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ご意向=「生前退位」と解釈する所功先生の根拠 後編 ──歴史家の良心を失わないでください [所功天皇論]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2016年9月18日)からの転載です

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ご意向=「生前退位」と解釈する所功先生の根拠 後編
──歴史家の良心を失わないでください
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前編から続く)

▽6 「5年ほど前」ではなく「7年前」

(5)ご意向は皇后さまや皇太子さま、秋篠宮さまも受け入れているという。陛下がお考えを示されたのは5年ほど前で、以来、変わっていないという。

 なぜ「5年ほど前」なのか、所先生は何も説明していません。

 NHKの報道では、「ご意向」が示された背景にあるのは陛下の「ご高齢」で、「象徴としての務めを果たせるものが天皇の位にあるべきで、十分に務めが果たせなくなれば譲位すべきだ」というお考えを一貫して示されてきたと説明されていますが、所先生はここでは触れていません。

 陛下は即位以来、皇室の伝統と憲法の規定とを重視してこられましたから、むしろ「祭祀を十分に行い、ご公務を十分に果たせる者が」とお考えなのだろうと私は思います。つまりNHKの報道は「祭祀」が抜けています。

「祭祀」は「皇室の私事」であり、憲法の政教分離の原則上、国は介入できない、といういつもの判断があるからなのか、ともかく「ご意向」が曲げて伝えられている可能性を私は疑っていますが、所先生の言及はありません。

○ご公務や祭祀のあり方を問われているのではないか

 陛下の「ご意向」が示されたのは、毎日新聞や「週刊新潮」が伝えるところでは、「5年ほど前」ではなくて「7年前」に遡ります。21年、御所と東宮との間にすきま風が生じていたころ、陛下と皇太子殿下、秋篠宮殿下による3者会談が実現しました。

 つまり、ご公務ご負担軽減策、そして平成の宮中祭祀簡略化が始まったころと時期的に重なります。全国植樹祭など三大行幸啓はご臨席のみでお言葉は「なし」となり、宮中祭祀は、皇室第一の重儀とされる新嘗祭が簡略化され、旬祭の親拝が減らされました。

 24年、心臓手術成功のあと、「天皇の任が果たせないならば」と陛下は「ご意向」を漏らされるようになったといわれます。医師団の判断で、過度な肉体的負担を避けなければならなくなったからでしょうか。

 同年6月に風岡典之長官が就任すると3者会談は定例化し、長官もオブザーバーとして同席し、「ご意向」を聞き及ぶことになったようです。

 今年5月、これまで以上のご負担軽減策が提示されると、陛下はことのほか強い難色を示され、「軽減策を出すのなら、なぜ退位できないのか」と反論されたと伝えられます。

 そうだとすれば、陛下は「退位」ではなくて、まして「生前退位」ではなくて、行動主義に基づく「ご公務」や祭祀のあり方を問われているのではないでしょうか。

 その後、押っ取り刀で、宮内庁トップ2人と侍従職トップの2人、それに皇室制度に詳しいOBによる「4+1」会合が開かれるようになり、内閣官房副長官とのすりあわせも行われ、両陛下にも報告されてきたとされています。

 検討課題は、皇室典範改正、元号、退位後の呼称などといわれますが、ご公務のあり方についてはテーマとされたのかどうか。なぜ「生前退位」ばかりがスクープ報道されることになったのか。先生は疑問をいだかれないのでしょうか。


▽7 「ご意向」ではなくて宮内庁の「検討」課題

(6)現行制度では「生前退位」は認められていないが、「摂政」を置くことが認められ、「国事行為の臨時代行」が行われている。

(7)明治の皇室典範は、歴史上、譲位が強制され、政治的混乱が起きたことなどを理由に、皇位継承を天皇の崩御に限定した。現行の皇室典範にも引き継がれている。宮内庁は「生前退位」が認められない理由について、恣意的な退位への懸念などを挙げてきた。

 これについて、所先生は、近代以前の「生前退位」が「強制」や「恣意」による恐れもあったと考えられたからだと説明しているのですが、歴史上、「生前退位」はあったのでしょうか。歴史にあるのはあくまで「譲位」「退位」でしょうが、歴史家のはずの先生はこれまた言及していません。

○「生前退位」を避けてきた宮内庁

 以前、国会では「生前退位」について3回、審議されたことがあると書きました。いずれも参議院で、(1)昭和58年3月18日予算委員会、(2)昭和59年4月17日内閣委員会、(3)平成4年4月7日内閣委員会の3回です。

(2)では、山本悟次長が、皇室典範は退位の規定を持たない。天皇の地位を安定させるためには退位を認めないことが望ましいと承知している。摂政、国事行為の臨時代行で対処できるから宮内庁としては皇室典範を再考する考えはない、と答弁しています。その際、宮内庁が「生前退位」という表現を避けていることは注目すべきです。

 平成の時代になって、国会で「退位」が話題になったのは12回で、うち宮内庁幹部が答弁した直近のケースは、13年11月21日の参院共生社会に関する調査会です。

 羽毛田信吾次長(17年4月から長官)は、退位制度導入を訴える高橋紀世子議員(三木武夫首相の長女)に対し、退位が認められない理由を挙げたうえで、「現在の段階で退位制度を設けるというようなことについては私どもは考えていない」と答弁しています。

 このように昭和の時代も、平成になってからも、「退位」を否定しただけでなく、「生前退位」という表現を避けてきたのが宮内庁です。

○ご意向の前に「生前退位」を検討していた宮内庁

 ところが、です。「週刊現代」平成17年5月21日号によると、同年6月のサイパン御訪問の強行スケジュールが陛下にはかなりのご負担であることから、「生前退位」検討の動きが庁内に出ていると関係者が証言しているというのです。

 この報道が正しいとなると、3者会談で陛下が「ご意向」を漏らされたとされるはるか以前に、ほかでもない宮内庁当局者が「生前退位」を検討していたことになります。ちょうど小泉首相の私的諮問機関である皇室典範有識者会議が開かれていたとき、羽毛田長官の時代で、会議での議論を望む声もあったとされています。

 宮内庁内でいったい何が起きたのでしょうか。

 いわゆる「皇統の危機」を背景に、政府・宮内庁内に皇位継承に関する非公式研究が段階的に進められ、16年5月には女性天皇を容認する極秘文書がまとめられたといわれます。政府部内では、女帝容認・女系継承容認と「女性宮家」創設が一体の形で議論されてきたようです。

 同年末には皇室典範有識者会議が発足し、典範改正は公式検討に移行しました。17年6月のヒアリングでは所先生が女系継承容認、「女性宮家」創設を提案しています。つねに政府サイドで発言する先生の面目躍如です。

 会議の目的は「皇位継承制度の安定的な維持」であり、不安定要因である「退位」もしくは「生前退位」が議論された形跡は議事録などにはうかがえませんが、宮内庁関係者の間では「生前退位」が水面下で話題になっていたのかも知れません。

 羽毛田次長が長官に昇格したのは会議開催中の17年4月で、同年11月には女性天皇・女系継承を容認する報告書が提出されました。報告書には「女性宮家」の表現はありませんが、婚姻後も皇室にとどまるという中身は文章化されています。

○「生前退位」法制化に舵を切った宮内庁の真意

 もしかして、「生前退位」は当局による女系継承容認=「女性宮家」創設論とつながっているのでしょうか。

 次長時代、「退位」制度の検討を否定していた羽毛田氏が、長官就任後、一転して、「生前退位」法制化に大きく舵を切ったように見えるのはなぜか。なぜいまになって宮内庁の検討ではなくて、陛下の「ご意向」とされているのか。

 もしや「生前退位」実現は表向きで、仕掛け人の本当の目的はいったん下火になった女系継承容認=「女性宮家」創設の議論を再開させ、実現させることではないのか。陛下の「退位」表明に、これ幸いと便乗し、皇室典範改正論の復活を号令しようとした人物が複数、いるのではないか。

 国の制度を安定的に維持するため、国の1機関たる天皇の国事行為、それと関連するご公務は最優先されなければなりません。そのため官僚たちが不安定要因である「退位」を否定してきたのは道理ですが、「退位」のご意向を逆手にとり、皇室制度改革に向けて正面突破しようとする関係者が、さりとて正式ルートでの発表はできず、代わりにメディアに「生前退位」をリークしたとすれば、辻褄は合います。

 期待されたのは安倍政権の政治力です。尊皇派が率いる同政権は典範改正には慎重ですが、長期政権化が予想されます。支持率も高い安倍政権に「ご意向」を突きつけて、退路を断ち、典範改正の実現を強く迫ったというのが真相ではないかと想像します。

 ご意向なら、方向転換の責任も回避できます。歴史上、強制や恣意による「退位」とご意向による「生前退位」とは別だと考えられているかも知れません。

 ただ、典範改正派と慎重派との抜き差しがたい対立の再現、堂々巡りの論争は避けようもありません。なればこそ、安倍政権に期待が集まるのでしょう。

 所先生は、NHKの担当者からそのような説明は受けなかったのでしょうか。


▽8 皇室典範改正程度の問題なのか

(8)退位の実現には、皇室典範を改正し、生前退位を制度化することが考えられる。あるいは特別立法も考えられる。検討すべき課題は多岐にわたるとみられ、いずれにせよ国会での審議は避けられない。

 これについて、所先生は、現行法にない「生前退位」の実現には、「天皇が崩じたときは、皇嗣が、直ちに即位する」と定める「皇室典範」第4条を改正し、制度化するのが本筋だが、当代かぎりの特別立法も考えられると解説しています。

 しかしその程度の問題なのでしょうか。

 国会審議が避けられないのは、現行制度上は仰せの通りですが、デメリットもあります。「皇家の家法」とされてきた皇位継承に、専門知識が乏しく、移ろいやすい民の論理を割り込ませることです。それは占領期の混乱の再来であり、前代未聞の椿事です。

 明治の皇室典範は宮内庁、枢密院会議で検討され、勅定されました。憲法とは違って公布されず、しかし憲法と同格の法規であり、憲法が国務法の頂点に立つのと同様、宮務法の頂点に位置しました。改正には議会の議決を要しませんでした。

 現行の皇室典範は日本国憲法の下にある1法律に過ぎません。改正が必要なら、国会で審議せざるを得ません。皇室制度は国民の多数意見によっていつでも変更できることとなったわけです。歴史にない女系継承容認も可能です。けれども、もはや国民的議論は避けられません。

○宮務法体系に代わるものがない

 さらに大きな問題は、戦後、新たな憲法が制定され、天皇=「象徴」と明記されながら、この70年、皇室制度の名に値するものが整備されてこなかったことではないでしょうか。

 明治の典憲体制下では、皇室典範を頂点とする宮務法の体系が形成されましたが、戦後、新憲法施行とともに、新しい皇室典範は1法律に格下げされ、皇室令はすべて廃止されました。しかし宮務法体系に代わる新たな法制度はいっこうに形成されませんでした。

 たとえば御代替わりに関しては、かつては登極令(明治42年公布)、皇室服喪令(同)、皇室喪儀令(大正15年制定)、皇室陵墓令(同)がありましたが、戦後はこれに代わるものがありません〈http://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/kunaicho/hourei.html〉。

 未曾有の敗戦のあと、「宗教を国家から分離すること」を目的とする、苛烈な神道指令が発せられました。古来、皇室第一のお務めとされてきた祭祀は「皇室の私事」として存続することとなりました。「いずれきちんとした法整備を図る」というのが政府の方針だったようですが、いまもって果たされぬままです。

 皇室令は全廃され、宮務法の体系は失われましたが、日本国憲法施行の前日、宮内府長官官房文書課長の依命通牒、いまでいう審議官通達が発せられました。

「従前の規定が廃止となり、新しい規定ができていないものは、従前の例に準じて、事務を処理すること」(第3項)。

 これによって皇室祭祀令および附式に記された宮中祭祀の祭式は占領下でも、社会党政権下でも、存続することとなりました。

 しかし独立回復で神道指令などが効力を失ったのちも、かつての宮務法体系に代わる象徴天皇制度の法体系が整備されることはありませんでした。明文法的基準がないのです。

 日本法制史の専門家である所先生は、なぜその点を問いかけないのですか。それどころか、「生前退位」がご意向だと信じ込み、典範改正論議の再開を目の前にして、喉を鳴らしているかのように見えます。

○絶大なご意向の威力

 昭和40年代以降、入江相政侍従長の独断専行で祭祀簡略化が起こり、さらに富田朝彦長官が登場すると、政教分離の厳格主義によって祭祀改変が一段と進みました。古来、祭り主とされてきた天皇は制度上、日本国憲法に基づく象徴以外の何ものでもなくなったかのようです。現在の宮内庁にとって、宮中祭祀は占領軍と同様、「皇室の私事」です。

 依命通牒第3項によって守られてきた、天皇第一のお務めである祭祀は、ほかならぬ依命通牒の第4項「従前の例によれないものは、当分のうちの案を立てて、伺いをした上、事務を処理すること」によって、祭式の変更が余儀なくされました。判断基準は政教分離であり、最大の変更は毎朝御代拝でした。

 宇佐美毅長官の時代、皇太子殿下(今上天皇)の賢所での御結婚の儀は「国の儀式」(天皇の国事行為)とされたのに、続く富田長官の時代には宮内官僚の祭祀への関与が敬遠されることとなり、平成の御代替わりでは大嘗祭は「皇室の行事」とされたのです。

 皇室典範有識者会議が開かれていたとき、議論の行方を憂慮された寛仁親王に対して、羽毛田長官は「皇室の方々は発言を控えていただくのが妥当」と口を封じました。

 続く風岡典之長官は、「御陵および御葬儀のあり方」を公表し、御陵の規模の縮小、御火葬の導入に踏み切りました。打ってかわって「両陛下の御意向を踏まえ」との説明でした。

 宮内庁にとって、御葬儀は「皇室の行事」です。「国の行事」ではありません。政教分離の厳格主義に基づいて、国の行事と皇室行事との分離挙行という昭和の先例踏襲が早くも宣言されたのです。検討過程は非公開でした。

 議論らしい議論が起きなかったのは「ご意向」の絶大な威力によるのでしょう。これに味を占めたのか、今回の「生前退位」実現も「ご意向」が出発点とされています。

 蛇足ながら、昭和28年1月、秩父宮雍仁親王が薨去されました。親王は遺書に「遺体を解剖に伏す」「火葬にする」「葬儀は無宗教で」と綴られており、「遺志を尊重するように」との昭和天皇の勅許を得て、親王喪儀が簡略化された神道形式で行われたあと、一般告別式は無宗教で執行されました。


▽9 近代日本に「皇太弟」はいない

(9)皇太子さまが即位されると秋篠宮さまが皇位継承順位1位に繰り上がるが、皇太子にはなれない。このため秋篠宮さまの位置づけも検討の対象となる。

(10)皇太子さまが即位されると、新たな元号に改められる。

 これについて、所先生は、皇太子殿下が皇位を継承されたのち、弟君の秋篠宮殿下は皇位継承順位1位になっても、「皇嗣たる皇弟」と位置づけられず、皇太子不在になるので、第8条「皇嗣たる皇子を皇太子という。皇太子のないときは、皇嗣たる皇孫を皇太孫という」の改正も避けられない、と解説しています。

 けれども、天皇・皇室史に詳しい所先生なら百も承知でしょうが、皇太子不在は歴史的に珍しいことではないと思います。そしてこれは皇位継承問題というより、皇太子不在によって東宮職が廃止され、官僚たちも不要になり、職を失うという官僚たちの失業問題なのではありませんか。

 明治以後を見てみると、明治天皇の践祚は慶応3(1867)年1月、即位の礼は明治元(1868)年8月で、嘉仁親王(明治12年8月生まれ。のちの大正天皇)が立太子されたのは明治22年11月、この間、約20年にわたり、皇太子は不在でした。

 大正天皇の践祚は大正元(1912)年7月、即位の礼は大正4(1915)年11月でした。裕仁親王(明治34年4月生まれ。のちの昭和天皇)の立太子の礼は翌5年11月に行われました。旧皇室典範下では、立儲令(明治42年)に「皇太子を立つるの礼は勅旨に由り之を行う」(第1条)などと定められていました。

 昭和天皇の践祚は昭和元(1926)年12月、即位の礼は3年11月で、明仁親王(昭和8年12月生まれ。今上陛下)の成年式・立太子の礼が行われたのは27年11月です。この間、明仁親王ご誕生まで、皇位継承第1位だった、昭和天皇の弟君・秩父宮雍仁親王が「皇太弟」と称されたことはあったのでしょうか。

 旧皇室典範は「儲嗣たる皇子を皇太子とす。皇太子在らざるときは儲嗣たる皇孫を皇太孫とす」(第15条)と定め、「皇太弟」の規定はありませんでした。現行皇室典範の第8条は内容をそのまま引き継いでいるだけです。

 今上天皇の皇位継承は平成元年1月で、即位礼正殿の儀は2年11月に行われました。徳仁親王(昭和35年2月生まれ。いまの皇太子殿下)の立太子の礼は3年2月でした。なお平成の御代替わりでは、「践祚」という用語と概念が消え、古代からの践祚と即位の区別が失われました。これも明文法的基準が失われた結果です。

○歴史家なのか運動家なのか

 所先生は皇室典範第8条の改正の必要性を訴えていますが、それよりも立儲令に代わる法的整備の方が求められているのではありませんか。

 旧皇室典範下には、皇族会議令、皇室祭祀令、登極令、摂政令、立儲令、皇室服喪令、皇族身位令、皇室財産令、皇族服装令など宮務法の体系が定められ、皇室典範自体、明治40年と大正7年の2度にわたって増補が行われています。

 以上のようなことは、所先生には常識のはずですが、先生はなぜか皇太子不在がさも未曾有の異常事態到来であるかのように喧伝し、典範改正が不可避だと力説しています。先生の執念は、「生前退位」の「ご意向」実現というより、皇室典範改正論議を巻き起こすことの方に重心があるのでしょうか。

 つまり、天皇・皇室の歴史を正確に叙述する歴史家に飽き足らず、新たな歴史を切り開くことに意欲満々な運動家と映ります。

 そういえば、女系継承容認=「女性宮家」創設論議のときもそうでした。小泉内閣の皇室典範有識者会議に招かれ、歴史にない女系継承容認のみならず、「女性宮家」創設をもいち早く提唱したのが、ほかならぬ所先生でした。当時の週刊誌は先生を、「女性宮家」創設優先を訴える研究者として紹介しているくらいです。「女性宮家」ヒアリングで持論を展開されたのはむろんです。

○仕掛け人たちにとっては便利

 それほど「女性宮家」創設論のパイオニアとして圧倒的存在感を示す先生ですが、皇室の伝統を可能なかぎり維持すべきだといいつつ、歴史にない「女性宮家」創設を可能にすべきだと訴えるのは論理矛盾です。しかも一方で、「継嗣令」や淑子内親王の例を挙げ、女系継承や「女性宮家」が歴史にあったかのような議論を展開したのが先生でした。

 先生は「前例はある」と主張したいのか、それとも「前例はないが大胆に新例を開くべきだ」と訴えたいのか、私にはワケが分かりません。

 今回も同様です。先生が議論しているのは過去に前例のある「退位」なのか、それとも歴史に存在しない「生前退位」なのか。

 ただ、新例を開こうとする仕掛け人たちにとっては、皇室の歴史と伝統の堅持を高らかに宣言し、そのために歴史の断片を提示したうえで、シナリオどおりに表舞台で踊ってくれるような先生はきわめて便利です。だから存在感はなおのこと増すのでしょう。

 しかし、歴史家には失ってはならない歴史家の良心があるはずです。歴史家である先生にとって、歴史の事実とは何なのか。事実の前に謙虚さを保ち続ける歴史家の魂が失われることがないようにと、私は心から願わずにはいられません。

(終わり)

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