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国連が「先住民の権利宣言」を採択 [アイヌ]

以下は旧「斎藤吉久のブログ」(平成19年9月16日日曜日)からの転載です

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国連が「先住民の権利宣言」を採択
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「すべての民が、異なり、またみずからを異なると考え、そして異なるものとして尊重される権利を承認される一方で、先住民がほかのすべての民に対し、平等であることを確認し……」

 以上のように前文でうたわれる「先住民の権利宣言」が先週、国連総会で採択されました。
http://www.un.org/apps/news/story.asp?NewsID=23794&Cr=indigenous&Cr1=

 日本のメディアは、20年以上の議論の末の採択であること、賛成143、反対4、棄権11の圧倒的多数での採択だったことなどを伝えています。反対は、オーストラリア、カナダ、ニュージーランド、アメリカの4カ国。棄権は、アゼルバイジャン、バングラデシュ、ブータン、ブルンジ、コロンビア、ジョージア、ケニア、ナイジェリア、ロシア、サモア、ウクライナの11カ国でした。欠席も相当数にのぼりました。

 朝日新聞によると、日本は、

「民族自決権は国家からの独立を意味しない」ことなどを強調し、賛成に回ったとされます。産経新聞によると、当初、50カ国以上のアフリカ諸国が難色を示していましたが、宣言が

「国家の政治的統一を脅かすものではない」

 との文言が盛り込まれたことで、賛成に回ったようです。
http://www.asahi.com/international/update/0914/TKY200709140065.html
http://www.sankei.co.jp/kokusai/world/070914/wld070914003.htm

 気になるのは、用語に関することです。宣言の英語表記ては「indigenous peoples」の諸権利に関する宣言となっていて、nationでもethnic groupでもありません。朝日も産経も記事の見出しは「先住民」ですが、本文では「先住民族」と「先住民」を併用しています。不統一で、あいまいです。

「民族」だといってしまえば、やれ「民族自決」だ、「独立」だ、ということになりかねません。日本でも、政府は、たとえばアイヌに対して、「先住民族」とは認めていません。萱野茂さんが尽力して10年前に成立した「アイヌ文化振興法」も「アイヌの人々」と表現しています。しかし、今回の採択を受けて、「アイヌ民族の尊厳確立」を目的に活動する北海道ウタリ協会はさっそく、

「先住民族として認めることを要求していく」と表明しています。
http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20070915k0000m010026000c.html

 日本ではしばしば単一言語、単一民族などといわれがちですが、子細に見れば、多元的、多様な文化が伝わっていることが分かります。文化的な多元性、多様性をもっとも端的に示しているのは、民族宗教といわれる神社の祭りの多様さです。縄文の火祭りをいまに伝えるものもあれば、伊勢神宮のお膝元で東南アジアの畑作農耕文化と共通するお田植えが行われてさえいます。

 人類学者の埴原和郎さんは、日本民族の成り立ちについて、

「縄文人は東南アジアに源流をたどれる。アイヌや琉球人はその直接の子孫と考えられる。他方、北九州や山口地方から出土する弥生人は朝鮮半島からの渡来人で、原郷は北東アジアにある。この縄文人と渡来系弥生人とが混血同化して「本土日本人」が成立し、いまもなお同化は進行中である」(『日本人と日本文化の形成』)

 と理解していますが、だとすれば、「日本民族」と「アイヌ民族」との違いをことさらに強調しなければならないのかどうか。

 アイヌの貴重な文化を守ることは重要なことだし、アイヌ文化に限らず、地方の独自の文化は大切ですが、「不幸な過去」といわれるアイヌの歴史は、たとえば、キリスト教徒の入植後、たった70年で絶滅させられたオーストラリア・タスマニア島の先住民アボリジニの悲史とは比べようがありません。

 スペイン・イエズス会の宣教団が護衛の軍隊を率いてグアム島に上陸し、ヨーロッパのキリスト教徒による植民が始まったのは1668年のことといわれます。遅れて1788年、イギリス人のオーストラリア入植が始まります。プロテスタントのロンドン伝道協会の伝道船がタヒチに到着したのは97年。イエズス会への対抗意識は十分だったようです。

 狩猟採集の平和な生活をおくるアボリジニにとってヨーロッパ人の入植は、幕末の日本人にとっての「ペリー来航」どころではなかったでしょう。167トンの「巨艦」に乗った新しい神は呪術師が治せない病気をたちどころに癒し、目を奪うような豪華な家財道具や近代兵器を山ほどかかえていたのでした。

 タスマニア島に囚人と兵士の入植が始まったのは1803年です。イギリスにとっと、タスマニアは「制服地」ではなく、「発見と植民によって獲得された国王陛下の新しい領土」でした。

 そして、イギリス人が信じる「愛の宗教」キリスト教はかならずしも愛にあふれてはいませんでした。アボリジニは二束三文で土地を奪われ、抵抗すれば、報復の殺戮が待ちかまえていました。「侵略者」が持ち込んだ疫病と飢えと殺戮のまえに、逃げ場はありませんでした。

 食糧を得るために差し出された女性たちは、男ばかりの流刑囚や植民者の性欲のはけ口にされ、子供たちはときには誘拐され、労働力に使われたといいます。イギリス人はアボリジニを

「オランウータンに近い何か」

 と考えていたようです。

 空しい抵抗の末に、数千人いたはずのタスマニア人は1830年の「原住民掃討作戦」で300人に激減、その後、強制収容所に送られて、独自の文化を完全に奪われました。76年、最後の女性トルゥガニニの死亡で、純血のタスマニア人は地上から消えたといわれます。

 彼女は故郷の森に埋葬されることを望みましたが、イギリス人は認めませんでした。「タスマニア人は人間と猿との間の失われた鎖を提供する」と考える「科学者」は遺骨を入手し、第二次大戦後まで博物館に展示しました。アボリジニの要求でようやく火葬され、埋葬されたのは没後およそ100年の1974年といいます。

 その十数年後の88年に「建国200年」に湧くオーストラリア・ブリスベンで万国博覧会が開かれたとき、200年祭記念式典で人々の目を引いたのは、先住民アボリジニの代表がガラス玉やビーズ細工をエリザベス女王に返還する儀式だったといいます。

 200年まえ、入植者は子供だましのようなガラス玉と引き替えに、広大な土地を奪った。同じガラス玉と引き替えに父祖の値を返して欲しいという意思表示でした。イギリス国教会の主張でもあるエリザベス女王はこの儀式にどのような思いで臨まれたのでしょうか。

 さて、話をもどすと、埴原さんは、アイヌの祖先でもある縄文人と渡来系弥生人とが混血同化したといいます。かつては日本人の祖先が縄文人を征服・駆逐したという説もありましたが、今日では否定されているようです。

 埴原さんによれば、弥生初期から6世紀末までの千年間に数十万〜百万人以上が渡来し、日本人全体の7〜9割にまで達したといいます。西日本では渡来人の特徴が強まり、縄文系と渡来系の中間的特徴を示す個体が多く見られるようになりました。混血が進んだ結果と考えられます。

 そしてこの混血は現在も進行している、というのが埴原さんの考えです。

 162カ国(昨年6月)が加盟する国連には、いままさに国家形成の緒についたばかりの国もあります。熱い民族問題をかかえる国もありますが、日本は弥生系渡来人の渡来以来、多元性、多様性を維持しながら、なおかつ一つの国家と民族を形成してきたのです。
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