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改憲を牽制する司教団メッセージの妄想 [キリスト教]

以下は旧「斎藤吉久のブログ」(平成19年3月1日木曜日)からの転載です

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改憲を牽制する司教団メッセージの妄想
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 先月下旬、カトリック教会の臨時司教総会が都内で開かれ、「信教の自由と政教分離メッセージ」が可決承認された、と伝えられます。

 メッセージは日本のキリスト教の歴史を振り返り、キリシタン時代の「迫害と殉教」、明治憲法下における信教の自由の限界性、昭和期の国家神道による神社参拝強要を取り上げ、「社会的儀礼」として信徒の神社参拝を許容し、戦争協力に向かった歴史を反省したうえで、「信教の自由」「政教分離」原則を明記した現行憲法を改め、「社会的儀礼または習俗的行為」の範囲内で国の宗教的行為を認めようとする憲法改正の動きを強く牽制しています。

 ここに色濃く展開されているのは、いわば「弱者の論理」「被害者の論理」ですが、歴史的に考察する立場からすれば、「弱者」「被害者」の視点があまりに強調されすぎているのではないか、という疑いがぬぐえません。

 なぜなら、キリシタン時代の「迫害」は日本の宗教史上、苛酷なものですが、その背景には大航海時代の世界布教には武力征服の隠れた野望があったこと、カトリックとプロテスタントとの宗教対立の影響があることが知られています。「迫害」にはそれなりの理由がありました。ところが、この司教団メッセージはその歴史に触れることなく、

「中央集権化の妨げになると考えられた」

 ともっぱら被害者としての歴史を描き立てています。

 明治憲法下の宗教政策についても、政府は「国家は宗教に干渉せず」が基本姿勢で(大正10年4月6日付「大阪新報」掲載の粟屋宗教局長談話など)、今日以上の厳格な分離政策がとられていました。

 たとえば、大正12年の関東大震災後の追悼式は、宗教者が参加しない、神道にも仏教にも偏しない、完全な無宗教で行われました。今月10日は東京大空襲の日で、東京都慰霊堂では犠牲者の慰霊法要が行われますが、いまは仏式で、僧侶が読経し、参列者が焼香します。戦後の新憲法下になって政教分離が確立されたという司教団の歴史理解は間違いです。

 昭和戦前期にキリスト教が「迫害」されたという歴史にも疑いがあります。当時のカトリック新聞を読めば、皇室がカトリックの社会事業を一貫して支援していたし、キリシタン時代に殉教した二十六聖人を記念して建てられた長崎・大浦天主堂は昭和8年に国宝に指定されています。公有地の払い下げを受けて建てられた教会さえあります。「迫害」は司教団の妄想というべきでしょう。

 もっとも疑われるのは、バチカンの布教聖省が1936年に出した指針「祖国に対する信者のつとめ」に関することです。

 この指針は昭和7年、上智大学の学生が軍事教練で配属将校に引率され、靖国神社まで行軍した際、信者の学生数名が敬礼しなかったことをきっかけに大騒動に発展した事件のあと、日本の教会からのたび重なる照会を受けて与えられたもので、靖国神社の儀礼に参加することを「国民的儀礼」として許したのでした。戦没者への敬意は宗教儀礼ではなく、国民としての義務(つとめ)だという判断です。

 事件は第一次大戦後の軍縮の時代に起きました。当時の大学関係者が書き残しているように、配属将校は軍縮時代の将校の失業対策でした。ところが、今回のメッセージは

「国家による宗教統制が強まる」

「教会の存亡を左右しかねない問題」

 とますます妄想をたくましくしています。

 たしかにキリスト教は一神教ですから、唯一神以外の存在は認められず、信仰が篤ければ篤いほど、異教の神に拝礼することはあり得ません。事件の本質は、日本のような多神教的、多宗教的異教世界で一神教信仰を守りつつ、国民としてどのような義務を果たすべきなのか、という信仰の問題です。国家の宗教政策問題だととらえる司教団のメッセージは一面的すぎます。

 その点、1936年のバチカンの指針が、1659年の指針を引用していることは重要です。この古い指針は中国に布教する宣教団に与えられたもので、

「キリスト教信仰はいかなる国民の儀礼や習慣をも、それが悪いものでないかぎり、退けたり、傷つけたりせず、かえってそれらが無事に保たれるように望んでいる」

 と書かれています。

 16世紀末に中国宣教を開始したイエズス会は、当時としては画期的なことに、現地語を学び、現地語で説教し、さらに中国皇帝による国家儀礼や孔子崇拝、祖先崇拝に参加することを認めました。この適応政策は功を奏し、イエズス会による中国宣教は大成功を収めたのです。

 そして、適応政策は20世紀によみがえり、日本の教会に対しては1936年に靖国参拝が認められ、39年には中国では孔子廟での儀式参加が許されました。司教団メッセージがいうように

「昭和になり、国家と国家神道が一体となって戦争に邁進するなかで……神社参拝を許容した」

 のではなく、数世紀間におよぶ教会の布教戦略の成果でしょう。今回のメッセージは、教会の世界宣教の歴史をねじ曲げています。

 時代は変わったという理由で、

「そのまま現在に当てはめることができない」

 と1936年の指針の無効を主張している司教団ですが、それならバチカンはこうした主張に同意しているのでしょうか。

 驚くべきことに、靖国参拝を国民儀礼として認めた指針をバチカンは1951年に再確認しています。戦没者に敬意を示す儀礼は、数世紀を経て、宗教儀礼ではなく、国民儀礼に変化した、という判断で、宣教の使命を第一義と考えるなら当然ですが、今回のメッセージはこの新しい指針についてまったく触れず、改憲阻止という政治行動を優先させています。

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ビッテル小父さんの「2つのJ」 [キリスト教]

以下は旧「斎藤吉久のブログ」(平成19年2月13日火曜日)からの転載です

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「ビッテル小父さん」というのは、カトリック神父(上智大学教授)だったブルーノ・ビッテル師のことです。親しい大学の関係者は師をそのように冗談めいて呼んでいた、と『上智大学史資料集』(1〜5巻、補遺、平成5年、非売品)の「先哲」の章に記されています。

 ビッテル神父は占領期、靖国神社を焼却処分から救った人として知られています。昭和20年、遊就館の業務が停止し、神社の焼却が噂されていたころ、招魂祭を1カ月後にひかえた10月中旬、マッカーサーの覚書が師のもとに届きました。そのころ師は教皇使節代行をつとめていました。

「司令部の将校たちは靖国神社の焼却を主張している。同社焼却に賛成か否か、速やかに使節団の統一見解を提出されたい」

 師はバーン管区長ら数人の神父と意見を交換し、次のような結論を出しました。

「いかなる国家も、国家のために死んだ人々に対して敬意を払う権利と義務がある。それは戦勝国か敗戦国かを問わず、平等の真理でなければならない。
 もし靖国神社を焼き払ったとすれば、米軍の歴史にとって不名誉きわまる汚点となってのころだろう。神社の焼却、廃止は米軍の占領政策と相容れない犯罪行為である。靖国神社が国家神道の中枢で、誤った国家主義の根源だというなら、排除すべきは国家神道という制度であり、靖国神社ではない。
 いかなる宗教を信仰するものであれ、国家のために死んだものは、すべて靖国神社にその霊をまつられるようにすることを進言する」

 こうして靖国神社は守られたのです。

『資料集』によると、師は1898年、ドイツに生まれました。父親は裁判官でした。第一次大戦に召集されて西部戦線で戦い、イギリス軍の捕虜となりました。送還されたのち、オランダのイエズス会の修練院に入りました。

 資金調達の非凡な才能が認められ、上智大学の新校舎建設などのため資金獲得キャンペーンに尽くし、募金のためにアメリカを行脚して、183,000ドルを集めたといわれます。ところが株式の暴落で建設資金のローンすら得られない。それでも行動の人であった師はけっして引き下がることはありませんでした。

 神戸に六甲学院を設立するという新たな任務もありました。外国をまわり、「日本精神」を語り、ようやく開校にこぎ着けたのもつかの間、数カ月後には台風が校舎をおそいます。がれきの山で

「もうここは諦めた方がいいのではないか」

 と嘆息する同僚に、

「何をいう。これからだ」

 と不屈の闘志を燃やすのでした。そして、師はドイツ人の身ながら、日米開戦前夜のアメリカで、資金と資材を手に入れ、六甲学院を竣功させたのです。日米開戦の回避に努力したともいわれます。

 その後、上智大学の歴史のなかでもっとも困難な戦時中に上智大学イエズス会の院長となり、空襲のたびに焼夷弾の消火に当たり、学舎を守りました。

 そして戦後は占領軍と日本人の仲介者となりました。教皇特使マレラ大司教は師を代理人とし、マッカーサーは師に教会の代理人の権限を与えました。占領軍は靖国問題のほか、天皇制の存続について意見を求められたといわれます。

 師には、内村鑑三のいう「2つのJ」(Jesus と Japan)が生きていたのでしょう。それは

「行って万民に教え、洗礼を施せ」

 という宣教の使命に燃えていたからにほかならないでしょう。

 ひるがえって今日、教会指導者たちが、歴史的根拠も不十分なまま、憲法を盾に靖国神社を政治的に批判しているのは、この「2つのJ」が欠けているからではないでしょうか。1つのJが欠けているのか、もしかしたら、2つとも欠けているのか。
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長崎の「二十六聖人」追悼ミサ [キリスト教]

以下は旧「斎藤吉久のブログ」(平成19年2月6日火曜日)からの転載です

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長崎の「二十六聖人」追悼ミサ
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 昨日、長崎の二十六聖人殉教地で追悼のミサが行われ、信徒ら2800人が参列したそうです。二十六人がこの地で「殉教」したのは410年前の2月5日でした。

 近世のキリシタン迫害はとても正視に耐えられるものではありません。宗教的に寛容なはずの日本でこのような宗教弾圧が起きたことは信じがたいほどです。だとすれば、なぜそのような「迫害」が起きたのか、たとえば二十六人はなぜ「殉教」することになったのか、そしてなぜ「列聖」したのか、冷静に、客観的に検証してみる必要があります。

 慶応大学の高瀬弘一郎教授(キリシタン史)によると、大航海時代、カトリックの布教はポルトガル・スペイン両国王室の後援によって推進されましたが、海外布教は国王の信仰に発するものではなく、教会法に基づいていました。ローマ教皇は両国諸侯に「布教保護権」を与え、未知の世界に航海して武力で異教世界を奪い取り、植民地としてこれを支配し、交易などをする独占的な権限を与えました。

 こうして両国の海外進出はカトリック世界の拡大をもたらし、地球は両国によって2分割されました。

 天文18年(1549)のザビエルの来日以来、日本はイエズス会の宣教によって「布教保護権」が及ぶことになり、1575年設定の「マカオ司教区」には日本が含まれていることがグレゴリオ13世大勅書に明記されています。

 このとき日本教会の保護者はポルトガル国王であり、日本は潜在的なポルトガル領と定まったのです(高瀬『キリシタンの世紀』など)。日本は知らぬ間にポルトガルの領土にされていたのでした。

 キリシタン大名の大友、有馬、大村、高山氏の領地では領民の多くが領主から事実上、強制的に改宗させられ、神社やお寺が破壊されました。バテレンにとっては、たとい強制的ではあってもキリスト教への改宗は神の御旨(みむね)にかなうことであると正当化されましたが、信長に代わって天下統一を目指す秀吉には当然ながら「邪教」と映りました。

 九州征伐の帰途、天正15年(1587)に秀吉はバテレン追放を命じます。禁教令には

「日本は神国であり、邪法をもたらしたのは良くない」

「神社仏閣を破壊したのは前代未聞」

 とあり、さらに

「日本人を明、朝鮮、南蛮に売り渡すことを禁止する」

 とも記されています。バテレンたちは奴隷貿易まで展開していたのでした。

 事件が起きたのはその8年後でした。文禄5年(1595)、スペインの豪華船サン・フェリペ号が暴風のため土佐の浦戸沖合に漂着しました。スペインは日本と国交はありませんでしたが、フランシスコ会のバウチスタ神父を「大使」として日本に置いていたことから、乗組員と積み荷は安全が保証されるものと考えていました。

 一方の秀吉はそうではありません。スペインとの通商の保証として「人質」となってとどまることを申し出ていたバウチスタ神父を、申し出のままに日本にとどめておいたという理解です。

 ところが、そのうち乗組員から「不用意な発言」が飛び出します。

「領土を得るのに宗教は役立つ」

 というのです。キリスト教布教の目的は「侵略」にあるということです。報告を受けた秀吉が激怒したのは無理もありません。そして二十六人の「殉教」へと事態は進んだのでした。

 フロイスの「日本史」全12巻の共訳者として知られる京都外国語大学の松田毅一教授によると、のちに難破したサン・フェリペ号の積み荷と殉教者の遺骸の引き取りを要求してきたフィリピン総督に対する返書に秀吉はこう書いています。

「バテレンが異国の宗教を説き、国風を乱し、国政を害したので、予はそれを禁じた。しかるに僧侶たちは帰国せず、異国の法を説いてやまぬので、誅戮せしめた。聞くところによれば、貴国は布教をもって謀略的に外国を征服しようと欲している……」(松田『豊臣秀吉と南蛮人』など)

 天下を統一し、「朝鮮征伐」どころか、明への遠征までも考えていたという秀吉であればこそ、キリスト教の「侵略性」に敏感であり得たということでしょうか。二十六人の「殉教」にはそれ相当の理由があったということになります。

 秀吉に続く徳川幕府もキリシタンを迫害・弾圧しました。しかし、その苛酷さが過度に強調される傾向があるようです。松田教授は、日本のキリシタン殉教史が「日本宗教史上、最大の迫害と殉教である」と認めたうえで、

「徳川幕府のキリシタン宣教師と信徒に対する拷問と処刑が世界に類を見ないほど残酷であったとはいいえない」

 と述べています。

 松田教授によれば、日本の殉教者の数は、信仰のため殺害された者3171人、獄中または飢餓その他迫害で死亡した者874人、と教会が昭和26年に発表しています。

 アジアでは日本のほかに中国や朝鮮、インドシナでの殉教史が知られていて、朝鮮では1801年の辛酉の大迫害で140人、1839年の己亥の迫害で78人が殉教し、インドシナでは宣教師や信徒3万5000人が殉教しています。

 イギリス、オランダ、ロシア、メキシコ、アフリカで、あるいはフランス革命時にカトリックが迫害された歴史がありますが、他方、カトリックがプロテスタントを迫害した例もあります。1572年のサン・バルテルミーの大虐殺は有名で、フランス全土での殉教者は5万人に達しました。

 もっとも悲惨なのはヨーロッパおよびその植民地で展開された宗教裁判で、異端審問所が魔女裁判を管轄すると、拷問や処刑は陰惨を極めました。

 スペインの異端審問中央本部の初代長官トルケマーダは在職中、9万人を終身禁固にし、8000人を火刑に処しました。宗教裁判はカトリック国でもイギリスでも行われました。ヨーロッパでの宗教裁判では数十万から数百万が処刑されたと推計されています(松田『キリシタンの殉教』)。

 さて、それでは二十六人がなぜ「列聖」したのかです。二十六人が「聖人」となるのは処刑から265年後、日本では江戸時代末期の1862年です。

 不思議なことに、「殉教」を書きつづった文献はたくさんあるのですが、「列聖」の理由と経緯についての資料はほとんど見当たりません。ほとんど唯一の資料と思われるのは昭和6年に翻訳発行されたレオン・バジェスの『日本廿六聖人殉教記』です。

 これによると、「殉教」には、

①迫害による死か、
②宗門のための死か、
③自分の意志による死か

 ──の条件があるといいます。そして、「殉教者」が「聖人」かどうかは神自身が「奇蹟」によって証明する。教会は慎重な態度でこの証明を待つのだ、と説明されています。

 二十六人の場合、処刑のとき十字架上に火の柱が出現し、夜なのに周囲が明るくなった。星々に囲まれた女性が現れた。処刑者の遺体が腐敗しなかった。刑場で死んだはずの宣教師が教会でミサをあげているのが目撃された、といわれます。

 処刑から7年後の慶長8年(1603)、京阪地域のキリシタンから「列聖」の請願書が提出され、1616年には法王庁の調査が始まりました。十数年後、法皇は二十六人について「殉教者」のためのミサをあげることを許可し、「列聖」の前段階としての「列福」の栄誉を授けました。

 けれども、その後、「列聖」の本調査が許可されながら、

「積極的な措置がとられなかった」

 といいます。それはなぜなのか、『殉教記』は理由らしい理由を記述していません。

 フランシスコ会トマス・オイテンブルク神父の『十六〜十七世紀の日本におけるフランシスコ会士たち』によれば、17世紀初頭の法王庁は多くの列福訴訟を審議中で、多忙を極めていました。けれども二百数十年を経て、日本は安政元年(1854)に外国人に門戸を開き、同6年には宣教師の再入国を許可します。その結果、二十六人の「列聖」が促進されたというのです。

 しかし、日本の開国だけが理由なのかどうか、疑問が残ります。

『キリスト教史』などによると、19世紀初頭、ヨーロッパでフランス革命の熱狂とナポレオン戦争の殺戮が収まると、18世紀の啓蒙思想が疑われ、カトリック教会は復興の時を迎えました。ガラガラの修道院と神学校にふたたび人材が集まり、解散されられていた、日本布教の先駆けであるイエズス会は再建されます。

 1846年、教皇ピウス9世が登位します。教皇は第一バチカン公会議を開き、「教皇の不謬権」の教義を確立させた人として知られ、反自由主義的な態度で教皇権を強化しました。32年間の在位中、世界宣教が奨励され、ヨーロッパの植民地拡大と並行してカトリック教会は海外に向かって発展します。

 日本宣教に関しては、プロテスタント宣教師が日本の「お雇い教師」として入国し、教師や医師として日本人と直接接触して布教活動を展開したのに対し、カトリックの宣教師は在留フランス人のためにフランス国家から派遣されていて、日本社会との直接的関係を持たなかったといいます。

 プロテスタントに対抗するため、カトリックはまずゴシック様式の荘厳な天主堂を建設しました。文久2年(1862)には横浜に天主堂が建ち、同4年には長崎・大浦に「二十六聖人」を記念する天主堂が竣功します。アジアで唯一の「聖人」である二十六人が日本宣教のため大いに利用されたであろうことは十分に推測されます。

 さて、この二十六聖殉教者天主堂、通称、大浦天主堂は昭和8年に国宝に指定されています。

 今日、教会指導者たちが靖国批判を目的に「迫害」の典型例としてしばしば取り上げる上智大学生靖国神社参拝拒否事件が起きたさなかの国宝指定です。先述した『殉教記』も同じ時期に出版されています。

 事件の当事者たちが手記などに書いているように、キリスト教が「迫害」されていたなどという歴史はないことの証明といえるのではありませんか。

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教育基本法「改正」反対へ暴走する司教たち──カトリックの教義を逸脱し、歴史をねじ曲げる [キリスト教]

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教育基本法「改正」反対へ暴走する司教たち
──カトリックの教義を逸脱し、歴史をねじ曲げる
(月刊「正論」平成19年2月号から)
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1、ブログを開設した元教区長の胸中

 生きることに疲れ果て、神の声を求めて教会の門をたたいたとき、そこが神の館どころか、教会を隠れ蓑にした無神論者の巣窟であり、「宗教弾圧国家」に連なる政治活動家の秘密アジトだったとしたらあなたはどうしますか。もしかすると、それは冗談でも、仮定の話でもなく、日本のカトリック教会の現実かも知れません。

 教育基本法改正をめぐる国会での攻防戦が最後のヤマ場を迎えようとしていた平成19年11月中旬、1人のカトリック聖職者によるブログが静かにスタートしました。糸永真一司教の「カトリック時評」。初回のテーマはまさに「教育基本法改正案」で、

「本来の人格教育は、両親の宗教的信念のもとにまず家庭において行われなければならない。家庭の再生なくして教育の再生はありえない」

 と訴えています。

 家庭教育が重要だ、との主張はきわめてオーソドックスです。奇を衒(てら)わない、正統派の主張こそ、このブログの本領です。

 ネット時代のいま、司教のブログはけっして珍しくはありません。糸永司教自身はブログの狙いを

「個人的に自由な立場で、福音宣教の使命を継続するため」

 と簡単に説明しています。けれども、キリシタンゆかりの地、長崎・平戸のクリスチャン・ホームに生まれ、幼児洗礼を受けたボーン・クリスチャンである糸永司教が、450年前、「東洋の使徒」フランシスコ・ザビエルが最初に上陸した鹿児島で35年の長きにわたって教区長を務めあげ、平成18年1月に引退したあともなお

「世の中の問題や現象を取り上げ、カトリックの立場から論評しよう」

 とネットで語りはじめたのは、それだけ強固な「宣教の使命」をその身に負っているからでしょう。

 ある信徒は

「異端化する教会を見るに見かねた」

 と胸中を代弁します。つまり横暴をきわめる異端者に対する正統派の戦いだというのです。正統がアンチテーゼとなる。それほどに教会は左傾化、異端化しているのです。


2、左傾化する司教団の20年

 教会の左傾化はもうここ20年近くも指摘されてきました。

 たとえば澤田昭夫・筑波大学教授(当時)は、雑誌「諸君」平成元(1989)年4月号に「カトリシズムの荒廃」を書いています。

 教会が世俗的な「解放」「自由」のスローガンに躍らされ、世界的に荒廃、衰退し始めていること、日本でも横浜の名門ミッションスクールが修道院と学校とが同居・一体化した古き佳き「修学共同体制」を突如として解消し、騒動を巻き起こしたのはその一環であることなどを指摘し、伝統否定、天皇制攻撃を始めた教会の前途に警鐘を鳴らしたのです。

 そのころはちょうど昭和天皇の崩御から今上天皇の即位に至る御代替わりのときで、懸念は現実そのものでした。

 たとえば、国民が悲しみに暮れた崩御の当日、司教たちの全国組織である司教協議会は聖職者向けに文書を発表し、

「明治以降の天皇制と結びついた国家神道」

 をあげつらい、

「過去の忌まわしい時代に逆戻りする危険を絶えずはらんでいる」

 と主張したうえで、

「追悼ミサをあげたり、政府行事に教会の名を連ねたりしないことが望ましい」

 と呼びかけました。要するに

「関わるな」

 というのです。

 キリストの弟子の後継者と位置づけられ、教皇に直結する司教ですが、

「天皇の葬儀」

 などの敬語敬称を略した公文書には、宗教者とは思えない、突き放した冷たさが感じられます。

 皇太子時代の昭和天皇の御外遊に随行したカトリック信徒の海軍少将が「御日常」をカトリック・タイムズ(今日のカトリック新聞の前身)に連載し、昭和3年の即位大嘗祭当日にはシャンポン東京大司教奉献の大ミサを挙行したのとは、大違いです。

 皇室は明治以来、カトリックの社会事業を支援してきた最大のパトロンであり、05年春に亡くなった教皇ヨハネ・パウロ2世の追悼ミサに今上(きんじょう)天皇の名代として皇太子殿下が参列されたことからすれば、政府行事への参加を禁じる教会の対応は礼儀を欠いています。

 左傾化、異端化はそればかりではありません。国旗・国歌法の制定に関しては、司教協議会、社会司教協議会のもとで社会問題に取り組んでいる正義と平和協議会(正平協)が、

「日の丸は侵略のシンボル」

「天皇制軍国主義が犯した過ちを忘れてはならない」

 と反対を表明しています。

 むろん、いわゆる靖国問題には大反対で、80年代から司教団もしくは正平協が首相宛に文書を発表し、

「信教の自由」

「政教分離」

 の原則をかかげて、

「靖国神社の国営化」

「中曽根首相の公式参拝」

「小泉首相の靖国参拝」

 に反対してきました。

 さらに有事法制や自衛隊のイラク派遣に反対し、差別や慰安婦問題を告発し続ける日本のカトリック教会は、まるで左翼反体制運動の巣窟の観があります。


3、戦前の「過ち」と絶対的平和主義

 そして、今回の教育改革です。

 5月下旬、正平協は教育基本法改定案を

「とうてい受け入れられない」

 と真っ向から批判する小泉首相宛の書簡を発表しました。

 主張の内容は以下のようなものです。

 ①現行の教育基本法は「平和憲法」と一体で、「個人の尊厳」「真理と平和を希求する人間の育成」を目指している。現行法の精神を誠実に実行してこなかったことを反省すべきだ。教育基本法の改定を「平和憲法」廃棄の布石とする目論見が明らかになっており、改定案の奥にある意図に危惧を持つ。

 ②改定案の「伝統」の文言は意味があいまいで、思想・良心・信教の自由が侵される危険もある。戦前は神社拝礼が国民的儀礼としてキリスト教徒にも強要された。歴史の反省から生まれた戦後の政教分離原則を緩和しようとする動きがあることを考え合わせると、「伝統」の文言は神社参拝強要の危険性をはらんでいる。

 ③同じく「公共の精神」の文言には個人より国を上位に置く意図が現れており、「我が国と郷土を愛する」にも同じ危惧を持たざるを得ない。人格のあるべき姿を国家が規範として法律で定めることは法の任務を逸脱している。

 教育が国家権力に利用されることに歯止めをかけた現行法の精神を貫くべきで、法律の改定ではなく、再評価を要請する──。

 護憲、戦前史批判、個人主義擁護、反国家主義──書簡は宗教家が書いたとは思えないほど、政治的文言に終始しています。「改悪」という表現は使わないまでも、「改定」にこだわっているところにも政治的姿勢が感じられます。

 そしてさらに、安倍首相が教育基本改正案の早期成立を表明し、法改正がいよいよヤマ場を迎えるのを前にして、今度は司教協議会、社会司教委員会が

「教育基本法改定への懸念」

 と題する書簡を首相および文相宛に発表しました。

 協議会は表現こそ正平協よりは宗教的であるものの、今日、「教育の再生」は焦眉の課題だが、「だから教育基本法を改定する」というのは短絡的に過ぎる。むしろ現行法の精神を根本的に咀嚼し直すことが求められている──などとして、正平協と同様の論理を展開し、「受け入れられない」と拒絶しています。

 二つの文書に共通する主張の核心は、侵略戦争史観、絶対的平和主義、平和憲法擁護の三つで、平和理念と史的体験が司教たちを護憲運動に駆り立てる車の両輪となっています。絶対的平和主義の宗教的信念があり、一方で忌まわしい歴史的体験がある。司教たちの政治行動はそこから当然の論理的帰結として導かれています。いわば信念と体験と行動の三位一体(さんみいったい)です。

 それならば、司教たちの絶対的平和主義がカトリックの教義に照らして正統なのか、司教たちの戦前史理解が事実に基づく実証的なものなのか。じつは、そこに根本的な疑義を持つ信徒が少なくないのです。


4、九割の信徒は司教たちに懐疑的!?
 全国を16に区分する司教区の最高責任者である司教たちが、教会法に基づいて協議会を組織し、連名で繰り広げる政治活動は、

「九割方は反対している」

 といわれるほど、信徒の賛同を得ていません。

 反天皇、反靖国、反「日の丸」の立場に立つ司教たちとは異なり、戦前も戦後も皇室を敬愛するカトリック信徒は数多く、皇族のおそばに仕える侍従職にも信徒はいます。皇室とバチカンの友好関係には長い歴史があります。また、敗戦後、靖国神社の「焼却」計画が持ち上がり、占領軍のなかで

「神道、神社は撲滅せよ」

 という強硬論が燃え上がっていたとき、

「殉国者はすべて靖国神社にまつられるべきだ」

 とマッカーサーに進言したのは上智大学のビッテル神父です。現在も靖国神社に参拝し、讃美歌を歌う信徒は少なくありません。さらに、昭和天皇の地方巡幸のときカトリック系の社会施設は日の丸で飾られていたし、25年前にヨハネ・パウロ2世が来日したとき、広島や長崎の信徒たちは日の丸を振って歓迎しました。

 信徒たちは、司教たちこそ教会の教えに背いている、と疑っています。多くは良識を保って沈黙していますが、なかには再三、質問状を提出した信徒さえいます。

 戦前、関西のクリスチャン・ホームに生まれ、幼児洗礼を受け、カトリック学校で学んだこの信徒は、これまでも正統的カトリック信仰を追求する立場から、司教らの護憲運動や靖国参拝抗議に対して異議を申し立ててきました。

 今回の教育改革論議では、基本法改正に真っ向から反対する司教たちに対して、バチカンが編纂した信仰と教理の解説書『教会のカテキズム』などに基づいて、次のような疑問を投げかけています。

 ①平和憲法改正反対の主張は、教会の考えに照らして無理がある。教会は、政府の正当防衛権を拒否できない、兵役は平和維持に反しない、と教えている。憲法を改正し、国防の義務を明文化したとしても、教義上、反対する根拠はない。

 ②現行教育基本法は田中耕太郎ほかキリスト教の第一級の知性が中心的に作成したもので、その理念はキリスト教的普遍主義に合致している、改正は不要である、という主張もあるが、現行法は教育勅語を前提に制定され、教育勅語には欠けていた「個人の尊厳」「平和の希求」を盛り込み、憲法を補完しようとした、との見方もある。当初の要綱案には「伝統尊重」の文言があったが、GHQの反対で削除されたという経緯からすれば、キリスト者の知性による現行法は立法者の意思が曲げられている。

 ③国民は国や為政者の権威を尊重すべきであるというのが教会の基本的立場ではないか。また「伝統の尊重」こそ教会の基本概念であり、共通善のため物的・人格的に国家に奉仕すること、国を愛することは国民の義務である、と教会は教えてきた。

 ④法律改正論議で宗教教育の導入が焦点になったが、正平協がまったく関心を示していないのは宗教家として恥ずべきことではないか。偏った政治イデオロギーにとらわれ、宗教家本来の任務を忘れているのではないか。公立学校での宗教教育がタブー視され、結果的に宗教音痴の日本人を大量に創り出してしまったことに、キリスト者は責任を感じるべきだ。

 仏教界は改正試案を提案し、民主党がこれを取り上げた。教会も改正案を提案すべきではないか──と信徒は真摯に訴えています。

 しかし、司教たちからの応答はほとんどないといわれます。答えたくないのか、答えられないのか。

 司教たちの主張が教義に反している、と疑っているのは、どうやら信徒ばかりではないようです。

 カトリック新聞平成18年11月5日号の「意見異見私見」欄には、冒頭の糸永司教の投稿が載りました。両親こそ教育の第一の責任者である、国の教育は補完的なもので、絶対化してはならない、個人主義や全体主義を排して共同体とともに意識・使命感を育てる必要がある──という訴えは、正平協や司教協議会とは明らかに一線を画すものです。「共同体」の発想は正平協らの文書には見当たりません。

「異見」の存在は、「教会の立場」を語る司教たちの公的かつ組織的な政治行動が教会をあげての反対運動でないばかりか、司教たちの総意ともいいがたいことを示しています。つまり、一部の司教たちが

「暴走している」(信徒)

 のです。


5、バチカンは絶対的平和主義をとらず

 司教たちの暴走をもう少し分析してみます。論点は三つ、

第一は司教たちが政治的行動をすることの資格性、

第二は絶対的平和主義の主張は教義に即しているのか否か、

第三は戦前史を迫害史と見る歴史理解の正否

 です。

 まず第一点です。じつは先述した信徒は、教育改革に関する質問書の冒頭で、正平協の書簡はどのような手続を経て作成され、教会の公文書として政府に提出されているのか、その権限は何に由来するのか、と司教たちにただしています。

「教義上、聖職者は政治に関わる資格があるのか」

 というわけです。

 一般に教会の説明では、司教協議会はバチカンの「新教会法」によって定められた司教たちによる常設機関です。左傾化の本丸と目されている正平協は、司教協議会が設けた常設の司教委員会の一つで、1967年に教皇パウロ六世の呼びかけでバチカンに「正義と平和委員会」が設立され、世界の司教協議会にも同じ趣旨の委員会を設けるよう要請されたのを受けて、70年に発足し、とくにアジアにおいて社会正義と平和を実現する活動に取り組んでいる──と説明されています。

 しかし『教会のカテキズム』には、政治に直接介入することは聖職者ではなく、信徒の任務である、と明記されています。

 そのため先述した信徒は、教育基本法改正反対には信徒の任務が反映されているのか。文書の存在さえ信徒の大多数は知らないのが実態だろう。改正を提案している閣僚や議員には信徒もいる──と問いただしているのです。この信徒の主張によれば、司教たちの政治活動それ自体が教義に反することになります。

 第二は、絶対的平和主義の問題ですが、この信徒は、たとえば司教協議会監修『教会の教え』には

「祖国防衛のために兵役に従事することは必ずしも平和維持に反するとはいえない」

 と書いてある、などと指摘し、みずから教えを破る自己矛盾をついています。

 むろんバチカンは絶対的平和主義の立場には立っていません。たとえば、教皇ベネディクト十六世は06年6月、イラクで死亡したイタリア兵を慰めるメッセージを送り、聖パウロ大聖堂で行われた兵士の葬儀では教皇のメッセージが読まれました。教皇は

「イラク人民の秩序、安全、正義、そして平和的回復のための軍務を大いに成し遂げる途上で倒れた息子」

 と称えたと伝えられます。

 日本の教会もかつては

「戦争は悪」

 などという観念的平和論を振りかざしませんでした。昭和7年にカトリック中央出版部から出版された田口芳五郎の『カトリック的国家観』には

「戦争はその本質上、罪悪ではなく、また愛の掟にも背馳しない」

 とあります。

 田口は長崎生まれ、69年に大阪教区が大司教区に昇格したのにともない、管区内の最初の大司教となり、のちには教皇に次ぐ身分である枢機卿に信任された人物です。

 けれども日本の教会はいまや『教え』に反して絶対的平和主義をかかげ、イラクへの自衛隊「派兵」反対、即時撤退を政府に要求し、

「人命は重く、殺人は聖書の掟からかけ離れている」

 と主張しています。


6、「憲法精神を実現した教基法」ではない

 第三は、歴史理解の問題です。ここでは現行教育基本法制定の経緯と戦前の神社参拝「強要」の二つについて考えてみます。

 まず教育基本法ですが、先述した信徒は、正平協の抗議文書に記述されている

「教育勅語に基づく画一的教育が軍国主義一色に染められ、戦争に巻き込まれた反省から新憲法および教育基本法が制定された」

 という歴史理解は正しいのか、と問いかけています。

 時代背景を見てみると、現行教育基本法が制定されたのは昭和22年春、GHQが教育改革を断行していたときです。帝国議会は憲法改正と併行して教育基本法の制定を進めていましたが、日本政府の要綱案にあった

「伝統の尊重」

「宗教的情操の涵養」

 はGHQの削除勧告を受けました。日本国憲法も公教育における宗教教育の禁止を規定し、教壇から宗教が追放されました。同じ敗戦国であるイタリアが、公立学校での宗教教育を存続させたのとは対照的です。

 戦時国際法は占領軍が被占領国の宗教を尊重すべきことを規定しています。ポツダム宣言には

「宗教・思想の自由は確立せらるべし」

 の項目がありました。GHQがこれらを無視して日本の宗教に干渉したのは、「国家神道」に対する誤解と偏見があったからです。アメリカは戦時中から「国家神道」こそが「軍国主義・超国家主義」の源泉で、これが「侵略」戦争を導いた、と理解し、国務省は

「国家神道の廃止」

 を方針としていました。

 昭和20年の暮れには、いわゆる神道指令が発布されました。

「宗教を国家より分離する」

 と規定しつつ、実際は「国家と教会の分離」が拡大解釈され、日本の民族宗教である神道に対する差別的圧迫が加えられ、多くの神道的宗教慣例が禁止されました。

 けれども占領後期になると、GHQは神道指令の「宗教と国家の分離」を「宗教教団と国家の分離」に条文解釈を変更します(ウッダード「宗教と教育」)。であればこそ、26年の貞明皇后の御大喪はおおむね皇室の伝統形式に沿って国家的に挙行されました。GHQの占領政策は前期と後期では異なっています。

 教育勅語についても、その否定の上に現行基本法があるという考えは、少なくとも当初の日本政府は持ち合わせていません。政府は国会で、

「教育勅語が今後も倫理教育の根本原理として維持せられなければならない」(田中耕太郎文相)、

「教育基本法の法案は教育勅語のよき精神が引き継がれております」(高橋誠一郎文相)

 と答弁しています。

 ところが、基本法の制定後、GHQの命令によって、衆議院の教育勅語排除決議、参議院の失効確認決議が行われ、教育勅語は歴史的に抹殺され、

「教育勅語体制から教育基本法体制への転換がなされた」

 という解釈が広がったのです。

 つまり、正平協が主張するように、教育勅語の否定の上に現行基本法があるわけではないし、日本国憲法の精神を実現するために制定されたのが現行法でもない。正平協の歴史理解は正しくないことになります。


7、「迫害」にほど遠い上智大学生事件

 次に、戦前、神社参拝を「強要」されたという歴史について検証してみます。

 司教たちは、今回の教育改革に限らず、政教分離、靖国問題でも繰り返し、神社参拝「強要」の歴史を強調し、反対運動の歴史的論拠としています。具体的にはどんな「歴史」があったのか、というと、それは昭和7年の上智大学生靖国神社参拝拒否事件です。

 明治政府は靖国神社への崇敬を国民に「強制」しようとしたが、学生が拒否したことから、軍部らの迫害を受け、教会は危機に陥った。これを回避するために神社参拝は教育上の理由で行われ、敬礼を愛国心と忠誠の表現と公式に理解し、靖国神社の本質的な宗教性にふれず、宗教的参拝を儀礼として容認するという過ちを犯した。これをきっかけに教会は参拝を奨励することになり、戦争協力への道を歩んだ(小冊子「非暴力による平和への道」)──と司教たちは主張します。

 ところが、当事者たちの回想などによれば、事件は「強制」「迫害」とはほど遠いものでした。『上智大学五十年史』(昭和三十八年)や渦中の人であった上智大学の丹羽孝三幹事(学長補佐)の回想(『上智大学創立六十周年──未来に向かって』昭和48年)、ビッテル神父の『マッカーサーの涙』(同年)には概要、次のように描かれています。

──第一次大戦後、軍縮の時代が到来し、軍は将校の失業対策として学校の軍事教練のために配属した。
 上智大学の配属将校は、昭和7年5月、課外授業は学長の許可を要するという規則を破って、学生を靖国神社に参拝させた。面白半分の個人プレーである。
 カトリック信者の学生が非キリスト教形式の拝礼を拒否し、将校が憤激したのを、翌日の新聞は「参拝拒否」「軍部激怒」と書き立てた。
 しかし文部省は軍に批判的だったし、丹羽幹事と陸相との面談で事態は収拾した。
 ところが10月になって事件はぶり返され、「邪教」「売国奴」「スパイ」という批判が教会に対して浴びせられる。じつは軍部による政党打倒運動に事件が利用されたのであった。
 そもそも濡れ衣だったから、支援者は少なくなかった。不穏な動きがあれば、在校生の父兄でカトリック信徒の麹町警察署長から情報が伝えられたし、神道や仏教関係の大学の学長が見舞いにやってきた。軍内部の同情者からも関係する極秘資料が届けられた。
 そして宮様師団長のお耳に達するところとなり、事件は急速に解決する──。

 これが「迫害」でしょうか。上智大学に日本初の新聞学科が認められ、創設されたのはこのときですが、新聞記者が取材時には軍の横暴をなじりながら、記事では上智の悪口ばかり書いていたという「嵐」のただ中での学科新設は、関係者の誇りでもあるはずです。「迫害」なら新設はあり得ません。「事件」を歴史的根拠とする司教たちの政治運動は事実を無視した、ためにする議論といえます。

 教義面から補足すれば、靖国神社参拝に関して、当時の教会と文部省とが交わした往復書簡には、

「行事参列を要求する理由は愛国心に関するものにして、宗教に関するものにあらず」

「敬礼は愛国心と忠誠とを表すものにほかならない」

 と記されています(田川大吉郎『国家と宗教』)。いまの教会は、神社参拝=宗教行為と原理主義的に断定していますが、教会の見解はいつ変わったのでしょうか。

 政治行動の任務を認められていない司教たちが、教義を逸脱した絶対的平和主義をかかげ、歴史の事実をねじ曲げ、政治運動に走っているのだとすれば、これは暴走以外の何ものでもありません。


8、暴走する司教たちと北朝鮮とのパイプ

 なぜ司教たちは暴走するのでしょう。冒頭にご紹介した澤田教授は、教会が聖性を追求せず、魂の救済を蔑ろにし、社会奉仕団体に成り下がった結果だと分析します。その背後には、魂の永遠の救いよりも現世的解放を重視する「解放の神学」の影響があり、それを指導したのはキリスト教的マルキストであることを澤田教授は臭わせています。

 論攷の指摘は次のようにまとめられます。

 ①第二バチカン公会議(1962〜65年)以後、「開かれた教会」が世界的に標榜された。しかし「解放の神学」の妖気に当てられ、会議の精神をかたって冒険主義に走り、改革ではなく革命的変革を試みる勢力が世界に広まった。これが諸悪の根源である。カトリックの神髄である典礼、礼拝が非神聖化され、俗化され、秘跡の意義は見失われ、畏敬の念が失われた。

 ②先駆けはオランダである。以前から「開かれた教会」を目指していた教会は、66年に開催された全国司教会議以降、ローマの指示とはお構いなしに典礼、教理教育、司牧を自由に進めた。真理は個人が世俗の奉仕のなかで体験するものとされ、正統教義の追究より、実践が重視された。バチカン会議の精神をかかげつつ、まったく別物の教会と信仰が生まれてきた。

 ③アメリカでは76年にデトロイトで全国大会が開かれ、教皇にはアメリカへの介入権はないとし、教会は伝統と手を切り、大衆運動団体に変質せよ、体制に抵抗せよ、人間化された社会主義的ユートピアを建設せよ、というスローガンを採択した。大会を運営したのは進歩派神父と修道女、反体制派のインテリで、支持組織には社会主義者やマルキストがいた。まさに革命大会であった。

 ④やがて「開かれた教会」は魅力を失い、ミサの参加率が低下し、多くの司祭が還俗した。教会は取り壊され、レストランや映画館などに代わった。修道会もまた没落の運命を歩んだ。過去を無定見に否定して未来を漠然と夢見る修道会に若者は魅力を感じず、修道者の「召命」は減った。修道者が万単位で退会した。規律が破壊されたからだ。ローマの警告文を修道会は無視した。

 ⑤日本では88年、アメリカに遅れること10年、「開かれた教会」「刷新」を実現するための福音宣教全国会議(NICE)が京都で催された。教会史上初の大規模会議は俗を聖化するより、聖を俗化し、教会を革命的に変革する役割を果たした。たとえばフォーク・ミサは神不在のイベントで、若者たちが司祭に聖体を授けた。「神の業」は「人間の業」に変換されたのだった。

 この論攷で澤田教授が正しい改革の流れと教会崩壊に連なる革命的変革の流れの結節点と見なしたNICEが開かれたのは、ちょうど御代替わりのときでした。その後、日本の教会がどちらの方向に進んだかは明らかでしょう。そして、どのような人々が教会を革命的変革へと導いたかも想像がつきます。

 ある信徒が興味深い指摘をしています。教育改革は焦眉の急といいながら、緊急対策の提言もない。逆にまるで現状維持を望むかのような教会の論理矛盾の文書は、共産党や社民党、日教組、はたまた過激派と文章の構造が似ている。それ以上に、北朝鮮の労働党と「声紋」が似ている──というのです。

 旧日本軍の行為、とりわけ慰安婦問題を断罪した「女性国際戦犯法廷」の主催団体は発足当初、連絡先をカトリック中央協議会や正平協と同じ住所に置いていた。団体の発起人の一人は正平協のメンバーである。正平協こそ、この団体の揺りかごだった。また、「戦犯法廷」に対する冒涜・誹謗中傷を許さない日朝女性の緊急集会は朝鮮総連傘下の組織に実行委員会を置いていた。この組織のトップは北朝鮮の国会議員である──。

 じつに驚くべき情報ですが、さらには司教たちの側近に、すなわち教会組織の中枢に、北朝鮮との深いつながりをもつ人物がいるとも噂されています。

 それかあらぬか、司教協議会は11月に北朝鮮の核実験に対する抗議声明を発表しましたが、その中身は、北朝鮮への抗議に名を借りて、世界のあらゆる核の廃絶を求め、日本の核保有論議を牽制するものでした。それでいて、それほど平和の希求に熱心な司教たちが北朝鮮の拉致問題を批判したとは聞きません。

 終戦直後のカトリック新聞には、中国大陸で展開されている血なまぐさいキリスト教迫害を告発する記事が毎号のように掲載されていました。宗教を阿片と断じる無神論者たちと、教会は文字通り命がけで戦っていたのです。それがいまや「宗教弾圧国」のお先棒を担いでいるのだとしたら、それでもあなたは神の声を求めて教会の門をたたくでしょうか。

1年の節目としてのクリスマス [キリスト教]

以下は旧「斎藤吉久のブログ」(平成18年12月26日火曜日)からの転載です

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 アメリカのブッシュ大統領は23日、クリスマス恒例のラジオ演説で、愛と希望というキリストのメッセージに感謝を捧げるとともに、遠い戦場で戦う兵士たちとその家族を激励しました。イギリスのエリザベス女王はやはり恒例のクリスマス・メッセージで、社会の溝が広がっていることを指摘し、宗教がその溝を埋める橋渡しの役割をするよう求めた、と伝えられます。

 厳格な政教分離主義の本家本元と一般には考えられているアメリカでは、日本とは違って自国の宗教伝統が大切にされています。またイギリス人にとっては、クリスマスは家族そろってご馳走を囲み、一年の思い出を語り合う特別の日といわれます。女王陛下のスピーチに耳を傾け、暮れゆく年を家族で共有する。それがイギリス人の年の瀬の風景です。

 ベストセラー「ハリー・ポッター」の一節にロンドンのクリスマスの様子が描かれています。「マンダンガスは病院行きのためにクルマを一台借りてきていた。クリスマスには地下鉄が走っていないからだ」

 地下鉄が走らないのなら、魔法使いなのだから魔法を使えばよさそうなものですが、人間の世界にいるときはそれができない。そこで、やむなくクルマを借りる羽目になったというのです。しかしそれにしても、クリスマスにはなぜ地下鉄が走らないのか、説明はありません。

 じつをいうと、ドーバー海峡の海底トンネルをくぐり、パリ、ブリュッセルを結ぶ「ユーロスター」をはじめとして、鉄道やバスなど交通機関のほとんどが、イブから27日にかけて運休します。デパートやスーパーは夕方で店じまい。医療機関は休診し、学校はクリスマス前から年末年始の休暇に入ります。

 イギリス人にとって、クリスマスはキリスト教の祝祭であるのと同時に1年の締めくくりであり、どうやら家族いっしょに家に籠もるための日のようです。それはキリスト教伝来以前の伝統文化の影響なのでしょう。

 19世紀イギリスの文筆家ロバート・チェインバーズの『The Book of Days』(邦訳『イギリス古事民俗誌』)は、キリスト教の祝祭日前夜は厳格には断食と懺悔の時とされているのに、万霊節前夜(ハロウィーン)やクリスマス・イブは本来の目的をはずれて、どんちゃん騒ぎの夜になっている、と指摘しています。

 しかしそれでも、祖先たちがのべつ幕なしに飲んで騒いだのに比べれば、大人しいものだとも述べています。昔はといえば、若者は森へ出かけ、ヤドリギを採ってきた。開放された領主の屋敷に小作人や農奴らが押しかけて、無礼講になった。丸太がくべられた炉が燃え上がり、高座にはイノシシの頭がおかれ、陽気な仮面隊が大声でキャロルを歌った、というのです。

 これは、どう見てもキリストの降誕を祝う祝祭とは思えません。それもそのはずで、浮かれ騒ぎの由来はキリスト教以前、さらに古代ローマによる支配以前にさかのぼります。さまざまな宗教の習合の産物なのです。

 まず古代ローマのサトゥルナリアとよばれる、収穫祭と冬至の祭りを兼ねた農神祭がありました。「12月25日」はローマの古い暦では冬至の日に当たります。日照時間が最短になり、力を弱めた太陽は、この日を境にふたたび生命力を回復させていきます。太陽神の誕生を祝う重要な祭日であり、1年の起点、元日だったのです。古代ローマでは主人と僕の関係が一時的に逆転して無礼講万々歳だったといいます。

 この祭りに、ドルイド僧(古代ケルト人が信仰していたドルイド教の祭司)の宗教儀式が混淆します。古代ドルイド教でもっとも神聖視されていたヤドリギを採取することが冬至の祭りの日に行われました。さらに古代サクソン族の神話をも吸収し、今日のクリスマスが形成されたのです。

 イギリス人はキリスト教に改宗したあとも、従来の慣習を排除せず、守ってきました。教会も古いしきたりをあえて追放しませんでした。民衆が固持する異教の儀式にキリスト教の儀式を接ぎ木して宣教する方が伝道効率がはるかに高いと考えていたからだ、とチェインバーズは解説しています。ただ、今日、キリスト教会の関係者は異教との「融合」を認めようとはしません。

 古代ブリテン島に住むケルト人は、大晦日の晩に死霊が家々を訪ねてくる、と信じていました。その信仰は、同じく19世紀イギリスの小説家チャールズ・ディケンズの名作『クリスマス・キャロル』に見え隠れしています。

 主人公の老人スクルージは孤独な守銭奴です。イブの晩、彼の家を訪ねてくるのは、天使でもサンタクロースでもなく、むかしの仕事仲間の幽霊たちで、「いまのうちに悔い改めないと、悲惨なことになる」とさとすのでした。

 ディケンズの短編の書名は、キリストの誕生やクリスマスの季節の到来を祝う歌の意味ですが、イギリスには、教会でキャロルを歌うだけでなく、子供たちが何人かで家々を訪ね歩き、戸口で歌い、もてなしを受けるという風習がいまもあります。この風習は人々が各家にこもっていることが前提です。

 幽霊や子供たちが家に訪ねてくるといえば、アメリカのハロウィーンが思い起こされます。カトリックでは11月1日が諸聖人を祝う「万聖節」で、その前夜祭がハロウィーンです。

 これも元来、ケルト人の祭りで、秋の収穫を祝い、冬の訪れを前に悪霊を追い払う意味がありました。ケルトの暦では10月末日が1年の終わりです。大晦日の晩ですから死霊がやってきます。悪霊から身を守るために仮面をかぶり、魔除けの焚き火をたいたのが今日の仮装行列の起源といいます。アメリカにはアイルランド系移民が持ち込んで盛んになり、「子供たちの大晦日」と呼ばれます。

 一年の節目の日に人々が各家でいみごもりし、そこへ霊が訪れるという信仰は、日本にもあります。

『常陸国風土記』は、祖神がいみごもりしている家を訪ね歩くという筑波郡の物語を載せています。

 さらに、現在も行われている京都府相楽郡精華町の祝園(ほうその)神社や同郡山城町の和伎座天乃夫岐賣(わきにいますあめのふきめ)神社(通称、涌出宮[わきでのみや])の居籠(いごもり)祭は稲作の予祝行事で、かつては神霊を迎えるために氏子の人たちがみないっしょにいみごもったといいます。

 厳粛な祭りの期間中は音を忌み、そのため鳴き声を発する牛馬は近隣の縁者にあずけられました。門戸を閉ざし、入り口にはむしろをかけ、掃除をせず、下駄を用いることもなかったといいます。外出しないのですから当然、イギリスのクリスマスと同様、車馬など交通機関は止まったのでした。
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ローマ法王、ブルー・モスクの祈り──宗教対立を超える第一歩に!? [キリスト教]

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ローマ法王、ブルー・モスクの祈り
──宗教対立を超える第一歩に!?
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 内外の報道によるとトルコを訪問したローマ法王ベネディクト16世は、昨晩(平成18年11月30日)、イスタンブールのスルタン・アフメット寺院、通称「ブルー・モスク」にもうで、イスラム聖職者とともに祈りを捧げました。

 ローマ法王のモスク訪問は、ヨハネ・パウロ2世に次いで二人目ですが、今回の表敬は、イスラム世界との関係回復の試みとして注目されました。

 厳重な警備体制がひかれるなか、法王は同寺院を訪れました。靴を脱いで中に入った法王は、イスラム聖職者の案内でミーラブに進みました。メッカの方向を指し示すミーラブはイスラム教徒の祈りの場です。

 イスラム聖職者がその説明をし、

「私は祈ります」

 といって、祈り始めると、法王はメッカの方角に向かい、イスラム聖職者とともに、1分間以上、無言の祈りを捧げました。

 イギリスのタイムズ紙によれば、トルコのメディアは、もし法王がひざまずき、十字を切って祈れば、イスラムの世論を害し、同時に世俗国家擁護者たちの感情を損ねるだろう、と警告していたようですが、法王は、ひざまずき、十字を切るというようなキリスト教的な祈りの形式はとりませんでした。

 カトリックは典礼中心の宗教といわれます。荘厳な宗教儀式に信徒は神との霊的な交わりを体験します。そのカトリックの最高聖職者である法王自身が捧げたキリスト教的形式によらない、イスラムの聖地メッカに向かっての祈りは、血なまぐさい宗教対立が絶えない人類社会を変えていく第一歩となるのでしょうか。

 法王はトルコ訪問の初日、首都アンカラの宗教省で演説し、キリスト教徒とイスラム教徒との間で、

「真実に基づき、相手をより深く理解したいという真剣な願いから、違いを尊重し、共通点を認める」

 という真の対話が必要であるとの考えを示しましたが、今後、宗教間の対話が進み、相互理解が深化していくことになるのかどうか。

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ハロウィーン・ブーム──日本社会に浸透する古代ケルト人の祭り [キリスト教]

以下は旧「斎藤吉久のブログ」(2006年10月6日)からの転載です

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ハロウィーン・ブーム
──日本社会に浸透する古代ケルト人の祭り
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 今年もハロウィーンの季節がやってきました。

 カトリックでは11月1日は諸聖人を祝う万聖節で、ハロウィーンはその前夜祭です。アメリカではクリスマスに次ぐ祝祭とされています。

 大きなカボチャをくり抜いて作った提灯に火をともし、お化けに扮装した子供たちが「トリック・アンド・トリート(何か、くれ。さもないと悪さするぞ)」とご近所の家に押しかけると、ご近所さんは「ハピー、ハロウィーン」といって歓迎し、用意したお菓子を渡します。休日でもないのに、国民の半数がパレードや仮装大会に参加するほど、国中がお祭りムードに包まれます。学校やレストラン、銀行でも仮装大会が開かれるのだとか。

 このキリスト教の祝祭が、クリスチャンが50人に1人もいない日本でここ数年、ブームになっています。

 20年ほど前に有名玩具店が呼びかけ、日本で最初のハロウィーン・パレードが実施された「若者の街」、東京・原宿をはじめ、長野・塩尻、神奈川・川崎、東京・六本木などで各種イベントが今年もおこなわれ、商店街などが主催する行事は年々、広がりを見せているようです。

 ハロウィーンは元来、2000年以上前の古代ケルト人の祭で、秋の収穫を祝い、冬の訪れを前に悪霊を追い払う意味がありました。ケルトの暦では10月31日が大晦日に当たり、その晩、死霊がやって来ます。悪霊から身を守るために仮面をかぶり、魔除けの焚き火をたいたのが今日のパレードの起源で、アメリカにはアイルランド系移民が持ち込んだといわれます。

 ハロウィーンは「子供たちの大晦日」ともいわれますが、子供たちが主役のお祭りなら、日本にも「小正月」があります。

 本来の「年越し」とされる小正月に子供たちが「ほとほと」とか「ことこと」などの唱えごとを唱え、あるいは鶏の恰好で鳴き声を真似ながら各家をまわり、餅やお菓子をもらう風景がかつてはごく普通に見られました。年の変わり目に神霊・祖霊がやってくると信じられたことがこの行事の背景にあり、その意味ではケルト起源のハロウィーンとよく似ています。

 しかし、カトリックの祭りとされるハロウィーンが非キリスト教社会である日本に年々、浸透しつつあるのに対して、日本古来の小正月行事は最近、見かけなくなったのはどうしてなのでしょう。

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マドンナの十字架パフォーマンス [キリスト教]

以下は旧「斎藤吉久のブログ」からの転載です


 アメリカの人気歌手マドンナの日本公演が明日から始まります。

 マドンナは2年ぶりの世界ツアーをこの5月から展開中で、日本公演はじつに13年ぶりだそうです。大阪の京セラドーム、東京ドームで計4回のステージが予定されています。

 話題はもちろん「十字架パフォーマンス」です。「神への冒涜」「宗教への冒涜」だとして、ローマでは枢機卿が激しく非難、ドイツでは違法性が問われ、ロシア正教会からは中止を要請された、と伝えられています。イスラムやユダヤ教団体からも批判を浴びています。

「冒涜的」だとされるパフォーマンスは、大ヒット曲「Live To Tell」の演奏中に行われるようです。イエス・キリストを模して、高さ6メートル、鏡張りの十字架にイバラの冠をかぶったマドンナがみずから磔(はりつけ)になりながらバラードを歌うというのです。

 キリスト者たちにとって、十字架は救いの象徴であり、神の象徴である。その十字架を宗教的意味合いを失った形で、単なるパフォーマンスに利用されている、として教会側は批判するのですが、マドンナ側は「教会を侮辱するものではない」と反論しています。

 しかし、マドンナのパフォーマンスはむしろキリストを利用して商売している既成宗教に突きつけられた挑戦状なのだ、とする見方もあるようです。
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死者を追悼する花環 ──キリスト教圏に受容された日本の葬送文化 [キリスト教]

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死者を追悼する花環
──キリスト教圏に受容された日本の葬送文化
(「神社新報」平成17年9月19日)
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 関東大震災から八十二年目の九月一日、東京・横網の都慰霊堂で皇族の御参列のもと、大震災並びに都内戦災犠牲者を悼む秋季慰霊法要がおこなはれた。正面の祭壇には御下賜の花瓶と生花のほか、皇族や首相、衆参両院議長、都知事などの菊花が飾られ、さらに地元消防団や町会の花環が参列者席を取り囲んだ。

 死者に花を供へる供花・供華の文化は『源平盛衰記』など中世の文学にも記録されてをり、日本の伝統文化の一つといへる。だが、花環は明治期にヨーロッパから伝はってきた外来文化で、どうやら日本を源流とする供花の文化が欧州のキリスト教文化圏に受け入れられ、形を変へて、逆輸入されたものらしい。


▽ 「欧米の慣例」


 明治七年創刊の読売新聞に「花環」「花輪」などの記事が載ったのは、明治三十五年四月六日付、「ロンドン電報 英皇后花圜を贈る」が最初である。南アフリカのケープ植民地の首相となり、英国の帝国主義政策「3C政策」を推進したセシル・ローズの葬儀がケープタウンで営まれるのに際して、英国の皇后が花環を贈ったといふのである。

 このほか明治時代の読売には、

英国の政治家ソールズベリの葬儀に駐英日本公使が花環を捧げた(三十六年九月)、
仏潜水艇事故の犠牲者に英国皇帝が花環を捧げた(三十八年七月)、
独太公の葬儀に天皇が花環を御増進になる旨の御沙汰があった(四十年十月)、
清国先帝の大葬につき日本の皇室から花輪が贈呈された(四十二年五月)、
伊藤博文公爵の国葬に大隈重信伯爵から花輪が贈られた(四十二年十一月)、
英国皇帝の大葬に際して新帝は銀蘭の十字架および多数の花環を霊柩に供へた(四十三年五月)

──などの記事が掲載されてゐる。

 明治四十五年七月三十日に明治天皇が崩御になると、敬弔の花環が各国から贈呈された。大正元年九月十一日付の読売には、英、独、伊など五カ国の元首から殯宮近くに奉奠された「銀色燦爛たる花環」の写真が載ってゐる。

 花環の故事来歴を考へる上で見逃せないのは、九月上旬に連続して掲載された「敬弔と花環」と題する「社告」である。読売新聞社委託販売部はこのときバラやダリアなどで造られた花環の販売を手がけたのだが、花環の意味を

「欧米の慣例にならひて、家屋(門口、店先、床の間)に花環をつるし、奉送敬弔の意をいっそう深からしめんため」

 と記し、花環が外来文化であることを明示してゐる。


▽ ジャポニスム


 けれども、供花は欧州古来の文化ではない。草場安子著『現代フランス情報辞典』には、キリスト教の諸聖人を記念する十一月一日の万聖節に、仏では墓参する習慣があり、この日に菊の鉢植ゑが供へられる。菊の花は一七八九年に日本からもたらされた──と書かれてある。

 草場氏に問ひ合はせたところ、さらに興味深い情報が得られた。仏の生活文化のルーツをまとめた書物には、一八二六年に二人の元軍人が菊の品種改良に取り組んだ。二人は墓に菊の種をまき、以来、菊は死者のための花になった──と記されてゐるといふのだ。菊の花と同時に供花の文化が日本から伝へられたのかも知れない、と草場氏は推理する。

 十九世紀後半、日本の開国で日本文化が紹介されるやうになると、欧州ではジャポニスム(日本趣味)と呼ばれる芸術様式が席捲し、日本への強い憧れが生まれた。その象徴が日本の浮世絵に深く影響されたモネやマネの印象派絵画であった。印象派の絵画はやがて日本の画壇に影響を与へた。同じやうに欧州に伝はった日本の供花の文化が、今度は花環に形を変へて、日本に逆輸入されたといふことだらうか。

 大正十年五月、皇太子裕仁親王(昭和天皇)は御外遊先の英国で、建設されて間もない戦歿者追悼記念碑セノタフと無名戦士の墓に、「日の丸」をイメージして紅白のリボンのついた大きな花環を捧げ、深々と拝礼され、英国民に深い感動を与へたと伝へられる。

 関東大震災で首都東京が壊滅したのはその二年後である。当時の行政は既成宗教に対して冷淡で、東京府市が主催する「四十九日」の追悼式も、翌年の震災一周年の弔祭式も無宗教で執行された。皇室から花環が下賜されたのは震災一周年の追悼式で、以来、震災と戦災の遭難者を悼み、花環を捧げる伝統が続いてゐる。

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日本の稲作儀礼にも似た英国のクリスマス・イブ [キリスト教]

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日本の稲作儀礼にも似た英国のクリスマス・イブ
(「神社新報」平成17年1月24日から)
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「マンダンガスは病院行きのために車を一台借りてきてゐた。クリスマスには地下鉄が走ってゐないからだ」

 ベストセラー「ハリー・ポッター」の一節である。舞台は英国ロンドン。地下鉄が走らないとしても、魔法使ひなら魔法を使へばよささうなものだが、人間の世界にゐるときはそれができず、やむなく車を借りる羽目になったらしい。だが、なぜ地下鉄が走らないのか、説明はない。

 じつをいへば、ドーバー海峡の海底トンネルをくぐり、パリ、ブリュッセルを結ぶ「ユーロスター」をはじめ、鉄道やバスなど交通機関のほとんどが、イブから二十七日にかけて運休する。デパートやスーパーは夕刻で閉店。医療機関は休診し、学校はクリスマス前から年末年始の休暇に入る。

 英国人にとって、クリスマスは家族そろってご馳走を囲み、一年の思ひ出を語り合ふ特別の日といはれる。家路を急ぎ、エリザベス女王のスピーチに耳を傾け、暮れゆく年を家族で共有する。キリスト降誕祭といふより一年の締めくくりと位置づけられてゐる。


▢ キリスト教以前

 十九世紀英国の文筆家チェインバーズの『The Book of Days』(邦訳『イギリス古事民俗誌』)は、キリスト教の祝祭日前夜は厳格には断食と懺悔の時とされてゐるのに、万霊節前夜(ハロウィーン)やクリスマス・イブは本来の目的をはづれて、どんちゃん騒ぎの夜になってゐると指摘してゐる。

 それでも、祖先がのべつ幕なしに飲んで騒いだのに比べれば、大人しいものだといふ。昔はといへば、若者は森へ出かけ、ヤドリギを採ってきた。開放された領主の屋敷に小作人や農奴らが押しかけて、無礼講になった。丸太がくべられた炉が燃え上がり、高座にはイノシシの頭。陽気な仮面隊が大声でキャロルを歌った。とてもキリスト教の祝祭とは思へない。

 それもそのはず、浮かれ騒ぎの由来はキリスト教以前、さらに古代ローマの支配以前にさかのぼる。習合の産物である。

 まづ古代ローマのサトゥルナリア。収穫祭と冬至の祭りを兼ねた農神祭である。「十二月二十五日」はローマの古い暦では冬至の日に当たる。日照時間が最短になり、力を弱めた太陽は、この日を境にふたたび生命力を恢復させていく。太陽神の誕生を祝ふ重要な祭日であり、一年の起点、元日だった。古代ローマでは主人と僕の関係が一時的に逆転して無礼講万々歳だったといふ。

 この祭りに、ドルイド僧(古代ケルト人が信仰してゐたドルイド教の祭司)の宗教儀式が混淆する。古代ドルイド教でもっとも神聖視されてゐたヤドリギの採取が冬至の祭りの日に行はれた。さらに古代サクソン族の神話をも吸収し、今日のクリスマスが形成された。

 英国人はキリスト教に改宗したあとも、従来の慣習を排除せず、守ってきた。教会も古いしきたりをあへて追放しなかった。民衆が固持する異教の儀式にキリスト教の儀式を接ぎ木して宣教する方が伝道効率がはるかに高いと考へてゐたからだとチェインバーズは解説するが、キリスト教会の関係者は異教との「融合」を認めようとしない。


▢ ケルト人の祭り

 古代ブリテン島に住むケルト人は、大晦日の晩に死霊が家々を訪ねてくる、と信じてゐた。その信仰は、同じく十九世紀英国の小説家ディケンズの名作『クリスマス・キャロル』に見え隠れする。主人公の老人スクルージは孤独な守銭奴。イブの晩、彼の家を訪ねてくるのは、天使でもサンタクロースでもなく、昔の仕事仲間の幽霊たちで、

「いまのうちに悔い改めないと、悲惨なことになる」

 と諭すのだった。

 書名はキリストの誕生やクリスマスの季節の到来を祝ふ歌の意味だが、英国には、教会で歌はれるだけでなく、子供たちが何人かで家々を訪ね歩き、戸口で歌ひ、もてなしを受けるといふ風習がいまもある。

 幽霊や子供たちが訪ねてくるといへば、米国のハロウィーンが思ひ起こされる。カトリックでは十一月一日が諸聖人を祝ふ「万聖節」で、その前夜祭がハロウィーン。これも元来、ケルト人の祭りで、秋の収穫を祝ひ、冬の訪れを前に悪霊を追ひ払ふ意味があった。ケルトの暦では十月末日が一年の終はり。大晦日の晩だから死霊がやって来る。悪霊から身を守るために仮面をかぶり、魔除けの焚き火をたいたのが今日の仮装行列の起源といふ。米国にはアイルランド系移民が持ち込んで盛んになり、「子供たちの大晦日」と呼ばれる。

 一年の節目の日に霊が訪れるといふ信仰は、日本と共通する。

 京都府相楽郡精華町の祝園神社(宮城利武宮司)や同郡山城町の和伎座天乃夫岐賣神社(通称、涌出宮、中谷勝彦宮司)に伝はる居籠祭は稲作の予祝行事で、かつては神霊を迎へるために氏子を挙げて斎籠もった。祭り期間中は音を忌み、鳴き声を発する牛馬は近隣の縁者に預けられた。門戸を閉ざし、入り口には筵をかけた。掃除をせず、下駄を用ゐることもなかったといふ。外出しないから当然、車馬など交通機関は止まった。

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