「韓国近代医学の父」池錫永──日本から種痘法を導入した男 [韓国]
以下は斎藤吉久メールマガジン(2013年5月20日)からの転載です
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「韓国近代医学の父」池錫永──日本から種痘法を導入した男
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報道によると、北朝鮮の労働党機関紙、労働新聞は今日の論説で、日本の過去の植民地支配を採り上げ、「莫大な被害を与えた我が国とアジアすべての諸国に無条件かつ、徹底的な謝罪と賠償を行うべきだ」と主張しているようです。
しかし日本政府は何度も謝罪しています。賠償についていえば、日韓交渉の際、韓国政府は、北朝鮮の請求権も韓国の請求権に含める、と繰り返し主張していましたから、この論理に従えば、北朝鮮に補償することは二重の支払いということになります〈http://melma.com/backnumber_196625_5799876/〉。
北朝鮮は、韓国と同様、日本の植民地支配について、支配─被支配、搾取─抵抗という2項対立の図式でしか捉えていないのですが、「過去」とはそのようなものなのでしょうか?
「過去」を真摯に見つめようとしていないのは、むしろ韓国・朝鮮ではないのでしょうか?
というわけで、平成14年2月に宗教専門紙に掲載された拙文を転載します。当時はサッカーW杯の開催が目前に迫っていたときでしたが、いつものように、「過去」を問う声が聞こえていたのでした。
それでは本文です。なお、一部に加筆修正があります。
日韓共催のサッカー・ワールドカップ大会開催まで、あと百日あまり。史上初の二カ国共催である。日韓両政府はこれを機会に、今年を「日韓国民交流年」と位置づけてゐる。
数年前、金大中韓国大統領が来日したとき、文化交流などの活性化が申し合はされ、その後、両国首相間で正式に合意された。
先月下旬には東京都内で「交流年」の開幕式があり、両国親善大使を務める人気女優も出席し、式典は盛り上がった。今年一年間、政府、地方自治体、民間の各レベルで、幅広い交流が予定されてゐる。
結構なことだが、「昨年は教科書問題や小泉首相の靖国参拝で日韓関係が損なはれたが、親善大使の女優は『過去を消し去ることはできない』と語った」といふ報道もある。
「過去」とは何か。ある韓国人の生涯を題材に考へる。
◇「命定め・器量定め」の天然痘
◇日本は江戸末期に種痘所を設立
池錫永(チスクユン、一八五五─一九三五)といふ人物がゐる。
韓国の小学校用歴史国定教科書がわざわざ「種痘法と広恵院」と題する一節を設け、不朽の功績を取り上げてゐるほどの偉人である。
外国人医師を訪ね歩き、種痘法を学び、韓国に初めて導入、普及させた。その成功は西洋医学の社会的浸透に貢献した──と書かれてゐる。
いはば韓国近代医学の父。
だがその人生は、教科書の記述にあるほど単純なものではない。波乱の生涯から垣間見える、韓国社会の暗部と日韓友好の交流史とを見落とすべきではない。
韓国の教科書が言及してゐるやうに、その昔、麻疹やコレラと並んで、人類がもっとも恐れる、それは恐ろしい伝染病があった。
天然痘(てんねんとう)。疱瘡(ほうそう)、痘瘡(とうそう)とも呼ばれた。
このウイルスに感染すると、最初はインフルエンザに似た症状だが、ときには腎不全のやうな深刻な事態となり、罹患者の半数が死亡した。しかも、膿でいっぱいの腫れ物が全身に現れ、幸ひ命をとりとめたとしても、穴ぼこのやうな跡が残った。「あばた」である。
「麻疹は命定め、疱瘡は器量定め」といはれた所以である。
イギリス人エドワード・ジェンナーが画期的な予防法として牛痘法を見出し、研究成果を公表したのは、一七九八年である。牛痘(疱瘡に似た牛の病気)のウイルスを接種し、人為的に感染させ、疱瘡に対する免疫力をつけるといふ免疫学の先駆けである。
ジェンナーの研究書は各国語に翻訳され、翌九九年にはロンドンに種痘所が設けられた。
牛痘法は一八〇五年にはオランダ領ジャワにまで到達したが、日本に伝はるにはさらなる年月を要した。
日本で最初に牛痘接種法が用ゐられたのは、意外なことに、最果ての蝦夷地(えぞち)においてである。
択捉島(えとろふとう)の番人であった中川五郎治がロシア人に拉致(らち)され、オホーツクに連行されたのは文化四年(一八〇七)。五年間のシベリア流転生活の末、彼は牛痘法に関するロシア語の書籍二冊を持ち帰る。
その五郎治が文政七年(一八二四)までに、江差・松前地方で種痘を実施したといはれる。
しかし日本での牛痘法の本流は嘉永二年(一八四九)、オランダから長崎にもたらされた。
奇しくもこの年、蘭学禁令が発せられるのだが、オランダ商館医師から佐賀藩医楢林宗建、さらに大坂の緒方洪庵などへ「痘苗」が伝へられ、蘭方医の人脈で瞬く間に全国各地に広まる。種痘の成功は蘭学医普及の突破口であった。
ときあたかも将軍家定が重病で、幕府ははじめて蘭方内科を用ゐ、蘭方禁止が解かれる。
各地に種痘所が開設され、安政五年(一八五八)には江戸の神田お玉が池に種痘所が創設された。万延元年(一八六〇)、幕府は「種痘所で種痘を受けよ」と江戸の町民にお触れを出す。
最初は民間施設であった種痘所はまもなく幕府の直轄となり、漢方の医学館に対応する西洋医学所と改称され、のちには東京大学医学部へと発展する。
◇不衛生で俗信に支配された社会
◇伝染病が襲へば街路に死体の山
ところが玄界灘を隔てた韓国では、これとは異なる展開を見せる。韓国が伝染病とは無縁の衛生的な国だったといふのではない。むしろ逆である。
イギリス生まれのイザベラ・ビショップが一八九四~九七年に朝鮮半島を旅行し、『朝鮮紀行』を書いてゐる。
牧師の娘で、韓国王室から格別の信頼を得てゐたビショップだが、ソウルの第一印象はかなり厳しい。
北京を見るまで、私はソウルこそこの世でいちばん不潔な町だと思ってゐた。それでなくとも狭い道は家々から出る固体・液体の汚物を受ける溝で狭められ、悪臭ふんぷんの穴や溝には半裸の子供たちが集まり、疥癬(かいせん)持ちでかすみ目の巨犬が汚物のなかを転げ回ってゐる──といふのだ。
昭和十一年発行の『京城府史』には、次のように書かれている。
──古来、朝鮮では衛生上の施設は何ら見るべきものはない。汚濁した河川を飲用水とし、トイレもない。医薬品には草根木皮を用ゐ、治療は妖僧巫女の祈祷に託した。いったん猛烈な伝染病が襲ふとたちまち蔓延し、罹患者は数知れず、死屍累々となって街路に横たはった。とくに痘瘡は四季を通じて発生・流行し、ほとんど風土病の観をなしてゐた。患者の遺体は「迷信」により、戸外にさらされた。
二十年前に韓国・東亜日報がまとめた『朝鮮近現代史年表』によると、最初に種痘を実施したのは、釜山日本居留地の済生医院らしい。明治十年(一八七七)のことである。韓国近代医学の父・池錫永が種痘法を学んだのは、この年表によると、同十二年、この病院の院長松前譲らからである。
韓国の教科書が「外国人医師から」とぼかした表現で書いてゐるのは、何のことはない、日本人医師のことなのだ。
『京城府史』は、池錫永を「朝鮮の種痘に関して逸すべからざる人」と評価し、略歴を載せてゐる。特段の扱ひである。
東亜日報の『年表』などとあはせて読むと、池は一八五五(安政二)年、ソウルの貧しい両班の家に生まれ、漢医学を学んだ。
種痘に関心を持つやうになったのは、開化政策推進のため日本に渡る修信使の随行医官から日本の種痘書を入手したのがきっかけである。七九(明治十二)年には海軍少軍医戸塚積齊、済生院医師松前譲から種痘法を学び、忠州郡徳山面ではじめてこれを実施した。
翌八〇年には修信使金弘集(のちの首相)とともに来日、日本外務省の斡旋で、内務省衛生局牛疫種継所で痘苗製造技術などを修得する。帰国後、今度は日本公使館付海軍軍医前田清列について医学を修めた。
けれども、そこへ降って沸いたのが、八二年の壬午軍乱。日本流の政治改革を不満とする旧式軍人らが反日暴動を起こしたのだ。
池が経営する種痘場は焼き討ちにあひ、韓国政府は池を「邪衛の輸入者」として捕縛した。池はこの年、開化政策の推進を求め、上疎してゐる。格好の標的になったといふことか。
◇医者を賤業視する韓国儒教社会
◇迫害を越え初代官立医学校長に
しかし池はくじけなかった。八三年、池は科挙「文科」に合格する。理系から文系へ、そして官界入りで華麗な転身が図られる。他方、八二年には全州、八三年には広州に種痘所を設け、種痘術を伝授した。
だが、ある資料によると、数年後、「親日」の汚名を着せられ、全羅道に配流の身となる。
近代医療はなぜ韓国社会に受け入れられなかったのか。
「近代化」「日本化」への反発もさることながら、ある韓国文化の専門家は、「韓国儒教社会では、他人の身体に触れる医者といふ職業が卑しい、と考へられたからだ」と指摘する。日本では古来、医師の社会的地位は高い。両社会の決定的な相違であらうか。
種痘実施の功績が認められ、正三位を賜ったのは九四年のことである。
近代化を推し進める金弘集政府に抜擢され、漢城府尹、大邱判官、東莱府観察使などを歴任し、九九年には、ソウルに官立医学校が設立されるのにともなひ、校長の地位にまで上り詰める。
在職十二年。一九〇二年には勲四等八卦章をたまはる。
官立医学校の付属病院は伊藤博文の初代統監着任後、その勧めに従ひ、広済院、赤十字病院と統合され、一九〇七年、韓国医療保健行政の中枢機関として大韓医院が設立された。これが日韓併合後は朝鮮総督府医院と改称し、のちに京城帝国大学付属病院となる。
韓国の教科書が、韓国政府は広恵院に続き、全国に慈恵医院を建て、ソウルには大韓医院(現ソウル大学校付属医院)を設立したと自賛し、大きな写真を掲載してゐるのが、これである。
昨年、韓国政府は日本の教科書を「歴史の歪曲」「隠蔽」と厳しく追及したが、他者の批判だけなく、自分自身を省みる必要がありはしないか。
イザベラ・ビショップの『朝鮮紀行』の「序」に、ウォルター・ヒラリーがかう書いてゐる。
「朝鮮が国として存続するには、多少とも外国の保護下に置かれることが明らかに必要だ。清国の撤退後は日本が助言・指導の役目を背負った。社会の悪弊を改革する日本の努力はいくらか乱暴ではあるが、真摯であったことは間違ひない。発展のための前進を始動させたのは日本である」
池は他方でハングルの研究者、国文制定の貢献者として知られる。
日本の国会図書館に、池が著した和綴ぢの漢字辞典が収蔵されてゐる。漢字ハングル混じりで内容はさっぱり分からないが、巻末に掲載された風物スケッチは医者ならではの写実的タッチで、几帳面で温かい人柄が伝はってくる。初版の発行は伊藤博文が暗殺された明治四十二年。
翌年、日韓が併合されると、池は官界を引退する。
好むと好まざるとに関はらず、韓国近代史は日本の関与なしには語れない。全否定でも、全肯定でもない、冷静で客観的な東アジアの近代史理解が求められてゐるのではないか。
(参考文献=『京城府史』『愛の種痘医』「白山の会紀要 創刊号」など)
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「韓国近代医学の父」池錫永──日本から種痘法を導入した男
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報道によると、北朝鮮の労働党機関紙、労働新聞は今日の論説で、日本の過去の植民地支配を採り上げ、「莫大な被害を与えた我が国とアジアすべての諸国に無条件かつ、徹底的な謝罪と賠償を行うべきだ」と主張しているようです。
しかし日本政府は何度も謝罪しています。賠償についていえば、日韓交渉の際、韓国政府は、北朝鮮の請求権も韓国の請求権に含める、と繰り返し主張していましたから、この論理に従えば、北朝鮮に補償することは二重の支払いということになります〈http://melma.com/backnumber_196625_5799876/〉。
北朝鮮は、韓国と同様、日本の植民地支配について、支配─被支配、搾取─抵抗という2項対立の図式でしか捉えていないのですが、「過去」とはそのようなものなのでしょうか?
「過去」を真摯に見つめようとしていないのは、むしろ韓国・朝鮮ではないのでしょうか?
というわけで、平成14年2月に宗教専門紙に掲載された拙文を転載します。当時はサッカーW杯の開催が目前に迫っていたときでしたが、いつものように、「過去」を問う声が聞こえていたのでした。
それでは本文です。なお、一部に加筆修正があります。
日韓共催のサッカー・ワールドカップ大会開催まで、あと百日あまり。史上初の二カ国共催である。日韓両政府はこれを機会に、今年を「日韓国民交流年」と位置づけてゐる。
数年前、金大中韓国大統領が来日したとき、文化交流などの活性化が申し合はされ、その後、両国首相間で正式に合意された。
先月下旬には東京都内で「交流年」の開幕式があり、両国親善大使を務める人気女優も出席し、式典は盛り上がった。今年一年間、政府、地方自治体、民間の各レベルで、幅広い交流が予定されてゐる。
結構なことだが、「昨年は教科書問題や小泉首相の靖国参拝で日韓関係が損なはれたが、親善大使の女優は『過去を消し去ることはできない』と語った」といふ報道もある。
「過去」とは何か。ある韓国人の生涯を題材に考へる。
◇「命定め・器量定め」の天然痘
◇日本は江戸末期に種痘所を設立
池錫永(チスクユン、一八五五─一九三五)といふ人物がゐる。
韓国の小学校用歴史国定教科書がわざわざ「種痘法と広恵院」と題する一節を設け、不朽の功績を取り上げてゐるほどの偉人である。
外国人医師を訪ね歩き、種痘法を学び、韓国に初めて導入、普及させた。その成功は西洋医学の社会的浸透に貢献した──と書かれてゐる。
いはば韓国近代医学の父。
だがその人生は、教科書の記述にあるほど単純なものではない。波乱の生涯から垣間見える、韓国社会の暗部と日韓友好の交流史とを見落とすべきではない。
韓国の教科書が言及してゐるやうに、その昔、麻疹やコレラと並んで、人類がもっとも恐れる、それは恐ろしい伝染病があった。
天然痘(てんねんとう)。疱瘡(ほうそう)、痘瘡(とうそう)とも呼ばれた。
このウイルスに感染すると、最初はインフルエンザに似た症状だが、ときには腎不全のやうな深刻な事態となり、罹患者の半数が死亡した。しかも、膿でいっぱいの腫れ物が全身に現れ、幸ひ命をとりとめたとしても、穴ぼこのやうな跡が残った。「あばた」である。
「麻疹は命定め、疱瘡は器量定め」といはれた所以である。
イギリス人エドワード・ジェンナーが画期的な予防法として牛痘法を見出し、研究成果を公表したのは、一七九八年である。牛痘(疱瘡に似た牛の病気)のウイルスを接種し、人為的に感染させ、疱瘡に対する免疫力をつけるといふ免疫学の先駆けである。
ジェンナーの研究書は各国語に翻訳され、翌九九年にはロンドンに種痘所が設けられた。
牛痘法は一八〇五年にはオランダ領ジャワにまで到達したが、日本に伝はるにはさらなる年月を要した。
日本で最初に牛痘接種法が用ゐられたのは、意外なことに、最果ての蝦夷地(えぞち)においてである。
択捉島(えとろふとう)の番人であった中川五郎治がロシア人に拉致(らち)され、オホーツクに連行されたのは文化四年(一八〇七)。五年間のシベリア流転生活の末、彼は牛痘法に関するロシア語の書籍二冊を持ち帰る。
その五郎治が文政七年(一八二四)までに、江差・松前地方で種痘を実施したといはれる。
しかし日本での牛痘法の本流は嘉永二年(一八四九)、オランダから長崎にもたらされた。
奇しくもこの年、蘭学禁令が発せられるのだが、オランダ商館医師から佐賀藩医楢林宗建、さらに大坂の緒方洪庵などへ「痘苗」が伝へられ、蘭方医の人脈で瞬く間に全国各地に広まる。種痘の成功は蘭学医普及の突破口であった。
ときあたかも将軍家定が重病で、幕府ははじめて蘭方内科を用ゐ、蘭方禁止が解かれる。
各地に種痘所が開設され、安政五年(一八五八)には江戸の神田お玉が池に種痘所が創設された。万延元年(一八六〇)、幕府は「種痘所で種痘を受けよ」と江戸の町民にお触れを出す。
最初は民間施設であった種痘所はまもなく幕府の直轄となり、漢方の医学館に対応する西洋医学所と改称され、のちには東京大学医学部へと発展する。
◇不衛生で俗信に支配された社会
◇伝染病が襲へば街路に死体の山
ところが玄界灘を隔てた韓国では、これとは異なる展開を見せる。韓国が伝染病とは無縁の衛生的な国だったといふのではない。むしろ逆である。
イギリス生まれのイザベラ・ビショップが一八九四~九七年に朝鮮半島を旅行し、『朝鮮紀行』を書いてゐる。
牧師の娘で、韓国王室から格別の信頼を得てゐたビショップだが、ソウルの第一印象はかなり厳しい。
北京を見るまで、私はソウルこそこの世でいちばん不潔な町だと思ってゐた。それでなくとも狭い道は家々から出る固体・液体の汚物を受ける溝で狭められ、悪臭ふんぷんの穴や溝には半裸の子供たちが集まり、疥癬(かいせん)持ちでかすみ目の巨犬が汚物のなかを転げ回ってゐる──といふのだ。
昭和十一年発行の『京城府史』には、次のように書かれている。
──古来、朝鮮では衛生上の施設は何ら見るべきものはない。汚濁した河川を飲用水とし、トイレもない。医薬品には草根木皮を用ゐ、治療は妖僧巫女の祈祷に託した。いったん猛烈な伝染病が襲ふとたちまち蔓延し、罹患者は数知れず、死屍累々となって街路に横たはった。とくに痘瘡は四季を通じて発生・流行し、ほとんど風土病の観をなしてゐた。患者の遺体は「迷信」により、戸外にさらされた。
二十年前に韓国・東亜日報がまとめた『朝鮮近現代史年表』によると、最初に種痘を実施したのは、釜山日本居留地の済生医院らしい。明治十年(一八七七)のことである。韓国近代医学の父・池錫永が種痘法を学んだのは、この年表によると、同十二年、この病院の院長松前譲らからである。
韓国の教科書が「外国人医師から」とぼかした表現で書いてゐるのは、何のことはない、日本人医師のことなのだ。
『京城府史』は、池錫永を「朝鮮の種痘に関して逸すべからざる人」と評価し、略歴を載せてゐる。特段の扱ひである。
東亜日報の『年表』などとあはせて読むと、池は一八五五(安政二)年、ソウルの貧しい両班の家に生まれ、漢医学を学んだ。
種痘に関心を持つやうになったのは、開化政策推進のため日本に渡る修信使の随行医官から日本の種痘書を入手したのがきっかけである。七九(明治十二)年には海軍少軍医戸塚積齊、済生院医師松前譲から種痘法を学び、忠州郡徳山面ではじめてこれを実施した。
翌八〇年には修信使金弘集(のちの首相)とともに来日、日本外務省の斡旋で、内務省衛生局牛疫種継所で痘苗製造技術などを修得する。帰国後、今度は日本公使館付海軍軍医前田清列について医学を修めた。
けれども、そこへ降って沸いたのが、八二年の壬午軍乱。日本流の政治改革を不満とする旧式軍人らが反日暴動を起こしたのだ。
池が経営する種痘場は焼き討ちにあひ、韓国政府は池を「邪衛の輸入者」として捕縛した。池はこの年、開化政策の推進を求め、上疎してゐる。格好の標的になったといふことか。
◇医者を賤業視する韓国儒教社会
◇迫害を越え初代官立医学校長に
しかし池はくじけなかった。八三年、池は科挙「文科」に合格する。理系から文系へ、そして官界入りで華麗な転身が図られる。他方、八二年には全州、八三年には広州に種痘所を設け、種痘術を伝授した。
だが、ある資料によると、数年後、「親日」の汚名を着せられ、全羅道に配流の身となる。
近代医療はなぜ韓国社会に受け入れられなかったのか。
「近代化」「日本化」への反発もさることながら、ある韓国文化の専門家は、「韓国儒教社会では、他人の身体に触れる医者といふ職業が卑しい、と考へられたからだ」と指摘する。日本では古来、医師の社会的地位は高い。両社会の決定的な相違であらうか。
種痘実施の功績が認められ、正三位を賜ったのは九四年のことである。
近代化を推し進める金弘集政府に抜擢され、漢城府尹、大邱判官、東莱府観察使などを歴任し、九九年には、ソウルに官立医学校が設立されるのにともなひ、校長の地位にまで上り詰める。
在職十二年。一九〇二年には勲四等八卦章をたまはる。
官立医学校の付属病院は伊藤博文の初代統監着任後、その勧めに従ひ、広済院、赤十字病院と統合され、一九〇七年、韓国医療保健行政の中枢機関として大韓医院が設立された。これが日韓併合後は朝鮮総督府医院と改称し、のちに京城帝国大学付属病院となる。
韓国の教科書が、韓国政府は広恵院に続き、全国に慈恵医院を建て、ソウルには大韓医院(現ソウル大学校付属医院)を設立したと自賛し、大きな写真を掲載してゐるのが、これである。
昨年、韓国政府は日本の教科書を「歴史の歪曲」「隠蔽」と厳しく追及したが、他者の批判だけなく、自分自身を省みる必要がありはしないか。
イザベラ・ビショップの『朝鮮紀行』の「序」に、ウォルター・ヒラリーがかう書いてゐる。
「朝鮮が国として存続するには、多少とも外国の保護下に置かれることが明らかに必要だ。清国の撤退後は日本が助言・指導の役目を背負った。社会の悪弊を改革する日本の努力はいくらか乱暴ではあるが、真摯であったことは間違ひない。発展のための前進を始動させたのは日本である」
池は他方でハングルの研究者、国文制定の貢献者として知られる。
日本の国会図書館に、池が著した和綴ぢの漢字辞典が収蔵されてゐる。漢字ハングル混じりで内容はさっぱり分からないが、巻末に掲載された風物スケッチは医者ならではの写実的タッチで、几帳面で温かい人柄が伝はってくる。初版の発行は伊藤博文が暗殺された明治四十二年。
翌年、日韓が併合されると、池は官界を引退する。
好むと好まざるとに関はらず、韓国近代史は日本の関与なしには語れない。全否定でも、全肯定でもない、冷静で客観的な東アジアの近代史理解が求められてゐるのではないか。
(参考文献=『京城府史』『愛の種痘医』「白山の会紀要 創刊号」など)
日本を受容し、排斥する韓国人の引き裂かれた精神──米大統領府晩餐会に出された日本料理への不満 [韓国]
以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2011年10月29日)からの転載です
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日本を受容し、排斥する韓国人の引き裂かれた精神
──米大統領府晩餐会に出された日本料理への不満
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先日、ジャーナリストの黒田勝弘さんが、訪米した李明博・韓国大統領に対する、ホワイトハウスでの晩餐会について、興味深いニュースを伝えていました。メニューに日本料理が出されたことから、韓国内で不満の声が出ている、とくに韓国メディアは「ホワイトハウスの深刻なミス」と批判している、というのです。
http://sankei.jp.msn.com/world/news/111025/kor11102501340000-n1.htm
黒田さんの記事によると、朝鮮日報が発行する雑誌「週刊朝鮮」が伝えた晩餐会のメニューは、前菜は「マサゴ」と名付けられた「カリフォルニア巻き」のようなお寿司で、サラダは「ダイコン」。メインディッシュのステーキは「ワギュウ」、添えられた野菜は「カボチャ」でした。
同誌は「これはホワイトハウスの深刻なミスで失礼にあたる。とくに韓国料理の世界化に努力中の韓国大統領の金潤玉夫人は不満だったはず」と伝えているのだそうです。
▽1 反日的脳細胞を刺激する
韓国誌の記事は「現実的に米国では日本料理は最高級料理になっている」というアメリカの食の現実を認めつつ、「韓国人出席者は受け入れがたい気持ちではなかったか」と指摘しているというのですが、何をどう受け入れられないのでしょうか?
結論からいえば、現代の韓国人は「日本」を受け入れられない、ということなのでしょう。現実には日本の文化を多く受け入れているのに、です。韓国人の心は分裂しています。
アメリカは人種の坩堝(るつぼ)ですから、当然、アメリカの食文化は世界の食文化のモザイクです。アメリカで「最高級」とされる「日本料理」が、賓客をもてなす料理として晩餐会に出されるのにはそれなりの理由があります。
もちろんアメリカの食文化を代表するハンバーガーが「ハンブルグ風」であるように、「カリフォルニア巻き」はアメリカ風にアレンジされたアメリカ料理のはずです。それを韓国人は「日本料理」と見るから、韓国人自身の反日的脳細胞を刺激するのです。
どこの国であれ、食文化は多かれ少なかれ、他国との歴史的交流の産物です。韓国誌の記者が強い反発を感じているらしい日本料理の食材も、もともと日本オリジナルではありません。
ダイコンは地中海沿岸地方が原産地で、日本には弥生時代に伝わったようですし、カボチャはアメリカ原産ですが、室町時代にポルトガル人によって日本にもたらされました。「カンボジア」が名称の由来であることは日本では常識です。ステーキの「和牛」にしても、近代以降、在来の牛に輸入牛をかけ合わせて、新たに改良されたものです。
こうした食の歴史を、口を酸っぱくして解説しても、日本嫌いの韓国人記者にはたぶん馬耳東風でしょう。
しかし、それほど日本がいやなら、「韓国料理の世界化に努力中の韓国大統領の金潤玉夫人」は、大根キムチのカクテキを世界化の対象から外すべきではないでしょうか? 大根キムチ追放キャンペーンを新聞社は推進すべきではないですか?
▽2 キムチの唐辛子は日本から伝えられた
韓国政府が数年来、「韓国の食文化の国際化」を推進するようになった要因のひとつは、日本食が世界に広がっていることへの対抗意識でした。けれども、日本を鏡にするほかに自画像が描けないのなら、日本を否定することは自分の存在を失わせます。
なぜなら、韓国食文化を代表するキムチそれ自体、日本との交流の結果、生まれたからです。キムチに欠かせない唐辛子は、南米原産ですが、朝鮮半島にもたらされたのは、韓国人が「侵略」と呼ぶ、秀吉の朝鮮出兵のころ、日本からでした。
朝鮮の実学者・李晬光が1613年に編纂した『芝峰類説』には、朝鮮半島には日本を通じて知らされたので、「倭芥子(ウェゲジャ)」と呼ばれると記載されています。キムチに唐辛子を用いるようになったのは18世紀の半ばで、ピリリと辛いキムチが一般化したのは18世紀後半といわれます。
大根や白菜のキムチが韓国で大量に流通するようになったのは、日本人女性を母として日本で生まれ、日本で学び、その後、独立直後の韓国で、野菜の種子の自給体制確立に貢献し、やがて「韓国農業の父」と呼ばれた禹長春氏の功績によります。
食文化ばかりではありません。韓国の新聞の歴史にも日本が関与しています。韓国で最初にハングル文字を用いた新聞は漢城周報ですが、福沢諭吉や井上角五郎など日本人が協力しました。韓国・朝鮮の近代化には多くの日本人が貢献しています。
ソウルには日本時代の面影がいまも色濃く残されています。ソウル市庁舎は旧京城府庁ですし、市議会議事堂は旧京城府民館です。ソウル一の繁華街・明洞(ミョンドン)はかつて明治村と呼ばれていたのではありませんか。
どこの国にも他国の文化を受け入れ、発展させてきた歴史があります。韓国の歴史も例外ではありません。韓国・朝鮮は日本の文化を受け入れ、独自の文化を創ってきたのに、その事実を認めることができず、まるで人類の歴史が朝鮮半島から生まれたかのような説さえ、しばしば主張されています。
日本文化の受容は現代も例外ではありません。10年前、歴史教科書問題をきっかけに日韓関係が抜き差しならない状況になったとき、ソウルの街ではどこへ行っても、人気歌手のポジションが韓国語で歌う、尾崎豊の「アイ・ラブ・ユー」が流れ、そのCDはヒットチャートのトップをずっと走り続けていました。
日本を受容しながら、日本を排斥する。韓国人の精神は分裂している、といわざるを得ません。
▽3 韓国宮廷料理研究家・黄慧性さんの思い出
黄慧性(ファン・ヘソン)さんという韓国人女性がいます。忠清南道の裕福な両班の家庭に生まれ、日本の女学校に学んだあと、長年、朝鮮の宮中料理を研究しました。重要無形文化財に指定され、ソウル大など各大学の教壇に立ち、後進の養成に尽くし、5年前、86歳でこの世を去りました。
黄慧性さんの偉大さは日本と日本人をしっかりと理解し、評価していたことにあります。第2次大戦後、失われかけていた朝鮮の宮廷料理を研究できたのは、ほかでもありません。日本時代に朝鮮総督府が李王職を設け、宮廷文化を保存、記録していたからでした。
亡くなる何年か前、黄慧性さんを「韓国のお母さん」と慕う、韓国文化に詳しい友人に連れられてソウルを旅しました。戦前は朝鮮神宮の境内だった、南山頂上にある宮廷料理店で、優雅なチマチョゴリ姿の黄慧性さんと食卓を囲んだとき、黄慧性さんが語った言葉が印象的でした。
「最近の人はすぐに栄養学的な意味を考えようとする」
国王が毎日、食する宮廷料理には儒教的な意味づけがある、それが欧米の学問を学んだ現代の韓国人には理解できない、というのが黄慧性さんの嘆きでした。
黄慧性さんは、日本および日本人に対する好悪の感情を超えて、客観的に評価する目を持ち、学ぶべきところあり、とすれば、素直に学ぶ姿勢を持っていました。事実を無視して、観念的に日本を批判する、しかも言っていることとやっていることが百八十度違う。そんな親米・反日の李承晩の息子たちとは雲泥の差があります。
▽4 謙虚に他者を受け入れる日本
ひるがえって日本はどうでしょうか?
日本は有史以来、水田稲作、漢字、仏教、儒教など、海外文化を積極的に受け入れてきました。そして皇室こそは世界文化受容の中心です。
たとえば宮中に伝わる雅楽は、唐楽、高麗楽、渤海楽、林邑楽など古代のアジア諸国の音楽が源流となっています。近代以後、キリスト教の社会事業を深く理解され、経済的、精神的に支援されたのも皇室です。
驕り高ぶらずに、他者を謙虚に受け入れる力が、日本の文化を豊かにしてきたのです。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
日本を受容し、排斥する韓国人の引き裂かれた精神
──米大統領府晩餐会に出された日本料理への不満
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先日、ジャーナリストの黒田勝弘さんが、訪米した李明博・韓国大統領に対する、ホワイトハウスでの晩餐会について、興味深いニュースを伝えていました。メニューに日本料理が出されたことから、韓国内で不満の声が出ている、とくに韓国メディアは「ホワイトハウスの深刻なミス」と批判している、というのです。
http://sankei.jp.msn.com/world/news/111025/kor11102501340000-n1.htm
黒田さんの記事によると、朝鮮日報が発行する雑誌「週刊朝鮮」が伝えた晩餐会のメニューは、前菜は「マサゴ」と名付けられた「カリフォルニア巻き」のようなお寿司で、サラダは「ダイコン」。メインディッシュのステーキは「ワギュウ」、添えられた野菜は「カボチャ」でした。
同誌は「これはホワイトハウスの深刻なミスで失礼にあたる。とくに韓国料理の世界化に努力中の韓国大統領の金潤玉夫人は不満だったはず」と伝えているのだそうです。
▽1 反日的脳細胞を刺激する
韓国誌の記事は「現実的に米国では日本料理は最高級料理になっている」というアメリカの食の現実を認めつつ、「韓国人出席者は受け入れがたい気持ちではなかったか」と指摘しているというのですが、何をどう受け入れられないのでしょうか?
結論からいえば、現代の韓国人は「日本」を受け入れられない、ということなのでしょう。現実には日本の文化を多く受け入れているのに、です。韓国人の心は分裂しています。
アメリカは人種の坩堝(るつぼ)ですから、当然、アメリカの食文化は世界の食文化のモザイクです。アメリカで「最高級」とされる「日本料理」が、賓客をもてなす料理として晩餐会に出されるのにはそれなりの理由があります。
もちろんアメリカの食文化を代表するハンバーガーが「ハンブルグ風」であるように、「カリフォルニア巻き」はアメリカ風にアレンジされたアメリカ料理のはずです。それを韓国人は「日本料理」と見るから、韓国人自身の反日的脳細胞を刺激するのです。
どこの国であれ、食文化は多かれ少なかれ、他国との歴史的交流の産物です。韓国誌の記者が強い反発を感じているらしい日本料理の食材も、もともと日本オリジナルではありません。
ダイコンは地中海沿岸地方が原産地で、日本には弥生時代に伝わったようですし、カボチャはアメリカ原産ですが、室町時代にポルトガル人によって日本にもたらされました。「カンボジア」が名称の由来であることは日本では常識です。ステーキの「和牛」にしても、近代以降、在来の牛に輸入牛をかけ合わせて、新たに改良されたものです。
こうした食の歴史を、口を酸っぱくして解説しても、日本嫌いの韓国人記者にはたぶん馬耳東風でしょう。
しかし、それほど日本がいやなら、「韓国料理の世界化に努力中の韓国大統領の金潤玉夫人」は、大根キムチのカクテキを世界化の対象から外すべきではないでしょうか? 大根キムチ追放キャンペーンを新聞社は推進すべきではないですか?
▽2 キムチの唐辛子は日本から伝えられた
韓国政府が数年来、「韓国の食文化の国際化」を推進するようになった要因のひとつは、日本食が世界に広がっていることへの対抗意識でした。けれども、日本を鏡にするほかに自画像が描けないのなら、日本を否定することは自分の存在を失わせます。
なぜなら、韓国食文化を代表するキムチそれ自体、日本との交流の結果、生まれたからです。キムチに欠かせない唐辛子は、南米原産ですが、朝鮮半島にもたらされたのは、韓国人が「侵略」と呼ぶ、秀吉の朝鮮出兵のころ、日本からでした。
朝鮮の実学者・李晬光が1613年に編纂した『芝峰類説』には、朝鮮半島には日本を通じて知らされたので、「倭芥子(ウェゲジャ)」と呼ばれると記載されています。キムチに唐辛子を用いるようになったのは18世紀の半ばで、ピリリと辛いキムチが一般化したのは18世紀後半といわれます。
大根や白菜のキムチが韓国で大量に流通するようになったのは、日本人女性を母として日本で生まれ、日本で学び、その後、独立直後の韓国で、野菜の種子の自給体制確立に貢献し、やがて「韓国農業の父」と呼ばれた禹長春氏の功績によります。
食文化ばかりではありません。韓国の新聞の歴史にも日本が関与しています。韓国で最初にハングル文字を用いた新聞は漢城周報ですが、福沢諭吉や井上角五郎など日本人が協力しました。韓国・朝鮮の近代化には多くの日本人が貢献しています。
ソウルには日本時代の面影がいまも色濃く残されています。ソウル市庁舎は旧京城府庁ですし、市議会議事堂は旧京城府民館です。ソウル一の繁華街・明洞(ミョンドン)はかつて明治村と呼ばれていたのではありませんか。
どこの国にも他国の文化を受け入れ、発展させてきた歴史があります。韓国の歴史も例外ではありません。韓国・朝鮮は日本の文化を受け入れ、独自の文化を創ってきたのに、その事実を認めることができず、まるで人類の歴史が朝鮮半島から生まれたかのような説さえ、しばしば主張されています。
日本文化の受容は現代も例外ではありません。10年前、歴史教科書問題をきっかけに日韓関係が抜き差しならない状況になったとき、ソウルの街ではどこへ行っても、人気歌手のポジションが韓国語で歌う、尾崎豊の「アイ・ラブ・ユー」が流れ、そのCDはヒットチャートのトップをずっと走り続けていました。
日本を受容しながら、日本を排斥する。韓国人の精神は分裂している、といわざるを得ません。
▽3 韓国宮廷料理研究家・黄慧性さんの思い出
黄慧性(ファン・ヘソン)さんという韓国人女性がいます。忠清南道の裕福な両班の家庭に生まれ、日本の女学校に学んだあと、長年、朝鮮の宮中料理を研究しました。重要無形文化財に指定され、ソウル大など各大学の教壇に立ち、後進の養成に尽くし、5年前、86歳でこの世を去りました。
黄慧性さんの偉大さは日本と日本人をしっかりと理解し、評価していたことにあります。第2次大戦後、失われかけていた朝鮮の宮廷料理を研究できたのは、ほかでもありません。日本時代に朝鮮総督府が李王職を設け、宮廷文化を保存、記録していたからでした。
亡くなる何年か前、黄慧性さんを「韓国のお母さん」と慕う、韓国文化に詳しい友人に連れられてソウルを旅しました。戦前は朝鮮神宮の境内だった、南山頂上にある宮廷料理店で、優雅なチマチョゴリ姿の黄慧性さんと食卓を囲んだとき、黄慧性さんが語った言葉が印象的でした。
「最近の人はすぐに栄養学的な意味を考えようとする」
国王が毎日、食する宮廷料理には儒教的な意味づけがある、それが欧米の学問を学んだ現代の韓国人には理解できない、というのが黄慧性さんの嘆きでした。
黄慧性さんは、日本および日本人に対する好悪の感情を超えて、客観的に評価する目を持ち、学ぶべきところあり、とすれば、素直に学ぶ姿勢を持っていました。事実を無視して、観念的に日本を批判する、しかも言っていることとやっていることが百八十度違う。そんな親米・反日の李承晩の息子たちとは雲泥の差があります。
▽4 謙虚に他者を受け入れる日本
ひるがえって日本はどうでしょうか?
日本は有史以来、水田稲作、漢字、仏教、儒教など、海外文化を積極的に受け入れてきました。そして皇室こそは世界文化受容の中心です。
たとえば宮中に伝わる雅楽は、唐楽、高麗楽、渤海楽、林邑楽など古代のアジア諸国の音楽が源流となっています。近代以後、キリスト教の社会事業を深く理解され、経済的、精神的に支援されたのも皇室です。
驕り高ぶらずに、他者を謙虚に受け入れる力が、日本の文化を豊かにしてきたのです。
返還された韓国人旧軍人らの遺骨。「強制動員」と主張せざるを得ない事情 [韓国]
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返還された韓国人旧軍人らの遺骨
「強制動員」と主張せざるを得ない事情
(「神社新報」平成20年2月6日)
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厚労省が東京・目黒区の祐天寺に預託している朝鮮半島出身の旧軍人・軍属の遺骨千百三十五柱のうち、遺族の所在が判明した百一柱が先月二十二日、韓国政府を通じて返還されました。返還に先立って無宗教形式の追悼式が寺院内で営まれ、韓国伝統の白い葬服を身にまとった遺族のほか、日韓政府関係者ら約百人が霊前に黙祷を捧げ、献花し、さらに前例に従って弔慰金が遺族に渡された、と伝えられます。
日韓メディアの報道によると、追悼の辞で外務省の木村仁副大臣は、平成十年の小渕・金大中両首脳による日韓共同宣言を引用して「(植民地支配について)痛切な反省とお詫び」を表明し、韓国政府・強制動員被害真相糾明委員会の全基浩委員長は「軍人・軍属だけでなく労務者として強制動員されて犠牲となった被害者の遺骨収集・返還の成果は不十分」と述べたようです。
今回の遺骨返還は十六年の小泉・盧武鉉会談で韓国側が韓国人民間徴用者の遺骨の所在確認と返還を希望したことに始まり、以来、これだけまとまった返還が実現したのは初めてとされますが、戦後、過ぎ去った時間の長さと歴史認識の違いは日韓の隔たりを改めて浮き彫りにしています。
▽ 異端を排除する儒教社会
日韓の相違点の最たるものは、朝鮮人の徴用・徴兵は強制だったのか、否か、です。
朝鮮では大正八年に三・一独立運動がわき上がりましたが、ほかならぬその闘士たちが、昭和十二年の日中戦争勃発後、対日協力に一変したことが知られています。
朝鮮での徴兵制は、じつのところ朝鮮人の請願を受けて始まりました。金錫源陸軍少佐が日本兵千名を率いて、中国軍を撃破し、朝鮮人初の金鵄勲章を授与するという大ニュースが志願制実現につながり、十三年に陸軍特別志願兵制度が創設され、適齢の若者が殺到しました。徴兵制移行は敗色が濃くなった十九年。しかしいまだ訓練中に終戦を迎えたのでした(杉本幹夫『「植民地朝鮮」の研究』など)。
民間人の集団動員も十四年〜十七年までは自由募集、同年〜十九年までは官斡旋・隊組織による動員、その後は国民徴用令による動員でした(『在日朝鮮人処遇の推移と現状』法務研修所)。
二十四万を超える朝鮮人軍人・軍属が戦争に参加し、うち二万人が命を落とし、靖国神社に祀られ、慰霊の誠が捧げられていますが、当時の朝日新聞の報道によれば、徴兵制採用は「内鮮一体の実」を挙げることでした。民間人の徴用も労務管理が劣悪な事業所には避けられ、家族援護の万全も図られるなど、日本政府はむしろ内鮮一体化のために苦悩しています。
総連系の研究者が政治的プロパガンダとして主張し始めたとされる「強制連行」説は今日、歴史的根拠が明確でないことが広く知られるようになり、四年前、「日本の指導者たちの悪意に満ちた歴史認識を正す」ため、在日の研究者が編集し、民団中央本部が発行した小冊子などは「強制連行」についての言及がないどころか、「土地と生活基盤を奪われた流浪民が満州や日本などに移住した」と説明しています。
今回、民団新聞は「韓半島出身の旧軍人・軍属」、韓国・朝鮮日報も「徴用」と表現し、韓国・中央日報の「強制動員」、総連機関紙・朝鮮新報の「強制連行」とは異なります。
もっとも、形式は志願だが心理的には強制されていた。志願という名の強制徴用だった、と理解する研究者もいます(内海愛子『朝鮮人BC級戦犯』)。それなら、志願制のはずがなぜ強制的に実施されたのか。
『巣鴨プリズン十三号鉄扉』で韓国人元BC級戦犯の苦難に言及した作家の上坂冬子氏は「志願か強制か、抗日思想の強い同胞から一線を画されるか否かのポイントなのであろう」と指摘しますが、志願者が戦後になって「強制」と主張するのは、むしろそういわざるを得ない韓国特有の事情があるのではないでしょうか。
韓国儒教社会は正統を重んじ、異端を極端に排除します。やむにやまれぬ事情があるとはいえ、異国の血に汚れ、あるいは国を売ったとなると、けっして故国に受け入れられない。そんな歴史の事例は、高麗時代、元に朝貢された貢女など、いくつもあげられそうです。
戦後、巣鴨拘置所に収容されたBC級戦犯者がひそかにまとめた証言集は、韓国人留守家族の悲惨な状況を余すところなく記録しています。
韓国人戦犯の多くは戦地の俘虜収容所の監視要員となった軍属雇人で、戦後、所内での暴力事件のいわれなき責任を連合国側から不当に追及されたのですが、韓国では対日協力者として反感の対象であり、家族は周囲から冷遇され、親類縁者からの援助も望み得ず、それでなくとも朝鮮戦争の影響で大黒柱を失った家族は文字通り路頭に迷った、といいます。
親日派糾弾に狂奔する盧武鉉政権の強制動員真相糾明委員会が朝鮮人元BC級戦犯八十人を「被害者」と認定し、名誉回復すると発表したのは一昨年十一月です。
韓国・聯合通信によれば、「監視要員になったのは、強制徴用の対象にならないためのやむを得ない選択だった。しかし日本の戦争捕虜に対する虐待責任まで負うことになり、二重の苦痛を受けた」と説明されています。
要するに日本国家に協力した事実を否定し、逆に被害者であったことを証明するのが韓国流の名誉回復なのです。親日を異端とし、心ではけっして許してはいない戦犯者を、ちょうど慰安婦がそうであるように、親日批判のために逆利用しているように見えます。
驚くべきことに、遺族らはその後ようやく公の場に顔を出せるようになった、と伝えられます。
ことほど左様に異端のレッテルを貼られたまま韓国儒教社会で生きていくことがいかに厳しいか。であればこそ、「志願」をも「強制」と抗弁せざるを得ないのでしょう。
▽ 御霊よ、安らかに
追悼式で柳明桓韓国大使は「今日の追悼式は不幸な過去の歴史が生み出した傷跡を少しでも癒し、未来の友好・平和に向けて踏み出す貴重な一歩となった」と追悼の辞を述べ、遺族代表の金慶逢さんは式典後、記者らに「怒りや悲しみ、後世の人への責任を感じるが、これで終止符を打ちたい」と語ったといいます。
一方、韓国の李明博・次期大統領は当選後の初会見で「日韓関係は未来志向的に進めなければならない」と語りました。前政権が創設した親日反民族行為真相糾明委員会などの廃止も表明していますが、歴史問題で反目し合う狂気の時代は幕を閉じるのでしょうか。
翌日、祖国に帰った遺骨は韓国中部・忠清北道にある「望郷の丘」に安置されました。日本国家に命を捧げた御霊(みたま)の安らかならんことを切に祈るばかりです。
返還された韓国人旧軍人らの遺骨
「強制動員」と主張せざるを得ない事情
(「神社新報」平成20年2月6日)
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厚労省が東京・目黒区の祐天寺に預託している朝鮮半島出身の旧軍人・軍属の遺骨千百三十五柱のうち、遺族の所在が判明した百一柱が先月二十二日、韓国政府を通じて返還されました。返還に先立って無宗教形式の追悼式が寺院内で営まれ、韓国伝統の白い葬服を身にまとった遺族のほか、日韓政府関係者ら約百人が霊前に黙祷を捧げ、献花し、さらに前例に従って弔慰金が遺族に渡された、と伝えられます。
日韓メディアの報道によると、追悼の辞で外務省の木村仁副大臣は、平成十年の小渕・金大中両首脳による日韓共同宣言を引用して「(植民地支配について)痛切な反省とお詫び」を表明し、韓国政府・強制動員被害真相糾明委員会の全基浩委員長は「軍人・軍属だけでなく労務者として強制動員されて犠牲となった被害者の遺骨収集・返還の成果は不十分」と述べたようです。
今回の遺骨返還は十六年の小泉・盧武鉉会談で韓国側が韓国人民間徴用者の遺骨の所在確認と返還を希望したことに始まり、以来、これだけまとまった返還が実現したのは初めてとされますが、戦後、過ぎ去った時間の長さと歴史認識の違いは日韓の隔たりを改めて浮き彫りにしています。
▽ 異端を排除する儒教社会
日韓の相違点の最たるものは、朝鮮人の徴用・徴兵は強制だったのか、否か、です。
朝鮮では大正八年に三・一独立運動がわき上がりましたが、ほかならぬその闘士たちが、昭和十二年の日中戦争勃発後、対日協力に一変したことが知られています。
朝鮮での徴兵制は、じつのところ朝鮮人の請願を受けて始まりました。金錫源陸軍少佐が日本兵千名を率いて、中国軍を撃破し、朝鮮人初の金鵄勲章を授与するという大ニュースが志願制実現につながり、十三年に陸軍特別志願兵制度が創設され、適齢の若者が殺到しました。徴兵制移行は敗色が濃くなった十九年。しかしいまだ訓練中に終戦を迎えたのでした(杉本幹夫『「植民地朝鮮」の研究』など)。
民間人の集団動員も十四年〜十七年までは自由募集、同年〜十九年までは官斡旋・隊組織による動員、その後は国民徴用令による動員でした(『在日朝鮮人処遇の推移と現状』法務研修所)。
二十四万を超える朝鮮人軍人・軍属が戦争に参加し、うち二万人が命を落とし、靖国神社に祀られ、慰霊の誠が捧げられていますが、当時の朝日新聞の報道によれば、徴兵制採用は「内鮮一体の実」を挙げることでした。民間人の徴用も労務管理が劣悪な事業所には避けられ、家族援護の万全も図られるなど、日本政府はむしろ内鮮一体化のために苦悩しています。
総連系の研究者が政治的プロパガンダとして主張し始めたとされる「強制連行」説は今日、歴史的根拠が明確でないことが広く知られるようになり、四年前、「日本の指導者たちの悪意に満ちた歴史認識を正す」ため、在日の研究者が編集し、民団中央本部が発行した小冊子などは「強制連行」についての言及がないどころか、「土地と生活基盤を奪われた流浪民が満州や日本などに移住した」と説明しています。
今回、民団新聞は「韓半島出身の旧軍人・軍属」、韓国・朝鮮日報も「徴用」と表現し、韓国・中央日報の「強制動員」、総連機関紙・朝鮮新報の「強制連行」とは異なります。
もっとも、形式は志願だが心理的には強制されていた。志願という名の強制徴用だった、と理解する研究者もいます(内海愛子『朝鮮人BC級戦犯』)。それなら、志願制のはずがなぜ強制的に実施されたのか。
『巣鴨プリズン十三号鉄扉』で韓国人元BC級戦犯の苦難に言及した作家の上坂冬子氏は「志願か強制か、抗日思想の強い同胞から一線を画されるか否かのポイントなのであろう」と指摘しますが、志願者が戦後になって「強制」と主張するのは、むしろそういわざるを得ない韓国特有の事情があるのではないでしょうか。
韓国儒教社会は正統を重んじ、異端を極端に排除します。やむにやまれぬ事情があるとはいえ、異国の血に汚れ、あるいは国を売ったとなると、けっして故国に受け入れられない。そんな歴史の事例は、高麗時代、元に朝貢された貢女など、いくつもあげられそうです。
戦後、巣鴨拘置所に収容されたBC級戦犯者がひそかにまとめた証言集は、韓国人留守家族の悲惨な状況を余すところなく記録しています。
韓国人戦犯の多くは戦地の俘虜収容所の監視要員となった軍属雇人で、戦後、所内での暴力事件のいわれなき責任を連合国側から不当に追及されたのですが、韓国では対日協力者として反感の対象であり、家族は周囲から冷遇され、親類縁者からの援助も望み得ず、それでなくとも朝鮮戦争の影響で大黒柱を失った家族は文字通り路頭に迷った、といいます。
親日派糾弾に狂奔する盧武鉉政権の強制動員真相糾明委員会が朝鮮人元BC級戦犯八十人を「被害者」と認定し、名誉回復すると発表したのは一昨年十一月です。
韓国・聯合通信によれば、「監視要員になったのは、強制徴用の対象にならないためのやむを得ない選択だった。しかし日本の戦争捕虜に対する虐待責任まで負うことになり、二重の苦痛を受けた」と説明されています。
要するに日本国家に協力した事実を否定し、逆に被害者であったことを証明するのが韓国流の名誉回復なのです。親日を異端とし、心ではけっして許してはいない戦犯者を、ちょうど慰安婦がそうであるように、親日批判のために逆利用しているように見えます。
驚くべきことに、遺族らはその後ようやく公の場に顔を出せるようになった、と伝えられます。
ことほど左様に異端のレッテルを貼られたまま韓国儒教社会で生きていくことがいかに厳しいか。であればこそ、「志願」をも「強制」と抗弁せざるを得ないのでしょう。
▽ 御霊よ、安らかに
追悼式で柳明桓韓国大使は「今日の追悼式は不幸な過去の歴史が生み出した傷跡を少しでも癒し、未来の友好・平和に向けて踏み出す貴重な一歩となった」と追悼の辞を述べ、遺族代表の金慶逢さんは式典後、記者らに「怒りや悲しみ、後世の人への責任を感じるが、これで終止符を打ちたい」と語ったといいます。
一方、韓国の李明博・次期大統領は当選後の初会見で「日韓関係は未来志向的に進めなければならない」と語りました。前政権が創設した親日反民族行為真相糾明委員会などの廃止も表明していますが、歴史問題で反目し合う狂気の時代は幕を閉じるのでしょうか。
翌日、祖国に帰った遺骨は韓国中部・忠清北道にある「望郷の丘」に安置されました。日本国家に命を捧げた御霊(みたま)の安らかならんことを切に祈るばかりです。
韓国はなぜ和解しようとしないのか [韓国]
以下は旧・斎藤吉久のブログ(2006年4月25日)からの転載です
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
韓国はなぜ和解しようとしないのか
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
朝日新聞がきのうから、「新戦略を求めて」というシリーズをスタートさせました。
今日の朝刊には「米・欧・アジアはどう見る」というので、アーミテージ前アメリカ国務副長官、ベドリヌ元フランス外相、金大中前韓国大統領のインタビューが載っています。
その中で気になるのは、金大中さんのインタビューです。
「朝鮮半島とアジアの未来をどう考えますか」
という質問に対して、金大中さんは
「朝鮮半島は大国のパワーゲームの最大の犠牲者だった。日本が占領したために悲運がもたらされたし、旧ソ連と米国が勝手に分断して戦争まで起こした」
と答えています。
自国を「犠牲者」と位置づけ、みずからの責任を顧みない姿勢がはっきりと現れています。日本の「植民地支配」ではなく、「占領」と表現しているのは、注目されますが、「日本が悪い」という考えがこびりついているようです。
自国の運命を決めるのは自分たちではなく、周囲の「大国」だ、という発想ですから、当然、
「結局、米朝関係が改善されなければ朝鮮半島の平和と共存は難しい」
という答えになるのでしょう。
しかし、このような、いわゆる「事大主義」の姿勢はいまに始まったことではないので、まだいいとしても、
「アジアの中での日本の姿をどう見ますか」
という質問に対して、
「周辺国から信頼されないどころか、ますます右傾化している。一番心配なのが若い国会議員や若い世代だ。過去に日本が何をしたかを知らないから反省できない。だからほんとうの謝罪がない。象徴的なのは靖国参拝だが……」
と答えているのは、いかがなものかと思います。歴史を「知らない」、いや「知ろうとしない」のはむしろ金大中さんの方ではないかと思うからです。
ここで思い出すのは、5年前、金大中政権時代の教科書検定騒動です。韓国政府は「歪曲に満ちた」中学歴史教科書に対して36ページにわたる公式の再修正要求と備忘録を突きつけたのでした。
韓国政府の再修正要求の全容は、韓国政府のホームページ上で韓国語と英語で公表されましたが、日本による「植民地支配」を「搾取」「侵略」として全否定する厳しいものでした。
しかし、韓国政府の公式の歴史認識が歴史の事実に基づいているかはまったく別問題です。
たとえば「日本語強制」です。
金大中の自叙伝『新しき出発のために』(朝日新聞社、1994年)には
「日本は……韓国語と韓国の歴史を学ぶことを禁じました」
とありますが、翌年の『わたしの自叙伝----日本へのメッセージ』(日本放送出版協会、1995年)は、インタビューを元にした本文では
「朝鮮語の正規の授業がなくなった。……学校内では、朝鮮語を使うことが禁止されました」
となっていてニュアンスが違います。
しかも、編集部による「補足説明」では、昭和13年に第三次朝鮮教育令が公布され、朝鮮語は「随意科目」となった。朝鮮語の授業を廃止した小学校が多かったが、金大中少年の六年生の成績簿には朝鮮語の成績が10点となっている。週に一度程度の朝鮮語の授業が行われていたことをうかがわせる、と書かれています。
第三次朝鮮教育令というのは、以前は日本語を常用する内地人と常用しない朝鮮人とが別々の学校に通っていたものを、差別を撤廃して「内鮮共学」、同じ学校で机を並べて学べるようにしたものです。
朝鮮語が「随意科目」となってからも、日本人校長の学校では朝鮮語の授業が続いていたし、皇居遙拝をよびかける国民精神総動員朝鮮聯盟のポスターは日本語とハングルで書かれていました。総督府の機関紙「毎日申報」は漢字ハングル混じりで、終戦まで発行されていました。ラジオの第2放送は朝鮮語が用いられていました。
朝鮮語の禁止、日本語の強制という歴史理解は誤りです。「過去に日本が何をしたか知らない」のは、日本の「若い国会議員や若い世代」ばかりではないでしょう。
金大中さんは今朝の朝日新聞のインタビューで、さらにドイツと日本を比較し、こう述べています。
「欧州の特徴は、西ドイツが周辺の国々の信頼を得たことだ。過去を徹底的に反省し、謝罪した。若い世代にナチスの罪悪を教え、ユダヤ人虐殺の場所を保存した」
日本もドイツのように徹底的に反省し、謝罪すべきだ、というのでしょうが、この発言には、二つの間違いを指摘できるでしょう。
一つは、ナチス・ドイツによるユダヤ人虐殺と日本の植民地支配ないしは「侵略」戦争を同一視する誤りですす。前者は国際法が予想していなかった国家的な計画的他民族抹殺であって、国際法が愚かにも認める通常の戦争でも、戦時国際法に違反する戦争犯罪でもありません。
もう一つは、ドイツの謝罪を周辺国が受け入れた結果として和解が成立したとは言い切れない、ということです。市村眞一・京都大学名誉教授が次のような興味深い逸話を紹介しています。
10年前、韓国対外経済政策研究院の柳花煕所長(梨花女子大学教授)がドイツのシュミット首相と南北朝鮮統一をテーマに対談し、話題が日本の「過去」におよびました。柳所長が
「ドイツは戦争の原因が自分たちにあることを認め、謝罪した。なぜ日本は謝罪しないのか」
と質問したのに対して、シュミットはこう答えたのです。
「和解の手をさしのべたのはフランスであり、ドイツではない。フランスが協力を呼びかけ、そして私たちがそれに応じたのです」(『Real success, financial fall』)
シュミットの論理に従えば、
「フランスはドイツに和解の手をさしのべたのに、なぜ韓国は日本にそのようにしないのか」
という問いかけが成り立ちます。金大中さん、どうですか。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
韓国はなぜ和解しようとしないのか
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
朝日新聞がきのうから、「新戦略を求めて」というシリーズをスタートさせました。
今日の朝刊には「米・欧・アジアはどう見る」というので、アーミテージ前アメリカ国務副長官、ベドリヌ元フランス外相、金大中前韓国大統領のインタビューが載っています。
その中で気になるのは、金大中さんのインタビューです。
「朝鮮半島とアジアの未来をどう考えますか」
という質問に対して、金大中さんは
「朝鮮半島は大国のパワーゲームの最大の犠牲者だった。日本が占領したために悲運がもたらされたし、旧ソ連と米国が勝手に分断して戦争まで起こした」
と答えています。
自国を「犠牲者」と位置づけ、みずからの責任を顧みない姿勢がはっきりと現れています。日本の「植民地支配」ではなく、「占領」と表現しているのは、注目されますが、「日本が悪い」という考えがこびりついているようです。
自国の運命を決めるのは自分たちではなく、周囲の「大国」だ、という発想ですから、当然、
「結局、米朝関係が改善されなければ朝鮮半島の平和と共存は難しい」
という答えになるのでしょう。
しかし、このような、いわゆる「事大主義」の姿勢はいまに始まったことではないので、まだいいとしても、
「アジアの中での日本の姿をどう見ますか」
という質問に対して、
「周辺国から信頼されないどころか、ますます右傾化している。一番心配なのが若い国会議員や若い世代だ。過去に日本が何をしたかを知らないから反省できない。だからほんとうの謝罪がない。象徴的なのは靖国参拝だが……」
と答えているのは、いかがなものかと思います。歴史を「知らない」、いや「知ろうとしない」のはむしろ金大中さんの方ではないかと思うからです。
ここで思い出すのは、5年前、金大中政権時代の教科書検定騒動です。韓国政府は「歪曲に満ちた」中学歴史教科書に対して36ページにわたる公式の再修正要求と備忘録を突きつけたのでした。
韓国政府の再修正要求の全容は、韓国政府のホームページ上で韓国語と英語で公表されましたが、日本による「植民地支配」を「搾取」「侵略」として全否定する厳しいものでした。
しかし、韓国政府の公式の歴史認識が歴史の事実に基づいているかはまったく別問題です。
たとえば「日本語強制」です。
金大中の自叙伝『新しき出発のために』(朝日新聞社、1994年)には
「日本は……韓国語と韓国の歴史を学ぶことを禁じました」
とありますが、翌年の『わたしの自叙伝----日本へのメッセージ』(日本放送出版協会、1995年)は、インタビューを元にした本文では
「朝鮮語の正規の授業がなくなった。……学校内では、朝鮮語を使うことが禁止されました」
となっていてニュアンスが違います。
しかも、編集部による「補足説明」では、昭和13年に第三次朝鮮教育令が公布され、朝鮮語は「随意科目」となった。朝鮮語の授業を廃止した小学校が多かったが、金大中少年の六年生の成績簿には朝鮮語の成績が10点となっている。週に一度程度の朝鮮語の授業が行われていたことをうかがわせる、と書かれています。
第三次朝鮮教育令というのは、以前は日本語を常用する内地人と常用しない朝鮮人とが別々の学校に通っていたものを、差別を撤廃して「内鮮共学」、同じ学校で机を並べて学べるようにしたものです。
朝鮮語が「随意科目」となってからも、日本人校長の学校では朝鮮語の授業が続いていたし、皇居遙拝をよびかける国民精神総動員朝鮮聯盟のポスターは日本語とハングルで書かれていました。総督府の機関紙「毎日申報」は漢字ハングル混じりで、終戦まで発行されていました。ラジオの第2放送は朝鮮語が用いられていました。
朝鮮語の禁止、日本語の強制という歴史理解は誤りです。「過去に日本が何をしたか知らない」のは、日本の「若い国会議員や若い世代」ばかりではないでしょう。
金大中さんは今朝の朝日新聞のインタビューで、さらにドイツと日本を比較し、こう述べています。
「欧州の特徴は、西ドイツが周辺の国々の信頼を得たことだ。過去を徹底的に反省し、謝罪した。若い世代にナチスの罪悪を教え、ユダヤ人虐殺の場所を保存した」
日本もドイツのように徹底的に反省し、謝罪すべきだ、というのでしょうが、この発言には、二つの間違いを指摘できるでしょう。
一つは、ナチス・ドイツによるユダヤ人虐殺と日本の植民地支配ないしは「侵略」戦争を同一視する誤りですす。前者は国際法が予想していなかった国家的な計画的他民族抹殺であって、国際法が愚かにも認める通常の戦争でも、戦時国際法に違反する戦争犯罪でもありません。
もう一つは、ドイツの謝罪を周辺国が受け入れた結果として和解が成立したとは言い切れない、ということです。市村眞一・京都大学名誉教授が次のような興味深い逸話を紹介しています。
10年前、韓国対外経済政策研究院の柳花煕所長(梨花女子大学教授)がドイツのシュミット首相と南北朝鮮統一をテーマに対談し、話題が日本の「過去」におよびました。柳所長が
「ドイツは戦争の原因が自分たちにあることを認め、謝罪した。なぜ日本は謝罪しないのか」
と質問したのに対して、シュミットはこう答えたのです。
「和解の手をさしのべたのはフランスであり、ドイツではない。フランスが協力を呼びかけ、そして私たちがそれに応じたのです」(『Real success, financial fall』)
シュミットの論理に従えば、
「フランスはドイツに和解の手をさしのべたのに、なぜ韓国は日本にそのようにしないのか」
という問いかけが成り立ちます。金大中さん、どうですか。
「竹島の日」制定と「慰安婦歴史観」開館──「日韓友情年」に不信と対立が増す皮肉 [韓国]
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「竹島の日」制定と「慰安婦歴史観」開館──「日韓友情年」に不信と対立が増す皮肉
(「神社新報」平成17年4月4日号)
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日韓両国政府は「国交正常化40年」の今年(平成17年)を「友情年」と位置づけ、多角的な交流を推進しています。ところが、3月下旬、島根県議会が「竹島の日」を制定したことから、韓国側は日本の国旗を焼くなど猛反発しました。これではもう「友情」どころではありません。
火種はもっぱら日本かといえば、そうではありません。折しも第2次大戦「終戦60年」で、韓国ではおよそ友好的ではない「独立60年」記念事業が進行しています。
たとえば、「独立運動が開始された日」の3月1日には、女性省がインターネット上に「日本軍慰安婦サイバー歴史館」(http://www.hermuseum.go.kr/ 韓国語。現在は英語のページもある)を開設しました。目的は「独立60年を機に、日本の悪行に対する韓国人の認識を促進するため」だそうで、これでは不信と対立が激化するのは当然です。
▢1「日本大使館に抗議を」とアニメで教える「子供教室」
「歴史館」のサイトを開くと、木立に囲まれた建物群が立体的に浮かび上がります。「掲示板」「資料室」「運動館」などと並んで、「慰安婦を簡単に学べる」と注釈のついた「子供歴史教室」まであります。「教室」をクリックすると新しいウインドウが開き、中央のスクリーンに元慰安婦のお婆さん(ハルモニ)と女の子がアニメーションで登場します。
メニューから「慰安婦とは」を選ぶと、お腹の大きな女性たちや「身も心も捧ぐ大和撫子のサービス」と墨書された慰安所の正門などがスライドで次々に現れるかたわらで、ハルモニが女の子に「慰安婦というのはね、日本が引き起こした戦争で日本軍に従軍し、性の奴隷になった女性たちを指すのよ」などと、お婆ちゃん言葉で説明します。
いわく、日本は朝鮮侵略では足りず、アジア全域から太平洋地域まで侵略した。慰安所は1930年代初めから陸軍、海軍、空軍全体に設置された。占領地域では強姦事件が多発し、反日感情が高まった。不祥事と性病の発生を防ぎ、あわせて軍人の士気昂揚のため慰安所が設けられた。ある軍医官は慰安婦を「天皇からの賜り物」と表現している。11歳の少女から30歳を超えた、あらゆる年代の女性が動員された。過酷な毎日だった。工場で働くとだまして連れて行かれた──。
日本軍に「空軍」があったとは初耳ですが、それはともかくも、嘘であざむいて女性をさらい、自由のない慰安所に押し込め、慰みものにしたという残虐なイメージを、韓国政府は子供にまで植え付けようとしているかに見えます。
「子供教室」の「問題解決のために」のページでは、元慰安婦は、「歴史を真摯に学」び、「誤った歴史をただす」ことを主張しているだけでなく、関心の薄い国会に投書することや、元慰安婦たちが10年前から続けている毎週水曜日の日本大使館に対する抗議行動への参加を呼びかけ、さらには「豚の貯金箱に毎日100ウォンずつ入れれば、月3000ウォン貯まる」と博物館建設の募金活動への協力を訴えています。
「歴史館」は韓国政府による「反日」教育施設であるばかりでなく、「反日」活動の拠点といえます。
「歴史館」では、元慰安婦の顔写真や証言のほか、裁判記録や学術論文、関係図書、新聞資料、映像資料などが閲覧できます。
けれども、なかには掲載意図が理解できないものもあります。
たとえば、昭和12年に上海派遣軍野戦郵便長として従軍した佐々木元勝の『野戦郵便旗』は郵便局近くにあった「上海寮、皇軍将兵慰安所」に言及しているのですが、「ここは半島人(朝鮮人)が営業していた」とあります。
「日本の悪行に対する認識の促進」が目的のはずの「歴史館」が、図らずも「朝鮮人自身の悪行」を暴露しています。
映像資料には、日本政府に謝罪と補償を要求する圧力団体の総本山といわれる挺身隊問題対策協議会が制作したドラマも含まれています。
このほか、元慰安婦を原告とし、北朝鮮工作員とされる人物が検事役を務め、弁護人不在のまま、昭和天皇を「人道に対する罪」「強姦罪」などで「有罪」とした「2000年女性国際戦犯法廷」の判決資料なども提供されています。
一見、豊富な資料を集める「資料室」ですが、慰安婦問題を客観的資料と証言で総合的に検証した第一級の研究書である、秦郁彦・日本大学教授の『慰安婦と戦場の性』などは見当たりません。
表向きは「IT先進国」ならではの巧緻な「サイバー歴史館」ですが、その内容は一面的で公平性に欠けるといわざるを得ません。結果として、仮想空間内で相互不信が肥大化していくのは避けられません。
▢2 なぜ宮沢首相は「謝罪」したのか。誤った「政治判断」のツケ
慰安婦問題の発端は、韓国ではなく日本だ、と指摘されています。
「真珠湾50周年」の平成3年暮れ、元慰安婦などが日本政府を相手どり、計7億円の損害賠償を求める訴えを東京地裁に起こしました。「青春を返して」。名乗りを上げた元慰安婦第1号・金学順さんの涙の訴えは、多くの日本人の同情を誘いました。
けれども、家庭の貧困から身売りされたのが転落の人生の始まりだった、という重大な事実は、このときは伏せられていました。訴訟の原告は日本人運動家らがわざわざ訪韓して捜し出し、裁判費用も日本側が提供していたといわれます。
「加害者」の日本人が、「被害者」の韓国人の痛みを代弁して訴える「ゆがんだ構図」と指摘されています。
もともと勝訴の見込みはありませんでした。
というのも、40年前、日韓両国は基本条約の締結と同時に、「日韓請求権並びに経済協力協定」を結びました。日本が無償協力3億ドル、円有償協力2億ドル、民間借款3億ドルという、当時の韓国の国家予算をはるかに上回る経済協力をする代わりに、韓国は国および国民の請求権を放棄し、「完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認」したからです。
韓国政府は経済協力金の一部を召集・徴用で命を失った国民に補償金として支払いました。誰に戦後補償を実施するかは政府の裁量権の範囲であり、元慰安婦が補償の対象とならなかったとしても、訴えるべき相手は韓国政府でなければなりません。
このため日本政府は「解決済み」との姿勢でしたが、慰安婦に肩入れするマスコミは違っていました。翌4年1月、朝日新聞は、吉見義明・中央大学教授が防衛庁の図書館で「軍関与を示す資料」を「発見」した、という「特ダネ」を掲載し、事態は一転します。
「資料」は「日本軍が慰安所の設置や、従軍慰安婦の募集を監督、統制していたことを示す通達類や陣中日誌」ですが、じつは研究者の間では周知で、しかもその内容は官憲による「強制連行」を裏付けるのではなく、「慰安婦を募集する際、業者などがトラブルを起こして警察沙汰になるなどしたため……募集に当たっては、派遣軍が統制し、社会問題上遺漏なきよう配慮……するよう指示」したものでした。
軍・警察は業者による「強制連行」をやめさせようとしていたのです。
しかし「挺身隊の名で強制連行した」と用語解説し、「軍関与は明々白々。謝罪はもとより補償すべき」という吉見教授のコメントが載る1面トップの「スクープ」は、大反響を呼びます。
韓国マスコミは制度的にまったく異なる「挺身隊」と「慰安婦」を混同し、「小学生までが女子挺身隊に動員された」と報道して「反日」をあおり、韓国民の怒りに油を注いだのです。挺身隊の名目で慰安婦にされた事例は見つかっていないのに、です。
感情むき出しの外圧に屈して、加藤紘一内閣官房長官は「関与は否定できない」と談話を発表し、宮沢喜一首相は、抗議デモが荒れ狂う韓国で、何度も「謝罪」しました。
首相訪韓は以前から予定され、北朝鮮の核武装や南北統一問題を協議するはずでしたが、本題はすっかりかすんでしまいます。
同年7月、加藤長官は「政府は関与したが、強制連行を裏付ける資料はなかった」と報告しました。
他方、同じ時期に韓国政府がまとめた報告書は「黒人奴隷狩りのような手法で」と表現しました。根拠とされる吉田清治『私の戦争犯罪』には「済州島で軍の協力により、1週間で205人の女性を強制連行した」とありますが、地元紙や秦郁彦教授の現地調査によってでっち上げであることが証明されています。
宮沢首相は真相究明も不十分なまま、簡単に「謝罪」してしまったことになります。
翌5年の終戦記念日を前に、宮沢内閣はふたたび調査結果を公表し、河野洋平官房長官は「官憲による強制連行」を事実として認めてしまいます。
けれども、これは石原信雄官房副長官が「根拠は元慰安婦の証言しかない。『強制連行がなかった』とすると韓国世論を抑えられない。賠償は要求しないから『あった』ということにしてほしい、と依頼され、政治的に認めた」と証言し、政治的産物であったことが知られています。
この日、宮沢内閣は総辞職するのですが、誤った外交取引は今日まで禍根を残すことになりました。
「慰安婦」は事実認識の誤りが正されることなく、日韓の教科書に記述され、国際社会に浸透していきました。国連人権委員会のクマラスワミ報告書は十分な歴史検証を怠ったまま、「日本政府は法的責任を認めよ」と迫っています。
戦争中、日本軍が慰安婦を連れていたことは歴史的事実で、否定する研究者はいないといいます。
売春は「世界最古の職業」であり、軍隊用の慰安婦も歴史とともに古い。戦地の慰安所で働くからには「軍の関与」は当然です。戦前は売買春は合法で、大戦中の日本をことさら犯罪的と断じることはできないし、「性の奴隷」と一方的に断定することもできません。
陸軍大将の2倍稼ぐ慰安婦もいるほどでしたから、数カ月で前借金を返済し、自由の身になる者もいました。それでも「商売」をやめなかった、といわれます。
慰安婦と将兵との心情的交流や恋愛話はしばしば元慰安婦自身が伝えています。両者の間には連帯感さえあり、日本軍関係者は慰安婦を「戦友」と呼びます。
先の大戦で朝鮮が日本と戦争した事実はなく、朝鮮および朝鮮人は大東亜戦争をともに戦う最大の協力者であり、慰安婦も同様です。慰安婦出身の女兵伝説すらあります。
けれども反日色を強める当世の韓国では対日協力者=売国奴で、であればこそ、慰安婦たちは生き延びるために「被害者」を演じ続けざるを得ないということでしょうか。
「社会の公器」たるべき大新聞の責任も問われています。
元慰安婦第一号の名乗りを「スクープ」した朝日新聞記者は個人補償請求裁判の原告側代表者と姻戚関係にあるといいます。「軍関与資料発見」の記事は宮沢訪韓にタイミングを合わせたものといわれます。
2000年女性国際戦犯法廷は元朝日新聞記者が代表を務める女性団体などの主催で、のちに、政治家の介入の有無をめぐって朝日新聞とNHKが真っ向から対立した「NHK番組改変問題」の要因ともなりましたが、突然の記者会見で政治的圧力をかける、いつもの手法が繰り返されている、といえば、うがった見方になるでしょうか。
▢3「心からの謝罪と賠償を」と韓国大統領が「正常化」を否定
「慰安婦サイバー歴史館」が開館したのと同じ3月1日、韓国の盧武鉉大統領は「3・1独立運動」記念式典で演説し、「日本は過去の過ちに対して、心からの謝罪と賠償をしなければならない」と強く主張しました。
高野紀元駐韓大使の「竹島は日本領」発言や島根県議会の「竹島の日」制定の動きなどを牽制しながら、「日帝」期の「強制徴用」に言及し、「これまで政府は解決の努力を欠いていた。国交正常化は不可欠だったが、被害者個人の賠償請求権を処理すべきではなかった」と朴正煕政権下での正常化を批判しました。
朴政権下、日韓条約に基づく経済協力金は経済建設に投入され、「漢江の奇跡」とよばれる経済発展の基礎が築かれたほか、一部は国民への補償に充てられました。
「解決済み」の請求権問題を持ち出した盧大統領の「謝罪と賠償」要求は、前年夏の首脳会談で「任期中は歴史問題を提起しない」と述べた大統領自身の約束を反故にしたばかりか、主権国家同士が結んだ正常化の枠組みを公的立場で否定したことになります。
日本政府はちょうど10年前、元慰安婦に対する国民的な「償い」に取り組むアジア女性基金を設立し、「償い事業」を実施しました。韓国側は当初は肯定的態度でしたが、やがて否定的評価に変わっていきました。
女性基金に問題がないわけではありませんが、日本側の問題解決の努力を蔑ろにし、日本糾弾自体を目的としたかのような今回の歴史館開館および大統領演説は、「国交正常化40周年」の今年を「日韓友情年」と位置づけ、「未来志向」的に多角的交流を推進する両政府合意の趣旨に反していないでしょうか。
大統領はさらに北朝鮮の拉致問題に言及し、「日帝時代に従軍慰安婦として強制徴用された韓国人被害者の苦しみを日本人も理解すべきだ」と述べましたが、韓国風に表現すれば、これこそ「歴史の歪曲」といえます。「慰安婦」が「強制徴用」されたという史実はないし、「慰安婦」問題と「拉致」問題を同次元で論ずるべきでもありません。
大統領は演説の中で、国交回復40周年の今年、「二国間協力によって北東アジアの時代を切り開くために誠実を基礎とした親しい隣国として生まれ変わる必要性を強調した」と伝えられますが、「誠実」が求められるのは日本なのでしょうか。
大統領は「過去の真実の究明」を主張しますが、誰がそうすべきかは「サイバー歴史館」の設立とその内容から明らかです。3月1日の大統領発言が過激なのは毎年のことで、あくまで「国内向け」との見方もありますが、それではすまされないでしょう。
新たな事態も生まれています。
日本では、野党議員らが国家の責任を明確にする法案を参議院に再提出しました。国際的な女性団体が夏に向けて、日本の謝罪と補償を求める100万人署名、慰安婦博物館建設運動を展開する動きも伝えられます。署名は国連に提出されるといいます。
韓国では、日本の歴史教科書検定に対する反発もにわかに強まっています。
韓国文化研究者の一人は、「儒教文化が根強い韓国社会では形式が尊重され、現実が軽視される。あらまほしき幻影の正当化に全精力が傾注され、人々は気分だけで突っ走る」と指摘し、「客観性や冷静さを期待できない社会に対抗するには、たとえば韓国・朝鮮人犯罪博物館などを建て、相手が尻尾を巻くほどの『気分論理』でギャフンといわせるしかない」と主張します。
報復合戦は望ましくはありませんが、その場しのぎの「謝罪」では日本の国際的な地位が保てないのも確かで、政府の毅然たる態度こそ望まれます。ちょうど韓国側の反発にも揺るがず、「竹島の日」条例を賛成多数で可決した島根県議会のように。(参考資料=秦郁彦『慰安婦と戦場の性』、上杉千年『検証・従軍慰安婦』、西岡力『コリア・タブーを解く』など)
「竹島の日」制定と「慰安婦歴史観」開館──「日韓友情年」に不信と対立が増す皮肉
(「神社新報」平成17年4月4日号)
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日韓両国政府は「国交正常化40年」の今年(平成17年)を「友情年」と位置づけ、多角的な交流を推進しています。ところが、3月下旬、島根県議会が「竹島の日」を制定したことから、韓国側は日本の国旗を焼くなど猛反発しました。これではもう「友情」どころではありません。
火種はもっぱら日本かといえば、そうではありません。折しも第2次大戦「終戦60年」で、韓国ではおよそ友好的ではない「独立60年」記念事業が進行しています。
たとえば、「独立運動が開始された日」の3月1日には、女性省がインターネット上に「日本軍慰安婦サイバー歴史館」(http://www.hermuseum.go.kr/ 韓国語。現在は英語のページもある)を開設しました。目的は「独立60年を機に、日本の悪行に対する韓国人の認識を促進するため」だそうで、これでは不信と対立が激化するのは当然です。
▢1「日本大使館に抗議を」とアニメで教える「子供教室」
「歴史館」のサイトを開くと、木立に囲まれた建物群が立体的に浮かび上がります。「掲示板」「資料室」「運動館」などと並んで、「慰安婦を簡単に学べる」と注釈のついた「子供歴史教室」まであります。「教室」をクリックすると新しいウインドウが開き、中央のスクリーンに元慰安婦のお婆さん(ハルモニ)と女の子がアニメーションで登場します。
メニューから「慰安婦とは」を選ぶと、お腹の大きな女性たちや「身も心も捧ぐ大和撫子のサービス」と墨書された慰安所の正門などがスライドで次々に現れるかたわらで、ハルモニが女の子に「慰安婦というのはね、日本が引き起こした戦争で日本軍に従軍し、性の奴隷になった女性たちを指すのよ」などと、お婆ちゃん言葉で説明します。
いわく、日本は朝鮮侵略では足りず、アジア全域から太平洋地域まで侵略した。慰安所は1930年代初めから陸軍、海軍、空軍全体に設置された。占領地域では強姦事件が多発し、反日感情が高まった。不祥事と性病の発生を防ぎ、あわせて軍人の士気昂揚のため慰安所が設けられた。ある軍医官は慰安婦を「天皇からの賜り物」と表現している。11歳の少女から30歳を超えた、あらゆる年代の女性が動員された。過酷な毎日だった。工場で働くとだまして連れて行かれた──。
日本軍に「空軍」があったとは初耳ですが、それはともかくも、嘘であざむいて女性をさらい、自由のない慰安所に押し込め、慰みものにしたという残虐なイメージを、韓国政府は子供にまで植え付けようとしているかに見えます。
「子供教室」の「問題解決のために」のページでは、元慰安婦は、「歴史を真摯に学」び、「誤った歴史をただす」ことを主張しているだけでなく、関心の薄い国会に投書することや、元慰安婦たちが10年前から続けている毎週水曜日の日本大使館に対する抗議行動への参加を呼びかけ、さらには「豚の貯金箱に毎日100ウォンずつ入れれば、月3000ウォン貯まる」と博物館建設の募金活動への協力を訴えています。
「歴史館」は韓国政府による「反日」教育施設であるばかりでなく、「反日」活動の拠点といえます。
「歴史館」では、元慰安婦の顔写真や証言のほか、裁判記録や学術論文、関係図書、新聞資料、映像資料などが閲覧できます。
けれども、なかには掲載意図が理解できないものもあります。
たとえば、昭和12年に上海派遣軍野戦郵便長として従軍した佐々木元勝の『野戦郵便旗』は郵便局近くにあった「上海寮、皇軍将兵慰安所」に言及しているのですが、「ここは半島人(朝鮮人)が営業していた」とあります。
「日本の悪行に対する認識の促進」が目的のはずの「歴史館」が、図らずも「朝鮮人自身の悪行」を暴露しています。
映像資料には、日本政府に謝罪と補償を要求する圧力団体の総本山といわれる挺身隊問題対策協議会が制作したドラマも含まれています。
このほか、元慰安婦を原告とし、北朝鮮工作員とされる人物が検事役を務め、弁護人不在のまま、昭和天皇を「人道に対する罪」「強姦罪」などで「有罪」とした「2000年女性国際戦犯法廷」の判決資料なども提供されています。
一見、豊富な資料を集める「資料室」ですが、慰安婦問題を客観的資料と証言で総合的に検証した第一級の研究書である、秦郁彦・日本大学教授の『慰安婦と戦場の性』などは見当たりません。
表向きは「IT先進国」ならではの巧緻な「サイバー歴史館」ですが、その内容は一面的で公平性に欠けるといわざるを得ません。結果として、仮想空間内で相互不信が肥大化していくのは避けられません。
▢2 なぜ宮沢首相は「謝罪」したのか。誤った「政治判断」のツケ
慰安婦問題の発端は、韓国ではなく日本だ、と指摘されています。
「真珠湾50周年」の平成3年暮れ、元慰安婦などが日本政府を相手どり、計7億円の損害賠償を求める訴えを東京地裁に起こしました。「青春を返して」。名乗りを上げた元慰安婦第1号・金学順さんの涙の訴えは、多くの日本人の同情を誘いました。
けれども、家庭の貧困から身売りされたのが転落の人生の始まりだった、という重大な事実は、このときは伏せられていました。訴訟の原告は日本人運動家らがわざわざ訪韓して捜し出し、裁判費用も日本側が提供していたといわれます。
「加害者」の日本人が、「被害者」の韓国人の痛みを代弁して訴える「ゆがんだ構図」と指摘されています。
もともと勝訴の見込みはありませんでした。
というのも、40年前、日韓両国は基本条約の締結と同時に、「日韓請求権並びに経済協力協定」を結びました。日本が無償協力3億ドル、円有償協力2億ドル、民間借款3億ドルという、当時の韓国の国家予算をはるかに上回る経済協力をする代わりに、韓国は国および国民の請求権を放棄し、「完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認」したからです。
韓国政府は経済協力金の一部を召集・徴用で命を失った国民に補償金として支払いました。誰に戦後補償を実施するかは政府の裁量権の範囲であり、元慰安婦が補償の対象とならなかったとしても、訴えるべき相手は韓国政府でなければなりません。
このため日本政府は「解決済み」との姿勢でしたが、慰安婦に肩入れするマスコミは違っていました。翌4年1月、朝日新聞は、吉見義明・中央大学教授が防衛庁の図書館で「軍関与を示す資料」を「発見」した、という「特ダネ」を掲載し、事態は一転します。
「資料」は「日本軍が慰安所の設置や、従軍慰安婦の募集を監督、統制していたことを示す通達類や陣中日誌」ですが、じつは研究者の間では周知で、しかもその内容は官憲による「強制連行」を裏付けるのではなく、「慰安婦を募集する際、業者などがトラブルを起こして警察沙汰になるなどしたため……募集に当たっては、派遣軍が統制し、社会問題上遺漏なきよう配慮……するよう指示」したものでした。
軍・警察は業者による「強制連行」をやめさせようとしていたのです。
しかし「挺身隊の名で強制連行した」と用語解説し、「軍関与は明々白々。謝罪はもとより補償すべき」という吉見教授のコメントが載る1面トップの「スクープ」は、大反響を呼びます。
韓国マスコミは制度的にまったく異なる「挺身隊」と「慰安婦」を混同し、「小学生までが女子挺身隊に動員された」と報道して「反日」をあおり、韓国民の怒りに油を注いだのです。挺身隊の名目で慰安婦にされた事例は見つかっていないのに、です。
感情むき出しの外圧に屈して、加藤紘一内閣官房長官は「関与は否定できない」と談話を発表し、宮沢喜一首相は、抗議デモが荒れ狂う韓国で、何度も「謝罪」しました。
首相訪韓は以前から予定され、北朝鮮の核武装や南北統一問題を協議するはずでしたが、本題はすっかりかすんでしまいます。
同年7月、加藤長官は「政府は関与したが、強制連行を裏付ける資料はなかった」と報告しました。
他方、同じ時期に韓国政府がまとめた報告書は「黒人奴隷狩りのような手法で」と表現しました。根拠とされる吉田清治『私の戦争犯罪』には「済州島で軍の協力により、1週間で205人の女性を強制連行した」とありますが、地元紙や秦郁彦教授の現地調査によってでっち上げであることが証明されています。
宮沢首相は真相究明も不十分なまま、簡単に「謝罪」してしまったことになります。
翌5年の終戦記念日を前に、宮沢内閣はふたたび調査結果を公表し、河野洋平官房長官は「官憲による強制連行」を事実として認めてしまいます。
けれども、これは石原信雄官房副長官が「根拠は元慰安婦の証言しかない。『強制連行がなかった』とすると韓国世論を抑えられない。賠償は要求しないから『あった』ということにしてほしい、と依頼され、政治的に認めた」と証言し、政治的産物であったことが知られています。
この日、宮沢内閣は総辞職するのですが、誤った外交取引は今日まで禍根を残すことになりました。
「慰安婦」は事実認識の誤りが正されることなく、日韓の教科書に記述され、国際社会に浸透していきました。国連人権委員会のクマラスワミ報告書は十分な歴史検証を怠ったまま、「日本政府は法的責任を認めよ」と迫っています。
戦争中、日本軍が慰安婦を連れていたことは歴史的事実で、否定する研究者はいないといいます。
売春は「世界最古の職業」であり、軍隊用の慰安婦も歴史とともに古い。戦地の慰安所で働くからには「軍の関与」は当然です。戦前は売買春は合法で、大戦中の日本をことさら犯罪的と断じることはできないし、「性の奴隷」と一方的に断定することもできません。
陸軍大将の2倍稼ぐ慰安婦もいるほどでしたから、数カ月で前借金を返済し、自由の身になる者もいました。それでも「商売」をやめなかった、といわれます。
慰安婦と将兵との心情的交流や恋愛話はしばしば元慰安婦自身が伝えています。両者の間には連帯感さえあり、日本軍関係者は慰安婦を「戦友」と呼びます。
先の大戦で朝鮮が日本と戦争した事実はなく、朝鮮および朝鮮人は大東亜戦争をともに戦う最大の協力者であり、慰安婦も同様です。慰安婦出身の女兵伝説すらあります。
けれども反日色を強める当世の韓国では対日協力者=売国奴で、であればこそ、慰安婦たちは生き延びるために「被害者」を演じ続けざるを得ないということでしょうか。
「社会の公器」たるべき大新聞の責任も問われています。
元慰安婦第一号の名乗りを「スクープ」した朝日新聞記者は個人補償請求裁判の原告側代表者と姻戚関係にあるといいます。「軍関与資料発見」の記事は宮沢訪韓にタイミングを合わせたものといわれます。
2000年女性国際戦犯法廷は元朝日新聞記者が代表を務める女性団体などの主催で、のちに、政治家の介入の有無をめぐって朝日新聞とNHKが真っ向から対立した「NHK番組改変問題」の要因ともなりましたが、突然の記者会見で政治的圧力をかける、いつもの手法が繰り返されている、といえば、うがった見方になるでしょうか。
▢3「心からの謝罪と賠償を」と韓国大統領が「正常化」を否定
「慰安婦サイバー歴史館」が開館したのと同じ3月1日、韓国の盧武鉉大統領は「3・1独立運動」記念式典で演説し、「日本は過去の過ちに対して、心からの謝罪と賠償をしなければならない」と強く主張しました。
高野紀元駐韓大使の「竹島は日本領」発言や島根県議会の「竹島の日」制定の動きなどを牽制しながら、「日帝」期の「強制徴用」に言及し、「これまで政府は解決の努力を欠いていた。国交正常化は不可欠だったが、被害者個人の賠償請求権を処理すべきではなかった」と朴正煕政権下での正常化を批判しました。
朴政権下、日韓条約に基づく経済協力金は経済建設に投入され、「漢江の奇跡」とよばれる経済発展の基礎が築かれたほか、一部は国民への補償に充てられました。
「解決済み」の請求権問題を持ち出した盧大統領の「謝罪と賠償」要求は、前年夏の首脳会談で「任期中は歴史問題を提起しない」と述べた大統領自身の約束を反故にしたばかりか、主権国家同士が結んだ正常化の枠組みを公的立場で否定したことになります。
日本政府はちょうど10年前、元慰安婦に対する国民的な「償い」に取り組むアジア女性基金を設立し、「償い事業」を実施しました。韓国側は当初は肯定的態度でしたが、やがて否定的評価に変わっていきました。
女性基金に問題がないわけではありませんが、日本側の問題解決の努力を蔑ろにし、日本糾弾自体を目的としたかのような今回の歴史館開館および大統領演説は、「国交正常化40周年」の今年を「日韓友情年」と位置づけ、「未来志向」的に多角的交流を推進する両政府合意の趣旨に反していないでしょうか。
大統領はさらに北朝鮮の拉致問題に言及し、「日帝時代に従軍慰安婦として強制徴用された韓国人被害者の苦しみを日本人も理解すべきだ」と述べましたが、韓国風に表現すれば、これこそ「歴史の歪曲」といえます。「慰安婦」が「強制徴用」されたという史実はないし、「慰安婦」問題と「拉致」問題を同次元で論ずるべきでもありません。
大統領は演説の中で、国交回復40周年の今年、「二国間協力によって北東アジアの時代を切り開くために誠実を基礎とした親しい隣国として生まれ変わる必要性を強調した」と伝えられますが、「誠実」が求められるのは日本なのでしょうか。
大統領は「過去の真実の究明」を主張しますが、誰がそうすべきかは「サイバー歴史館」の設立とその内容から明らかです。3月1日の大統領発言が過激なのは毎年のことで、あくまで「国内向け」との見方もありますが、それではすまされないでしょう。
新たな事態も生まれています。
日本では、野党議員らが国家の責任を明確にする法案を参議院に再提出しました。国際的な女性団体が夏に向けて、日本の謝罪と補償を求める100万人署名、慰安婦博物館建設運動を展開する動きも伝えられます。署名は国連に提出されるといいます。
韓国では、日本の歴史教科書検定に対する反発もにわかに強まっています。
韓国文化研究者の一人は、「儒教文化が根強い韓国社会では形式が尊重され、現実が軽視される。あらまほしき幻影の正当化に全精力が傾注され、人々は気分だけで突っ走る」と指摘し、「客観性や冷静さを期待できない社会に対抗するには、たとえば韓国・朝鮮人犯罪博物館などを建て、相手が尻尾を巻くほどの『気分論理』でギャフンといわせるしかない」と主張します。
報復合戦は望ましくはありませんが、その場しのぎの「謝罪」では日本の国際的な地位が保てないのも確かで、政府の毅然たる態度こそ望まれます。ちょうど韓国側の反発にも揺るがず、「竹島の日」条例を賛成多数で可決した島根県議会のように。(参考資料=秦郁彦『慰安婦と戦場の性』、上杉千年『検証・従軍慰安婦』、西岡力『コリア・タブーを解く』など)
[歴史発見] 朝鮮人「強制連行」はなかった。明確に否定する五十年前の外務省資料 [韓国]
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歴史発見
朝鮮人「強制連行」はなかった
明確に否定する五十年前の外務省資料
(「神社新報」平成16年4月26日)
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「強制連行」が「従軍慰安婦」に代はる「歴史歪曲」のキーワードとして浮かび上がってゐる。
今年の大学入試センター試験の世界史には「第二次大戦中に朝鮮人の強制連行があった」を正解とする出題があった。ある高校用教科書には「戦争中の日本の労働力不足を補うため、朝鮮では労働者の強制連行もおこなわれ」とある。一方、北朝鮮は昨年の国連総会で「日本は八百四十万人を強制的に徴発した」と主張した。拉致問題など取るに足らぬといひたいらしい。
しかし外務省は「強制連行があった」とは認めてゐない。国連では日本大使が明確に否定し、川口順子外相は昨年九月の国会で山谷えり子議員の質問に答へる形で、「北朝鮮の主張は根拠が何に基づくものなのか不明」と突っぱねてゐる。
▽併合後に爆発的に増えた朝鮮の人口
外務省は昭和三十四年七月に、「在日朝鮮人の渡来および引き揚げに関する経緯、とくに、戦時中の徴用労務者について」と題する記事資料を発表してゐる。
当時、在日朝鮮人の北朝鮮帰還をめぐって、「戦時中に渡来した在日朝鮮人の大半は日本政府が強制労働させるために連れてきた。いまでは不要になったので送還される」との誤解や中傷があり、反論の必要に迫られたのだった。
わづか四頁の簡単な資料だが、「在日朝鮮人の総数は約六十一万人だが、戦時中に徴用労務者として渡来したのは二百四十五人に過ぎない」「彼らには所定の賃金等が支払われている」と「強制連行」説を否定してゐる。
この四年前、三十年七月には『在日朝鮮人処遇の推移と現状』(法務研修所)といふ詳細な報告書が公刊されてゐる。在日朝鮮人問題について政府関係資料をもとに多面的に考察した随一のものとされる。
とりまとめたのは、海外神社史に関心のある人なら知らぬ者のゐない『朝鮮終戦の記録』の著者森田芳夫氏。同書の第一章「戦前の日本内地移住とその処遇」を読むと、「強制連行」がいかに根も葉もないことかが理解できる。
同書によると、明治四十三年の日韓併合から昭和二十年の終戦にかけて朝鮮在住朝鮮人の人口は千三百万人から二千五百万人へと爆発的に増加した。多くは南鮮の農民だったが、いかんせん土地の生産性は低く、春になると半数近くが食糧に窮した。総督府の農村振興策は十分な成果を上げず、過剰な人口は資本主義の生育期にあって労働力を必要としてゐた日本内地の鉱山、工場、都市へと流れた。
内地にゐる朝鮮人の数は明治四十四年末にはたったの二千五百二十七人。しかし大正十三年に十万を超え、昭和十五年には百万の大台に乗り、終戦の前年には百九十万人と鰻登りに増えた。内地人三十八人に一人が朝鮮人といふことになる。
▽内鮮一体のために苦悩する日本政府
渡来者は貧困者が多かった。「内地に行けば何とかなる」。旅費以外、無一文で船に乗る者が四割を超えてゐた。日韓併合後、朝鮮人は日本国籍を持ち、日本内地への渡航は基本的に自由のはずだった。しかし教育程度が低く、日本語も分からない、純朴な朝鮮人が生存競争の激しい内地社会にいきなりやってくればトラブルが起きる。内地の失業問題も深刻化する。
政府は「強制連行」どころか、逆に移住阻止の対策を立てざるを得なかった。
昭和九年に政府ははじめて在内地朝鮮人に対する総合対策を打ち出す。朝鮮人を朝鮮内で安住させるため農村振興策を徹底させるなど根本的対策が明示されるとともに、在内地朝鮮人の内地融和を図る画期的なものだった。そればかりか、十三年には朝鮮総督府は内鮮一体の立場から渡航取締の緩和を強く要求してさへゐる。
時代が移り、日華事変以後の戦時体制下で、日本政府は朝鮮人の集団動員を図る。とくに炭坑は戦時増産が至上命令で、多くの労働力を必要としてゐた。十四年九月~十七年一月までは自由募集、同二月~十九年八月までは官斡旋・隊組織による動員、同九月以降は国民徴用令による動員だったが、むろんむりやり連れてくる「強制連行」ではない。
国民徴用令の施行は十四年七月だが、朝鮮での全面発動は遅れた。移入労務者に徴用が実施されたのは十九年八月の閣議決定以後だが、労務管理が粗悪な事業所には徴用が避けられたし、他方では家族援護の万全が図られた。決して奴隷状態におかれたわけではない。
逆に政府は内鮮一体政策を推進し、昭和十九年の臨時議会で昭和天皇には「とくに命じて、朝鮮および台湾の住民のために、帝国議会の議員たるの途をひらき」と述べさせられ、翌年には朝鮮在住民から七人の貴族院議員が生まれた。
森田氏の著書からは「強制連行」とは似ても似つかぬ、むしろ内鮮一体化の実をあげるために苦悩する日本政府の姿が見えてくる。
けれども、試験問題で国民的批判が沸き上がると、入試センターは「教科書に載ってゐる」と弁明し、文科省は「教科書の記述は一般的な学説状況に基づいてゐる」と正当化した。しかし入試や教科書に関与してゐる歴史家たちは歴史の真実をどこまで客観的、実証的に追究してゐるのか。仄聞では、「強制連行」は朝鮮大学校教授による政治的プロパガンダが典拠といはれる。
歴史を歪曲して教科書に記述し、授業で教へ、試験で「強制連行があった」と答へなければ不正解とする歴史教育は断じて許されない。文部当局者は偏った政治思想教育の片棒を担ぐやうな政策をなぜ採り続けるのか。
[書評]『日本帝国の申し子』カッター・J・エッカート著 日本による朝鮮統治の実像 [韓国]
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[書評]『日本帝国の申し子』カッター・J・エッカート著
日本による朝鮮統治の実像
(「神社新報」平成16年2月16日)
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話題の書である。大手インターネット書店には1月末の発売前から予約注文が殺到し、たちまち売り上げ上位にランク入りしたという。
著者は米ハーバード大学教授で、朝鮮史研究の第一人者。韓国・朝鮮人でも、日本人でもない第三者の目で、戦前の日本による朝鮮統治の歴史を、「暗」ばかりではなく「明」の部分をも明らかにし、公正に評価している。
折しも大学入試センター試験問題をめぐって、日韓・日朝の近代史が国民的な関心事として大きく浮かび上がっているいま、歴史の実像を見極めたい多くの国民の強い要求にかなった出版となった。
▽産業発展に寄与した日本の統治
日本の朝鮮統治は、朝鮮の近代工業化にどのような影響を及ぼしたのか。そして「漢江の奇跡」といわれる戦後の朴正熙大統領時代の驚異的な経済発展にどのようにつながっているのか。
著者は朝鮮資本による最初の大規模企業である「京城紡績株式会社」の発展、そして経営者である高敞(全羅北道)の金一族の成功を、事実に即して丹念に追いつつ、顕彰している。
韓国の中学校用国定歴史教科書が「日帝は侵略戦争を遂行するために漢民族とその文化を抹殺しようとし……韓民族は日帝の植民地政策によって歴史的類例のない大きな犠牲を強要された」と記述するように、「従軍慰安婦」「強制連行」「創氏改名」「神社強制参拝」という事実関係さえあやふやな一方的宣伝文句で語られる「日帝」時代はいかにも重苦しい。
だが、本書は、そうした「抑圧と抵抗」を基軸とする偏った歴史理解を実証的に批判する。
何しろ当時の朝鮮民族企業の代表である京城紡績は、みずからの利害動機から積極的に朝鮮総督府幹部に接近し、支援を受け、ストライキが起これば総督府の権力に依存して解決を図っている。
著者は「この時期の工業化が今日の韓国経済の形成に果たした役割はきわめて重要である。善し悪しは別として、植民地支配が朝鮮の産業を発展させた『触媒』であり『揺り籠』であったことは間違いない」と断言する。
また、戦後の韓国資本主義が植民地時代に形成された重要な特徴を継承し発展したことを力説し、「歴史はやはり圧倒的勝利を収めた。過去は現在の中に能動的に作用して生きている」と結論づけている。
▽事実を明らかにする努力の不足
それにしても、原著がワシントン大学出版局から発刊されたのは1991(平成3)年である。日本語訳されるまで、なぜ十数年の年月を要しなければならなかったのか。
すでに翻訳のある韓国でも、部分的、不正確なもので、この本は「日本植民地支配の弁明」だとの誤解を生んだという。
歴史の事実を明らかにする研究者相互の努力が絶対的に不足している。教科書といい、入試といい、史実を客観的に追究するはずの研究者が、逆にいびつな観念的歴史理解の種をまき散らしているといえば、言い過ぎか。
欧米の研究者たちから高く評価され、「幻の名著」といわれる本書は明らかに、ステロタイプの日韓近現代史の書き換えを迫っている。日本人も韓国・朝鮮人も、歴史の真実の前にあって、いまほど謙虚さが求められている時代はないだろう。
〈2400円+税、草思社刊〉
観の目見の目 日本人の無関心 [韓国]
以下は「神社新報」(平成16年2月16日)からの転載です
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観の目見の目「日本人の無関心」
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根拠のない「朝鮮人の強制連行」が教科書に載ってゐる。今年の大学入試センター試験では、「第二次大戦中にあった」と答へなければ不正解となる出題があった。抗議の声が上がっても、文科省もセンターも言ひ逃ればかり。マスコミは黙殺してゐる。なぜなのか。
▼「結局、日本人は無関心なんですよ」と、韓国・朝鮮問題が専門の元大学教授は語る。「むりやり連れてこられたのなら、終戦と同時にみんな帰国するはずだが、そんな事実はない。少し考へれば分かることです」。
▼ところが大方の日本人は思ひ至らない。三方を海に面し、中国やロシアの脅威にさらされてきた半島国家は、国際政治の荒波を権謀術数を弄して必死に泳がうとする。温和な海に守られてきた日本人はそのしたたかさが理解できず、まんまと乗せられる。北朝鮮が事実無根の「強制連行八百四十万人」説を持ち出すと、大物政治家が十分な歴史検証もせずに「日本が酷いことをした」と情緒的に反応し、国益を顧みない。
▼「この関係は直らない」と元教授は嘆く。「明治の先人たちが朝鮮を重視するやうになったのは、ロシアの南下で安全保障上重要になってからです。日本の安全が脅かされる事態にでもならないと……」。けれども北朝鮮による拉致事件、核ミサイル開発と朝鮮半島がきな臭さを増すなかでセンター試験問題は起きた。目の前で平和と安全が侵害されてゐるのに、日本人はいつまで無関心を装ふつもりなのか。(む)
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観の目見の目「日本人の無関心」
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根拠のない「朝鮮人の強制連行」が教科書に載ってゐる。今年の大学入試センター試験では、「第二次大戦中にあった」と答へなければ不正解となる出題があった。抗議の声が上がっても、文科省もセンターも言ひ逃ればかり。マスコミは黙殺してゐる。なぜなのか。
▼「結局、日本人は無関心なんですよ」と、韓国・朝鮮問題が専門の元大学教授は語る。「むりやり連れてこられたのなら、終戦と同時にみんな帰国するはずだが、そんな事実はない。少し考へれば分かることです」。
▼ところが大方の日本人は思ひ至らない。三方を海に面し、中国やロシアの脅威にさらされてきた半島国家は、国際政治の荒波を権謀術数を弄して必死に泳がうとする。温和な海に守られてきた日本人はそのしたたかさが理解できず、まんまと乗せられる。北朝鮮が事実無根の「強制連行八百四十万人」説を持ち出すと、大物政治家が十分な歴史検証もせずに「日本が酷いことをした」と情緒的に反応し、国益を顧みない。
▼「この関係は直らない」と元教授は嘆く。「明治の先人たちが朝鮮を重視するやうになったのは、ロシアの南下で安全保障上重要になってからです。日本の安全が脅かされる事態にでもならないと……」。けれども北朝鮮による拉致事件、核ミサイル開発と朝鮮半島がきな臭さを増すなかでセンター試験問題は起きた。目の前で平和と安全が侵害されてゐるのに、日本人はいつまで無関心を装ふつもりなのか。(む)
民団が小冊子「近代史」発行 「日本人の歴史認識ただすため」といふが…… 「強制連行」記述なし [韓国]
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民団が小冊子「近代史」発行
「日本人の歴史認識ただすため」といふが「強制連行」「慰安婦」の記述なし
(「神社新報」平成16年2月2日)
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今年の大学入試センター試験の「世界史」に歴史的根拠のない「朝鮮人の強制連行があった」を正解とする設問が出題され、社会問題化してゐる折も折、在日韓国人の団体・在日本大韓民国民団(民団)の中央本部が小冊子「韓国と日本─あらためて近代史を考える」を発行した。
小冊子は、拉致問題の解決を訴へるため昨年十月に開かれた集会「救う会東京」で基調講演した石原慎太郎都知事が「私たち(日本)は武力で(韓国を)侵犯したんぢゃない」「日本の植民地主義は人道的で人間的だった」などと語ったのを「妄言」ととらへ、日本の指導者たちの「悪意に満ちた歴史認識」をただすために発刊された、と説明されてゐる。
在日の大学教授らが編集を担当したといふ小冊子は、「江華条約」「日清戦争」「日露戦争」など日韓近代史の七項目について検証し、「植民地時代」には「皇国臣民化」政策で「神社強制参拝」「韓国語使用禁止」「創氏改名」が「断行」された、と韓国の国定歴史教科書に似た歴史批判を加へてゐる。
しかしその一方で、日本批判の際の常套句である「日帝」は見当たらない。入試センター試験問題を機に注目されてゐる「強制連行」については言及がなく、代はりに「土地と生活基盤を奪われた流浪民が満洲や日本などに移住した」といふ表現が見られる。歴史研究が進み、事実ではないと確認された「従軍慰安婦」についてはまったく記述がない。
民団は小冊子を二万五千部を用意したといはれ、国会議員や全国の各自治体関係者、一般個人に無料配布してゐるが、韓国・朝鮮問題が専門の日本人研究者は「強制連行や慰安婦に関する記述がないのは、在日の朝鮮史研究者たちが自信を失ってゐる現れではないか」と語ってゐる。
在日の運動家ならいざ知らず、研究者なら客観的実証的に歴史を探究する。「従軍慰安婦」「強制連行」を記述することには二の足を踏まざるを得ないのであらう。
だとすると、「強制連行があった」と記述する日本の歴史教科書や、その教科書に基づいて出題した大学入試センター試験の異様さがあらためて浮かび上がってくる。
「移民」が激増する韓国──国への帰属意識が希薄? [韓国]
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[話 題]
「移民」が激増する韓国──国への帰属意識が希薄?
(「神社新報」平成15年11月24日)
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韓国で「移民」が激増している。
韓国の報道によれば、今夏、ホームショッピングでカナダへの「移民商品」が売り出されたところ、2回の放送で計4000人が殺到した。年平均1万2000人が海外に移住するといわれる韓国だが、3時間弱の放送でこれだけ多くの申請があったのは「衝撃的」で、商品を企画した企業は短時間に175億ウォン(10ウォン=約1円)、「ホームショッピング史上最高の売り上げ」を記録した、と韓国紙は伝えている。
申請者の7割は、「高卒以上」を唯一の条件とし、現地で2年間の語学・技術教育を受けたのち、移民資格が与えられる「技術教育移民」(2800万ウォン)に集中。年代別では30代が申請者の半数、40代が3割を超えた。働き盛りの韓国人が家電商品でも買うように、簡単に祖国を離れようとしている。
▽「国に未来がない」
ちょうど同じ時期、首都ソウルの最先端の街・江南(カンナム)で2日間、開かれた「海外移民博覧会」には、海外移住を斡旋する企業のブースに3万5000人(前年比4割増)の市民が押し寄せた。
優秀な人材の海外流出が危惧されるほど、韓国人が「韓国離れ」を募らせているのは、景気低迷や政治的不安など先行き不安が理由と韓国紙は分析する。
生活苦や事業の失敗が増え、住宅費や教育費の重い負担は30代の韓国人に「脇目も振らずに働く自分が哀れに見える」と思わせ、40-50代の専門職が「韓国を離れることばかり考えている」。経営手腕もある、高学歴の中流以上の階層が「国には未来がない」と見限り、さっさと母国を離れていく。
▽英語圏の国で出産
生まれてくる新生児に英語圏の国籍を取得させるため、米国やカナダ、豪州、ニュージーランドで出産する「海外遠征出産」も増えている。「属地主義」を採用するこれらの国では、現地で生まれた子供すべてに市民権が与えられるからだ。
海外出産のパック旅行をネット販売する旅行会社もある。米国なら2500-3500万ウォン、ほかは1500-2500万ウォン程度。「兵役や子供の将来が心配」「韓国語より英語」「幼稚園で英語を学ばせるより、誕生時に英語圏の国籍を」という発想で、海外出産は庶民層にまで拡大している。不法な移民が目に余るようになり、米連邦検察に検挙される事例も増えている。
韓国人の海外移民が顕著になったのは「ベトナム戦争以後」という。韓国は1964年に参戦、30万の軍隊が派遣された。米国には150万人を超える韓国人が暮らしているが、その大半は当時、韓国人の移民枠が拡大されて海を渡った人々で、移民者数は100万人ともいう。在外韓国人は兵役の延期が可能で、2世以降は免除されるという恩典もある。兵役忌避の風潮は根強い。
学生のアンケート調査では約45%が「二重国籍なら米国籍を選ぶ」と答えているが、韓国人の「韓国離れ」は「転職好き」ににているという指摘もある。
▽儒教社会の帰結?
「韓国のサラリーマンは一生の間に平均4.2回、職を変えると予想している」という調査もあり、「給料の良い会社で働きたい」「キャリアアップしたい」という理由から、韓国人はいとも簡単に転職する。
勤め先の企業に対する忠誠心の低さは、そのまま国家への帰属意識の希薄さに結びついている。
その背景にあるのは、韓国特有の儒教的な一極集中的ピラミッド型血族社会だ。企業のほとんどはオーナー企業で、一族以外の出世は限られる。国家組織でさえ大統領を中心とする血族支配がまかり通る。このため血族に属さない人たちは、サラリーマンも官僚も、富と権力を求めてつねに移動を繰り返す。その行き着く果てが移民なのであろうか。
ひるがえって日本はどうか。
わが祖先は明治期に西洋列強に伍して、天皇を中心とする近代国家を作り上げたが、戦後の憲法は「国籍離脱の自由」をも認めている。昨年、長期滞在者を含めた在外邦人数は87万4848人(外務省「海外在住邦人数統計」)と過去最高を更新した。
誰も彼も国を捨てていくかに見える韓国は他山の石というべきなのかどうか。
[話 題]
「移民」が激増する韓国──国への帰属意識が希薄?
(「神社新報」平成15年11月24日)
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韓国で「移民」が激増している。
韓国の報道によれば、今夏、ホームショッピングでカナダへの「移民商品」が売り出されたところ、2回の放送で計4000人が殺到した。年平均1万2000人が海外に移住するといわれる韓国だが、3時間弱の放送でこれだけ多くの申請があったのは「衝撃的」で、商品を企画した企業は短時間に175億ウォン(10ウォン=約1円)、「ホームショッピング史上最高の売り上げ」を記録した、と韓国紙は伝えている。
申請者の7割は、「高卒以上」を唯一の条件とし、現地で2年間の語学・技術教育を受けたのち、移民資格が与えられる「技術教育移民」(2800万ウォン)に集中。年代別では30代が申請者の半数、40代が3割を超えた。働き盛りの韓国人が家電商品でも買うように、簡単に祖国を離れようとしている。
▽「国に未来がない」
ちょうど同じ時期、首都ソウルの最先端の街・江南(カンナム)で2日間、開かれた「海外移民博覧会」には、海外移住を斡旋する企業のブースに3万5000人(前年比4割増)の市民が押し寄せた。
優秀な人材の海外流出が危惧されるほど、韓国人が「韓国離れ」を募らせているのは、景気低迷や政治的不安など先行き不安が理由と韓国紙は分析する。
生活苦や事業の失敗が増え、住宅費や教育費の重い負担は30代の韓国人に「脇目も振らずに働く自分が哀れに見える」と思わせ、40-50代の専門職が「韓国を離れることばかり考えている」。経営手腕もある、高学歴の中流以上の階層が「国には未来がない」と見限り、さっさと母国を離れていく。
▽英語圏の国で出産
生まれてくる新生児に英語圏の国籍を取得させるため、米国やカナダ、豪州、ニュージーランドで出産する「海外遠征出産」も増えている。「属地主義」を採用するこれらの国では、現地で生まれた子供すべてに市民権が与えられるからだ。
海外出産のパック旅行をネット販売する旅行会社もある。米国なら2500-3500万ウォン、ほかは1500-2500万ウォン程度。「兵役や子供の将来が心配」「韓国語より英語」「幼稚園で英語を学ばせるより、誕生時に英語圏の国籍を」という発想で、海外出産は庶民層にまで拡大している。不法な移民が目に余るようになり、米連邦検察に検挙される事例も増えている。
韓国人の海外移民が顕著になったのは「ベトナム戦争以後」という。韓国は1964年に参戦、30万の軍隊が派遣された。米国には150万人を超える韓国人が暮らしているが、その大半は当時、韓国人の移民枠が拡大されて海を渡った人々で、移民者数は100万人ともいう。在外韓国人は兵役の延期が可能で、2世以降は免除されるという恩典もある。兵役忌避の風潮は根強い。
学生のアンケート調査では約45%が「二重国籍なら米国籍を選ぶ」と答えているが、韓国人の「韓国離れ」は「転職好き」ににているという指摘もある。
▽儒教社会の帰結?
「韓国のサラリーマンは一生の間に平均4.2回、職を変えると予想している」という調査もあり、「給料の良い会社で働きたい」「キャリアアップしたい」という理由から、韓国人はいとも簡単に転職する。
勤め先の企業に対する忠誠心の低さは、そのまま国家への帰属意識の希薄さに結びついている。
その背景にあるのは、韓国特有の儒教的な一極集中的ピラミッド型血族社会だ。企業のほとんどはオーナー企業で、一族以外の出世は限られる。国家組織でさえ大統領を中心とする血族支配がまかり通る。このため血族に属さない人たちは、サラリーマンも官僚も、富と権力を求めてつねに移動を繰り返す。その行き着く果てが移民なのであろうか。
ひるがえって日本はどうか。
わが祖先は明治期に西洋列強に伍して、天皇を中心とする近代国家を作り上げたが、戦後の憲法は「国籍離脱の自由」をも認めている。昨年、長期滞在者を含めた在外邦人数は87万4848人(外務省「海外在住邦人数統計」)と過去最高を更新した。
誰も彼も国を捨てていくかに見える韓国は他山の石というべきなのかどうか。