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韓国「戸主制」廃止へ──伝統か現実か、儒教社会の正念場 [韓国]

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話 題
韓国「戸主制」廃止へ
──伝統か現実か、儒教社会の正念場
(「神社新報」平成15年10月13日)
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 韓国国内の報道によれば、韓国政府は現在、「戸主制」の廃止を骨子とする民法の改正作業を進めてゐる。
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 韓国の戸主制は男性の戸主(家長)が家族を率ゐるといふ儒教に基づいた韓国伝統の男系家族制度。婚姻後、女性は男性の家に戸籍が移されるが姓は変はらない。子供は父親の姓を名乗る。男系の血統が重視され、戸主の継承は夫、息子、孫の順で、その後に未婚の娘、妻、母、嫁と続く。離婚した場合、たとひ父親が親権などを放棄したとしても、子供は父親の戸籍に残らなければならず、男女同権の立場などから批判を受けてきた。

 韓国政府が進める改正では、戸主といふ概念そのものがなくなる。離婚や再婚家庭の子供が家庭裁判所の決定により、実父の姓の代はりに養父または母親の姓を使へるやうになり、また夫婦の合意を前提に、子供が母親の姓を使へるやうにする法案も含まれてゐるといふ。民法から「戸主」といふ用語が消え、「親族」「世帯主」などに修正されることになる。


離婚・再婚が急増
して存続が困難に

 この背景には、核家族が社会全体の7割を超えるとともに、女性の社会進出が急速に進んでゐること、その一方、離婚率が急上昇し、25%を超えてしまったことが挙げられる。昨年1年間では「性格の不一致」などを理由に14万5300組が離婚し、過去最高を記録した。20年以上同居した末の「黄昏離婚」(熟年離婚)も激増してゐるといふ。

 半面、この10年で「初婚男性と再婚女性」「再婚男性と再婚女性」の婚姻が倍増してゐるが、現行制度では、再婚女性の連れ子は新しい父親の戸籍に入籍できず、再婚家庭の子供は兄弟同士で姓が異なるため、友人や隣人の目を気にせざるを得ないといふ苦痛を強ひられてゐるとされる。

 また、1人の女性が生涯に産む子供の数(合計特殊出生率)が2000年に1.47人にまで下がり、一人っ子が増えてゐる現実は男子が戸主を継承するといふ戸主制の存続を困難なものにしてゐるといふ。

 血統が重んじられる韓国儒教社会では、家系の正当性を証明する族譜(家系図)が誇りとされてきたが、族譜に女性の名前を載せることはなかった。名前を持たない女性もゐたほどだが、女性蔑視の風潮を改めて、この20年、「時代の流れ」から女性の名前を系図に掲載する傾向があるといふ。ごく最近では全州李氏の最大系派、孝寧大君派が伝統を重視する人たちと「婿の名前も載るのに」と改革を主張する人たちとの間で激論の末、女性の名前の掲載を決めてゐる。


九月の国会に上程
早ければ三年後に

 韓国KBS1やMBCなどの各テレビ局がこの夏、戸主制をテーマに、未婚の母の子供に対する養育権をめぐる実母と実父の家同士の葛藤を描いた連続ドラマを放映し、30%を超える高視聴率を得たことは、国民の関心の高さを窺はせる。

 8月下旬には法律家や婦人団体、市民団体などが参加する家族法改正特別委員会で法案が合意され、9月上旬に最終改正案が確定、通常国会に上程された。早ければ2006年には戸主制が廃止される見通しで、将来的には国民個人個人が個別に身分を登録する「個人別身分登録制」が導入されるとも伝へられる。

 しかし韓国は名にし負ふ儒教社会で、「儒林」と呼ばれる儒学者らの反撥は根強いといふ。男女平等を前提とする夫婦中心の家族制度への移行を目指す戸主制廃止は、ただでさへ深刻な家族の解体を加速させる危険性も指摘される。

 韓国問題に詳しい研究者は「韓国の民法はガチガチともいへる儒教原理に基づいてゐるので、現実社会と乖離してしまふのは仕方がない。いまでは韓国儒教社会そのものが崩壊の危機に瀕してゐる。かといって新たな精神的規範が見つかったわけでもない。戸主制廃止論議はそんな韓国社会の実情を象徴してゐる」と分析した上で、「日本にとって他山の石となるかもしれない」と指摘する。

 伝統か現実か、儒教社会の正念場ともいへる民法改正だが、「年内成立は微妙」ともいはれる。

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なぜ「謝罪」するのか その2──外務官僚の無知が歴史を誤らせる [韓国]

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なぜ「謝罪」するのか その2
──外務官僚の無知が歴史を誤らせる
(「神社新報」平成11年4月12日号から)
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 昨秋の日韓首脳会談で、日本は「過去」への「反省」と「お詫び」を繰り返し、「謝罪」は共同宣言に明文化されたが、政府が「謝罪」を選んだ理由は何だろうか。

 前回は、政策の背後にことさらに自己の非を認め、詫びて、和を実現しようとする日本的な儒教倫理の存在と、力が支配する国際政治にこれを持ち込む愚昧を指摘したが、問題はそればかりではないだろう。


▽金大中と一致する外務省関係者の歴史認識

 ある外務省関係者は「謝罪」の理由をこう語っている。

「日本は併合時代、感謝されるような立派なことをしたか。すべてが悪かったとはいわないが、反省すべき点が多かった。たとえば創氏改名などで苦痛を与えたのは事実だ」

「創氏改名」の例を挙げたので、「どういう歴史だと考えるのですか?」と問うと、「韓国には祖先崇拝の深い伝統があるのに、それを哀れむことなく強制した」と答えた。

 どこかで聞いたような理解だと思ったら、金大中大統領の『新しき出発のために』という著書に、『韓国人が生命と同様に尊重する姓を日本式に改名させ……』というくだりがあったのを思い出した。不思議に歴史認識が一致している。

「創氏改名」は韓国風の姓名を日本風に強制的に変更すること、というのが従来からの一般的な理解だが、最近の研究では否定的だ。

 たとえば在日の研究者・金英達氏は、「創氏」とは朝鮮の家族制度を「家」制度に再編するため、家の称号である「氏」を創設することであり、男子血統の記号である朝鮮の「姓」や本貫が廃止されることではなかった、とする。

 金氏は「創氏改名」のイメージが2つの方向から歪められてきた。1つは植民地支配を正当化し、「強制」を否定する欺瞞、もうひとつは「創氏改名」による精神的ダメージを強調し、政策に協力し屈服した朝鮮人の姿を隠蔽する傾向である、とも述べている(金英達『創氏改名の研究』)。

「在日の研究者が、あなたのような理解に否定的ですね」といったら、外務省関係者は黙ってしまった。金英達氏の名前も研究も知らないらしい。


▽「謝罪」すべきでない歴史が明らかになったら?

──金大中氏は自叙伝のなかで日本人の歴史認識を批判し、イギリスやフランスは植民地の人々に姓を変えろと命令したか、言語を奪い、歴史の抹殺を図ったか、若者を徴兵徴用し、若い女性を慰安婦にしたか、宮城遥拝を強制したか。同じ「戦争犯罪国家」でもドイツは徹底的に反省したが、日本はまったく違う、と述べていますが、日本政府も同様の認識から「謝罪」したのですか?

 そう言いかけて、思いとどまった。「創氏改名」の例で、「歴史理解」の程度が十分、推察できたからだ。

 日本にまったく非がなかったと強弁しても始まらないが、少なくとも歴史を客観的に検証することを抜きにして、一方的に「謝罪」することは過去、現在、未来の国民に対して、無責任きわまりないというべきではないか。観念的な理解では、歴史の教訓も見出せまい。

「歴史は主観の問題だ。韓国には『怨念』があって、なかなか客観的立場に立てない。従来の日韓の交渉は感情論に終始した。けれども韓国も平和的な政権交代ができるようになり、経済力もついて、客観的で冷静な議論ができるようになった。そんな韓国を温かく見守るべきではないか」

 関係者はこうも語るが、きれいごとではないか。温かく見守るのはけっこうだが、他国を思いやる優しさが「歴史」に無知な外務官僚の逃げ口上にされてはかなわない。

──将来、韓国側の歴史認識がより客観的になり、日本が謝罪すべきでない歴史が明らかになったら、この共同宣言はどう評価されるんでしょうね。

「もしそうなれば、見直されることになると思う」

 政府による外交がすべてではないし、完全無欠な外交などあり得ないが、最初から明白なほころびが見えるのはいかがなものか。

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萩焼の酒器で地酒を汲みつつ日韓を思う ──秀吉の命令で連行された朝鮮陶工の悲史 [韓国]

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萩焼の酒器で地酒を汲みつつ日韓を思う
──秀吉の命令で連行された朝鮮陶工の悲史
(「神社新報」平成11年4月12日号)
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 いきなり私事で恐縮だが、記者は「賊軍の末裔」である。母方の曾祖母は戊辰戦争のなさか、慶応4(1868)年夏、奥州二本松城落城から半月後に生まれた。

 薩摩軍を先鋒とする「官軍」が攻め寄ってきたとき、決戦を目前にして、藩中の老幼子女は夜陰にまぎれて城外に脱出した。曾祖母を生んだ臨月の女性もその1人らしい。

 素性を隠して生きなければならなかったのか、詳しいことは分からないが、1人息子の祖父は夫婦喧嘩のとき、妻を「平民の子」と毒づいた。

 そんな記者が不思議に薩長の人とご縁がある。この(平成11年)2月も山口を旅した。「敵地」に足を踏み入れるのは3度目である。

 夜、萩市内の赤提灯で萩焼の酒器で地酒を汲みながら「オレは会津の生まれだ」と告白したら、客がいっせいにふり返った。寒風吹きすさぶ萩の街は祖先の悲しい歴史を思い起こさせ、何ともいえない萩焼のぬくもりは秀吉に連れてこられた朝鮮陶工の哀歌を蘇らせる。

 そんなわけで、今回は萩焼を取り上げる。


▢ 輝元が朝鮮の役で連れ帰る
▢ 「萩焼の開祖」李勺光と李敬


 萩焼は本来、茶道においてもっとも重んじられた。「一楽、二萩、三唐津」などと粋人はいうらしい。

 萩焼を育てたのは茶人として名高い西国の雄藩・毛利家の藩公たちであった。

 萩焼の歴史は豊臣秀吉による朝鮮出兵に始まる。秀吉は東アジアの統一を夢見て、全国から武士ばかりか町人、百姓まで30万人を大動員した。

 日本軍の総帥は毛利元就の孫・輝元で、4万の兵を率いて、みずから玄界灘を渡る。

 文禄元(1592)年4月、釜山に上陸した日本軍は破竹の勢いで進軍した。5月には漢城(ソウル)が陥落し、6月には無抵抗で平壌を占領、救援に駆けつけた明軍を撃破する。

 秀吉軍には鉄砲があったが、朝鮮軍は弓矢しかなく、勝ち目はなかった。鉄砲の音を聞いただけで逃げ出すものも多かったという。

 ところが、である。

 連戦連勝のはずなのに、秀吉軍は敗退する。朝鮮民衆の根強い抵抗と水軍の活躍、明の援軍で撤兵を余儀なくされたといわれているが、薩摩焼14代の沈寿官氏はそうではなく、多くの武将が朝鮮軍に寝返ったため、と解いてみせる(『NHK歴史発見7』)。

 韓国の人たちが「壬申(じんしん)倭乱」「丁酉(ていゆう)倭乱」と呼び、「有史以来最大の危機」(金大中『獄中書簡』)としていまなお大きな恨みを残す文禄・慶長の役。

 このとき日本軍は多くの書籍を戦利品とし、数万の文化人・技術者を連れ帰った。

 日本にとって、それらは戦乱で荒廃した文化を復興させる一助となったが、李氏朝鮮の文化は衰え、高麗朝の水準にも達しないようになり苦しんだ、と「戦後唯一の神道思想家」葦津珍彦氏が書いている(『アジアに架ける橋』)。

 西日本に多くの陶工が帰化し、唐津焼、薩摩焼などの焼き物が起こったのは、このときである。

 千利休によって完成された「侘び茶」でもっとも好まれたのは、「高麗茶碗」である。利休の弟子で、大茶人であった輝元は文禄の役のとき、秀吉の指令もあって、高麗焼物細工累代家伝の秘法を熟知していた李勺光らを連れ帰った。

 李勺光は秀吉に招かれ、摂津に住まっていたが、その後、輝元に預けられ、安芸・広島で窯を開いた。しかし、陶磁器の生産には人手が要る。それで次なる慶長の役で、弟の李敬夫婦らが連れてこられたという。

 この李勺光・李敬兄弟が萩焼の開祖とされる。

 関ヶ原の戦いのあと、輝元は中国8カ国112万石を家康に取り上げられ、防府、長州2国29万石に減封された。慶長9(1604)年11月、輝元は新たな居城となった萩に入府する。李勺光らもこれに従った(『萩市史』など)。

 李勺光は城下松本村中之倉に屋敷を与えられるとともに、裏山を薪山として下賜され、開窯を命じられた。こうして萩焼が成立する。


▢ 5代目で断絶した山村家
▢ 継承される「高麗左右衛門


 李勺光は食禄五人扶持、御切銭(銀)250目の待遇を与えられ、「御細工人」に召し抱えられた。

「一人扶持」とは武士1人1日の標準生計費用を米5合と算定して、年間1石8斗つまり5俵を支給することで、「五人扶持」は九石(25俵)の扶持米支給ということになる。御切銭は臨時の現金給与という。

 李勺光らは士分としての待遇を受け、藩主の御用にのみ携わった。

 茶人輝元と陶工李勺光との間に人間的な交流はなかったのだろうかと思って、調べてみたが、それらしいものは見当たらない。

 というより、李勺光について伝えられるものがほとんどないらしい。母の名も妻の名も分からない。一児をもうけたあと、死没したようだが、いつ、どこで死んだかも不明である。

 李勺光の遺児は叔父の李敬に育てられ、成人後は山村新兵衛光政と称した。亡父と同じ待遇を受け、「高麗焼物細工御茶人之家」として正式に召し抱えられ、寛永2(1625)年4月に藩主秀就から「作之允(さくのじょう)」に任じられる。

「松本窯薪山御用焼物所惣都合」役を命じられて御用窯の陶工を統率し、父子2代で萩焼の地位を確立した。

 光政はのちに城下北古萩町に居屋敷を支給され、門弟2人を従えて、移り住んだ。また僧形となって松庵(正庵)と号した。

 寛永18(1641)年に囲碁の争いが高じて、藩士を殺害するという事件を起こす。異国人ということで、藩は「おかまいなし」とするが、17年後の明暦4(1658)年2月、相手の遺児と弟に仇討ちされたという。

 一方、坂本助八を名乗り、改姓して坂助八と称した李敬は、寛永2年11月に藩主秀就から「高麗左衛門」に任じられ、坂高麗左衛門と称した。甥の光政と同様、「御細工人」として食禄三人扶持、米9石を授けられ、さらに居屋敷5反8畝20歩と薪山をあてがわれる。寛永20(1643)年2月に58歳で他界した。

 悲しいことに、李勺光直系の山村家はその後、断絶する。

 安永3(1774)年、名工の誉れが高かったという5代源次郎光長は養子源右衛門への家督相続の許可が下りないうちに63歳で病没し、その喪中に源右衛門は城内で喧嘩の末に抜刀する。折悪しく、萩屈指の旧社春日神社の祭礼の日であった。源右衛門は遠島処分となり、家禄は没収されてしまう。

 他方、坂高麗左衛門は時代の波に耐えながら、継承されている。現在は12代目という(河野良輔『陶磁大系14 萩・出雲』など)。


▢ なぜ陶工を連れ帰ったのか
▢ なぜ帰還しなかったのか


 朝鮮出兵で連れてこられた捕虜の数は全体で2万とも3万ともいわれるが、とくに文禄・慶長の役が「茶碗戦争」と称されるほど、多くの陶工が連行されたのは、なぜであろうか?

 このとき連れてこられた陶工を祖先に持つ、薩摩焼の沈寿官氏が興味深い解説を書いている。

 フランスの友人がこう語った。「日本の焼き物には銘が刻まれているが、韓国李朝の名品には銘がない。日本の焼き物は幸せだ。自分を主張できるからね」

 沈寿官氏の頭の中で疑念が膨らんだ。高麗や李朝の工人たちはあれだけ美しい名品を作り上げながら、なぜ生きる証としての名前を刻まなかったのか。焼き物に対する考え方が違うのではないか?

 作家の司馬遼太郎氏に疑問をぶつけてみた。司馬氏は当時のキリスト教宣教師の記録を語ったという。

 戦の論功行賞といえば、一国一城が与えられるのが普通だが、信長の時代には茶碗が与えられた。もらった家臣は不満に思うどころか、躍り上がって喜んだ。宣教師はその異様な光景に驚き、「私たちが宝石を愛するように、日本人は焼き物を愛している」と本国に書き送っている。

 インド以西の国々では宝石を美の頂点に置いた。しかし中国や朝鮮には、白玉や翡翠(ひすい)などの玉を美の頂点とし、次に金・銀と続く美の体系がある。焼き物ははるか下方に位置づけられた。

 ところが、宝石も玉も産しない日本は、まったく異なる。

 室町時代になって、中国や朝鮮の陶磁器が日本に入ってきた。硬質に焼きしめられ、釉薬で装い、キラキラと色鮮やかに輝いている。日本人は美しさに目を見張り、陶磁器に玉や宝石と同等の価値を与えた。

 やがて陶磁を頂点とする美の体系が組み上げられるのだ。

 文禄・慶長の役以前、日本の焼き物は恥ずかしいほど遅れていた。釉薬のかかった焼き物はほんのわずかしか産しない。

 ところが、朝鮮に渡ってみると、李朝の陶磁は美しく花開き、白磁はキラキラと輝いていた。とくに粉青沙器(ふんせいしゃき。高麗青磁の流れを汲む、李朝前期の陶磁器で、日本では三島と呼ばれる)の面白さは日本人の心に深く食い込んだ。

 ここに多くの陶工が日本に連行されることを余儀なくされた理由がある、と沈寿官氏は説明する(『韓国のやきもの3 李朝』)。


▽ 暖かく保護された陶工たち


 しかしさらに興味深いのはその先である。葦津珍彦氏がこう書いている。

 江戸時代になって、日朝間に和平が急転し、連行された陶工たちをすべて帰還させることが約束された。ところが帰還者が集まらなかった。

 囚われの身のはずの陶工たちは暖かく保護されたから、特権者が専制支配する暗黒の祖国に帰ることを欲しなかったのである。

 帰国者を集めるための当時の高札がいまも残されているというのだ(『朴鐵柱大人を偲ぶ』)。

 近代日本が生んだ代表的キリスト者で、優れた新聞人でもあった徳富蘇峰によると、家康は対馬の宗氏を仲介として日朝関係の回復を進めた。朝鮮側の条件は捕虜の送還であったから、日本側は捕虜を陸続として帰還させ、和親に努めた。

 朝鮮王家の陵墓を犯した罪人問題も解決して、和議は成立する。

 そもそも朝鮮の役で、朝鮮は日本軍だけでなく、援軍であるはずの明軍によって踏みにじられ、それ以上に自国の軍隊と暴徒のために荒らされた。飢餓が発生し、植えた人々は互いに殺し合い、人肉を食らうというありさまだった。

 官職が売買され、日本人の首ひとつを斬れば、すぐさま武官に採用された。ところが日本軍が朝鮮人を殺戮するどころか、明軍あるいは朝鮮人が朝鮮人の首をはね、日本人の首の代わりとした。

 明軍は徴用・徴発し、苦しめた。しかし民衆を苦しめた最大の元凶は朝鮮政府そのものだった、と蘇峰は書いている。

 こうして多くの朝鮮人が日本軍および明軍の捕虜や奴隷となって、売り払われた(『近世日本国民史』)。

 日本に連れてこられた陶工に切々たる望郷の思いがなかったはずはない。けれども、儒教によって律せられる朝鮮では、工人はもっとも卑しい人種で、名もなく貧しい生き方を押しつけられた(沈寿官『韓国の焼きもの2 高麗』)。

 それが日本では帯刀さえ許されたとすれば、帰化を選んだとしても不思議はない。

『朝鮮王朝実録』によれば、帰還者はわずかに5720人で、「九牛一毛」であったという(内藤雋輔『文禄慶長役における被擄人の研究』)。

 しかし帰国と帰化といずれが幸せだったのか。

 故国の土を二度と踏むことはなかった朝鮮陶工の悲痛を思いつつ、萩で見つけた大吟醸を、萩焼のお猪口に注いだ。口に含むと、悲しみを超えたまろやかさが舌を撫でる。

 わが祖先よ、仇敵の美酒に酔い痴れる愚者を赦したまえ。

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なぜ「謝罪」を要求するのか──儒教的「小中華」思想から抜け出せない韓国 [韓国]

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なぜ「謝罪」を要求するのか
──儒教的「小中華」思想から抜け出せない韓国
(「神社新報」平成11年2月8日号から)
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──昨秋の日韓共同宣言に、小渕首相が日本の「過去」への「反省」と「お詫び」を述べ、金大中大統領がその「歴史認識」の表明を評価したとありますが、謝罪対象の「歴史的事実」とは何を指すのですか。

 在日大使館に取材を試みたところ、「直接、ソウルの政府に聞いた方がいいですよ」という返答だったので、韓国大統領府に英文で取材を申し込んだが、1か月経っても何の音沙汰もない。

 ひょっとして答えようがないのではないか。大使館によれば、「歴史的事実」について韓国政府の公式な見解はない、というのだから。

 全斗煥大統領来日以来、歴代大統領の訪日は「謝罪と反省」要求が大きな目的とされ、「歴史認識」問題が議論の的になってきたが、じつのところ客観的史実とは無関係に「歴史」が語られてきたのではないか。

 近年、韓国の歴史教科書が翻訳・出版されている。相手の考えを知るのは大切なことで、ぜひご一読をお勧めするが、多くの人はたぶん国定教科書による「民族教育」のすさまじさに恐れ入ることだろう。

 たとえば小学校用を開くと、「韓国4000年の歴史」といいながら、150ページの3分の2が近代史、とくに日韓関係史に当てられ、、これでもかこれでもかと反日感情を煽るような記述が繰り返されている。

 むろん「反日教育」ではなく、「独立運動」の事実を教えるのだと韓国政府は反論するだろうが、「独立」はすなわち「反日」にほかならないのだとすれば、この教科書で学んだ優秀な学生ほど日本人と見れば「謝罪」を要求したくなるかも知れない。少なくとも友好的な気持ちは育ちそうにない。

 面白いのは、日本の「謝罪」は戦後ばかりではないらしいことだ。

 いわく、朝鮮を侵略した豊臣秀吉の次の指導者が深く反省し、朝鮮通信使の派遣を求めてきたので、意向を受け入れて使節団を派遣した。またいわく、明治維新のときに日本は通商を求めてきたが、その態度が無礼だとして拒んだ(『分かりやすい韓国の歴史』)。

 教科書ばかりではない。

 金大中大統領は『民族と統一を想う』に、明治初期に国交を求めてきた日本はそれまでの過誤を認め、詫びて……と書いている。

 ここには韓国人の日韓関係に対する基本姿勢が現れているように見える。日本の「謝罪」がつねに国交の前提になっているのだ。

 なぜそうなのか。その背景には、儒教的な国際秩序というものがあるらしい。

 李氏朝鮮は1627年と36年の2度、清の侵攻を受けて屈し、朝鮮国王は清国皇帝から冊封を受けることになった。国王は皇帝から爵位を与えられ、君臣関係を結び、清と朝鮮の宗属関係が成立したのである。

 宗属関係は儒家の華夷思想(中華思想)と王化思想に支えられる。中華思想では中国が世界の中心で、最高のものと考える。朝鮮は中国に対しては夷狄だが、他方、みずから小中華を自認し、満州族や日本を夷狄とみなした。「華」と「夷」を弁別するのは、「礼」の有無である。

 清との宗属関係は、琉球や越南など周辺諸国のなかで、朝鮮がもっとも本格的で、たとえば朝貢は最多の年4回が課せられた。

 この宗属関係は明治27年の朝鮮独立まで続いた(原田環『朝鮮の開国と近代化』)。つまり清との宗属関係が解かれるのは、日清戦争で日本が勝利し、朝鮮の独立を清が認めたときであった。しかし、清からの解放は次なる苛烈な属国化を生むことになる。小国の悲哀というべきか。

 戦後の韓国の「謝罪」要求は儒教的国際関係の序列を確認したいという幻想に発しているのではないか。

 韓国が日本にだけ「謝罪」を要求し、元の時代に1世紀にわたって苛酷な支配を受け、あるいは朝鮮戦争時に100万の軍隊による侵略を受けたことに対して、中国に謝罪を求めない矛盾はこれで説明がつく。韓国にとって中国は「華」の国であり、日本は依然として野蛮な「夷」の国らしい。

 韓国が時代錯誤の小中華思想にこだわるかぎり、真の日韓融和は遠いといわざるを得ないが、日本政府は今度もまた「謝罪」選択した。なぜなのか。


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「謝罪」の理由は不明!?──「日韓共同宣言」の摩訶不思議 [韓国]

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「謝罪」の理由は不明!?
──「日韓共同宣言」の摩訶不思議
(「神社新報」平成11年1月11日号から)
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「大使館はですね、公式な見解を発表することはできないですよ」

──どうしてですか?

「韓国政府の発表がなければ、大使館から公表することはできないですよ」

──大使館は政府の出先機関じゃないですか?

「この問題はソウル政府に直接、聞いた方がいいですよ。大使館は政府の公式説明の前に見解を発表することはできないですよ」

──ということは、韓国政府は公式な説明をしていないということですね?

「はい」

 いやはや驚いた。何がって、例の昨年10月の「日韓共同宣言」のことである。

 小渕首相と金大中大統領は首脳会談で、「21世紀に向けた新たな日韓パートナーシップ」と副題のついた共同宣言を発表した。はじめて日本の「過去」への「反省」と「お詫び」が文書に明記され、これに対して金大統領は小渕首相の「歴史認識」の表明を評価し、その結果として、両首脳は「過去」の清算と新時代の幕開けを高らかに謳い上げたのである。

 日本政府の「謝罪」は今回がはじめてではない。それどころか、昭和59年の全斗煥大統領来日以後、韓国歴代大統領の日本訪問は「謝罪と反省」要求が大きな目的とされてきた。

 もっというなら、昭和33年春に訪韓した首相特使の矢次一夫氏は、「岸首相は、伊藤博文公が日韓関係について犯した誤りを償わねばならぬ、と強く信じている。首相はまた日本の軍部の行為が韓国に重大な損害をかけたことを遺憾としている」と会見で語った。

 また、国交正常化直前の40年2月には椎名外相が金浦空港で、「両国間の長い歴史の中に不幸な期間があったことはまことに遺憾な次第であり、深く反省する」と述べた。これは日本政府の代表者が戦前の朝鮮統治に反省の意思表示をした最初とされる。

 何のことはない。日韓交渉に始まって、首脳会談のたびに日本政府は「謝罪」を繰り返している。しかも「謝罪ゲーム」を反芻しているのは日韓のほかには国際政治上、例がないというから、じつに異様である。

 さらに理解に苦しむのは、「反省」と「お詫び」の対象となる「歴史的事実」の具体的中身である。韓国政府は何について「謝罪」せよと要求し、日本政府は何について「謝罪」してきたのか。

 たとえば、金大中大統領は数年前に発刊された自叙伝で、ある日本人学生との出会いを引き合いにしながら、日本人の歴史認識を批判し、イギリスやフランスは植民地の人々に姓を変えろと命じただろうか、言語を奪い、歴史の抹殺を図ったか、若者を徴兵・徴用し、若い女性を慰安婦にしたか、宮城遥拝を強制したか、同じ「戦争犯罪国家」でも、ドイツは徹底的に反省し、謝罪したが、日本はまったく違う、と述べている。

 ここに列挙されたようなことに対する「反省」であり、「お詫び」なのであろうか。それとも「日帝36年」の朝鮮統治そのものがその対象なのか。

 韓国政府に直接、聞くのが手っ取り早い。ということで韓国大使館に取材を試みた。その結果が冒頭の問答である。

 驚いたことに、何に対する「反省」と「謝罪」なのか、韓国政府の公式見解はないらしい。

 それでは日本政府はどうなのか。信じられないことに、これまた「歴史認識」の中身について、日本政府の公式見解はないようだし、国会で十分に議論されたこともないらしい。

 日本に非がなかったなどとはいわないが、これでは日韓の謝罪ゲームは宗主国の皇帝に叩頭する前近代的な外交儀礼と何ら変わらないではないか。

 要するに、「謝罪」そのものが目的化しているのである。

 陛下は昨年秋、宮中晩餐会でのお言葉のなかで、歴史の真実を求める努力の必要を述べられたけれども、謙虚に歴史に学ぶ姿勢のない政治家に歴史認識を語る資格はあるのだろうか。史実への真摯なまなざしの感じられない両国政府に歴史の清算など可能だろうか。

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