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稲と粟による複合儀礼 ──両論併記にとどまる百地先生の「大嘗祭」論 4 [百地章]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2017年9月5日)からの転載です


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稲と粟による複合儀礼
──両論併記にとどまる百地先生の「大嘗祭」論 4
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 拙著『検証「女性宮家」論議──「1・5代」天皇論に取り憑かれた側近たちの謀叛』からの抜粋を続けます。一部に加筆修正があります。


第4章 百地章日大教授の拙文批判に答える

第5節 両論併記にとどまる百地先生の「大嘗祭」論


▽4 稲と粟による複合儀礼

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 大嘗祭が稲作儀礼だとする「第1説」も、妥当とはいえません。いつも申し上げますように、粟(あわ)が登場するからです。

 大嘗祭については、古代から多くの記録が残されています。それらによると、悠紀(ゆき)国・主基(すき)国で収穫された米と粟の新穀を、古来の作法に従って、ピンセット型の竹折箸を用い、新帝みずから神々に捧げ、ご自身も召し上がるというのが祭祀の中心と説明されています(田中初夫『践祚(せんそ)大嘗祭 研究篇』など)。

 天皇が即位後、最初に斎行される、一世一度の新嘗祭が大嘗祭ですが、新嘗祭も大嘗祭も、米と粟による複合儀礼です。

 ある古い文献には、大嘗宮の儀で新帝が神前に供する神饌御進供で、天皇はまず米飯を3箸、つぎに粟飯を3箸、枚手(ひらで)に盛り、陪膳(はいぜん)の采女(うねめ)に返し、陪膳はこれを神食薦(かみのすごも)のうえに置く。御飯の枚手は10枚、供せられる、などと生々しく説明されています。

 こうした先人たちの研究に、百地先生も実際に直接、接していれば、粟の存在に容易に気づくはずであり、したがって稲作信仰に基づく宗教的な儀礼とは考えなかったはずです。祭祀=「皇室の私事」説に与することもなかったでしょう。

 逆に考えてみましょう。

 皇室を中心に天孫降臨神話が伝えられてきたのは、誰でも知っています。もし天孫降臨神話のような特定の信仰に基づいて、稲の新穀を皇祖天照大神に捧げ、新帝みずから召し上がるというのが「大嘗祭の本質」だとすれば、大神を祀る賢所で稲の新穀を捧げればすむことです。大嘗宮を建て(毎年11月の新嘗祭なら神嘉殿で)、皇祖神ほか天神地祇を祀り、米と粟の新穀を捧げる必要はないのではありませんか?

 そんなことは、少し考えれば分かることでしょう。

 天孫降臨神話に基づいて10月に行われる神嘗祭なら、大神を祀る賢所で、米の新穀が主として供されます。けれども大嘗祭(新嘗祭も同様)は異なります。大嘗宮(新嘗祭なら神嘉殿)に大神のみならず天神地祇が祀られ、主に米と粟の新穀が、天皇ご自身によって供されるのみならず、天皇が神前で直会なさいます。

 百地先生が説明する、

「稲穂はニニギノミコトが天照大神から授けられたもの」

 などとする特定の信仰に基づいて、

「天皇が神聖な稲穂で炊かれた御膳を神にお供えすると共に自らも召し上がられる」

 というような、特定の信仰に基づく宗教的な儀礼という理解ではまったく不十分だということになります。

 ただ、先生だけを責めることはできません。多くの人たちが大嘗祭=稲作儀礼という考えにとらわれていることも確かだからです。


以上、斎藤吉久『検証「女性宮家」論議』(iBooks)から抜粋。一部に加筆修正があります


☆ひきつづき「御代替わり諸儀礼を『国の行事』に」キャンペーンへのご協力をお願いいたします。
 このままでは悪しき先例がそのまま踏襲されるでしょう。改善への一歩を踏み出すために、同憂の士を求めます。
 おかげさまで賛同者が300人を超えました。
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両論併記にとどまる百地先生の「大嘗祭」──百地章日大教授の拙文批判を読む その5 [百地章]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2013年3月3日)からの転載です


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 両論併記にとどまる百地先生の「大嘗祭」
 ──百地章日大教授の拙文批判を読む その5
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 百地章日大教授の「大嘗祭」論について、続けます。
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 なお、念のため申し上げますが、私は先生を個人攻撃しているのではありません。ケンカを売っているのでもありません。日本の歴史そのものと関わる皇室の伝統を守るために、感情的になるのではなく、冷静な学問研究の深まりを願っているのです。

 さて、大嘗祭とはいかなるものなのか、先生は大嘗祭をどうお考えなのでしょう? 残念ながら、先生には大嘗祭について、「論」というほどの中味がありせん。

 大嘗祭とは何か、学問的考察が不十分なまま、宮中祭祀一般=「皇室の私事」、大嘗祭=皇位継承の重儀=「皇室の公事」という憲法理論を立てたということです。そんなことって、あり得るんでしょうか?

 もし先生が、大嘗祭の何たるかを少しでも考察していたなら、宮中祭祀=「皇室の私事」などとする、「1・5代」象徴天皇論者に塩を送るような憲法論をうち立てる必要はなかったのではないか、と私は悔やんでいます。

 学問的な追究不足がオウンゴールを招いたのです。返す返すも残念です。


▽1 特定の信仰に基づく宗教的儀礼

 具体的に見てみましょう。

 御代替わり当時、先生が政府に進言したと説明されている「憲法と大嘗祭」(『政教分離とは何か』の第10章)に、「大嘗祭の本質」についての説明があります。

 驚いたことに、本文ではなく補注です。しかも、学術書ではなく一般読者向けの歴史雑誌を参考資料として掲げ、

「大きく2つの見方があり、そのいずれかに力点が置かれているようである」

 として、2つの説を併記し、わずか10数行で説明するにとどまっています。

 つまり、ご自身ではこれ以上の学問的考察を加えていないのです。「ようである」という表現も、

「そもそも行うか行わないかが大問題」(石原信雄元内閣官房副長官)

 になっている大嘗祭について、「憂慮」した第一線の研究者にしては、ずいぶんとのんびりしています。

「闘い」の人には、大嘗祭が斎行できるか否か、だけが関心事なのでしょうか? 守るべき対象の何たるかを見極めずに、「闘い」を挑む姿勢は、私には無謀としか見えません。

 先生によると、2つの説のうち、「第1説」は「天皇が神聖な稲穂で炊かれた御膳を神にお供えすると共に自らも召し上がられる(大嘗を聞こし召す)こと、つまり神と天皇が神饌を共に食し合う(共食)するということに主眼を置く説」です。

「第2説」は

「大嘗祭において天皇は大嘗祭の中に設けられた寝所の『真床覆衾(マドコオブスマ)』にくるまれることによって天照大神と一体となり、新たに生まれかわられるということを重視するもの」

 であると説明されています。

「第1説」については、

「稲穂はニニギノミコトが天照大神から授けられたものであり、天照大神の霊威が籠もっている」

 などという、特定の宗教的な考えが背景にあると解説されています。

 いずれの説にしても、「大嘗祭の本質」は一定の宗教的な考えに基づく宗教的儀礼だということです。両論併記にとどまる百地先生もまた、そのようにお考えなのでしょうか?

 ここにそもそもの問題があると、私は思います。


▽2 宗教儀礼ではなく国民統合儀礼

 石原副長官が回想するように、政府は

「きわめて宗教色が強い」

 と考えていました。このため

「大嘗祭をそもそも行うか行わないかが大問題になりました」。

 これに対して、先生もまた大嘗祭=宗教的儀礼と思い込み、疑問を感じなかった。したがって独自の考察を加えることはなかったのでしょう。

 議論の出発点は同じなのです。ただ、先生自身が説明しているように、大嘗祭=「皇室の公事」として斎行できるとする憲法理論を構築したのでした。

 大嘗祭=宗教的儀礼=「皇室の私事」ではなく、大嘗祭=宗教的儀礼だが、大嘗祭=皇位継承儀礼=「皇室の公事」に、憲法理論によって転換させたというわけです。これを先生は、「闘い」の成果として誇っているのです。

 しかし、大嘗祭は特定の信仰に基づく宗教的儀礼ではない、としたらどうでしょうか? 先生流の力業は不要ですし、皇室伝統の宮中祭祀を「皇室の私事」と決めつけ、「1・5代」論者に塩を送るオウンゴールも防げます。

 大嘗祭の儀礼には、むしろもっと大きな意義がある、と私は考えています。

 当メルマガの読者ならすでにご存じのように、大嘗祭は宗教的儀礼というより、国民統合の儀礼であると見ることができます。

 御代替わり当時、大嘗祭=国民統合の儀礼として理論化していれば、大嘗祭をドグマチックな政教分離問題から解放し、国事として斎行することもできたのではありませんか?

 けれども、問題意識も探究心もないとすれば、両論併記で思考を停止させてしまえば、それは不可能です。


▽3 折口信夫の真床覆衾論

 2つの説の妥当性について、少し考えてみましょう。

 まず「第2説」です。

 先生は真床覆衾論の例として、民俗学者として名高い折口信夫の「大嘗祭の本義」(『折口信夫全集第3巻』などを挙げています。当メルマガ2009年3月17日号に書きましたように〈http://melma.com/backnumber_170937_4416520/〉、確かに『折口全集』には何編か、大嘗祭の儀礼に言及した論考や講演録が載っています。

 たとえば、昭和9(1934)年12月の「神葬研究」に掲載された「上代葬儀の精神」(『折口全集第20巻』所収)には、概要、次のようなことが書かれています。

──大嘗宮にお衾(ふすま)が設けられ、鏡やお召し物、靴があるのは、先帝およびご祖先の亡骸(なきがら)がそこにあると考えられているからである。死という観念のない昔は、新帝はお衾に入られたに違いない。いまはどうか分からないが、昔はお衾に入られて、鎮魂の歌、諸国の国ぶりの歌をお聞きになっている間に、天皇の魂がつく。廻立殿(かいりゅうでん)のお湯をお召しになると昔のことが流されて、生まれ変わったと同じことになる。

 古代人は、他界から来てこの世の姿になるには何かあるものの中に入っていなければならない。「ものがなる」ためにはじっとしている時期が必要だと考えた、というのが折口説の前提です。

 物忌みといって籠もるのは、布団のようなものをかぶってじっとしていることであり、大嘗祭の真床覆衾がそれである、と折口は考えたのです。

 大嘗宮に設けられた神座が八重畳(やえだだみ)のうえに坂枕(さかまくら)をおき、覆衾をかけた寝座であることから、折口は、天孫降臨に際して瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が真床覆衾にくるまって降りてこられたとする神話と連関させ、新帝が覆衾にくるまって天皇としての新たな生命を得る儀式がかつてあったのではないか、とあくまで想像しているのです。

 折口は、いまは行われているか分からない。いまは行われていなくても、昔は……とイマジネーションを膨らませているのです。

 じつは御代替わり当時、大嘗宮の儀で新帝が先帝の遺骸に添い寝する、というオカルト的なことが今も行われているかのような折口流の主張がなされ、宮内庁内ではこの真床覆衾論の広がりを非常に心配していたといわれます(「文藝春秋」昨年2月号掲載の永田元掌典補インタビュー。聞き手は私です)。
http://melma.com/backnumber_170937_5540785/

 しかし実際は、といえば、内閣官房が編集・発行した『平成即位の礼記録』も、宮内庁がまとめた『平成大礼記録』も、本来、「秘儀」とされる大嘗宮の儀について、公開が避けられてきた采女(うねめ)の所作にまで言及し、詳細に記録していますが、それでも真床覆衾論的な内容はまったく見当たりません。


▽3 稲と粟による複合儀礼

 大嘗祭が稲作儀礼だとする「第1説」も、妥当とはいえません。いつも申し上げますように、粟(あわ)が登場するからです。

 大嘗祭については、古代から多くの記録が残されています。それらによると、悠紀(ゆき)国・主基(すき)国で収穫された米のみならず粟の新穀を、古来の作法に従って、ピンセット型の竹の箸を用い、新帝みずから神々に捧げ、ご自身も召し上がるというのが祭祀の中心と説明されています(田中初夫『践祚(せんそ)大嘗祭 研究篇』など)。

 天皇が即位後、最初に斎行される、一世一度の新嘗祭が大嘗祭ですが、新嘗祭も大嘗祭も、米と粟による複合儀礼です。

 ある古い文献には、大嘗宮の儀で新帝が神前に供する神饌御進供で、天皇はまず米飯を3箸、つぎに粟飯を3箸、枚手(ひらで)に盛り、陪膳(はいぜん)の采女(うねめ)に返し、陪膳はこれを神食薦(かみのすごも)のうえに置く。御飯の枚手は10枚、供せられる、などと生々しく説明されています。

 こうした先人たちの研究に、百地先生も実際に接していれば、粟の存在に容易に気づくはずであり、したがって稲作信仰に基づく宗教的な儀礼とは考えなかったはずです。祭祀=「皇室の私事」説に与することもなかったでしょう。

 逆に考えてみましょう。

 皇室を中心に天孫降臨神話が伝えられてきたのは、誰でも知っています。もし天孫降臨神話のような特定の信仰に基づいて、稲の新穀を皇祖天照大神に捧げ、新帝みずから召し上がるというのが「大嘗祭の本質」だとすれば、大神を祀る賢所で稲の新穀を捧げればすむことです。

 大嘗宮を建て(毎年11月の新嘗祭なら神嘉殿で)、皇祖神ほか天神地祇を祀り、米と粟の新穀を捧げる必要はないのではありませんか?

 そんなことは少し考えれば分かることでしょうに。

 天孫降臨神話に基づいて10月に行われる神嘗祭なら、大神を祀る賢所で、米の新穀が主として供されます。けれども大嘗祭(新嘗祭も同様)は異なります。天神地祇が祀られ、米と粟が主に供されます。

 百地先生が説明する、

「稲穂はニニギノミコトが天照大神から授けられたもの」

 などとする特定の信仰に基づいて、

「天皇が神聖な稲穂で炊かれた御膳を神にお供えすると共に自らも召し上がられる」

 というような、特定の信仰に基づく宗教的な儀礼という理解ではまったく不十分だということになります。

 ただ、先生だけを責めることはできません。多くの人が大嘗祭=稲作儀礼という考えにとらわれていることも確かだからです。


▽4 稲作儀礼なら国民統合儀礼とはならない

 内閣官房が編集・発行した『平成即位の礼記録』によると、即位の礼準備委員会は大嘗祭について、次のように説明しています。

「大嘗祭は、稲作農業を中心としたわが国の社会に、古くから伝承されてきた収穫儀礼に根ざしたものであり、天皇が即位の後、はじめて、大嘗祭において、新穀を皇祖および天神地祇にお供えになって、みずからお召し上がりになり、皇祖および天神地祇に対し、安寧と五穀豊穣などを感謝されるとともに、国家・国民のために安寧と五穀豊穣などを祈念される儀式である。
 それは、皇位の継承があったときは、かならず挙行すべきものとされ、皇室の長い伝統を受け継いだ、皇位継承に伴う一世一度の重要な儀式である」

 このため、

「趣旨・形式などからして、宗教上の儀式としての性格を有すると見られることは否定することができず、また、その態様においても、国がその内容に立ち入ることは馴染まない性格の儀式であるから、大嘗祭を国事行為として行うことは困難である」

 として、皇室の行事として位置づけられることになったのでした。

 まさに、百地理論そのままのように見えます。

 しかし、「稲作儀礼である」とともに「国家・国民のための儀式である」とする、「ともに」の部分が理解しづらいところです。

 御代替わりに国民統合の儀礼が行われるということはよく理解できます。統治者の使命は国と民をまとめ上げ、社会の平和を保つことだからです。

 けれども、なぜ稲作儀礼が国民統合の儀礼となり得るのでしょうか?

 ご承知のように、稲は帰化植物です。日本列島は必ずしも米作適地ではありません。日本人は昔から米を主食としてきた稲作民族だと考えるのは、誤りです。コメ余り現象が起きるようになったのはつい最近のことであり、いまでも十分に米が穫れない地域は少なくありません。主たる神饌が米でないという神社はたくさんあります。

 つまり、水田稲作民ではない畑作の民が国中にたくさんいるのです。畑作民には畑作民の暮らしがあり、神があります。それらを含めて、国と民をひとつにまとめ上げるには、稲作儀礼では不可能です。

 国中の民が信じるあらゆる神々に、それぞれの命の糧である田のもの、畑のものを捧げ、祈るからこそ、収穫儀礼は国と民を統合する儀礼となり、統治者の即位儀礼となり得るではないでしょうか?


▽5 複数の宗教的源流をもつ国民統合の儀礼

 世界で約12億人以上といわれるカトリック信徒の王であるローマ教皇は、もちろんカトリックの典礼を行います。イスラムの祈りを捧げることはありません。イスラムの王ではないからです。東方教会やプロテスタントの王ですらありません。

 数年前、ベネディクト16世がイスタンブールのブルー・モスクに詣で、黙祷したことが世界中の共感を呼びましたが、イスラムの神に祈りを捧げたわけではないでしょう。一神教世界では「わたしのほかに神があってはならない」とされているからです。

 しかし天皇は古代から、皇祖神のみならず、あらゆる神に祈りを捧げてきました。

 古代律令制の定めのひとつである「神祇令(じんぎりょう)」の「即位の条」には、

「およそ天皇、位に即(つ)きたまわば、すべて天神地祇を祭れ」

 と記されています(田中『践祚大嘗祭 研究篇』)。

 歴代天皇は古来、万民のため、万民が信じるあらゆる神々に祈ることを、第一のお務めとしたのです。

 民が信じるすべての神に祈りを捧げるとすれば、祭式は複合的になります。稲作民の稲と畑作民の粟が供される所以かと思います。

 日本には古くから粟の民俗があったようで、『常陸国風土記』には「新粟の新嘗」のことが記録されています。

 野本寛一近畿大学名誉教授(民俗学)は『焼畑民俗文化論』のなかで、水田稲作以前の民が粟や芋を栽培していたこと、粟や麦を主食とする焼畑の村ではかつて旧暦10月10日にアワオコワやオカラク(粢[しとぎ])を畑神様に捧げていたこと、などを紹介しています。

 それぞれの民は自分たちのために、それぞれの神に祈ります。しかし天皇は国と民をひとつにまとめるため、私なきお立場で、すべての民が信じるすべての神に祈ります。御代替わりに行われる大嘗祭は、水田稲作民の米と畑作民の粟を捧げる複合儀礼であり、複数の宗教的源流をもつ国民統合の儀礼なのだと思います。

 皇居内に水田を設け、稲作を始められたのは昭和天皇ですが、今上天皇は粟の栽培に着手されました。さすが陛下だと私は思います。

 血生臭い宗教対立を経験することなく、日本の歴史が平和的に連綿と続いてきたのは、歴代天皇が国民統合の儀礼を第一のお務めとして実践されてきたからではないか、と私は考えます。

 御代替わり当時、もし百地先生が、大嘗祭=国民統合の儀礼という理論を立てていたら、宮中祭祀一般=「皇室の私事」説を唱える必要はなかったでしょう。

 つづく。

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依命通牒の「廃止」をご存じない──百地章日大教授の拙文批判を読む その2 [百地章]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2013年2月11日)からの転載です

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 依命通牒の「廃止」をご存じない
 ──百地章日大教授の拙文批判を読む その2
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 今日は建国記念の日です。

 一般全国紙の朝日新聞も読売新聞も、少なくとも電子版では、関連記事が見当たりません。毎日新聞が「懐かしのニュース」で制定当時の各地の風景を伝えている程度です。
http://mainichi.jp/feature/nostalgicnews/news/20130131dog00m040056000c.html

 これに対して、産経新聞は異色なことに、「主張」(社説)で取り上げ、政府主催の式典開催を求めています。

 戦前の紀元節は国民の一致団結を呼びかける意味があったが、敗戦後、GHQによって廃止された。昭和42年に「建国記念の日」として復活したが、市民活動家らはいまも「国家主義の復活」などと訴えている。理解に苦しむ。いまこそ建国の歴史を学び、誇りを取り戻すときだ、というのです。
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130211/plc13021103400004-n1.htm

 訴えたいことはきわめてよく理解できますが、なぜ占領軍は紀元節を廃止することになったのでしょうか? その視点が抜けています。

 昭和20年暮れにいわゆる神道指令が発せられ、駅の門松や注連縄が撤去されました。「国家神道」の中心施設とされた靖国神社の爆破計画さえありました。日本語のローマ字化も考えられました。「国家神道」の教義とされる教育勅語は廃止されました。歌舞伎の忠臣蔵も上演できなくなりました。日本の戦争は侵略とされました。

 なぜなのか? アメリカが考えていた「国家神道」とは何だったのか、が解明されなければなりません。

 アカデミズムもジャーナリズムも歴史的事実の追究が不十分です。保守派も左派も同様です。学問的な研究が浅く、目の前の現象ばかりを追いかける。観念的な政治運動が幅を利かせることになり、一方、マスメディアは政治的に黙殺しています。

 であるなら、産経が「主張」する政府主催の式典開催は国を一致させるどころか、分裂を招きかねません。確かに国が1つにまとまることは必要です。国民の誇りも必要です。そのためには、学問研究の発展が必要です。

 さて、本文です。


▽1 全体が見渡せない

 前回から、なぜ百地章先生は逆上したのか、を考えていますが、「建国記念の日」と同じことがいえると思います。

 高校時代、幾何学の得意な同級生がいました。冴えない風貌で、いつもは目立たないのですが、難問に苦しむ私たち凡才たちを前にして、彼が一本の補助線を引くと、教室にどよめきが走りました。天才だと私は思いました。

 たった1本の補助線で問題の核心が瞬時に明らかになる、というのは数学の世界だけではありません。

 私が月刊「正論」の連載で恩義ある3人の先生方を取り上げ、あえて批判したのは、いわゆる「女性宮家」論議の混乱ぶりを憂え、解決への方向性を著名な先生たちの研究者としての良心に期待したからです。

 けれども、私の意図は完全に裏切られました。百地先生はすさまじい剣幕で、私を「粗雑な頭脳」と罵っています。

 なぜ先生は逆上したのか、を解明する補助線は、前回、書いたように、先生自身がカミング・アウトしているように、「闘い」の人だということです。学問研究より、政治運動が優先されているということです。

 格闘技では、リングに現れた目の前の敵を倒すことが、レスラーにとっての王者の印です。しかし相撲の世界でいえば、幕下力士ならいざ知らず、横綱ともなれば、目の前の敵と戦うことより、相撲道を志し、角界全体を考えるようになります。

 百地先生の逆上は完全な読み違い、思い違いによるものだ、と私は確信しますが、その原因は、連載全体を読まずに第2回しか読まない、民主党政権下での皇室制度改革が「女性宮家」創設問題としてしか理解できない、つまり問題の全体ではなく、目前の敵しか見ない、目に映らない、という近視眼的な政治運動家の性癖に由来するのかと思われます。

 いままではそれですんでいたのでしょう。いみじくも先生は「闘い」の成果を誇っています。

 成功体験があればなおのこと、私が訴えたような戦後皇室行政史の全体を見渡すことなど、先生には思い浮かばないのかもしれません。

 依命通牒に関する先生の反応には、そのことが余すところなく示されているように私には見えます。

▽2 「依命通牒」と「女性宮家」は無関係か?

 百地先生はこう書いています。

「氏によれば、『依命通牒の廃棄』(?)という事実を知らなければ、女性宮家問題の本質は分からない、ということらしい。しかし、『依命通牒』と『女性宮家』とは無関係である」

 私の連載は、戦後の皇室関係行政史全体の流れを追い、「女性宮家」創設論誕生の経緯を追っています。つまり、ポイントはこうです。

(1)昭和22年5月の日本国憲法施行に伴い、皇室祭祀令など皇室令が廃止されたものの、同時に宮内府長官官房文書課長の「従前の例に準じて」とする依命通牒によって、天皇の祭祀の伝統は辛うじて守られた。

(2)しかし40年代以降、皇室の伝統より憲法を優先する考えが行政全体に蔓延し、宮中祭祀の伝統が破壊されていった。

(3)一大転換をもたらしたのは、50年8月15日の長官室会議であり、依命通牒の破棄であった。

(4)宮中行事の明文的根拠が失われたことで、御代替わりの諸行事は大きな影響を受けた。

(5)125代続く皇室の伝統を二の次にする考えは、女性天皇・女系継承を容認する皇室典範改正へと引き継がれ、女性天皇容認と一体のかたちで「女性宮家」創設論は生まれた。

 戦後の官僚たちは、憲法の規定、とりわけ政教分離の厳格主義を金科玉条とし、祭祀王としての天皇を否定し、祭祀を簡略化し、天皇を名目上の国家機関である「象徴」とする道を求めてきた。その中に「女性宮家」創設は位置づけることができるし、依命通牒の廃棄こそ、皇室行政史上の画期です。

 百地先生はなんでも断定することがお好きのようですが、「『依命通牒』と『女性宮家』とは無関係である」と断定すべきではありません。

 先生は第2回しか読んでいないために、そのように反応するほかなかったのかもしれません。(5)は「文藝春秋」2002年3月号の森暢平元毎日新聞記者の記事が基礎になっていますが、そのことは第1回に書きました。


▽3 依命通牒不掲載の通知が回った

 百地先生の反論に、じつは私は期待していました。依命通牒について新しい情報が得られるかもしれない、と思ったのです。

 しかしこれも完全に裏切られました。先生はこう書いています。

「ちなみに、依命通牒が『廃棄』されたかどうか、真偽の程は定かでない。また仮に『宮内庁法令集』から『消えた』というだけで法令が『失効』するのなら、現行憲法についても、『法令集』から取り除いてしまえばそれだけで『失効』させることができるのだろうか」

 要するに、詳細はなにもご存じないのでしょう。関心もないのでしょうか。

 渦中にあった宮内庁OBの証言によれば、昭和50年8月15日の長官会議室以後、『宮内庁関係法規集』に依命通牒を掲載しないとする通知が庁内に回りました。このためとくに祭祀を担当する掌典職では、大きな話題になりました。いまでこそ会議のことは入江相政侍従長など側近の日記で知られますが、当時の職員には寝耳のことでした。

 依命通牒の第1項は「新法令ができているものは、当然夫々の条規によること」です。たとえば、皇室典範、宮内府法、皇室経済法などがそれに当たります。法律が改正されれば、新法に従うのはごく当たり前のことです。

 問題は第3項です。「従前の条規が廃止となり、新しい規定ができないものは、従前の例に準じて事務を処理すること」とあります。宮中祭祀がこれに当たります。祭祀令は廃止されたけれども、新法はない。皇室の伝統をどう守ればいいのか。依命通牒は「従前の例に準じて」とし、各部局長官に通達したのです。

 ところが、40年代になり、入江侍従長は昭和天皇の御健康問題を口実にして、祭祀の改変に手をつけました。そして50年8月、依命通牒が廃棄されます。

 とくに掌典職の職員たちの間に、大きな動揺が走りました。「たいへんなことになった。これからどうなるのか。伝統の祭祀に素人が口を出すようになったら困る」。祭祀の明文的根拠を失ったことで、「陛下のご意向」を根拠に、何でもできることになってしまうのではないか、という恐れもありました。

 そこで自発的な勉強会が庁内で始まりました。外部の神道学者との連携も模索されました。そうした努力は御代替わりまで続いたのでした。

 実際、御代替わりでは、践祚(皇位継承)と即位との区別が失われるなど、さまざまな変更が起こりました。根拠は政教分離規定です。平成の祭祀簡略化は、昭和の先例と今上陛下のご意向を根拠として行われています。「女性宮家」創設もまた同様のニュアンスが繰り返されました。


▽4 百年の計に耐えうる運動を

 じつは、1月16日のメルマガ〈http://melma.com/backnumber_170937_5747606/〉に書いたように、宮内庁次長は「廃止の手続きは取っていない」と平成3年4月25日の国会で答弁しています。同時に、「宮内府内部における当面の事務処理についてのいわゆる考え方を示したもの」という考えも示されました。

 旧皇室典範ではなく、新皇室典範に従うというのが第1項です。依命通牒全体の「廃止」などあるはずもありません。問題はあくまで第3項です。そして、第3項は行政の手続きによらずに「廃止」されたのです。

 同じ日に、法制局第2部長が「現行憲法及びこれに基づく法令に違反しない範囲内において従前の例によるべしという趣旨であります」と答弁しています。

 昭和50年8月の長官室会議は、「政教分離規定に違反しない範囲内において、皇室祭祀令の例によるべし」と決定したのでしょう。依命通牒(通達)ですから、もともと官報には載りません。公表されません。しかし各部長官宛の依命通牒ですから、けっして内部文書ではありません。けれども内部文書的なものとされ、人知れず「廃止」されたのです。

 その結果、依命通牒は『宮内庁関係法規集』に記載されなくなり、宮中祭祀の祭式は改変されていったのでした。皇室の伝統より憲法の規定を優先させる一大画期です。

 10年以上前に始まった、女系継承容認=「女性宮家」創設論は戦後の歴史全体を見渡す必要があるし、依命通牒の破棄は大きなポイントです。「無関係」(百地先生)のはずはありません。

 なぜ「無関係」と言い切れるのか、それは百地先生が運動家だからでしょう。私は戦後皇室行政史全体を視野にしていますが、そのときそのときの政治テーマがターゲットなのでしょう。各局面の運動とその成果を誇ります。「女性宮家」創設問題という見方しかなさらないのです。

 もちろん私は、運動家がいけないと申し上げているのではありません。左翼運動家が大学で教鞭を執っている例など、枚挙に暇がないはずです。

 問題は同じ運動なら、百年の計に耐えうる運動を起こしてほしいということです。それには少なくとも百年の歴史を見定めなければなりません。そのような視点があるなら、拙論を「自己宣伝」「自慢」「的外れ」などと、決めつけたりしないでしょう。

 つづく。
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