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岡田先生、粟は貧しい作物なんですか? ──神道学は時代のニーズに追いついていない [大嘗祭]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2019年2月17日)からの転載です

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岡田先生、粟は貧しい作物なんですか?
──神道学は時代のニーズに追いついていない
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▽1 粟は「飢饉対策」
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 全国の神社関係者を主な読者とする宗教専門紙「神社新報」(2月4日付)に、じつに興味深い記事が載った。

 何が興味深いかというと、御代替わりを文字通り目前に控えたいま、社会的なニーズがもっとも高く要求されながら、逆にまったく追いついていない神道学の研究水準というものが、図らずも浮き彫りにされているからである。

 つまり、大嘗祭のもっとも中心的な儀礼である、大嘗宮の儀で捧げられる神饌の米と粟について、なぜ米だけではないのか、なぜ粟なのか、学問的な探求がいっこうに深められていないのである。それはとりもなおさず、大嘗祭とは何か、が神道学的には解明されていないということになる。

 いつまでたっても「大嘗祭は稲の祭り」という固定観念から脱せず、そのことが大嘗祭は「宗教」であり、憲法の政教分離原則に抵触する、という反神道的原理主義者たちの法律論を結果的に後押ししているという、みずからのオウンゴールに気づかないのだろうか。

 私のつたない経験でいえば、いつぞやほかならぬ神社本庁でのあるシンポジウムで、私が新嘗祭・大嘗祭の米と粟について話したところ、新進気鋭の神道研究家が、「斎藤さんは間違っている。新嘗祭や大嘗祭の神饌に粟はない」と私に迫ったことがある。

 あまりにも単刀直入で驚いた。信じがたいことに、事実を知らないのである。

 さらに、ある講演会では、私の発表のあとに、著名な神道学者が、「大嘗祭は稲の祭りではないのか」と質問されたことがある。

 先述の神道研究家と同様に、米と粟の神饌が新帝によって手ずから神前に供され、御拝礼、御告文奏上ののち、御直会で米と粟を神人共食なさるという事実とその意味が深く理解されていない。これにも驚いた。

 学問的思考を停止させる固定観念というのはじつに恐ろしいものである。先生ご自身、水田稲作民の文化圏とは異なる世界に生まれ育ってきたはずなのに、非稲作文化圏の歴史を忘却しているのである。稲が至高の作物とされていった歴史の裏返しなのであろう。「日本人は稲作民族ではなく、稲作願望民族だ」と看破した柳田国男の偉大さをつくづく思う。


▽2 救荒作物を供饌する神社があるのか

 そして今度は、粟は「飢饉対策」だというのである。記事を読んで、私は思わず天を仰いだ。

 記事によると、1月24日に、「政教関係を正す会」の研究会が神社本庁で開かれ、岡田荘司・國學院大学教授が「大嘗祭について」と題して発表した。粟に対する見解はそのなかで語られたという。

 記事によると、岡田教授は、大嘗祭斎行の古来の歴史を振り返り、大嘗祭は地方民が新帝即位を奉祝する祭儀として始まったこと、新たに大嘗宮を建てて祭祀を執り行うことが本義であること、などについて説明されたあと、粟の神饌について言及した。

 粟の存在に注目されたのはさすがである。そういえば、先述した神道研究家からの批判のあと、まさかと思って、電話で確認した私に、「古来ずっと、大嘗祭では米と粟が用いられた」と答えられたのが岡田教授だった。

 その岡田教授が「粟は腹持ちが良く、飢饉対策に適していることなどから、天皇が大御宝(国民)の生活の安定を祈ることを目的に用いられたのではないか」と述べたというのである。唖然とするばかりである。

 つまり、岡田教授の見解では、粟というのは飢饉のときに食べられる貧しい作物である。貧しい救荒作物であるがゆえに、天皇の即位儀礼として、民の生活安定の祈りを込めて、象徴的に神饌とされているということになる。

 しかし、完全な誤解ではないだろうか。

 第一に、粟は貧しい食べ物でも、救荒作物でもない。逆に、神聖な作物なのではないか。神聖だからこそ、神事に用いられるのであろう。

 もし粟が飢饉対策の作物という位置づけだとしたなら、神道において神前に神饌を捧げる意味が、宗教学的に、根本的に問われることになるし、そんなことはあり得ない。全国8万社のお宮で、救荒作物を供饌するケースがあったらお教えいただきたいものである。

 岡田教授の考えでは、皇祖神が授けてくださった命の糧としての米とともに、民の暮らしの安定を祈って、飢饉対策の作物として粟を捧げられるというのだが、民への祈りだというのなら米の神饌で十分であろう。わざわざ貧しい食べ物を捧げる必要はないし、不敬だろう。


▽3 葦津先生のように周辺学を学んでほしい

 常陸国風土記には粟の新嘗のことが記録されている。古人は、新嘗の晩に自宅に忌み籠もりし、祖霊の訪れを待った。このとき神前に供される粟の神饌は、飢えを凌ぐための食べ物なのだろうか。飢饉対策用の作物を神や仏に供えるという考えは、信仰的にどこから来るものなのか。

 粟の神饌は、水田稲作ではなくて、焼畑農耕をしていたであろう粟の民の存在を前提にして、粟の信仰に基づき、粟の神に捧げられなければならない。岡田教授は、大嘗祭の粟はいずれの神に、いかなる信仰から、捧げられるとお考えなのだろう。

 記紀神話では、粟の起源は大気津比売(オオゲツヒメ)の物語などとして描かれている。となると、大嘗祭は大気津比売とどのように関わるのだろうか。

 地方によっては、正月に米の餅を食べないという食のタブーを引き継いでいる地域があり、民俗学では餅なし正月とか、イモ正月と呼ばれる。

 たとえば、東京都内にもこのタブーを伝える地域があり、以前、取材したことがある。土地の故老によると、先祖は北東北の南部地方の出身で、侍だったという。関ケ原の戦いのあと、ここに安住の地を定めたが、土地を耕しても貝殻ばかりが出てくる、そんな苦労を忘れないために、餅なし正月の風習が始まったと説明された。

 けれども、この貧しさと結びついた解釈は、どこまで事実なのか。「南部よいとこ 粟めし稗めし」(南部盆唄)は貧しさを歌った歌なのだろうか。

 文化人類学の知見によると、台湾の先住民は粟をことのほか神聖視し、粟の祭祀を行ったことが知られている。神聖な作物であるがゆえに、神への捧げ物となるのである。「飢饉対策」ではあり得ない。大嘗祭の粟は、水田稲作以前の縄文の信仰とつながり、したがって、焼畑農耕の民である台湾の先住民とも文化的につながっているのではないか。

 岡田説の根拠は、「腹持ちがいい」とか「飢饉対策」とか、学問というより、俗説の範囲を超えるものではない。なぜそうなるのかといえば、戦後唯一の神道思想家といわれた葦津珍彦先生がなさったように、周辺学を学ぼうとしないからであろう。

 葦津先生は、神道研究のみならず、歴史学や憲法学、中国・朝鮮研究など関連する周辺学を積極的に、貪欲に学ばれた。葦津先生が、畑違いの、しかも最先端のキリシタン研究をも学び、歴史論を書いているのを知って、びっくりしたことがある。

 葦津先生の間近で薫陶を受けたはずの岡田教授は、植物学や農学、民俗学、宗教学、文化人類学などの広範囲な研究成果を十分に踏まえたうえで、大嘗祭の粟を「飢饉対策」と理解しているのだろうか。

 神道学が時代のニーズに応えることを怠り、発展どころか、停滞していては、御代替わりは否応なしに混乱する。昨年、この世を去った畏友・佐藤雉鳴氏が喝破したように、オウンゴール以外の何ものでもない。

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神道人の議論はなぜ始まったのか ──葦津珍彦vs上田賢治の大嘗祭「国事」論争 1 [大嘗祭]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2018年12月24日)からの転載です

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神道人の議論はなぜ始まったのか
──葦津珍彦vs上田賢治の大嘗祭「国事」論争 1
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▽1 知る人ぞ知る論

 御代替わりの儀礼、とりわけ大嘗祭は国事なのか否か、しばらく考えてみたいと思います。材料となるのは、昭和天皇の晩年、前回の御代替わりが近づいたころ、神道人たちのあいだで展開された、知る人ぞ知る論争です。

 以前にも取り上げた岩井利夫・元毎日新聞記者の『大嘗祭の今日的意義』(昭和63年、錦正社)には、昭和59年に、大嘗祭のあり方をめぐって、戦後唯一の神道思想家といわれる葦津珍彦先生と上田賢治・國學院大学教授(神道神学)とのあいだで交わされた、この論争が紹介されています。

 岩井氏の著書では、「大嘗祭が国事であるか、宮務であるかについて、なお貴重な論争がある」ということで、葦津先生の見解に対して上田先生が反駁された「論争」として紹介され、葦津先生が「大嘗祭を国事とはせずに公事とせよ」と主張し、上田先生は「皇室祭儀は国事たるべし」と反論したことになっています。

 とくに葦津先生の主張は「大嘗祭公事論」ということにされ、前回、そして今回の御代替わりで、大嘗祭が「国の行事」とはされないけれども、その公的性格を認め、国費支出が相当であるとするための法的根拠の1つともなっており、重要な議論です。

 しかし、この論争には、とくに3つの見逃せない論点が指摘されます。(1)憲法改正をめぐる時代背景の違い、(2)一次情報へのアクセスが困難だった時代といまの違い、(3)「国事」の意味の違い、の3点です。そして、もう1点付け加えるとすれば、今回がまさにそうであるように、かまびすしい議論とはおよそ無縁の神道人による、めったにない論争はなぜ生まれたのか、です。

 こうした問題点を踏まえたうえで、大嘗祭のあり方について、あらためて原典に振り返って、考えてみたいと思います。


▽2 書斎の研究者ではなかった葦津先生

 論争の起点である葦津先生の記事は、「皇室の祭儀礼典論──国事、私事両説解釈論の間で」と題され、昭和59年2月10日付の中外日報に載りました。タブロイド新聞の8面、9面の両面ぶち抜きでは足らずに、10面にまでまたがるボリュームでした。

 メインタイトルのほかに、「天皇がお祭りをしても“私事”なのか」「内廷費中『神事費』の所在」「『宮務法上の重儀』やっぱり“国務圏外”?」「同感できぬ『国事論』」といった見出しが紙面に散りばめられています。

 これが、いうところの「大嘗祭公事論」とされ、大嘗祭=非「国の行事」=「皇室行事」論の論拠ともされているのですが、結論からいうと、そのような解釈は誤りだろうと私は思います。葦津先生の文章は研究者のそれとは異なるからです。

 第1に、なぜ中外日報なのか、です。中外日報は明治30年創刊の、日本でもっとも歴史ある、仏教に主軸を置いた宗教専門紙です。

 葦津先生の肩書きは、論考では「元神社本庁教学委員、史家」とされていますが、社家の家系に生まれ、神社本庁設立の中心人物であり、神社新報の事実上の主幹だった葦津先生が、生涯のテーマとした宮中祭祀論に関して、なぜ神社界の専門紙である神社新報ではなく、中外日報に発表したのでしょうか。

 古巣の神社新報への掲載をわざわざ避けようとした真意は何だったのでしょう。

 第2に、葦津先生は神道思想家といわれますが、一介の野人を貫きました。82年の生涯で70冊以上といわれる書籍を著しましたが、書斎の研究者ではありません。戦中は東條内閣の統制政策と真っ向から対峙し、呂運亨を支持して朝鮮独立工作に関わり、戦後は紀元節復活、靖国神社国家護持、剣璽御動座復古、元号法制定などに中心的な役割を果たした闘う民族主義者です。

 とすれば、この中外日報の論考も字面だけで読むべきではない。単純な「大嘗祭公事論」と読むべきではない、ということになります。

 それならどう読むべきなのでしょう。


▽3 弱体だった自民党政権

 葦津先生が関わった元号法制化で、法案が国会で可決されたのは昭和54年の初夏、第一次大平内閣のときでした。当時はいまとは異なる弱体政権でした。

 直近の51年12月の34回衆院総選挙では、自民党は511議席のうち過半数割れの249議席しか獲得できず、52年7月の11回参院通常選挙の結果でも自民党は249議席中124議席を占めることしかできませんでした。

 昭和以後も「昭和」を存続させるとか、法制化ではなく内閣告示で、という選択肢も取り沙汰されるなか、53年11月に福田内閣は法制化を決定し、法案が作成され、同年暮れに大平内閣に替わって、翌54年4月には自民、公明、民社、新自クの賛成で法案が可決し、同6月には参院本会議で同様に可決、元号法は成立しました。

 元号法は成立しましたが、「元号は、政令で定める」という条文は、元号制定権の所在を曖昧にするものでした。

 大嘗祭の挙行は難問でした。憲法の政教分離問題が横たわっているからです。

 当メルマガの読者なら周知の通り、昭和49年11月に無神論者を自任する富田朝彦宮内庁次長が登場して以降、厳格な政教分離主義によって宮中祭祀の祭式は変更されました。52年7月の津地鎮祭訴訟最高裁判決では、合憲判断が下されたものの、現実には行政の神道儀式離れが促進されました。

 54年4月には衆院内閣委員会で、元号法に関する質疑が行われたとき、真田秀夫・内閣法制局長官は、「従来の大嘗祭は神式のようだから、憲法20条3項(国の宗教的活動の禁止)から国が行うことは許されない。それは別途、皇室の行事としておやりになるかどうか……」と答弁しています。


▽4 内閣法制局は政教分離問題に強硬

 元号法とは異なり、大嘗祭は憲法問題と直結しています。憲法を改正するには、制度上、各議院の総議員の3分の2以上の賛成で、国会が発議したのち、国民投票で過半数の賛成が必要ですが、当時の議席配分ではギリギリでした。それどころか、内閣法制局は政教分離問題に関してきわめて強硬でした。

 そうした政治情勢では、皇室の伝統のままに大嘗祭を挙行することは無理かも知れないという声も囁かれていたことでしょう。そんなとき葦津先生は、事態の打開のため何を考えていたのでしょうか。

 良識ある神道人に信頼して、まっとうな議論を喚起し、問題点を浮き彫りにする必要があると考えたのではないか、というのが私が想像するところです。議論には学問的な裏付けが必要です。学問は1人でするものではないというのが葦津先生の考えでした。

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大嘗祭は米と粟の複合儀礼──あらためて研究資料を読み直す [大嘗祭]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2011年12月18日)からの転載です


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大嘗祭は米と粟の複合儀礼
──あらためて研究資料を読み直す
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 先月、政教関係を正す会のシンポジウムで、大嘗祭が稲と粟の複合儀礼であることについてお話ししたところ、旧知の神道学者から「新嘗祭と異なり、大嘗祭には粟は登場しないのではないか」というご指摘をいただきました。

 著名な研究者からの指摘ですから、無視することはできません。まして、「大嘗祭は稲と粟の複合儀礼ではない」ということだとすると、私の年来の主張はもう一度組み立て直さないといけなくなります。

 これはたいへんです。

 私がこれまで宮中祭祀を説明するためにしばしば引用してきたのは、八束清貫元宮内省掌典の「皇室祭祀百年史」(『明治維新神道百年史第1巻』所収)ですが、これには残念ながら大嘗祭についての記述がありません。

 ということで、あらためて大嘗祭について、ほかの資料を読み直すことにしました。

▽1 宮地治邦が紹介する「大嘗祭神饌供進仮名記」

『神祇史概論』の著者として知られる宮地治邦(東京女学館短大学長)には、タイトルもずばり、「大嘗祭に於ける神饌に就いて」(『千家尊宣先生還暦記念神道論文集』昭和33年所収)という論文があります。

 宮地の論考は、京都・鈴鹿家の「大嘗祭神饌供進仮名記」(仮題)一巻を紹介しつつ、御親祭の中身を解説しています。

 宮地が書いているように、大嘗祭については、「儀式」「延喜式」「後鳥羽院宸記」「伏見院御記」「西宮記」「北山抄」「江家次第」「大嘗会儀式具釈」など、多くの記録があるけれども、宮中の御儀は秘儀に属し、民間に触れることがはばかれてきたのでした。したがって誤解も生まれます。

 後鳥羽上皇の日記である「後鳥羽宸記」などは漢文体で書かれていますが、宮地が紹介する「仮名記」は文字通り仮名で書かれてあり、たいへん読みやすくなっています。

 大嘗祭で新帝が神前に供する神饌御進供については次のように書かれています(斎藤吉久注。さらに読みやすくするために、句読点を補っています)。

「次、陪膳、両の手をもて、ひらて一まいをとりて、主上にまいらす。主上、御笏を右の御ひさの下におかれて、左の御手にとらせたまひて、右の御手にて御はんのうへの御はしをとりて、御はん、いね、あわを三はしつつ、ひらてにもらせたまひて、左の御手にてはいせんに返し給ふ……」

 以上、神饌御進供のようすがきわめて具体的に、生々しく記されています。もちろん天皇が供進される神饌が米と粟であることも分かります。

 宮地の文章によれば、神饌御進供で、天皇はまず米飯を3箸、つぎに粟飯を3箸、枚手(ひらで)に盛り、陪膳の采女に返し、陪膳はこれを神食薦(かみのすごも)のうえに置きます。御飯の枚手は10枚、供せられます。

 その後、4種の鮮物、4種の干物、海藻汁漬、鮑汁漬、4種の果物が供され、さらに白酒黒酒が供され、そのあとに米の御粥、粟の御粥が供されます。

 論文の最後に、宮地は神饌について説明していますが、「御飯(おんいい)」について興味深い記述があります。

 御飯とは米と粟の蒸しご飯を意味する、とあり、さらに、「後鳥羽院宸記」の記述について、御飯は4杯である、2杯とする記録があるが、じつは米2杯と粟2杯である、これは秘事である、と書かれてある、と宮地は解説しています。

 大嘗祭が、新嘗祭と同様、米と粟の複合儀礼であることが、あらためて理解されます。


▽2 詳細な田中初夫の研究

 つぎに、田中初夫『践祚大嘗祭 研究篇』(昭和55年)を開いてみます。この本は、三笠宮崇仁親王殿下、入江相政氏の序文、フロイド・ロス氏の跋文が載っています。

 筆者は明治39年生まれで、同書の出版当時は東京家政学院短大教授ですが、それ以上の権威を感じさせます。

 田中は数ページにわたって、米と粟について、考察しています。

 田中はまず、天仁元(1108)年の大嘗会について大江匡房が記した「天仁大嘗会記」を取りあげています。匡房は「江家次第」の著者でもありますが、田中によれば、大嘗祭についての記述は「大嘗会記」の方が詳細です。

 大嘗祭の神饌に関してもくわしいはずなのですが、「御飯」と記されるのみで、説明らしい説明がありません。

 つぎに田中がとり上げるのは、先述した「後鳥羽院宸記」です。後鳥羽上皇は、建暦2(1212)年10月21日の日記に、御飯は4杯なり、じつは米2杯、粟2杯なり、これ秘事なり、などと記述しています。

 さらに、「伏見院御記」の正応元(1288)年11月22日の記事には、御飯に4杯あり、先の5平手は米、次の5平手は粟、などとあります。

 さらにまた、「後伏見天皇御記」の延慶2(1309)年11月の記事にも、御粥、米粟各2盃ずつ、などとあります。

 これらの資料をもとに、田中は、匡房の「大嘗会記」には粟のことが記されていないから、粟はその後、加えられたということがいえるかも知れないが、むしろ粟の方が古い伝承を伝えていると考える方が自然かと思われる、と書いています。

 というのも、後伏見天皇のお言葉にその根拠があるからです。

 田中によれば、永仁のときに、故実に通じた信濃という采女の意見を採用し、旧例に従うべきであるとして、粟を加えることにされたというのです。

 もちろん永仁以前にも、粟が供されたことは、建暦の宸記にも、建保神膳記にも記されており、古くからのしきたりであったろうけれども、匡房の「天仁大嘗会記」には「窪手一口」とあり、これでは米飯だけになってしまう。これは謎である、と田中は書いています。

 古い時代はどうだったのか、田中は新嘗祭について考えます。

 延喜式には、宮内省の部にも、大炊寮の記述にも、米と粟が併記され、同時に用いられたことが分かる、と田中は書いています。

 新嘗祭ばかりではありません。同系の祭りである神今食でも同様であり、さらには天皇の日常の食事も米と粟だったことを推測させる記述が延喜式の大炊寮にあります。

 以上のことから、田中は、「推測するに、大嘗祭においても、粟は古くから用いられていたものではないかと考えられる」と結論づけています。

 さらに田中は、上総国の安房大神を御食津神として神嘗大嘗などに仕え奉ったとされているのは、粟が宮中の神祭りに用いられていたことを暗示しているのではなかろうか。また、「常陸国風土記」に「新粟新嘗」と記されている背景には古代の記憶があるのではないか、と推測しています。


▽3 川出清彦が注目した神饌行立の粥八足机

 最後に取りあげたいのは、『祭祀概説』『神社有職』などで知られる川出清彦の『大嘗祭と宮中のまつり』(平成2年。初出は『大嘗祭の研究』皇學館大学神道研究所、昭和53年)です。

 川出は、大嘗祭の祭儀について、くわしく解説しています。

 神饌行立(ぎょうりゅう)のくだりで、川出は、粥八足机に言及しています。『貞観儀式』『延喜式』『西宮記』『北山抄』『江家次第』『兵範記』『大嘗会神膳仮名記』などを見ていくと、『兵範記』以後、神饌行立の最後に粥八足机が加わるようになるというのですが、ここに「粟」が見えます。

 川出は、古くから御粥が供進され、かつては御飯筥のなかに米の御飯御粥、粟の御飯御粥が納まっていたのが、のちに八足机に載せて供されることに改まった、と推測しています。

 以上のように、神道学者たちの研究では、古来、大嘗祭で米と粟が神前に供せられていたことが知られています。

 けれども、なぜ米と粟の儀礼が行われてきたのか、について、少なくとも以上の研究には説明が見られません。

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大嘗祭は「稲作中心」社会の収穫儀礼か?  ──検証・平成の御代替わり 第7回 [大嘗祭]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2011年10月8日)からの転載です


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大嘗祭は「稲作中心」社会の収穫儀礼か?
──検証・平成の御代替わり 第7回
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 政府関係者の著書や政府・宮内庁の公式記録をもとに、平成の御代替わりを検証しています。今日は最終回、大嘗祭について、です。

 その前に、気になるニュースについて、書きます。

 先月、能登半島に小舟で漂着した脱北者の代表者が「祖父は北朝鮮の白南雲・元最高人民会議議長で、父は対南工作部門で韓国人拉致を担当していた」と供述していたと伝えられています。
http://www.asahi.com/national/jiji/JJT201110050002.html

 白氏は朝鮮独立運動家・呂運亨の同志だったようです。

 呂については以前、「朝鮮を愛した神道思想家の知られざる軌跡」(雑誌「正論」1999年4月号)で触れたことがあります。
http://homepage.mac.com/saito_sy/korea/H1104ashizu.html

 大戦末期に、すなわち国家神道時代といわれる時代に、当時、もっとも社会的影響力を持っていた神道人たちが呂の独立運動を支援し、小磯国昭朝鮮総督も動いたという歴史は、いわゆる国家神道史観の常識を覆すものです。もし呂が李承晩派によって暗殺されなければ、日韓の歴史は変わっていたでしょう。

 そして戦後の政教関係にも、平成の御代替わりにも、影響を与えたでしょう。前回、ご紹介した、「諸外国の国家と教会の関係が緩やかなのに対して、日本の政教分離原則が厳格なのは、人々を弾圧する側に荷担したのが神道の流れだという歴史的認識による」というような一方的な偏見は顔を出しようがないからです。

 さて、本題です。


▽1 宮内庁内で本格化した検討

 宮内庁がまとめた『平成大礼記録』(平成6年)をもとに、昭和天皇崩御後の政府・宮内庁内の出来事をあらためて、時系列で追ってみます。

 平成元年2月24日、葬場殿の儀、大喪の礼が終了しました。宮内庁の記録にはどういうわけか、言及されていませんが、もちろん陵所の儀も行われました。

 同年4月16日、山陵百日祭の儀。

 同年4月17日、山陵起工奉告の儀。このあと、宮内庁内で大礼に関する検討が本格化しました。

 同年6月29日、内閣に即位の礼検討委員会が設置されました。委員長は内閣官房副長官(事務)でした。検討の過程で、内閣官房、内閣法制局、宮内庁の三者による実務レベルの協議が随時行われました。

 同年7月3日、内閣の即位の礼検討委員会設置に伴い、宮内庁内に大礼検討委員会が設置されました。委員長は宮内庁長官、副委員長は宮内庁次長、侍従長、皇太后宮大夫、東宮大夫、式部官長でした。7月に2回、8月、9月に各1回開かれました。

 即位の礼は平成2年度に予定されています。そのため、平成元年8月末の平成2年度予算概算要求段階で、予算措置をどう講ずるかが問題となりました。


▽2 年末の予算編成までに方向付けが必要だった

 同年9月26日、内閣に即位の礼準備委員会が設置されました。委員長は内閣官房長官、委員は内閣法制局長官、内閣官房副長官(政務と事務)、宮内庁長官でした。検討委員会は廃止されました。

 即位の礼準備委員会は9月に1回、11月に4回、12月に2回、開かれました。11月の会議では、15人の参考人から意見が聴取されました。

 同年9月26日、内閣の即位の礼準備委員会設置に伴い、宮内庁に大礼準備委員会が設置されました。委員長は宮内庁長官、副委員長は宮内庁次長、侍従長、皇太后宮大夫、東宮大夫、式部官長でした。大礼検討委員会は廃止されました。

 宮内庁の大礼準備委員会は12月に3回開かれました。

 同年12月21日、内閣の第7回即位の礼準備委員会で、「即位の礼」、大嘗祭の挙行などについて、検討結果がまとめられ、臨時閣議で内閣官房長官から報告され、口頭了解されました。

 即位の礼正殿の儀、祝賀御列の儀、饗宴の儀が、平成2年秋に、国事行為として行われる。大嘗祭については、国事行為として行うことは困難であり、皇室の行事として行われる。その場合、大嘗祭は公的性格があり、費用は宮廷費から支出することが相当と考える、ことなどがその内容でした。

 同年12月21日、宮内庁の大礼準備委員会は、即位の礼、大嘗祭、そのほか関連の儀式行事について、検討結果をとりまとめました。

 大嘗祭については、内閣の即位の礼準備委員会が検討した結果、大嘗祭は国事行為として行うことが困難とされているため、皇室行事として皇室の伝統に従い、先例などを斟酌して行うことが適当だとされました。

 こうして平成元年末に即位礼・大嘗祭に関する骨格ができあがりました。平成元年末の予算編成までに、内閣で一定の方向付けをすることが必要だった、と『平成大礼記録』は説明しています。


▽3 稲作中心社会に伝えられてきた収穫儀礼

 大嘗祭について、宮内庁の『平成大礼記録』は次のように説明しています。

「大嘗祭は、稲作農業を中心としたわが国の社会に、古くから伝承されてきた収穫儀礼に根ざしたものであり、天皇陛下が即位の後、はじめて、大嘗宮において、悠紀主基両地方の斎田から収穫した新穀を、皇祖および天神地祇にお供えになって、みずからもお召し上がりになり、皇祖および天神地祇に対し、安寧と五穀豊穣などを感謝されるとともに、国家・国民のために安寧と五穀豊穣などを祈念される儀式である」

 前回、ご紹介した内閣の『平成即位の礼記録』に記録されている、内閣の即位の礼準備委員会がとりまとめ、平成元年12月21日に閣議口頭了解された検討結果の説明とほとんど同じです。

 違いは「天皇」が「天皇陛下」に、「新穀を」が「悠紀主基両地方の斎田から収穫した新穀を」に変わり、末尾の「それは、皇位の継承があったときは、かならず挙行すべきものとされ、皇室の長い伝統を受け継いだ、皇位継承に伴う一世一度の重要な儀式である」がけずられた程度です。

 このような説明は、平成の大礼に掌典職掌典、祭事課長として奉仕したという皇學館大学名誉教授で神道史学者の著書にも共通します。

 つまり、大嘗祭を「稲作農業を中心としたわが国の社会に古くから伝承されてきた収穫儀礼に根ざしたもの」というとらえ方です。


▽4 粟の存在に言及せず

 宮内庁の『平成大礼記録』は、大嘗祭で陛下がいつ、どこで何をなさるのか、なさったのか、じつに克明に、分刻みで記録しています。折口信夫風のオカルトチックな通俗論を払拭したかったのかも知れませんが、秘儀とされる大嘗宮内陣での儀礼については、さすがに「次に神饌を御親供になる。次に御拝礼の上、御告文をお奏しになる。次に御直会」としか書いていません。

 一方、名誉教授の著書では、御飯筥の米御飯(おんいい)、粟御飯などの神饌を、御親(おんみずか)ら竹製の御箸でとられ、供せられる。次に御告文を奏され、御直会(なおらい)で天皇が御親ら、米御飯、粟御飯をおとりになり、聞こし召される、というふうに、一歩踏み込んで説明しています。

 注目したいのは、粟御飯の存在です。稲作中心社会の収穫儀礼なら、米だけで十分です。実際、伊勢神宮では1年365日、稲の祭りが行われています。けれども陛下の祭りには粟が登場し、大嘗祭では粟の新穀が米とともに供えられ、陛下が食されます。ところが、宮内庁は言及せず、神道史学者の著書には十分な説明がありません。

 粟の神饌による共食儀礼は重要です。大嘗祭は天皇が即位後に行われる一世一度の大がかりな新嘗祭ですが、昭和天皇の祭祀に携わった元宮内省掌典・八束清貫氏によれば、「このお祭り(新嘗祭)にもっとも大切なのは神饌である。なかんずく主要なのは、当年の新米・新粟をもって炊いた米の御飯および御粥、粟の御飯および御粥と、新米をもって1か月余を費やして醸造した白酒・黒酒の新酒である」と書いています(八束「皇室祭祀百年史」)。

 実際の神事において、米と粟の位置づけに優劣はないようです。ところが、政府も宮内庁も「稲作中心社会の収穫儀礼」としか説明していません。政府も宮内庁も、大嘗祭の本質に関する議論を欠いたまま、平成の即位礼、大嘗祭を挙行したのではないのでしょうか。


▽5 畑作民と稲作民を統合する象徴的儀礼

 天皇は神々の前に米と粟を捧げ、ひたすら国と民のために祈り、みずから食されます。なぜこの米と粟の神事が、国家と国民の安寧を祈ることになるのでしょうか。

 日本の宗教伝統では、食を神に捧げるだけでなく、食事をともにします。神の前でへりくだり、身を清め、神に接近し、神人共食の儀礼によって命を共有し、一体化し、神意を受け継ぎ、衰えた命を新たな再生させる、という考えです。命の儀礼です。

 人間は誰しも食によって命をつなぎます。自然の恵みを摂取し、エネルギーに変え、血肉とします。ものを食べなければ人はかならず死を迎えます。しかし単純に「自然のものすべてが体にいい」というわけではありません。自然界で命をつなぐことは案外、容易ではありません。感謝と同時に畏れの感情も伴う日本人の自然観には、深い知恵の蓄積が感じられます。

 神から与えられた主食の穀物。その初穂を神に捧げるのが新嘗祭ですが、日本にはかつて粟の新嘗祭もありました。「常陸国風土記」に「新粟の新嘗」「新粟嘗」という言葉が登場します。

 神戸女学院大学の松澤員子先生(文化人類学)によると、台湾の先住民にとって、粟は大切な作物だったようです。彼らは畑作民族で、粟のほかに稗や稲、芋を栽培していた。粟は儀礼文化には欠かせない、とくに重要な作物だった。人々は粟の神霊を最重要視し、粟の酒と粟の餅とを神々に供えた。酒は処女や巫女が噛んでつくった、とリポートしています(松澤「台湾原住民の酒」=山本紀夫、吉田集而編著『酒づくりの民族誌』所収)。

 日本列島に暮らす畑作民たちには、南方の国々に連なる粟の食儀礼が伝えられていたのではないかと想像されます。

 それならなぜ、天皇は米のみならず、粟の神事を行うのか。

 現代を代表する民俗学者で、稲作民俗、畑作民俗の両方を研究する野本寛一・近畿大学名誉教授は、私の取材に対して、「米の民である稲作民と粟の民である畑作民をひとつに統合する象徴的儀礼として理解できるのではないか」と指摘しています。

 日本は「稲作中心社会」どころではありません。稲作民もいれば、畑作民もいた。山の民も海の民もいたのです。人々の暮らしは多様で、それぞれに独自の文化があった。そのような国民を、多様なるままに統合し、社会の平和を保ち、暮らしを安定させるのが天皇の役割であり、歴代天皇は政治権力や軍事力によらず、公正かつ無私なる祈りによって実現しようとしてきた。そのための米と粟の食儀礼ではないでしょうか。


▽6 天皇の祭祀は「宗教的行為」なのか

 天皇の祈りは皇祖神のみならず、国民が信じる多様な神々に対して捧げられます。価値の多様性を認め、多様性のなかの国と民の統一を図る多宗教的、多神教的文明の中心が天皇であり、天皇の祭りなのでしょう。実際、世界には民族や宗教の違いから対立し、分裂する国が多いなかで、日本の社会は世界に類例がないほど長く、平和的、共生的に続いてきたのです。

「あなたには私のほかに神があってはならない」と教える一神教世界では、神は絶対です。神の教えは生活すべてを律します。異端を排斥し、異教徒を殺戮し、血で血を洗う壮絶な内部的抗争が繰り広げられるのはそのためであり、その悲劇が近代の政教分離原則を生んだ要因です。

 けれども日本では、天皇の祭祀こそが信教の自由を保障しています。古代において仏教導入に積極的な役割を果たしたのが皇室であり、近代の皇室はキリスト教の社会事業を深く理解され、支援されました。宗教的共存こそ、古来、天皇の原理です。

 ところが、平成の御代替わりでは、政府も宮内庁も、天皇の祭祀が逆に国民の信教の自由を侵すと信じ込み、皇室の伝統に介入し、国家の無宗教儀礼と皇室の宗教的行事とを分離するなど、一連の儀礼を非宗教的に改変させました。

 憲法学者の小嶋和司・東北大学教授(故人)が指摘したように、現行憲法は宗教の価値を敵視するのではなくて、尊重しているはずです(小嶋『憲法解釈の諸問題』木鐸社、昭和60年)が、政教分離原則に字義通りにこだわった平成の御代替わりは、国民の信教の自由を保障する目的を外れて、まるで宗教を信じない自由を国家が援助、助長、促進する効果を生むという最大の矛盾を侵したのではないでしょうか?

 そもそも「国はいかなる宗教的行為もしてはならない」と憲法第20条が規定する「宗教的行為」に、天皇の祭祀は該当するのでしょうか?

 皇室典範を立案した井出成三・元法制局次長は、「皇位の世襲と宮中祭祀」(昭和42年)に「いわゆる布教伝道と切り離された祭祀が、果たして憲法いうところの宗教であるのであろうか。……宮中においては、ほとんど純粋に祭祀に限定せられているといってもよいであろう」と疑問を投げかけ、さらに概要、次のように述べています。

 ──宮中祭祀が憲法に規定される宗教ではない、という解釈が一般的に納得されるなら、国の行事と皇室行事との、事実に即しない両分論に陥らず、古来の宮中祭祀の形式による大嘗祭その他を国の行事として行い、国費を支出し、総理大臣以下が参与参列することについて、憲法上の疑点を検討する必要がないことは当然である。

 宮中祭祀が一般宗教と同列だと考えるとしても、皇位の世襲は古来、一定の形式を採ってきた。憲法はそのあり方をそのまま内包して、天皇制を確言しているのであって、宗教的色彩があるとしても、政教分離の特例として解されるべきである。国の行事として行う場合、祭祀形式を一掃しなければならないと考えることは、憲法の真意を究めないものである。

 読者の皆さまはどうお考えですか。(この項、終わり。引用は適宜編集しています)

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精粟はかく献上された──大嘗祭「米と粟の祭り」の舞台裏 [大嘗祭]

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精粟はかく献上された
──大嘗祭「米と粟の祭り」の舞台裏
(「神社新報」平成7年12月11日号から)
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画像は昭和の大嘗宮(『昭和大礼要録』昭和6年から)
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 平成2年11月22日の夕刻から翌朝にかけて、平成の大嘗祭「大嘗宮の儀」が皇居・東御苑に設営された大嘗宮で斎行された。

 テレビに映し出される幽玄な儀式の模様を多くの国民が見入ったのと同じころ、遠く秋田県の山間の町には人一倍深い感慨を抱きながら、画面を見つめる1人の篤農家がいた。

 北秋田郡に位置し、真冬には2メートルもの雪が積もるという町は、その晩、しんしんと冷えたが、男の分厚い胸には充実感と感動とに包まれていた。

 その人の名は、鎌田勝巳さん(仮名。当時54歳)。供饌の儀に用いられる精粟を供納した人物である。

 粟献上の舞台裏を現地で取材した。


▢8年前に始まった栽培
▢きっかけは町長の発案

「大嘗祭に使われる粟を献上してほしい」

 という趣旨の斡旋依頼が県農政部、県農協中央会を経て、町の農協から鎌田さんのもとに電話で非公式に伝えられたのは、

「その年の5月末、ちょうど粟の種蒔きが始まるころだった」という。

 鎌田家は代々、鎮守社の神職を務める名家だったようだ。同家はまた、県北地方の特産品となっている樺細工のルーツで、とくに胴乱は江戸期には関東や関西から注文が殺到するほどの評価を得ていたらしい。

「いっしょに粟を栽培している仲間が大勢いるから、みんなで頑張れば大丈夫だろうと楽観的に考えて、『はい、分かりました』と答えました」

 正式に県農協中央会が、精粟の供納者として鎌田さんを宮内庁に推薦するのは、9月下旬のようである。
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 神饌用精粟献上の依頼は、粟栽培に挑戦してきた努力が公的に認められた証であり、名誉であることには違いなかったが、鎌田さんにまったく不安がなかったといえば、ウソになろう。

 じつは鎌田さんが同じ集落の仲間たちと粟を栽培し始めたのは、それからわずか3年前のことだった。発端は町長の呼びかけという。

 全国にその名を知られた詩人町長は、町が合併成立した昭和30年に30歳の若さで就任してから、今年(平成7年)1月まで、連続10期、40年ものあいだその職にあった。

「子供のころは粟餅などにして、この辺でも粟をよく食べていた。焼き畑ではまず粟を植えたものです。

 ところが、戦後まもなく作らなくなった。食糧増産で陸稲が作られるようになり、価格では太刀打ちできない粟は作る人がいなくなった」(前町長)

 しかし米の減反政策と高齢化社会、それと健康ブームが粟を復活させた。いまから8年前の昭和62年のことである。

「転作作物に粟を作ってはどうか、と農家に働きかけた。粟は値は安いけれども、アトピー性皮膚炎に効果があるなど、健康食品として優れている。町の年寄りたちには畑仕事は健康維持にもつながる」

 と前町長は採算性より健康を強調する。そしてこれが日本の農業の生き残りの道だという。

「ある本には、鎌倉武士は賓客をもてなすのに精粟を用いたと書いてあった。中国にも同じような習慣があったそうで、粟をバカにしたものではない」

 粟栽培の中心になったのが、鎌田さんだった。町の農業総合指導センターの指導員を務め、仲間から一目置かれる存在だったようで、話は早かった。

 農業改良普及所と連携して青森県農業試験場から数種類の粟の品種が取り寄せられ、25人の仲間による試験栽培が2反歩ほどの休耕田でスタートした。

 はじめて作る作物だけに苦労は多かった。

 第一は、どの品種が最適か? 4種類の品種のうち、ネコノアシとトラノオが残った。中国種は冷害に弱かった。

 最終的に、穂が大きく、鮮やかな黄色い実のトラノオが選ばれた。モチ種で、炊くと粘りが出るのも好ましかった。

 機械化が難しいのもネックだった。当初は刈り取りから乾燥・調整までぜんぶ手作業だった。

「ビニールハウスで乾燥させたら、スズメの大群につつかれて、たいへんな目に遭った」こともある。

「脱穀は稲用の機械だとぜんぶ飛ばされてしまうので、ビール瓶でたたいて、実を落とした」

 最後は鎌田さんが手作りで粟用の機械をこしらえた。

 栽培開始から3年、ようやく栽培のメドが立ったところへ、献上の話が飛び込んできた。

 悠紀国(ゆきのくに)に決まった秋田県で、粟を大規模栽培しているのはこの町だけだったというから、「御指名」にあずかるのはごく自然のことだったようだ。


▢「緊張の連続」だった半年間
▢町で知っていたのは5人だけ

 精粟の供納を快諾したものの、鎌田さんたちにとって、刈り入れまでのその後の半年間は、さすがに「緊張の連続だった」という。

 2月下旬に悠紀国・主基国(すきのくに)が點定されてから、3か月あまりが過ぎ、マスコミが報じる御大典関連のニュースが増える一方で、過激派による神社のゲリラ放火事件なども起きていた。

 鎌田さんの両肩に、責任の重さが痛いほど感じられたであろう。

「献上のことが知れて畑に放火されるというのも心配だが、面白半分に穂を抜いていく不心得者も困る。警察からは、警備のため絶対に口外しないように、と要請された。所管の警察署から毎朝、私服の警官が2人、警備に通ってきた」

 警察の要請には従わざるを得ないが、だからといって物々しくなればかえって不審がられる。先祖が神職だっただけに、「畑のお祓いをしようかと思ったが、手控えた」という。

「畑が家のすぐ裏だったのが幸いだった。町では町長や担当課長など5人しか知らなかった。いまでも、粟作りの仲間内でも、知らない人がいる」

 人口が1万人もいないこの町で、精粟供納の事実は、いまなおほとんど知られていない。

 こうした警備第一の秘密主義に、いまも腹立たしさを隠さないのは、当時、秋田県神社庁長だった石沢久英さんである。

 石沢庁長が悠紀斎田の大田主を知ったのは、なんと9月の報道発表の直前だった。

「秋田では卜定以来、13か所に奉祝田を定め、全県的に御大典を盛り上げようと努めた。斎田はできれば奉祝田のなかから決めてもらいたい、との期待もあった。

 祭儀について、宮内庁関係者から内々に協力を依頼されたが、稲が大きくなり、夏が過ぎて、出穂期を迎えようとしているのに、大田主は明かされなかった」

 県全体が悠紀国だとして、奉祝に努める石沢庁長らは、警備当局による撹乱戦術の最大の協力者でもあるはずだが、情報日照りの状況に置かれていたことになる。

 数カ所の候補地から悠紀斎田が最終的に確定するのは9月中旬のようだから致し方はないが、業を煮やした石沢庁長は、9月下旬、県警本部に乗り込んだ。

「いつまでも秘密にするなら、こちらにも考えがある」

 とすごんで見せて、ようやく深山健男県警本部長は重い口を開いたという。

「じつは斎田は決まっている。あなた方には迷惑をかけるが、箝口令とはいかないまでも、情報管理が厳しくて、明らかにできない」

 宮内庁が秋田・悠紀斎田の大田主を記者発表したのは、それから2日後の9月25日で、そのときはすでにかなりの数の宮内庁職員が準備のために秋田入りしていた。

 それ以降の神社庁は「慌ただしかった」。

 なにしろ記者発表の2日後、27日の午後は斎田抜穂前1日大祓の儀、その翌日の午前には抜穂の儀が行われる。

 しかし祭儀の当日、400名もの警官が張り付く斎田は、「近づくのも容易ではなかった」という。

 他方、鎌田さんと町役場の担当の女性課長も、慌ただしい日々を迎えていた。

 粟が収穫される10月中旬、県農業中央会から、天然秋田杉の白木の箱が郵送されてきた。毎年、新嘗祭に献上される秋田県の献納米が秋田杉の箱に収められていることから、それに倣ったものだという。

 課長が手作りで、箱に白い絹布を張り、手製の絹紐を2本付けた。

 精粟の乾燥は「農協の豆の乾燥機を使って、2人でこっそり行った」。


▢大礼委員が「きれいな粟」と
▢下賜の木盃で祝杯をあげる

 10月下旬、鎌田さんは真新しい絹の袋に詰められたうえに杉箱に納められた7・5キロの精粟を携えて、上京した。

「秋田市で、米の新穀を献上する大田主夫妻や県農協中央会の代表者などと合流した」。

 翌25日の午前、悠紀国・主基国の献納者がそろって参内、斎庫の前で新米および新粟の献納の儀式が行われた。

 黒の礼服に白ネクタイの鎌田さんは前に進み出て、大礼委員の確認を受ける。

「緊張しました。箱を開けて、なかの粟を見ていただくのですが、『たいへんきれいですね』とお褒めの言葉を頂戴して、やっと肩の荷が下りました」

 ほかの献納者たちも同じ思いであったろう。

「陛下と同じメニューだという和食のお昼をみんなでいただいて、そのあと皇居内を1時間ほど案内してもらいました。もちろんはじめてです」

 厳重な警戒のもとで造営中の大嘗宮が白幕で覆われているのが見えたという。

 翌日、自宅に戻った鎌田さんに、

「大任を果たして、ご苦労様でした」

 と奥さんがねぎらいの言葉をかけた。

 その晩、親戚が集まった。鎌田さんは下賜された漆塗りの木盃で祝杯を挙げた。

 秋田の美酒がのどを通り過ぎていくそのときこそ、半年の苦労を忘れる瞬間であったに違いない。

 やがて平成の大嘗祭が終わって、鎌田さんの自宅に、献上された精粟を納めていた杉箱が「特別の計らい」によって返送されてきた。いま木箱は床の間に飾られている。

 粟作りの今後の課題を聞くと、鎌田さんは答えた。

「面積を増やしたいが連作障害などがあって、なかなかできない。栽培農家の高齢化も問題です。粟は穂が大きくて、刈り取りの機械化が難しいから」

 意欲はまだまだ盛んだ。今年の作付面積は1町歩。「規模では日本一」と胸を張る。

「私は1週間に一度は必ず粟ご飯を食べています。ほんとうは干し餅にすると美味しい。サクサクとして、モチ米の干し餅より味がいい」

 町では板チョコ状にのした、粟70パーセント、米30パーセントの粟餅のほか、粟煎餅や粟クッキーを、第三セクターの工場で生産し、名産品として売り出し中だ。

 これらもまたアイデア町長の発案らしい。

「たくさんの『ムラ』が連携したのが本来の『国』のはずで、私は顔の見える範囲で、小さな場所からの『国おこし』に努めてきた。

 カネやモノしか見えないようでは、人間はおしまいだ。引退してからは、文化面での町おこしに専念している。

 早く政治家を辞めるべきだった、というのが、40年間の結論です」

 町の歴史そのものというべき前町長の発言は、含蓄が深い。

 鎌田さんといい、この町長といい、平成の大嘗祭はよき人たちに恵まれたというべきだろう。天の配剤であろうか。


▢「一君万民」「万民平等」の神髄
▢なぜ神前に米と粟を捧げるのか

 最後に、平成の大嘗祭がなぜあれほどに厳重な警備体制、秘密主義が採られなければならなかったのか、について考えてみたい。

 そもそも警備当局は秘密主義説を否定する。

 たとえば、当時、秋田県警本部長で、現在(平成7年当時)、警察庁審議官を務める深山さんは基本的見解の違いを主張する。

「私どもは過剰警備とは思っていない。ごく一部の人たちが思っているだけであって、見解がまったく違うのではないか。(秋田県)護国神社は対象になっていなかったから、ああいう(過激派にゲリラ攻撃され、社殿が全焼するという)結果になったが……」

 宮内庁サイドも同様である。職員でさえ、その多くが大田主を知るのは9月の報道発表時のようだが、それでも、祭儀課長を務めた鎌田純一・元皇學館大学教授は、

「過激派と同時に訴訟グループの妨害があった。過剰警備といわれるが、いちばん斎田のことを御懸念されていたのが陛下だった。
 警察は反対派の動きをつかんでいたのだろう。庁内では大嘗祭延期、中止の事態も想定して進めていた。
 精神論だけでは不十分だ」

 と警察の肩を持つ。

 たしかに現実論ではそうかも知れないが、天皇一世一度の大嘗祭が持つ祭りの精神、とくに米と粟の儀礼という観点から考えてみたい。

 秘儀中の秘儀とされる大嘗宮の儀の神饌御進供で、新帝が手ずから、天照大神ほか天神地祇に捧げ、みずから召し上がるのは米と粟の新穀であって、米だけではない。

 にもかかわらず、大嘗祭は一般には「稲の祭り」といわれる。米の供納者は「大田主」と呼ばれるのに対して、粟の場合は呼ばれない。なぜであろうか?

 大嘗祭の粟の関する研究はほとんどないようだが、民間では『延喜式』の時代から、粟の新嘗が存在したのは、歴史的な事実らしい。

 奈良時代に成立した日本初の地誌のひとつ『常陸国風土記』に、母神が御子神を歴訪する、筑波郡の物語が載っていて、「新粟(わせ)の新嘗」「新粟嘗(にいなめ)」の語が見いだされる。

 そのむかし、新嘗祭は村を挙げて潔斎し、女性や子供は屋内にこもって、産霊の神との交流を持ち、客人を家中に入れることをはばかったらしい。

 それはともなくとして、なぜか、『日本古典文学大系』の校注者である秋本吉郎先生は、この「粟」は「脱穀しない稲実」と理解している。

 神社本庁職員(当時)の落合偉洲さんは、論文「新嘗祭と粟」で、

「宮中祭祀としての新嘗祭は、民間の素朴な新嘗が母体になっていると考え、宮中新嘗祭における粟は、その残影と理解することは無理であろうか」

 と書いているけれど、むしろこちらの理解の方が自然のように思われる。

 つまり、民間には米と粟のそれぞれの新嘗祭があり、宮中祭祀では両者が複合的に行われているということではないのか。しかしそれはなぜなのか?

 稲作文化と畑作文化の両方に詳しい近畿大学の野本寛一教授(民俗学。当時)に聞いてみた。

「天神地祇に米と粟を捧げる新嘗祭、大嘗祭の儀礼は稲作民と畑作民を統合する象徴として理解できるのではないか。同じ神饌の白酒(しろき)・黒酒(くろき)の黒酒は、もとは畑作民の稗(ひえ)酒であり、やはり同じ意味を持っていると思われる」

 野本教授は著書の『焼畑民俗文化論』に、稲作以前の民が粟や芋を栽培していた、この畑作文化は「海上の道」をたどって伝来したと書いている。

 ちなみに粟の原産地は東インドといわれる。

 つまり、大嘗祭は、「稲の祭り」ではなく、稲作・畑作両儀礼の複合であり、農業の収穫儀礼に源流を持つ国民統合の儀礼であると理解される。

 しかし、国の祭り主である天皇が、複合的な祭儀の執行を通じて、異なる文化的ルーツを持つ国民をひとつにまとめ上げる、という発想は、「警察国家」の発想にはない。

 そのことは警察官僚自身が認めている。

 東大紛争当時、警視庁の治安警備担当課長だった佐々淳行さんは、『東大落城』に概要、次のように書いている。

 安田講堂の攻防が決着したあと、秦野章警視総監が内奏のため参内した。昭和天皇から御嘉賞のお言葉があれば、機動隊員の士気高揚につながると期待されたのだが、帰庁した秦野総監は怪訝そうな表情を浮かべていた。

「天皇陛下ってえのはオレたちとちょっと違うんだよなァ。……『双方に死者は出たか?』とと御下問があった。幸い双方に死者はございませんとお答えしたら、大変お喜びでな、『ああ、それはなによりであった』とおおせなんだ」

 昭和天皇はけっして警備当局の側にだけ立ってはおられなかったのである。なぜなのか?

 名古屋大学の加藤雅信先生は著書のなかで、こう説明している。

「国民を感性レベルでも赤子(せきし)ととらえた最後の天皇であろう、昭和天皇の心情が余すところなく述べられている」(加藤『天皇』)

 昭和天皇には、安田講堂に籠城し、警備陣を手こずらせている過激派の学生たちもまた、「わが赤子」なのである。

 粟はしばしば「雑穀」とひとくくりにされるが、「雑草という名の植物はない」と名言を残された昭和天皇に、「雑穀」というご認識はなかったに違いない。

 天皇一世一度の大嘗祭が稲作民の粟と畑作民の粟による国の鎮めの儀式だと理解するなら、ここにこそ体制派も反体制派もない「一君万民」「万民平等」というひとつの政治的理想の神髄が見えてくる。

 加藤先生はさらに続けて、「機動隊と学生のやり合いを、まるで自分の息子の兄弟喧嘩みたいな目で見ている」昭和天皇の統治者像こそが、「80パーセントを超える現行天皇制の支持にもつながっている」と指摘する。

 とすれば、反対者の妨害を力でねじ伏せるために、情報を厳しく統制するような「警備第一主義」は、「国民とともにある皇室」という観点から見た場合、「よき前例」となったとはいえるだろうか?

 5年後のいま、厳しい情報管理の中枢にあった行政官の多くは、記者の取材に対して、「記憶にない」を繰り返すばかりなのであるが……。

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