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韓国人の「国への帰属意識」に変化!? [韓国・朝鮮]

以下は旧「斎藤吉久のブログ」(平成19年4月21日土曜日)からの転載です

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 バージニア工科大学の銃乱射事件はアメリカに移民した「移民1.5世代」の孤独感を浮かび上がらせています。移民1世代でもなく、現地で生まれた第2世代でもなく、自我の確立がなされていない幼少期に移民した1.5世代は異なる言語や文化に適応できない困難にぶつかり、疎外感や孤独感にさいなまれ、異常な行動に走る場合が少なくないようです。

 韓国人の海外移民が目立つようになったのはベトナム戦争以後といわれます。韓国は1964年に参戦し、30万の軍隊が派遣されました。いま150万人を数える在米韓国人の大半はこの当時、韓国人に対する移民枠が拡大されたのを受けて、海を渡った人々でした。在外韓国人は兵役を延期することができ、二世以降は兵役を免除されましたから、明らかに兵役忌避の意味合いを持つ移民です。

 ふたたび移民が増えたのは盧武鉉政権成立以後です。ホームショッピングでカナダへの「移民商品」が売り出されたところ、2回の放送でじつに4000人が殺到し、商品を扱った企業は175億ウォンという「ホームショッピング史上最高の売上」を記録したことが韓国マスコミの話題となりました。

 申請者の7割は、「高卒以上」を唯一の条件とし、現地で2年間の語学・技術教育を受けたのちに移民資格が与えられる「技術教育移民」(2800万ウォン)に集中していました。年代別では30代が申請者の半数を占め、40代が3割を超えていました。働き盛りの韓国人がまるで家電製品を買うように、いとも簡単に祖国を離れようとしていました。

 いわゆる頭脳流出が危惧されるほど、韓国人が「韓国離れ」を募らせていたのは、景気低迷や政治的不安など先行き不透明感が理由だ、と韓国紙は分析していました。生活苦や事業の失敗を理由とする自殺者が激増し、住宅費や教育費の重い負担は30代の韓国人に

「脇目もふらずに働く自分が哀れに見える」

 と思わせ、40〜50代の専門職は「韓国を離れることばかり考えて」いたのです。高学歴の中流以上の階層が

「この国には未来がない」

 と見限り、さっさと母国を離れていったのです。

 その一方で、生まれてくる新生児に英語圏の国籍を取得させるため、アメリカやカナダ、ニュージーランドで出産する「海外遠征出産」も増えていました。属地主義をとるこれらの国では、現地で生まれた子供すべてに市民権が与えられるからです。海外出産のパック旅行をネット販売する旅行会社もありました。

「兵役や子供の将来が心配」
「韓国語より英語」
「幼稚園で英語を学ばせるより、誕生時に英語圏の国籍を」

 という発想から海外で出産する韓国人が庶民層にまで拡大したのです。不法移民が目に余るようになって、アメリカで検挙されるケースも増えました。

 韓国人学生の約45パーセントが

「二重国籍ならアメリカ国籍を選ぶ」

 と答えたというアンケート調査の結果が伝えられたことがあるほど、韓国人の「韓国離れ」は深刻ですが、それは「転職好き」に似ているという指摘もあります。

 韓国人のサラリーマンは一生の間に平均4.2回、職を変えるという調査もあります。高い給料やキャリアアップを理由に韓国人はいとも簡単に転職するというのです。自分が勤める企業への忠誠心の低さはそのまま国家への帰属意識の希薄さに結びついているという指摘です。

 しかしここへ来て、少し風向きが変わってきたようにも見えます。金大中、盧武鉉と続く「親北」左派政権支配は社会秩序の崩壊を生み、頭脳流出を招き、韓国人の国への帰属意識をさらに輪をかけて希薄にしてきたことに対する反発と反省がようやく生まれてきたと伝えられるからです。

 ほとんどマスコミには取り上げられませんが、ソウルでは毎週のように反盧武鉉デモがあり、ときには数十万人規模に膨れ上がるのだそうです。親北的な民族主義ではなく、自由主義的な国民意識を、とくに注目すべきことには国の中枢にいる韓国人たちが、行動で示すようになったのです。

タグ:韓国・朝鮮
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朝鮮語抹殺政策と漢字抹殺政策 [韓国・朝鮮]

以下は旧「斎藤吉久のブログ」(平成19年3月14日水曜日)からの転載です

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朝鮮語抹殺政策と漢字抹殺政策
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 朝鮮日報が韓国の国語学者・李煕昇氏の自叙伝を紹介しています。
http://japanese.donga.com/srv/service.php3?biid=2007031402688

 李煕昇氏は日本による朝鮮語抹殺政策のシンボルといわれる1942年の朝鮮語学会事件の渦中の人です。

 昭和13年の第三次朝鮮教育令によって朝鮮半島ではそれまでとは異なり、内地人と朝鮮人が机を並べて勉強できるようになりました。一方で、朝鮮語が「必修」から「随意科目」となりましたが、とくに日本人校長の学校では朝鮮語の授業が続いていたといわれます。

 朝鮮総督府の機関紙「毎日申報」は漢字ハングル混じりで終戦まで発行されていたし、ラジオの第二放送は朝鮮語が用いられていました。朝鮮総督府が編纂した朝鮮語辞典もあります。最近では、在朝鮮日本人に対する朝鮮語奨励政策までが実施されていたことが知られています。これが今日、韓国で「日帝の国語抹殺政策」といわれる実態でした。

 朝鮮語の辞典を共同編纂したために逮捕された、といわれるのが朝鮮語学会事件ですが、朝鮮語の禁止が事実でないのですから、辞典編纂を理由とした検挙・投獄はあり得ません。

 日本には江戸以後、百数十冊以上の国語辞書(節用集)が確認されていますが、もともと朝鮮には朝鮮語辞典がありませんでした。漢字辞典と漢字の文書があればいいという発想だったからです。

 ある歴史事典は、事件について、こう説明しています。

「女子高生の日記に『日本語を使い処罰された』とあったのに端を発して、教員が検挙され、学会にまで弾圧がおよび、言語学者が裁判に付され、拷問のため獄死した。朝鮮語の使用か禁止される状況で、苛酷な弾圧を受けた」

 しかし、韓国研究院発行の雑誌「韓」は昭和52年にこの事件を特集し、判決文(予審終結決定書)を載せていますが、そこには、主犯格の被告について、高麗共産党や民族宗教団体との関連、ベルギーの世界弱小民族大会に朝鮮代表して出席し、朝鮮独立要求の議案を提出していたことなどが記されています。

 拷問の末の「自白」がどこまで事実を反映しているのか不明ですが、同被告は戦後、北朝鮮の要人となっています。

 一方、同じ雑誌に掲載されている李煕昇(梨花女子専門学校教授)氏の回想はじつに興味深いものです。

 ──事件発端の日記の記述はいたずら書きに過ぎず、刑事仲間の間には立件の断念を勧める者もいたが、朝鮮人の刑事が事件にもっとも熱心に取り組み、もっとも苛酷な拷問を容疑者に加えた。

 ほかならぬ朝鮮人が無実かも知れない同朋を攻め立てている構図は背筋の寒くなる思いがしますが、いまやそれが日帝批判に姿を変えています。

 今度の李煕昇氏の自叙伝は事件をどのように描いているのでしょうか。東亜日報の書評は、

「事件で同志たちが死んでいったことは個人の苦難であり、韓国文化にとっての試練だった」

 とじつに大仰に訴えています。

 しかし朝鮮語学会が起きたのは、朝鮮人が朝鮮の言語文化を大切にしてきたからではなく、その逆の現実があったからでしょう。そして、同様の誤りを韓国人は戦後も繰り返しています。

 それが漢字の抹殺です。ハングルの価値を称えるあまり、二千年近くに及ぶはずの漢字文化を韓国人は自分から捨ててしまいました。その結果、いまや韓国人大学生の5人に1人は自分の名前を漢字で書けないのです。

 朝鮮日報の社説がそのことを嘆いています。
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2007/03/14/20070314000014.html
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泣かない子供にお乳はやらない [韓国・朝鮮]

以下は旧「斎藤吉久のブログ」(平成19年1月30日火曜日)からの転載です

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 韓国文化にくわしい友人が教えてくれた韓国のことわざです。泣けばお乳をあげるけど、泣いてもいないのに、お乳をほしがっているんじゃないか、と思いやってお乳をあげる、という発想は、韓国人にはない、というのです。

 自分中心にやりたい放題、言いたい放題で、買い物に行けば、同じ韓国人同士でも、相手が外国人ならなおのこと、市場の店員は高い値段をふっかける。文句があるなら、いえばいいじゃないか、黙っているのは負けを認めたのと同じことだ──韓国人にはそういう発想があるといいます。

 面白いことには、最近、そのような考えを思い直す姿勢が韓国人の中に少し見られるようです。「韓国は住みにくい」と声を上げる外国人がかなりいることが韓国人に知られるようになってきたからです。

 韓国メディアによると、韓国消費者保護院が先日、発表した報告書には、韓国で生活する外国人のじつに4割が「不満足」と答えたといいます。

「意思の疎通がむずかしい」

「外国人への配慮が足りない」

 などが理由で、スーパーなどの試食コーナーで試食した外国人をつかまえて

「試食したら買え。そのまま行くのか」

 と怒り出す店員もいることなどが伝えられています。

 このような調査がおこなわれ、メディアが報道するのは、言いたい放題・やりたい放題の国民性に変化が見られると解釈すべきなのでしょうか。友人は、そうではない、と答えます。外国人から批判されて、体面を気にしているのだ、というのです。

 儒教文化にどっぷりと浸かった韓国人は表向きの体裁や形式を重んじる。体面を失って、態度を変えざるを得なくなった、と友人は見るのです。体面を気にしなくていい局面では、自己中心的なやりたい放題がつづきます。

 その韓国人がいま言いたい放題・やりたい放題なのは、竹島問題でしょう。たとえば韓国のメディアは、先日の冬季アジア大会入場式で南北合同行進がおこなわれ、団旗の統一旗には独島(竹島)が「鮮明」に描かれていた、と誇らしげに伝えています。

 南北に約1100キロある朝鮮半島をかりに縦110センチに縮小して描けば、南北1キロの竹島は1ミリにしかなりません。それでも「鮮明」といえるのかどうか。

 日本人の場合、そんなバカバカしい話を聞けば、あっけにとられて、言葉を失い、話題にするのもはばかれますが、友人の指摘によれば、韓国人相手の場合は、黙っていては交渉が成立しないことになります。声を上げないといけないのです。

 いちばん良くないのは「日本人の無関心」だと指摘するのは、韓国・朝鮮問題が専門の元大学教授です。

 たえず中国やロシアの脅威にさらされてきた半島国家は、国際政治の荒波を、権謀術数を弄して必死に泳ごうとします。しかし、穏和な海に守られてきた日本人はそのしたたかさが理解できず、まんまと乗せられます。韓国が「侵略」「植民地支配」を持ち出すと、日本人は十分な歴史検証もせずに、

「日本がひどいことをした」

 と情緒的に反応し、国益を顧みないのです。

「明治の先人たちが朝鮮を重視するようになったのは、ロシアの南下で安全保障上、重要になってからだ。日本の安全が脅かされる事態にでもならないと日本人は関心を持とうとしない」

 つまり、日韓関係がうまくいかないのは、無関心で、話題にもしない日本人の方に問題があることになります。韓国人に言いたい放題、やりたい放題をさせているのは、韓国人ではなく、日本人だということです。

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スポーツに政治を持ち込んだ韓国と北朝鮮 [韓国・朝鮮]

以下は旧「斎藤吉久のブログ」(平成18年12月3日日曜日)からの転載です

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スポーツに政治を持ち込んだ韓国と北朝鮮
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 アジア大会の開会式で、韓国と北朝鮮の選手団は「Korea」の名のもと、「統一旗」を先頭に、合同で入場しました。北朝鮮が核実験を強行し、国際的に孤立を深めるなか、合同行進は南北宥和をあらためて印象づけたと伝えられています。

 政治とスポーツは別であり、スポーツの交流を通じて平和の礎を築いていくことは大きな意味がありますが、今回の合同行進は新たな政治を持ち込む悪しき前例を作ってしまったのではないでしょうか。

 ほかでもありません。今回の「統一旗」には「独島がはっきりと描かれ」(朝鮮日報)ていたからです。
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2006/12/02/20061202000020.html

 朝鮮日報は、アメリカ、イギリス、フランスの通信社が、独島が描かれた統一旗をかかげて合同入場する瞬間を全世界に発信した、と興奮気味に伝えています。

 6年前、金大中・金正日会談の直後に開かれたシドニー・オリンピックではじめて使用されたのが統一旗ですが、今回の合同行進はほとんど幻想に近い南北宥和を政治的に演出し、一方で、日韓・日朝の政治的対立を世界的にアピールする政治ショーとなったのではありませんか。

 日本の新聞は「核実験危機を超えて」とまるで美談であるかのように伝えていますが、まったく間違っているでしょう。南北統一が民族の悲願であることはむろん理解できますが、これは平和の追求を目的としない、二重の意味でのスポーツの政治利用です。

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「日帝支配のシンボル」朝鮮神宮本殿を飾った「朝鮮産麻布」──「日韓融和」への見果てぬ夢 [韓国・朝鮮]

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「日帝支配のシンボル」朝鮮神宮本殿を飾った「朝鮮産麻布」
──「日韓融和」への見果てぬ夢
(「日本」平成13年11月号)
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■知られざる内務省技師「井上清」

 明治から大正・昭和にかけて、内地および海外の神社の造営・調度・神宝調進に深く関わり、民族宗教の伝統を復活させただけでなく、海外の文化を学んで、新しい日本の美を追求した、ひとりの知られざる人物がいます。内務省造神宮使庁技師、明治神宮造営局技師、宮内省嘱託などを歴任した井上清という人です。

 明治7年に生まれ、同31年に東京美術学校(現東京芸術大学)図案課を卒業した第一期生で、非常に敬虔な学究肌の人でした。全国の古社・名社の御造営に関与するに当たっては、実測調査を綿密・克明に実施し、古記録・古図などを照合し、往古からの形式を次々に復元した、と伝えられています。

 日本の民族信仰の本質と直結する殿内調度の設計や文様図案作製に関する、井上氏の人並みはずれた尽力がなければ、盛儀をきわめた昭和4年の伊勢神宮の御遷宮は完遂されなかっただろうといわれ、そればかりではなく、昭和14年に亡くなったのちも、神宮の御神宝調進は井上氏の業績がそのまま踏襲されているそうです。

 それほどの人物でありながら、井上氏の名前は今日、ほとんど完全に忘れられているようです。歴史に埋もれてしまったのです。神社関係の人名辞典にすら、名前を見いだすことはできません。ボクが井上氏の名前を知ったのは、ある学究的な若い神社関係者によってでした。

 その友人が教えてくれたことですが、井上氏が手がけた代表的な仕事のひとつに、大正時代に創建された官幣大社・朝鮮神宮の御料・御調度があります。なかでも注目されるのは、神秘中の神秘である本殿の御壁代(おんかべしろ)に、たいへん珍しいことに、朝鮮苧麻(ちょうせんちょま)が使用されていたという点です。


■朝鮮を代表する織物「苧麻」

 井上氏の名前と功績を知る人が皆無に近いなかで、今日、その人柄の断片を語れるほとんど唯一の人がいると、友人に紹介されて、ある人物を訪ねました。大学講師などを務める、有職故実(ゆうそくこじつ)にとりわけ詳しい方で、父君というのが、井上氏の無二の親友であったとのことでした。
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「父は美術学校の後輩で、20歳も離れていたが、二人は意気投合し、父は何かにつけて『井上さん、井上さん』といっていました」

 いかにも温厚そうなその方が、懐かしそうに語られるのですが、ご自身は井上氏についての記憶はありません。井上氏が亡くなったのが60年前、この方が幼少のころですから、無理もありません。

 井上氏が残した貴重な資料に、「朝鮮神宮御料御調度裂鑑(きれかがみ)」という裂帳があることが分かりました。

「御鏡入帷 白唐織(唐綾)小華紋 御剣袋 紅地唐織唐花紋錦(紅地唐花紋唐錦)」から始まって、天照大神と明治天皇が鎮まる朝鮮神宮の本殿に使用された数十項目の御料・御調度について、織りや色、文様の名称とともに、優美にして高雅な見本がちょうどアルバムのようにつづらています。

 きちんと整理された裂帳からは井上氏の几帳面な人柄が伝わってくるようですが、そのなかで否が応でも目を引くのは「御壁代 朝鮮産麻布」です。何といっても「朝鮮」の二文字が好奇心をそそります。

 一般に壁代というのは、神様が鎮まる本殿の内側の壁すべてを、カーテンのように覆いめぐらす布です。神聖な場所であることを表す目的から懸けられ、ふつうは清浄を示すために純白の平絹などを縦に縫い合わせて用いるのだそうですが、朝鮮神宮の場合は絹ではなく、わざわざ朝鮮産の麻布が使用されたということです。

「裂鑑」には「朝鮮産麻布」とありますが、正確には「朝鮮苧麻」だそうです。苧麻は、百科事典などによると、イラクサ科多年草の茎の皮の繊維でつくった朝鮮を代表する織物、と説明されています。

 別の友人に、韓国の著名企業にしばらく勤務したこともある韓国通のイベント・プロデューサーがいます。その友人が「うちのお母さん」と心から親しんで呼ぶ韓国宮廷料理研究の第一人者は、夏場はきまって苧麻のチマチョゴリを着るそうです。

「色は白で、日本の絽や紗のように、いかにも涼しげな、清楚な感じがする。年月がたつと少しクリーム色に変わって、それがまた優雅な印象を与える。手織りだから、いまは高級品で、最高のおしゃれ着です」

 その苧麻がなぜ、朝鮮神宮の本殿壁代に用いられることになったのでしょう。あくまで見本帖である「裂鑑」には、当然ながら何の説明もありません。

 手がかりになりそうな井上氏の論考や記録はないだろうかと、図書館などでだいぶ探し回りましたが、見当たりません。戦災で資料が失われたということもあるそうですが、美術的価値に優れた膨大な業績とは裏腹に、井上氏は自分の名前を冠した文章をほとんど残さなかったようです。人一倍崇敬心の厚い人だっただけに、凡夫たる人間の名を後世に残すことをはばかったのかも知れません。


■「朝鮮全土の総鎮守」に使用した理由

 なぜ朝鮮神宮の壁代に苧麻が用いられたのか──この大学講師に素朴な疑問をぶつけてみました。すると、こんな答えが返ってきました。
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「海外神社の殿内調度に土地の織物を使うというようなことはあまり聞いたことがありませんね。台湾神宮などはどうだったのでしょうか。
 ただ、絹が最高の織物と考えられがちですが、優れた麻は絹に代わって使うだけの十分な価値があることは確かです。装束の世界でも、少しでも神に近づき、神代の時代に近づくために、より古い時代の織物として麻を用いることはよくあります。
 土地柄を考えて、もっとも相応しい材質として選択されたのではないですか」

 絹か麻か、ということについては、井上氏自身が、わずかに残された講演録のなかで、こう語っています。

「御社殿の装飾はただただ有職故実にかなっていても、形・色・模様がよろしきを得なければ、御社殿の荘厳なる品格を保つことはできない。ただただ調和を得た御社殿の荘厳味によって神々しさを感じ、御神徳に打たれるという次第です。御社殿の装飾は必ずしも使用する材料が上等でなければならないというのでなく、充分故実をただした上に、色とか文様とか形質の調和をはかることがいちばん大切です。たとえば御壁代でも、白であれば、絹でなくとも麻でよいという風であります」(「神社有職」)

 ふつうなら絹を用いるところを、絹ではなく麻を、とくに「朝鮮産麻布」を使用するだけの意味合いを、設計者はやはり考えていたということになります。

 それなら、絹に代わるものとして麻を用いたとしても、なぜ朝鮮伝統の苧麻を、朝鮮神宮の、拝殿その他ではなく、神秘中の神秘である本殿に、とくにほかならぬ御壁代に、使用することになったのか、その狙いはどこにあったのでしょうか。

 朝鮮半島ゆかりの祭神をまつる村の鎮守ならまだしもです。しかし朝鮮神宮はそうではなく、朝鮮全土の総鎮守であり、朝鮮半島唯一の官幣大社、勅祭社です。祀られる祭神は天照大神と明治天皇の二柱です。基本的に伝統重視の井上氏が手がけた仕事だとすれば、よくよく考えた末のことであり、祭祀の本質と関わる本殿内部のことであれば、それ相当の意味というものがあったに違いありません。


■朝鮮神宮創建の目的

 そもそも朝鮮神宮というのは、なぜ創建されたのでしょうか。

 今年(平成13年)、日本と周辺諸国とりわけ韓国との間で歴史教科書問題が沸騰しました。「歴史の歪曲」「隠蔽」という厳しい批判をぶつけてきた韓国政府は、「日帝」による「植民地支配」は「搾取」「侵略」であるという公式的な歴史理解をもっています。

 現代の韓国人にとって、日本統治時代は完全否定すべき忌まわしい歴史と映るようです。韓国の中学用国定歴史教科書には、「日帝はわれわれの物的・人的資源を略奪する一方、わが民族と民族文化を抹殺する政策を実施した」と有無をいわせない記述がされています。

 朝鮮神宮こそは、まさにそうした「力ずくの支配」のシンボルと考えられているわけですが、もともと異民族に対する「支配の道具」として建設されたのかといえば、そうではありません。むしろ逆でした。

 少し近代史をさかのぼってみましょう。意外に知られていないことですが、朝鮮神宮の創立は神社関係者の組織的働きかけに始まります。しかし、神社関係者が海外に目を向けるようになるのはかなりのちのことであり、仏教やキリスト教に比べると、海外への関心はむしろ低かったようです。
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 そのことは国学者としても知られる、石川県・気多神社の佐伯有義宮司の雑誌論文に端的に現れています。

 日露戦争のさなか、奉天占領の直後、明治38年4月に発行された、神社界の広報誌「全国神職会報」に、佐伯氏は論考を寄せ、こう嘆いています。

「居留民が増加し、韓国・満州には日本町が出現しているのに、氏神の神社さえない。拠り所としての神社が必要だ。神社建設はまた『皇化』『同化』の一方法として効果が期待できるが、誰一人これを唱え、実行する人がいない。浄土真宗やキリスト教は海外布教に熱心だが、神道人は退嬰的で、内地でだけあくせくし、海外に目を向けない。海外の同胞をことごとく仏教やキリスト教に改宗させたいのか」(「海外に於ける神社の新設」)

 明治後期になっても、神社が「大陸侵略」の先兵となるような状況ではまるでなかったことが分かります。

 九州地方の神社人などが主導的役割を担って、「韓国の神社」創建に動き出すのは、そのあとのことでした。

 記録によれば、明治39年、朝鮮半島に地理的に近い九州各県と山口県の神職約百名が集まり、関西(かんぜい)神職連合会が結成されます。会議では「韓国に神社を建設し、日本国民的教化の基礎を確立せられんことを韓国統監府に建白し、なおその成功を期すること」が議案の柱となり、可決されました。

 このとき九州日報社長の福本誠(福本日南)氏は、イギリスの歴史家シーレーの『英国拡大論』を引き、植民には自由を尊ぶギリシャ流と国家の力で属国化するローマ流があるが、後者は一時的に大植民地を築いても、いずれは植民地の衰亡と離反を招き、失敗する。属国化ではなく、母国と子国とを一体化させる前者が繁栄の道であり、それが「惟神の大道」にほかならない。日韓は兄弟国であり、韓国に神社が奉斎されることは喜びの極みである──と講演しています。

 当時の神社関係者にとって、韓国での神社創建は、「搾取」「侵略」とはまるで逆の目的があったのです。

 ともかくも神社関係者の組織的活動がこうして始まります。伊藤博文・初代韓国統監に直接、働きかけもおこなわれましたが、主張された目的はやはり「日韓融和」でした。西高辻信稚・太宰府神社宮司、木庭保久・筥崎宮宮司とともに、関西神職連合会の代表として伊藤統監に面会した筥崎宮禰宜の葦津耕次郎氏は次のように語っているくらいです。

「陛下の思召しである日韓両民族の融合親和のため、命がけで働いていただきたい。そのため朝鮮二千万民族のあらゆる祖神を合祀する神社を建立し、あなたが祭主となって敬神崇祖の大道を教えられねばならない。これが明治大帝の大御心である」(『葦津耕次郎追想録』)

 耕次郎氏は、戦後唯一の神道思想家といわれる葦津珍彦氏の実父です。(葦津珍彦氏は生涯、朝鮮・韓国に深い関心を抱いた人で、先の大戦末期には朝鮮独立運動家・呂運亨とも交わり、朝鮮独立を支援しました。その関わりについては、雑誌「正論」平成11年4月号に掲載された「朝鮮を愛した神道思想家の知られざる軌跡」をお読みください。このWebサイトにも転載されています。http://www13.u-page.so-net.ne.jp/xj8/saitohsy/chousen-dokuritsu1.html


■祭神論争に駆り立てられた神道人の思い

 大正8年7月に官幣大社・朝鮮神宮の創立が仰出され、京城・南山の御用地20万坪、境内地7000坪に、総工費150万円、6年の歳月をかけて建設工事が進められた朝鮮神宮が竣成するのは、大正14年10月のことでした。

 いわゆる御祭神論争が沸騰するのは、この年の春からです。

 近代神道史を少しでもかじったことのある人たちには常識ですが、日本政府が天照大神と明治天皇の二柱を御祭神と決定していたのに対して、今泉定介、葦津耕次郎、賀茂百樹、肥田景之氏ら神社関係者が朝鮮民族の祖神を祀るべきだと強く主張し、両者間に激論が交わされました。神社関係者を強硬な反対行動に駆り立てたのは、日韓融和への熱い思いでした。

 けれども、神社関係者の要求は通りませんでした。とすれば、「明治大帝の思召し」として願われた日韓融和は、日本政府の強権によって押し切られ、潰え去ったということでしょうか。神道人の願いとは相反し、日本政府による朝鮮神宮創建の目的は、あくまで「力ずくの朝鮮支配」だったということでしょうか。

 しかし、そうだとすれば、「朝鮮産麻布」が本殿御壁代に用いられたということの説明がつきません。朝鮮神宮創建は国家事業であり、現場の技師たちが勝手な判断で苧麻を用いることはできません。したがって苧麻の使用は日本政府も認めていたことになります。もし「支配の道具」としての朝鮮神宮創建なら、本殿の装飾に「朝鮮産麻布」をわざわざ使うでしょうか。

 その後、戦時体制が強化されていく時代の推移を考えると、そのことはもっとはっきりします。神社建築の権威で、戦中・戦後にかけて、内務省技師、日本建築工芸社長、伊勢神宮造営局長を務めた角南隆(すなみ・たかし)氏は、こう回想しています。

「総督政策や軍部の盛んなころは、どの土地にあっても、神社はすべて純粋な日本神社建築でなければならないとされた。材料は檜材で、屋根は檜皮葺、神明造という注文が最初からつけられ、すべてにおいて日本風であることが強要された。
 支配者の立場からすれば、絶対服従の方針は簡単だが、支配される側からすれば、敵愾心を起こさせおそれがある。しかしそれをいえば、関係者から『君の意見は朝鮮独立を慫慂(しょうよう)している』と反対された」(「海外神社建築の総合的批判」=小笠原省三編『海外神社史』上巻)

 朝鮮神宮の創建が帝国議会で議論されていた大正8年といえば、朝鮮では三・一独立運動が起こり、大韓民国臨時政府が上海に樹立されたころです。

 日本の為政者たちに、抵抗を弾圧し、「支配」を強化する道具としての神社創建という発想があったとすれば、たとい境内の片隅や拝殿であっても、「朝鮮産麻布」使用を計画することは、「朝鮮人への迎合」「朝鮮独立の慫慂」と批判されたはずで、むろん内務省が容認するはずもありません。

 しかし実際は、祭祀の根元である朝鮮神宮本殿に苧麻が使用されたのです。

 苧麻の使用を認めていたのは、内務省だけではありません。昭和2年に朝鮮総督府が刊行した『朝鮮神宮造営誌』には、「正殿御壁代、同御土代および各辛櫃荷緒用麻布にはとくに忠清南道産を使用せり」と明記されています。朝鮮総督府も苧麻の使用を公認していたのです。

 これらの事実は、「日帝支配」を「搾取」「侵略」とし、その道具として各地に神社が建てられたとする、韓国国定教科書的な歴史理解の変更を迫っているのではありませんか。

 朝鮮産麻布に飾られた朝鮮神宮本殿の壁代は、かつて日韓の融和を心から願い、真摯に祈り、本気で追求した先人がいたことの証だとボクは思います。「歴史」をめぐって日韓が揺れているいま、ボクたちはそうした先人たちにあらためて思いを馳せるべきではないでしょうか。歴史を見誤っているのは誰なのでしょうか。


追伸 この記事は雑誌「日本」平成13年11月号(日本学協会)に掲載された拙文を大幅に編集したものです。

 画像は大正15年に朝鮮神宮社務所から発行された『朝鮮神宮写真帳』から転載させていただきました。

 執筆に当たっては、日本学術会議特別研究員・菅浩二氏の研究を参照したほか、多くの方々のご協力と助言を賜りました。この場をお借りして、あつくお礼を申し上げます。

東アジアは「日清戦争前夜」──大国の狭間で揺れる金大中政権 [韓国・朝鮮]

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東アジアは「日清戦争前夜」──大国の狭間で揺れる金大中政権
(「神社新報」平成13年8月13日)
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歴史教科書問題を発端としてきしみ始めた日本と近隣諸国とりわけ韓国との関係は、いよいよ抜き差しならない状況に陥ったかに見える。
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先月、訪韓した日本の与党三幹事長は韓国外相から罵倒に近い対応を受け、金大中大統領からは門前払い。数年来の日本大衆文化の開放などは中断され、韓国国会特別委員会は「日本糾弾」を満場一致で決議した。

韓国政府は問題を国連機関に提起する一方で、靖国神社に合祀されている「韓国人位牌」の返還を日本政府に要求し、北方四島周辺水域では韓国漁船によるサンマ漁が日本政府の再三にわたる抗議を無視して始まった。

そのうえ広がるばかりの日韓米の亀裂を尻目に、中露朝同盟は急速に強化されつつある。二進も三進もいかない東アジア情勢。ある著名な韓国人ジャーナリストは「日清戦争前夜」と呼ぶ。


▽レームダックの金大中大統領
▽「反日」先祖返りは「諸刃の刃」

この半年、韓国マスコミをにぎはせている二つの話題がある。

一つはいわずもがな歴史教科書問題。もう一つは金大中政権による「マスコミ弾圧」である。両者は相互に関連している。エスカレートする教科書批判の背後には、政権末期の金大中大統領と野党・マスコミとの暗闘があるといわれる。

韓国国税庁が新聞・テレビの税務調査に乗り出したのは今年2月。野党は「言論弾圧」と息巻いた。

万年野党のリーダーで、マスコミの力を借りて政権を握ったはずの金大中氏が、「言論改革」を名目に、攻守ところを異にして、強権を発動したのは歴史の皮肉というべきか、その背景には目を覆うばかりの支持率低下があると専門家は見ている。

昨年6月の南北首脳会談の直後は、大統領の支持率は7割を超えていたのに、ノーベル賞受賞後はかえって低下し、最近は2割前後を低迷していると伝えられている。

金大中大統領は、いまや「北への一方的譲歩」という厳しい批判に甘んじている。離散家族の再会も軍事的緊張緩和もほとんど進展していない。北朝鮮の金正日総書記のソウル訪問も先送りされるばかり。アメリカのブッシュ政権は「太陽政策」をまったく評価していない。経済政策も完全に破綻した。

金大中氏の任期は再来年2003年2月で切れるが、ある著名な韓国人ジャーナリストによると、「大統領はいまや完全なレームダック」。来年6月には地方選挙を控え、12月には大統領選挙がある。与野党ともすでに選挙モードに入っている。政策が行き詰まった大統領は焦りに焦る。その焦りが大統領を豹変させてしまったのである。

金大中政権を攻め立てる韓国の野党・マスコミにとって「教科書問題」は格好の材料で、「大統領の対日政策は弱腰」と批判を強める。韓国ではつねに「反日」が政争の具に使われてきたが、今回は日本の次代を担ふ子供たちの教育が、とばっちりを受け、利用されているのである。

対日関係重視の「新外交」を推進する金大中氏は当初、教科書問題を穏便におさめる心づもりであったといわれる。
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今回の教科書摩擦の引き金となった「新しい歴史教科書をつくる会」主導の教科書は文部科学省の検定によって137カ所の修正を受け、「ごくふつうの教科書」になっている。批判を浴びた「韓国併合は合法的」などとする記述は削除された。

日本側の「努力」を認め、矛をおさめる余地は十分にあった。ところが、野党・マスコミの対日強硬論に引きずられ、「落ち目」の金大中政権は「反日」に踏み切らざるを得なくなった。歴代政権と同様、安易な「反日」外交に先祖帰りしてしまったのは支持率回復、政権延命が目的とみられる。

そんななか7月中旬、韓国国会の「日本の歴史教科書歪曲是正のための特別委員会」は全体会議を開き、「歪曲是正促進」を満場一致で決議した。決議には、「天皇」の呼称を「日王」に変更する、日本の国連安保理常任理事会入りを阻止する、1998年(平成10)の「日韓パートナーシップ共同宣言」を破棄する──などが含まれていると伝えられる。

韓国政府、国会、マスコミを挙げての政治的な「反日」大合唱というほかはないが、韓国専門家はこのキャンペーンを金大中氏自身の首を絞める「諸刃の刃」とみる。


▽北方四島周辺でのサンマ漁開始
▽南北対話を期待し露にすり寄る

他方、8月1日、韓国漁船26隻によるサンマ漁が北方四島周辺海域で始まった。

「日本固有の領土」である北方四島周辺の排他的経済水域には当然、日本の主権がおよぶ。しかし、漁獲高1.5万トンが割り当てられた今回の操業は、「実効支配」するロシア政府の「許可」に基づいている。蚊帳の外に置かれた日本政府は韓国、ロシア両政府に何度も「中止」を申し入れたが、はねのけられた。

韓国側は、この水域でのサンマ漁は民間契約によってすでに過去2年間の実績がある、と主張する。一昨年の漁獲量は1.3万トン、昨年は1.4万トンで、この数字は韓国遠洋サンマ漁の6割以上に当たるという。

また「領土問題」に関しては、「純粋な漁業問題であり、領有権問題とは無関係」「紛争水域での操業は実効支配している国から許可を受けるのが国際慣行」「日本もロシアの実効支配を認め、漁業料(日本は『水産資源保全協力金』と呼ぶ)を支払っている」と一歩も譲らない。

けれども、同じ水域で民間契約による過去の漁業実績があるとしても、なぜ今年は政府間交渉による操業に切り替えたのか。ただでさえ教科書問題で日韓関係が険悪化しているいま、日本がきわめて困難な領土問題を抱える水域で、もっぱらロシア政府との交渉による操業になぜ転換しなければならなかったのか。日本側の神経を逆なでする結果になることは、火を見るよりも明らかなはずである。

ある韓国人ジャーナリストは、金大中政権の業績といえば南北首脳会談しかない。南北対話進展のため、何としてでも金正日氏のソウル訪問を実現させたい一心の金大中氏は、ロシア政府の支援を期待してすり寄っている──と解説する。

ここでは韓国唯一のノーベル平和賞受賞者の名誉がかえって重い足枷になっている。悲願の南北統一を優先課題とするあまり、日韓の亀裂は深まるばかりである。
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けれども逆に、北朝鮮にとっては思う壺。訪韓のカードをちらつかせながら、対韓交渉上、優位に立つ金正日氏は、あざ笑うかのように、目下、特別列車による1カ月にわたるロシア訪問の旅を悠然と続けている。

金正日氏は2月には中国を訪問している。中国の江沢民主席は7月にロシアを訪問し、軍事協力を柱とする善隣友好協力条約を21年ぶりに締結した。江沢民氏は9月には平壌を訪問し、中朝協力体制の強化が図られると伝えられる。

中露朝3国の協力関係は急速に進展しつつあるが、きっかけを作ったのはアメリカの軍事政策である。

中露朝は、「ローグ(ならず者)国家」を標的とするアメリカのNMD(本土ミサイル防衛)構想に反対している。一方でブッシュ政権はABM(弾道弾迎撃ミサイル)制限条約廃棄を推進し、ロシアはこれを墨守しようとしているのだが、金大中氏は同盟国アメリカの構想を理解したのかどうか、プーチン大統領の前でABM制限条約評価を表明した。

ロシア寄りの姿勢がアメリカの怒りを買っていることはいふまでもない。笑いが止まらないのは中国、ロシア、北朝鮮である。

金大中氏は対北朝鮮、対米、対日政策で失敗した。韓国は大国のパワーゲームのいはば草刈り場と化している。「反日」の激情にまかせて、国家の方向性を見失い、大国のはざまで右往左往している様は、まさに「日清戦争前夜」と評されても仕方がない。


▽政治的キャンペーンに踊らない
▽冷静な韓国民衆にかすかな希望

「一時代前なら、こんなとき舞台裏で動く大物政治家がいたが、世代交代でいまはいない」という嘆きも聞かれる。韓国の指導層は「反日」教育をたたき込まれた「ハングル世代」で占められている。出口の見えない日韓関係にかすかな希望を見いだすとすれば、民衆の意外な冷静さにある。

教科書問題に関する韓国マスコミの批判はきびしい。なかでも標的の一つとなっているのは「日本の極右勢力の代弁者」とされる産経新聞で、ソウル市内で配られたビラには「抗議先」としてソウル支局の電話・FAX番号が記されている。とすれば、同支局に抗議や脅迫が殺到していると思いきや、実際には「意外にも静か」だという。

マスコミ主導の仮想現実的キャンペーンのゆえか、それとも韓国社会の質的変化なのか、同紙ソウル支局長は自問するのだが、すでにこの連載で紹介したように、教科書問題が沸騰し始めた今年の2、3月、ソウルの街はどこへ行っても日本の尾崎豊の曲「アイ・ラブ・ユー」が流れ、ヒットチャートのトップを独走していた。

韓国民衆は明らかに、政治的プロパガンダとは別の世界に生きている。

そして最近では、「反日」一辺倒の韓国政府・マスコミに対する批判が一般国民のなかから昂然と現れてきた。
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韓国の報道によると、ソウル観光のメッカ・明洞(ミョンドン)や南大門市場などでは、例年なら日本人観光客でごった返すこの夏、「お得意さん」が激減し、閑古鳥が鳴いている。ホテルや旅行会社は、相次ぐ団体客や修学旅行の予約取り消しに悲鳴を上げ、「外交問題と民間交流は分けて考えるべきだ」と抗議している。

夏休みに来日を予定していた学生たちも不満を募らせる。韓国人ジャーナリストによると、「こういうときこそ交流が必要なはずだ」と、学生たちは人的交流を中断させた政府を強く批判する。若い世代の方がはるかに冷静といえる。

一般国民の声に押されてか、「対日報復」の一環として「セマウル号」などでの日本語の車内放送を中止した韓国鉄道庁は、舌の根も乾かないうちにこれを撤回した。今月初旬には韓国政府は、「日韓の人的交流が継続して推進されるべきだ」という見解を表明し、日本外務省は直ちに反応して「歓迎」の談話を発表している。

「これでは日韓共同開催のワールドカップの成功はおぼつかない」と危惧された険悪な日韓関係に明るい兆しが見えてきた。


追伸 この記事は「神社新報」平成13年8月13日号に掲載された拙文「東アジアは『日清戦争前夜』──大国の狭間で揺れる金大中政権」に若干の修正を加えたものです。

掲載時から1カ月余り、しかしアメリカでの同時多発テロという大事件の発生は、東アジアを含めて、世界の情勢を一変させてしまい、この記事も何だか、ずいぶん古臭くなってしまったようにも見えます。けれども、今回の歴史教科書問題に端を発した日韓の対立構造は悲しいほどに何も変わっていません。早晩、ぶり返すことになるのではないかと心配しています。


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日韓歴史認識の埋め難き溝──韓国「反日」教科書の凄まじさ [韓国・朝鮮]

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日韓歴史認識の埋め難き溝──韓国「反日」教科書の凄まじさ
(「神社新報」平成13年4月16日)
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検定中で内容が公開されていないはずの日本の中学歴史教科書をめぐって、年明けから日本と韓国・中国との間に波紋が生じている。
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韓国最大の新聞・朝鮮日報などは、

「日本政府が『韓国併合は合法的』などという内容の『歴史歪曲教科書』を承認しようとしているにもかかわらず、韓国政府の対応は生ぬるい。……日本政府がこのような歴史教科書の検定を不可として処理するまで、全国民的反対運動を繰り広げるべきだ」(2月下旬の社説)

と、ものすごい剣幕だ。

韓国政府は3月、事実上の特使として金鐘泌元首相を来日させて日本政府に「配慮」を求め、中国の江沢民国家主席は新任の阿南惟茂駐中国大使に「中国人民の心配に考慮を」と述べた。

しかし、韓国・中国両政府は何をもって「歴史の歪曲」と批判しているのか。逆に、どんな歴史理解が正しいと考えているのだろう。とくに韓国の「国定歴史教科書」をひもときながら、日韓「教科書問題」が発生する真因と解決への展望を探ってみたい。


▽編集委員会作成の国定教科書
▽「民族史観」教える必修科目

韓国の歴史教科書の特徴は「国定教科書」であるという点にあるが、どのようにして編纂されるのか。

歴史教育者協議会編『あたらしい歴史教育 第五巻 世界の教科書を読む』によると、「国史教科書」は日本の文部科学省に当たる「教育部」の委嘱により「国史編纂委員会」が作成する。

編纂委員会は国史に関する史料を収集し編纂する国立の研究機関で、実際には大学や研究所に籍を置く歴史研究者が執筆する。教育部が定める編集方針に基づいて作られた原案は、専門の研究者によって内容が検討され、歴史教育の専門家やとくに選ばれた現場の教師によって内容面と教育的側面から整理・修正される。

さらに教育部指定の実験校で試用され、問題点が補われ、修正が加えられたのち教育部から発行され、各学校に供給される(横田安司「韓国の歴史教育」)。

この「国定教科書」制度に変わったのは、1970年代のことらしい。

近年、日本国内で韓国の初等学校(小学校)から高等学校までの歴史教科書が翻訳・出版されているが、高校用『国史 上下』を日本語に訳した『韓国の歴史』によると、73年の「第三次教育課程」から「国史」が「社会科」から分離され、国民学校(96年に「初等学校」に改称)の5、6年から高校までは「必修独立科目」となった。

大学では「国史」が「教養必修科目」となり、各種国家試験では「必修受験科目」として出題されるようになった。
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当時は朴正熙大統領時代で、「国策科目」として「国史」の学習が強調された。このため教科書の編纂方法も変わり、民間の筆者が執筆する「検定教科書」から、「国史編纂委員会」が編纂し、「文教部」(92年から「教育部」に改称)が発行する「国定教科書」に一本化されたという(『韓国の歴史』所収の翻訳者・宋連玉による「あとがき」)。

こうしてできあがった国史歴史教科書の特色は、小学校用教科書『社会科1』(1945年までの韓国史)を全訳した『わかりやすい韓国の歴史』の「あとがき」(監訳者石渡延男・東京大学講師)が指摘するところでは、「民族主義史観に基づくものである」。

石渡氏によれば、ベトナム戦争に参加し、大国による和平交渉の切り回しを体験した韓国は、大国に依存しない国造りの必要を痛感し、そのため教育の充実が図られた。

第三次教育課程では「国籍のある教育」が命題となり、「国語」と並んで「国史」教育が重視された。なかでも「植民史観」(日本でいう「植民地史観」)の克服と民族的自負心の矜持の二点が重んじられたという。

現行の教育課程では中学・高校の「国史科」が廃止され、科目としては「社会科」に戻されたが、歴史教科書に見られる「民族主義史観」はずっと継承されている、と石渡氏はいう。


▽日本に文化を「教えてあげた」
▽日本を「悪玉」に描いた近代史

義務教育の小学校用「社会科1」を開いてみる。

古代から近世までをあつかう第一章「わが民族と国家の発展」の特徴は人物史として描いていることだが、第一節の最初に誇らしげに登場するのは建国の祖「檀君王倹」である。

韓国の歴史教科書は「神話」を否定してはいない。

第二節の「国を守った先祖たち」には、隋の侵略を退けた乙支文徳、契丹の侵入を防いだ姜邯賛の記述のあとに、壬申倭乱(秀吉の朝鮮出兵)で日本軍を撃破して「痛快な勝利」をおさめた李舜臣が登場する。

3人はけっして同列ではない。

第二節を学んだあとの「発展学習」には5つの課題が掲げられているが、そのうち3つが壬申倭乱に関連し、「当時、国のために命を捧げた義兵と僧兵の勇士に、感謝の気持ちを表す文章を書こう」と呼びかけている。批判される侵略国の筆頭は日本なのである。

第三節「歴史を輝かせた先祖たち」には、和冦を追い払うために火薬の製法を中国から導入した崔茂宣、壬申倭乱の前に日本の侵略を予見し王に国防の必要を建言した李珥が登場する。

第四節「わが民族の海外進出」では、千字文や論語など「百済の文化を日本に教えてあげた王仁」、紙、筆、墨などの「高句麗の文化を日本に伝えてあげた曇徴」が取り上げられ、日本に対する文化的優越感が強調されている。

また秀吉のあとに現れた「新しい支配者(家康)は、朝鮮侵略を深く反省して、朝鮮通信使の派遣を求めてきた」「日本の知識人はわが国の先進文化を受け入れようと努力した」とつづる。

第二章は「近代化への努力」である。

第一節の「外国文化との出会い」では、日本の幕末期に通商を求めて侵入してきたフランス、アメリカを興宣大院君が撃退したものの、大院君の引退後、日本が武力をカサに不平等条約(江華島条約)の締結を強要したことが描かれる。

第二節「新しい社会への動き」は、朝廷から日本に派遣された修信使は日本が強国に変容したのを知り、開化政策の推進を図ることになる。
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けれども開化運動はかならずしも民衆の暮らしを豊かにせず、苦しんだ。旧式軍人の不満が爆発して起こったのが壬午軍乱で、日本公使館は焼かれ、日本公使は日本に逃げ帰った。しかしその後、今度はふたたび清の干渉を受ける。

金玉均の改革、東学農民運動と改革がわき上がるが、日清戦争後は日本の干渉が激化する。日本を嫌ってロシアに近づこうとした明成皇后(閔妃)は日本に殺害され、憤慨した高宗はロシア公使館に移った。

この危機の時代に独立運動家・徐載弼は亡命先のアメリカから帰国し、元山では民族独立の精神を呼び覚ますために初めての近代的学校が建てられた、とする。

ここでは日本はものの見事に「悪玉」に仕立て上げられている。しかし近隣の強国に挟まれて右往左往する韓国人自身の自己批判はうかがえない。

第三節の「近代文化の発達」では、西洋の文物が流入して衣食住が変わり、新しい民族宗教が誕生し、愛国心、民族精神を広めたことが記述されている。

キリスト教の社会的貢献にもふれられているが、儒教支配を脱し信教の自由が認められたのは日本時代以後であることには言及がない。交通・通信の変化も取り上げられているが、京釜鉄道建設などに日本が果たした役割には触れられない。

池永錫の種痘法導入やソウル大学校付属病院の前身の建設も説明されているが、それらに日本が深く関わっていることは記述がない。


▽近代日本の功績を完全に無視
▽儒教に基づく屈折した苛立ち

第三章は「国権回復のための努力」である。

第一節の「光復のための努力」では、日本の侵略に対抗して、「義兵戦争」が展開されたが、1910年に「国の主権が奪われた」。それから45年まで「わが民族は数え切れない苦しみを味わった」と説明する。

祖国のためではなく、日本の欲のために、女性までが戦場に引っ張られ、多くの人々が命を失った。誇り高いハングルを使わせず、姓名を日本式に改めさせ、民族の精神を抹殺しようとした。日本の祖先神をまつる神社に強制参拝させた──と畳みかけたあとで、教科書は「蛮行を犯した日本とどう向き合うか」と生徒たちに問いかける。

1919年3月の高宗皇帝の葬儀の日、「大韓独立万歳」を叫ぶ、三・一運動が始まる。日本は運動を妨害するため、発砲、放火、虐殺など、あらゆる悪行を犯した、と記述する。

第二節の「大韓国民臨時政府」では、中国・上海の大韓民国臨時政府樹立が語られたあと、「日本の国王」が乗った馬車に爆弾を投げつけた李奉昌、「日本王」誕生日の記念式場に爆弾を投げた尹奉吉を「義士」と称える。

第三節「民族の実力養成と文化守護運動」では、民族精神覚醒のため教育運動を展開した安昌浩、新聞発行によってハングル普及に貢献した周時経について書いているが、近代教育改革に日本が果たした役割や漢字ハングル交じりの新聞を最初に発行した日本人については言及がない。

いずれの民族であれ、民族固有の文化や歴史を尊重すべきだとする基本的立場に立てば、韓国の「民族主義」は評価に値するが、韓国・朝鮮問題の第一人者として知られる佐藤勝巳氏は「これはナショナリズムではない」と指摘する。

「韓国は日本の侵略は批判するが、中国の侵略は問わない。精神的、文化的に自分たちより上だと思う中国に対しては何もいわず、日本にだけ矛先を向ける。これはナショナリズムといえるのか。
韓国人は日韓関係を上下関係で見ようとする。儒教倫理に照らして、『弟分』の日本が自分たちを植民地支配し、いまなおアジアのリーダーとなっていることに屈折した苛立ちがある。これが『反日』となって現れている」
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この姿勢が典型的に現れているのが教科書問題なのだが、もっと悪いことに、「韓国には客観的な歴史認識さえない」と佐藤氏は指摘する。

「韓国には史料や史実に基づいて、実証的に考察する文化がない。『強制連行』『慰安婦』の問題でも数字と声が大きければいいという考えだ。民族・文化がまったく異なる日韓の歴史理解の共有は容易ではない。文化そのものを改めなければ解決はできない。しかしそれは不可能に近い」

それなら積年の教科書問題を解決し、新たな友好関係を構築するために、日本はどうすればいいのか。

「日本は自己主張するしかない。
『教科書編纂は国家主権に属する。日本が韓国の教科書に干渉することを認めるのか。自国の考えを頑強に主張し、互いに押しつければ、最終的には戦争するしかない。わが国はそれを選択しない』と主張すべきだ。
ところが毅然と語れる政治家がいない。逆に政府は、植民地支配を愚かにも謝罪している。
長年、主張してきたように、国立の歴史研究所を設立すべきだ。近隣諸国の批判に客観的・合理的に対応できる公的体制を作ることだ。
いまは民間の個人の力に任されている。これではいけない」

「日韓融和」実現の日はいつの日かめぐってくるのだろうか。


追伸 この記事は宗教専門紙「神社新報」平成13年4月16日号に掲載された拙文「日韓歴史認識の埋め難き溝--韓国『反日』教科書の凄まじさ」に若干の修正を加えたものです。


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葦津珍彦の韓国紀行──隣国との信頼・友愛を築くため必要なこと [韓国・朝鮮]

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葦津珍彦の韓国紀行
──隣国との信頼・友愛を築くため必要なこと
(「神社新報」平成10年11月16日号)
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 昭和四十一年春、葦津珍彦は韓国を訪問した。国交正常化の翌年のことで、ほぼ20年ぶりの韓国であった。
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 1週間のソウル滞在で、葦津は学生たちと10時間以上も討議した。その印象を「韓国紀行」(神社新報社刊『葦津珍彦選集2』所収)に書いている。

 学生たちが自国の歴史に切々たる愛情を持っているのは好ましかったが、知識は明らかに偏っていた。

 近代の日韓対立史は詳しいのだが、李朝内部の対立関係の知識は乏しかった。抗日烈士の活躍には詳しかったが、反日戦線内の思想対決はよく知らない。憎むべき日本人の存在については詳細な知識を持ちながら、好ましい日本人の存在は知らなかった。

 それは現代のハングル教育の結果でもあった。ハングルの教科書で歴史を学ぶ学生たちは、漢字の多い独立以前の文書が読めないのであった。多くの知識が不足するのは当然であった。

 たとえば、ハングルの創始者である世宗王の知識は豊富だが、ハングルが19世紀末に市民権を得るに際して、福沢諭吉がハングルの活字を作らせ、門下生の井上角五郎にハングル混じりの新聞「漢城周報」を発行させた歴史を知る者は1人もいなかった。

 葦津が韓国近代史上、もっとも尊敬する近代化の先覚者たる金玉均については、学生たちは日本に欺かれて反乱をおこして失敗、日本に亡命したが見捨てられ、上海で惨殺された、と日本人の背信と冷淡を語ったが、終始、金玉均に同情と援助を惜しまなかった福沢や頭山満、来島恒喜ら民間人の存在は知らなかった。

 日韓併合に対する恨みは深いが、それは伊藤博文に集中していた。抗日烈士安重根を英雄視するあまり、伊藤以上の弾圧者であるはずの山県有朋、桂太郎などは過小評価されていた。

 葦津は語った。

 諸君は1907年の皇帝譲位と10年の日韓合邦を評論するが、十数年前の1896年に李朝はすでに滅びていたのではないか。高宗王はみずからロシア大使館に入り、ロシア海兵隊に守られて、自分が任命した金弘集首相以下の臣僚を惨殺させた。このとき国の独立は失われている。

 諸君は外国権力の責任を追及するが、外国が非道だから国が滅びざるを得ないというのでは、そもそも独立を保てない。むしろ諸君は、韓国内部の亡国理由を直視すべきではないか。

 学生たちと別れ、機上の人となった葦津は韓半島の山々を眺めながら、父・耕次郎を思った。耕次郎は若き日に、韓国の人民が無力にも暴政に苦しめられているのを思い、

「天皇陛下の御心を安んじ奉りたい」

 と即席の韓国語を学び、ドン・キホーテのごとく海を渡った。

 耕次郎の父・磯夫は福岡・筥崎宮の祀掌で、神祇官復興、教育勅語起草に関わるなど、神社界の重鎮であった。その兄・大三輪長兵衛は事業家にして政治家で、韓国に招かれて貨幣制度改革に取り組み、日韓攻守同盟条約の締結を斡旋、韓国皇帝から勲三等に叙せられている。

 耕次郎自身は朝鮮神宮に朝鮮民族の祖神ではなく天照大神を祀ることに強く抵抗し、韓国併合に猛反対したことで知られる。

 葦津は明治の青年たちの壮大な志と情熱を懐かしみながら、これからの青年たちが対日不信に固まった隣国の青年と交わり、その意識を揺り動かし、深い信頼と友愛を築き上げることは容易ではない。それは偉大にして困難な、男子畢生の大業というべきものである。山をも動かさねばならぬというほどの情熱と大志が要求される、と「韓国紀行」に書いた。

 葦津の訪韓から30年あまりが過ぎ去った。先月(平成10年10月)は小渕首相と金大中大統領の共同宣言で「過去の清算」と「日韓新時代」が謳われた。

 しかし、この間、両国間の深い信頼と真の友愛を築くために、山をも動かすほどの情熱と志を持った日本の青年たちは現れただろうか。そうした若い人材を育てる努力はなされてきたのか?

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