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御代替わりを攻撃する日本キリスト教協議会リポートの不信仰 [キリスト教]

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御代替わりを攻撃する日本キリスト教協議会リポートの不信仰
(令和3年2月28日、日曜日)
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▽1 聖書は「王」への敬意を要求している
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日本のプロテスタント教会・教団・関係団体で組織される日本キリスト教協議会(NCC。東京・新宿区)が今月23日、令和の御代替わりについて「総括」する文書を発表した。

取りまとめたのは靖国神社問題委員会(委員長=星出卓也・長老教会牧師)で、いわゆる靖国問題をテーマとする特別委員会によるリポートであるところに、すべてが言い尽くされている。端的にいって、本来のキリスト教信仰に似つかわしくない政治文書である。わざわざ天皇誕生日という佳日に合わせたのには悪意すら感じられる。

「2019-2020『天皇代替わり』を総括して」と題する報告書はわずか9ページで、「国民統合の象徴としての天皇の強化」「侵略加害の歴史を解決済みのようにした天皇の公的行為」「代替わり儀式における天皇神格化の問題」など、苔が生えたような見出しがしたり顔で踊っている。

「天皇代替わり」「明仁天皇から徳仁天皇への交代」などという冷淡な表現には、近代日本のキリスト者が大切に保持してきた、天皇に対する尊敬の念などはカケラも感じられない。

そればかりではない。NCCの反天皇主義はプロテスタントにあるまじき反聖書主義と映る。なぜなら聖書は「すべての人を敬い、きょうだいを愛し、神を畏れ、王(the emperor)を敬いなさい」(共同訳、ペテロの手紙一)と「王」への敬意を要求しているからだ。NCCは逆に不信仰を求めている。

プロテスタントにとって聖書の教えは絶対なはずだ。NCCの関係者は反天皇主義=反聖書主義の矛盾を感じないのだろうか。日本の建国以来、少なくとも千数百年、国の中枢に位置し続けてきた天皇への敬意なくして福音宣教の成功など、現実的にあり得ないだろうに。


▽2 大嘗祭は「稲の祭り」なのか

もう一点、指摘すると、NCCリポートには、といってNCCに限ったことではないし、すべてNCCの責任ではないのだが、重大な事実誤認があると思う。すなわち、御代替わり最大の儀礼・大嘗祭の中身と意義である。

リポートは、「大嘗宮の儀」について、まず「政府見解」を引用したうえで、稲作社会の収穫儀礼で、かつ皇位継承の重要儀式という「古来の伝統」が強調されているが、戦前の政府解釈はそうではなかったと指摘している

つまり、文部省『大礼の要旨』(1928年10月)には、「大嘗祭は遠く神代の昔より行はれたる最も重大なる祭祀にして、御代の初、新穀にて造りたる御饌・御酒を皇祖天照大神を初め、天神地祇に御親ら捧げ給ひ、御親らも之を聞こしめすをいふ」とあって、その意味は「伝統」を越えた宗教的祭祀に他ならないと指摘するのである。

また、国定修身教科書『初等科修身巻四』(第五期、1943年~1945年)には、「大嘗祭こそ、大神と天皇とが御一体におなりあそばす御神事であって、わが大日本が神の国であることを明らかにする」とあり、戦前・戦中の解釈では、大嘗祭は至上の神事であること、天皇は、大嘗祭において、天照大神と一体となること、神となることが明白に指摘されていたと解説している。

つまり、大嘗祭の宗教的性格は疑うべくもない。新天皇は大嘗祭を通じて、天照大神と一体になる宗教的な存在になったことが公式に示され、日本が天皇=神によって治められる神の国であるという教義が宣伝された。したがって、政教分離原則に違反すると判断されるというのである。皇室祭祀が憲法を越えた治外法権となることを既成事実化するとも述べている。

だが、しかし、である。政府の見解自体が誤っているのである。

リポートが引用する「政府見解」は30年前の平成の御代替わりに際して、ある著名な神道学者の学問的見解に基づいてまとめられたものと考えられる。この研究者の責任こそきびしく問われるべきだが、大嘗祭は断じて「稲の祭り」ではない。稲作信仰・稲作儀礼ではない。新帝が手づから皇祖神ほか天神地祇に捧げられ、祈り、直会なさるのは米ではなく、米のみではなく、米と粟だからである。

その点、戦前の修身の教科書が「新穀」と記しているのはむしろ正しい。天皇が大嘗宮でなさる神事の内容は古来、秘儀とされてきたが、関係者や研究者の間ではよく知られている。NCCのリポート作成者は、「政府見解」を検証する程度ではなく、天皇の祭祀の実態について学問的にもっと深めるべきだ。


▽3 自分の目にある梁に気付かない

大嘗祭が天孫降臨神話に基づく稲の祭りだとすれば、新帝は天照大神に稲を捧げれば済むことだ。大嘗宮を建てる必要もない。賢所で十分だろう。しかし実際は大嘗宮が設営され、皇祖神のみならず天神地祇が祀られ、米と粟が捧げられる。なぜ大嘗宮なのか、天神地祇なのか、なぜ粟なのか。粟は天孫降臨神話には登場しない。NCCは考えたことがあるだろうか。

キリスト教世界ならキリスト教の神に祈る。それ以外はあり得ない。イギリス国王の戴冠式は荘厳なる大聖堂で行われる。熱心な国教会の信徒は戴冠ミサに共感し、感動し、新国王に忠誠を誓うはずだが、イギリス国民はアングリカンばかりではない。カトリックやイスラム、仏教を信じる国民は、強い疎外感を覚え、NCCの関係者と同様に手酷い批判を加えねばならぬのだろうか。それどころか、NCCの論理に従うなら、教会での戴冠ミサは信教の自由を侵すと指摘せねばならないだろう。

日本の天皇は古くはスメラギ、スメラミコトなどと呼ばれた。国と民をひとつに統合することが最大のお役目である。だとしたら、キリスト教世界とは異なり、多神教的な日本では、天皇第一の重儀は一神教的ではあり得ない。皇祖神のみならず、民が信ずるあらゆる神を祀り、「国中平かに、民安かれ」と祈るのはそのためだろう。当然、神饌は米だけではあり得ない。

大嘗祭は宗教儀礼というより、国民統合の国家儀礼なのである。カトリックの場合は中国皇帝が行う孔子崇拝の儀礼参加を認めたが、それは宗教儀式ではなくて国家儀礼だからだ。この適応政策によってカトリック信仰は高級官僚たちに広がっていった。

新帝の大嘗祭の祈りは、論理的にいえば、日本のプロテスタントが信じる神にも捧げられていると私は思う。そうでなければ、スメラミコトたり得ないからだ。だとしたら、NCCの面々はそれでも大嘗祭を政治的に攻撃し続けるのだろうか。たとえ刃向かう者であれ、すべてわが赤子と信じて公正かつ無私なる祈りを捧げる天皇に、徹底して刃向かわねばならぬのか。

キリスト教世界の教会式儀礼には目をつぶりつつ、天皇の儀礼にのみ矛先を向けるのは、キリストがもっとも批判した偽善者を演じることにならないか。主イエスは言われたのではないか。「きょうだいの目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目にある梁に気付かないのか」(ルカによる福音書)と。まして、ありもしない「おが屑」を偽造してはならない。

最後に蛇足ながら、昭和天皇は天皇=現人神説を否定されていたことを補足しておく。詔に「明つ神とあめのした知らす天皇」とあるのは明つ神=天皇の意味ではないからである。天皇=現御神とする「国体の本義」(文部省、昭和12年)の解釈は誤りであろう。


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【関連記事】世界が伝えた法王の「懺悔」──「異教文明破壊」の「告白」は十分か(「神社新報」平成12年4月10日)〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2000-04-10-1
【関連記事】皇祖と民とともに生きる天皇の精神──宮廷行事「さば」と戦後復興(「神社新報」平成10年6月8日号)〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/1998-06-08-2
【関連記事】失われた「善きキリスト者」の前提──一変した戦後巡幸の美談(「神社新報」平成10年6月8日から)〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/1998-06-08
【関連記事】精粟はかく献上された──大嘗祭「米と粟の祭り」の舞台裏(「神社新報」平成7年12月11日号から)〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/1995-12-11-1

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ザビエル来日450年と靖国神社創立130年──神饌になった南蛮菓子「金平糖」 [キリスト教]

以下は斎藤吉久メールマガジン(2013年6月9日)からの転載です


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ザビエル来日450年と靖国神社創立130年
──神饌になった南蛮菓子「金平糖」
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 日本スペイン交流400年事業が今月、スタートします〈http://www.esja400.com/jp/index-jp.shtml〉。

 興味深いことに、同事業は「友好400年」といわずに、「交流400年」と表現されています。

 公式サイトの「交流の歴史」はその筆頭に「1549年、ザビエルによるキリスト教布教」が掲げられ、「1584年、天正遣欧使節がフェリペ2世に謁見」と続いているのに、さらにそのあとに続く「1613年、支倉常長の慶長遣欧使節が出航」が「交流」の起点とされています。

 なるほど「東洋の使徒」ザビエルはスペイン人というよりバスク人でしたが、「交流400年」は大航海時代の荒々しいキリスト教世界宣教をめぐる議論を避け、あくまで「交流」の側面に注目しようという姿勢と見るのは、うがち過ぎでしょうか?

 400年という長期にわたる日本とスペインとの交流史ですから、さまざまな事柄があることは当然です。であればこそ、明るい未来に向けた「交流」が求められているのだと思います。

 名誉総裁となられた皇太子殿下は、スペイン政府の招待による同国御訪問を前にして、先日、記者会見に臨まれ、抱負などを述べられました〈http://www.asahi.com/national/update/0606/TKY201306060464.html〉。

 歴史を詳しく勉強されていることに感銘を深くしたのは私だけではないと思いますが、私としてはあえて、当時のキリスト教史の暗部に斬り込みたいと考えます。

 つまり、なぜザビエルは日本にやって来たのか、なぜキリシタンたちは殉教することになったのか、なぜ禁教政策が採られるようになったのか、です。

 およそ「友好」とは似ても似つかない、その歴史を探ることは、内外の批判が集中する、現代の、いわゆる国家神道問題や靖国問題とも深く関わると思うからです。

 というわけで、今回は、平成11年8月に宗教専門紙に掲載された拙文を転載します。なぜザビエルは来日したのか、がテーマです。

 折しもこのとき全国各地で「ザビエル来日450年」のイベントが開催されていました。他方、靖国神社は「創立130年」の佳節でした。両者を結びつける、意外なお菓子を通じて、歴史を振り返ってみました。

 それでは本文です。なお一部に加筆修正があります。



 先月上旬、2万灯を超える燈籠の飾り付けなど、「みたままつり」の準備で大わらわの靖国神社を訪ねたら、拝殿脇で1人作業をする、青い目の青年と出会った。白衣姿がなかなかどうして決まっている。

 アメリカ・メリーランド州出身の大学3年生。専攻が宗教学だそうで、留学のかたわら、日本の宗教を体験的に学ぼうと、同社に通っていた。その後、「いろんなことを研修し、楽しかった。ふつうの日本人と知り合えたし、日本の文化がよく分かった」と受け入れ先の留学センターに感想を話していたという。

 さて、記者が足を運んだのは、同社では金平糖(こんぺいとう)が神饌(しんせん)として供され、参拝者に授与されると聞いたからだ。

 はて、金平糖といえば、もともとポルトガル語で、たしかキリスト教の宣教師が織田信長の時代に日本に伝えたのではなかったか。それがなぜ、悲運にも戦陣に散った英霊をまつる同社で献饌されるようになったのか?

 記者の頭の中で、知りたがりのムシがうずき出した。


◇ザビエル来日から450年
◇日本宣教はなぜ企てられたか

 南蛮菓子の金平糖が日本に伝わったのは、いうまでもなくキリスト教の伝来と関わっている。そこでまず「最初の宣教師」フランシスコ・ザビエルの来日を振り返ってみる。

 折しもいま、全国6都市を巡回して、「来日450周年」を記念する「大ザビエル展」が開催されている。先月は東京・池袋の美術館が会場となった。展覧会は残る3都市で12月まで開かれるという。

 展覧会のほか記念行事は各地で催されている。日本のカトリックにとって、450年前のザビエル来日の意味は大きい。来たる西暦2000年の「大聖年」とも関わるからだ。

 ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世は5年前、「使徒的書簡」を発表し、イエス・キリスト生誕から2000年目に当たる西暦2000年を「大聖年」と位置づけた。「すべての人が救いの力に預かることができる」ような「解放」の年とすべく、準備が進められているのだ。

 キリスト教やイスラム教、東方教会やプロテスタントとの関係改善または和解、さらには6月のケルン・サミットで決まった低開発途上国の「債務帳消し」のためのキャンペーンなどはその一環らしい。

 日本国内でも「大聖年」に向けた記念行事が目白押しで、その幕開けは、平成9年の「二十六聖人殉教400年」のミサであった。

 天正15(1587)年に豊臣秀吉がバテレン追放令を出して以後、日本はキリスト教禁教、鎖国へと導かれた。

 9人の宣教師を含む26人のキリシタンが長崎で処刑されるのは慶長元(1597)年で、それから400年後、「殉教の地」に教皇特使を迎え、記念のミサが行われたのだ。

 それなら、わずか38年後に迫害と殉教の悲しい結末を招くことになる、ザビエルの日本宣教はなぜ企図されたのか?

 ザビエルは「東洋の使徒」とも呼ばれ、最果ての地に神の福音と西洋の新しい文化をもたらした「平和の使者」として描かれるのが常だが、そうした理解だけで十分なのか?

 生い立ちから振り返ってみると、ザビエルは1506年、フランスとスペインにまたがるバスク地方のナバラ王国に、貴族の末っ子として生まれた。

 パリ大学に留学中、イグナチウス・ロヨラと運命的な出会いをし、修道士への道を選ぶ。34年8月15日、ロヨラら同志7名がパリのモン・マルトルの聖堂で、「清貧」「貞節」「聖地巡礼」の誓いを立て、これがのちの修道会イエズス会に発展する。

 40年、ポルトガル国王ジョアン3世の要請によって、イエズス会のインド宣教が企てられる。国王は東洋の国々をキリスト教に改宗させることが自分の義務と考えていた。

 ザビエルがインド西海岸のゴアに到着したのは、42年。ゴアは1510年にポルトガル第2代総督アルブルケに攻略されたあと、教皇パウロ5世によってカトリックのアジア伝道の中心地と定められていた。

 その後、ザビエルはマレー半島のマラッカに渡り、「アンジロウ」という名前の日本人と出会う。知識欲が旺盛で、理解力に優れたアンジロウとの巡り合いは、ザビエルに日本行きを決意させた。

 ザビエルはジャンク船に乗り、ちょうど450年前の天文18(1549)年8月15日、鹿児島に上陸する(『聖フランシスコ・ザビエル全生涯』など)。


◇ザビエルの日本人評価は高い
◇武力征服が宣教の隠れた目的

 フロイス「日本史」(ザビエルの同志ルイス・フロイスが書き残した克明な記録)の完訳者として名高い京都外国語大学の松田毅一教授によると、ザビエルは鋭く日本人を観察し、じつに高い評価を与えていた。

 来日の翌年、鹿児島からゴアに出された長い手紙に、ザビエルは、「私たちが知り得た限りでは、この国の人々はいままでに発見された国民のなかで最高で、日本人より優れた人々は異教徒のなかでは見出せないだろう」と述べ、富よりも名誉を重んじる「キリスト教の諸地方の人々がけっして持っていないと思われる特質」を指摘している。

 また、フロイスに対しては、「日本人は、文化・風俗および習慣において、多くの点ではるかにスペイン人に優る」とまで褒めちぎっているという。

 ザビエルは天文19(1550)年に上洛する。

 日本宣教の勅許を願い、学僧と法論を交わしたいというのが前々からの希望であったが、後奈良天皇との謁見は果たせず、比叡山では門前払いを受ける。都は戦乱で荒れ果て、天皇は史上、もっとも悲惨な境遇にあられた。

 翌年、ザビエルは日本でもっとも繁栄する山口の領主14代大内義隆に拝謁する。インド総督の使節として絹の衣をまとい、総督の親書を携え、望遠鏡やオルゴールなどの珍しい品々を奉呈した。

 義隆は布教を許可し、廃寺となっていた大道寺を宿舎として与えた。この大道寺が日本で最初のキリスト教会とされる。

 天文20年、日本をあとにしたザビエルは翌年、中国・華南沖の孤島サンシャン島で病没する(松田『南蛮のバテレン』など)。

 ところで、カトリックの世界宣教は、教皇アレキサンドル6世が1493年の勅書で、ポルトガル、スペイン両国王に対して、新たに領有した地方に宣教師を送り、カトリック信仰の弘布を勧告したことに始まる。

 キリシタン史研究の第一人者、慶応大学の高瀬弘一郎教授によれば、カトリックの世界布教はスペイン、ポルトガルによる武力征服の隠れた目的があった。

 キリスト教の布教は、航海、征服、植民、貿易という世俗的な事業の一環として進められた。イベリア2国による「世界2分割征服論」という荒々しい野望とカトリックの勢力拡大という宗教活動が、教皇の名のもとに一体化して推進された、と高瀬教授は説明する。

 とくにマゼランの世界一周達成以後は、両国のあいだで、香料を産する東南アジアのモルッカ諸島をめぐって争奪戦が展開された。

 日本に対する両国の関心は銀であったらしい。その点、ザビエルが離日後、両国王に対して、日本の征服は不可能だから断念するように進言する手紙を書いていることは注目される。

 しかし1575年、教皇グレゴリウス13世の大勅書によって、日本はじつに「ポルトガル領」と認められている(高瀬『キリシタン時代の研究』など)。

 松田教授によれば、かつてイエズス会の本部があったローマのジェズ教会には、ザビエルの切断された右腕とロヨラの遺骸が安置されている。聖堂の左側には天使が悪魔を踏みつけている大理石の彫像があり、悪魔には「カミ、仏、阿弥陀、釈迦」とラテン語で刻まれているという。

 カトリックは異教の神々を「悪魔」と同一視した。そして、たとい武力によって異教徒を改宗させ、領土を奪い取ったとしても、それは神の御旨にかなったことと信じられたのだ。

 ジェズ教会のせめて写真でも「ザビエル展」に出品されていないかと期待して出かけたが、どこにも見当たらなかった。その代わりに、「二十六聖人殉教図」や踏み絵はある。過酷な迫害は正視に耐えないが、禁教・迫害を導いた背景の説明はこれまたほとんどない。

「ヨーロッパとの出会い」「異文化交流」は説明されているが、「侵略」も「征服」も語られていない。


◇最初はフロイスが信長に献上
◇靖国献饌は昭和50年代から

 金平糖に話を転じたい。

 最初に文献に現れるのは織田信長の時代らしい。

 フロイスは永禄12(1569)年、6、7千人が働く、建設中の京都・二条城で、といっても、堀橋の上という如才ない場所で、工事を監督している信長に謁見し、布教許可を願い出た。

 このときガラス瓶入りの金平糖1瓶とロウソク数本を贈った、とフロイスは手紙に書き残している。

「これなるは南蛮菓子にござりまする」

「何と申すものか」

「コンフェイトと申しまする」

 ──という会話が交わされたかどうか、は分からないが、金平糖の語源は、ポルトガル語で「砂糖菓子」を意味する「コンフェイト」だという。

 金平糖は「日本侵略」の文字通りの「アメ」だったのか。

 時代はくだり、江戸時代の文学者井原西鶴が書いた『日本永代蔵』という浮世草子(小説)がある。今風にいえば、「こうすればあなたも百万長者になれる」といったたぐいの事例集で、その巻之五に、金平糖を作った男の話が載っている。

 製法が知られないために、人々は輸入品を「唐目(とうめ)1斤(きん)銀5匁(もんめ)」(重さ600グラムの金平糖が銀5匁に相当した)で買い求めていた。ところが、近年、値下がりし、広く出回るようになった。

 それは、この男がゴマ粒を種とする製造法を編み出したからだ。男は長崎の町人で、2年間の苦労の末、製法を見出し、たちまち大金持ちとなった、というのである。

 その後、家庭でも作られるようになったようだが、近代を経て、昭和初期には逆に忘れられた存在となる。というのも、寺田寅彦の随筆に、最近はキャラメルやチョコレートに押されて、駄菓子屋でも見かけなくなったとあるからだ。

 ところが数年ののち、金平糖は兵隊の携帯食として再浮上する。考案したのは、陸軍糧秣本廠に勤務していた川島四郎主計大尉(のちに少将)という。

 経緯はこうだ。昭和10年前後、日本はソ連が日露戦争の雪辱を期して満蒙奪回のために侵攻することを予想し、防衛のためにモンゴル砂漠を突破し、シベリア鉄道を寸断する作戦を立てた。

 このために新しく考案されたのが、金平糖入りの乾パンで会った。

 それまでの軍用乾パンは歌ガルタほどの大きさで、固くて食べにくかった。それを麻雀パイほどに小さくし、甘みをつけるために金平糖が加えられたのだ。

 そっけない乾パンの袋から懐かしい金平糖が出てくる。荒涼たる砂漠を行軍するおっちゃん兵もインテリも歓喜の涙を流した──と川島は書いている(『食糧研究余話』)。

 さて、「創立130年」を迎えた靖国神社によると、春と秋の例大祭に50台の神饌に混じって、金平糖が献饌されるようになったのは、意外にも新しく昭和50年代で、菓子の1つとして、せんべいやおこしなどとともに三方に積み上げられ、神饌撤下後、参列者に頒かたれる。

 もしかしたら、それ以前に供されていたかも知れない、ともいうが、はっきりしたことは分からない。とはいえ、十分な糧秣もなく、病や飢えのため、悲運にも斃れていった英霊たちの良き慰めであろうことは間違いないだろう。

 それにしても、金平糖はよくよく戦争と縁がある。

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「大和撫子の恩人」パトリック・バーン神父 ──厳寒の北朝鮮で殉教す [キリスト教]

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「大和撫子の恩人」パトリック・バーン神父
──厳寒の北朝鮮で殉教す
(「斎藤吉久メールマガジン」平成20年6月14日号)
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 敗戦後、靖国神社の焼却が噂されていたとき、「殉国者はすべて靖国神社に祀られるべきだ」とマッカーサーに答申し、同社を救い、一方、キーナン検事に何度も面談して昭和天皇訴追の断念、天皇制の存続を認めさせたビッテル神父のことはよく知られています。

 しかし、もう1人、日本を救ったカトリック神父がいることはあまり知られていないようです。「大和撫子の恩人」といわれるパトリック・バーン神父(司教)です。

 ビッテル神父はドイツ人で、イエズス会に属していましたが、バーン神父はアメリカ人でメリノール会の所属でした。


▽これが「迫害」の時代か

 元朝日新聞記者で、のちに洗礼を受けた宮本敏行氏が、昭和63年から亡くなる直前まで、秋田県にある修道院「湯沢台の聖母」の黙想誌に2年あまり連載したなかに、その苦難に満ちた生涯が描かれています。

 その一部がカトリック高野教会(京都)のホームページに転載されていますので、お時間のある方はぜひお読みください。
http://www.takano.catholic.ne.jp/genkan.html

 バーン神父は1888年に生まれました。不幸な事故で兄弟を失ったことが聖職者への道を選ばせたといいます。

 メリノール会の副総長として名を馳せていたバーン神父が来日したのは、1935(昭和10)年。滋賀県で活動を開始し、2年後には京都教区の初代教区長となりました。

 今日の教会指導者たちはこの時代を迫害・弾圧の時代と主張していますが、ドイツ人のビッテル神父はまだしも、やがて戦争相手国となるアメリカから神父が受け入れられ、教区長に就任していることは注目されるべきです。

 ついでながら、日米戦争前夜に来日し、日米交渉の幕開けを演じたとされるウォルシュ、ドラウトという2人の聖職者もメリノール会の所属でした。


▽占領軍の暴行の恐怖

 昭和16年に日米戦争が始まると、ほかの在日アメリカ人と同様、アメリカ人宣教師たちは母国に送り返されました。たった1人残ったのがバーン神父で、それが数奇な運命の始まりでした。

 宮本さんによると、敗戦後、東京の朝日新聞の社会部は、虚脱状態にあったといいます。何を記事にしたらいいのか。終戦の玉音放送より、その数時間後に、昭和天皇が「みんな窓を開けて、夜は電灯をつけて休むように」と呼びかけられたことの方が実感があり、うれしかったといいます。

 問題は占領軍がやってきたあとに予想されるパニックでした。暴行の恐怖が若い女性たちの間に渦巻いていたのです。

 新聞社として何とかしなければ、というので白羽の矢が立ったのがバーン神父でした。日本を愛し、日本にとどまった神父の口から、上陸前のアメリカ人将兵たちに呼びかけてもらおうというのです。

 荒垣社会部長のもとで、企画を提案し、すぐさま京都にいる神父に取材し、記事を書いたのが宮本記者でした。

 宮本氏の回想で面白いのは、神父を担当していた特高の刑事が「とにかく、えらい方ですわ」とすっかり神父に心酔し、祈りを共にするほどになっていることです。軟禁するどころか、刑事がまるで執事になっていたのです。


▽「わが息子たちよ──」

 バーン神父は取材の翌日には東京のNHKで、「わが息子たちよ」とラジオでアメリカ人将兵に訴えました。

 ──私は日本の人々について何をいえるでしょうか。彼らは進駐してくる勝利者の姿に万感こもるものでありましょう。あなたたちの到着を、憤怒、恐怖、不信、失敗の気持で見るのは当然です。
 もし、この国の女性や若い人々を乱暴に襲うことがあるなら、どうなるか。私は日本の人々に、あなたたちが堕落した行為をせず、苦しんできたこれら戦争の真の犠牲である人々を認めるよう、愛と善意をもって努力し、彼等の忍んでいる苦しみを増さないであろうと保証します。
 それゆえ、あなたたちが私に協力することを切に願います。あなたたちは、全世界の注目の中で試みられています。あなたたちのどんな暴力や不道徳、どんな不正や犯罪行為も、あなたたち自身の人格を汚すばかりでなく、あなたたちの代表する国家を汚すことになります。

 ──私には日本の人々の恐れが理解できます。日本へ来る兵士たちよ、私は、あなたたちが親切な心をもって来るよう、そしてこれらの人々のよい友達になるよう、切に勧めます。
 あなたたちは、一生懸命戦って勝利を得ました。あなたたちがそれを楽しみ、誇りたいことは、よくわかります。しかし、日本の人々の苦悩を理解するよう努めて下さい。そして大国の代表として穏やかな温かい振舞をして下さい。
 恐らく二、三カ月後に、彼らはあなたたちをよりよく理解するようになるでしょう。それからあなたたちと彼らとの間に親密な友情が生まれるであろうと私は思います。

 バーン神父のメッセージは、日本人が知らないところで、何度も英語で放送されました。そして将兵たちの心を打ち、日本人を救ったのです。

 バーン神父のことは一般にはほとんど知られていないようです。神父自身何ら誇ることはなく、「第二のマッカーサー」といわれたのもつかの間、顧問役を果たし終えると何事もなかったように京都に戻っていったのでした。


▽感謝の言葉を残して

 神が神父に与えた使命はそれで終わりませんでした。1947年に朝鮮半島に渡り、教皇使節となり、司教に叙階された神父は、朝鮮戦争勃発後、北朝鮮軍に囚われの身となります。

 そして、雪嵐が襲う酷寒の中を、病と飢えに苦しみながら、最果ての地へ徒歩で向かい、落伍者には銃殺のみが与えられるという、8日間にわたる「死の行軍」のさなか、みずからの食糧をいっしょに歩く人々に分け与え、神に命を捧げたのでした。

「司祭になったという恩寵以外に、キリストのために苦しむ恩寵を与えられたことは、私の生涯における大きな恵みである」という感謝の言葉を残して──。

 1950年11月25日といわれます。

 韓国ではバーン司教の列福運動が盛んに行われているようですが、日本の教会指導者は逆に北朝鮮支援者と強い関わりがあると指摘されています。ありもしない戦前の日本での迫害を強調しながら、北朝鮮での殉教には沈黙しています。

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渡韓した「憲法教」の宣教師 ──カトリックは自衛戦争を認めているのに [キリスト教]


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渡韓した「憲法教」の宣教師
──カトリックは自衛戦争を認めているのに
(「斎藤吉久メールマガジン」平成20年3月9日号)
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▽ 教会異端化の本丸

 朝鮮日報によると、カトリック大阪教区の松浦司教が昨日(平成20年3月8日)、韓国・ソウルで講演し、

「憲法九条の改正は絶対あってはならない」

 と訴えたそうです。

 同司教は大阪大司教区の補佐司教で、教会指導者の左傾化、異端化の本丸と指摘されている「カトリック正義と平和協議会(正平協)」の会長の地位にあります。

 正平協は、平成14年には小泉首相とブッシュ大統領の明治神宮参拝中止を申し入れ、17年には首相の靖国参拝に抗議しています。首相の参拝は国の宗教活動を禁じた憲法に違反する、というのがその言い分ですが、面白いことに、17年のブッシュ大統領の金閣寺参詣には沈黙しています。

 以前、司教様に直接、うかがったところでは、神社には政教分離を厳格に適用し、仏教はゆるやかに、というお考えのようでした。護憲派のようでありながら、法の下の平等という憲法の大原則には無関心のように見えます。

 ついでにいえば、金閣寺の住職は、司教様と同じく、

「憲法九条を世界に輝かせたい」

 と訴える「九条の会」アピールに賛同する「宗教者九条の和」の呼びかけ人のようです。平和の信念よりお友達の論理が優先されているかに見えます。


▽ 絶対平和主義の立場

 さて、司教様のソウル講演の中味ですが、記事によると、講演前日の記者会見で、

「戦争防止の人類の思いがつまった九条を変えることは絶対にあってはならない」

「世界がこの憲法の精神を噛み締めなければならない」

「アジア・太平洋諸国に真摯な謝罪をすべきだ」

と訴えたようです。

 いまの司教様方は憲法改正阻止にことのほか熱心で、一昨年(平成18年)の秋に発行された一連の小冊子では、さいたま司教が「自民党新憲法草案を検証する」を書いているほどですが、自民党の草案は戦争放棄を捨ててはいません。自衛軍の条項を新たに設けていますが、これは自衛隊の現状を追認するものでしょう。司教様方の政治的言動には、オオカミ少年の響きがあります。

 松浦司教様は、『武器なき世界の実現を』という著書で、

「キリストは人々の憎しみと排斥のなかにあって、『剣をさやに納めなさい』と弟子たちを戒め、和解とゆるしを願って十字架に上り、そのために自らの命をさし出したのです。それは一見、無力な行為のように見えます。しかし、その十字架は予想し得なかった新しいいのちを生んだのです。どんなに時間がかかっても、この道以外に、ほんとうの平和は実現しないからです」

 と書いています。

 司教様は明らかに絶対平和主義の立場に立ち、その根拠を九条においています。

 しかし戦争反対の主張は教会の教義に基づくことなのでしょうか。


▽ バチカンが認める祖国防衛の義務

 カトリックの教義は絶対平和主義に立ってはいません。

 バチカンが編纂した信仰と教理の解説書『カトリック教会のカテキズム』は、4つの厳格な条件を挙げつつも、祖国防衛のための戦争を認め、

「政治をつかさどる者には祖国防衛に必要な任務を国民に課す権利と義務があります」(2310項)

 とさえ述べています。

 そればかりではなく、教会の教義は、この憲法改正論議というような政治に直接介入することは、

「教会の司牧者の任務ではありません」(2442項)

 と明記しています。

 つまり、キリストの弟子の後継者と位置づけられ、ローマ教皇と直結するのが司教ですが、日本の司教様方はバチカンの教えに反して、キリストの教えではなく、いわば憲法教の宣教師を演じていることになります。端的にいえば異端でしょう。

 先に紹介した著書は、キリストの言葉を引用し、いかにも戦争放棄がキリストの教えであるかのような記述をしていますが、キリストは

「剣をさやに納めよ」

 と述べたのであって、

「剣を捨てよ」

 とまでは述べていないのです。


▽ もし本気なら……

 ある軍事評論家によると、第二次大戦後の核軍縮論議が起きたとき、一方的な核廃棄がかえって危険である、ということに為政者は気づいたのでした。平和を望む諸国が核兵器を廃絶したとして、たった一つの独裁国家が核を持つ状況になれば、平和どころか、逆に悲惨な世界が生まれるからです。

 現にいまその状況が目の前に起きています。いうまでもなく、北朝鮮の核開発です。平和は誰もが望むことですが、安易な平和主義に基づく軍事的空白がうまれることがどれほど危険なことか、司教様は理解できないのでしょうか。

 司教様が、自分のいのちを差し出すことが新しいいのちを生む、と本気でお考えなら、率先して北朝鮮の独裁者に自分の命を投げ出し、戦争放棄を訴え、実現させるべきではないでしょうか。


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キリスト教に環境問題の解決能力はあるのか [キリスト教]

以下は旧「斎藤吉久のブログ」(平成19年12月29日土曜日)からの転載です


〈〈 本日の気になるニュース 〉〉


1、「日本経済新聞」12月25日、「ローマ法王、地球環境を憂慮、クリスマス・メッセージ」
http://www.nikkei.co.jp/news/kaigai/20071225AT2M2501H25122007.html

 ローマ教皇が恒例のクリスマス・メッセージで環境問題に言及したことが話題になっています。日経新聞は、教皇が「激変する地球環境が原因で度重なる自然災害が引き起こされている」と指摘したうえで、災害に伴う移民や難民が急増していることに憂慮を示した、と伝えています。

 サンピエトロ大聖堂のバルコニーからイタリア語で呼びかけられた教皇のメッセージは、カトリック中央協議会のホームページに和訳が載っています。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/newpope/bene_message274.htm

 これによると、教皇が「環境問題」に言及したのは最後の部分でした。「すべての人を照らすために来たキリストの光が輝いて、貧困と不正と戦争の暗闇の中に生きる多くの人々を慰めてくださいますように」と訴え、「世界中で移住者、難民、避難民の数がますます増加しています。その原因は度重なる自然災害であり、自然災害はしばしば憂慮すべき環境破壊からもたらされます」と指摘したのでした。

 環境破壊が自然災害をもたらし、人々の不幸を生む、という指摘はもっともなことですが、それなら環境破壊の原因はどこから来るのでしょうか。

 国際日本文化研究センターの安田喜憲先生は、地球環境の悪化は近代ヨーロッパ文明の繁栄と関わりがある、と指摘しています(「講座文明と環境9」)。

安田先生は5000年前に書かれたギルガメシュ叙事詩に注目します。森の神を怪物とし、森の破壊者を英雄と称える神話です。自然への畏敬を失った人間によって、メソポタミアの森は消滅し、そして最古の文明は崩壊したのでした。

 ちょうどモーセの出エジプトのころ、ナイル川のほとりで一神教が生まれます。唯一神のもとで人間を世界の中心におき、自然を征服し、支配する思想はユダヤ・キリスト教に受け継がれました。

 ヨーロッパが自然破壊の文明に席巻されるのは12世紀以降のようです。アルプス以北の大森林は急速に開墾され、消滅するのですが、森林破壊の先頭に立ったのは宣教師だといわれます。ケルトやゲルマンの神々を排斥し、聖なる森を切り開き、聖木を切り倒し、それが正義だと信じて疑うことはありませんでした。

 自然征服の文明は15世紀以後、世界に広がります。北アメリカでは入植から300年で8割の森林が消滅したと安田先生は指摘しています。砂漠に成立した一神教が緑の大地を砂漠化し、無機質的、無生命の都市を築き、砂のような大衆と都市の病理を生んだのです。

 教皇は地球環境の悪化に憂慮を示しましたが、その解決の糸口は、ほかならぬ環境破壊の当事者とも目されるキリスト教の信仰から見いだされるでしょうか。

 ご参考までにこちらをどうぞ。
http://homepage.mac.com/saito_sy/religion/H090414JSanimism.html


2、「MNS産経ニュース」12月28日、「英国人の半数『次期国王はウィリアム王子に』」
http://sankei.jp.msn.com/world/europe/071228/erp0712280959002-n1.htm

 これまでもそのような声が聞かれていましたが、アメリカの世論調査ではイギリス人の半数を超える回答があったというのです。とくに若い世代では7割にも達するというのですから、驚きます。

 しかし、歴史と伝統のあるイギリス王室ならば、王位継承に関するルールがあります。イギリスの王朝には父母の同等婚と王朝の交替という大原則があります。女王の継承が認められてきたのも、その前提にあるのはこの原則です。

 たとえば、20世紀初頭、ヴィクトリア女王のあと長男のエドワード7世が即位しましたが、同時にハノーヴァー朝は幕を閉じ、女王の王配であるアルバート公にちなんで、ハノーヴァー=サクス・コバータ・ゴータ朝に交替しています。

 70年前、「王冠を賭けた恋」がイギリス王室を揺るがしました。エドワード8世はアメリカ人シンプソン夫人との結婚を選び、王位を断念しました。同夫人は王統に属する血筋ではありませんでした。父母の同等婚という原則が守れないからということでしょう。

 現在のエリザベス二世の夫君はギリシャ、デンマーク、ノルウェーの王家の出身ですから、次の国王は、その王家にちなんだ王朝に交替することになるのでしょう。

 気がかりなのは、チャールズ皇太子はスペンサー伯爵家のダイアナと結婚しましたが、王子たちの結婚です。ウィリアム王子の交際相手と噂される女性は一般家庭の生まれです。二人がこのまま結婚することになれば、王位継承はどうなるのでしょう。世論の望むままに、というわけにはいかないでしょう。

 ご参考までにこちらを。
http://homepage.mac.com/saito_sy/tennou/H181218JSeurope.html


3、「日本海新聞」12月29日、「犠牲者6人を追悼慰霊。余部鉄橋列車転落事故」
http://www.nnn.co.jp/news/071229/20071229003.html

 20年前に起きた事故の犠牲者6人を慰霊する法要が遺族連絡会の主催で営まれ、僧侶が読経し、参列した遺族や町、JR西日本の関係者などが慰霊碑の前で焼香したのだそうです。犠牲者の方々には心から哀悼の意を表します。


 以上、本日の気になるニュースでした。
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近代、キリスト教のパトロンだった皇室 [キリスト教]

以下は旧「斎藤吉久のブログ」(平成19年12月25日火曜日)からの転載です


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斎藤吉久の「誤解だらけの天皇・皇室」vol.11
第11回「近代、キリスト教のパトロンだった皇室」─海外文化受容の中心─
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▼社会的支援を受けてきた近代の教会

 12月23日は天皇誕生日で、25日はキリストの誕生を祝うキリスト教の祝祭、クリスマスです。和と洋の祝日が奇しくも年末に重なります。
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 日本にキリスト教が伝わったのは天文18(1549)年、「東洋の使徒」フランシスコ・ザビエルの来日によってでした。しかしやがてバテレン追放令が 出され、日本はキリスト教禁教、鎖国へと導かれました。

 250年後の開国で宣教師が再来日し、横浜と長崎に天主堂が建設されます。元治元(1864)年に完成した長崎の天主堂は、列聖したばかりの聖人たちにちなみ、「日本二十六聖人」教会と呼ばれました。現存する最古の天主堂・大浦天主堂です。見物にやってきた浦上の農民たちが「サンタ・マリアの御像はどこ?」とフランス人宣教師に聞きました。潜伏していたキリシタンの「復活」ですが、それは新たな迫害の始まりでした。

 禁教が解かれたのは明治6(1873)年で、さらに16年後、同22年に発布された帝国憲法は信教の自由を明記しました。信徒たちの喜びは一入(ひとしお)で、記念の礼拝が行なわれ、讃美歌の新作計画が立てられている、と当時の新聞は伝えています。

 翌年には長崎で、日本・朝鮮両管区長の宗教会議と浦上の信徒発見25年祭が開かれ、聖体行列が行なわれましたが、警察はいささかの敵意も見せなかったといわれます。

 今日では、明治憲法下の「信教の自由」は条件付きで不完全であり、昭和初期には教会が弾圧と迫害にさらされていた、と指摘する人たちもいますが、当時、迫害どころか、新しい文化を率先して受け入れたのは皇室であり、近代の教会は皇室をはじめ社会的な支援のもとに置かれていました。


▼通じ合う赤十字精神と天皇精神

 たとえば赤十字です。ヨーロッパのキリスト教精神に基づくナイチンゲールの活動やデュナンによる赤十字運動は、日本に完全に受け入れられていますが、その中心にあるのは皇室です。

 日本の赤十字運動は西南戦争時に設立された博愛社に始まりますが、ヨーロッパの赤十字事業を視察していた元老院議官・佐野常民(さの・つねたみ)が大給恒(おぎゅう・ゆずる)らを誘って、博愛社を開設しようとしたのは皇室の御仁慈に啓発され、日本の武士道精神に合致すると考えたからだといわれます。

 事実、明治政府は当初、敵味方の区別なく救護活動を行なうという博愛社の精神を理解しませんでしたが、佐野らは征討総督の立場にあった有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王に博愛社の設立を願い出て許可され、明治天皇は特旨をもって金1000円を賜りました。

 設立願書には「この輩のごとき大義を誤り、王師に敵すといえども、また皇国の人民たり。皇家の赤子たり」と記され、佐野の伝記には、敵味方の区別なく救う、という赤十字の精神が一視同仁という天皇精神と通じることが説明されています。

 やがて博愛社は日本赤十字社と改称され、ヨーロッパの王室にならって、皇室が赤十字運動の指導的立場に立たれました。日本赤十字の名誉総裁は皇后さまで、日赤大会は明治神宮の杜で開かれます。明治天皇の皇后・昭憲皇太后の寄付金をもとに創設された昭憲皇太后基金は、100年近く、いまも世界の赤十字活動を支えています。


▼事件を終息させた宮様師団長の一声

 赤十字運動だけではありません。今日、迫害のきっかけとされている昭和7年の上智大学生靖国神社参拝拒否事件は、配属将校の引率で学生たちを靖国神社まで行軍したとき、カトリック信者の学生が参拝しなかったことから、マスコミを巻き込んで大騒動に発展したのですが、事件を知った宮様師団長の「どうなっているのか?」という一声で終息したのでした。

 当時のカトリック新聞を読むと、同じ昭和7年には斎藤実首相が、朝鮮総督時代、教会の布教に貢献した、としてバチカンから未信徒に対する最高の勲章を授与されています。翌年には大浦天主堂が国宝に指定され、祝賀会で来賓の知事は「私個人は洗礼を受けてもいいとさえ思っている」と挨拶しています。

 さらに大正天皇の皇后・貞明皇后は御殿場のハンセン病療養施設にたびたび下賜され、皇族方が開院したばかりの病院を支援されている様子が伝えられています。もちろん皇室と教皇庁との交流もありました。お側に仕える信徒もいました。

 昭和の初年には全国にカトリックの司教区が設けられ、荘厳な聖堂が続々と建てられ、神学校、カトリック学校が開校しています。

 有史以来、漢字や仏教、雅楽など、海外文化受容の中心は皇室でした。同様に、明治以来、皇室はキリスト教の社会事業を深く理解され、経済的、精神的に支援してこられたのです。


 参考文献=「憲法発布式における市中の賑わい」(「時事新報」明治22年2月7日)、『日本赤十字社発達史』(帝国廃兵慰藉会、明治39年)、『熾仁親王行実 巻上』(高松宮蔵版、昭和4年)、本間楽寛『佐野常民傳』(時代社、昭和18年)、ヨハネス・ラウレス『日本カトリック教会史』(中央出版社、昭和331年)、『明治天皇紀4、5、6』(吉川弘文館、昭和45-46年)、丹羽孝三「日本で初めての新聞学科誕生」(『上智大学創立60周年─未来に向かって』所収、上智大学ソフィア会、昭和48年、非売品)など


((((((((読者の声)))))))))))

◇人形町サロン編集長チョンガー公爵様から
http://www.japancm.com/sekitei/

 「誤解だらけの天皇・皇室」を毎回楽しみにしています。わたくしめは会社勤めをする傍ら、某大学で講義のまねごとをしていますが、毎年、最初の講義で学生に話すことは、わが国の天皇・皇室のことです。

 まず、「今のギリシャ大統領の祖先がゼウスだったら驚くだろう」と尋ねると、みな「そうだよね」といった表情をします。その後、「今上陛下のルーツは神話にあり、その後一度も途絶えることなく現在まで脈々と受け継がれています。このような例は世界広しといえどもわが国だけです」と申しますと学生は目を輝かせます。留学生なら尚更です。この一言で学生が天皇・皇室、ひいては政治学に興味を抱いてくれるのです。

 これで掴みはOK牧場です。その後もしばしば天皇・皇室ネタを講義の枕にしていますが、実は、最近のわたくしめは、枕に使うネタを斎藤さんのメルマガに頼っていることが多いのです。というのも、斎藤さんの記事は根拠がしっかりしているので使い勝手が良いのです。何を隠そうわたくしめは斎藤さんの記事を恰も自説の如くしたり顔で話す剽窃講師です。お陰様で何とか面目を保っています<(_ _)>。

 というわけで、女子大生をしてわたくしめに「あなにやし、えをとこを」といわしめるためにも「誤解だらけの天皇・皇室」の今後に期待しております(呵々!)。わが国を代表するメルマガを目指し、奮励努力していただきたく存じます。


((((((((「天皇・皇室の一週間」)))))))))))

12月17日(月曜日)

□天皇陛下はアラブ首長国連邦のアブダビ皇太子と皇居で会見されました(MNS産経ニュース)。
http://sankei.jp.msn.com/culture/imperial/071217/imp0712171343000-n1.htm

12月13日(水曜日)

□皇太子殿下は、私的に来日したトンガ国王ジョージ・ツポウ5世と東宮御所で懇談されました(MNS産経ニュース)。
http://sankei.jp.msn.com/culture/imperial/071213/imp0712131315000-n1.htm

12月11日(火曜日)

□天皇、皇后両陛下は障害者週間にちなみ、障害者が働く企業を訪問され、社員一人一人に声をかけられました(北国新聞)。
http://www.hokkoku.co.jp/newspack/syakai2007121101000487.html

□宮内庁は、英紙タイムズに掲載された天皇陛下についての記事に対する反論書簡が同紙に掲載されたことを発表しました(MNS産経ニュース)。
http://sankei.jp.msn.com/culture/imperial/071212/imp0712120155000-n1.htm

12月10日(月曜日)

□天皇皇后両陛下は来日中のスリランカのラジャパクサ大統領夫妻と皇居・宮殿で会見されました(時事ドットコム)。
http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2007121000633

 読売新聞によると、この日、大統領夫妻はスリランカの植物園で品種改良された「プリンセス・ミチコ」という名前の赤紫色のランを贈りました。
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20071210ic22.htm

12月9日(日曜日)

□皇太子妃殿下が44歳のお誕生日をお迎えになりました(朝日新聞)。
http://www.asahi.com/national/update/1208/TKY200712080222.html

 宮内庁のホームページにご感想とご近影などが掲載されています。
http://www.kunaicho.go.jp/koutaishi/okotobah19-03.html

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消防士の座禅をやり玉に挙げるキリスト者、他 [キリスト教]

以下は旧「斎藤吉久のブログ」(平成19年12月19日水曜日)からの転載です


〈〈 本日の気になるニュース 〉〉


1、「asahi.com」12月17日、「『訓練で座禅』是か非か」
http://mytown.asahi.com/shizuoka/news.php?k_id=23000000712170010

 記事によると、静岡県消防学校が新規職員の基礎訓練で「情操教育」として、お寺で座禅を実施しました。これに対して、反ヤスクニ運動を展開しているキリスト教系市民団体が

「公的機関が特定の宗教行為に参加していることになるのではないか」

「参加した職員にはさまざまな宗教の人もいるはずで、精神的苦痛を与えた可能性がある」

「信教の自由を侵している可能性がある」

 と主張し、学校側の説明を求めているのだそうです。

 公的機関が特定の宗教行為に参加することが、信教の自由や政教分離規定に反するのではないか、というのがこのキリスト教系団体の問いかけですが、公的機関がキリスト教の宗教行事に参加するケースもかなりあります。

 歴史的にさかのぼれば、すでに何度も書いてきたことですが、昭和26年5月14日、みずから被爆しながらも医者として最後まで被爆者の救援に当たった永井隆博士の葬儀は、長崎市名誉市民葬というかたちで浦上天主堂で、もちろんミサ形式で行われました。

 葬儀委員長は市長が務め、各界代表ほか1万5000人の信者が列式しました。ミサのあと教会前で4万の市民が参列する告別式が行われ、ローマ教皇の弔電、吉田首相や衆参両院議長、文相らの弔電、弔辞が読まれ、教会やお寺の鐘だけではなく、市内のサイレンや船の汽笛が鳴り響き、市を挙げて1分間の黙祷をささげ、博士を見送ったのです(カトリック新聞、昭和26年5月20日号)。

 日本国憲法は厳格な政教分離主義を採用しているといわれますが、それならなぜこうした公葬が可能になったのかといえば、占領後期になって、占領軍が厳格主義から緩やかな分離主義へと転換したからです。

 そのことをほかならぬGHQで宗教政策を担当した職員のウッダードが解説しています。

 じつはちょうどこの年、日本で発行されている英字新聞紙上で「信教の自由」「政教分離」をめぐって大論争が繰り広げられました。永井博士の公葬の3日後、貞明皇后が亡くなり、斂葬当日の6月22日、全国の学校で「黙祷」が捧げられたのですが、これを

「戦前の国家神道への忌まわしい回帰」

 と見るアメリカ人宣教師の投書がきっかけとなり、宗教論争が延々と続いたのです。

 のちにウッダードはこの黙祷論争をある論攷に取り上げています。極端な反対派を代表する宣教師がGHQにやってきたのに対して、宗教課は次のように説明したというのです。

 「神道指令は(占領中の)いまなお有効だが、『本指令の目的は宗教を国家から分離することである』という語句は、現在は『宗教教団』と国家の分離を意味するものと解されている。『宗教』という語を用いることは昭和二十年の状況からすれば無理のないところであるが、現状では文字通りの解釈は同指令の趣旨に合わない。……米国の世論は非宗教主義に終わる可能性のある政策を支持しないだろう。米国では明らかに宗教と国家との間に密接な関係がある。民間情報教育局は宗教と国家の分離より、むしろ宗教団体と国家の分離を主張した。非宗教主義だけを目的とする計画はすべて成功するはずがない」(「宗教と教育─占領軍の政策と処置批判」国際宗教研究所紀要4、昭和31年12月)

 占領後期になるとGHQは厳格な政教分離政策を採らなくなり、その結果、永井博士のミサ形式の公葬も認められたのです。公機関が宗教儀礼に参加することが信教の自由を侵し、政教分離規定に違反する、というような考えは占領後期のGHQは採用してはいません。

 憲法学者の小嶋和司教授は書いているように、憲法は信教の自由を保障し、宗教を悪とは考えてはいません。今回の事例でいえば、少なくとも記事によれば、座禅は入信を促すものではなく、参加は強制されているわけでもないようです。お寺での座禅も修道院での瞑想も憲法は認めていると見るべきではないでしょうか。

 そうではなく、あくまで国家は宗教的無色中立性を貫くべきだというのであれば、長崎市の市有地に立っている二十六聖人記念館や奥州市のキリシタン領主・後藤寿庵廟での市長の祈願祭参列、あるいは、やはり長崎県が県をあげて進めている教会群の世界遺産登録推進運動などを率先して取りやめるべきではないのでしょうか。

 そうでなければキリスト者の反対運動は二枚舌の偽善行為にしか映らないでしょう。しかし宗教の否定につながるような運動が果たして神の御心にかなうことなのかどうか。


2、「東京新聞」12月18日、「首相訪中時の合意は困難。ガス田交渉で経産相」
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2007121801000324.html

 案の定、共同開発の海域をめぐってミゾが埋まらないようです。

 大陸棚延長論と日中中間線論では原則がまったく異なるわけで、どちらかが原則を捨てるか、双方が原則を捨てる以外に、政治的な歩み寄りは困難なはずです。

 中国は原則論を重視するお国柄でしょうから、それに対抗するには、日本も原則論を主張するほかはないでしょう。中間線論の正当性を訴えるには、識者が主張するように、沖縄トラフのボーリング調査をして、地質学的に見て、大陸棚が沖縄トラフで終わっているのではなく、南西諸島を越えて太平洋まで続いていることを科学的に証明すべきではないでしょうか。

 日本政府はそうした専門家たちの意見に、なぜ耳を傾けないのでしょう。卓越した政治力があるのならまだしもですが……。


 以上、本日の気になるニュースでした。
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この子らにこそ救いを、ほか [キリスト教]

以下は旧「斎藤吉久のブログ」(平成19年12月12日水曜日)からの転載です


〈〈 本日の気になるニュース 〉〉


1、「AFPBB News」12月10日、「マニラ当局、路上でのクリスマスキャロルに禁止令」
http://www.afpbb.com/article/life-culture/life/2323878/2443920
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 記事によると、マニラ当局は街頭でクリスマス・ソングを歌うことを禁止しました。「安全上の理由」からだそうで、違反者は検挙されるのだとか。

 記事は、スラムの子供たちがにわか聖歌隊となり、信号待ちの運転手にお金をせびり、交通事故にあう危険性について伝えています。

 フィリピンは16世紀にスペインの支配を受けて以来のキリスト教の歴史があり、いまでは人口8310万人(2005年)の80パーセント以上がカトリック信徒といわれます。

 ある畏敬する経済学者が指摘していたことですが、西洋のキリスト教国家による植民地支配を受けた国々は、いまもって貧困から抜け出せずにいます。中南米諸国しかり、このフィリピンしかり。キリスト教の教え自体に何か重大な欠陥がありはしないか、と仰るのでした。

 私にはその答えを見出す力はありませんが、キリストの救いをもっとも必要としている子供たちが、生活の糧を得るための便法としてであれ、クリスマス・キャロルを歌うことを禁じられ、その禁を犯せば、官憲に拘束される、というのは明らかな矛盾でしょう。

 当局の決定を聖職者たちはどのように受け止めているのか、知りたいものです。


2、「朝鮮日報」12月12日、「中国指導部に白髪の人がいない理由」
http://www.chosunonline.com/article/20071212000061

 ウォールストリートジャーナルの記事からの引用で、中国の指導者にとって髪を染めることが必須と伝えています。

 オリジナル記事はこちらです。比較文化論を展開しています。
http://online.wsj.com/public/article/SB119732173636619885-1uYJvG2BhTHog9dqZO5sbz8JO_4_20080110.html?mod=tff_main_tff_top


3、「時事ドットコム」12月10日、「東京海上日動、エジプトでイスラム保険事業」
http://www.jiji.com/jc/c?g=ind_30&k=2007121000674

 イスラム保険「タカフル」の元受事業を来年にもエジプトで始めるのだそうです。


 以上、本日の気になるニュースでした。
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信仰を忘れた聖職者たち ──性犯罪、献金横領、そして政治的暴走と目を覆うばかり [キリスト教]

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信仰を忘れた聖職者たち
──性犯罪、献金横領、そして政治的暴走と目を覆うばかり
by 木下量煕+斎藤吉久
(「正論」平成19年11月号)
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▢1 投票日当日の政治講演ミサ

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 参院選投票日当日の平成19年7月29日、さいたま市のカトリック浦和教会(司教座聖堂)で行われる聖日ミサに、多くの信徒たちが注目しました。埼玉、栃木、群馬、茨城の四県で構成されるさいたま教区の最高責任者であるT司教が、ミサの説教を利用して政治講演を行うとの情報が走ったからです。

 教会の教義(カテキズム)は、政治に直接介入することは聖職者ではなく、信徒の任務だと教えていますが、過去40年、司教らはこの教義に反し、反天皇、反ヤスクニ、改憲反対の政治活動を展開しています(雑誌「正論」2、5、6月号掲載の斎藤吉久論攷)。

 事情通によると、聖職者による政治的暴走の出発点と指摘されるのがここ浦和の初代司教で、4代目のT司教も以前から憲法9条改正反対、教育基本法改正反対などの政治運動に関わっています。

 今回の騒動は6月上旬、同教会の信徒(奉仕委員会)が

「共同宣教司牧についてミサで話してほしい」

 とT司教に願い出たのが発端です。日本のカトリックは司祭の数が減少し、教会によってはミサを上げられないという深刻な悩みを抱えています。このため複数の教会を広域的に囲い込み、司祭が掛け持ちしてミサを上げられるようにする「共同宣教司牧」が推進されていますが、教会法に基づくわけでもなく、手探りが続いています。聖なるミサをどうやって守るか、信徒にとって無関心ではいられません。

 6月下旬、T司教から奉仕委員会に快諾の連絡がありました。しかし日取りは投票日当日、そしてテーマは「平和について」。T司教が書いた自民党改憲草案批判を含む、司教協議会がまとめた政治文書の

「コピーを用意するように」

 との指示もあり、奉仕委員は仰天しました。信徒のブログを通じて情報が流れると、

「公私混同」
「職権濫用(らんよう)」
「神への冒涜(ぼうとく)」

 との批判が県外からも寄せられました。

 奉仕委員は信仰的要求が受け入れられなかったことに落胆すると同時に、カテキズムに反する政治講演がミサの秘跡を侵し、信仰の共同体を政治組織化することを恐れました。しかも、もし特定の候補者や政党に投票を促す内容なら、投票日当日の選挙運動を禁止した公職選挙法に違反します。奉仕委員はT司教に再考をうながす交渉を再三、試みました。しかし面会すら実現しません。奉仕委員の心配を伝え聞いたT司教から

「説教のあとに質疑応答の時間を設けよう」

 との逆提案もなされましたが、それではますます政治講演です。事態が打開できないまま、その日を迎えました。

 結局、信徒の祈りが通じたのか、30分足らずの説教は、冒頭、数人の子供たちに

「戦争はイヤだ」

 と連呼する詩を朗読させたあと、150人ほどの信徒たちに、

「配布した司教団メッセージを読んでください」
「投票に行きましょう」

 と呼びかけるものにトーンダウンし、奉仕委員はホッと胸をなで下ろしました。

 信徒が求めているのは聖職者との対立ではなく、信仰の導きですが、聖職者は聖なる求めに応えようとしない。いみじくもこの教会ではミサのたびに三択クイズで子供が聖堂内を走り回るというお遊びが繰り返されているといわれ、静謐な祈りの館は賑やかな劇場か集会場と化しています。

 この日も司教はミサ開始直前にジーパン姿で現れました。説教の事前準備も、肝心の宗教的基本知識も不十分で、十字架の前を横切るときに頭を下げもしない。説教のあとは駐車場で喫煙。それでいて政治に走る。キリストの弟子の後継者と位置づけられ、教皇と直結する司教のこの現実は、信徒の不信感をいやが上にもかき立てずにはおきません。


▢2 カトリシズムの荒廃


 司教たちの政治的暴走より深刻なのはほかならぬ信仰の衰微で、これこそが暴走の原因です。そして信仰の衰退は日本の教会に限った現象ではありません。

 日本でいち早く「カトリシズムの荒廃」を指摘したのは、信徒でもある澤田昭夫・筑波大学名誉教授でした。著書の『革新的保守主義のすすめ──進歩史観の終焉』(PHP研究所、1990年)によれば、全世界から2000人を超える聖職者が集い、「教会の現代化」をテーマに協議した第2バチカン公会議(1962〜65年)以後、「開かれた教会」が世界的に標榜されました。

 しかし実際は社会的抑圧者の視点で神学する「解放の神学」の妖気(ようき)に当てられ、会議の精神をかたって冒険主義に走り、改革ではなく革命的変革を試みる勢力が世界に広まりました。これが諸悪の根源で、カトリックの神髄である典礼、礼拝が非神聖化され、俗化され、秘跡の意義は見失われ、それらへの畏敬の念が失われた、と澤田氏は指摘します。

 先駆けはオランダで、66年に開催された全国司教会議以降、ローマの指示とはお構いなしに典礼、教理教育、司牧を自由に進め、その結果、バチカン会議の精神を掲げながら、まったく別物の教会と信仰が生まれました。

 アメリカでは76年に全国大会が開かれ、

「教皇にはアメリカへの介入権はない」

 とし、

「教会は伝統と手を切り、大衆運動団体に変質せよ」
「体制に抵抗せよ」
「人間化された社会主義的ユートピアを建設せよ」

 というスローガンを採択します。進歩派と反体制派が運営する、まさに革命大会でした。

 しかし、やがて「開かれた教会」は魅力を失い、ミサの参加率が低下し、多くの司祭が還俗しました。教会は取り壊され、レストランや映画館にとって代わられ、修道会もまた没落の運命を歩み、修道者の召命は減り、修道者が万単位で退会した、と澤田氏は報告しています。

 いま教会は信仰と組織の建て直しを進めています。先頭に立っているのは教皇ベネディクト16世です。

 2007年6月、教皇はブラジルを訪問しました。報道によれば、教皇はルラ大統領に宗教教育の実施などを要請し、純潔、禁欲の重要性、金銭執着、欲望の過剰などを排するカトリックの伝統的価値観の重要性を野外ミサで4万人の青年たちに説きました。

 ブラジル初の聖人フレイ・ガルバンの列聖式に臨み、400人の司祭たちに教会の再建を呼びかけ、世界最大の規模を持つラテンアメリカ・カリブ司教協議会では増大する貧富の格差を強調し、共産主義と資本主義の双方を批判するとともに、中南米で生まれた「解放の神学」は時代遅れと指摘し、福音宣教の強化を訴えた、と伝えられます。

 全世界11億人の信徒の半数がこの中南米地域に居住し、とくにブラジルには世界最多1億5000万人の信徒がいるといわれますが、近年はプロテスタントへの改宗や棄教が増え、1980年には国民の9割近くいた信徒が2000年には74%まで急減していると伝えられます。そうした教会の衰退への危機感が教皇を司牧訪問に駆り立てたのでしょう。

 しかし教皇の努力をまるであざ笑うかのようなニュースがこの直後に飛び込んできました。

 アメリカのロサンゼルス大司教区は7月、マホーニー司教は、多数の聖職者が数十年にもわたって信徒の子供たち508人を性的に虐待していた事実を認め、総額6億6000万ドル(約800億円)を支払うことで被害者らと和解したというのです。全米各地の教会で虐待事件が発覚し、和解が成立している中で、最高額の和解額といわれます。同教区は関連施設の売却や保険金などで巨額の和解金を捻出する、と伝えられます。

 なぜこうした不祥事が噴出するのか。じつはカトリックはまだしもで、プロテスタントの場合はさらに目を覆う惨状が繰り広げられています。たとえば、500年前の宗教改革期にカトリック教会から離脱、独立したイングランド教会(イギリス聖公会)を母教会として世界に広がるアングリカン・コミュニオンの現実を見てみましょう。


▢3 口火を切ったアメリカ聖公会


 2007年1月、アメリカのフォード元大統領の葬儀のミサが歴代大統領の参列のもと、ワシントン・ナショナル・カテドラルで行われました。

 市街地を見下ろす丘に建つ同カテドラルは

「全国民のための教会」

 と位置づけられるアメリカ聖公会の大聖堂で、独立戦争から間もないころの政府建設計画に

「祈り、感謝、葬儀などの国家目的に使用される教会」

 として創設が予定されていたほど、古い歴史があります。

 日米開戦後、聖堂では月例ミサが始まり、Holy Spirit ChapelはWar Shrineとして機能しました。ニクソン大統領時代の聖堂外陣完成式典には、旧宗主国イギリスの元首でイングランド教会の首長であるエリザベス女王や同教会の首座であるカンタベリー大主教が出席しました。歴代大統領の就任ミサもここで行われます。6年前の9.11同時テロ犠牲者を悼むミサも行われました。

 このようにアメリカ国家および国民の歴史と深く関わるアメリカ聖公会ですが、いま教勢の衰退という苦悩のただ中にあります。

 1967年には380万近くあった信徒数が、20年後の88年には220万人台に落ち込み、その後、回復の兆しが見えません。原因は、祈祷書が現代化され、女性が司祭や主教に叙任されるなど伝統が失われたこと、その一方で、政治的発言の多い教会の説教を信徒たちが敬遠した結果ともいわれます。

 しかも考えられないような事件や事故が頻発し、教会内は荒れ放題。組織は分裂し、教会内教会といわれる分派組織さえ生まれました。かつては信徒数、財力ともに有力だったアメリカ聖公会はいまやお荷物とされ、首座主教から2007年9月を期限とする最後通牒を突きつけられてさえいます。

 何しろ1994年には唯一神信仰にはあるまじき「異教礼拝」「多神教礼拝」が行われました。レズビアンの女性司祭ヘイウォードの司式で「ソフィア礼拝」なるものが捧げられたのは、ほかならぬ伝統あるマサチューセッツ州ケンブリッジの神学校でした。教会による家父長制支配からの解放を目論むフェミニストが持ち込んだのです。同神学校はいまやフェミニスト神学の牙城です。

 また、同じ年にサンフランシスコ主教座聖堂で開催された「女神の復興」と称するフェミニスト会議では、ヒンズーの女神、聖母マリア、黒いマドンナ、エジプトの女神イシスなどに礼拝が捧げられました。フェミニストのなかには「父と子と聖霊」ではなく「母と娘と聖霊」の三位一体を主張し、

「天におられる父─母よ」

と「主の祈り」を唱える人たちもいます。

 翌95年には大事件が起きました。

 1月半ば、やはりマサチューセッツ教区の最高位聖職者、61歳のジョンソン主教がピストル自殺を図ります。原因は秘書ら複数の女性との性的虐待を含む婚外性交渉と推測されています。その2週間後には、全米の財務責任者エレン・クックによる220万ドルに上る横領が発覚し、教会は上を下への大騒動に巻き込まれ、夫の牧師は辞任しました。

 けれども、かつて沖縄で長年にわたって司祭・主教を務めたこともある、アメリカ聖公会の最高責任者ブラウニング総裁主教は連続する不祥事に対する釈明すらしませんでした。このブラウニングこそ、

「教会はすべての人に開かれている。1人の落伍者も出してはならない」

 という聞こえのいい原則を掲げ、伝統を否定して女性主教を実現させ、今日の混乱を導いたのでした。

 翌年の96年にはカリフォルニア教区の主教スウィングが諸宗教の統合組織を作りました。

「国連(theUnited Nations)があるのだから、宗教統合(united religions)があってしかるべきだ」

 という宗教多元主義の組織化に他なりません。その一方で、司祭がブラジルから連れてきた少年たちと教会で性儀にふける様子が同じ年、男性雑誌「ペントハウス」にスクープされています。

 98年には修正主義者(revisionist)のイデオローグ、ニューアーク教区のスポング主教が、世界の主教が一堂に集うランベス会議を前に「新しい宗教改革のための12のテーゼ」を発表しました。

「有神論は死んでいる」
「キリスト教神学は破綻している」

 などと教会の教理と聖書の権威を否定しています。

 2003年には妻子がいる50代の同性愛者ロビンソンがニューハンプシャー教区の主教に叙任されました。州法の改正で同性愛者の結婚が合法化されたことから、ロビンソン主教はパートナーと「結婚」することにもなりました。

 神が一組の男女を夫婦とし、三位一体の神の内的な生命を映し出す婚姻の秘跡を高位聖職者みずから破るこの事件以後、教会を離れる信徒や、聖公会を離脱する教会が増え、離脱しないまでも教区への分担金を拒否する教会が急増し、多くの教会や教区が財政困難に陥りました。

 なかには「破産しそうだ」と悲鳴を上げる主教もいます。

 さらに2006年6月のアメリカ聖公会総会で、修正主義者といわれるキャサリン・ショーリ夫人が女性として初の総裁主教に選出されたころから混乱に拍車がかかりました。夫人は就任直後の礼拝で

「母なるイエスは新しい被造物を生み出されます」

 と説教したのをはじめ、聖書の権威や教会の信仰の根幹になる教理を否定する発言を繰り返し、スポングらの忠実な弟子として振る舞っていますが、

「同夫人の下では職務を遂行できない」

 と離脱する教会が続出しています。

 最近ではベニソン兄弟がお騒がせの舞台に登場しました。弟のカリフォルニア教区司祭ジョンによる少女虐待と兄のペンシルベニア教区主教チャールズによる献金の乱用が教会を賑わしています。

 そのほかインターネットの世界では、教会離脱、財政逼迫、あるいは離脱した教会の財産帰属をめぐる訴訟の情報が引きも切りません。それほど混乱が常態化しているのです。

 こうした現状に対する憂慮の声や批判は当然で、世界中に7000万人を超えるといわれるアングリカン・コミュニオンの中で唯一、急成長し、5000万人の信徒を誇る、アフリカ諸国を中心とする第三世界の聖公会は聖書の権威を重視する立場から、アメリカの惨状に厳しい批判を浴びせています。

 たとえばウガンダのオロンビ大主教は2007年7月、「アングリカニズムとは何か」という論文を発表しました。

「ほとんどの人はアングリカン・コミュニオンの危機を否定しない。だがその危機の性質が何かは分かっていない」。

 同性愛、一夫多妻、離婚、復讐の論理と戦い、殉教者までも出してきた母国の教会の歴史に立脚して、聖書と伝統から離れた先進国の信仰を非難しています。

 オロンビ大主教が指摘するように、改善の兆しは見えません。

 カンタベリー大主教はイングランド教会では霊的中心ですが、世界のアングリカン・コミュニオンに対する指揮監督権を持ちません。聖公会には世界のコミュニオンを拘束する普遍的な教会法や教義もありません。

 イングランド教会の首長であるイギリス女王は国内はともかく、他国の聖公会に対して法的な影響力を行使し得る立場にはありません。

 聖公会ではあくまで聖書と伝統の2つが、不文律としてコミュニオンの構成員の信仰を育んできました。改善が困難な原因はここにあります。

 それでも社会変化の少ない時代や、イングランド教会のように均質性の高い社会の教会では、大きな問題は起きなかったのですが、現代のような激動期に、社会の均質性が破られ、なおかつ多様性や包括性では許容しきれなくなったとき、教会の一致が揺らぎ、あるきっかけからコミュニオンに亀裂や内紛が生じる危険性があります。

 アングリカン・コミュニオンはまさにそのような危機に直面し、前述したようなカルト化の可能性さえ指摘されるほど苦悩しているのです。


▢4 日本聖公会の憂鬱


 時代の波は日本にも押し寄せました。この30年、日本聖公会はうち続く事件・事故にさいなまれています。

 2007年4月7日付の「キリスト新聞」は教会内の性的虐待事件2件を取り上げましたが、このうちの一件は80年代に日本聖公会京都教区内、奈良県下の教会で起きたものです。

 加害者のH司祭(牧師)は当時、京都にある牧師養成機関の教授で、同時に教区の最高責任者である主教の諮問に答える地位にあり、教会関連の教育機関の代表者をも務める、教会組織の中枢にいる高位聖職者でした。

 被害者である教会員の少女は、裁判記録などによると、11〜16歳までの多感な時期に、本来、神の言葉が語られる教会の礼拝堂や牧師館で、司祭から「大人になる儀式」と称して無体な虐待を受けたうえに、脈絡のない聖書の引用で呪縛をかけられ、口止めされていました。

「姦淫するなかれ」

 と聖書は教えていますが、「強姦以外のさまざまな性的虐待行為」(「牧師の性的虐待事件を考える」=「福音と世界」新教出版社、2006年11月号)が行われたといいます。

 被害者が成人後、警察や家族、司祭の妻に相談したことから事件が発覚し、司祭の妻は司祭に聖職者を辞めさせることを約束、司祭本人も被害者の父親に謝罪文を書いています。PTSD(心的外傷後ストレス障害)が昂じ、被害者が鎮痛剤などを大量服用して自殺未遂を図ったときには、搬送先の病院で司祭は被害者の父親に土下座したといわれます。その後、教区機関が退職を決定し、司祭は赴任先の教会を引き払いました。

 ところが、被害者の詳細な手記を教会関係者が読んだことが転機となったのか、H司祭は一転して事実無根を言い出します。そして、その言い分が丸呑みされ、京都教区はわずか10日で退職を撤回、司祭は復職しました。

 司祭および京都教区当局のこの不誠実な対応に怒った被害者の父親は2001年7月、奈良地裁に損害賠償請求の民事訴訟を起こします。一審は被害者側が敗訴、しかし二審の大阪高等裁判所は被害者の訴えを全面的に認め、慰謝料500万円満額の支払いを命じ、最高裁は上告を棄却、05年7月、原告全面勝訴が確定しました。なお事件は時効の成立で刑事事件としては立件されませんでした。

 事件の際立った特色は、由緒ある教会として認められ、立教大学や平安女学院などの著名な教育機関や聖路加国際病院など多くの社会事業施設を傘下に持ち、社会的評価の高い教団の中で起こり、しかも教団が終始、組織的に加害者に加担し、事実を隠蔽(いんぺい)してきたことです。

 加害者側は裁判で

「被害者には虚言癖・妄想癖がある」

 と主張し、教会関係者は偽証まがいの証言をくり返して、事件を葬り去ろうとしました。京都教区の責任者は、

「事実無根」

 と言い張る加害者の主張を鵜呑(うの)みにし、原告勝訴の高裁判決のあと、

「判決に憤りを感じる。強く抗議する」

 と声明文を出し、その後、新たに4人の女性が同様の被害を訴え出、マスコミが報道すると、京都教区主教があわてて記者会見し、謝罪するという醜態までさらしています。

 そればかりか、係争中の03年に行われた京都教区の主教選挙に、H司祭が立候補し、当選しなかったとはいえ最高得票を得ています。恥を知らないのはH司祭本人だけではありません。事件現場の教会を母教会とする信徒のネット配信やマスコミ報道による社会的指弾を浴びながら、教会は組織としての毅然たる対応をいまなお怠っています。

 悔い改めによる救いを信徒に教えながら、聖職者自身は悔い改めを拒み、責任を回避しています(京都教区の対応を糾す会HP。http://www.geocities.jp/asshor15/seikoukai.htmlなど)。

 事件はまだほかにもあります。

 沖縄では1950年代に信徒たちとアメリカ人宣教師たちが沖縄戦で戦死した20万人を超える兵士や民間人の鎮魂のためにと建設、献堂した諸魂教会(All Souls’Church)が十数年前、売却、移転されました。やむを得ない事情があるのならまだしも、50億とも、それ以上ともいわれる高額な土地取引には国土法違反の疑いがかけられ、裏世界とのつながりも噂されています。

 聖公会の広報紙「聖公会新聞」で疑惑を報道した編集長は独裁国家の言論弾圧さながら、口封じのため解任されました。編集長は解任後、教会を告発するリポート「諸悪の根源は主教制──日本聖公会の内幕」を世に問いましたが、教会は梨(なし)の礫(つぶて)です。

 東京教区ではバブル期に港区の一等地にあった歴史ある修女会の敷地が300億ともいわれる高値で売却され、郊外に移転しました。この世の一切を捨てた修道者が大金を所有してマモン(富)を礼拝しているがごとき振る舞いは信仰の躓きとなっています。

 また7年前には教区財務主事による1億円近い献金の横領が発覚し、刑事告発されるという事件が起きましたが、京都の事件と同様、臭いものに蓋をするような沈静化が図られています。

 聖公会の由緒ある女子校で校内不倫を繰り返していた聖書の教師が聖職に志願したのを教会当局はすべて承知のうえで受理し、また同性愛(ゲイ)を公言している妻子持ちの男性が司祭に叙任され、そのあと名前を女性名に変えたという事例も聞かれます。

 一方で、聖職者たちの社会問題への関心は高く、マスコミ報道に流されるまま、アパルトヘイト反対、戦争反対を機関決議し、政府に決議文を送り続けてきました。けれども中国共産党の一党独裁や北朝鮮の暴政、スーダン・ダルフールの虐殺には口をつぐんでおり、公正さを欠いています。

 天皇制には批判的で、昭和天皇が最晩年、病床にあったとき、全国の聖公会を取り仕切る管区事務所は

「天皇のために祈るな」

 という趣旨の通達を事務方の最高責任者である総主事名で出していますが、母教会のイングランド教会が女王陛下を首長と戴き、戴冠式などの国家的行事が国教会の方式で行われることなどへの批判はありません。

 靖国問題もしかりで、執拗な批判が繰り返される半面、イングランド教会が戦没者のために祈りを捧げていることは無批判に受け入れられています。論理が一貫しません。

 教会では音楽会など各種イヴェントが花盛りで、ボランティア活動も盛んですが、教会で配布される印刷物に信仰的内容は稀薄です。信仰を失った共同体に大小の不詳事が頻発すれば、信仰を求める信徒ほど離れていきます。そのうえさらに少子高齢化の波が襲えば、底力がない教会はひとたまりもありません。


▢5 宗教を語るは宗教家にあらず


 キリスト教は規範意識の高い宗教です。その規範はヒエラルキーとしての所与の規範です。人間の世界を超えた天上の世界に連なるヒエラルキーがキリスト教の規範です。キリスト教の信仰は人間の思想的営為の末にたどり着いたのではなく、神与・神定のものであって、人間が信仰の根幹たるヒエラルキーに手を加えることはできません。

 もしその禁を犯せば、相対主義・世俗主義・人間中心主義への坂を転がり落ちることになります。ヒエラルキーを失えば、説教者は神を語ることができなくなり、信仰とは無縁の政治的アジテーションに走り、説教は個人的体験談や自慢話に堕することになります。

 いきおい聖職者は福音宣教ではなく、会議やボランティア活動、付帯事業に精を出し、自分が素人であることも忘れて、学校経営や社会事業に心血を注ぎます。時代遅れの左翼イデオロギーを吹き込まれ、弱者救済の幻想に駆られ、神不在の傲岸(ごうがん)不遜な政治活動にうつつを抜かす。

 逆に、自分に正直な人はアイデンティティを失って鬱状態になり、自殺を図ったり、聖職者の道を離れることもあります。そして教会は溶解していくのです。

 カトリック教会にはまだ可能性があります。聖書のほかに、世界に普遍的な教会法と、教理を詳述したカテキズムがあり、伝統と教理を体現する最高権威としての教皇がおられ、明示的な形で強固なヒエラルキーがあるからです。信仰の規範を前提にした論戦を教会内で交えることも可能です。

 しかし宗教改革時、国王ヘンリー8世の離婚問題を機に成立した聖公会は、これらを捨て去ってしまいました。そのツケがいま、信仰を押しつぶす世俗化の荒波となって教会に襲いかかっています。以前からアメリカ聖公会の内外でanything goes(何でもあれの)教会と酷評されているほどで、遅まきながら、「聖公会契約(Anglican Covenant)」作成の作業が始まり、アングリカン・コミュニオンに普遍的な教会法を制定しようという前向きの意見もありますが、いまさら、との印象はぬぐえません。

 かくまでに旧教、新教ともキリスト教会は病んでいますが、信仰が地に墜ちているのはキリスト教に限りません。

 昨年の春、マスメディアは、いまや「世界遺産」となった比叡山延暦寺の高僧たちが、指定暴力団の歴代組長の法要が営まれた「問題」の責任をとって、辞任したことを伝えました。「新組長の威力誇示と資金集めが目的」と見る警察が前日、中止を求めましたが、寺側は

「大規模な法要を直前に断れない」

 と判断し、法要は予定通り営まれたのでした。

 仏教界では30年前、

「暴力団の資金集めなどに利用される葬儀・法要は拒否しよう」

 という共同声明を出しているといいます。警察が法要を「威力誇示、資金集め」と見なし、暴力団を追いつめようとするのは警察としては当然ですが、宗教者はなぜ葬儀・法要を「拒否」しなければならないのか。誰であれ、等しく回向(えこう)を手向けるのが仏教者の務めのはずです。高僧たちは、一視同仁、分け隔てなく死者を弔う仏教精神をこそ主張すべきで、「共同声明」を根拠とした引責辞任は宗教的態度とはいえません。

 むしろ聖職者として問われるのは、高僧たちが法要の場で参列した九十人の暴力団関係者に何を語ったのか、でしょう。不殺生戒(ふせっしょうかい)、不偸盗戒(ふちゅうとうかい)、不邪淫戒(ふじゃいんかい)、不妄語戒(ふもうごかい)、不飲酒戒(ふおんじゅかい)という在家の五戒について講話し、一切衆生を教え導く僧侶の務めを果たしたのかどうか。

 文化庁発行の『宗教年鑑』では統計上、65万人にもおよぶ宗教家(教師)が日本全国にいることになっていますが、「宗教の時代」といわれる今日、宗教家の名にふさわしい宗教家にめぐり会うことはじつに至難です。

 宗教家自身が宗教精神を失い、宗教を語ることを怠っているのではないか、という疑いを抱かせる典型例として思い浮かぶのは、地球環境問題が人類共通の課題となっている今日、自然を慈しみ、ものを大切にする「もったいない」という日本の伝統的精神文化を世界に伝え、広めたのは日本の宗教家ではなく、環境分野で初めてノーベル平和賞を受賞した、ケニア出身の環境保護活動家ワンガリ・マータイさんであり、靖国参拝で一部の宗教者たちにきわめて不人気な小泉首相だったという皮肉な事実です。

 マータイさんは日本のジャーナリストによるインタビューで「もったいない」という日本語と考え方を知り、深く感銘し、小泉首相との会談で

「世界に広めたい」

 と語りました。首相もまた愛知万博(「愛・地球博」)の開会式で

「『もったいない』を万博を通じて広めたい」

 と述べ、キャンペーンが展開されたのです。

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マザー・テレサ没後10年の追悼式 [キリスト教]

以下は旧「斎藤吉久のブログ」(平成19年9月9日日曜日)からの転載です

マザー・テレサ(神の愛の宣教社会HPからⒸmotherteresa.org)

motherteresa.jpg
 イギリスのBBCが伝えるところによると、マザー・テレサの没後10年にあたる先週の9月5日、インド・コルカタ(カルカッタ)にある、マザーが創立した「神の愛の宣教者会」の墓所で追悼式が行われ、スラム街の人々など数百人が参列したそうです。
http://news.bbc.co.uk/2/hi/south_asia/6979228.stm

 またAFPによれば、宗教宗派を超えた追悼式典に、イスラムやヒンドゥーの聖職者がそれぞれの祈りを捧げたそうです。
http://www.afpbb.com/article/life-culture/religion/2277598/2095119

 マザーは1910年、現在のマケドニアに生まれました。インドの貧しい人たちのために精力的な活動を展開し、79年にノーベル平和賞を受賞し、96年にはアメリカ名誉市民となりました。97年に亡くなったあと、わずか6年後という異例な早さで2003年に教皇ヨハネ・パウロ2世によって福者に列福されました。

 熱心な崇敬者は「スラムの聖者」といわれるマザーが「聖人」に序せられることを願ってやみません。カトリックでは、「聖人」に叙せられるかどうかは、神ご自身が「奇蹟」によって証明すると考えられています。AFPによると、マザーが福者とされたのは、あるインド女性がマザーの奇蹟によってガンが治ったからで、さらに聖人に叙せられるには二度目の奇蹟が必要だとされています。

 ちなみに、日本およびアジアで最初の聖人である「二十六聖人」の場合、殉教から7年後の慶長8(1603)年に京阪地域のキリシタンから「列聖」の嘆願書が提出され、1616年に教皇庁の調査が始まり、それから十数年後、「殉教者」のためのミサを挙げることが許可され、「福者」に叙せられました。しかし聖者とされたのは殉教からじつに265年後の1862年でした(レオン・パジェス『日本廿六聖人殉教記』昭和6年)。

 なぜそんなに時間がかかったのか。フランシスコ会トマス・オイテンブルク神父の『十六〜十七世紀の日本におけるフランシスコ会士たち』によると、17世紀初頭の教皇庁は多くの列福訴訟を審議中で、多忙を極めていたのだそうです。けれども二百数十年を経て、日本が安政元(1854)年に門戸を開き、同6年に宣教師の再入国を許可した結果、「列聖」が促進されたのだと説明しています。

 つまり、日本が鎖国から開国へと転換したことが、殉教から二百年以上も経ったあとの「列聖」の理由だというのですが、果たしてそれだけなのかどうか。

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