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伝統からも憲法からも逸脱する ──「祈りの存在」の伝統とは何か? 1 [女性宮家]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2017年6月4日)からの転載です


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伝統からも憲法からも逸脱する
──「祈りの存在」の伝統とは何か? 1
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 さて、以下は、拙著『検証「女性宮家」論議──「1・5代」天皇論に取り憑かれた側近たちの謀叛』からの抜粋です。一部に加筆修正があります。


第2章 有識者ヒアリングおよび「論点整理」を読む

第2節 「祈りの存在」の伝統とは何か?──知的探求がうかがえない櫻井よしこさんの反対論


▽1 伝統からも憲法からも逸脱する
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 24年10月、皇后陛下は78歳のお誕生日をお迎えになり、記者会の質問に文書で回答されました。宮内庁は「この一年のご動静」などをネット上に発表しました〈http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/kaiken/gokaito-h24sk.html〉。

 気になるのは、ほかならぬ宮内庁が使用する皇室用語の乱れです。皇后陛下の宮中祭祀へのお出ましについて、次のようにまとめられています。

「天皇陛下の御不例によりご代拝となった冷泉(れいぜい)天皇千年式年祭の儀、大正天皇例祭の儀、春季皇霊祭の儀・春季神殿祭の儀及びおみ足の捻挫によりお取りやめとなった元始祭(げんしさい)の儀、暗くなってから行われる御神楽(みかぐら)の儀については欠席されましたが、それ以外の祭祀には全て列せられました」

 祭祀に「欠席されました」「列せられました」という表現は、違和感がぬぐえません。

 表現の乱れは、とりわけ祭祀に関して顕著です。

 宮内庁は「宮中祭祀」について、

「天皇皇后両陛下は、皇太子同妃両殿下の時代から、宮中三殿(賢所、皇霊殿、神殿)における祭祀を大切にしてこられました。古くから伝えられる祭儀を忠実に受け継がれ、常に、国民の幸せを祈っておられます」

 と説明しています〈http://www.kunaicho.go.jp/activity/activity/01/activity01.html#H2-07〉。

 宮内庁による、この説明がすでにして、皇室の歴史と伝統から逸脱しています。宮中祭祀は天皇陛下がお一人でなさるのが基本であって、両陛下が共同でなさるのではないからです。

 ところが、宮内庁のHPには「両陛下の御活動」として、「国事行為などの御公務」「行幸啓」「外国ご訪問」などが説明されています。もはや天皇は「上御一人」ではありません。

 当たり前のことですが、皇位は天皇陛下お一人が世襲的に継承されるものであって、「両陛下」お二人で皇位を継承するのではありません。後述するように、臣籍出身の皇后が皇族とされ、陛下と呼ばれるようになったのは明治以後のことで、正確には「みなし皇族」なのです。

 たとえば「拝謁」や「ご会見」などの御公務は、天皇が皇后を伴われてお務めになると説明されるべきでしょう。

 ところが、24年2月、今上陛下が入院されたとき、本来は「見なし皇族」のお立場で、摂政でも臨時代行でもない皇后陛下がお一人で、外国に赴任する日本大使夫妻との「お茶」に臨まれ、3月には離任する外国大使を「ご引見」になりました。

 憲法は天皇の「国事に関する行為」を定め、

「全権委任状及び大使及び公使の信任状を認証すること」

「外国の大使及び公使を接受すること」

 をあげています。宮内庁のHPは「ご引見」について

「天皇陛下が皇后陛下とご一緒に、外国の首相や大使、その夫人などの賓客とお会いになることをご引見といい……」

 と説明していますが、皇后陛下お一人の「ご引見」の法的根拠はどこにあるのでしょう。もはや憲法からの逸脱ではありませんか?

 その挙げ句の果てが「女性宮家」創設論なのでしょう。


以上、斎藤吉久『検証「女性宮家」論議』(iBooks)から抜粋。一部に加筆修正があります


もっとも先駆的な記事 ──「女性宮家」創設の本当の提案理由 5 [女性宮家]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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もっとも先駆的な記事
──「女性宮家」創設の本当の提案理由 5
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 以下は、拙著『検証「女性宮家」論議──「1・5代」天皇論に取り憑かれた側近たちの謀叛』からの抜粋です。一部に加筆修正があります。


第1章 いつ、だれが、何のために言い出したのか?

第5節 「女性宮家」創設の本当の提案理由──政府関係者はきちんと説明すべきだ


▽5 もっとも先駆的な記事
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 平成14年に書かれた森暢平氏の記事は、タイトルに「女性宮家」が含まれていましたから、国会図書館の検索エンジンでヒットします。

 ところが、さらにこれより数年早く、「女性宮家」に言及しながら、記事のタイトルに「女性宮家」がないため、検索に引っかからない、先駆的な記事がありました。

 総合情報誌「選択」平成10年6月号に掲載された「『皇室典範』改定のすすめ──女帝や養子を可能にするために」がそれです。

「皇族女子は結婚すれば皇族の身分から離れるが、これを改め天皇家の長女紀宮(のりのみや)が結婚して宮家を立てるのはどうか。そこに男子が誕生すれば、男系男子は保たれることになる」

 いわゆる「皇統の危機」についていち早く指摘し、女性天皇容認を問題提起する、私が知るところ、もっとも先駆的な記事で、同時に皇室典範第12条を改正し、皇族女子が婚姻後も皇室にとどまれるようにする、いわゆる「女性宮家」創設をも提案していました。

 ただし、「男系」と「女系」を混同する致命的な誤りを犯しています。最良のジャーナリズムでさえ、当時はこのレベルだったのです。あるいは、そのようにニュース・ソースから思い込まされていたのかも知れません。

「選択」の記事は政府内で非公式の第1期研究会が始まって、およそ1年後のことでした。「文藝春秋」の記事はそれから4年後です。書き手や媒体を選びつつ、政府関係者が情報を小出しにリークし、世論の反応をうかがっていたことが想像されます。

 無署名のこの記事を書いたとおぼしき記者は、ほかに並ぶ者のいない、優れた皇室ジャーナリストで、じつをいうと、記者と私は、ほかならぬこの雑誌で、一時期、筆者と編集者という間柄でした。毎月のように酒を酌みつつ、企画を練り、新ネタを飛ばしたものです。共同で記事を書いたこともあります。いっしょに取材旅行をしたこともありました。

 しかしこの記事のころから女性天皇・女系継承容認に急速に傾斜し、私とは疎遠な関係になりました。当時、宮内庁筋から積極的なアプローチがあったことは知っています。実際、どこから、どんな情報を得ていたのか、詳細を直接、確認したいところですが、残念ながら、もうこの世にはいません。私のこの本は、記者にこそ読んでほしいと思いますが、それがかなわないのはまことに残念です。

 生前、男系・女系論争が白熱していたころ、久しぶりに顔を合わせる機会があり、記者が囁くように弁解していたのを覚えています。自分は編集者から与えられたテーマに沿って、取材で得られた客観的事実をリポートしているだけで、賛成も反対もない、というのです。

 しかし、誰よりも早く一次情報に食い込んだ記者は、「女系継承容認のほかに、方法はないのか?」という問題意識が希薄で、取材は女系派にとどまり、そして取り込まれ、お先棒を担がされ、代弁者を演じ、偏向したのです。

 記者は「客観性」を強調していますが、限界もそこにあります。天皇・皇室を論じるには、学んでも学びきれないほどの幅広い知識が求められます。あれほどの記者にして、取材対象を批判しうる主体性を確立できなかったのでしょう。

 管理職となり、日常の業務に追われ、幅広い取材が時間的に困難になっていたこともあるのでしょう。二兎を追うものの定めです。「生涯一記者」を貫ける環境があれば、当時の論争はもっと別のものとなっていたかも知れません。残念でなりません。

 記者をミスリードした編集者の責任も軽くはないと思います。同誌なら商業主義に走らない企画を立てられたはずです。私が編集を担当し続けていたら、と悔やまれます。

 その後、記者は異様とも思える執着心で、女帝容認論を展開していきました。いや、異常な執念を燃やしたのはむしろ、記者と肝胆相照らした歴史家であり、情報を提供した政府の官僚たちだったのでしょう。

 さて、阿比留瑠偉産経新聞記者によると、その後、15年5月から16年6月にかけて、内閣官房と内閣法制局、宮内庁による皇位継承制度の改正に向けた共同検討が実施されました。そして第2次小泉内閣(改造内閣)時代に、皇室典範有識者会議が16年12月に発足しますが、会議の最終報告書では「女性宮家」の表現は、なぜか消えました。

 ともあれ、現在の「女性宮家」創設論が女性天皇・女系継承容認と同一の議論だとするならば、さまざまな謎は解けます。森氏が書いているように、女性皇族にも皇位継承権があることになり、当然、「宮家」を立てなければなりません。

 しかし、だとすれば、そのように説明されてこそ、建設的な国民的議論は可能なはずです。渡邉允前侍従長(いまは元職)のように、当事者であるはずの宮内庁関係者が

「皇位継承問題とは別の次元の問題」

 などと強調することなどあるべきではありません。


以上、斎藤吉久『検証「女性宮家」論議』(iBooks)から抜粋。一部に加筆修正があります


歴史からはずれた前侍従長提案の「女性宮家」 ──ねじ曲げられた渡邉允前侍従長の「私見」 7 [女性宮家]

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歴史からはずれた前侍従長提案の「女性宮家」
──ねじ曲げられた渡邉允前侍従長の「私見」 7
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 以下は、拙著『検証「女性宮家」論議──「1・5代」天皇論に取り憑かれた側近たちの謀叛』からの転載です。一部に加筆修正があります。


第1章 いつ、だれが、何のために言い出したのか?

第3節 ねじ曲げられた前侍従長の「私見」──岩井克己朝日新聞記者の「内親王家」創設論


▽7 歴史からはずれた前侍従長提案の「女性宮家」
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 あらためて渡邉前侍従長が提案する「女性宮家」創設について考えてみます。

 平成22年12月の「週刊朝日」のインタビュー記事で、前侍従長が述べているのは、次の4点です。

(1)皇室のご活動が十分に確保されるように、皇族女子が婚姻後も皇族にとどまり、

(2)悠仁親王の時代を支えること、

(3)皇位継承問題とは別の当面の措置であること、

(4)陛下がおっしゃる将来の問題とは皇室のご活動に関する問題と理解されること、

 ここでは「女性宮家」創設という表現はありません。

 前侍従長が「女性宮家」と明確に表現したのは、平成23年暮れに出版された『天皇家の執事』文庫版の「文庫版のための後書き」で、ポイントは次の4点です。

(1)現行の制度のままでは皇族の数が激減する。

(2)皇室のご活動が不十分になり、

(3)皇室が国民からかけ離れたものとなる恐れがあるから、

(4)女性皇族が結婚されても、皇室に残れるようにする必要がある。

 前侍従長の提案では、皇室の御活動を維持するために、「女性宮家」創設が必要だという考えです。

 忘れないうちに1点だけ指摘しておきますが、「皇室の御活動」を確保するという目的なら、女性皇族が結婚後も皇室にとどまる必要も、新宮家を創設する必要もありません。実際に、皇籍離脱(臣籍降下)された元皇族に連なる方が社会的活動をなさっている例は少なくないし、寛仁親王殿下は三笠宮家の一員のまま御公務をお務めでした。

 けれども、ちょうどこの後書きが書かれていたころ、羽毛田長官から野田首相に要請があったとされ、そのことを「スクープ」した読売新聞の報道が発端となり、「女性宮家」創設案は独り歩きしていきます。

 そもそも「宮家」とはいかなるものなのでしょうか?

 宮内庁書陵部が編纂した『皇室制度史料 皇族4』(昭和61年)によれば、「宮家」の制度は鎌倉時代以降に生まれます。

 古来、特定個人に対して「○○宮」と呼ぶことは行われていましたが、

「鎌倉時代以降、殿邸・所領の伝領とともに、家号としての宮号が生まれ、やがて代々、親王宣下(せんげ)を蒙って宮家を世襲する、いわゆる世襲親王家が成立した」

 と説明されています。

 そして、「室町時代に成立を見た伏見宮をはじめ、戦国時代末から江戸時代に創設された桂宮・有栖川(ありすがわ)宮・閑院宮の4宮家は四親王家と称さ」れ、この四親王家はいずれも皇統の備えとしての役割を担い」ました。

 実際、伏見宮家から後花園天皇が、高松宮家(有栖川宮)から後西(ごさい)天皇が、閑院宮家から光格天皇が即位された例があります。光格天皇は、今上陛下の直接のご祖先であることはいうまでもありません。

 歴史的に考えるなら、宮家を立て、あるいは宮家を継承するのは、皇族男子に限られます。前侍従長の提案する「女性宮家」創設は、内親王もしくは女王が、婚姻後も臣籍降嫁せずに皇族身分(皇族待遇)を保ち、「皇統の備え」とは別の次元で行われるとすれば、それは「宮家」とはいえません。

「皇統の備え」なればこそ、皇位継承権を有するからこそ、「宮家」なのであり、「宮家」と称するなら、皇位継承問題との「切り離し」はあり得ないのです。


以上、斎藤吉久『検証「女性宮家」論議』(iBooks)から抜粋。一部に加筆修正があります


「男系皇統が終わる」と断言した元最高裁判事──ねじ曲げられた前侍従長の「私見」 6 [女性宮家]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2017年5月16日)からの転載です


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「男系皇統が終わる」と断言した元最高裁判事
──ねじ曲げられた渡邉允前侍従長の「私見」 6
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 以下は、拙著『検証「女性宮家」論議──「1・5代」天皇論に取り憑かれた側近たちの謀叛』からの転載です。一部に加筆修正があります。


第1章 いつ、だれが、何のために言い出したのか?

第3節 ねじ曲げられた前侍従長の「私見」──岩井克己朝日新聞記者の「内親王家」創設論

▽6 「男系皇統が終わる」と断言した元最高裁判事
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 しかも有識者会議の報告書は「女性宮家」とは表現されず、渡邉允前侍従長の「私見」も、1年前の「週刊朝日」平成22年12月31日号のインタビュー記事では、

「女性皇族に結婚後も皇族として残っていただき……」

 となっていて、「新しい宮家を立てて」(文庫本の「後書き」)とは表現が異なります。

 つまり、平成23年10月になって、前侍従長はなぜか急に「宮家」と言い出したのです。唐突感は否めません。

 前侍従長の真意はどこにあるのか、そして事実をゆがめて報道する岩井記者の意図は何でしょうか?

 前侍従長の提案は陛下の御公務を分担する皇族の確保が目的ですが、岩井記者の記事にはそのことについての説明がまったくありません。

 一方で、岩井記者は記事の後半部分で、「宮家」創設と表現すれば、皇位継承問題に結びつくから、「内親王家」の認否と言い換えることを提案しています。

 自分で最初に「女性宮家」創設問題を「皇位継承の問題」と明確に位置づけておきながら、またしても議論をねじ曲げようとしているように見えます。

 しかし、結局のところ、議論は皇位継承論にもどり、岩井記者の記事は最後に、皇室典範有識者会議の座長代理で、『皇室法概論』の著書もある園部逸夫元最高裁判事に、次のように語らせています。

「夫、子が民間にとどまるというわけにはいかないから、歴史上はじめて、皇統に属さない男子が皇族になる。問題はどういう男性が入ってくるか。
 また、その子が天皇になるとしたら男系皇統は終わる。女性宮家は将来の女系天皇につながる可能性があるのは明らか。たくさんの地雷原を避けながら条文化し着地できるかどうか。
(結婚による女子の皇籍離脱を定めた)典範第12条の効力を一時停止する時限立法を妥協で図るのも一案でしょう。皇室会議のほかに皇族会議を設け、天皇陛下の下で相談してもらうのもいいかも知れない」

 そのあと園部元判事はいわゆる雅子妃問題に言及しているのですが、これ以上の引用は不要でしょう。妃殿下のご病気は平成11年暮れの岩井記者自身による「懐妊兆候」報道が発端だったはずです。4週目という不安定な時期を十分に配慮しない報道が、流産という悲しむべき結果を招いたことがすべての発端です。

 これでは高級紙にあるまじき、マッチ・ポンプということになりかねません。当世随一の皇室ジャーナリストがこれでは、あとは推して知るべしということになりかねません。


以上、斎藤吉久『検証「女性宮家」論議』(iBooks)から抜粋。一部に加筆修正があります

皇位継承と「女性宮家」創設はあくまで「別の次元」──ねじ曲げられた前侍従長の「私見」 5 [女性宮家]

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皇位継承と「女性宮家」創設はあくまで「別の次元」
──ねじ曲げられた渡邉允前侍従長の「私見」 5
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 以下は、拙著『検証「女性宮家」論議──「1・5代」天皇論に取り憑かれた側近たちの謀叛』からの転載です。一部に加筆修正があります。


第1章 いつ、だれが、何のために言い出したのか?

第3節 ねじ曲げられた前侍従長の「私見」──岩井克己朝日新聞記者の「内親王家」創設論

▽5 皇位継承と「女性宮家」創設はあくまで「別の次元」
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 長くなりますが、引用します。

「現在、それ(皇位継承をめぐる問題)とは別の次元の問題として、急いで検討しなければならない課題があります。

 それは、現行の皇室典範で、『皇族女子は、天皇及び皇族以外の者と婚姻したときは、皇族の身分を離れる』(第12条)と規定されている問題です。

 紀宮(のりのみや)さまが黒田慶樹さんと結婚なさった時、皇族の身分を離れて黒田清子(さやこ)さまとなられたように、現在の皇室典範では、内親王さま、女王さま方が結婚なさると、皇室を離れられることになっています。もし、現行の皇室典範をそのままにして、やがて、すべての女性皇族が結婚なさるとなると、皇室には悠仁さまお一人しか残らないということになってしまいます。

 皇室は国民との関係で成り立つものです。天皇皇后両陛下を中心に、何人かの皇族の方が、両陛下をお助けする形で手分けして国民との接点を持たれ、国民のために働いてもらう必要があります。そうでなければ、皇室が国民とは遠く離れた存在となってしまうことが恐れられます。

 そこで、たとえば、内親王さまが結婚されても、新しい宮家を立てて皇室に残られることが可能になるように、皇室典範の手直しをする必要があると思います。それに付随して、いろいろな問題がありますが、まず仕組みを変えなければ、将来どうにもならない状況になってしまいます。秋篠宮家のご長女の眞子さまが今年(平成23年)10月に成年になられたことを考えると、これは一日も早く解決すべき課題ではないでしょうか」

 以上のように「女性宮家」創設の緊急性を訴えたあと、最後に

「繰り返しになりますが、この問題は皇位継承の問題とは切り離して考えるべきで、皇室典範の皇位継承に関する規定はそのままにしておけばよいのです」

 と念を押し、皇位継承問題は「将来の世代」に委ねることを、渡邉允前侍従長(いまは元職)は勧めています。

 すでに書いたように、「内親王さまが結婚されても、新しい宮家を立てて皇室に残られることが可能になる」ようにすることは、平成17年11月の皇室典範有識者会議の報告書にも盛り込まれていますが、この場合は、

「将来にわたって安定的な皇位の継承を可能にするための制度を早急に構築すること」

 が目的でしたが、渡邉前侍従長の「私見」では

「それとは別の次元の問題」

 と明言されています。


以上、斎藤吉久『検証「女性宮家」論議』(iBooks)から抜粋。一部に加筆修正があります


原文はそうなっていない──ねじ曲げられた前侍従長の「私見」 4 [女性宮家]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2017年5月14日)からの転載です


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原文はそうなっていない
──ねじ曲げられた前侍従長の「私見」 4
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 以下は、拙著『検証「女性宮家」論議──「1・5代」天皇論に取り憑かれた側近たちの謀叛』からの転載です。一部に加筆修正があります。


第1章 いつ、だれが、何のために言い出したのか?

第3節 ねじ曲げられた前侍従長の「私見」──岩井克己朝日新聞記者の「内親王家」創設論


▽4 原文はそうなっていない
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 何より渡邉前侍従長自身、岩井記者による「週刊朝日」のインタビューで、次のように否定しています。

岩井「(女性皇族に結婚後も皇族として残っていただくという案を)長年、陛下にお仕えした前侍従長の渡邉さんがおっしゃるということは、陛下もそうしたお気持ちということなのでしょうか」

渡邉「これは、あくまでも私の個人的な考えです」

「個人的な考え」なればこそ、岩井記者は1年後の記事で「私見」と表現したはずです。「陛下のお気持ち」であろうはずはありません。

 岩井記者の記事は首尾一貫していません。

 これに限らず、岩井記者の資料の読みは、じつに独得です。

 以前、原武史明治学院大学教授が唱える宮中祭祀廃止論を検討したとき、岩井記者が『卜部亮吾侍従日記』(朝日新聞社、平成19年)の解説に

「天皇、皇后に忍び寄る衰え、その『老い』との戦いも記録されている」

 と記し、昭和50年2月の、ある事件以降の祭祀簡略化について解説していることについて、資料の誤読ではないか、と指摘したことがあります。

 岩井記者によれば、祈年祭とよばれる祭典が行われたとき、賢所でタタラを踏まれるような所作をなさったことが、殿内でお倒れになったかのように側近らから受け取られ、昭和天皇の「老い」の現れとみなされて、その後の祭祀簡略化の口実にされた、というように説明されたのですが、実際には、事件の数年前から、すでに祭祀簡略化は始まっていたのでした。明らかに資料の誤読です。

 今回も同様の現象が見られます。

 岩井記者の記事では、渡邉前侍従長が、皇位継承問題について将来の世代への期待を語り、「そのうえで」女性宮家創設案をあらためて提起していることになっています。つまり、皇位継承問題と女性宮家創設案が直線的につながっているように説明されているのですが、前侍従長の原文はそうはなっていないのです。

 岩井記者には皇位継承問題と女性宮家創設は同次元の、連続した問題ですが、前侍従長にとっては「別の次元の問題」なのです。

 前侍従長の著書『天皇家の執事』文庫版の「皇室の将来を考える──文庫版のための後書き」は、先述したように、皇位継承問題を取りあげたあと、

「現在、それとは別の次元の問題として」

 とはっきりと前置きしたうえで、

「急いで検討しなければならない課題」

 として「女性宮家」創設案に話を進めているのです。


以上、斎藤吉久『検証「女性宮家」論議』(iBooks)から抜粋。一部に加筆修正があります

矛盾する岩井克己朝日新聞記者の記事──ねじ曲げられた前侍従長の「私見」 3 [女性宮家]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2017年5月13日)からの転載です


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矛盾する岩井克己朝日新聞記者の記事
──ねじ曲げられた前侍従長の「私見」 3
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 以下は、拙著『検証「女性宮家」論議──「1・5代」天皇論に取り憑かれた側近たちの謀叛』からの転載です。一部に加筆修正があります。


第1章 いつ、だれが、何のために言い出したのか?

第3節 ねじ曲げられた前侍従長の「私見」──岩井克己朝日新聞記者の「内親王家」創設論


▽3 矛盾する岩井克己朝日新聞記者の記事
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 岩井記者の記事は、渡邉允前侍従長(いまでは元職)の文章を引用しつつ、その「私見」について。次のように説明しています。

「私が侍従長としてお仕えしていた期間のほとんどは、皇位継承をめぐる問題がつねに緊迫した課題として存在し続けていました。天皇陛下は、10年以上にわたって、この問題で深刻に悩み続けられました」

「それが現在では、現行の皇室典範の下で、皇太子さま、秋篠宮さま、秋篠宮家の悠仁さまが、次の次の世代まで皇位を継承なさることで落ち着いた状況になっています。私はこの段階では、それでいいのだと思います」

「いずれにせよ我々の世代は、皇位継承の問題について、一端、国論が分裂する事態を招いて、国民皆が納得する結論を得ることに失敗したわけです。従って、この問題は、将来の世代の人たちに、それぞれの時代の状況に応じて対応してもらうことに期待する以外にあり得ないと思っています」

 以上の引用のあと、岩井記者は、

「そのうえで、皇室典範の男系男子主義の規定はそのままにして、眞子さま、佳子さま、愛子さまら内親王方が結婚しても新宮家を創設して皇室に残ってもらう『女性宮家』案をあらためて提起している」

 と説明しています。この記事を読むと、前侍従長の「女性宮家」創設提案は皇位継承問題と直結しているように見えます。

 しかも、岩井記者は、「女性宮家」創設案は前侍従長が数年前から「私案」としてたびたび公言してきたことで、「週刊朝日」誌上の対談(渡邉前侍従長インタビュー「渡邉允前侍従長に聞いた天皇陛下喜寿の胸の内」=同誌平成22年12月31日号)でも表明されてきたと指摘しています。

 さらに岩井記者は、

「長くもっとも身近に仕えてきた人だけに、両陛下のお気持ちを忖度しての発言だろう。今回、浮上している女性宮家問題も、こうした脈絡で見るべきだろう」

 と付け加えていますが、どうでしょうか?

 もしそうだとしたら、前侍従長らが推し進めた祭祀簡略化も「陛下のお気持ちを忖度」したうえでのことになりますが、即位以来、祭り主の伝統を重んじてこられた陛下にとって、それはあり得ないでしょう。

 私にはむしろ陛下と側近との意見の相違の方が強く感じられます。

「女性宮家」創設論議についていえば、創設の検討を「陛下のご意向」とすることを羽毛田長官が「強く否定」している、とする岩井記者自身の記事とも矛盾します。


以上、斎藤吉久『検証「女性宮家」論議』(iBooks)から抜粋。一部に加筆修正があります


見出しと記事の主語が異なるのはなぜか──羽毛田長官は野田首相に「要請」したか? 1 [女性宮家]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2017年5月2日)からの転載です


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見出しと記事の主語が異なるのはなぜか
──羽毛田長官は野田首相に「要請」したか? 1
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 以下は、拙著『検証「女性宮家」論議──「1・5代」天皇論に取り憑かれた側近たちの謀叛』からの転載です。一部に加筆修正があります。


第1章 いつ、だれが、何のために言い出したのか?


第1節 羽毛田長官は野田首相に「要請」したか?──不思議な読売新聞の「スクープ」


 過去の歴史にない、いわゆる「女性宮家」創設は、いつ、だれが、何のために言い出したことなのでしょうか?

 じつはこれが大きな謎で、議論が迷走するのは当然です。まるで検察による公式な提訴の手続きを踏まえずに、裁判が行われていくようなものです。現実世界にはあり得ないミステリーです。

 保守派の言論人のなかには、羽毛田信吾前宮内庁長官や古川貞二郎元内閣官房副長官(皇室典範有識者会議のメンバー)などを首謀者として名指しし、きびしく批判する人もいますが、私は大いに疑問を感じています。

 なぜそのように考えるのか、新聞や雑誌の記事などをもとに、事実を探ってみることにします。


▽1 主語が異なるのはなぜか?

 かまびすしい「女性宮家」創設論議のきっかけは、一般に考えられているところでは、

「『女性宮家』の創設検討 宮内庁が首相に要請」

 という見出しで伝えられた、平成23年11月25日づけ読売新聞1面トップの「スクープ」ですが、これはじつに不思議な記事でした。特ダネにありがちな、一種の誤報ではないか、と私はにらんでいます。

 というのも、記事のリードには

「宮内庁が野田首相に要請」

 と書かれているのに、記事本文では

「羽毛田長官が野田首相に伝えた」

 とあって、見出しとリードと本文では主語が異なっているからです。もし記事本文のように、文字通り「宮内庁長官が要請」したのなら、見出しもリードもそのように素直に表現されるべきでしょう。見出しを付ける編成部の担当者が「長官が要請」としなかった、できなかった理由は何でしょうか。

 読売の記者は当然、長官にも直接、取材し、事実関係を確認したに違いありません。けれども、結局、確認できなかったのではありませんか。後述するように、羽毛田長官本人はその後、「首相に要請」という報道を「強く否定」していると伝えられています。

 しかし読売は報道に踏み切りました。興味深いことに、もし羽毛田長官が否定するのなら、完全な誤報だというのなら、宮内庁は抗議すべきですが、抗議したとは聞きません。

 宮内庁が抗議しないのは、「女性宮家」創設に関する「要請」報道が事実ではないにしても、「女性宮家」創設論が社会に知られるのは省益にかなうことだからでしょう。後述するように、皇位継承問題は宮内庁内部で長い間、議論されていたことでした。

 読売の記者は取材過程で、長官本人には否定されたが、ほかの宮内庁関係者は「要請」を否定しなかったため、記事本文では「長官が要請」なのに、リードや見出しは「宮内庁が要請」と表現されることになったのかも知れません。

 この推理が正しいとすると、羽毛田長官以外に、「女性宮家」創設を「首相に要請」した、あるいは「女性宮家」創設を強力に主張する、有力な宮内庁関係者がいるということになります。

 同時に、宮内庁内の有力者のあいだで、微妙な意見の相違があることもうかがわせますが、それでも確度の高い情報として、最初にマスコミに流した、長官にも匹敵する実力者がいるということです。

 その人物こそ、ほんとうの「女性宮家」創設提唱者に違いありません。それは誰なのでしょうか?


以上、斎藤吉久『検証「女性宮家」論議』(iBooks)から抜粋。一部に加筆修正があります


理性の回復を信じたい──『検証「女性宮家」論議』の「まえがきにかえて」 7 [女性宮家]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2017年4月30日)からの転載です


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理性の回復を信じたい
──『検証「女性宮家」論議』の「まえがきにかえて」 7
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 以下は、拙著『検証「女性宮家」論議──「1・5代」天皇論に取り憑かれた側近たちの謀叛』からの転載です。一部に加筆修正があります。


まえがきにかえて

宮中祭祀にも「女性宮家」にも言及しない前侍従長インタビュー


▽7 理性の回復を信じたい

 いま2年の時を経て(一般に、「女性宮家」創設論議の発端は平成23年11月の読売新聞のスクープが発端とされています。それからもう5年半になります)、あらためて、前侍従長ら側近たちが火を付けた「女性宮家」論議の検証を試みるのは、より多くの方々に、さらに真剣に考えてほしいと願うからです。

 70年前、未曾有の惨禍を招いた戦争が終結したあと、戦勝国は勝利におごり、敗戦国は憔悴し、新たな無法が吹き荒れていました。そのときインドのラダビノード・パール判事は、

「時が熱狂と偏見とをやわらげた暁には、また理性が虚偽からその仮面を剥ぎ取った暁には、その時こそ正義の女神はその秤を平衡に保ちながら、過去の賞罰の多くに、そのところを変えることを要求するであろう」

 と判決文(反対意見書)の最後を締めくくりました。感情の動物である人間が冷静さを取り戻すには、時が必要です。

 以下の文章は、国民的大議論が燃えさかった平成24年当時、書きためた「斎藤吉久の『誤解だらけの天皇・皇室』メールマガジン」の記事を元にしています。

 その後、新たに得られた知見と考察を加えるなど、大幅に加筆修正し、電子書籍として再構成したのは、時の経過による理性の回復を信じたいからです。

 結論的にいえば、いわゆる「女性宮家」創設論議には、以下のような5つの実態と問題点が、少なくとも指摘されるでしょう。

(1)歴史的天皇像の喪失。天皇論といえば、社会一般に、現行憲法第一主義が浸透し、古来、「祭り主」「祭祀王」とされてきた歴史的な天皇のあり方に対する知識や理解が失われ、関心も払われなくなっていること。

(2)いびつな政教分離論。天皇を「祭り主」と位置づける皇室の伝統と、「国はいかなる宗教的活動もしてはならない」(日本国憲法第20条第3項)と規定する、憲法の政教分離原則を対立的にとらえ、天皇の祭祀を「特定の宗教」とみなして、不当に干渉することが一貫して続いていること。

(3)官僚たちの暴走。昭和の祭祀簡略化も、平成の祭祀簡略化も、側近たちの独断専行で進められたこと。女性天皇・女系継承容認へと踏み出したのも、有能なはずの官僚たちだったこと。「女性宮家」創設論はその延長線上にあるが、その目的とされた、陛下の御公務ご負担軽減を阻むカベもまた官僚社会だったこと。

(4)官僚と政治家と知識人とメディアの四角関係。皇室の伝統におよそ造詣のない政治家の発言をきっかけに、官僚たちの非公式検討が始まり、やがていわゆる御用学者と呼ばれるような知識人が参加し、さらに不正確な報道が加わって、混乱が増していくという実態があること。

(5)学問研究の未熟。天皇統治の本質は祭祀にあるが、天皇論を語るべき学問研究のレベルが時代のニーズに追いついていないために、バランスに欠けた論議が続いていること。とりわけ宗教学、神道学、祭祀学の深化、進展が急務と思われること。


以上、斎藤吉久『検証「女性宮家」論議』(iBooks)から抜粋。一部に加筆修正があります

「象徴」天皇論の宣教師 ──『検証「女性宮家」論議』の「まえがきにかえて」 6 [女性宮家]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2017年4月29日)からの転載です


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「象徴」天皇論の宣教師
──『検証「女性宮家」論議』の「まえがきにかえて」 6
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 以下は、拙著『検証「女性宮家」論議──「1・5代」天皇論に取り憑かれた側近たちの謀叛』からの転載です。一部に加筆修正があります。


まえがきにかえて

宮中祭祀にも「女性宮家」にも言及しない前侍従長インタビュー


▽6 「象徴」天皇論の宣教師


 渡邉前侍従長(いまは元職)は、日経ビジネスの連載企画の趣旨に沿って、「陛下のメッセージ」に言及しています。

「僕が推測するに、天皇陛下がもし仮にここで次の世代に伝えたいことがあったら何かという質問があったら、先の大戦のことをおっしゃると思うんです。80歳のお誕生日のときに、80年で一番印象に残っていることは何かという質問に対して、やっぱりそれは大戦のことだとおっしゃっていますから」

「絶対に戦争のことが忘れられないように語り継がれてほしいと。これは陛下が後世に伝えたい非常に大事なメッセージだと思います」

 編集部の注釈によると、インタビューは平成26年12月1日に行われました。陛下はひと月後、「戦後70年」となる翌年の新年に当たっての「ご感想」で、こう述べられました。

「(終戦から70年の)この機会に、満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び、今後の日本のあり方を考えていくことが、今、極めて大切なことだと思っています」〈http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/gokanso/shinnen-h27.html

 前侍従長がインタビューで語った推察どおりということでしょうか。けれども、私は違うと考えています。

 前侍従長はインタビューのなかで、「終戦のとき小学校3年」だったという戦争の「体験」「記憶」を強調しています。しかし陛下の場合は、けっして個人的な「体験」だけではないと私は思うのです。

「私」的な「体験」からは「私」を離れた「無私の心」は生まれないし、社会的なご活動を重ねることで「無私の心」が生じるなら、明治以前、近代以前の天皇は「無私の心」をお持ちでなかったということなのでしょうか。そんなことはあり得ません。

 陛下が「戦争の歴史」を重視なさるのは、歴代天皇と同様、国と民のために祈られる祭祀王だからでしょう。いつの世も平和だとは限りません。遠く神代の時代に、

「豊葦原(とよあしはら)の中国(なかつくに)は、是(これ)、吾(わ)が児(みこ)の王(きみ)たるべき地(くに)なり」(「日本書紀巻第二」)

 と皇祖天照大神(あまてらすおおかみ)から国の統治を委任されたというお立場であれば、「無私の心」で真剣な祈りを捧げざるを得ません。それが天皇の祭りです。

 曾祖父は宮内大臣、父は「昭和天皇のご学友」、それほどご立派なお血筋の前侍従長に、それが理解されないのか、そんなことはないでしょう。実際、前侍従長は伊勢神宮での講演(平成21年6月)でこう語っています。

「陛下は宮中祭祀にあたって、天皇としての務めを果たすことを誓われ、国民の幸せ、国家の平安、五穀豊穣を祈られるのですが、陛下は祭祀のときだけ突然、そういうことをなさるわけではなくて、私の実感としまして、むしろつねに自然にそういう御心でいらっしゃるということです」(伊勢神宮広報誌「瑞垣」平成21年7月)

 一見、天皇が古来、祭り主とされてきた歴史と伝統を十分に理解しているようにも見えます。けれども、それなら、陛下のご高齢を名目に御公務ご負担軽減に取り組み、実際はご負担軽減どころか、天皇の聖域である祭祀に不当に介入し、さらに皇室の歴史にはない「女性宮家」創設まで提唱し、そして、いままた現行憲法論的「象徴」天皇論の宣教師を演じているのは、なぜでしょうか?

 側近が陛下より憲法に忠誠を誓うことは、謀叛ではないでしょうか。皇室制度改革に名を借りて、皇室の歴史と伝統を否定する革命ではないのでしょうか?


以上、斎藤吉久『検証「女性宮家」論議』(iBooks)から抜粋。一部に加筆修正があります

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