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「集団自決」検定で問われていること、ほか [沖縄戦]

以下は旧「斎藤吉久のブログ」(平成19年11月19日月曜日)からの転載です


◇先月から週刊(火曜日発行)の「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンがスタートしました。
先週発行の第5号のテーマは「『国平らかに、民安かれ』と祈る天皇」です。
http://www.melma.com/backnumber_170937/



〈〈 沖縄戦集団自決。教科書検定、大江裁判で問われていること 〉〉


▼2つのオリジナル資料

 昨日までのブログ(メルマガ)に書きましたように、高校日本史の教科書検定をめぐって大騒動に発展している沖縄戦集団自決の「軍の強制(隊長命令)」説には、ふたつのオリジナル資料があります(大城将保「座間味島集団自決事件に関する隊長日記」=「沖縄史料編集所紀要11」1986年)。

 ひとつは、地元ジャーナリズムの報道で、「(渡嘉敷で)自決命令が赤松からもたらされた」「(座間味で)軍は住民を集め玉砕を命じた」と最初に活字化した沖縄タイムスの『鉄の暴風』(1950年の初版は朝日新聞社発行)ですが、これは戦争体験者の証言とはいえ、直接の体験談ではない伝聞を記録したに過ぎませんでした(曾野綾子『沖縄戦・渡嘉敷島「集団自決」の真実』=1973年の初版は『ある神話の背景──沖縄・渡嘉敷島の集団自決』)。

 つまり、新聞社の報道は、確たる一次資料に基づくものではありませんが、このときから「強制」説はジャーナリズムの権威に乗り、独り歩きしていくことになったようです。

 むろん、沖縄タイムスは不十分な取材に基づいた不正確な報道だったことを認めてはいないようです。『鉄の暴風』は版を重ね、同社の報道は今回の検定に関連し、9月の県民大会を含めて、検定撤回への大きな役割を演じています。

 もう一つのオリジナル資料は、生存者に対する行政の調査です。しかしこれは最初から歴史の事実を追究するのとは別の次元で進められました。人々の困窮を救うため遺族援護政策が活用され、方便として集団自決は「軍の強制」とされたのです。

 宮城晴美『母が遺したもの』(高文研、2000年)によれば、座間味島の生存者の1人である晴美さんの母・宮城初枝さんは、島の長老から「隊長から自決命令があったことを証言するように」と促されて断り切れず、昭和32(1957)年、厚生省の調査に対して「隊長命令だったのか?」という質問に「ハイ」と答えたのでした。

 こうしてつくられた公的文書をもとに、沖縄の援護事務に関わっていた山川泰邦・元琉球政府立法院議長が「軍命」を明記する『秘録沖縄戦記』(読売新聞社、1969年)を書き、話題になり、さらに沖縄県は、同書を全面的に引用する『県史8 各論編7 沖縄戦通史』(琉球政府編集発行、1971年)を発行し、「軍の強制」説は固まったのです。


▼断定から疑いへ

 しかし、その後、県による歴史の記録は断定から疑いへと修正されていきます。

 宮城さんのお嬢さんが学生時代、聞き取り調査で関わったという『県史10 各論編9 沖縄戦記録2』(沖縄県教育委員会編集発行、1974年)は本文(大城将保執筆)は、座間味の「玉砕」については「梅沢隊長の軍命」を明記していますが、渡嘉敷については赤松隊長の「集合」命令を記録しているに過ぎません。

 さらに生存者の証言は「強制」説に疑問を投げかけています。宮城初枝さんの証言は集団自決が「軍命」とはされていません。

 お嬢さんによると、このときの調査でほとんどの生存者が「隊長命令」を証言していたのだそうですが、初枝さんが「もう一度確認するように」というので再確認を求めると、「役場職員の伝令」「集まれといわれた」となり、明確な証言は得られなかったのだそうです。

 それからおよそ10年後、「沖縄資料編集所紀要11」(沖縄県沖縄資料編集所編集発行、1986年)に,座間味の梅沢元隊長の、「軍命」説を否定する「隊長日記」が載りました。

 大城将保・資料編集所主任専門員の解説によると、1985年7月30日付の神戸新聞が、梅沢隊長ら関係者の談話をもとに、「日本軍の命令はなかった」とする記事を載せたことから、大城氏は梅沢隊長と直接連絡をとり、その意向を確かめ、手記の執筆を要望したのでした。

 前掲、宮城晴美さんの著書によると、梅沢元隊長の手記を載せることで、県教育委員会は『県史10』の訂正に代えた、とされています。


▼逆に教科書は80年代に「強制」を明記

 「軍命」説が疑わしいのだとすれば、歴史の教科書も断定的な記述を修正すれば、それですむことですが、沖縄タイムスの報道(今年4月29日の特集)によれば、話は逆で、70年代までの歴史教科書には沖縄戦に関する具体的な記述はなく、「集団自決」の記述が登場したのは80年代になってからでした。

 記事によれば、84年の検定で、「学徒が自決を強いられた」という記述に対し、「かならずしも強いられたのではなく、一億玉砕の意気に燃えて、みずから望んで死んだ面もあったはず。“強いられて”というのは表現が過ぎる」という改善意見が出され、強制の記述が削除された、とあります。

 しかし、その後、教科書は「強制」の明記へと変わります。

 いま使用中の教科書では、たとえば、脇田修、大山喬平ほか12名による『日本史B』(実教出版、平成15年検定済)は「日本軍により、県民が戦闘の妨げになるなどで集団自決に追いやられたり」と記述しています。

 そして今回の検定で、日本軍の「強制」という記述に対して、「誤解するおそれのある表現」という検定意見がつくようになったのでした。


▼宮城初枝さんの真相告白

 さて、前置きが長くなりました。援護法による国の補償がいかに生き残った人々に干天の慈雨をもたらしたとはいえ、事実とは異なる証言をさせられた生存者は苦悩を抱え続けることになりました。宮城初枝さんが「軍の命令ではなかった」と重い口を開き、真相を語り始めたのは、お嬢さんの著作によると、1977年3月、集団自決者の33回忌でした。

 そして1980年の暮れ、宮城さん母子は梅沢元隊長と面会し、お母さんは、35年前の3月25日の夜、艦砲射撃の中を役場職員ら5人で隊長のもとを訪れた1人であることを名乗った上で、「住民を玉砕させるようお願いに行きましたが、隊長にそのまま帰されました。(集団自決を)命令したのは梅沢さんではありません」と語ったのでした。

 それを聞いた梅沢元隊長はお母さんの手を握り、「ありがとう」とくり返し、嗚咽したといいます。

 宮城さんも苦悩の日々を送ってきた1人ですが、集団自決を「命令」した張本人とされた梅沢元隊長もまた職場を転々とし、家庭崩壊の苦難を経験していたのです。


▼元隊長の無関心

 翌日、母子は梅沢元隊長に島を案内したそうです。このとき元隊長が関心を示したのは、もっぱら部下のことで、部下の最期の地ではひざまずいて号泣しました。反面、集団自決の碑にさしかかっても、ほとんど関心を示しませんでした。

 晴海さんは「私はそのとき、住民に命令したのは梅沢氏ではないことを確信した」と書いています。自分の命令なら、集団自決の現場で気持ちが穏やかのはずがないからです。

 しかし同時に晴美さんは、「住民と梅沢氏との隔たりの大きさ」をあらためて感じたといいます。それは住民に対する無関心でした。

 そしてやがて、「冤罪」をはらす梅沢元隊長の積極攻勢が始まったのでした。その手始めが、先述した85年7月の神戸新聞の記事でした。

 そこまでならまだしも、宮城さんによると、元隊長は、「集団自決は部隊長ではなく、助役だった」とする念書を泥酔状態にある、助役の実弟からとり、それを新聞に報道させ、さらに地元新聞社や県資料編集所に宣伝カーを乗り付けるという行動に打って出るようになったのだそうです。

 それが事実だとすれば、国を守ることに命をかけたはずの軍人が、今度は何を守ろうとし、そのような挙に出たのでしょうか。

 長年の良心の呵責から、真実を告白したものの、その後の予想外の展開に、心痛を増した宮城さんのお母さんは、自分の戦争体験のいっさいがっさいをお嬢さんに語ったあと、体調を崩し、帰らぬ人となった、と宮城さんは書いています。

 教科書検定で問われているのは、集団自決の悲劇がはたして「軍の強制」なのか、「軍命」はあったのかどうか、というすぐれて客観的な歴史の問題ですが、それに付随する問題には、実証史学だけではすまないものがありそうです。しかしそれでも、歴史は歴史です。いかがでしょうか。


〈〈 本日の気になるニュース 〉〉


1、「神戸新聞」11月19日、「淡路、震災復興。全壊の観音堂再建、慰霊碑も建立」
http://www.kobe-np.co.jp/news/awaji/0000744276.shtml

 地元民の憩いの場だった、大震災で全壊。それから10年あまりを経て、ようやく再建されたのだそうです。


2、「AFPBB News」11月18日、「ダライ・ラマ、伊勢神宮を訪問」
http://www.afpbb.com/article/life-culture/life/2313724/2365594

 18日、ダライ・ラマ14世が伊勢神宮を表敬し、神道形式で拝礼しました。「どこに行っても、時間があれば、あらゆる宗教の寺院などを巡拝して敬意を表したい」と語ったそうです。


3、「日本海新聞」11月19日、「ヤギでイノシシ出没防げ!! 環境大ヤギ部が実験」
http://www.nnn.co.jp/news/071119/20071119001.html

 イノシシの被害に苦しむ中山間地域の集落にヤギを放し、イノシシの出没を防ごうという鳥取環境大学ヤギ部の試みが始まったのだそうです。

 斬新な試みにぜひ声援を送ろうと思います。それにしても、「環境談学」ならまだしも「ヤギ部」とはこれまた斬新なことでしょうか。

 ご参考までにこちらを。
http://e-policy.kankyo-u.ac.jp/campus/yagibu/intro.html
 

 以上、本日の気になるニュースでした。

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