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女系継承を否定するだけでは不十分───橋本明著『平成皇室論』を批判する 番外編その2 [橋本明]

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女系継承を否定するだけでは不十分
───橋本明著『平成皇室論』を批判する 番外編その2
(2009年11月17日)
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▽小堀先生の評価点こそ最大の欠陥

 小堀先生の記事は、橋本さんの著書を検討する前半と小林さんの本を俎上にあげた後半と、完全な二部構成になっています。

 橋本批判では、小堀さんはまず、有益で面白いところがある、と評価しています。それは先入見にとらわれないよう、意識して中立的に読んだ結果で、とくにネパール王制崩壊の悲劇や近代ヨーロッパの王室の没落を「他山の石」と見ていることは、私の注目をひきました。

 というのも、私と完全に見方が異なるからです。

 ネパール王制の崩壊について、一般国民が注目していなかった、と小堀先生が指摘するのはその通りだと思いますが、「他人事ではない」として橋本さんが王制崩壊の分析に注意を促していることが、珍しい着目だ、と評価する見方にはにわかに賛同できずにいます。

「有益な情報や著者特有の聴くべき見解が十分に織り込まれている」とは、私にはとても思えません。同じ君主制だからといっても、ネパール王制と日本の皇室では大きな相違点があります。それは権力の制限の有無であり、王朝交代の有無です。

 小堀先生が、橋本さんの史実認識や概念的浅薄と杜撰さを大目に見ることができない、と指摘しているのは大いに同感ですが、小堀先生が評価している橋本さんの着目・考察にこそむしろ、橋本さんの皇室論の最大の欠陥があると私は考えます。

 橋本さんのネパール王制論、ヨーロッパ王室論はあまりにもかび臭く、図式的で、有益とはほど遠いものです。ネパールこそ日本の皇室に学ぶべきだったし、一方、ヨーロッパの王室はすでに日本の象徴君主制に学んでいます。

 他者に学ぶ謙虚さは大切ですが、自己批判が先に立ちすぎて、みずからの価値を見失っているのではないか、という疑いが否めません。


▽なぜ男系男子でなければならないのか

 さて、小林さんの『天皇論』の女系容認論について、です。小堀先生は、「見事な論述展開に潜在する1点の論理的欠陥」と指摘します。

 小林さんは全編の巻末に、突如、女系天皇の容認を宣言します。天照大神は女性神だから、歴代天皇は女系だったと考えられる、と記している。女系天皇の出現が易姓革命であることに気がつかないわけではないだろう。易姓革命に嫌悪しながら、最後の土壇場で肯定するのは自己矛盾であり、論理の破綻だ、と小堀先生はきびしく指摘します。

 なぜ小林さんが「早とちり」をしたのか、について、小堀先生は解説し、女系天皇容認論の誤りについて論を展開し、そして最後に、小林さんに対して、女系容認を主張する学説の「暗く怪しい政治的党略性」に引きずられてはならない、と切言するのでした。

 小堀先生の批判はじつに分かりやすいものです。女系容認論は政治的、処世術的で、否認論は尊皇敬神の信仰である。前者は「腐儒の曲説」でしかない、ときびしく戒めています。

 万世一系の皇統を何よりも重視するのが小堀先生でしょうから、女系継承を否認するのは大いに理解できます。しかし、なぜ皇位の継承が男系男子でなければならないのか、についての積極的な説明は、少なくともこの論考にはうかがえません。

 問題は、女系継承を否認し、女系容認論者を批判するだけではなくて、男系男子による皇位継承の本質的意義を解明することにあるだろうし、それともう1つは、今回のご即位20年の陛下の会見でも言及されている皇位継承のあり方について、具体案を提示することでしょう。


▽現実主義者でもあった先駆者・葦津珍彦

 小堀先生の論考には、ありがたいことに、私の名前も登場します。小林さんが入江相政侍従長を宮中祭祀衰退の元凶と名指ししているのには、拙著『天皇の祈りはなぜ簡略化されたか』によく学んだ結果だろうと書いています。

 小堀先生はまた、小林さんが今後、依拠すべき学究たちの実名を何人か、あげています。しかし、けっして無視してはならない重要な先人の名前が抜け落ちています。戦後唯一の神道思想家といわれ、先駆的な女帝否認論を書き残した葦津珍彦です。今年はいみじくも葦津の生誕百年です。

 昭和29(1954)年暮れに発行された『天皇・神道・憲法』という本があります。「はしがき」は葦津が書いていますが、「皇位継承法」についての1章では、戦後、憲法学者の間でわき起こった女帝容認論に対して、皇室の「万世一系」とは「男系子孫一系」の意味であることは論をまたない。女系の子孫(男子であれ、女子であれ)に皇位が継承されるとすれば、それは「万世一系の根本的改革」を意味し、断じて承認しがたい、と断言しています。

 葦津が晩年、草案をまとめた『共同研究現行皇室法の批判的研究』(皇室法研究会編、昭和62年)も同様で、「われわれは、女帝は国史に前例があっても、これを認める必要がないと確信している」と言い切っています。

 葦津の女帝論でもっとも重要なことは、天皇は万世一系の祭り主であるという一点にあります。葦津の女帝否認論は、そこから必然的に導かれています。

 しかし、万策尽きた場合に、それでも皇統の連続性を保つための女帝をも、葦津が頑迷固陋(がんめいころう)に否定し去っていたわけではない、という重要な証言があります。葦津は教条主義とは無縁な現実主義者でもありました。


▽男系男子が絶えないようにする制度

 今日、伝統主義者たちの天皇・皇室論は、葦津の影響を抜きに語ることはできませんが、まさに伝統主義者自身が女帝否認論と容認論に二分されているのは、葦津の女帝論に両面性があったからだろうと私は見ています。

 それは制度的原則論と現実論の両面性です。積極的容認論の背景にあるのは「皇統断絶」に対する強い信仰的な危機意識です。小堀先生がいうように、容認論者に信仰がないわけではありません。しかし、一方の女帝否認論は、歴史に前例のない女系継承への飛躍を戒めますが、十分な現実論を示しきれずにいます。

 それなら先駆者である葦津はどのような現実的打開策を考えていたのか?

 葦津が原案執筆者となってまとめ上げられた『大日本帝国憲法制定史』(昭和55年)は、女統継承論を掲げ、伝統的な日本人の君臣の意識を動揺させるよりも、まず男統の絶えない制度を優先的に慎重に考えるべきではないか、と主張しています。

 しかし、どのようにして男系男子が絶えないようにするのか、その具体的な制度論についての提言はありませんでした。ここに、いわば後継者たちの不統一の原因を見出すことができます。葦津の女帝否認論を十分に発展・昇華させることができないでいるのです。

 そのことは私にもいえるかもしれません。


君主制の凋落を鵜呑みにする「うかつ」───橋本明『平成皇室論』を読む その4 [橋本明]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2009年10月6日)からの転載です


 引き続き、橋本明『平成皇室論』を批判します。今週は第5章です。

 その前にひと言申し上げます。当メルマガは前回が創刊100号でした。一昨年秋に並木書房社長のご助言でスタートし、その後、多くの方々のご声援を受け、読者数も増えました。いまはイザ! などもふくめると、3000人を優に超える方々のもとに毎週、届けられています。

 このメルマガから生まれたのが拙著『天皇の祈りはなぜ簡略化されたか』(並木書房)で、いくつかのメディアに取り上げられるなど、手応えを感じています。目下、これに続く執筆計画を進めているところです。日本の文明の根幹であるはずの天皇・皇室に関する本質的な理解が失われている現状を、皆さんとともに、何とか打開していかなければならない、というのが切なる願いです。

 今後ともよりいっそうのご支援をお願いします。メルマガの末尾にある「あなたの評価」で高い採点をしてくださると、ランキングに反映され、当メルマガの注目度が増し、ひいては天皇・皇室問題の正常化を推進させる原動力になります。

 それともう1つ。雑誌「正論」10月号に書きましたように、いまはごくふつうの常識人の発言と行動が求められていると思います。「陛下の級友」や某大学教授、名誉教授もそうですが、既成のアカデミズムやジャーナリズムには多くを期待できません。現実はむしろ逆です。陛下の側近もしかりで、「脱官僚支配」などと観念的にお題目を唱えればいいというものでもありません。本質的議論を草の根から深めていくことが、緊急の課題です。

 幕末の時代に坂本龍馬が海援隊を組織したように、新しい組織が必要なのだと思います。そのためのヒト、モノ、カネが早急に求められていると痛感しています。

 あるカトリック司教が興味深い指摘をしています。ソ連時代の70年間、徹底して宗教を弾圧したロシアでは、人間の心が荒廃し、ボランティア精神や助け合いの理念さえ失われているそうです。一度失われた精神伝統を回復するのは絶望的なほど至難ですが、日本がそうならないとは限りません。皆さんの声が必要なのです。


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 君主制の凋落を鵜呑みにする「うかつ」
 ───橋本明『平成皇室論』を読む その4
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▽かび臭い単線的社会発展説

 さて、橋本さんはこの章で、ネパール王朝の崩壊を取り上げ、日本の皇室に警告を発しています。しかし、展開されているのは、21世紀のジャーナリストとは思えない、前世紀の教科書を読むような、かび臭い歴史論です。

 すなわち、橋本さんの考えによれば、第2次大戦は世界に民主主義の波をおこし、王制と大衆政治派(共和制支持派?)のせめぎ合いを生み、カンボジアやイランで王制が倒れた。20世紀は「革命の世紀」だった、というのです。

 君主制が民主制にとって代わられ、さらに革命運動を経て社会主義社会が必然的に実現される、というような単線的社会発展説が、20世紀ならいざ知らず、逆に「革命国家」ソ連が崩壊したいまもなお、あろうことか日本を代表する通信社のOBによって、無邪気に信じられているのは、驚きを超えています。

 このメルマガの読者なら、この運命史観の科学性をめぐって、50年前、「思想の科学」誌上で、神道思想家・葦津珍彦(あしづ・うずひこ)と政治学者・橋川文三の論争が繰り広げられたことをご記憶のはずです。

 このとき葦津は、敗戦国の王朝はかならず廃滅し、共和制に一様に移行する、とする俗説に根本的な疑問を呈しました。「君主制が少なくなり、やがて日本も共和国になる」という一般的公式を立て、具体的事実を無視して、具体的な国の運命を抽象理論で予見しようとするのは浅はかである、などと指摘したのです。

 橋川はこれに対して、まともな反論すらできませんでした。天下の橋川でさえ、観念的な歴史論から抜け出せないでいたのだと思います。

 ましてや、というべきか、橋本さんは、(1)敗戦国の王朝はかならず廃滅し、共和制に移行するというドグマ、(2)個別性を無視し、世界の君主制をいっしょくたに論ずるドグマ、に完全にとらわれています。


▽抽象論に安住している

 考えても見てください。

 日本とネパールは同じ君主制とはいっても多くの点で異なります。ネパール王制の歴史は日本と同様、神話の世界にまでさかのぼりますが、「万世一系」の日本とは異なり、リッチャピ王朝、タクリ王朝、マルラ王朝など、幾多の王朝交代がありました。

 240年に及んだネパールのグルカ王朝が廃されたのは、昨年、制憲議会が王制廃止、共和制樹立を圧倒的多数で決議したからと伝えられますが、そのきっかけは2001年のビレンドラ国王暗殺事件という血生臭い国王交代劇でした。それ以上に異様なのは、今回の王制廃止を主導したのが武装闘争を展開してきた共産党毛沢東主義派だという事実です。

 ソ連崩壊につづいて、いまロシアで起きているプーチンの強権政治は、まるで革命以前のツァーリズムへの先祖返りです。したがってもはや、マルクスの唯物史観は博物館のかび臭い陳列物にすぎない、と思っていたら、ネパールでは今ごろになって、毛沢東主義者が王制を打倒したというのですから、時代錯誤というほかはありません。

 図式論でとらえきれない個別の事実に目を向け、いちだんと深い真実を追究するのがジャーナリストの役割だと私は考えますが、橋本さんは、「ロシア革命を皮切りに、20世紀は『革命の世紀』と称されるほど各国の王権が廃され、一方ではマルクス・レーニンが掲げた共産主義、社会主義へ、他方では自由、民権尊重へと国家体制が様変わりした」などと、一昔前の抽象論に安住しています。


▽ヨーロッパ王制こそ天皇に学んでいる

 そればかりではありません。橋本さんは、基本的人権尊重の流れがイギリスの名誉革命にはじまり、アメリカ、フランスを経て、戦後の日本に到達した、という単線的な歴史観を示しますが、現代のアカデミズムからは、逆の流れが指摘されています。

 下條芳明・九州産業大学助教授の『象徴君主制憲法の20世紀的展開』によると、ヨーロッパにおいて、象徴君主制が復権しているといいます。

 フランス第五共和制やアメリカの大統領制などのように、今日の共和制は、「君主制的なもの」の意義が認められ、積極的な吸収が行われている。一方の君主制も、共和制では代替できない、君主制固有の伝統性・世襲制から派生する政治的権威の意義が見直されている、というのです。

 橋本さんのいう「危機感」どころではないのです。下條助教授はこう指摘します。

 ──今日、ヨーロッパの君主政治では、憲法上は立憲君主制を維持しながらも、君主の国政上の役割は象徴的・統合的機能の行使に移っている。君主制を安易に廃止すれば、そうした効用は期待できない。一度廃すれば、復活は至難である。そのことが自覚されて、現存の君主制を慎重に扱う姿勢が求められる。君主制の弱化・減少傾向の現象にばかりこだわり、君主制の凋落という言葉を鵜呑みにしているなら、うかつのそしりを免れまい。

 別ないい方をすれば、ヨーロッパの象徴的君主制の復権は、とりもなおさず日本の天皇制を学んでいる、ということではないか、と私は考えます。下條助教授によれば、イギリスの研究者が現代日本の天皇制に強い関心を示していることは、政治学者の福田歓一が40年も間に指摘しているようです。


▽古代から行われた「権力の制限」

 橋本さんは、「20世紀から21世紀にかけて崩壊の道をたどったネパール王朝の歩みは他人事ではあり得ない。とくに皇太子が愛する相手を親たちに認めてもらえなかったことが王朝崩壊の引き金になった経緯を考えるとき……現在皇室を覆っている諸問題の解決に当たらねばと痛切に思う」と書いていますが、下條助教授の言葉を借りれば、「うかつ」そのものです。

 ネパール王制における「父子対立」「皇太子妃選定問題」を、いわゆる雅子妃問題と無理にでも結びつけ、君主制崩壊の要因を王室・皇室内部に見出し、他山の石とせよ、呼びかけているつもりでしょうが、独り相撲といわねばなりません。逆にネパールこそ、日本の天皇制に学ぶべきだったのです。

 橋本さんの誤りは、何度も繰り返し指摘したように、いわゆる雅子妃問題は、橋本さん自身が身を置くマスコミが、不作法にも、東宮のプライバシー暴きに血道を上げた、という外的要因をきっかけにしていることを見落としていることです。

 さらにもっと重要なこととして見落とされているのは、300年も継続せずに崩壊したネパール王制と古代から連綿と続く日本の天皇制との最大の相違点、すなわち、以前、指摘したように、王権の制限の有無かと思います。

 哲学者の上山春平が指摘しているように、日本は古代律令制の時代、すでに権力の制限が行われています。天皇がみずから権力を振るったのではなく、権力は官僚機構の頂点にある太政官に委任されました(上山『日本文明史』など)。近代においても、明治元年の五箇条の御誓文は最初に、「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ」と議会主義を宣言しています。

 政治の実権を握るネパール王制とも、「地上の支配者」とされるヨーロッパの王制とも異なります。

 さらに上山は指摘しています。プラトンは君主制と民主制とを兼備していなければ善い国家とはいえない、とし、アリストテレスは多くの国制が混合された国制ほど優れている、と書いた。つまり、奇しくも日本では、絶対君主制などとはまるで異なる、望ましい混合体制が古来、実現されてきたのでした。

 しかし、行動する天皇が時代を作り、時代を象徴するという、いわば「行動する天皇」論に固まる橋本さんには、違いが見えないのです。


▽戦争と平和の二元論に基づく観念論

 橋本さんはこの章の後半で、ネパールから視野を広げ、近世から近代の、とくにヨーロッパの王室の盛衰を解説するのですが、戦争と平和の二元論にもとづく、例の「新学習院」史観にしばられる橋本さんは、ますます観念論にみがきをかけています。

 ───世界はこれ以上戦争を起こす試みの持つ馬鹿さ加減に気がつき、何とか有限の資源を仲良く分配して生き延びようと模索し始めている。

 とんでもありません。戦後60年、世界のどこかでつねに戦闘がくりかえされてきたし、資源争奪戦はいよいよ激化しています。この冷厳な現実が、元通信社記者になぜ見えないのでしょうか。

 ───日本の皇室は20世紀に犯した帝国主義残滓の後追い時代をけっして再現させず、国の方向をコントロールして平和1点に固定するだけの勇気、胆力および権威をもって将来に望むのが理想的だ。

 どのような天皇観を持とうとも個人の自由ですが、天皇が行動する精神指導者として国をリードすべきであるというような考えは、橋本さん自身が否定する近代の天皇像そのものであり、論理が一貫しません。また、国際関係はまさに関係論であって、戦争か平和かは、一国の姿勢だけでは決まりません。それでも平和を祈り続けてきたのが天皇です。

 ───軍靴の音を聴くような時代をふたたび天皇が象徴するようであったら、我々に皇室は不要である。

 橋本さんの象徴天皇論は、天皇の文明が天皇のみによるのではなく、歴代天皇とわが祖先たちがともに築いてきたという歴史を見失っています。日本各地にはさまざまな天皇の物語が伝えられています。国と民のために祈る天皇がおられ、民たちのさまざま天皇意識があり、これらが1つになってこの国の平和と安定が続いてきたのだろうと私は考えます。橋本さんには民の論理が抜けています。それどころか、民の天皇意識を壊そうとけしかけている。それこそがまさに皇太子「廃太子」の勧めです。

 次回はひきつづき第6章を読みます。

「不戦の決意」が皇太子の役割か?───橋本明『平成皇室論』を読む その3 [橋本明]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2009年9月22日)からの転載です


 当メルマガはこのところ、皇太子殿下の「廃太子」を国民的な議論に、と呼びかける橋本明『平成皇室論』を取り上げ、批判しています。今週はそのつづきです。

 その前に、ひと言申し上げます。2016年夏期オリンピック開催に名乗りを上げている東京都とJOCが、オリンピック招致の切り札として、今年10月2日に開かれるIOC総会に皇太子殿下のお出ましを要請してきた件についてです。

 すでに伝えられるように、殿下がご出席になる可能性は消えたようですが、じつに情けないことに、それでも皇室利用のはかりごとがやむ気配がありません。


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「不戦の決意」が皇太子の役割か?
───橋本明『平成皇室論』を読む その3
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▽元皇族のJOC会長でも不十分なのか

 報道によれば、先週の16日、竹田恒和JOC会長は、殿下の総会出席が「難しい」との見通しを示しました。10月4日に長崎で開かれる育樹祭へのご出席が決まっている、という連絡が宮内庁からあったのだそうです。

 このメルマガが主張してきたように、オリンピック招致の熱意は十分に理解できるし、心から応援したいと思います。しかし、招致決定後ならいざ知らず、決定前の段階で、権謀うずまく国際スポーツ政治のただ中に皇室を引き込むようなことは、ものごとの順序が誤っています。

 そもそも昨年夏の段階で、話は曲がっていました。石原都知事は森元首相とともに福田首相を訪ね、皇太子殿下のご協力を正式要請したと伝えられました。不思議なことに、このとき福田首相が何と応じたのか、伝えられていません。本来なら、「それには及ばない。首相の私が全面協力する」といえば、足りることなのです。

 けれども、「永田ムラ」ならいざ知らず、国際政治の舞台では、元首相も現役の首相も知名度もなければ、力量もない。だからいきおい、皇族のお出ましを願う、という発想になるのでしょう。日本の政治家の資質が問われているのです。

 皇太子殿下のお出ましは避けられることになったものの、JOCは懲りずに、今度は高円宮妃殿下を担ぎ出そうとしています。どうあっても皇室のご威光が必要だということのようですが、JOCのトップは元皇族の竹田会長です。それでは不十分なのでしょうか。


▽今上陛下の東宮時代

 さて、橋本さんの『平成皇室論』の批判です。8月11日発行のvol.94では結論部分の第7章を読みました。つづくvol.95では第1章と第2章を検討しました。今週は第3章をひもとくことにします。

 第3章のテーマは、皇太子のご公務とは何か、です。

 橋本さんはまず、皇太子徳仁親王が「公務の見直し」を宮内庁に強く要求するなど、「時代に即した」東宮家のあり方を模索してきた、と理解します。もともと東宮家で定番となっている行事は、両陛下の東宮時代と変わらない。秋篠宮文仁親王が指摘したように、「受け身」の公務がほとんどだ。ご希望に添える、ふさわしい公務とは何か。「見直す」ためには、両陛下の足跡をたどらなければならない。両陛下も先帝の足跡をたどり、その手に余った願いを解きほぐし、ご自分らの時代に公務として実現、試行錯誤の末に新しい時代に沿う責務として切り開いてきたのである、という論理を展開し、今上陛下の東宮時代をエピソードたっぷりに振り返ります。

 橋本さんによれば、東宮職の原点は「敗戦」だといいます。習字の時間に明仁親王は「平和国家建設、文化国家建設」と大書した。ヴァイニング夫人と魂の交わりをした皇太子は、旧皇族旧華族を妃供給源と見なさなかった。親とはどういうものか想像すらつかなかった明仁親王は、ご成婚後、乳人(めのと)制度を廃し、食事の毒味を不要とした。両陛下が東宮時代に拓いた公務として大きいのは、「身障者」と「沖縄」だ、と指摘します。

 そのうえで、平成の東宮に求められているものは何か、と問いかけ、天皇の公務は憲法が規定している。皇太子は天皇が打ち立てた気風に適合してその責めを果たす責任がある。時代とは日本国憲法下のみで考えられるのであり、不戦の時代を生きる断固とした決意が求められる、と解説するのでした。


▽近代の枠組みから出ていない

 この章には橋本さんの「時代」観がよく現れています。章の最後は「時代の変化とは明治憲法下から現憲法に変わったときに大きく刻まれた。近代では幕藩体制から明治太政官制度に移行した時期をふくめ、二度の変化しか記録していない」とまとめられています。

 以前、書いたように、安倍能成院長が作詞した戦後の学習院の院歌は、「死」と「廃墟」から「不死鳥」のように蘇ることを歌い上げています。橋本さんの単純素朴な時代観は、この院歌を思い起こさせるのに十分です。であればこそ、「見直し」「時代に沿って」という皇太子殿下の言葉に強く反応したのでしょう。

 指摘したいことは、5点あります。

 第1は、橋本さんは旧憲法下の時代をきわめて否定的にとらえるのですが、じつのところ近代の天皇像の枠内から一歩も出ていません。つまり、橋本さんが暗黙のうちに認めている「行動する天皇」像は近代そのものです。

 たとえば、明治天皇の東北・北海道ご巡幸(明治14年)は稲作禁止から推進へという寒地農業政策の大転換点でした。民の前に姿を現すことがそれ以前にないわけではありませんが、国民の前で行動するのは近代の天皇そのものといえます。

 現在も同様です。いまの宮内庁は「皇室のご活動」と呼び、「ご日程」を公表していますが、英語表記では「activity」です。皇室がactionを起こすというイメージです。しかしそのようなあり方が、皇室の本来のあり方なのかどうか、よく考える必要があります。


▽憲法がご公務の根拠とはならない

 第2に、同様にして、橋本さんのように、天皇個人に時代を象徴させ、時代を区分するという、一世一元的発想も近代そのものです。

 橋本さんは「陛下の級友」という個人的体験の印象が強すぎるからなのか、個人レベルではない、たかだか数十年単位の物差しでは計れない、悠久なる歴史的存在としての天皇が見えないようです。

 第3は、橋本さんは、再三、「現行憲法を守り」を強調していますが、憲法を基本に考えるのなら、憲法7条に列記された国事行為以外の「天皇の公務」はあり得ないし、法的根拠のない皇太子の公務を想定する必要もありません。

 橋本さんが言及するインターハイのご臨席など「8大行啓」は憲法のどこにも規定がありません。ましてや、それ以外に皇室が積極的に、主体的に、時代の象徴として、「公務を拓く」根拠はどこにあるのか。橋本さんの文章には説明が見当たりません。

 別ないい方をすると、橋本さんの平和憲法論からは、東宮時代にさかのぼる今上陛下の「新しいご公務」は説明できないと思います。ご公務を語る議論の枠組みを見誤っているのです。

 ご存じのように、「内閣の助言と承認」(憲法)に基づく10項目の国事行為は憲法に明記されています。けれども、天皇や皇太子がなさるがゆえに「ご公務」とよばれるお務めの根拠は、憲法以前の皇室の歴史と伝統から導かれていると見るべきでしょう。

 究極的には、それは、橋本さんが「遊び」(第4章)と理解する祭祀です。多様なる国民を多様なるままに統合する天皇の祭りの機能です。


▽はるかに次元の高いところに

 第4に、橋本さんは「天皇に私なし」という大原則が理解できずにいるようです。

 橋本さんは、明仁親王が、親とはどんなものか想像すらつかなかった、と述べています。学習院高等科時代、発禁小説を回し読みしたとき、橋本さんの父親は涙を浮かべて説教したのでしたが、その話を聞いた明仁親王は「父親ってそういうものなのか」というひと言だけだったというのです。

 橋本さんは、乳人制度のなかで、たった1人で生活されてきた明仁親王は、温かい家庭を知らない不幸な人間だ、というイメージでとらえています。しかしそうではないでしょう。封建的悪弊ではなくて、公正無私なるお立場ゆえの乳人制度だったはずです。

 最後に、それなら皇太子のご公務とは何か、です。

 前にも書いたことですが、殿下は、平成の時代の「見直し」のうえに、新しいご公務を考えようとされているのではありません。私なき立場で「国平らかに、民安かれ」とひたすら祈られることが天皇第一のお務めであることを十分に理解され、そのうえで新しい時代の公務のあり方を模索されているのだと思います。

 たとえば平成13年のお誕生日会見で、殿下は「公務の内容も時代ごとに求められるものがある。時代に即した公務の内容を考えていく必要がある」と答えられたあとに、「その根底にあるのは国民の幸せを願っていくことだと思う」と続けています。

 ご公務とは何か、という議論は、憲法問題も含むことであって、皇室任せにすべきことではないと考えます。少なくとも「不戦の時代を生きる断固とした決意……」(橋本さん)というような次元をはるかに超えたところに、本来のお務めはあるはずです。

 次回は、引き続き第4章を読みます。

1 真正面の論争を避けた橋川文三──知られざる「象徴天皇」論争 その2 [橋本明]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2009年8月25日)からの転載です


 橋本明『平成皇室論』の批判を続けます。

 前号から当メルマガは、約50年前、「思想の科学」誌上で展開された、戦後唯一の神道思想家といわれる葦津珍彦(あしづ・うずひこ)と明治大学教授(政治学、政治思想史)で評論家の橋川文三との天皇論論争について紹介しています。

 目的は、一方で政治体制の歴史を世界史的に一様にとらえ、その一方で、国の安定性の要因を君主の倫理性に求める橋本さんの皇室論の誤りを浮き彫りにするためで、前号ではまず、同誌昭和37年4月号に載った葦津論文を取り上げました。


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1 真正面の論争を避けた橋川文三
 ──知られざる「象徴天皇」論争 その2
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▽前号のおさらい
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 軽くおさらいすると、天皇制擁護の立場で書かれた葦津の論文は、

(1)敗戦国の王朝はかならず廃滅し、共和制に移行するというドグマ、

(2)個別性を無視し、世界の君主制をいっしょくたに論ずるドグマ、

(3)国民意識の多面性に目を向けずに、もっぱら倫理的に理解する学者たちの国体論のドグマ、

 に対して、痛烈な懐疑を呈し、

(ア)「君主制が少なくなり、やがて日本も共和国になる」という一般的公式を立て、具体的事実を無視し、具体的な国の運命を抽象理論で予見しようとするのは浅はかである

(イ)日本のいまの天皇制ははるかに非政治的で非権力的であるが、無力を意味しないどころか、もっとも強力な社会的影響力を持ち、もっとも根強い国民意識に支えられている

(ウ)日本の国体はすこぶる多面的で、抽象理論で表現するのは至難なほどである。国民の国体意識は、宗教的意識や倫理的意識と割り切れず、さまざまの多彩なものが潜在する。政治、宗教、文学、すべてのなかに複雑な根を持つ根強い国体意識が国および国民統合の象徴としての天皇制を支えている

 と指摘するのでした。


▽歴史上の2つの問題

 同誌編集委員会は「異なった立場を積極的にぶつけ合い、そこからお互いの思想のより着実な成長と実りを求める、という思想の科学研究会の精神に立って、天皇制支持の葦津氏の論文を掲載」(37年4月号)したのですが、今度は、葦津論文批判を書くように、と橋川に要請します。そして、同年8月号に、橋川文三の反論が載りました。

 けれども結論からいえば、橋川の論文は反論といえるようなものではありませんでした。橋川は論考の冒頭に「葦津論文は、そのままではとくに反論を必要とする性質の論考でもないように思う」と記しているほどです。まるで真正面からの論争を避けているかのようです。

 橋川はその理由を葦津論文においています。すなわち、葦津論文は「国体論そのものとしては、有効な論争の契機を提示していない」。葦津自身、「国体意識の根強く広く大きい事実について、注意を促し、国体研究の必要を力説したに過ぎない」「この論文は討論開始の序曲であり、国体論の本論ではない、と断っている」からだというのです。

 橋川は、葦津が書いたほかのミニコミ雑誌の論文にも目を通し、それらが「むしろ論争のためにはより適当な対象だった」と認識しながらも、「ふれる余裕がなかった」として言及しませんでした。

 そして、政治史的視角を示さず、非歴史的な比較制度論に傾斜している、と橋川が見る「思想の科学」に掲載された葦津論文の指摘に直接、反論するのではなくて、「やや場違いとも思われる歴史上の問題を序論的に提出する」のでした。

 その「歴史上の問題」とは、「明治憲法の天皇制は、民族信仰の伝統の上に成立したものなのか」「かつての日本植民地の人々にとって『国体』とは何だったか」という、2つの命題です。


▽作られた「国家の基軸」

 橋川は、葦津のように比較制度論や社会心理学の立場から国体=天皇の問題をアプローチするにしても、少なくともこの2つの問題を避けては意味がない、と指摘します。真の保守主義者はこの2つの問題から学ばなければならないというのです。

 つまり、橋川は、まず第1に、以下のように指摘します。

1、明治維新は上からの革新であった。それまでの日本人の生き方になかった要素を加えることだった。混沌とアナーキーのなかから1つの秩序を創出するダイナミックな課程であり、「無」からの想像という劇的場面にほかならず、「国体」価値の創造もこの過程で行われた。

2、伊藤博文らが起草した明治憲法は、混沌状態を収束する権力政治上の意味を負わされていただけでなく、国民的統合の創出を最大の任務としていた。それは現代では想像もつかない困難な課題であった。「国家の基軸」とすべきものが欠如していたからである。

3、そこで、伊藤は自然的存在としての国体から憲法を作ろうとしたのではなく、逆に国体の憲法を作ろうとした。学校や鉄道、運河と同じように、「国民」を作り、「貴族」を作り、そして「国家の基軸」を創出した。近代国家となるには、自然的・伝統的天皇と異なる超越的統治権者の創出が必要だった。

4、この国体は、民衆の宮廷崇拝やおかげ参りの意識とは異質のものだった。

 要するに、近代天皇制は、悠久の天皇史とは異なる、明治時代にでっち上げられたものだ、というのが橋川の指摘です。


▽膨張主義的規範

 2つ目の問題は、国体がかつての日本帝国の「新版図」において、どのような意味を持ったか、です。天皇=国体の意識が異民族に対してどのような特質をあらわしたか、確かめる必要がある、と橋川は指摘するのでした。

 つまり、

1、明治の領土拡張のあと、国体は普遍的価値として、「八紘一宇(はっこういちう)」の根源的原理として現れている。単に日本の歴史的特殊事情に基づく国柄という域を超え、人類のための当為(とうい)─規範の意味を帯びるに至った。膨張主義的規範であった。

2、国体論は、「帝国主義」権力そのものの神義論という本質をもっていた。宗教と政治の無差別な一体性の空間的拡大ということが日本の帝国主義の顕著な特質であった。日本の「国体論」はこの百年の歴史について責任を負っている。

3、「国体」が「征服・闘争・帝国主義」のシンボルに逆行しないために、我々は「国体」の自然化を戒める必要がある。そのために、葦津氏と同様、私も「国体研究の必要」を力説したい。

 要するに、どぎつく表現すれば、天皇制こそが海外侵略の血塗られた元凶(げんきょう)だ、という指摘でしょう。

 この反論になっていない橋川論文に対して、葦津は翌38年1月号で、いみじくも「反論ではなく、感想のようである」と指摘したうえで、葦津自身は真正面から反論を加えます。詳しくは次号にゆずりますが、予告的に少しお話しすると、葦津はおおむね次のように橋川論文を批判するのでした。

──日本人の国体論というものは途方もなく複雑で、まったく相反するような多様な思想が錯綜(さくそう)している。橋川氏があげた2つの例のほかにも、大切なものがあるだろう。これを整理し、論理づけるのは容易ではないが、2、3の事例だけで思想史を割り切ってしまっては「思想の科学」は成り立たないだろう。

 簡単にいえば、歴史のつまみ食いでは、科学にならない、というのが葦津の反論です。

 同じことは、橋本さんにもいえそうです。

2 知られざる「象徴天皇」論争 その1 [橋本明]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2009月8月11日)からの転載です


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 2 知られざる「象徴天皇」論争 その1
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▽共通する前提
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 橋本明さんの『平成皇室論』は、その背景に、独特の「象徴天皇」論と直線的社会発展論とが結びついているように、感じられます。

 橋本さんは一方で、戦後、日本国憲法下の象徴天皇は両陛下がお二人の協力で編み上げてこられたもので、無から有を生み出すようなご苦労があった、と解説し、その一方で、基本的人権尊重の流れがイギリスの名誉革命にはじまり、アメリカ、フランスを経て、戦後の日本に到達した、という単線的な歴史観を提示します。

 そのうえで、民衆に逆らう王制で長続きした例はない。民主主義が最後に到達した日本で天皇制が存続できるかどうか、今後の皇室の命運は皇室自身の倫理的身の処し方に関わっている、という論理で、象徴天皇制の継承のために、東宮の「廃太子」を勧めています。

 つまり、政治体制の歴史を世界史的に一様にとらえるとともに、国の安定性の要因を君主の倫理性に求める姿勢です。

 橋本さんの皇室論に対して、例の西尾幹二先生のように、同調者が少なくないのは、前提としての歴史理解などに共通するところがあるからなのでしょう。それなら、この考え方は妥当なのか。私は違うと思います。

 何がどう違うのか、を説明するのに、参考になりそうな戦後の知られざる論争をご紹介します。いまから約50年前の雑誌「思想の科学」上での論争です。


▽雑誌「思想の科学」の「天皇制」特集号

 論争は「思想の科学」事件とよばれる出来事と直接関係しています。評論家の鶴見俊介らが編集する同誌は何度か発行元の出版社が代替わりし、昭和34(1959)年からは中央公論社から発行されていました。

 事件が起きたのは、36年暮れ。「天皇制」を特集する12月号を、出版社が編集者の了解を得ないまま裁断してしまったというのです。

 藤田省三、掛川トミ子、福田歓一などによる天皇制に批判的な対談、論文のなかに、1本だけ天皇制擁護の立場で書かれた論文が混じっていたことから、掲載を躊躇(ちゅうちょ)する版元が自己規制したというのが、事件の発端だったようです。

 その後、編集者たちはみずから思想の科学社を設立し、自主的出版の道を模索します。創刊号は幻の「天皇制」特集号でした。そして、論争がはじまりました。戦後唯一の神道思想家といわれる葦津珍彦の天皇制擁護論と明治大学教授(政治思想史)で評論家の橋川文三との天皇論論争です。

「国民統合の象徴」と題された葦津の記事は、「戦争と敗戦を通じて、日本の天皇制は根強い力を立証した」と、並み居る天皇制反対論者に対して、じつに挑戦的な書き出しではじまります。


▽変わらなかった国民の天皇意識

 葦津の議論は、当時、一般的に流布してきた通俗論的天皇論に痛烈な懐疑を投げかけるものでした。つまり、(1)敗戦国の王朝はかならず廃滅し、共和制に移行するというドグマ、(2)個別性を無視し、世界の君主制をいっしょくたに論ずるドグマ、(3)国民意識の多面性に目を向けずに、もっぱら倫理的に理解する学者たちの国体論のドグマ、です。

 この葦津の指摘は、橋本さんの戦後象徴天皇論にも、じつによく当てはまります。

 具体的に見てみると、葦津は次のような議論を展開しています。

1、敗戦国の王朝はかならず廃滅するものと信じられていたが、日本でのみ例外が見られた。日本では国民投票に問うべきだという主張もなかった。天皇制反対派は愚劣にも外国の軍事裁判の権力によって天皇制を傷つけようとしたが、国民の天皇意識は動かせなかった。占領軍当局は干渉を試みたが、大衆の国体意識を抹殺(まっさつ)することはできなかった。

2、ライシャワーが認めるように、日本国民の天皇意識は「目に見える天皇」がなくなっても変化しがたい。根強い国民意識の支持条件の上に立つ天皇制と、イタリアなどの王制を抽象的形式論で同一視すれば、例外が出てくるのは当然である。

3、「君主制が少なくなり、やがて日本も共和国になる」という一般的公式を立て、具体的事実を無視し、具体的な国の運命を抽象理論で予見しようとするのは浅はかである。


▽個別の歴史の事実を無視している

 橋本さんはたぶん、日本の天皇制は敗戦によっていったん滅びたという認識なのでしょう。現行憲法下の日本は共和制国家であり、そのもとに新たに誕生したのが象徴天皇制である、という理解なのだと想像します。つまり昭和20年8月に革命が起きたとする、憲法学者・宮沢俊義流の8月革命説です。

 しかし葦津の指摘にしたがえば、それは抽象的形式論に過ぎず、歴史の事実とはほど遠いことになります。敗戦の前後に国民の天皇意識に、イタリア王制に見られるような変化がないからです。

 蛇足ですが、昭和21年元日に「新日本建設に関する詔書」が出されました。天皇が神であることをみずから否定した「人間宣言」と理解されていますが、木下道雄侍従は、『国体の本義』(文部省編集、昭和12年)などに明記された天皇=現御神(あきつみかみ)とする理解に誤りがある、と『宮中見聞録』で指摘しています。敗戦によって現人神(あらひとがみ)が人間天皇に変わったのでもありません。

 橋本さんの皇室論は、君主制は必然的に共和制に移行する、と考える歴史必然論に支えられているよう見えますが、葦津は完全に否定しています。個別の歴史の事実を無視しているというのです。

 以前、このメルマガで書いたように、君主制から民主制へ、さらに革命運動を経て社会主義社会が実現される、という社会発展説が無邪気に信じられた時代がありましたが、20世紀末には逆に、革命国家のソ連が崩壊しました。それどころか、いまロシアで起きているプーチンの強権政治は、まるでツァーリズムの先祖返りです。

 橋本さんは、あたかも日本がヨーロッパにはじまる民主制の終着点であるかのように書いていますが、逆にヨーロッパの王制はいま、日本の天皇制のように、象徴君主制化しているという実態を見ることができます。

 葦津が指摘するように、抽象的形式論のドグマから抜け出る必要があります。


▽多彩な国民意識が天皇制を支えている

 葦津の議論は続きます。

4、日本のいまの天皇制ははるかに非政治的で非権力的だが、無力を意味しない。もっとも強力な社会的影響力を持ち、もっとも根強い国民意識に支えられている。

5、仮にいま日本が共和国形式をとると仮定しても、岸信介や池田勇人程度の大統領より、はるかに天皇制の方がよいと日本人は信じて疑わない。国民の過半数の票を集めたとしても、国民の実感が承知しない。国民のあいだに動かしがたい国体意識があるからである。

6、その国体意識とは何か。美濃部達吉博士は「万世一系の天皇を中心として戴き、他国にないほどの尊崇忠誠を致し、天皇は国民を子のごとく慈しみたまい、君民一致する事実を指す」と力説しているが、これに限らず学者の国体論は倫理主義的な狭さを感じさせる。

7、私の考えでは、日本の国体はすこぶる多面的で、抽象理論で表現するのは至難だと思う。たとえば、天皇の地方行幸や東宮結婚などに具体的な風景から暗示される国民の国体意識は、宗教的意識や倫理的意識と割り切れるものではない。たぶんさまざまの多彩なものが潜在する。絶大な国民大衆の関心を引きつける心理的な力。これが国および国民統合の象徴としての天皇制を支えている。

8、この根強い国体意識は政治、宗教、文学、すべてのなかに複雑な根を持っている。その日本人の心理の具体的な事実を見ずして「君主制批判」という抽象理論で天皇制の将来を予想するなど愚かである。この地上からトランプの4つの王が消え失せるとも、日本の天皇制は繁栄し続けるであろう。


▽日本人は変わったか

 橋本さんの皇室論は、皇位を継承する皇太子のみならず、妃殿下にまで徳をきびしく要求します。高い徳を有することによって象徴天皇像の継承が可能だ、と訴えるのですが、葦津の記事によれば、天皇制を安定的に支えているのは、天皇・皇族の倫理性ではなく、逆に国民の根強い国体観念です。

 のちに駐日アメリカ大使となるライシャワーは「臣民の態度は、外国の命令で天皇と皇族とを取り除いても、変わらないだろう」(『太平洋の彼岸』)と述べているようです。たとえ「目に見える天皇」がいなくなっても国民の天皇意識が動かしがたいほど強力なのだとすれば、橋本さんのような倫理的要求は無意味です。

 実際、天皇不在の空位期間がのべ100年間におよぶことを葦津は指摘しています。その間、日本人の国体観念なるものが変化したということは聞きません。

 問題は、昭和20年8月に革命が起き、天皇は現人神から人間に変わった、などとバーチャルな歴史観を吹き込まれた戦後の日本人自身の「国体観念」のありようです。葦津の雑誌記事から約50年、日本人は変わってしまったのかどうかです。その意味で、橋本さんの皇室論に対する読者の反応に興味をそそられます。

 次回は、橋川文三の葦津論文批判について書きます。

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