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インド独立の英雄C・ボースの63回忌 [チャンドラ・ボース]

以下は旧「斎藤吉久のブログ」(平成19年8月19日日曜日)からの転載です

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 ほんとうは「63回忌」というのは仏教にはありません。一周忌、三回忌、七回忌、十三回忌と年忌には特定の年に行われる決まりがあり、毎年欠かさず法要を続けるということは本来ないのですが、ガンジー、ネールと並ぶインド独立の英雄で、しばしば「ネタジ(指導者)」の尊称で呼ばれるスバス・チャンドラ・ボースの慰霊法要は、遺骨が安置される東京・杉並の蓮光寺で、ネタジを心から慕う関係者の手で毎年、営まれてきました。

 今年も命日に当たるきのうの午後、法要が営まれ、50人ほどの参列者が集まりましたが、じつにさびしいことに、先の大戦中、ネタジといっしょにインド独立戦争を戦った光機関の人たちは一、二名しか姿を見せませんでした。

 敗戦後の混乱期に在日インド人代表から遺骨をあずかった蓮光寺とともに、ネタジの慰霊と遺骨の祖国返還運動を熱心に進めてきたのが光機関の人たち(チャンドラ・ボース・アカデミー)ですが、すでに戦後62年、ほとんど人たちは鬼籍の人となりました。

 今年はさらにさびしいことに、法要の場に住職の姿もありませんでした。体調を崩されているとの説明でした。先代住職の遺志を受け継いで遺骨を守ってきた住職ですが、月日は確実に流れていきます。

 導師を務めたのは若い副住職で、法要のあと、住職の挨拶文が代読されました。それによれば、最近、遺骨をあずかった寺を飛び越して、勝手に返還運動を進める人たちがいて、心を痛めているとのことでした。

 昨年の命日に、その昔、ネタジがインド脱出を図ったとき、運転手を務めたネタジの甥セシル・ボース博士の未亡人から手紙が届いたこと、そこには親子二代にわたってネタジの遺骨が守られていることに感謝すると書かれてあったことも紹介され、住職は返還の日まで遺骨をお守りしていきたい、と決意を新たにしていました。

 かつての戦友たちに代わって、法要に顔を出すようになったのは、日本会議のメンバーや個人的にネタジに関心を持つ人たちのようです。今年は、私が知るかぎり、はじめて祭壇に「日印協会」の供花が飾られました。一方、ここ数年、インド大使館からの参列はありません。

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チャンドラ・ボースの第61回忌慰霊法要 [チャンドラ・ボース]

以下は旧「斎藤吉久のブログ」(2006年8月19日)からの転載です

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 インド独立の英雄ネタジ・スバス・チャンドラ・ボースの第61回忌慰霊法要が昨日、東京・杉並の蓮光寺で営まれました。

 ボースは第二次大戦中、「非暴力」にこだはるガンジー、ネールとは一線を画し、日本軍と協力して独立闘争を指導しました。終戦直後の昭和20年8月18日、台湾で客死し、遺骨は密かに日本に運ばれましたが、関係者の熱心な返還運動にもかかはらず、60年たったいまも同寺に安置されたままになっています。

 法要はおととしまではインド工作機関「光機関」の生き残りなどで組織されるチャンドラ・ボース・アカデミーと蓮光寺との共催したが、関係者の高齢化でアカデミーはおととし解散し、昨年からは蓮光寺だけが主催する法要となりました。

 今年は、ネタジを慕う人たち約50人が参列し、焼香しましたが、「史上もっとも悲惨な戦い」といわれるインパール作戦でネタジと生死を共にした「戦友」を参列者の中に見出すことは困難でした。

 とくに遺骨返還運動の中心的役割を果たしてきたアカデミーの事務長・林正夫氏は今年3月、鬼籍の人となり、その独特の声を聞くことはできませんでした。

 最後の参列となったおととし、林さんは慰霊法要の席上、「私ももう九十になる。何とか目の黒いうちに遺骨がインドに帰ることを願っている」と語りましたが、その願いはついに果たされませんでした。

 あらためて冥福を祈りたいと思います。
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