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中国をバカにしている!?、ほか [中国]

以下は旧「斎藤吉久のブログ」(平成19年12月25日火曜日)からの転載です


〈〈 本日の気になるニュース 〉〉


1、「MNS産経ニュース」12月25日、「正論・中国軍事専門家・平松茂雄。海自補給を中国軍が代行?」
http://sankei.jp.msn.com/world/china/071225/chn0712250248000-n1.htm

 インド洋での海上給油を中国海軍が肩代わりする可能性を考えていたら、やっぱり、ということになってきました。

 その可能性がない、と最初から決めてかかっている人たちに対して、畏敬する平松先生は異議を唱えているのですが、それについてはひとまず置くとして、もし実際に中国の肩代わりが実現すれば、日本の国際的地位の低下のみならず、シーレーンの確保、ひいては国家の安全に対して重大な影響を及ぼすのではないかと危惧します。

 さて、「中国をバカにしていると……」という先生の指摘はごもっともです。

 たとえば、城野宏という人物がいます。

 昭和20年の終戦とほぼ同時に、国民党政府と共産党軍との内戦が始まったとき閻錫山軍と提携し、毛沢東軍と戦った多数の日本人たちがいたなかの中心人物です。

 大正2年、長崎に生まれた城野は、その著書によると、徴兵で中国に渡り、昭和16年、中華民国山西省政府の顧問補佐官として民政・警察・軍隊を主管し、日本軍とともに共産軍と戦いました。いっしょに戦う中国人は敵の砲撃から身をもってかばい、「俺たちは友人なのに、なぜ戦わなければならないのか」といって泣いたといいます。

 戦争が終結したあと、部隊幹部に日本の降伏を告げると、彼らは涙を流し、「いつまでもともに行動してくれ」と手を握ったのでした。

 そこで結成されたのが、「祖国復興・山西独立」をスローガンにする山西独立軍です。目的は、来るべき日本国家復興をにらみ、三国志よろしく蒋介石と毛沢東を競わせて、その中を絶ち、省内の重工業をおさえ、同省を日本の供給基地として確保することでした。

 共鳴した日本軍残留部隊1万5000に中国人兵士が結集し、さらに閻錫山の軍隊6万と合作、毛沢東軍と対峙しました。最終的には50万の兵力を誇りましたが、蒋介石軍が共産党軍の勢いに押され、しかも降参するたびにそのまま共産党軍に変貌していきます。こうして三国志の構想は崩れたのでした。

 当時の読売新聞が、省都・太原を死守する日本人中将今村方策との会見記事(米シカゴ・トリビューン紙)の翻訳を載せています。そのころ今村は、共産軍の包囲下にあ ること4カ月、和平か抗戦かの岐路に立っていました。「飛行機が数百機あれば敵の交通線を遮断できるが、残念ながらそれがない」「中国共産党が全中国を占領すれば日本も必ず同じ運命をたどる」。そばにいた城野少将は強くうなずいたと記事に書かれています。

 さて、前置きが長くなってしまいました。じつは城野は東京帝国大学で中国語を学んだ第一号といいます。日中対立が激化していた当時、じつに驚くべきことに、文官養成の最高機関たる東大法学部に当時、中国語のできる中国研究者はいなかったのです。日本人の中国観は古典の世界に偏り、ときに正確な知識もなしに蔑視していたのでした。

 城野が中国語を学ぶようになったきっかけは、同じ教室で机を並べて学ぶ、中国から留学してきた女の子でした。「ノートを見せて欲しい」といわれ、つきあいが始まった中国の青年たちが語る中国は城野がそれまで知っていた中国とは違っていました。以来、城野は中国語と現代中国を学び始め、中国人たちの信頼を得ていったのです。

 等身大の中国を知る努力を怠り、観念主義に走れば、中国との真の和解も友好も成り立たないばかりでなく、国は保てないでしょう。


2、「NHKニュース」12月24日、「教科書5社が記述を再修正」
http://www3.nhk.or.jp/news/2007/12/25/d20071224000080.html

 「日本軍の強制」をにじませる教科書会社の訂正申請に対して、文科省の教科書検定審議会は「日本軍の直接的な命令を示す資料は見つかっていない」とり見解をあらためて示し、修正を求めたようです。今週末には審議会の結論が出るとニュースは伝えています。

 一方、大江・岩波訴訟の方は先週、結審し、来年3月に判決が言い渡されるようですが、どのような判決になるのでしょうか。


 以上、本日の気になるニュースでした。
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宗教伝統を大切にする中国!?、ほか [中国]

以下は旧「斎藤吉久のブログ」(平成19年12月18日火曜日)からの転載です


〈〈 本日の気になるニュース 〉〉


1、「日経ネット」12月17日、「中国が祝日の変更を決定」
http://www.nikkei.co.jp/news/kaigai/20071217AT2M1600F16122007.html

 記事によると、中国伝統の節句である清明節、端午節、中秋節を公休日とするなどの法定祝日の変更を中国政府が決めたのだそうです。

 中国情報局の説明では、春分15日後の清明節は「先祖の墓参りをする日」と説明されています。
http://searchina.ne.jp/basic_guide/005.html

 中国の憲法は「信仰の自由」「不信仰の自由」を定め、宗教活動の保護は「正常」と定義される範囲に限られ、改宗は禁じられているといわれます。海外の宗教団体による布教も事実上、禁じられています。今年9月にアメリカ国務省が発表した信教の自由に関する年次報告書によれば、宗教を尊重する姿勢に乏しい共産党政府によるすさまじい迫害が起きていることがリポートされていました。

 そのような中国政府が、中国の宗教伝統に基づく祝日を定めていることは注目されます。

 ほかにも旧暦12月8日の臘八節は、「仏教に基づく祭日。釈迦が悟りを開いたことにちなむ」と中国情報局は説明しています。中国国際放送局のサイトにはさらにくわしい教訓的、掲載されています。
http://japanese.cri.cn/119/2006/12/01/1@80152.htm

 ひるがえって日本はどうでしょうか。


2、「四国新聞」12月18日、「四国遍路、世界遺産へ再挑戦。県が提案書」
http://www.shikoku-np.co.jp/kagawa_news/administration/article.aspx?id=20071218000092

 四国八十八カ所霊場と遍路道を世界遺産にしようと香川県が意気込んでいます。記事によると、提案では、四国遍路を「空海ゆかりの八十八カ所霊場を巡る全長1400キロに及ぶ壮大な寺院巡拝で、地域社会と共存し、千年を超えて継承されてきた生きた文化遺産」と強調しているのだそうです。

 世界遺産といえば、長崎県も教会群などの世界遺産登録に向けて運動を展開しています。
http://www.pref.nagasaki.jp/s_isan/

 宗教施設の文化的価値を認めて、公共団体が支援するのはけっこうなことです。とすれば、世界最古の戦没者追悼施設として靖国神社を生きた世界遺産として、この際、世界にアピールしてはいかがでしょうか。

 ご参考までにこちらをどうぞ。
http://www.japancm.com/sekitei/note/2007/note15.html


3、「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」12月17日、「広東の繁栄に急ブレーキ、靴工場など数百社以上が倒産。最低賃金労働者をベトナムのみかわアフリカ諸国から輸入してみたが……」
http://www.melma.com/backnumber_45206_3937635/

 いよいよ中国で産業の空洞化が起きているというのです。問題はその先に何が待ち受けているのか、中国社会に何が起きるのか、共産党一党支配に変化がもたらされるのか、でしょうか。


 以上、本日の気になるニュースでした。


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保身が精一杯の李肇星外相をいじめないで [中国]

以下は旧「斎藤吉久のブログ」(2006年5月24日)からの転載です。

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保身が精一杯の李肇星外相をいじめないで
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 中東のカタールで、昨夜(日本時間では今日の未明)、行われた日中外相会談について、

「李肇星が、『A級戦犯がまつられている靖国神社を参拝することは中国人民の感情を傷つけ、日中両国の政治関係の基礎を損なった』ときびしく批判し、参拝中止を求めた」(共同通信)

 などと、日本のマスメディアは伝えています。
yasukuni4.gif
 李肇星という人は、文化大革命で下放された経験もあるようですが、根っからの外務官僚です。「反日」江沢民の時代に国連大使、外務次官、駐米大使を歴任し、2003(平成15)年に唐家璇に代わって、外務部長(外相)となりました。

 平成14年4月、ですからまだ江沢民主席の時代ですが、小泉首相が2度目の靖国参拝を行ったとき、外務次官だった李肇星は

「感情、理性の両面でも東洋の道徳および国際的な道議においても、受け入れられない」

 と大見得を切りました。

 しかし、翌年の平成15年、外相となった李肇星は、終戦記念日を前に来日し、日本記者クラブで講演しました。「人民日報」によれば、

「A級戦犯がまつられる靖国神社に、日本の指導者は二度と参拝すべきではない」

 と強い調子で語った反面、

「双方の協力で歴史の暗い影から抜け出すことを望む」

 と哀願とも聞こえる要請をしました。

 日本のあるブロック紙のインタビュー(紙上会見)では、

「重要なのは双方が戦略的に、高度で長期的な視点から両国関係の大局をしっかりつかんで事に当たることだ」

 と語り、注目されました。つまり、「長期的関係」という表現を新たに用いて、李肇星は、対日関係重視の姿勢を示したのです。

 胡錦涛政権は江沢民時代とは異なる新外交を展開しようとしました。けれども、一年も経たずに挫折しました。その背景には対日強硬派との熾烈な権力闘争があるといわれます。

 小泉首相とのロシアでの最初の日中首脳会談で歴史問題を語ることもなかった胡錦涛が、靖国参拝にみずから言及するようになったのは、政権基盤の弱体があります。国内を治められないとなれば足下をすくわれます。日本に対して毅然たる態度をとらなければ「弱腰」「売国奴」と批判され、地位を危うくします。

 李肇星は、今年3月の全人代での記者会見で、ヒトラーをも引き合いにして靖国参拝を強烈に批判しましたが、その数日前には「引退の可能性が高い」と伝えられていました。きびしい小泉参拝批判は保身のための精一杯の、しかも国内向けの政治的演技なのではありませんか。

 そのような人物を、今回、一年ぶりの外相会談に引っ張り出したことは日本外交の成果でしょうが、とりわけ靖国問題についていえば、解決のための発言を引き出せるはずはありません。小心者をいじめても、何の得にもなりません。

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日中関係を冷却化させた元凶──中国共産党内部の壮絶な権力闘争 [中国]


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日中関係を冷却化させた元凶──中国共産党内部の壮絶な権力闘争
(「神社新報」平成18年2月2日号)
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 いまや「氷河期」ともたとえられる日中関係をめぐり、中国共産党の中枢で対日重視派と強硬派との壮絶な権力闘争が展開されていることが分かってきました。

 いわゆる靖国問題は、最初に日中の外交問題として急浮上した20年前の中曽根参拝以来、中国の国内問題としての側面がきわめて濃厚なのです。日本の政界や言論界では、昨今の日中外交冷却化の主因は

「A級戦犯をまつる靖国神社」

 への首相参拝にあると決めつけ、参拝中止を声高に要求する主張が大手を振るっていますが、正確ではないことになります。

 靖国問題がいつまでも迷走を続けているのは、日本の政治家も言論人も中国政権の奥まった内情が見えないからではないでしょうか。


▢1 対日関係を重視する胡錦涛外交の挫折

 ここ数年を振り返ってみると、

「正しい歴史認識」

 を繰り返し強調して日中の亀裂を深めた、かの江沢民主席時代が幕を閉じ、今日の胡錦涛・温家宝体制が正式に発足した2003(平成15)年3月、中国では対日関係重視の「新思考外交」が台頭していました。

 小泉首相が3度目の靖国神社参拝を果たしたのはその2カ月前でしたが、5月にロシアで開かれた小泉・胡錦涛会談では、歴史問題を後景化させる方針が胡錦涛主席の口から直接、示され、注目を浴びました。同年夏にはチチハルの旧日本軍毒ガス漏出、珠海の日本人集団買春と事件が相次いだものの、新政権の対日重視政策は基本的には揺るぎませんでした。

 ところがその後、新外交は一年もたたずに挫折します。なぜでしょうか。中国情勢に詳しい清水美和・東京新聞編集委員の近著『中国が「反日」を捨てる日』はその背景を詳しく分析しています。

 それよると、胡錦涛政権が重ねて柔軟姿勢を示したのに対して、真意を理解できない日本政府は対応しませんでした。このため中国共産党内部や民衆の間で新外交への懐疑と反感が高まっていきました。それでも10月にバリ島で小泉首相と会談した温家宝首相は靖国参拝に触れず、ふたたび新思考を呼びかけました。けれども会談の帰途、小泉首相が

「参拝は中国も理解している」

 と同行記者に語ったことから、温家宝は

「メンツを失った」

 ばかりではなく、党内強硬派の激しい批判にさらされることになります。

 そして、ついに11月、西安の西北大学で日本人留学生寸劇事件をきっかけとした反日暴動が起きました。

 建国以来最大規模といわれる大暴動は、新外交政策に衝撃を与えずにはおきませんでした。中国政府は同年12月、唐家璇(元外相)主宰の大規模な対日関係工作会議を開き、政府方針は

「歴史問題を疎かにしない」

 に修正されました。こうして強硬論の台頭で、靖国問題がふたたび強調されることになりました。


▢2 擡頭する強硬派対日政策の先祖返り

 その後の中国は対日重視派と強硬派との対立に終始しています。それは靖国問題をめぐるせめぎ合いというより、首相参拝が政争の具に利用されていると見た方が正しいのではないでしょうか。

 翌04年元日の小泉参拝で政経分離政策は放棄され、要人の発言は江沢民時代に先祖返りしました。

 同年夏のサッカー・アジア杯の反日暴動は中国民衆の反日感情のすごさを見せつけました。愛国主義教育に加えて、国力充実に伴う中国人の民族主義が政府の統制を上回るまでに膨張し、それが権力闘争に利用されたと清水氏は解説します。法輪功や米CIAの関はりまでが指摘されているといいます。

 胡錦涛政権は、北京工人体育場でのアジア杯決勝戦に数万人の治安部隊を投入して反日行動の抑え込みを図りましたが失敗しました。衝撃を受けた政府は反靖国団体の拠点でもある反日サイトを閉鎖するなど、反日の封じ込めに躍起となりました。

 秋に江沢民の中央軍事委主席辞任を受け、胡錦涛は党、国家、軍の三権を掌握したものの、政権基盤は依然、不安定で、訪中した河野洋平議長との会見では対日関係の打開に意欲を示しつつも、小泉首相の靖国参拝にはじめて言及、批判しました。

 国内を治められないとなれば、足下をすくわれます。反日が国益にかなうはずはないのに、日本に毅然たる態度を取らなければ

「売国奴」

 と批判されます。胡錦涛はじつに困難な立場にあります。

 11月にはラオスで小泉・胡錦涛会談が実現しましたが、翌月、日本が

「中国の脅威」

 に言及する新防衛大綱を発表したのは中国には

「強硬姿勢」

 と映りました。

 翌05年3月にアナン国連事務総長が

「日本を常任理事国に」

 と発言すると、大規模な反対署名運動が違例なことに三大商業サイトなどインターネットを巻き込んで展開されました。中国共産党宣伝部の指示によることは明らかでした。

 中国最高指導部の重要会議が開かれたのは同じ3月です。議題が二国間問題にしぼられた、これも違例の会議で、

「日本が強硬なら中国も強硬に。柔軟なら柔軟に」

 という新しい対日戦略が決められました。玉虫色の方針は党内対立の存在を暗示しています。中国共産党はけっして一枚岩ではありません。

 4月には四川省で反日デモが起き、広東省に広がり、北京にも波及しました。大学や学生会はデモ不参加を呼びかけていましたが、党の一部が呼びかけ、公安当局は黙認しました。

「現代の李鴻章を打倒せよ」

 というスローガンもありました。日清戦争の敗北後、台湾を日本に「売り渡した」李鴻章になぞらえた胡錦涛への批判のようです。暴徒が日本大使館に投石するのを、温家宝は日本に責任を転嫁しました。江沢民ら強硬派の拠点である上海ではデモは数万人規模となり、日本領事館が襲われました。

 北京のデモ当時、山東省にいた胡錦涛は視察から帰ってデモを知り、激怒したといいます。

「私を困らせるつもりか」

 中国の国際イメージが失墜し、胡錦涛政権が窮地に追い込まれるにおよんで、温家宝ではなく、李肇星外相による党・政府・軍の幹部3500人が会した情勢報告会が開かれました。ようやく違法デモの抑制が全党の方針となり、以後、中国メディアは一転して日中友好を強調します。

 続いて、インドネシアで開かれた小泉・胡錦涛会談で、胡錦涛は関係緩和への意欲をみせ、その後、デモを煽る反日サイトは閉鎖されました。


▢3 なお続くせめぎ合い、江沢民の胸の内

 けれども、その折も折、強硬派は巻き返しを図ります。中国革命の原点とされる反日・愛国運動「五・四運動」の記念日に、江沢民は反日のシンボル「南京大虐殺記念館」を訪問し、数千人の「市民」、いや公安要員の歓呼に手を振って応えました。反日デモを封じ込めようとする胡錦涛への不満を露骨に表明したのです。

 俄然、強硬派は勢いづきます。対日関係の修復のため来日したはずの呉儀副首相は小泉首相との会見をすっぽかして帰国、中国メディアはA級戦犯批判の連載を開始します。

 9月3日、「抗日戦争」「反ファシズム」勝利60周年を記念する2005年最大の行事である記念大会で、胡錦涛は小泉参拝を間接的に批判する一方で、

「侵略戦争を懺悔した日本軍人」

 の存在を指摘し、

「賞賛されるべきだ」

 と演説しましたが、6000人の元兵士で埋まった人民大会堂は静まり返ったままで、傍らの江沢民も無反応でした。

 権力を委譲したはずの江沢民がなぜこれほどに胡錦涛の日本重視政策に反対するのでしょうか。

 江沢民はもともと強硬派だったのではありません。胡錦涛を後継者に指名したのは鄧小平であり、江沢民の意中の人だったわけではない胡錦涛の権力基盤が徐々に拡大し、自分の劣勢が明らかになるにつれ、江沢民は強硬派への迎合を強めていると清水氏は説明します。

 清水氏の分析は昨秋までで終わっていますが、両者の権力闘争はその後も懲りずに続いています。

 昨年(2005年)10月に小泉首相が靖国神社に参拝したのに対して、中国の権力闘争がまるで見えない日本のマスコミはもっぱら小泉首相の靖国参拝に対する中国側の抗議と批判を伝えましたが、子細に見れば、中国政府は反日活動家を拘束し、反日デモを封じ込めるなど、逆に抑制的な対応をとりました。

 最近の報道では、11月には改革派の指導者・故胡耀邦元総書記の生誕90周年の記念式典が人民大会堂で開かれました。胡耀邦といえば、新たな日中関係を築こうとしたものの、中曽根首相の靖国神社「公式参拝」後、対日強硬派の追い落としで失脚しました。その復権は対日重視路線への転換のシグナルともとれます。

 けれども、逆に今年(2006年)1月、趙紫陽元総書記の追悼集会は強硬派の妨害を受けました。胡耀邦の死後、その追悼と民主化を要求する学生デモはやがて血生臭い弾圧を受けましたが、この天安門事件につながる学生運動に同情的だったために失脚し、昨年(2005年)死去した趙紫陽元総書記の没後一周年をひかえて、追悼集会を企画した民主運動家らが拘束されたのです。趙紫陽の再評価を江沢民ら強硬派が反対していると伝えられます。

 昨年(2005年)、日本の大学などで講演し、小泉参拝を執拗に批判していた王毅駐日大使は、12月中旬以来、1カ月半の長期にわたって帰国したままでしたが、1月末に帰任後は一転して「日中関係重視」を強調しています。

 中国政府の対日政策見直しがあったのか、強硬派との政争に新たな局面が生まれたのでしょうか。


▢4 反日行動の抑制が精一杯、どこへ行く歴史問題

 共産党中枢の権力闘争ばかりではありません。危険水域を越えた社会矛盾は政権の土台を大きく揺るがしています。不均衡な経済・社会発展の結果、国内の所得格差は

「社会の安定を脅かす」

 といわれる水準をはるかに超え、一日平均200件を超えるほど暴動や騒乱が頻発し、環境汚染も深刻化しています。驚異の高度成長を示す政府発表の経済指標に対する懐疑も示されるようになりました。中国は「発展」しているのではなく、「混乱」の極みにあります。

 胡錦涛政権は格差是正に着手し、2600年続いた農民への課税を2年前倒しで廃止しましたが、負担軽減策の効果は薄いといわれます。胡錦涛への期待が完全に裏切られたという失望感が社会全体に広がっています。もとより10億の民と広大な国土を治めることは至難ですが、胡錦涛は民衆の暴発の危機に直面し、薄氷を踏む日々が続いています。

 外交に加えて、内政が失敗すれば、強硬派はいよいよ元気づくことになるでしょう。

 清水氏の著書が明らかにした中国共産党中枢の権力闘争、そして最近、とくに知られるようになった社会矛盾の拡大などを直視することなく、

「侵略戦争肯定」
「軍国主義礼賛」

 と決めつける内外の靖国批判を真に受け、首相参拝の是非を論ずることは浅薄というほかはなく、混乱した議論が収まるはずもないのですが、そうだとして、日中ののど元に突き刺さったままの歴史問題は今後、どこへ向かうのでしょうか。

 反日が中国の国益にかなうはずはなく、対日重視は当然ですが、清水氏の予測では、過度の対日譲歩は胡錦涛政権にとって命取りとなる。いまは過激な反日行動を抑えるのが精いっぱいで、来年(2007年)の17回党大会までに江沢民との権力闘争が決着しなければ、対日関係は当分、不安定なままとなるといいます。

 しかしその前に、今年(2006年)9月、日本では自民党総裁選が予定されています。すでに総裁候補者からは靖国参拝に慎重な発言も聞かれますが、中国の批判に屈服して首相参拝が中止されるとなれば、いまのところは穏やかな日本国民の民族主義を刺戟し、いよいよ日中民族主義の対決に火をつける可能性も否定できません。

 しかし近代の悲劇の再来は靖国神社に祀られた英霊が望むところではないでしょう。英霊の中には中国革命の父・孫文を敬愛し、日中の未来を信じて武器を取り、一命を捧げた将兵が少なくありません。松井石根しかり、広田弘毅しかりですが、民族主義の激突を排し、日中の連携を追求した先人たちが逆に「A級戦犯」の汚名を着せられているのは何という歴史の皮肉でしょう。


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歴史の「お伽噺」を創作する中国──ご冗談でしょ、「フライング・タイガース」が「輸送部隊」だなんて。 [中国]


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歴史の「お伽噺」を創作する中国──ご冗談でしょ、「フライング・タイガース」が「輸送部隊」だなんて。
(雑誌「WiLL」2006年1月号)
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「歴史はつねに勝者が叙述するものである。二つの文化が衝突したときには、敗者は忘れ去られ、勝者が歴史書を書くのだ。その史書では勝者の主義主張が賛美され、敗者は散々にけなされる。
 ナポレオンがいったように、『歴史とは何か。お伽噺なのだろう』。それから彼は笑っていった。『そもそも歴史などというものは、いつの時代でも一方的なお話なのだ』」(ダン・ブラウン『ダ・ヴィンチ・コード』)。

 世界的なベストセラー『ダ・ヴィンチ・コード』が引用するフランスの英雄ナポレオンの箴言(しんげん)を地でいくかのように、「終戦六十年」の2005年を

「抗日戦争勝利と世界反ファシズム戦争勝利六十周年(V60)」

 と位置づける中国では政治キャンペーンが大々的に展開され、牽強付会(けんきょうふかい)の歴史改竄(かいざん)がまさに一方的に進行したかのように見えます。

 かの「反日」江沢民主席以来、この10年間、

「歴史を鑑(かがみ)とし、未来に目を向ける」

 の常套句を繰り返し突きつけ、「侵略国」日本に謝罪と反省を求めてきた当の中国で、です。いいえ、『ダ・ヴィンチ・コード』流にいえば、「抗日戦争」に「勝利」した中国だからこそ、高らかに、誇らしげに歌い上げる凱歌としての「お伽噺」の創作なのでしょう。

  何しろ真珠湾攻撃後、破竹の勢いの日本軍に対して、連戦連敗、敗退を続ける連合国軍のなかで唯一、互角に渡り合ったアメリカ義勇航空隊(American Volunteer Group、以下AVG)「フライング・タイガース」が中国を支援する戦闘部隊ではなく、「輸送部隊」だと言い張るのですから、首をかしげざるを得ません。

 中国の「歴史」とは「お伽噺」にほかならないことの証左なのかもしれませんが、「お伽噺」の創作に走るのは中国共産党の拭いがたい政治的体質としても、もしかして中国は開けてはならないパンドラの筺を開けてしまったのではないでしょうか。


▽1 元隊員の滞在一カ月を逐一報道する中国メディア

 2005年夏、齢80を超えるAVGの元隊員らが大挙して訪中し、各地を親善訪問しました。日本を共通の敵として米中がともに戦ったAVGの歴史は、「抗日戦争勝利六十年」を演出するとともに、21世紀の世界戦略として「米中友好」を盛り立てるための格好の題材と考えられたのでしょうか。

 人民日報や新華社通信など中国メディアは8月11日の北京到着から1カ月以上にわたり、その足取りを詳しく報道しています。しかも渡航・滞在に要する元隊員1人あたり2000ドルの経費は雲南省が支出したそうです(8月12日、人民日報)。人のいいアメリカ人のお年寄りを利用した、中国政府を挙げての政治宣伝ではありませんか。

 インターネット上で伝えられたところでは、元隊員ら一行100人は8月21日、雲南省昆明市の「駝峰航路」記念碑に献花しました。「駝峰航路」は第二次大戦中、中国と同盟軍にとって主な航空ルートで、航路は全長500マイル。3年1カ月におよぶ空中支援で約70万トンの物資を輸送しました。この間、中米両国は飛行機五百機以上を失い、犠牲になったパイロットは1500人を超えました(8月22日、人民日報)。

「フライング・タイガース」や「駝峰航路」飛行隊の元兵士・家族ら100人が31日、V60の一環で北京に集合し、中国関係者と一堂に会し、交流しました(9月1日、人民日報)。

「戦勝記念日」の9月3日には「抗日戦争勝利六十周年」を高らかに歌い上げる記念式典での演説で、胡錦涛主席は

「中国の軍隊と共に戦うだけでなく、危険を ものともせず中国に戦略物資を輸送するためにヒマラヤを越えたアメリカのフライング・タイガース」

 とAVGの功績に言及しました(北京週報35号)。

 湖南省には記念館がオープンし(9月7日、新華社)、元隊員は昆明市から名誉市民号を与えられました(9月11日、新華社)。

 一行は南京の陸軍墓地を訪れました。ここには3000人の飛行士が眠っていますが、うち2000人はアメリカ人パイロットです(9月12日、新華社)。

 以上のように、中国メディアは報道しています。かつての戦友が旧交を温める光景は美しいのですが、中国メディアの報道では見苦しいほどに重大な事実が隠蔽されているようです。

 第一に、AVGは中国共産党ではなく、国民党・蒋介石政権の政治工作が功を奏した結果、結成されたのです。

 第二に、表向きは「義勇軍」ですが、AVGはアメリカ政府肝いりのれっきとした陸軍の正規部隊であり、そのことは今日、アメリカ政府が認めています。

 第三に、何よりも重要なことは、時の大統領ルーズベルトがAVG派遣を決めたのは日本が真珠湾攻撃を決意する前のことでした。

 AVGの功績を称えることは一見、「米中友好」を演出し、「日米離反」を画策するには都合がいいのですが、日本のファシストらが「侵略戦争」を開始させたと考える中国共産党の歴史観の主張とはまったく相容れません。

 AVGの歴史を明らかにすることは、日本の真珠湾攻撃をもって「太平洋戦争」が始まり、世界中が戦争の惨禍に招き入れられたとする、戦後、一般に流布してきた常識論的歴史像の見直しを迫らずにはおきません。

 真珠湾攻撃に関しては、宣戦布告のない「奇襲」「だまし討ち」だったかどうか、ルーズベルトが無線傍受によって「攻撃」を知っていたかどうか、という歴史論争はよく知られていますが、AVGの歴史はこの「奇襲」論争を一気に飛び越え、日本の真珠湾攻撃以前に、中国・蒋介石政権の工作によって、アメリカが対日戦争に踏み切っていたことを白日の下にさらします。

 ひいては、日本を「侵略国」「文明の敵」として断罪する、いわゆる「東京裁判史観」も否定されることになり、2005年春から各メディアを総動員して猛烈に展開された「A級戦犯」批判キャンペーンほ か、中国のV60政治宣伝はすべて吹き飛んでしまいます。

 中国のAVG報道が素人だましの露骨な隠蔽を行っているのは、そのためでしょうか。

 たとえば、人民日報(ネット版)に7月12日付で載った「抗日戦争略史 ─1941年」では、「1941年8月1日にアメリカ空軍義勇部隊(フライング・タイガーズ)成立、陳納徳(シェンノート)が総指揮となる」とされていたのに、一週間後、7月19日の「対中援助に寄与した米国のフライング・タイガース」では「1942年4月創設」に変わっています。

 41(昭和16)年12月の日米開戦以前にAVGが成立していた、などとは、むろん書けるはずもありません。


▽2 「真珠湾」以前に対日参戦、米国の背後に蒋介石

 日本では無名に近いのですが、AVGの存在はアメリカでは知らない者がいないといわれます。第二次世界大戦中のビルマ・中国戦線での「活躍」は世界中に知れ渡り、いまなお出版物があとを絶ちません。ネット上には公式のウエブサイト(http://www.flyingtigersavg.com/)さえあります。

 日本でほとんど唯一の研究者、北星学院大学の吉田一彦教授が書いた『アメリカ義勇航空隊出撃』などによると、AVGの生みの親は、米陸軍航空隊の名パイロット、シェンノート准将です。盧溝橋で日中が全面衝突した1937(昭和12)年、蒋介石はシェンノートに中国空軍の訓練・養成に当たる軍事顧問就任を要請し、全面協力を得ることになりました。AVGの前史がここに始まります。

 そのころの中国は、日本軍の猛烈な進攻の前になす術がすりませんでした。上海、南京は次々に放棄され、首都は内陸の重慶に遷されました。蒋介石は世界に援助を求めましたが、応じたのはソ連だけでした。当時のソ連は日本の友好国のはずですが、中国に軍事物資を供給し、ソ連航空部隊は上海や南京で日本軍に対して軍事行動をとり、台北の日本軍基地を急襲しました。

 38年暮れには日本軍の重慶爆撃が始まり、欧州では翌年9月、独軍がポーランドに侵攻したのをきっかけに世界大戦が勃発します。40年秋には最新鋭機「ゼロ戦」が重慶の空に姿を現しました。中国空軍は無力で、爆撃は熾烈さを増していきました。

 蒋介石は、アメリカの支援獲得に乗り出し、宋美齢夫人の長兄、クリスチャンでハーバード大卒の親米派・宋子文をワシントンに派遣しました。

「夷をもって夷を制する」

 が蒋介石の戦略でしたが、そのころアメリカの不干渉主義の伝統は根強かったのです。

「いずれ日米は激突する」

 と信じるシェンノートは蒋介石から協力を求められてルーズベルト大統領を説得し、宋子文ら中国ロビーは

「米国の支援がなければ中国は滅びる」

 とアメリカ政府に圧力をかけました。アメリカのマスコミは蒋介石を

「勇敢な戦士」

 と賛美しました。日米はもうすでに無条約状態で、もとよりルーズベルトは中国支援に賛成でした。交戦国のいずれかに味方することはアメリカの「中立法」で禁じられていましたが、大統領は

「同法は独など〝戦争仕掛け人〟に有利」

 だとして、この法律に反対でした。

 こうしてヒト、モノ、カネを米国が提供し、中国空軍の識別マークで戦う異例の航空部隊が創設されたのです。まともに事を運べば明確な「中立法」違反でしたから、シェンノートは身分を偽って「中国銀行員」を装い、軍事作戦は商行為の仮面をかぶりました。

 41年初頭から隊員の募集が始まりました。給料は月600ドルで、日本軍機1機を撃墜するごとに500ドルのボーナスが支給されるという破格の厚遇です。 現役軍人から人員を募集する大統領特別令も出されました。ルーズベルトは500機からなる部隊を準備し、中国派遣を命じました。これが「義勇軍」AVGの実態でした。

 開戦回避のためのぎりぎりの日米交渉が始まるのは同年4月で、野村大使とハル国務長官は連日の会談で開戦回避の打開策を模索していたのですが、陸軍航空部隊長の8月のメモによれば、AVGの創設はすでに「大統領と陸軍省が承認していた」といいいます。

 日本は日米交渉が成功して、アメリカ主導で中国との和平が実現し、泥沼化した日中戦争から抜け出すことを期待していました。ところが、逆に中国はむしろ泥沼化を望んでいました。交渉が進まず、それでも日本が

「対米開戦を辞さない決意で、開戦準備を行う」

「平行して米英との外交手段を尽くす」

 という内容の「帝国国策遂行要項」を決定するのは9月6日の御前会議であり、交渉が破綻し、ハル・ノートの提案を受けて、対米英戦争を最終的に決定したのは12月1日の御前会議ですから、日本の期待はお構いなしに、アメリカは日米交渉開始以前に、そしてもちろん日本が真珠湾攻撃を準備するはるか以前に、AVGの作戦を現実に開始し、対日戦争に着手していたことになります。じつに11月までに「日本本土爆撃」までが計画されていたといわれます。

 したがってアメリカに日本の真珠湾「奇襲」を一方的に批判する資格はまったくないというべきでしょう。いずれの国が好戦的、侵略的なのか。あるいは、権謀術数が渦巻く国際政治の世界で、そのような単純な発問が本来、有効なのかどうか。虚心坦懐に実証的に、開戦の歴史を洗い直す必要がります。


▽3 AVGを「正規軍」と認めたアメリカ政府

 臼井勝美『日中戦争』などによると、イギリスはビルマ・ルートを再開し、日本はドイツを通じて和平を申し入れ、ソ連は軍事援助を供与しました。その状況を、周恩来は

「蒋介石はイギリス、日本、ソ連から引っ張りだこになって喜んでいる」

 と皮肉ったといいます。中国軍はかつてないほどに増強され、もはや日本軍を恐れてはいませんでした。蒋介石が警戒するのは、日米開戦によってソ連が漁夫の利を得ることでした。

 ソ連の発言力が増し、共産勢力が蔓延することを恐れていたのです。最初に日ソが戦って両者が傷つき、そのあと日米戦で日本が敗北、滅亡するという構図を、蒋介石はそのころ描いていたといいいます。

 41年7月、AVGの隊員たちはサンフランシスコで落ち合い、農民や宣教師、機械工と称してオランダの貨物船に乗り込み、太平洋に繰り出しました。第一陣の隊長はルター派の牧師でした。

 アメリカだけでなく、イギリスにも航空義勇軍派遣の計画がありました。

「日本軍の雲南侵攻作戦が成功すれば、ビルマ公道が遮断される」

 という蒋介石の警告にチャーチルは派遣の意向を固め、オーストラリア、ニュージーランドも同意したのですが、その矢先、日本が真珠湾を攻撃します。

 12月8日(ハワイでは12月7日)に真珠湾を攻撃されて、アメリカではルーズベルトが

「汚辱の日を忘れるな」

 と演説しましたが、重慶では戦勝気分に酔うかのような歓声が沸き上がったといわれます。蒋介石の「夷をもって夷を制する」戦略の勝利の凱歌でしょうか。蒋介石にとっては、アメリカの対日参戦はとりもなおさず日本の敗北を意味したのです。

 AVGが初陣を果たしたのは10日あまりのちの12月20日。雲南省昆明で10機の日本軍爆撃機を迎撃し、6機を撃墜、自軍の損害はありませんでした。 AVGは「フライング・タイガース」のニックネームで呼ばれ、機体には「空を飛ぶ虎」のロゴ・マークがペイントされていました。

 アニメ映画から飛び出したかのような絵は、今日、世界の誰もが「平和の使徒」と信じて疑わないウオルト・ディズニーのデザインです。当局の依頼を受けて、ディズニー・スタジオがロゴを制作したようです。

 ウオルトは反共主義者で、終生、FBIの特別情報員を務めたといわれます。41年当時、ハリウッドのディズニー・スタジオは労働争議が絶えず、ウオルトは共産主義者への復讐心に燃えていました(M・エリオット『闇の王子ディズニー』)。ニューヨーク・タイムズ紙の報道によると、ウオルトは同じころ、30万人に上る中国の戦災孤児を救う全国運動の代表にも就任しています。

 同じ反共主義者の蒋介石は、ウオルトには同志と映ったのでしょうか。米中双方の反共主義者たちが共演したAVGを、今日では逆に中国共産党が最大限、政治利用しています。お見事というほかはありません。

 AVGは大戦を通じて、296機の日本軍戦闘機、爆撃機を破壊し、みずからの犠牲は4人の操縦士だけだったといわれます。42年には中国派遣米国航空隊として現役化され、翌年には米第14航空隊に再編成されました。

 AVGの犠牲が少ないことはそれだけ優秀なパイロットと高性能の軍用機が投入されたことの証明でしょうか。中国メディアがいま、2000人以上のアメリカ 人パイロットが戦争の犠牲になった、と報道しているのは何の根拠があってのことなのでしょうか。もし中国の報道が正しいなら、逆に日本軍の抗戦ぶりこそ称えられなければなりません。

 1962年、中華民国(台湾)はシェンノートらの顕彰碑を建てました。外国人の功績を称える台湾唯一の記念碑といわれます。AVGに対する国民党の評価の高さをうかがわせます。

 一方のアメリカですが、この30年後、91(平成3)年7月6日付ロサンゼルス・タイムズ紙の一面に、米国務省がAVGの生存者100人を退役軍人と認定した、と伝える記事が大きく載りました。「日米開戦五十年」のこの年、AVG結成から50年にして、アメリカ政府はAVGを「義勇軍」ではなくて「正規軍」であったことを認めたのです。

 すなわち、日本の真珠湾攻撃以前に「中立国」であったはずのアメリカが、自国の「中立法」を侵して日中戦争に介入し、宣戦布告なしに対日戦争を開始していたことを政府が公的に認めたことを意味します。歴史の見直しの始まりです。


▽4 国民党の歴史を共産党の歴史にすり替える

 アメリカの歴史教科書にはまだAVGは描かれていないようです。

 開戦の経緯について、1967年初版の古い教科書で、いまは使われていないらしいヘンリー・グラフの教科書(邦訳「世界の歴史教科書シリーズ」25)は、 日本をイタリア、ドイツと同様、拡張主義をとる「侵略国」であり、「民主主義の敵」と位置づけ、アメリカは平和を望んだが、真珠湾への「奇襲」によって戦争に引きずり込まれた、と記述しています。真珠湾攻撃が戦端となったという従来通りの認識ですが、

「日本が太平洋上のどこかの地域を攻撃する計画があることを、アメリカは暗号コードの解読で知っていたが、攻撃がアメリカの領土に直接、向けられると信じた政府高官はいなかった」

 と述べ、アメリカの暗号傍受・解読に言及しているのは注目されます。

 最近の教科書はさらに進んでいます。『アメリカの歴史教科書が教える日本の戦争』の著者、在米ジャーナリストの高濱賛氏によると、アメリカの教科書は

「日本人が想像するほど、真珠湾について一方的ではない」

 そうです。かつては定番であった「奇襲」「だまし討ち」という表現は消えています。リベラル派の教科書といわれるカリフォルニア大学バークレー校・ゲリー・ナッシュ教授編著の“The American People”は、

「日本は侵略者」
「日本による奇襲」

 とする一方で、

「米国人は日本人を過小評価していた。人種的偏見からだ。まさかハワイを攻撃できる能力を持ち合わせていないと思っていた」

 と記述し、自己批判を怠りません。

 アメリカには中国流の国定教科書制度があるわけでもないし、日本のような全国共通の指導要領や教科書の検定制度もありません。学習指導の内容や教科書の採択は各州、各学区の教育委員会に委ねられているということですから、単純な比較は無理ですが、少なくともアメリカの教科書にはより深く史実を究明しようとする学問的意欲が伝わってきます。AVGの歴史が記述される日は近いかもしれません。

 けれども、中国国営メディアのV60キャンペーンにはそのような歴史的態度が微塵もうかがえません。

「70万トンの支援物資を中国に輸送した」

 などと、まるでAVGが戦闘部隊ではなく、輸送部隊であったかのような書きぶりで、AVGが昆明などで日本軍機と実際に交戦したことへの言及もありません。それどころか、蒋介石の名前すらありません。

 蒋介石の老獪な政治工作でルーズベルトを対日戦争に引き入れた歴史が、中国共産党主体の歴史に巧みにすり替えられ、搭乗機を日本軍に撃墜された元隊員が八路軍に救われ、延安に連れて行かれて毛沢東や周恩来に会ったという「美談」までがまことしやかに報道されています(8月23日、人民日報)。

 日本に歴史問題を突きつけてきた中国が牽強付会に走るのは、中国の歴史主義がつねに政治的だからでしょうか。そもそも参加してもいない「東京裁判」を持ち上げ、猛烈な「A級戦犯」批判キャンペーンを2005年春から次々に繰り出した中国国営メディアが、「東京裁判史観」に疑問を投げかけるような史実など書けるはずもないということでしょうか。


▽5 開けてはならなかったパンドラの筺

 5月9日付の人民日報は、「世界反ファシスト戦争勝利六十周年」と題する社説で、

「歴史を鑑として、はじめて未来に向かえる。ファシズムの侵略戦争は世界人民に深刻な災難をもたらし、侵略戦争を発動した国の人民にも大きな害を与えた。歴史を正しく認識し対処するには、侵略戦争への反省を行動に移し、被害国人民の感情を傷つけることを繰り返さないことだ」

 と主張しました。

 相も変わらぬ、ファシスト対反ファシスト、加害者対被害者、侵略対被侵略という階級闘争史観風の二項対立的歴史理解ですが、それだけに中国共産党とそのメディアがAVGの歴史に足を踏み入れたことは注目されます。AVGは善悪二元論的な歴史理解の枠外にある、中国にとっては禁断の木の実のはずだからです。

 もともと中国共産党には「侵略戦争」を批判する資格があるでしょうか。毛沢東が「中華人民共和国」の建国を宣言したのは、東京裁判の被告「A級戦犯」のうち7人が絞首刑となった翌年、1949(昭和24)年10月です。戦争中、中国共産軍が八路軍と称して国府軍の指揮下にあったとはいえ、共産勢力は日本の「交戦国」とはいえないし、当然、新中国はポツダム宣言や東京裁判の審議・判決などに関わっていません。

 51年9月のサンフランシスコ講和会議にも参加していません。それどころか周恩来は単独講和の無効を声明したのではなかったでしょうか。ポツダム宣言の当事国で、降伏文書に調印し、東京裁判に参加した「中国」とは蒋介石の中華民国国民政府(台湾)です。

「侵略戦争」「東京裁判」「戦犯」と直接的関わりのない中国共産党ですが、にもかかわらず戦後、多年にわたって多数の日本人「戦犯」を国内で拘束し、きわめて政治的に取り扱ってきました。

 たとえば、大戦末期から終戦直後にソ連軍が「捕虜」として拘束した抑留者のうち969人が1950年にスターリンから毛沢東に移管され、「戦犯」の刻印を押され、撫順刑務所で思想教育を受けました。

 過酷なシベリア抑留とは天と地の「人間的」扱いのなかで、日本人「戦犯」は「侵略」を「認罪」「反省」し、「寛大」な中国人民に赦されたことになっていますが、中国国内向けには「被害者」の人民を納得させ、同時に対日工作の道具として「戦犯」を利用する周恩来の深謀遠慮がありました。

 満州では民衆の即決裁判で3500人の日本人が犠牲になったといわれ(満蒙同胞援護会編『満蒙終戦史』)、中国の対「戦犯」政策が 「人間的」だったなどとはけっしていえません。

「革命は銃口から生まれる」

 という毛沢東の言葉通り、中国は戦争を最大限、政治に利用しています。実際、昭和29年9月、「侵略戦争に荷担したが、罪を認め、赦免」された「戦犯」は帰国直後、

「偉大的祖国」

 と口々に新中国を讃えた、と当時の新聞は伝えています。

 けれども時代は変わりつつあります。とくに江沢民政権以来、歴史カードは日本への牽制であると同時に国内の不満層への懐柔策として一石二鳥に機能しました。

 中国では政権批判はかならず「反日」の形をとります。政府が制御可能なうちはまだしもですが、サッカー・アジア杯「反日」暴動に示されるように、いまや「反日」は政権基盤を揺るがす諸刃の刃であり、重荷となっています。社会は断裂し、貧富の格差は「世界最大」といわれ、毛沢東以来の「大同(絶対平等主義)」の夢は完全に破れました。

 しかも改革・開放の過程で莫大な財をなした「新富人」が台頭し、中国を支配しつつあります。共産党は国家指導者としての役割を果たせなくなりました(清水美和『中国「新富人」支配』)。

 小泉首相の5度目の靖国神社参拝後、日本のマスコミは例によって内外の批判と抗議を大々的に報道しましたが、中国の反応を子細に検討すれば、中国政府は「反日」活動家を拘束し、抗議デモを封じ込めるなど、表向きとは違って思いのほか抑制的に対応しています。「反日」の高まりを警戒しているのは日本ではなく、中国政府でしょう。

 経済的には日本を抜きにして国が成り立たない中国にとって、歴史問題を日本に突きつけ続けることが中国の国益にかなうはずはありません。けれども「抗日戦争勝利」が中国共産党の揺り籠である以上、捨てるに捨てられないのです。しかも今度は「米中友好」を演出したいばかりに、「日本の侵略」否定につながるAVGの歴史に手をつけてしまいました。

 パンドラの筺を開けた中国はもはや隠蔽とウソを重ね続けるしかありませんが、それはいつまで可能でしょうか。

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同時多発テロから2年──ダライ・ラマ、米国で平和を語る [中国]


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同時多発テロから2年──ダライ・ラマ、米国で平和を語る
(「神社新報」、平成15年9月29日)
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「我々はチベットを中国の一部とし、チベット独立に反対していく立場を堅持するとともに、米国に対して中国への内政干渉をやめ、中米関係が損なはれることを回避するやう求める」。

日本の首相が靖國神社に参拝すれば、決まって内政干渉的に会見で批判する中国外務省の報道官が、今度はその矛先をダライ・ラマ十四世の訪米に向けた。

折しも「九・一一」同時多発テロから二年目の米国で、ダライ・ラマは何を語ったのか。


▽ 中国政府は猛反発

五十年以上も中国政府による不当な支配を受け続けるチベットの最高指導者ダライ・ラマは今月上旬、亡命生活を送るインドを出発し、米国を訪問、

「十四世は純粋な宗教家ではなく、長年、中国の分裂、民族団結を破壊してきた政治亡命者」

と決めつける中国外務省の強い反対表明にもかかはらず、十日、ブッシュ米大統領との会談がおこなはれた。

ホワイトハウス報道官の発表によれば、両者の会談は今回が二度目で、大統領は、チベット固有の宗教、文化、言語の独自性を保護すること、すべてのチベット人の人権を保障することについて、米国の強い取り組みをあらためて示した。

また、ダライ・ラマによる中国との対話の努力に強い支持を表明し、対話が目に見える形で続くやう中国に努力を促していくこと、中国が好ましい対応を取るやう希望してゐることを語った。


▽ アフガン戦を評価

非暴力による自治権恢復運動を展開し、それゆゑにノーベル平和賞を受賞したダライ・ラマと、同時テロ以来、世界最強の軍事力を背景にアフガニスタン、イラクなどで対テロ戦争を推進するブッシュ大統領は、

「強固で建設的な米中関係の重要性について意見が一致した」

と米国政府の報道官は声明した。

それどころか、二年前はテロ攻撃に暴力で対抗することを避けるやう大統領に手紙で訴へたダライ・ラマは、今度の会談では、イラク戦争の正当性についてはまだ評価の段階ではないとしながらも、アフガニスタンでの戦争はより大きな平和を勝ち取るために正当化できるかもしれないと語った、とも伝へられる。

AP通信によると、ダライ・ラマはブッシュとの会談のあと記者に対して、

「原則的には非暴力が正しいと信じるし、長い目で見れば非暴力の方法こそより効果的である」

と語りつつも、朝鮮戦争や第二次大戦と同様、アフガニスタンではある種の「解放」がもたらされたとの理解を示したといふ。


▽ 諸宗教の平和共存

同時テロからちょうど二年目の九月十一日夕刻、ダライ・ラマは「すべての米国国民のための教会」として知られ、同時テロ当日の三日後、米国歴代大統領や政府高官らが参列して犠牲者への祈りが捧げられたワシントン・ナショナル・カテドラル(WNC)で、

「平和を耕す」

と題する講演をおこなった。

WNCの資料によれば、ダライ・ラマは前半はチベット語で、後半は英語で、そして心の奥底から響くやうな野太い声で、静まりかへった聖堂の壇上から、諸宗教の平和共存の可能性について呼びかけた。

「信じがたい悲劇は憎悪と嫉妬によってもたらされる。破壊的な行動を避けるためには、慈愛と寛容、満足、自己修養の昂揚が求められる。
さまざまな宗教には、異なる哲学にもかかはらず、愛や慈しみ、赦しといふ同じメッセージを含んでゐる。イスラム教がより好戦的で暴力的であるといふ印象を持つ人もゐるが、誤ってゐる。一つの伝統を全的に非難するのは正しくない。ひとたび宗教を受け入れたなら、我々は誠実でなければならない。
しかし宗教はときには飾り物のやうになってゐる。
あなたがある精神的体験を得たなら、他の伝統的価値を認めることはずっと容易なはずだ。自分自身の宗教的体験によって、あなたは他の伝統の大きな可能性を理解できるはずだ」

悲劇をもたらしてゐる中国政府にさへ慈しみの眼差しを向け、さらに世界平和を訴へるダライ・ラマのメッセージを、中国の指導者たちはどう受け止めたのか。


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中国少数民族ナシ族のシャーマンだけに伝わる「トンパ文字」──宗教弾圧で危機に瀕す [中国]


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中国少数民族ナシ族のシャーマンだけに伝わる「トンパ文字」──宗教弾圧で危機に瀕す
(「神社新報」平成14年5月13日号)
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▽1 女子高生やOLに人気

 季節は夏。昔懐かしい木造校舎。ランニングに半ズボンの若手俳優が両手両足をいっぱいに広げながら「コ、シ、ヒ、カ、リ!!」と力を込めると、その姿格好がテレビ画面上で不思議な象形文字に重なっていく。

 大手清涼飲用水メーカーが製造販売した玄米茶のテレビCMに登場するのは、「トンパ(東巴)文字」である。

 約1000年前から中国南部・雲南省の少数民族ナシ(納西)族に伝わり、いまも生き続ける世界で唯一の象形文字で、心が癒されるような優しさと愛嬌があるからか、昨年(平成13年)あたりから女子高生や若いOLたちの人気を集める。

 パソコンで使える書体ソフトが発売されたり、インターネット上にはトンパ文字の占いサイトもある。

 ちなみに、足をガニ股に開き、両手を左右に広げた形は、「跳ぶ」「うれしい」の意味らしい。そんな人類史上最後の象形文字を使うナシ族とはどんな人たちなのか。


▽2 中国雲南省の少数民族

 ナシ族28万人の大半が住む雲南省西北部、麗江ナシ族自治県は省都昆明の北西600キロに位置する。

 標高2500メートルの山岳地帯で、平地はわずかに5%しかない。眼前にそびえるのは万年雪を頂く雲南最高峰、海抜5596メートルの玉龍雪山。神々が住みたもう聖なる山、そして恵み豊かな自然の宝庫である。

 県の中心・麗江は「美しい川」の意味で、かのフビライ汗が命名したといわれる。5年前、ユネスコの世界文化遺産に選ばれた。

 町には水路が張り巡らされ、雪解け水がこんこんと流れる。民族衣装を着た女たちが野菜を洗い、洗濯をする。懐かしい風景である。

 ナシ族は農耕民族で、水稲やトウモロコシ、小麦、大豆などを栽培するほか、綿花や油菜、唐辛子などを作る。かつては日本の神社に似た高床校倉造りの家に住んでいたともいう。

 日本人がトンパ文字に親近感を覚える所以であろうか。

 さて、そのトンパ文字だが、ナシ族に固有の言語・ナシ語には文字がない。しかも元、明の時代以後、漢文化の浸透ですっかり看護に取って代わられ、ナシ語を話せる人は少ないらしい。


▽3 男性シャーマン「トンパ」

 トンパ文字を使うのはナシ族の民族宗教トンパ教の儀式をつかさどる男性シャーマン「トンパ」に限られる。

 自然崇拝を基調とするトンパ教は多神教で、天地善悪を支配する神々の数は2300に及ぶという。開祖はトンパシロ。チベット語で「知恵深き導師」の意味らしい。

 チベットの民族宗教ボン教や仏教、道教の影響を受けているといわれるトンパ教だが、寺もなければ、全体を統率する僧侶もいない。

 冠婚葬祭や病治し、吉凶占いなど宗教儀式は村ごとの「大東巴」が執行し、そのとき使われるのがトンパ経典で、経典を書写するのに用いたのがトンパ文字である。

 文字種は1500以上あり、その発生は7世紀にさかのぼるといわれる。

 また経典は国の内外に2万冊が収蔵されているとされ、その内容は宗教のみならず、民俗、歴史、文学など多岐にわたっていて、古代ナシ族の「百科全書」とも呼ばれている。


▽4 風前の灯火の「トンパ教」

 しかしトンパ教はいま風前の灯火だという。

 最大の理由は共産革命後の宗教弾圧にあるらしい。宗教活動が禁止され、トンパは後継者を育てられなかったのだ。

 トンパ経典を読みこなせるトンパはもう数えるほどしかいないといわれる。

 その一方、宗教から切り離されたトンパ文字は独り歩きし、観光資源として蘇っている。麗江ではトンパ文字のハンコを売る土産物屋が、中国人アイドルのポスターを飾る床屋と軒を並べる。

 要は、少数民族の伝統である精神文化が大国の迫害を受けて死に瀕し、生活のために切り売りされているのが現実だ。

 中国での民族抑圧といえば、チベット族やイスラム教徒のホイ族が受けるそれを思い浮かべがちだが、ナシ族に言わせれば、まだしもだという。

「海外に支援者もなく、たった28万人しかいないナシ族に反乱を起こせる力はないし、北京政府は特別に優遇して機嫌をとる必要がない」からである。

 海を越え、いまや日本のギャルたちのオモチャと化した感のあるトンパ文字。「デジタル時代のなごみ系」などと持ち上げるマスメディアもあるが、面白がってばかりもいられない。

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