で作った)。いずれも外締めである。


ク、もうひとつの鳥居

 また、柴垣の内、東西南北の中央に当たり、東西へくぐれる鳥居を1つ立てる。これもくの木で作る。高さ、幅ともに南西東の鳥居と同じである。ただ、1間半余ずつ柴垣を立てる(昔はこの垣は長さ南北10丈のうち、南の端に小門を開き、門より北に9丈、南に1丈あって、中央に門はなかった)。


ケ、もうひとつの屏籬

 その垣の南北のはずれに、各1間ほどの柴垣を、東西の行に立てる(これも屏籬という。昔は2丈あった)。その東西のはずれの柱は、柴にて包む。総じて、垣の作り様は四方の柴垣と同じである。

 次回は、悠紀殿と主基殿です。


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明治以後は行われない石清水、賀茂両社への奉幣 ──荷田在満『大嘗会便蒙』を読む 4 [大嘗祭]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2019年10月7日)からの転載です

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明治以後は行われない石清水、賀茂両社への奉幣
──荷田在満『大嘗会便蒙』を読む 4
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『大嘗会便蒙』上巻 元文3年大嘗会

▽4 由の奉幣

 次に、(よし)の奉幣ということがある。

 由とは大嘗会を行われるべき由である。奉幣とは幣帛を神に奉られる儀であり、これは今年この月(斎藤吉久注=元文3年11月)、下の卯の日に、大嘗会を行われるべき由を、伊勢、石清水、賀茂の3社へ、勅使をもって告げられることである。

(斎藤吉久注=明治の登極令では、「即位の礼および大嘗祭は秋冬の間においてこれを行う。大嘗祭は即位の礼を訖(おわ)りたるのち続いてこれを行う」(第4条)、「即位の礼および大嘗祭を行う期日、定まりたるときは、これを賢所、皇霊殿、神殿に奉告し、勅使をして神宮、神武天皇山陵ならびに前帝4代の山陵に奉幣せしむ」(第7条)と定められていました。
 荷田在満の時代と異なり、即位の礼と大嘗祭がセットになっています。また、宮中三殿への奉告、伊勢の神宮および山陵への奉幣の二段構えとなり、いわゆる国家神道の時代とされるころながら、皇室の社である伊勢の神宮はまだしも、石清水八幡宮や賀茂神社への奉幣は行われなくなり、代わって山陵へ勅使が差遣されることになったのは注目されます。
 前回も今回も、登極令の方式が踏襲されています)

 この儀は、霜月上旬のうちに日を選ばれる。今年は3日を用いられる。これには陣の座の儀、神祇官の儀として、同日に両度の儀式がある。

 陣の座の儀は、上卿以下が、紫宸殿の西廊、右近の陣の座に著いて、3社の使いを定められるのである。また内記に命じて、3社の宣命を作らせて奏聞し、これを清書させるなどする儀式である。

 この儀がおわって、すぐに神祇官代の儀がある。

 神祇官代には、今日の東山、神楽岡の八神殿(吉田の社の近所にある。今の人は、あるいは誤って八神殿を吉田の社と思う人がいる)のあたりを用いる。

 その儀は、先行事の弁使以下が、ここで3社の幣物を包み、上卿も、陣の座の儀が終わってすぐにここに来て、3社の宣命を、3社の使いたちに渡し、すなわち御幣もここよりたつことである。

 これは昔は、神祇官の官舎で行われたことだが、いまは神祇官がないので、神楽岡の八神殿のあたりを、神祇官の代わりと見立てて、このことがあるのである。

 八神殿は昔、神祇官にあったからである。

(斎藤吉久注=明治の登極令附式では、神宮、神武天皇山陵ならびに前帝4代の山陵に勅使を発遣する儀式について、「11月」との規定はありません。陣の座の儀と神祇官の儀の区別もありません。
 登極令附式では、勅使発遣の儀は「御殿」で行われることとされています。宮中八神殿からの歴史の継承を考えるなら、宮中三殿の神殿で行われるべきでしょうが、宮中三殿での期日奉告と重なるからでしょうか。
 発遣の儀は、附式では、御殿が装飾されたのち、大礼使、高等官、式部官、内閣総理大臣が参加し、天皇が出御して行われることと定められています。
 今回は、昨年11月の発表によると、宮中三殿への期日の奉告は「11月」ではなく5月8日に行われ、神宮や山陵への勅使の発遣は、同じ日に、宮殿で行われることとされました。神宮および山陵への奉幣は2日後の10日に予定されました。
 報道によれば、宮中三殿での期日奉告の儀には、安倍総理が参列したと伝えられます)


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都人が見物に押しかけた御禊も今は昔 ──荷田在満『大嘗会便蒙』を読む 3 [大嘗祭]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2019年10月7日)からの転載です

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都人が見物に押しかけた御禊も今は昔
──荷田在満『大嘗会便蒙』を読む 3
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『大嘗会便蒙』上巻 元文三年大嘗会

▽3 御禊と忌火の御飯

 つぎに御禊(ごけい)ということがある。

 禊も「はらえ」と読み、祓と同じ儀だが、天子などには禊といい、つねの人には祓という。これも荒見河祓と同じ意味で、天子はこれより清浄になさるために、これまでの汚穢を祓い清めようと御禊をなさるのである。

 11月朔日から大嘗祭の散斎であるため、10月末に行われる。今年(元文3年)は29日である。昔は川辺に行幸があり、行われたのだが、後世は略せられ、清涼殿の昼御座(ひのおまし)に出御なさって行われる。

 その儀は庭上に御贖物御麻を案に載せておき、宮主(みやじ)がこれを奉る。御贖物は御巫が取り次ぎ、中臣女がこれを奉る。御麻は祭主が取り次いで、中臣女がこれを奉る。天子がこれを撫でられ、御息を吹きかけて、返される。その次に、関白にも贖物を手渡され、関白も祓いをなさる。昔は、このとき公卿以下も同じく祓をすることが江次第に見える。いまはそうではない。

(斎藤吉久注=菅原孝標女の『更級日記』に「初瀬詣で」のくだりがあります。
 永承元(1046)年10月25日は、ちょうど後冷泉天皇の御禊が行われる日で、世間は大騒ぎでした。近親の人たちも「御一代一度の見物で、地方の人も集まってくる。初瀬詣で(奈良の長谷寺参詣)なんていつでもできる」と猛反対し、夫の橘俊通だけが「いかにもいかにも、心にこそあらめ」と許してくれたのでした。
 この文章によって、加茂川で行われる御禊を京都周辺の人々が見物しに殺到したことが分かります。
 しかし応仁の乱で大嘗祭は途絶え、江戸期に復活してのちも、かつてのように川辺で行われることはなかったのでした。
 明治の登極令には、御禊の定めそれ自体がありません。
 前回の御代替わりでは、政府の求めに応じて皇位継承儀礼について意見を述べた上山春平元京大教授(哲学)が、御禊見物に京都中の人が葵祭のときのように押しかけたと繰り返し指摘していたことが思い出されます)

 次に、忌火の御飯(おんいい)を捧げることがある。(下図は『御大礼図譜』(大正4年)に全文引用された『大嘗会便蒙』の挿絵)
忌火御飯の図@大嘗会便蒙.png

 忌火は斎火であり、これは11月朔日、この日から大嘗会の散斎であるがゆえに、前日までの火を捨て、あらためて清き火で御飯を捧げるのである。その火が改められる初めて御膳であるがゆえに陪膳(はいぜん)の仕様以下、いつものように略儀ではなくして、本式にするのである。

 ただし、これは大嘗祭の前に限られたことではなく、中古までは毎年6月、11月、12月の朔日に、かならずこれを捧げた。

 これはみな、その月に格別の御神事があるために、その月の朔日に火を改めるからである。

 その儀は、清涼殿の大床子の前に台盤を立て、その上に御膳を供する。まず4種といって、酢塩酒醤を供え、つぎに御薬として、薄鰒、干鯛、鰯、鯵を供え、つぎに御汁物とて、ワカメの汁を供える。

 右のように、供え終わったうえに、出御があり、御膳にお着きになり、御箸を取られ、御飯に突き立てられるばかりにて、入御なさる。そのあと御膳を撤するのである。

(斎藤吉久注=明治の登極令には、忌火の御飯についての記述は見当たりません。
 荒見河の祓い、御禊と同様、失われたということでしょうか。在満が解説した重要儀礼のいくつかが歴史に埋もれてしまったのはなぜでしょう)

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昔も今も2段階で決められる斎田 ──荷田在満『大嘗会便蒙』を読む 2 [大嘗祭]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2019年10月6日)からの転載です

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昔も今も2段階で決められる斎田
──荷田在満『大嘗会便蒙』を読む 2
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『大嘗会便蒙』上巻 元文三年大嘗会

▽2 国郡卜定と荒見河の祓い

 まず国郡卜定ということがある。これは悠紀(ユキ)主基(スキ)の国郡を、何の国、何の郡と卜い定める儀式である。

 悠紀とは日本紀の私記に、「いわいきよまわる」の意味の言葉といわれる。だが、「いつき」ということばでもあろうか。主基とは次という意味で、悠紀に次いでものいみする意味である。

 さて、悠紀に当たった国の、悠紀に当たった郡、主基に当たった国の、主基に当たった郡、両郡の稲を用いられる。そのため前ひろに占い定められるのである。

(斎藤吉久注=米とともに捧げられる粟については言及されていません)

 これは8月のうちに日を選び、定められる。今年(斎藤吉久注=元文3年)は28日に行われる。

 その儀は、紫宸殿の西の方に廊下があり、これを軒廊(こんろう)というのだが、ここに神祇官の官人が連なり座し、そのなかで卜部が両人で亀甲を焼き、その亀の焼け具合で、悠紀は何の国、何の郡、主基は何の国、何の郡と定めるのだ。

 昔は数国数郡の名を書き立てて、その中から占ったのだが、中古以来、国には定まりがあり、悠紀はかならず近江国を用い、主基は丹波国と備中国とをかわるがわる用いた。郡は一国に二郡ずつを書き立て、そのなかで一郡を占い定めるのである。

 このたび(斎藤吉久注=桜町天皇の大嘗祭)は、悠紀は近江国滋賀郡、主基は丹波国桑田郡に定められた。

 この卜定が過ぎて、以後、六条宰相の中将有起卿を兼近江権守とし、岩崎右官掌紀氏信を近江権大掾として、このほかに池尻右衛門権佐栄房(よしふさ)は最初から兼近江介である。したがってこの3人を悠紀国司として、前後ともにことに預かっている。

 また、広橋左大弁宰相兼胤朝臣を兼丹波権守とし、正親町右中将実連朝臣を兼丹波介とし、庭田右衛門大尉紀氏房を兼丹波権掾として、この3人を主基国司として、同じくことに預かっている。

 また、抜穂使として、鈴鹿右近、土山駿府守武屋の両人が近江国滋賀郡松本村へ下り、鈴鹿内膳、高島右京大夫源蕃信の両人が丹波国桑田郡鳥居村へ下り、おのおのそのところに到りて、田を卜い定める。これを大田という。その田にできた稲を撰子稲という。

(斎藤吉久注=明治42年の登極令では、「大嘗祭の斎田は京都以東以南を悠紀の地方とし、京都以西以北を主基の地方とし、その地方はこれを勅定す」(第8条)、「悠紀主基の地方を勅定したるときは、宮内大臣は地方長官をして斎田を定め、その所有者に対し、新穀を供納するの手続きをなさしむ」(第9条)などと定められていました。
 国ではなく、地方と呼び方が変わりましたが、二段構えで斎田が決定されるのはいまも変わりません。
 一方、点定の儀の祭場は、京都の時代とは、当然、変化しています。
 京都時代には軒廊で亀卜が行われましたが、登極令の附式では斎田点定の儀が、大礼使高等官が出席し、宮中三殿の神殿内で神事を行うことが定められました。
 今回は、報道によれば、5月13日に、宮中三殿の神殿前で斎田点定の儀が行われ、亀卜の結果、悠紀地方に栃木県、主基地方には京都府が選定されましたが、この報道は不正確のようです。前回も同様ですが、神殿での神事があり、亀卜それ自体は神殿前の庭に設けられた斎舎で行われたということのようです。
 賢所ではなく、神殿である点は注目されます。
 さらに9月18日になって、宮内庁式部職は悠紀斎田が栃木県高根沢大谷下原、主基斎田が京都府南丹市氷所新東畑の水田に決定したことを発表しています。
 少なくとも在満の時代とは時期に相違があります。前回は2月下旬に悠紀地方・主基地方が決まり、斎田決定の発表は9月25日でした。斎田はすでに決まっていましたが、反対派によるゲリラ活動などがあり、きびしい情報管理が行われていました)

 次に、荒見河(あらみがわ)の祓ということがある。

 これは大嘗会に奉仕する行事の弁使ら、これまでの、かりそめに犯した、軽い罪咎を祓い捨てて、これより清浄にする儀である。

 大嘗会の散斎は11月朔日からだが、行事の弁使はまず、これまでの罪咎を祓い、汚穢を除かんがために、9月晦日に河祓をするのである。

 すべて祓いは水辺で行われ、すなわち贖物(あがもの)として人形(ひとかた)をつくり、これにわが罪咎をうつし、河水に流し捨て、あとの残らないようにすることである。

 昔、荒見河というのはどの流れなのか分からない。いまの祓いは、京の西北に紙屋川というのがあり、いまの人は「かい川」と呼んでいる。この川の高橋というところで祓いが行われるが、名目では荒見河祓といわれる。

 その儀は、川端に幄を建て、悠紀主基の行事の弁使、中臣卜部が著座し、弁使が大麻を撫でて息をかけ、卜部がその大麻を地に突き立て、祝詞を読み、祓いをなし、贖物を流しまつるのである。

(斎藤吉久注=明治の登極令本文および附式にはこの祓いに関する定めはありません。理由は分かりませんが、失われたのです)

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江戸中期の国学者が解説する大嘗祭 ──荷田在満『大嘗会便蒙』を読む 1 [大嘗祭]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2019年10月4日)からの転載です。

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江戸中期の国学者が解説する大嘗祭
──荷田在満『大嘗会便蒙』を読む 1
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 10月2日、宮内庁の大礼委員会が開かれ、即位の礼や大嘗祭の日程・式次第の詳細が決められました。もっとも重要な事柄が土壇場まで遅れました。

 宮内庁HPに載る資料によると、秘事に属するはずの大嘗宮内の神座がイラストで説明され、御告文の先例が情報公開されている半面、新嘗の祭りが常陸国風土記に描かれているとしつつ、それが米ではなくの新嘗であることには触れていません。大嘗宮の柱が皮付きの丸太を用いることは説明されながら、屋根の葺き方には言及がありません。板葺き屋根に対する昨今の保守派からの批判をかわしたい思惑でもあるのでしょうか。

 ということで、歴史上の過去の大嘗祭とはどのようなものだったのか、古典をひもとき、考えてみることにします。ここでは江戸期の資料を取り上げます。

 戦前戦後を通じて、もっとも偉大な神道思想家として知られる今泉定助という人がいます。歴代首相のほとんどが教えを受けたといわれるほどの人物ですが、その今泉が大正の御代替わりのときに、国文学者の池辺義象とともに著した『大嘗祭図譜』(大正4年)という本に、一条兼良の『代始和抄』とともに、江戸中期の国学者・荷田在満の『大嘗会便蒙』(上下二巻、元文4年)が全文引用されています。

 大嘗祭は周知のように、応仁の乱後、途絶えてしまいました。江戸時代になり、東山天皇のときにいったん復活したものの、次の中御門天皇のときには行われず、その次の桜町天皇のときにふたたび行われるようになりました。

 この中御門天皇から桜町天皇への御代替わりに立ち会った荷田在満は、前記の大嘗祭の解説書を出版したのですが、皇室の秘儀を公開したというので公家衆から非難を浴び、ついには江戸幕府から100日間の閉門を命じられることとなりました。このときの経緯は在満が「大嘗会便蒙御咎顛末」に記録しています。

 そんなスキャンダルめいた謂れがあるものの、その内容が確かなものであることは、180年後、今泉らの著書にそっくり掲載されたことから明らかでしょう。

 そこで今号からしばらく、『大嘗会便蒙』を多少私流に現代訳したうえで、ご紹介することにします。初回は大嘗祭の歴史です。


『大嘗会便蒙』上巻 元文三年大嘗会

▽1 大嘗祭の歴史

 大嘗会というのは、その年の新穀を天子みずから天下の諸神に供したもう儀式である。諸神ことごとくに嘗めたもうために、大嘗というのだ。また、新穀を供するため、新嘗ともいうのである。

 そもそも新嘗というのは、日本紀神代上に、天照大神の新嘗と見えるのが初めである。しかしこれはみずから召し上がるばかりで、祭りではない。同下に、天稚彦(アメノワカヒコ)の新嘗とあるのもまた同じである。

 人の代になると、仁徳天皇40年に、「新嘗の月にあたり、宴会日をもって酒を賜る」とあるのが最初である。けれどもどのように行われたのか、知ることができない。

 その後、清寧天皇2年11月、「大嘗供奉の料より、播磨国司山部連先祖、伊予来目郡小循に遣わす」と見えるのが、大嘗の字が出てくる初めで、播磨国はすなわち斎国だと見えるから、大嘗の儀はまさにこのときから始まったといえる。

 また、顕宗天皇2年11月に、「播磨国司伊予来目部小楯、赤石郡において、みずから新嘗供物を弁ず」と見え、天武天皇5年9月に、「新嘗のため、国郡を卜すなり。斎忌(ユキ)すなわち尾張国山田郡、次(スキ)丹波国珂沙郡」などとも見えるので、昔は大嘗ともいい、また新嘗ともいい、さして差別も見えなかった。

 その後、大宝元年のにいたり、すべて大嘗といい、そのなかで毎年行うのは事小にして、御一世に一度ずつ行われるのは事大なるを、ともに新嘗とはいわなくなった。令より後の国史で、貞観延喜などの書に至っては、御一世に一度ずつの事大なるばかりを大嘗といい、毎年のは新嘗といい分けることになり、今の世まで続いている。

 さて、新帝の御即位は、7月以前ならその年に大嘗会を行い、8月以後なら翌年に行うのが定めで、後花園院の永享2年庚戌までは行われてきたが、後土御門院の御代の始め、兵乱の最中であったので行われず、それ以降、中絶し、256年を経て、東山院の貞享4年丁卯になって再興された。

 ところが先帝中御門院の御代始めに、また理由があって行われず、当今(桜町天皇)も享保20年乙卯11月に御即位されたので、翌元文元年丙辰に行われるべき例だが、行われ難い事情があって、延期された。同2年丁巳は諒闇だったので、今年戊午、貞享より51年でふたたび再興された。

 そもそも貞観延喜の頃に行われた大嘗会は、その儀式は広大にして、今の世に学び出づるべくもない。江次第などに載せてあるのと、貞享に行われたのと、今年の儀式とは大方は同じである。ただし、今年の儀は、江次第よりは略されていて、貞享よりは少し厳格である。(続く)

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