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古代エジプトに出現した一神教時代──美貌の王妃のミイラ発見か [一神教]


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古代エジプトに出現した一神教時代──美貌の王妃のミイラ発見か
(「神社新報」、平成15年8月25日)
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クレオパトラと相並ぶ古代エジプトの美女、王妃ネフェルトイティのミイラが確認された──。

驚きのニュースが先月(平成15年7月)上旬、世界を駆けめぐった。

ネフェルトイティは「異端の王」アクエンアテン(アメンヘテプ四世、紀元前一三五二頃~一三三六頃)の后で、共同統治者。有名なトゥトアンクアメン王(ツタンカーメン)の義母ともいはれる。歴史や美術の教科書に胸像(ベルリン博物館所蔵)が載ってゐるから、日本でも馴染みが深い。

英国のエジプト学者ジョアン・フレッチャー博士らは、古代エジプト王族の墓地「王家の谷」で、三十五号墓の側室に残されてゐたかつらが第十八王朝アクエンアテン王の時代に高貴な女性が好んだ様式であることに興味を持つ。

三体のミイラのうち一体は、とくに印象的な顔立ちで、首筋は白鳥のやうに美しかった。顔面には死後加へられたと見られる傷跡があったが、美女であることは間違ひない。頭部には額飾りの跡がくっきり残り、もぎ取られてゐた右腕の曲がり方は王の身分を表してゐたといふ。


▽ 世界初アクエンアテン王の宗教改革

古代エジプト研究者によると、第十八王朝は古代エジプト史上、もっとも繁栄を極めた時代であった。

人々は国の繁栄は国教神アメンの御加護によるものと信じた。首都テーベにはアメン神を祀る巨大なカルナック神殿があり、アメン神は多神教の神々の中で最大の勢力を誇ってゐた。

しかしやがてアメン神官団が「神託」を盾に王の政策に介入するやうになり、王と神官団との確執が始まる。両者の権力争ひが頂点に達したのが、アメンヘテプ四世の治世であるといふ。

アメン神を否定し、太陽神アテンを崇拝する四世は即位後、アテン神のための神殿を次々と建設する。伝統的な神々は人間の姿や、人体と動物の頭部を組み合はせた姿、あるいは動物そのもので表されたが、アテン神は太陽を示す円盤から腕の形をした光線が何本も降り注ぐイメージで表現された。祭祀は太陽そのものに対しておこなはれたといふ。

即位当初、四世はアメン信仰とアテン信仰は共存しうると考へてゐた。しかし首都移転を期に、アメン神を排斥するとともに、アメン神官団と訣別するやうになる。新たな都はアケトアテン(アテンの地平線)と名付けられ、王はみづからこの地を訪れ、アテン神に供物を捧げ、この地を選んだのはアテン神であり、アテン神の息子である自分が建設することを宣言する。

遷都後、王はアクエンアテン(アテン神に有益なる者)と改名する。改革は狂信的になり、アテン神以外の神々は徹底して弾圧され、アテン神以外の神殿・記念碑が破壊され、とくにアメン神の彫像や浮き彫り、名前までが削り取られた。かうした一神教への改革はアメン神官団のみならず、国民の支持を失ひ、破綻する。


▽ トゥトアンクアメン。伝統信仰を復興

アクエンアテンが亡くなるとアテン信仰は衰退し、国教神は再びアメン神となった。王位に即いたのはアクエンアテンの王女と結婚してゐたトゥトアンクアメン(アメン神の生ける似姿)で、彼はその名の通り、伝統的神々の復興に力を注ぐやうになる。

アクエンアテンの時代は三千年にわたる古代エジプト史上、唯一の一神教の時代で、それ故に

「邪教の王」
「異端の王」

と呼ばれる。

一神教化の背後には王妃ネフェルトイティの影響があったとされる。

今回発見されたミイラに損傷があるのは、王妃を憎む勢力の仕業かもしれない。古代エジプト人は永遠の命を信じ、死者の精霊(カー)と霊魂(バー)が戻ってくる場所として遺体を永久保存しようとした。それがミイラだが、破壊されてしまへば死者は戻ってくることができない。

今回の発掘調査の模様は九月に、衛星放送の「ディスカバリーチャンネル」で世界同時放送される。(参考文献=吉成薫『ファラオとエジプト』、松本弥『古代エジプトのファラオ』など)


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