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<title>斎藤吉久のブログ</title> 
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<modified>2020-03-16T21:19:24Z</modified> 
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<tagline><![CDATA[神代の時代につながるほど古い歴史を持ち、１つの王朝が連綿と続いている君主制の国は日本だけです。天皇はなぜ存在し、どのように存在すべきなのか、日本で唯一の宗教ジャーナリストが考えます]]></tagline> 
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<title>男系主義の根拠が理解できない。園部逸夫vs御厨貴「週刊朝日」対談が示してくれた現代知識人のお寒いレベル</title> 
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  <modified>2020-03-16T21:19:24Z</modified> 
  <issued>2020-03-08 16:52:16+09:00</issued> 
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<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2020-03-08">
<![CDATA[
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇<br />
<strong><span style="font-size:large;">男系主義の根拠が理解できない。園部逸夫vs御厨貴「週刊朝日」対談が示してくれた現代知識人のお寒いレベル</span></strong><br />
《斎藤吉久のブログ　令和2年3月８日》<br />
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇<br />
☆★おかげさまで、so-netブログのニュース部門で、目下、ランキング９位（５９５０ブログ中）★☆<br />
<br />
<br />
「週刊朝日」（電子版。AERA dot.）３月２日号に、皇位継承問題に関する園部逸夫氏と御厨貴氏の対談が載っています。園部氏は小泉内閣時の皇室典範有識者会議の座長代理、元最高裁判事、法律家。御厨氏は公務負担軽減有識者会議（「生前退位」有識者会議）の座長代理、元東大教授、政治学者。現代日本を代表する、とくに皇室問題に詳しいと思われる知識人同士の対話です。<br />
<br />
前編の『安倍政権が「愛子天皇論」を封印！？　皇位継承議論に「40年はやらない」の声』と後編の『天皇「男系派」の根拠はあいまい？　皇位継承問題は今後どうなる』を合わせて量的には分厚い内容ですが、ほとんど中身らしいものはなく、肩透かしを喰らったような印象を受け、ため息が出ます。<br />
<br />
なぜそう思うのか、おふたりの発言を拾いながら、検討します。<br />
<br />
<br />
<strong>▽１　議論のすり替え</strong><br />
<br />
対談は前編では、まず皇位継承論議に関する最新の動きについて、御厨氏が解説します。菅官房長官の「『立皇嗣の礼』のあとに具体的な論議を行う」との発言は「実は否定の意味」で、「40年はやらない」。「総裁任期は21年9月で終わる。皇室典範改正など新しいことに手をつける気はない」というわけです。<br />
<br />
ここまでは腰の重い安倍政権への批判姿勢を鮮明にする、いわばプロローグで、このあと編集部が「上皇直系の内親王は3方」と仕向けて、ようやく本論が始まります。<br />
<br />
園部：女性皇族は、結婚によって民間に出る以上、数の減少を止めるには、「女性宮家」創設の議論は避けられない。<br />
御厨：どうも政権は、皇族の減少がギリギリに追い込まれるまで何もせず、最後に、「エイヤッ」とやってしまおうと思っている節がある。<br />
<br />
ご両人は女系継承容認、「女性宮家」創設が好ましいと最初から思い込んでいるようですが、なぜでしょう。対談はこれまでの経緯を振り返ります。<br />
<br />
園部：野田内閣は、12年秋に論点整理をまとめた。しかし、「女性宮家」に、皇室に「誰かわからない人」が入ってくる可能性があるということで反発が強く、結局お蔵入りしてしまった。あれだけエネルギーをかけて論議したにもかかわらず、非常にもったいない。<br />
<br />
野田内閣時の有識者ヒアリングでは、女性皇族の婚姻後の身分問題を検討する目的は、（１）皇室の御活動の安定的維持と（２）天皇皇后両陛下の御負担の軽減にありました。野田内閣参与の園部氏もくどいように、そう説明していたはずですが、この対談では見事に皇位継承問題にすり替えられています。<br />
<br />
というより、本当の目的が皇位継承問題であることを、野田政権も園田氏もずっと隠蔽し、誤魔化してきた。ついにいまになって隠しきれず、本音が出たのでしょうか。ご公務問題なら、ご公務の件数を思い切って軽減すれば済むことです。「女性宮家」は明らかに論理の飛躍です。憲法は天皇は国事行為のみを行うと定めているはずです。ご公務に明確な法的根拠はありませんから、なおのことです。<br />
<br />
　【関連記事】<strong>〈短期集中連載〉「女性宮家」創設賛否両論の不明　第３回──月刊「正論」２５年２月号掲載拙文の転載</strong>〈<a href="https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2013-02-03-1" target="_blank">https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2013-02-03-1</a>〉<br />
　【関連記事】<strong>支離滅裂なり!! 「女性宮家」創設の「論点整理」──変質した制度改革の目的意識</strong>〈<a href="https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2012-10-14-1" target="_blank">https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2012-10-14-1</a>〉<br />
<br />
<br />
<strong>▽２　皇室のルールを完全無視</strong><br />
<br />
対談は「女性宮家」創設反対論批判に展開し、眞子さま問題に言及します。<br />
<br />
御厨：「旦那さんは誰？」という警戒は、「女性宮家」でも「女性天皇」でも起こる。「男系派」は、男性が皇室に入ることを非常に嫌う。<br />
園部：眞子さまの交際問題では、一番まずいのは、国民の皇室への尊敬と敬愛の念を失ってしまうということだ。皇族の人数を保つ策として「女性宮家」をつくろうと言っていたのに、「どうぞ、早くご結婚なさって」という声につながりかねない。<br />
<br />
両氏とも婚姻相手の個性が問題の原因と捉えていますが、矮小化です。女性宮家創設を認め、女系継承に道を開くことは、古代から続く皇統の変更をもたらす。それは許されないというのが反対論の最大の理由です。<br />
<br />
最高裁判事や東大教授を務めた日本を代表する知識人にそれが分からないはずはないでしょうに。あまつさえ、皇統の変更など別段構わないとお考えなのか、男系継承を完全に拒否しています。というより、はじめから皇室のルールなど眼中にないのでしょう。<br />
<br />
「女性天皇・女系天皇への途を開くことが不可欠」と結論づけた皇室典範有識者会議報告書が、「はじめに」で、さまざまな天皇観があるから、さまざまな観点で検討したと説明しつつ、それでいて、もっとも肝心な、皇室自身の天皇観、皇室にとっての継承制度という視点、すなわち天皇は古来、公正かつ無私なる祭り主であるという観点を完全に無視していたことを思い出させます。<br />
<br />
　【関連記事】<strong>混迷する「女性宮家」創設論議の一因──古代律令制の規定を読み違えている？</strong>〈<a href="https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2012-03-18?1583650057" target="_blank">https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2012-03-18?1583650057</a>〉<br />
<br />
御厨：この流れになると、「旧皇族の復帰」という声も出てくる。適齢期の男性がいるならば、「女性天皇」や「女性宮家」のお相手に、という話だ。<br />
園部：今は完全な民間人として暮らす方たちが皇室に戻るとなると、ご本人たちがそんな生活を望むのかという問題もある。加えて、ひとりでも復帰の前例ができれば、「血がつながっている」ことを論拠にして、どの範囲まで手が挙がるかわからない。<br />
御厨：もうひとつ、いま議論が進まない背景には、アクションを起こせば、強い抵抗を受けるという現状がある。<br />
<br />
歴史を振り返れば、２６代継体天皇は先代武烈天皇の姉妹を皇后とし、１１９代光格天皇は先代後桃園天皇の皇女を中宮とされたのであり、その逆ではありません。そんなことはご両人には釈迦に説法でしょうに、それでも過去の歴史にない「女性宮家」創設や女系継承に一心不乱に挑もうとするのはなぜですか。<br />
<br />
皇室は日本の歴史そのものです。歴史を無視し、歴史を変えようとすれば、「強い抵抗」かを受けるのは当然ではないですか。<br />
<br />
<br />
<strong>▽３　陳腐な男女平等論</strong><br />
<br />
ところが、お二人はそうは考えようとしません。後編の冒頭で園部氏が言い放ちます。<br />
<br />
園部：有識者会議で議論はし尽くしているから、問題はやるかやらないか。政府であれ野党であれ、天皇問題に手を突っ込むと、散々攻撃されるから嫌がっているだけ。<br />
　しかし、手をつけないと、刻一刻と皇統が衰退へと向かう。改革と議論を攻撃する人たちは、本当に皇室の未来を保とうとしているのか。<br />
<br />
それほどの危機感があるなら、男系男子の絶えない制度をなぜ模索しようとしないのでしょう。危機を煽って、一気に女系継承に突き走るのは論理的とはいえません。<br />
<br />
園部：男尊女卑の価値観が残るなかで、「女性宮家」や「女性・女系天皇」について話し合うのは、なかなか困難だろう。<br />
<br />
男女平等問題ではないことはこれまで何度も何度も言及してきました。過去に女性天皇が存在しないのではありません。夫があり、妊娠中、子育て中の女性天皇が存在しないのです。女性ならば、民間出身であっても皇后となり、摂政ともなれます。これは男女差別でしょうか。<br />
<br />
そして対談はいよいよ核心に迫ります。<br />
<br />
御厨：男系男子でなければ「困る」の根拠がいまいち明確でない。「皇統は男系で続いてきたから男系であるべき」以上の根拠が出ない。<br />
園部：例えば、日本の皇室が範としてきた英国王室に君臨するのは、エリザベス女王だ。英国は、日本では想像できないほど厳格な階級社会だ。だけど、階級の頂点に位置する王室のトップが女性であることを、英国民は受け入れている。<br />
　これは王室を継ぐのは、「血筋の近さ」であって、男であるか女であるかは重要ではないことを証明している。<br />
<br />
お二人は政府の有識者会議などに関わり、多くの資料に目を通しているはずですが、どうやら基本中の基本をご存知ないようです。座長代理を務めるような御仁にそんなことがあるんでしょうか。まったくの驚きです。<br />
<br />
明治の時代には女帝容認は火急の案件でしたが、否定されました。なぜなのか、近代史を学んだことがないのでしょうか。ヨーロッパの王室なら王族同士が婚姻し、女王即位の後は王朝が交替します。だからこそ、明治人はヨーロッパ流の継承制度を学ばなかったのではないのですか。<br />
<br />
　【関連記事】<strong>女系は「万世一系」を侵す──「神道思想家」葦津珍彦の女帝論</strong>〈<a href="https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/1998-12-01" target="_blank">https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/1998-12-01</a>〉<br />
　【関連記事】<strong>基本を忘れた女系継承容認論──小嶋和司教授の女帝論を読む</strong>〈<a href="https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2011-12-31" target="_blank">https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2011-12-31</a>〉<br />
<br />
このあと対談は、男系主義は政府が受け入れているだけで、国民の大半は女性天皇を容認している（園部氏）。時代は変わっているが、典範改正は安倍政権の次の政権でも無理だろう（御厨氏）、などという政局論が続いています。<br />
<br />
結局、いみじくもタイトルに示されている「男系主義の根拠」こそが問われているのに、歴史論的に深めることもせず、あるいはできずに、陳腐な男女平等論で終わっています。政府の有識者会議の議論なるものはこの程度だったのでしょうか。背筋が寒くなる思いがします。<br />
<br />
最後に蛇足ながら、こんなお寒い日本の知識人のレベルを白日のもとに晒してくれた「週刊朝日」編集部に心から感謝したいと思います。これではまともな議論が期待できるはずもないことがよくよく分かります。<br />
<br />
<br />
<strong>斎藤吉久から</strong>＝当ブログ〈<a href="https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/" target="_blank">https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/</a>〉はおかげさまで、so-netブログのニュース部門で、目下、ランキング９位。アメーバブログ「<strong>誤解だらけの天皇・皇室</strong>」〈<a href="https://ameblo.jp/otottsan/" target="_blank">https://ameblo.jp/otottsan/</a>〉でもお読みいただけます。読了後は「いいね」を押していただき、フォロアー登録していただけるとありがたいです。また、まぐまぐ！のメルマガ「<strong>誤解だらけの天皇・皇室」</strong>〈<a href="https://www.mag2.com/m/0001690423.html" target="_blank">https://www.mag2.com/m/0001690423.html</a>〉にご登録いただくとメルマガを受信できるようになります。<br />
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<title>天皇とは何だったのか。どこへ向かうのか。肝心なことを伝えないお誕生日会見報道</title> 
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  <modified>2020-03-16T21:19:24Z</modified> 
  <issued>2020-03-01 14:58:51+09:00</issued> 
  <id>tag:blog.ss-blog.jp,2020:saitoyoshihisa.111643166</id> 
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<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2020-03-01">
<![CDATA[
<br />
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇<br />
<strong><span style="font-size:large;">天皇とは何だったのか。どこへ向かうのか。肝心なことを伝えないお誕生日会見報道</span></strong><br />
《斎藤吉久のブログ　令和2年3月1日》<br />
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇<br />
☆★おかげさまで、so-netブログのニュース部門で、目下、ランキング１０位★☆<br />
<br />
<br />
先月２３日は今上天皇の６０歳のお誕生日でした。皇位継承後はじめての天皇誕生日で、昭和天皇以来、恒例となっているお誕生日会見で何を語られるのか、注目が集まりました。<br />
<br />
昭和、平成とは異なり、いまや完全なネット社会で、会見の模様は宮内庁ほか各メディアが全文を、動画も含めて、サイトに掲載するようになりました。〈<a href="https://www.kunaicho.go.jp/page/kaiken/show/30" target="_blank">https://www.kunaicho.go.jp/page/kaiken/show/30</a>〉<br />
<br />
しかし、新聞・テレビの報道は字数の制限がありますから、当然、部分的な要約にならざるを得ません。会見の質疑応答はきわめて多岐にわたり、盛り沢山で、それだけに報道する側の問題関心のポイントが浮き彫りになります。<br />
<br />
そしてやっぱり肝心なことが読者には伝わらないという結果を招いているようです。天皇とは何だったのか、皇室はどこへ向かおうとしているのか、です。<br />
<br />
<br />
<strong>▽１　象徴天皇像の追求</strong><br />
<br />
<strong>朝日新聞</strong>（電子版。以下同じ）は、『天皇陛下「もうではなくまだ還暦」　即位後初の誕生日』（長谷文、中田絢子記者）、『天皇陛下、言葉ににじむ理想　これまでの会見を振り返る』（同）を載せています。<br />
<br />
前者は『象徴天皇としての今後について「研鑽を積み、常に国民を思い、国民に寄り添いながら、象徴としての責務を果たすべくなお一層努めてまいりたい」と言及。「憲法を遵守し、象徴としての務めを誠実に果たしてまいりたい」とも語った』と、現行憲法下での象徴天皇像を追求されることを表明されたことになっています。<br />
<br />
後者では、即位後のご感想、御代替わり儀礼についてのお考え、家族について、皇室の現状について、など各テーマを取り上げてご発言を要約し、さらに過去のご発言と比較するというきめ細かい報道に努めています。<br />
<br />
そして、『国民と共にある皇室――。理想とする皇室像について問われるたび、陛下は同じ言葉を繰り返した』『この考えの原点となったのが、20代半ばに約2年間留学で滞在した英国だ』『皇太子として最後の会見（2019年2月）では「国民の中に入り、国民に少しでも寄り添う」ことを大切にしたいと決意を述べた』と結んでいます。<br />
<br />
記事には事実として間違いはありません。けれども重大な一点が抜けています。朝日の記事では今上天皇が憲法を最高法規とする象徴天皇像を追求するご決意を述べられたかのように読めますが、事実は違います。<br />
<br />
今上は会見の冒頭から、『上皇陛下のお近くで様々なことを学ばせていただき』『歴代の天皇のなさりようを心にとどめ』と仰せになり、『上皇上皇后両陛下』を何度も繰り返されました。憲法への言及は第２問への返答の最後に行われています。記事には「上皇」「歴代」はありません。悠久なる伝統の継承が無視されているのです。<br />
<br />
<br />
<strong>▽２　単純な護憲派ではない</strong><br />
<br />
平成の時代にも同じような報道がありました。陛下や皇太子殿下（今上天皇）のご発言の一部を取り上げ、まるで護憲派政党のシンパでもあるかのように持ち上げ、改憲勢力を牽制する文字通り、錦の御旗に利用したのです。政治的、恣意的です。<br />
<br />
　【関連記事】<strong>護憲派の「象徴」に祭り上げられる皇室──部分のみ報道するメディア</strong>〈<a href="https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2014-03-02" target="_blank">https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2014-03-02</a>〉<br />
<br />
たとえば、太上天皇は平成２１年１１月、御即位２０年の記者会見で、「長い天皇の歴史に思いを致し，国民の上を思い，象徴として望ましい天皇の在り方を求めつつ，今日まで過ごしてきました」とお答えになっています〈<a href="https://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/kaiken/kaiken-h21-gosokui20.html" target="_blank">https://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/kaiken/kaiken-h21-gosokui20.html</a>〉。<br />
<br />
今上天皇も、皇太子時代から機会あるごとに、皇室の伝統と憲法の規定の両方を追い求めることを表明してこられました。たとえば、平成２６年、５４歳のお誕生日には次のように語られました。<br />
<br />
『公務についての考えにつきましては，以前にも申しましたけれども，過去の天皇が歩んでこられた道と，天皇は日本国，そして国民統合の象徴であるとの日本国憲法の規定に思いを致して，国民の幸せを願い，国民と苦楽を共にしながら，象徴とはどうあるべきか，その望ましい在り方を求め続けるということが大切であると思います』〈<a href="https://www.kunaicho.go.jp/okotoba/02/kaiken/kaiken-h26az.html" target="_blank">https://www.kunaicho.go.jp/okotoba/02/kaiken/kaiken-h26az.html</a>〉<br />
<br />
太上天皇も今上天皇も、単純な護憲派ではないのです。<br />
<br />
朝日新聞の長谷、中田両記者には、皇室をどうしても護憲派に仕立て上げなければならない特別の事情がおありなのでしょうか。<br />
<br />
といっても朝日の報道ばかりを責め立てられません。<strong>読売</strong>は『「象徴の道、始まったばかり」…天皇陛下６０歳に』、<strong>毎日</strong>は『天皇陛下60歳誕生日「憲法順守し、象徴としての務めを誠実に果たす」』（高島博之記者）、<strong>日経</strong>も『「象徴の務め、誠実に」天皇陛下会見全文』と似たり寄ったりだからです。<br />
<br />
<br />
<strong>▽３　皇室とメディアとの隔たり</strong><br />
<br />
<strong>産経</strong>だけは少し違い、「天皇誕生日　国民も心一つに歩みたい」と題する【主張】（社説）を掲げ、『広く国民のことを思い、寄り添われる姿は、……昭和天皇から上皇陛下へと引き継がれ、今上陛下が間近で学ばれてきた皇室の伝統である』『（天皇は）数多くの宮中祭祀で、日本と国民の安寧や豊穣を祈られている』と古来の伝統を継承する皇室の姿に言及しています。<br />
<br />
しかし産経とて、太上天皇、今上天皇が以前から繰り返し、皇室の伝統と憲法の理念の両方を追求されると表明されていることを指摘しているわけではありません。<br />
<br />
天皇とは何だったのか。いかにあるべきなのか。その認識には、皇室とメディアとの間には大きな隔たりがありそうです。<br />
<br />
太上天皇、今上天皇にとっては、憲法が規定する国事行為だけを行うのが象徴天皇ではありません。各紙が言及する象徴天皇もまた、被災地で被災者を励まされるなど、国事行為以外の象徴行為を行う天皇なのですが、メディアにとってはあくまで憲法的あり方にとどまっています。しかし皇室にとっては、古来、国と民のために私なき祈りをひたすら捧げてこられた祭り主天皇の発展形なのでしょう。公正かつ無私なる祭り主であり続けることが天皇の天皇たる所以なのです。<br />
<br />
各紙の優秀な記者の方々はどうかそこに気づいてほしいと思います。いまやネットの時代で、誰もが一次情報にアクセスできるようになりました。部分的で偏った報道は簡単に見破られてしまいます。<br />
<br />
<br />
<strong>斎藤吉久から</strong>＝当ブログ〈<a href="https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/" target="_blank">https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/</a>〉はおかげさまで、so-netブログのニュース部門で、目下、ランキング１０位。アメーバブログ「<strong>誤解だらけの天皇・皇室</strong>」〈<a href="https://ameblo.jp/otottsan/" target="_blank">https://ameblo.jp/otottsan/</a>〉でもお読みいただけます。読了後は「いいね」を押していただき、フォロアー登録していただけるとありがたいです。また、まぐまぐ！のメルマガ「<strong>誤解だらけの天皇・皇室</strong>」〈<a href="https://www.mag2.com/m/0001690423.html" target="_blank">https://www.mag2.com/m/0001690423.html</a>〉にご登録いただくとメルマガを受信できるようになります。<a name="more"></a>
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<title>憲法の原則を笠に着る革命思想か。ジェンダー研究者の女性天皇論を読む</title> 
  <link rel="alternate" type="text/html" href="https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2020-02-22" />
  <link rel="service.edit" type="application/x.atom+xml" href="https://blog.ss-blog.jp/atom/blog_id=1385836/entry_id=111607062" title="憲法の原則を笠に着る革命思想か。ジェンダー研究者の女性天皇論を読む" />
  <modified>2020-03-16T21:19:24Z</modified> 
  <issued>2020-02-22 22:48:45+09:00</issued> 
  <id>tag:blog.ss-blog.jp,2020:saitoyoshihisa.111607062</id> 
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  <dc:subject></dc:subject> 

<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2020-02-22">
<![CDATA[
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇<br />
<strong><span style="font-size:large;">憲法の原則を笠に着る革命思想か。ジェンダー研究者の女性天皇論を読む</span></strong><br />
《斎藤吉久のブログ　令和2年２月23日》<br />
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇<br />
<br />
<br />
女性週刊誌が盛んに女帝容認論を煽っています。なぜ古来、男系主義が貫かれてきたのか、を識者も編集者も、追究しようとしないのは、なぜでしょう。<br />
<br />
「女性自身」２月７日号には、牟田和恵・大阪大学大学院教授（ジェンダー研究者）による「皇室の女性差別」撤廃を要求する女性天皇論が載りました。<br />
<br />
ご主張の要点は以下のようにまとめられます。<br />
<br />
（１）天皇陛下の長子である愛子内親王が次の天皇になられるのは当然だ。現在の皇室典範は男女平等ではない。改正すべきだ<br />
（２）憲法には法の下の平等が記されている。なのに、皇位継承は男系男子に限られている<br />
（３）皇室典範の女性差別は日本社会の女性差別を反映している<br />
（４）女性差別の根本には「家父長制」がある。個人より「家」を第一とする発想が根強く残っている証拠だ<br />
（５）ヨーロッパの王室は第一子継承に変わっている。日本も皇室典範改正を急ぐべきだ<br />
（６）愛子内親王は健やかに成長されている。立派に天皇の務めを果たされるだろう<br />
（７）「女性だからできない」ことはなくしていくべきだ<br />
<br />
ジェンダー研究者なのですから当然といえば当然かもしれませんが、法律論として、歴史論としておよそ不正確で、十分とはいえないでしょう。<br />
<br />
<strong>▽１　「法の下の平等」の例外</strong><br />
<br />
まず法律論ですが、以前も申し上げましたように、憲法が法の下の平等を謳い上げていることは誰でも知っています。その憲法が第一章で、血統主義に基づく天皇という特別の地位を認めているのです。そもそも皇位の男系主義は法の下の平等の例外なのです。<br />
<br />
　【関連記事】<strong>基本を忘れた女系継承容認論──小嶋和司教授の女帝論を読む</strong>〈<a href="https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2011-12-31" target="_blank">https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2011-12-31</a>〉<br />
　【関連記事】<strong>どうしても女性天皇でなければならないのか。男系を固守することは不正義なのか。なぜ男系の絶えない制度を考えようとしないのか？</strong>〈<a href="https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2020-02-09" target="_blank">https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2020-02-09</a>〉<br />
<br />
もし牟田さんが法の下の平等を社会全体に貫くべきだと主張されるのなら、女帝容認ではなく、天皇廃止を訴えなければなりません。牟田さんにとっての法の下の平等は性差別の否定だけなのですか。<br />
<br />
次に歴史論ですが、男系主義の背景に何があるのか、もっと深く追求されるべきではないでしょうか。<br />
<br />
牟田さんが仰せの「家父長制」には支配の論理という響きがありますが、日本の天皇は支配者とは一味も二味も異なる存在です。<br />
<br />
たとえば「サバの行事」はご存知ですか。明治になって惜しくも絶えてしまいましたが、歴代天皇はわが統治する国に飢えたる民が一人いても申し訳ないとの思いから、毎食ごとに食膳から一箸ずつ料理を取り分けて、衆生に捧げ、そのあと召し上がったのです。<br />
<br />
　【関連記事】<strong>皇祖と民とともに生きる天皇の精神 ──宮廷行事「さば」と戦後復興</strong>〈<a href="https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/1998-06-08-2" target="_blank">https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/1998-06-08-2</a>〉<br />
<br />
昭和、平成、令和と三代の天皇は御所の水田で穀物を栽培しておられますが、みずから泥田に入られる君主は日本の天皇だけです。世界には農民といっても田畑に入らない支配層もいるのにです。<br />
<br />
牟田さんは天皇を家の論理で説明していますが、間違っています。皇室は姓を持たない、家を否定した、家のない家だからです。海外のロイヤル・ファミリーとは違うのです。<br />
<br />
<strong>▽２　女性差別ではない</strong><br />
<br />
以前も説明しましたが、歴史上、女性天皇は存在します。しかし夫があり、子育て中の女性天皇はおられません。過去の女性天皇はすべて寡婦もしくは独身を貫かれました。他方、たとえ民間から入内したとしても皇后は摂政となることも可能です。<br />
<br />
これは女性差別なのでしょうか。逆に男子ならば、内親王、女王と婚姻しても皇族となることはありません。差別論で捉えることに無理があるのでしょう。<br />
<br />
牟田さんはヨーロッパの王室に学ぶべきだとも仰せですが、これも間違いです。参考にしようがないからです。<br />
<br />
たとえばイギリスは、父母の同等婚と女王継承後の王朝交替という二大原則がありましたが、原則はすでに崩壊しています。ヨーロッパに学び、女帝を認め、その子孫に継承するということはすなわち古代から続いてきた皇統の否定、革命をもたらすこととなるでしょう。<br />
<br />
　【関連記事】<strong>参考にならないヨーロッパの「女帝論議」──女王・女系継承容認の前提が異なる</strong>〈<a href="https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2006-12-18" target="_blank">https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2006-12-18</a>〉<br />
<br />
憲法は皇位は世襲すなわちdynasticだと王朝の支配を認めています。牟田さんの「女性差別」撤廃の発想は憲法の基本原則を掲げながら、その実、憲法に反し、天皇統治の終わりをもたらす革命思想ではありませんか。<br />
<br />
　【関連記事】<strong>女系は「万世一系」を侵す──「神道思想家」葦津珍彦の女帝論</strong>〈<a href="http://www004.upp.so-net.ne.jp/saitohsy/ashizu_joteiron.html" target="_blank">http://www004.upp.so-net.ne.jp/saitohsy/ashizu_joteiron.html</a>〉<br />
<br />
牟田さんは最後に愛子天皇待望論を訴えています。健やかに成長され、務めを果たすことができると太鼓判を押されているようですが、天皇は能力主義ではありません。血統主義なのです。<br />
<br />
古来、天皇第一のお務めは私なき立場で天神地祇をまつる神祭りにあるとされています。古代人は夫があり、子育て中の女性に私なき祭祀をお勤めいただくのは忍びないと考えたのではないでしょか。８人10代の女性天皇がいずれも寡婦もしくは独身を通されたのはそのためでしょう。差別ではありません。むしろ逆でしょう。<br />
<br />
牟田さんにお願いします。男系主義の外形だけを見て、女性差別と決めつけ、皇室の歴史と伝統を否定し、むりやり変質させるのではなく、皇位の本質を深く探り、祖先たちが大切に守ってきた歴史的価値を理解していただくことは無理でしょうか。女性週刊誌の編集者にもぜひお願いします。<br />
<br />
<br />
<strong>斎藤吉久から</strong>＝当ブログ〈<a href="https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/" target="_blank">https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/</a>〉はアメーバブログ<strong>「誤解だらけの天皇・皇室」</strong>〈<a href="https://ameblo.jp/otottsan/" target="_blank">https://ameblo.jp/otottsan/</a>〉でもお読みいただけます。読了後は「いいね」を押していただき、フォロアー登録していただけるとありがたいです。また、まぐまぐ！のメルマガ<strong>「誤解だらけの天皇・皇室」</strong>〈<a href="https://www.mag2.com/m/0001690423.html" target="_blank">https://www.mag2.com/m/0001690423.html</a>〉にご登録いただくとメルマガを受信できるようになります。<br />
<a name="more"></a>
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<title>なぜ悠紀殿と主基殿があるのか。田中英道先生の大嘗祭論を読む</title> 
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  <modified>2020-03-16T21:19:24Z</modified> 
  <issued>2020-02-16 08:36:31+09:00</issued> 
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<![CDATA[
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇<br />
<strong><span style="font-size:large;">なぜ悠紀殿と主基殿があるのか。田中英道先生の大嘗祭論を読む</span></strong><br />
《斎藤吉久のブログ　令和2年２月16日》<br />
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇<br />
<br />
<br />
日本会議の機関誌「日本の息吹」２月号に、保守派言論人として著名な田中英道東北大学名誉教授（専攻は美術史。日本国史学会代表理事）が大嘗祭に関する興味深いエッセイを寄せています。<br />
<br />
連載「世界史の中の日本を語ろう」の第２５回で、タイトルは「大嘗宮はなぜ悠紀殿と主基殿の二殿あるのか」。着眼点の斬新さはさすがです。<br />
<img src="https://saitoyoshihisa.c.blog.ss-blog.jp/_images/blog/_8e1/saitoyoshihisa/m_467E1A17-3B40-4E2D-8A11-8A6D34DEA7DD.jpeg" width="350" height="262" border="0" align="" alt="467E1A17-3B40-4E2D-8A11-8A6D34DEA7DD.jpeg" onclick="location.href = 'https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/upload/detail/m_467E1A17-3B40-4E2D-8A11-8A6D34DEA7DD.jpeg.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /><br />
<br />
<strong>▽１　悠紀殿＝東国、主基殿＝西国</strong><br />
<br />
先生は、大嘗祭の祭祀が二度繰り返され、斎田も２か所あり、悠紀、主基と呼ばれることに注目し、なぜ二殿で同じことが繰り返されるのかという素朴な問いかけをなさっています。國學院の展覧会でも、折口信夫の「大嘗祭の本義」にも説明はありませんでした。<br />
<br />
先生によると、天武・持統朝に定められた大嘗祭は当然、壬申の乱と関係があり、東日本と西日本それぞれの殿舎を建てるということには理由があった。東国には高天原＝日高見国の長い伝統があり、持統天皇の諱には「高天原」が含まれている。<br />
<br />
『新撰姓氏録』は氏族を「神別」「皇別」「諸蕃」に分けているが、神別の氏族の故郷が東国で、藤原、物部、大伴らの有力氏族が属していた。ユダヤ人埴輪もすべて東国の埴輪にあった。<br />
<br />
東国と西国は同等と考えられていたことの現れが悠紀殿と主基殿の二殿である。茅葺き、丸柱は東国の伝統で、「大倭日高見国」が日本なのである。日高見国と大和国が天皇によって統一された事実が大嘗祭に示されている、というのが先生の見方です。<br />
<br />
仰せのように、大嘗祭が悠紀殿と主基殿の二殿で行われるのは大きな謎です。かつては新嘗祭と大嘗祭との区別はなく、規模を改めた大嘗祭が行われるようになったのが、まさに天武天皇のころ、壬申の乱のあとでした。<br />
<br />
国を二分する内乱のあと、国と民を再統一する仕掛けが必要とされたことは想像に難くありませんが、それが大嘗祭発生のカギだったとしても、悠紀殿＝東国、主基殿＝西国という図式で捉えることには慎重を要するのではないかと私は思います。<br />
<br />
<br />
<strong>▽２　新嘗祭の夕の儀と暁の儀は？</strong><br />
<br />
毎秋の新嘗祭は神嘉殿で行われます。明治の初年までは臨時の殿舎が建てられたそうですが、大嘗祭とは異なり、一棟です。夕（よい）の儀と暁の儀と同じ神事が二度繰り返されますが、悠紀・主基とは呼ばれません。<br />
<br />
ふつうは夕の儀は夕御饌（ゆうみけ）で、御寝座でお休みいただいたあと、暁の儀で朝御饌（あさみけ）を差し上げるというように説明されています。新嘗祭は同じ殿舎ですが、大嘗祭は儀場も改められ、より丁重さが加わるということではないでしょうか。<br />
<br />
日本の高床式建築には２つのルーツがあるそうですが、悠紀殿と主基殿には大きな違いはありません。ふだんは何もない空間に八重畳の御神座、天皇の御座などが配置されるのも変わりません。<br />
<br />
　【関連記事】<strong>神社建築発生の謎──高床式穀倉から生まれた!?</strong>〈<a href="https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2013-05-20-2" target="_blank">https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2013-05-20-2</a>〉<br />
<br />
先生のエッセイには言及がありませんが、祭神論からすると、悠紀殿の儀、主基殿の儀とも変わりません。前者は天神、後者は地祇を祀ると説明した古い資料もありますが、新帝の御告文は皇祖神ほか天神地祇に捧げられるはずです。<br />
<br />
先生の説だと、悠紀殿には東国の神々、主基殿には西国の神々が祀られるのでしょうか。そうなると逆に国の再統一という目的から外れてしまわないでしょうか。<br />
<br />
　【関連記事】<strong>なぜ八百万の神なのか──多神教文明成立の背景</strong>〈<a href="https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2013-05-06-1" target="_blank">https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2013-05-06-1</a>〉<br />
　【関連記事】<strong>天皇はあらゆる神に祈りを捧げる──日本教育再生機構広報誌の連載から</strong>〈<a href="https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2013-04-12-1" target="_blank">https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2013-04-12-1</a>〉<br />
<br />
<br />
<strong>▽３　米と粟の儀礼こそ祭りの核心</strong><br />
<br />
神饌はどうでしょう。先生ご指摘のように、近世までは京都の東に悠紀国、西に主基国が設定され、悠紀殿の儀、主基殿の儀にはそれぞれの御料が用いられました。なぜ東が悠紀で、西が主基なのかは大きな謎です。主基は「次」の意味とされています。<br />
<br />
これも先生の文章にはありませんが、主饌となるのは米と粟の御飯（おんいい）と白酒・黒酒の神酒です。悠紀殿の儀、主基殿の儀とも変わりはありません。しかしここにこそ内乱後の国と民の再統一という大命題の意味が見出されるのではないでしょうか。<br />
<br />
日本の神祭りは神々との神人共食が本義です。争乱で分裂した国中の神々をすべて祀り、天つ神の米と国つ神の粟を捧げ、祈り、新帝も召し上がる。さらに続く節会で民の饗宴が行われ、神々と天皇と民との命が共有される。それが大嘗祭の核心部分ではないかと私は思います。<br />
<br />
先生は、大嘗祭を稲の祭りと決めつけず、米と粟が供されることに注目した岡田荘司國學院大学教授の大嘗祭論を「戦後の歴史家の唯物論的見方」と一刀両断にしていますが、米と粟の神事こそ国と民を１つにまとめあげるスメラミコトの真骨頂でしょう。<br />
<br />
ただ、粟＝東国、稲＝西国というわけではありません。田中先生の説は東国vs西国の図式に引きずられ過ぎているように思われます。<br />
<br />
　【関連記事】<strong>大嘗祭は米と粟の複合儀礼──あらためて研究資料を読み直す</strong>〈<a href="https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2011-12-18" target="_blank">https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2011-12-18</a>〉<br />
　【関連記事】<strong>大嘗祭は、何を、どのように、なぜ祀るのか ──岡田荘司「稲と粟の祭り」論を批判する</strong>〈<a href="https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2019-11-10" target="_blank">https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2019-11-10</a>〉<br />
　【関連記事】<strong>やっと巡り合えた粟の酒 ──稲作文化とは異なる日本人の美意識</strong>〈<a href="https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2019-09-23" target="_blank">https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2019-09-23</a>〉<br />
<br />
<br />
<strong>斎藤吉久から</strong>＝当ブログはアメーバブログ「誤解だらけの天皇・皇室」〈<a href="https://ameblo.jp/otottsan/" target="_blank">https://ameblo.jp/otottsan/</a>〉でもお読みいただけます。読了後は「いいね」を押していただき、フォロアー登録していただけるとありがたいです。また、まぐまぐ！のメルマガ「誤解だらけの天皇・皇室」〈<a href="https://www.mag2.com/m/0001690423.html" target="_blank">https://www.mag2.com/m/0001690423.html</a>〉にご登録いただくとメルマガを受信できるようになります。<br />
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<title>どうしても女性天皇でなければならないのか。男系を固守することは不正義なのか。なぜ男系の絶えない制度を考えようとしないのか？</title> 
  <link rel="alternate" type="text/html" href="https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2020-02-09" />
  <link rel="service.edit" type="application/x.atom+xml" href="https://blog.ss-blog.jp/atom/blog_id=1385836/entry_id=111545833" title="どうしても女性天皇でなければならないのか。男系を固守することは不正義なのか。なぜ男系の絶えない制度を考えようとしないのか？" />
  <modified>2020-03-16T21:19:24Z</modified> 
  <issued>2020-02-09 20:08:43+09:00</issued> 
  <id>tag:blog.ss-blog.jp,2020:saitoyoshihisa.111545833</id> 
  <summary type="text/plain"> </summary> 
  <dc:subject></dc:subject> 

<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2020-02-09">
<![CDATA[
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇<br />
<span style="font-size:large;"><strong>どうしても女性天皇でなければならないのか。男系を固守することは不正義なのか。なぜ男系の絶えない制度を考えようとしないのか？</strong></span><br />
《斎藤吉久のブログ　令和2年２月９日》<br />
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇<br />
<br />
女性天皇容認のみならず、「万世一系」とされる皇統に根本的変革を招く女系継承容認論が沸騰している。現在の皇位継承順位を一変させる「愛子さま天皇」待望論までが飛び出して、かまびすしい。<br />
<br />
古来の男系継承を堅持することがまるで不正義であるかのような口吻である。男系男子をもって皇位が継承され続けることは正義に反することなのだろうか。検討してみたい。<br />
<br />
<br />
<strong>▽１　皇室のルールをなぜ変える</strong><br />
<br />
推進派の論拠は、法理論と歴史論、現実論の３つに大きくまとめられると思う。<br />
<br />
①（<strong>法理論</strong>）人は法の下にあって平等である。男女は平等である。象徴天皇は女性でも務まる。<br />
②（<strong>歴史論</strong>）８人１０代の女性天皇が歴史に存在する。海外では男女を問わない王位継承に変わっている。<br />
③（<strong>現実論</strong>）皇位継承資格者の数が減少している。男系継承主義の場合、入内する女性が受ける心理的圧力は計り知れない。国民の圧倒的多数が改革を支持している。<br />
<br />
以下、Ｑ＆Ａ式で考える。まずは法理論である。<br />
<br />
Ｑ１ <strong>男女は平等で、憲法も認めている。女性天皇の即位を認めるべきではないか？</strong><br />
Ａ１ 法の下の平等は憲法の大原則であるが、その一方、憲法は第一章で、血統主義に基づく天皇という特別の地位を認めている。天皇は平等主義の例外である。憲法の制定過程でも男系継承主義は問題にはならなかった。<br />
　過去に女性天皇がいなかったのではない。夫があり、子育て中の女性天皇がおられないのである。民間から輿入れした女性は摂政ともなれる。これは男女差別だろうか。<br />
<br />
　【関連記事】<strong>基本を忘れた女系継承容認論──小嶋和司教授の女帝論を読む</strong>〈<a href="https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2011-12-31" target="_blank">https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2011-12-31</a>〉<br />
<br />
Ｑ２ <strong>憲法は「皇位は世襲」と定めている。男系男子継承を定めているのは皇室典範であり、典範を改正すればいいではないか？</strong><br />
Ａ２ 憲法の「世襲」はdynasticの意味で、単に血が繋がっているという意味ではない。王朝の支配ということが本義であって、古来、連綿と続いてきた皇室のあり方を根本的に変えるような改革は憲法に違反する。なぜそこまでして、男系で継承されてきた皇室のルールを変更したいのか。<br />
<br />
　【関連記事】<strong>眞子内親王の皇籍離脱をけしかける登誠一郎元内閣外政審議室長の不遜。安倍総理の次は秋篠宮親王に直言。女性天皇・女系継承容認へまっしぐら</strong>〈<a href="https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2020-01-26" target="_blank">https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2020-01-26</a>〉<br />
<br />
Ｑ３ <strong>象徴天皇の務めは憲法に書いてあるが、女性だから務まらないということはない。有能な女性なら、十分に務まるのではないか？</strong><br />
Ａ３ 古代において天皇はスメラギあるいはスメラミコトと呼ばれ、国と民を多様なるままに１つに統合することがお役目とされた。古代律令の定めのように、天神地祇をまつり、国と民のために祈ることが第一のお務めであり、歴代天皇は祭祀を継承されてきたが、国務法たる憲法には規定がない。<br />
　皇位は世襲主義であり、能力主義ではない。有能か否かは皇位とは無関係である。むろん、人間的にいい方かどうか、徳の有無でもない。<br />
<br />
　【関連記事】<strong>西尾幹二先生の御忠言を読む──どこが誤っているのか</strong>〈<a href="https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2008-07-22" target="_blank">https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2008-07-22</a>〉<br />
<br />
<br />
<strong>▽２　古代律令は「女帝」を認めていない</strong><br />
<br />
次は歴史論です。<br />
<br />
Ｑ４ <strong>古代律令制は女子の継承を認めていたし、実際、8人１０代の女性天皇がいる。女性天皇は皇室の伝統的あり方である。なぜ否定するのか？</strong><br />
Ａ４ 古代律令の、皇族の身分や継承法を定めた「継嗣令」には、「凡そ皇（こう）の兄弟、皇子をば、皆親王（しんのう）と為（せ）よ。〈女帝（にょたい）の子も亦（また）同じ〉。以外は並に諸王と為よ」（『律令』日本思想大系３）とあり、「女帝」が法制度上、認められていたという解釈がある。<br />
　しかし、「女（ひめみこ）も帝の子、また同じ」と読むのが正しく、天皇の子女は親王・内親王とすると解釈されるべきだとの有力説がある。古代において「女帝」なる公式用語はない。<br />
　過去に女性天皇は存在するが、寡婦もしくは独身を貫かれた。女系による継承は予定されていない。女性天皇がいないというのではなく、夫があり、子育て中の女性天皇が存在しないのである。<br />
　それは天皇が公正かつ無私なる祭祀を行う祭り主だからだろう。ひたむきに夫を愛し、子育てに集中する女性の姿は美しいが、「天皇に私なし」とする皇位とは両立できるかどうか。女性の女性たる価値を認めるからこそ、女性天皇は独身を貫かざるを得なかったのではないか。<br />
<br />
　【関連記事】<strong>田中卓先生の著作を読んで──「皇国史観」継承者が「女性皇太子」を主張する混乱</strong>by 佐藤雉鳴・斎藤吉久〈<a href="https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2014-03-01" target="_blank">https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2014-03-01</a>〉<br />
<br />
Ｑ５ <strong>女子による皇位継承を認めなくなったのは、明治の皇室典範であり、男尊女卑の悪弊ではないか？</strong><br />
Ａ５ 明治の皇室典範制定過程では「男女同権」を掲げる女帝容認が繰り返し浮上し、そして最終的に否定された。明治の女帝容認論は根強いものがあり、男尊女卑の時代と断定することは一面的すぎる。<br />
　旧典範が女帝を否認したのは、皇婿を臣民から迎えることが至難であり、女帝継承後に王朝が変わるからである。<br />
<br />
　【関連記事】<strong>女系は「万世一系」を侵す──「神道思想家」葦津珍彦の女帝論</strong>〈<a href="http://www004.upp.so-net.ne.jp/saitohsy/ashizu_joteiron.html" target="_blank">http://www004.upp.so-net.ne.jp/saitohsy/ashizu_joteiron.html</a>〉<br />
<br />
Ｑ６ <strong>海外では男女平等主義に基づいて、女子の王位継承が認められるようになった。日本も見習うべきではないか？</strong><br />
Ａ６ たとえばイギリス王室では、女王による王位継承が認められているが、もともと父母の同等婚が原則で、女子の王位継承後は父方の王朝に変わる。女王の継承は新たな父系の始まりとなる。<br />
　しかし日本では皇族同士の婚姻という原則はなく、参考にしようがない。しかも今日では、イギリスは王族同士の婚姻という原則が崩れており、なおのこと参考にはできない。<br />
　スペインでは男子優先から男女平等主義に移行中だが、同等婚原則がすでに崩れており、これまた参考にしようがない。それでも参考にせよというのは独自の歴史と伝統を無視せよと要求するのと同じである。<br />
　また北欧では国民が王を選ぶ選挙君主制の伝統がある。国民の意思で女子の継承を認めることとなったのは、民主的改革ではなくて、伝統回帰といえる。<br />
<br />
　【関連記事】<strong>参考にならないヨーロッパの「女帝論議」──女王・女系継承容認の前提が異なる</strong>〈<a href="https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2006-12-18" target="_blank">https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2006-12-18</a>〉<br />
<br />
<br />
<strong>▽３　御負担増を強いる女系継承容認論</strong><br />
<br />
最後は現実論です。<br />
<br />
Ｑ７ <strong>皇位継承資格者は秋篠宮文仁親王、悠仁親王、常陸宮正仁親王のお三方しかおられない。対策を講じなければ、皇室は絶えてしまいかねないではないか？</strong><br />
Ａ７ たしかにそうだが、明治の典憲制定過程ではもっと深刻で、明治天皇に皇男子はなく、皇族男子は遠系の４親王家にしかおられなかった。女帝容認は火急の案件だった。それでも明治人は女帝を否認したのである。優れた見識というべきではないか。<br />
　いまのままでは皇統は絶える。だから女帝を容認すべきだ、という論理はもっともなようで、じつはそうではない。皇統とはすなわち男系なのだから、男系が絶えないよう制度を考えるのが物事の順序というものであり、歴史にない女系継承容認論は論理の飛躍だ。<br />
<br />
　【関連記事】<strong>基本を忘れた女系継承容認論──小嶋和司教授の女帝論を読む</strong>〈<a href="https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2011-12-31" target="_blank">https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2011-12-31</a>〉<br />
　【関連記事】<strong>女系は「万世一系」を侵す───「神道思想家」葦津珍彦の女帝論</strong>〈<a href="https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2013-04-18-1" target="_blank">https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2013-04-18-1</a>〉<br />
<br />
Ｑ８ <strong>皇室に嫁ぐ女性が男子を産まなければならない心理的圧迫は相当なものである。女子の継承を認めれば、圧力はやわらぐのではないか？</strong><br />
Ａ８ 皇太子妃、皇后となる女性の心理を思いやり、古来、男系で貫かれた皇位継承制度に根本的変革を加えるのは、角を矯めて牛を殺すということわざの通りであろう。<br />
　昔から皇統の備えとしての宮家という制度がある。一定の皇族を確保する方策を考えるべきではないか。知恵を絞れば方法はいくつもある。<br />
　女性天皇を認めれば、女帝は御公務をこなしつつ、出産、育児を行うことになるのだろうか。女系継承容認、女性宮家創設論は天皇の御公務御負担軽減が目的とされているが、いまでも多忙をきわめる天皇にさらなるご負担を強いることにならないか。<br />
　さらにもうひとつ、皇婿となる男性には子供ができなければならないという心理的負担はないのだろうか。女性の負担ばかりを考慮するのは平等の精神に反する。<br />
<br />
Ｑ９ <strong>多くの世論調査は女性天皇・女系継承容認を支持している。なぜ世論に反する男系主義に固執しなければならないのか？</strong><br />
Ａ９ 現在の国民の支持を盾にして、なぜ千年余の皇室のルールを変えなければならないのだろうか。古来、男系主義が続いてきたのは国民の支持があったからではないのか。<br />
　女性天皇・女系継承容認を打ち出した政府の有識者会議は終始一貫、皇室の歴史と伝統について検討していない。皇室のことは皇室に委ねるべきではないのか。有識者会議はやり直すべきではないか。<br />
<br />
　【関連記事】<strong>宮中祭祀をめぐる今上陛下と政府・宮内庁とのズレ──天皇・皇室の宗教観　その４</strong>（「月刊住職」平成27年11月号）〈<a href="https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2016-01-17" target="_blank">https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2016-01-17</a>〉<br />
<br />
<br />
<a name="more"></a>
]]> 
</content>
</entry>
<entry>
<title>眞子内親王の皇籍離脱をけしかける登誠一郎元内閣外政審議室長の不遜。安倍総理の次は秋篠宮親王に直言。女性天皇・女系継承容認へまっしぐら</title> 
  <link rel="alternate" type="text/html" href="https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2020-01-26" />
  <link rel="service.edit" type="application/x.atom+xml" href="https://blog.ss-blog.jp/atom/blog_id=1385836/entry_id=111475845" title="眞子内親王の皇籍離脱をけしかける登誠一郎元内閣外政審議室長の不遜。安倍総理の次は秋篠宮親王に直言。女性天皇・女系継承容認へまっしぐら" />
  <modified>2020-03-16T21:19:24Z</modified> 
  <issued>2020-01-26 18:24:44+09:00</issued> 
  <id>tag:blog.ss-blog.jp,2020:saitoyoshihisa.111475845</id> 
  <summary type="text/plain"> </summary> 
  <dc:subject></dc:subject> 

<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2020-01-26">
<![CDATA[
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇<br />
<span style="font-size:large;"><strong>眞子内親王の皇籍離脱をけしかける登誠一郎元内閣外政審議室長の不遜。安倍総理の次は秋篠宮親王に直言。女性天皇・女系継承容認へまっしぐら</strong></span><br />
《斎藤吉久のブログ　令和2年1月26日》<br />
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇<br />
<br />
<br />
今月１６日、朝日新聞の言論サイト・論座に掲載された、登誠一郎元内閣外政審議室長のエッセイ「眞子さまのご結婚と皇位継承の問題。国民一般から祝福される結婚となるために」を読みました〈<a href="https://webronza.asahi.com/politics/articles/2020011400008.html" target="_blank">https://webronza.asahi.com/politics/articles/2020011400008.html</a>〉。<br />
<br />
眞子内親王殿下の御結婚問題に関して、２月に「何らかのことを発表」なさるとされる秋篠宮親王殿下に対して、「国民一般から祝福される結婚」となるためには、ご結婚前にまず皇籍離脱すべきだと大胆に迫っておられるのには、たいへん驚きました。<br />
<br />
仰せの「幸せを願う一国民としての率直な感想」は、むしろ親切心を装う不遜な僭越というべきではありませんか。皇室のことは皇室にお任せし、そっと見守るというわけには行かないのでしょうか。身の振り方にまで口を挟む権利が、主権者とされる国民に元来、あるのですか。いやあるというのなら、その先にどんな悲劇が待ち受けているのか、想像していただきたいと思います。<br />
<br />
<br />
<strong>▽１　登さんにとって天皇とは何か</strong><br />
<br />
そもそも提言には、いくつか大きな基本的誤りがあるように思います。<br />
<br />
登さんはまず、ご結婚は「一個人の幸せ」の問題であると同時に、「皇位継承に関係する重要問題でもある」と指摘しています。内親王殿下を「一個人」と言い切っていいものか、議論の余地が大いにありますが、皇位継承問題に関わるというご認識はまったく正しいでしょう。そして仰せのように、「ご結婚の有無とその時期」が問題となります。<br />
<br />
それなら、どう問題となるのか、その次の登さんの分析は明らかな間違いでしょう。<br />
<br />
登さんは、「現在の皇室典範に基づく皇位継承順位は、①秋篠宮さま、②悠仁さま、③常陸宮さまであるが、女性天皇・女系天皇の容認を提言した2005年の有識者会議の報告書に従うと、この順位は、①愛子さま、②秋篠宮さま、③眞子さま、④佳子さま、⑤悠仁さま、⑥常陸宮さまの順となる」と説明していますが、仰せの「ご結婚の有無とその時期」次第では、そのようにならないことは明白です。<br />
<br />
登さんが推奨する女性天皇・女系天皇容認、女性宮家創設が今後、もし制度化されたとして、そののち内親王が独身を貫く場合、婚姻したとしてもお子様が誕生されなかった場合、逆にお子様が誕生された場合では、皇位継承順位は当然、変わります。愛子内親王殿下が婚姻によって皇籍を離脱したあとの制度改革なら、登さんが仰せの皇位継承順位にはなり得ません。<br />
<br />
登さんは「愛子さまが天皇になられた後に、万が一お子様ができない場合には、次の天皇は眞子さまになる」と断定していますが、これも婚姻の「時期」次第ではそうはならないでしょう。皇位継承順位があたかも確定的であるかのような説明で、読者をミスリードしてはなりません。<br />
<br />
登さんは「眞子さまの幸せ」と「国民の祝福」の妥協点として、皇室典範が定める皇室会議による皇籍離脱を提案していますが、新たな火種を生むことにならないでしょうか。登さんは、「皇室制度の民主的側面を象徴する」と自賛していますが、議員１０人のうち皇族は２人、天皇も参加しない皇室会議の決議で皇族の減少を逆に促進する「民主」主義は禁じ手というべきです。現にイギリスで似たようなことが起きているではありませんか。<br />
<br />
結局のところ、登さんの議論は、国民主権下の法制度によって、１２６代続いてきた天皇を引きずり下ろそうとしているかのように私には見えます。そのようにする登さんにとっての天皇とは何でしょうか。何のための皇位継承なのでしょうか。<br />
<br />
<br />
<strong>▽２　王朝の支配を破るのは憲法違反</strong><br />
<br />
登さんは、昨年１１月には「女性・女系天皇は不可避～実際の皇位継承順位は？　『安定的皇位継承』の議論先送りは許されない」という文章を同じ論座に載せています。〈<a href="https://webronza.asahi.com/politics/articles/2019112600008.html" target="_blank">https://webronza.asahi.com/politics/articles/2019112600008.html</a>〉<br />
<br />
ここでは女性天皇・女系天皇容認のための国民的議論の開始を安倍総理に強く迫っていました。<br />
<br />
登さんがくりかえし強調し、支持されるのは「象徴天皇制の安定的継承」です。１２６代続いてきた伝統的「天皇」ではありません。「国民の７割が支持」するという「象徴天皇」と開闢以来、わが祖先たちが築き上げてきた「天皇制」とは同じではありません。その違いを「７割」は理解していると登さんはお考えでしょうか。<br />
<br />
登さんは古来の男系継承主義を近代的な男女平等主義の物差しによって批判しています。海外の王位継承が男女平等に改められたことを解説し、男女差別は中近東以外では日本だけだと指弾していますが、間違いでしょう。<br />
<br />
過去の歴史に女性天皇がいないのではなく、夫があり、子育て中の女性天皇がおられないのであり、それは男女差別ではなく、王朝の支配という大原則にあります。現行憲法の定める「世襲」はdynasticの意味で、血がつながっていればいいというのではありません。<br />
<br />
ヨーロッパでは王族同士の婚姻、つまり父母の同等婚によって王位継承が行われ、女王の子孫に継承される場合は王朝が変更されました。これとは異なり、日本では男子の皇族性が厳しく要求され、皇室という王朝の支配が一貫してきたのです。ヨーロッパでは近年、父母の同等婚という原則が崩壊しています。ヨーロッパの王室を参考するにわけにはいきません。<br />
<br />
　【関連記事】<strong>参考にならないヨーロッパの「女帝論議」──女王・女系継承容認の前提が異なる</strong>〈<a href="https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2006-12-18" target="_blank">https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2006-12-18</a>〉<br />
　【関連記事】<strong>大変革のときを迎えたイギリス王室──男女平等継承どころではない</strong>〈<a href="https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2011-10-15-1" target="_blank">https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2011-10-15-1</a>〉<br />
<br />
<br />
明治の皇室典範が女帝を否認した最大の理由は、王朝の支配を堅持するためでした。王朝の支配を破る女系継承容認は現行憲法にも違反します。そこまでして歴史に前例のない制度改革に血道を上げるより、男系の絶えない制度をどうして考えようとしないのですか。<br />
<br />
<br />
<strong>▽３　藩屏なき皇室、ここに極まれり</strong><br />
<br />
聖書は男のあばら骨から女が生まれたと説明していますが、日本の国生み神話は男女の共同作業で国が生まれたと物語っています。ヨーロッパ的な男女平等概念の根っこには、キリスト教の徹底した男女差別があるのではありませんか。<br />
<br />
登さんは、皇位継承の男系主義は単なる男女差別にしか映らないのでしょうか。古来の天皇は私なき祭祀をなさる祭り主でした。天神地祇を祭り、ひたすら国と民のために祈る存在でした。天皇には姓がありません。異姓の臣下が皇籍に入ることなどあり得ません。逆に民間から入内した皇后は摂政ともなり得ます。これは男女差別でしょうか。<br />
<br />
皇位はそもそも平等の概念とは別の次元に位置するものであって、皇位の継承に平等原理を持ち込むことに無理があるのではありませんか。<br />
<br />
　【関連記事】<strong>基本を忘れた女系継承容認論──小嶋和司教授の女帝論を読む</strong>〈<a href="https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2011-12-31" target="_blank">https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2011-12-31</a>〉<br />
<br />
登さんは論考のなかで、これまでの議論の経過を詳しく説明していますが、政府の有識者会議が皇室の天皇観を検討しなかったことについては言及しておられません。「皇位の安定的継承」のために１２６代続く皇室の歴史と伝統を無視するのは、矛盾以外の何ものでもありません。登さんが考える皇位とは、国事行為のみを行う特別公務員としての天皇でしかないのではありませんか。それならそうと、皇室の伝統とは違うと、正確に説明すべきです。<br />
<br />
　【関連記事】<strong>混迷する「女性宮家」創設論議の一因──古代律令制の規定を読み違えている？</strong>〈<a href="https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2012-03-18" target="_blank">https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2012-03-18</a>〉<br />
<br />
昨年の論考では、登さんは女性天皇・女系天皇容認の制度化によって皇位継承順位が途中で変更されることへの「感情的な抵抗」を避けるために、新たな皇位継承資格者は従来の資格者のあととすることを提案し、その案によると、① 秋篠宮さま、② 悠仁さま、③ 常陸宮さま、④ 愛子さま、⑤ 眞子さま、⑥ 佳子さまという順位になると説明していますが、こういう議論になってくると、もはや皇位を弄んでいるようにしか私には見えません。<br />
<br />
かつては皇室自立主義ということがいわれました。皇室のことは皇室に委ねる。そういう制度に改められるべきではないでしょうか。そうでないと皇族になりたがる有象無象の男たちがあらゆる方法で内親王・女王に群れ集まってくることでしょう。１２６代の皇室の権威は雲散霧消します。すでに兆候はあります。もしや登さんはそれがお望みでしょうか。<br />
<br />
それにしても、苦悩のただ中にある秋篠宮親王を名指しし、公の媒体で介入するとは、藩屏なき皇室、ここに極まれりの思いがします。<br />
<br />
<a name="more"></a>
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</content>
</entry>
<entry>
<title>まったく同感──「女性宮家」を主張する朝日新聞社説に噛みついた椎名哲夫元東京新聞記者</title> 
  <link rel="alternate" type="text/html" href="https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2020-01-13" />
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  <modified>2020-03-16T21:19:24Z</modified> 
  <issued>2020-01-13 22:06:03+09:00</issued> 
  <id>tag:blog.ss-blog.jp,2020:saitoyoshihisa.111386722</id> 
  <summary type="text/plain"> </summary> 
  <dc:subject></dc:subject> 

<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2020-01-13">
<![CDATA[
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇<br />
<span style="font-size:large;"><strong>まったく同感──「女性宮家」を主張する朝日新聞社説に噛みついた椎名哲夫元東京新聞記者</strong></span><br />
《斎藤吉久のブログ　令和2年1月13日》<br />
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇<br />
<br />
<br />
さんざんな御代替わりの年が過ぎたのも束の間、今年は皇位継承をめぐる国民的議論が沸騰しそうな気配が濃厚です。じつに憂鬱です。<br />
<br />
早くも年明け早々、４日のデイリー新潮に、「『女性宮家』を声高に主張する『朝日新聞社説』の本音を読み解く」と題する、椎名哲夫元東京新聞記者の挑戦的な記事（週刊新潮WEB取材班編集）が載りました。女性天皇・女系継承容認の本音を隠して、皇位継承問題を「将来の主権者に」と主張するのは、先延ばしと同じで、欺瞞だと大新聞の社論を切り捨てています。<br />
〈<a href="https://www.dailyshincho.jp/article/2020/01041130/?all=1&amp;page=2" target="_blank">https://www.dailyshincho.jp/article/2020/01041130/?all=1&amp;page=2</a>〉<br />
<br />
<br />
<strong>▽１　「決めるのは国民だ」</strong><br />
<br />
まったく仰せの通りです。<br />
<br />
椎名さんが批判するのは、大嘗祭直後、１１月１８日の社説「皇室制度の今後　政治の怠慢に終止符打つ時」です。〈<a href="https://www.asahi.com/articles/DA3S14260076.html" target="_blank">https://www.asahi.com/articles/DA3S14260076.html</a>〉<br />
<br />
社説は、概略、次のように主張しています。<br />
<br />
御代替わりで皇位継承問題が先延ばしされてきたが、これ以上は許されない。<br />
継承資格者は３人。いま継承順位の変更につながる見直しは非現実的だが、ご活動の維持存続は早晩立ち行かなくなる。<br />
ご活動の絞り込みは必要で、実際、進んでいるが、国民との接点が減れば、象徴天皇制の基盤が揺るぎかねない。その対応策として、「女性宮家」創設をあらためて検討すべきだ。<br />
他方、旧宮家の男子を復帰させる案があるが、６００年前に別れ、戦後は民間人だったのをいまさら戻し、女性宮家を飛び越して資格者とすることに幅広い賛同は得られまい。<br />
象徴天皇制の存続には規模の維持が不可欠で、現実的に「女性宮家」問題に結論を出すことが優先されるべきだ。<br />
国民統合の象徴をめぐり、国民に深刻な亀裂が生じるのは好ましくない。当面は新女性宮家の様子を見守り、判断は将来の主権者に委ねるという考えもあろう。決めるのは国民だ。<br />
<br />
憲法の国民主権論に立ち、憲法が定める象徴天皇制の基礎とされるご公務の維持には、「女性宮家」創設が当面、必要だと訴えています。代わり映えのしない主張です。<br />
<br />
<br />
<strong>▽２　朝日新聞社説の「欺瞞」</strong><br />
<br />
椎名さんの批判が面白いのは、次のように、朝日の社説には「欺瞞」があると見ていることです。<br />
<br />
社説が「女性皇族を飛び越えて『国民統合の象徴の有資格者』とすることに幅広い賛同が得られるとは思えない」というのは、「国民統合の象徴の有資格者にするのは女性皇族が先だ」と言っているようなものではないか。<br />
「当面は悠仁さまと新女性宮家の様子を見守り、判断は将来の主権者に委ねる」というは、将来は女系（婿入りした男性の父系）に皇統が移ることも認めるという前提に立っていることになる。<br />
「判断は将来の主権者に委ねる」というのは、朝日が批判する「政府は検討を先延ばしにしてきた」ことと同じではないのか。<br />
<br />
「女性宮家」創設賛成の本音を隠して、まずは既成事実を作ろうと、読者を欺いているというわけです。しかも論理が一貫していないのです。<br />
<br />
なぜそうなるのか、というと、議論の立て方がそもそもおかしいのです。<br />
<br />
椎名さんが「女性宮家」創設論の経緯を振り返り、説明しているように、皇位継承問題と「女性宮家」問題は別のテーマでした。しかし両者を切り離して検討するとした野田内閣の「女性宮家」創設論議は国民を欺くものでした。独身を貫くわけではないから、子供が生まれ、皇位を継承すれば、新たな皇統が生まれる。「女性宮家」創設＝女系継承容認なのです。<br />
<br />
朝日の社説は、この核心部分を誤魔化しているというわけです。<br />
<br />
<br />
<strong>▽３　皇室2000年の歴史を無視</strong><br />
<br />
椎名さんは、朝日が言下に切り捨てる旧宮家復活にも言及し、誤解が多いと指摘しています。<br />
<br />
朝日の社説がいうように、６００年前に離れたのは事実だが、戦後の皇籍離脱まで皇統の備えとして１１宮家は存続してきた。６００年間、出番はなかったが、離脱後も品位と矜持を保つために苦労してきた。<br />
とりわけ東久邇宮家は今上陛下とも近い。東久邇宮稔彦元首相は明治天皇の皇女と結婚し、長男盛厚氏は昭和天皇皇女と結婚した。その５人のお子さんは今上陛下の従兄弟であり、複数の男子がおられる。<br />
<br />
朝日の社説はこうした事実をまったく無視しているのです。だからこそ、椎名さんは「何を検討すべきなのか」と問いかけています。男系維持のために、旧皇族の若い男子を現在の宮家の養子に迎えるなど方法はあり得ます。<br />
<br />
要するに、朝日の社説は皇室伝統の男系主義が守られるために知恵を絞るのではなく、逆に皇室のルールを破ることを、国民主権主義にかこつけて驀進しようとしているかのように見えます。つまりそれは二千年の歴史を持つ天皇とは異質のものであり、歴史的天皇の否定ではありませんか。もしや、それが本当の目的でしょうか。<br />
<br />
<br />
<strong>▽４　憲法が定める「王朝の支配」</strong><br />
<br />
最後に蛇足ながら補足します。<br />
<br />
椎名さんは「女性宮家」創設＝女系継承容認と指摘しますが、私の読者ならご存知のように、そもそも両者は同じものとして始まったのでした。「女性宮家」創設が結果として女系継承容認に結びつくのではなくて、女性天皇・女系継承を容認するならあらかじめ「女性宮家」創設が必要だという論理です。<br />
<br />
　【関連記事】<strong>「２つの柱」は１つ ──「女性宮家」創設の本当の提案理由　４</strong>〈<a href="https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2017-05-28" target="_blank">https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2017-05-28</a>〉<br />
<br />
２点目は、御公務御負担削減です。朝日の社説は削減は必要で、対策はいまも行われていると説明していますが、宮内庁の削減策は失敗したとはっきり理解すべきです。<br />
<br />
先帝の御在位２０年のあと始まった削減策で、文字通り激減したのは祭祀であり、いわゆる御公務は逆に増えました。とくに減らないのは庁内人事異動者と赴任大使の拝謁です。社説がいう象徴天皇制の基盤ではなく、官僚社会の壁がネックなのです。<br />
<br />
　【関連記事】<strong>省庁ごとに設定される「拝謁」──ご負担軽減のネックは官僚社会!?　５</strong>〈<a href="https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2017-08-04" target="_blank">https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2017-08-04</a>〉<br />
<br />
３つ目は国民主権主義です。決めるのは国民だと社説は声を荒げていますが、それでいいのでしょうか。皇室には皇位継承に関するルールがありますが、社説にはそれに対する眼差し、敬意が欠けています。女性天皇は歴史に存在しますが、夫があり、子育て中の女性天皇は歴史に存在しません。なぜなのか、考えていただけないでしょうか。<br />
<br />
　【関連記事】<strong>深まらない皇室論議 ──国連女子差別撤廃委員会騒動をめぐって</strong>〈<a href="https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2016-03-20" target="_blank">https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2016-03-20</a>〉<br />
<br />
もうひとつ、憲法は皇位は世襲と定めています。もともとdynasticの意味で、王朝の支配を意味します。王朝交替の否認が近代の女帝否認の核心でした。椎名さんがいうように、女系継承は新たな王朝の始まりです。朝日新聞は憲法を守るために憲法違反を認めよと仰せなのでしょうか。矛盾しています。<br />
<br />
　【関連記事】<strong>基本を忘れた女系継承容認論──小嶋和司教授の女帝論を読む</strong>〈<a href="https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2011-12-31" target="_blank">https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2011-12-31</a>〉<br />
<a name="more"></a>
]]> 
</content>
</entry>
<entry>
<title>「先帝」という呼称について考える</title> 
  <link rel="alternate" type="text/html" href="https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2020-01-10" />
  <link rel="service.edit" type="application/x.atom+xml" href="https://blog.ss-blog.jp/atom/blog_id=1385836/entry_id=111363720" title="「先帝」という呼称について考える" />
  <modified>2020-03-16T21:19:24Z</modified> 
  <issued>2020-01-10 15:34:11+09:00</issued> 
  <id>tag:blog.ss-blog.jp,2020:saitoyoshihisa.111363720</id> 
  <summary type="text/plain"> </summary> 
  <dc:subject></dc:subject> 

<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2020-01-10">
<![CDATA[
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇<br />
<span style="font-size:large;"><strong>「先帝」という呼称について考える</strong></span><br />
《斎藤吉久のブログ　令和2年1月10日》<br />
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇<br />
<br />
<br />
先日、「先帝陛下というのは亡くなった天皇、大行天皇の意味ではないのか。ご存命の陛下に対して不敬にならないのか？」という趣旨のお問い合わせがありました。私は「先帝」で大丈夫だと思います。<br />
<br />
譲位なさった平成の陛下に対してどのようにお呼びすればいいのか、敬愛の念の深い方ほど、悩まれるのでしょう。皇室典範特例法は「退位した天皇は上皇とする」と定めていますが、私は馴染めません。「退位」もそうですが、なぜ略称なのか。「太上天皇」という歴史的な呼び方ではいけないのでしょうか。<br />
<br />
<br />
<strong>▽１　光格天皇は「先帝」</strong><br />
<br />
私は「先帝」をもっぱら使っています。２００年前に譲位された光格天皇の場合、「先帝」と表現されていますから、問題はないと思います。<br />
<br />
宮内省図書寮がまとめた『仁孝天皇実録』を見ると、受禅践祚が行われた文化１４年３月２２日の２日後の綱文（概要を示す本文）に、「先帝に太上天皇の尊号を上らる」（原文は漢字カタカナ混じり）とあり、譲位された光格天皇を「先帝」とお呼びしています。<br />
<br />
正確にいえば、綱文に続いて掲載された史料の「寛宮御用雑記」「洞中執次詰所日記」には、「尊号宣下」「宣下」の記述はあるものの、「先帝」とは記されていません。自明であり、わざわざ書き込む必要はないということでしょうか。<br />
<br />
したがって光格天皇、仁孝天皇の時代に「先帝」という呼称が使用されていたかどうかは、これだけでは不明ですが、宮内省図書寮という権威ある公機関が、この実録を編纂した昭和戦前期に、譲位後の天皇を「先帝」とお呼びしたことは少なくともはっきり確認できます。<br />
<br />
それならいまの宮内庁はどうかというと、残念なことに、皇室用語の使用が目を覆うほどに混乱しています。今回の御代替わりでも、宮内庁がまとめた資料には、「旧天皇」「前天皇」「新天皇」などと書かれていました。「先帝」「新帝」ではダメなのでしょうか。〈<a href="https://www.kunaicho.go.jp/news/pdf/shikitenjyunbi-2-shiryo1.pdf" target="_blank">https://www.kunaicho.go.jp/news/pdf/shikitenjyunbi-2-shiryo1.pdf</a>〉<br />
<br />
それどころか、信じがたいことに歴史の軽視どころか、改竄さえ行われたのです。もはや参考にならないということです。<br />
<br />
　【関連記事】<strong>宮内庁は史実のつまみ食いをしている!?──第２回式典準備委員会資料を読む　４</strong>〈<a href="https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2018-04-09" target="_blank">https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2018-04-09</a>〉<br />
<br />
<br />
<strong>▽２　固有名詞では呼ばない</strong><br />
<br />
ついでながら、終戦の年の春に、帝国学士院が編集発行した『帝室制度史　第６巻』は、天皇の称号である「帝号」について、詳しく説明しています。<br />
<br />
それによると、天皇は古来、さまざまに呼ばれてきたが、漢字文化の到来で、漢風の称号が用いられ、国風と漢風の併用が行われるようになったとあります。皇祖の子孫たることを示すスメミマノミコト、ヒノミコ。統治の意義に基づくスメラギ、スメラミコトなど。君主の意義を示すオホキミ、天皇、帝などというわけです。<br />
<br />
面白いのは、皇居などの事物を借りてお呼びするミカド、オホヤケ、禁裏、御所などの称号の存在です。なぜ場所で呼ばれるのか、これは、天皇の名前は固有名詞では呼ばれない御名敬避と関わっているようです。<br />
<br />
『帝室制度史　第６巻』には、ずばり「御名の敬避」なる一節があり、隋唐の文化が移入、定着したと説明しています。ただ、完全な外来文化との断言を避けています。そして大宝令にいたり、皇祖以下御名敬避は制度化されました。「先帝」についてはとくに説明はありません。近代以後は譲位が否定されています。<br />
<br />
戦後になると、天皇をわざと固有名詞で呼ぶケースがしばしば見受けられます。皇室の権威の低下か、あるいは特定の政治的意図があるのか。<br />
<br />
先帝の「御学友」、といっても昭和天皇の御学友とは異なり、実態は学習院の単なる同級生でしたが、陛下を固有名詞で呼び、それを著書に著す方がいました。外信部も経験した記者で、ファーストネームで呼び合う欧米文化の匂いが強く感じられました。宮内庁が使い出した「前天皇」「新天皇」にも共通性があります。<br />
<br />
　【関連記事】<strong>「ご学友」天皇論の限界──橋本明さんの不思議な文体</strong>〈<a href="https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2009-08-04-2" target="_blank">https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2009-08-04-2</a>〉<br />
<br />
庶民なら気軽に名前を呼び合うのもかまいませんが、せめて皇室については千年を超える歴史と文化を大切にしたいものです。譲位された天皇を「先帝」とお呼びすべきか否かよりも、こっちの方が深刻なような気がします。<br />
<a name="more"></a>
]]> 
</content>
</entry>
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<title>天皇制をやめるんですか──伊藤智永・毎日新聞編集委員の皇室記事を読んで</title> 
  <link rel="alternate" type="text/html" href="https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2020-01-05" />
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  <modified>2020-03-16T21:19:24Z</modified> 
  <issued>2020-01-05 20:47:16+09:00</issued> 
  <id>tag:blog.ss-blog.jp,2020:saitoyoshihisa.111331201</id> 
  <summary type="text/plain"> </summary> 
  <dc:subject></dc:subject> 

<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2020-01-05">
<![CDATA[
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇<br />
<span style="font-size:large;"><strong>天皇制をやめるんですか──伊藤智永・毎日新聞編集委員の皇室記事を読んで</strong></span><br />
<strong>《斎藤吉久のブログ　令和2年1月5日》</strong><br />
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇<br />
<br />
<br />
明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。<br />
<br />
さて、年明け早々、毎日新聞（電子版）にたいへん刺激的な記事が載りました。伊藤智永編集委員兼論説委員による「象徴天皇制を続けますか」という、きわめて挑発的なタイトルの記事で、安倍総理に女系継承容認を迫っています。<br />
〈<a href="https://mainichi.jp/articles/20200104/ddm/005/070/012000c?yclid=YJAD.1578199679.Vy2ZXbedcq1M8vrxPPrYksSnCWxVveI2L1yG26FDJPXdS5RehCgvbmhpy9kfZIreWAqjvzjUC6wuk88-" target="_blank">https://mainichi.jp/articles/20200104/ddm/005/070/012000c?yclid=YJAD.1578199679.Vy2ZXbedcq1M8vrxPPrYksSnCWxVveI2L1yG26FDJPXdS5RehCgvbmhpy9kfZIreWAqjvzjUC6wuk88-</a>〉<br />
<br />
簡単に要約すると、平成元年は祝賀ムードで過ぎたが、先帝が投げかけた「宿題」は手付かずのままだ。皇室が絶える日は近づいている。先帝は１つの象徴像を模索され、示された。実現した御代替わりは象徴天皇制の成熟と評価される。しかし天皇がいなくなれば、憲法体系は抜本的改変を迫られる。世論も自民党内も女性・女系容認論が大勢を占める。安倍政権が大胆に決断すれば歴史に名を刻む、というわけです。<br />
<br />
問題の核心は、象徴天皇制とは何か、です。そして、先帝と伊藤さんとでは意味が違うように私は思います。とすれば、結論は同じにはなりません。もう１つは、皇統の危機は間違いないとして、女性天皇・女系継承容認以外に方法はないのか、ということです。以下、検討します。<br />
<br />
<br />
<strong>▽１　先帝の「象徴」と伊藤さんの「象徴」</strong><br />
<br />
伊藤さんによれば、先帝は皇太子時代から、憲法に記された象徴天皇像を模索してこられました。弱者や被災者らに寄り添う「旅」は「象徴がなすことを創造し、国民の敬愛を重ねて一つの『型』を打ち立て」られたものでした。しかし違うのです。<br />
<br />
伊藤さんの「象徴」はあくまで現行憲法を出発点としていますが、先帝は違います。先帝は皇位継承後、機会あるごとに、「伝統」と「憲法」との両方を追求すると述べられています。<br />
<br />
伊藤さんの記事には皇室の「伝統」が抜けています。古来、スメラミコトとして国の中心にあり、国と民を統合してきた天皇の役割への眼差しが欠けています。天皇は現行憲法公布のはるか以前から「国民統合の象徴」だったことが見落とされています。<br />
<br />
先帝が問いかけられたのは、主権者たる「国民が皇室を存続させるつもりなら、今の皇位継承のしくみでは難しいですよ」というのではなくて、むしろ象徴天皇制の暗黙の前提とされているご公務主義、行動主義の評価ではないでしょうか。<br />
<br />
現行憲法は、天皇は国事行為のみを行うと定めています。具体的にいえば、伊藤さんが例示する「首相と最高裁長官の任命、憲法改正や法律・政令・条約の公布、国会召集と衆議院解散、大臣や上級官吏の任免」がそれです。<br />
<br />
伊藤さんが指摘するように、「天皇がいなくなったら、憲法体系の抜本改変は避けられない」ことになります。だから、と伊藤さんは論を進めるのですが、先帝が模索された象徴天皇像は、むろん国事行為のみを行う天皇ではありません。むしろ憲法には具体的定めのない、象徴的行為＝御公務をなさる天皇です。そして、その御公務の背後にあるのは、ひたすら国と民のために捧げられた歴代天皇の祈りの蓄積です。<br />
<br />
伊藤さんは、先帝が皇后とともに重ねられた「旅」によって象徴天皇像を「創造」し、国民はこれを敬愛して、１つの「型」が打ち立てられたと解説していますが、国民が敬愛するのは、憲法上の象徴ではなく、憲法の条文にはない、いわば非憲法的な天皇像なのです。<br />
<br />
したがって、伊藤さんが指摘したように、天皇がいなくなれば憲法体系が破綻するというのではなく、すでに現行憲法が空文化しているのであって、法の不足分を補完してきたのが先帝の「旅」だったのではないでしょうか。憲法の象徴天皇像は日本の歴史と乖離しています。<br />
<br />
１２６代続いてきた天皇は国民の知らないところで、国と民のために祈る祭り主でした。先帝が被災地で被災者に親しく声をかけられるのは、この祈りを行動に示された結果です。国民は先帝の行為の背後に見える、歴代の祈りの蓄積にこそ心を揺り動かされるのではありませんか。<br />
<br />
<br />
<strong>▽２　皇室のルールを臣下が変えることの是非</strong><br />
<br />
皇室には皇室固有の皇位継承についてのルールがあります。男系継承はまさにそれでしょう。それは憲法上、主権者とされる国民が勝手に変えていいものでしょうか。これは憲法問題ではなく、文明上の問題です。<br />
<br />
伊藤さんが仰せのように、天皇がいなくなったら憲法体系は崩壊するから、そうはならないように、国民主権の名のもとに、国民が、そしてその代表たる首相は決断すべきだと考えることは、その時点で、もはや天皇とはいえない、名ばかりの天皇を新たに作り上げることにならないでしょうか。<br />
<br />
伊藤さんは、「象徴天皇が政治のモラルを担う安心感は、思いのほか大きい」「象徴天皇制は民主主義の欲望と傲慢さと愚かさを補う」と評価しますが、プラス面ばかりとは限りません。天皇が被災者たちを激励しなければならないのは、行政の無能、怠慢の裏返しではないのですか。<br />
<br />
伊藤さんは、女系継承容認への決断を安倍政権に迫っています。改元の実現とあわせて、歴史に名を刻むだろうと誘っていますが、まったく逆ではありませんか。<br />
<br />
今回の改元は、古来の代始め改元とはまったく異質の、いわば退位記念改元でした。女性天皇は過去に確かに存在しますが、夫があり、あるいは子育て中の女性天皇は歴史に存在しません。まして歴史にない女系継承を国民主権を名目に容認したとして、皇配選びや御公務のあり方についてどう考えるのでしょうか。<br />
<br />
天皇の配偶者となれば、いろいろな条件が求められるでしょう。家柄も問われます。その子孫にも継承権が認められるには、皇配にも皇族性が求められるでしょう。しかしここで矛盾が生まれます。皇配は女性天皇より皇位継承順位の低い遠系の男子でなければなりませんが、それなら近系の女子を優先するより、遠系の男子が皇位を継承すべきだからです。<br />
<br />
伊藤さんもよくご存知のように、史書によれば、２５代武烈天皇が皇嗣なきまま崩御されたのち、皇位を継承された継体天皇は１５代応神天皇の五世孫で、即位後、武烈天皇の姉手白香皇女を皇后とされました。２００年前の１１９代光格天皇の皇后は先帝後桃園天皇の第一皇女です。これが皇室のルールです。勝手に変えるべきではありません。<br />
<br />
伊藤さんが指摘するように、先帝は１つの象徴天皇像を示されました。近代主義的行動主義、御公務主義というべきものですが、それには２つの限界がありました。<br />
<br />
１つは御公務の件数が無限に増えていく可能性です。毎日新聞の写真展にお出ましになって、他社の美術展にはお出ましにならないというわけにはいかないからです。２つ目は、健康と体力が絶対的要件だということです。老境に達せられた先帝が譲位を決断された理由こそまさにこれでした。<br />
<br />
先帝が「宿題」とされたのは、伊藤さんが仰せの、皇位継承の仕組みではなく、１２６代続いてきた古来の天皇制とは異なる、現行憲法が定める象徴天皇制での多忙を極める御公務のあり方です。つまり、天皇とは何だったのか、天皇のお務めとは何か、です。<br />
<br />
先帝の御在位２０年を過ぎたころから、宮内庁は御公務御負担軽減策に取り組みました。しかし、見事に失敗しました。文字通り激減したのは宮中祭祀であり、御公務は逆に増えました。失敗の責任を問うこともせずに、女性天皇はまだしも、歴史にない女系継承容認に挑戦することは論理の飛躍であり、角を矯めて牛を殺すことになりませんか。いやむしろご主張の目的はそこにあるとみるのは穿ち過ぎでしょうか。<br />
<br />
憲法は皇位の世襲を定めています。dynasticの和訳でした。王朝の支配がもともとの意味です。必然的に王朝の変更をもたらす女系継承容認は、憲法に違反します。伊藤さんは皇室の伝統にも憲法にも反しない、男系の絶えない仕組みを、なぜ模索しないのですか。<br />
<a name="more"></a>
]]> 
</content>
</entry>
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<title>個人商店と株式会社の狭間──現代の皇室が抱える矛盾</title> 
  <link rel="alternate" type="text/html" href="https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2019-12-31" />
  <link rel="service.edit" type="application/x.atom+xml" href="https://blog.ss-blog.jp/atom/blog_id=1385836/entry_id=111287908" title="個人商店と株式会社の狭間──現代の皇室が抱える矛盾" />
  <modified>2020-03-16T21:19:24Z</modified> 
  <issued>2019-12-31 15:51:12+09:00</issued> 
  <id>tag:blog.ss-blog.jp,2020:saitoyoshihisa.111287908</id> 
  <summary type="text/plain"> </summary> 
  <dc:subject></dc:subject> 

<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2019-12-31">
<![CDATA[
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇<br />
<span style="font-size:large;"><strong>個人商店と株式会社の狭間──現代の皇室が抱える矛盾</strong></span><br />
<strong>《斎藤吉久のブログ　令和元年12月31日》</strong><br />
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇<br />
<br />
<br />
一昨日の２９日、たいへん考えさせられる記事が共同通信（47 NEWS ）から配信された。大木賢一記者による「新天皇が見せた『重大な変化』とは　上皇の前例踏襲せず　国との関係性に影響？」〈<a href="https://this.kiji.is/582556828454388833?c=39546741839462401" target="_blank">https://this.kiji.is/582556828454388833?c=39546741839462401</a>〉である。<br />
<br />
記事は、９月に秋田で開かれた海づくり大会で、皇位継承後はじめてご臨席になった今上天皇が、国歌斉唱の際に皇后陛下とともに、「示し合わせたかのようにくるりと後ろを向いた」。先帝の時代にはなかった「異変」だ、と指摘している。<br />
<br />
記者たちを驚かせた「令和流」について、宮内庁は「国民を大切に思い、共に歩むという点では、上皇ご夫妻と変わらないだろう」と取材に答えたというのだが、識者たちは違う。<br />
<br />
<br />
<strong>▽１　君が代に背を向け、国旗を仰ぐ</strong><br />
<br />
「日の丸を背負って君が代を受け止める」という先帝の前例を踏襲しない、「君が代に背を向ける」今上天皇の「重大な変化」について、「国民と同じ視線と立場で共に国に敬意を表した」（河西秀哉准教授）、「国の最上位の公共性を表示する国旗に、陛下は公共性の究極の体現者として、敬意を表された」（高森明勅氏）、「涙が出る。今現在はたまたま自分が国を預かっているという認識の表れ」（八木秀次教授）とそれぞれに評価する研究者もいる。<br />
<br />
その一方で、「国民の国への過剰な帰属意識を誘う危険もある」（原武史教授）、「右派を利することにもなりかねないそうした行動は自重すべきだ」（池田直樹弁護士）と警戒する人たちもいる。その背後にはいうまでもなく、「君が代は国民を戦争に動員するものとして歌われた歴史がある」（河西准教授）との見方がある。<br />
<br />
些細なことのようにも見える変化を、大木記者が「重大」と捉えるのは、日の丸・君が代問題の悩ましさがあり、「国と天皇との関係性」を変えるかもしれないと考えるからだが、私にはむしろ現代天皇制が抱える矛盾を浮き彫りにしているように感じられた。それは大木記者の事実認識と識者たちの反応のなかに見え隠れしている。<br />
<br />
まず事実を振り返ると、大木記者によれば、先帝は皇后とともに式典の国歌斉唱で参列者の方を向いたままだったが、今上は皇后とともに後ろを向き、国旗を振り仰いだとされている。この「異変」に大木記者ほか取材記者らが注目し、そして研究者たちは国旗を仰ぎ見られた事実に着目している。<br />
<br />
ここで気づかされるのは、大木記者も教授たちも、先帝および今上天皇の行為が個人もしくは皇后との共同による行為と判断されていることである。天皇はかつてのような藩屏に囲まれた存在ではなく、いわば個人商店であり、そして上御一人ではなく、つねに「両陛下」と呼ばれる、いわば一夫一婦天皇制が標準であることが暗黙の前提となっている。<br />
<br />
そうだとして、一方では日本国憲法の国民主権主義下での象徴天皇制という枠組みのなかでは、天皇の地位は主権の存する国民の総意に基づくのであり、であれば、天皇の個人的もしくは皇后との共同的行為がいわば株式会社の株主とされている国民の絶対的支持を得られるかどうかが問われることになる。<br />
<br />
大木記者の記事はこのような問題意識から生まれたものと思われる。<br />
<br />
<br />
<strong>▽２　天皇は「個人」でいいのか</strong><br />
<br />
しかし、あらためて見直すと、事実は大木記者の理解と少し異なるように思う。つまり、側近の関わりが見逃されているのである。<br />
<br />
共同通信のサイトに載る画像をよく見ると、２年前の福岡大会で、先帝は皇后とともに参列者の方を向いたままだが、かたわらの側近もまた同様に国旗を仰いではいない。他方、今年の秋田大会では、今上も皇后も、そして側近も同様に後ろを向いている。国旗を仰いでいるのは今上と皇后だけではない。<br />
<br />
つまり、先帝、今上ともに、天皇個人の判断もしくは皇后との二人三脚ではなく、側近との何らかの打ち合わせがあり、そのうえでの統一行動であることが容易に推測される。<br />
<br />
大木記者の記事によると、今上は皇太子時代から「後ろを振り返っている」という。とすれば、「前例を覆した」のではなく、皇太子時代の「踏襲」といえる。側近の侍従職は東宮侍従からの持ち上がりだろうから、今上にとっては「異変」ではない。大木記者は、今上が皇后に「目配せした」ことをもって、「重大な変化」への意気込みであるかのように匂わせているが思い込みではなかろうか。<br />
<br />
問題は側近の関わり具合であろう。<br />
<br />
大木記者の記事に見られるように、平成も令和も、現代の天皇は間違いなく個人商店化している。支える藩屏の不在は昭和の時代から指摘されている。大木記者のような指摘が当然だとすれば、側近は事前によくご相談申し上げるべきだろう。ただし、的確な輔弼が可能かどうか。<br />
<br />
天皇のお言葉は、かつての宣命や勅語とはまるで違い、現代では個人の言葉に変わっている。今回の御代替わりは先帝のビデオ・メッセージに始まるが、あのお言葉には文章が飛んでいる箇所があり、明らかに第三者による推敲の跡が見受けられる。とはいえ、もともと専門の職掌の作成ではないだろう。２００年前の光格天皇の譲位の宣命が文章博士によって書かれたのとは、まったく異なる。<br />
<br />
藩屏を失い、個人としてお言葉を述べ、行動される。せいぜい皇后だけが唯一無二の協力者であるという個人商店化した現代の天皇にとって、国民の総意に基づくとする皇位を揺るぎなきものとなるためには、究極のポピュリズムを演じなければならないということにはならないか。<br />
<br />
他方、国民からすれば、個人化した皇室はアイドルか、個人崇拝の対象となりかねない。事実、メディアは動物園を視察する殿下やダンス好きの内親王を話題にし、国民の関心を煽っている。それは「天皇に私なし」とされる、１２６代続いてきた皇室の歴史と伝統の対極にある。<br />
<br />
天皇は個人でいいのか、大木記者はそこを取り上げてほしい。そして識者たちも考えてほしい。<br />
<br />
<br />
<a name="more"></a>
]]> 
</content>
</entry>
<entry>
<title>少し見えてきた非宗教的な昭和天皇「大喪の礼」の経緯──皇室の伝統を無視する政教分離厳格主義者たちの創作</title> 
  <link rel="alternate" type="text/html" href="https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2019-12-30" />
  <link rel="service.edit" type="application/x.atom+xml" href="https://blog.ss-blog.jp/atom/blog_id=1385836/entry_id=111280490" title="少し見えてきた非宗教的な昭和天皇「大喪の礼」の経緯──皇室の伝統を無視する政教分離厳格主義者たちの創作" />
  <modified>2020-03-16T21:19:24Z</modified> 
  <issued>2019-12-30 20:12:34+09:00</issued> 
  <id>tag:blog.ss-blog.jp,2020:saitoyoshihisa.111280490</id> 
  <summary type="text/plain"> </summary> 
  <dc:subject></dc:subject> 

<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2019-12-30">
<![CDATA[
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇<br />
<span style="font-size:large;"><strong>少し見えてきた非宗教的な昭和天皇「大喪の礼」の経緯</strong></span><br />
<strong><span style="font-size:large;">──皇室の伝統を無視する政教分離厳格主義者たちの創作</span></strong><br />
（2019年12月30日）<br />
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇<br />
<br />
<br />
一昨日、時事通信が、昭和天皇の大喪の礼に関する、興味深い記事を配信しました。昭和５７年に外務省が宮内庁と極秘に協議していた。外務省外交資料室が秘密指定を解除した記録から明らかになった、というのです。〈<a href="https://sp.m.jiji.com/article/show/2320998" target="_blank">https://sp.m.jiji.com/article/show/2320998</a>〉<br />
<br />
記事によると、その経緯は以下のようなものでした。<br />
<br />
昭和５７年６月　宮内庁は外務省に対して、在英、西ドイツ、フランス、ユーゴの各公館長宛てに、当該国元首の葬儀の内容について調査することを依頼した。他方、外務省儀典官室では、英国のジョージ６世、スウェーデン国王、現職大統領で死去したケネディ、チトーの国葬を調査するとともに、吉田茂、池田勇人、佐藤栄作、大平正芳といった歴代首相の葬儀も参考にすることを決めた<br />
同年秋ごろ　西田誠哉儀典長の指示で、ごく少数の間で作業が開始された<br />
同年１２月はじめ　外務省出身の安倍勲式部官長らとともに、勝山亮宮内庁審議官と協議した。このとき勝山氏は、皇室典範の規定に基づき「大喪の礼」を行う、国葬になるとの見通しを示し、「大正天皇の時の例にならう」とも述べた<br />
<br />
<br />
<strong>▽１　なぜ伝統が否定されるのか</strong><br />
<br />
記事から浮かび上がってくるのは、（１）外務省、宮内庁は皇室典範に記された「大喪の礼」を、皇室の歴史と伝統に基づく儀礼とは必ずしも理解していないこと。（２）基準とすべき先例を、国内より海外の元首や現代の首相の公葬に求めたこと、（３）宮内庁内には大正天皇大喪儀を先例として踏襲する考えがあったこと、です。<br />
<br />
１２６代続いてきた皇室には膨大な儀式の体系がありますが、官僚たちは皇室の伝統を軽視して、むしろ海外に学ぶ新例を開こうとしたのでしょうか。昭和天皇崩御のあと、斂葬の儀で装束を着るという伝統派の職員が提出した計画書に、「時代錯誤」「日本の恥」と怒り狂った宮内庁幹部がいたという話を思い出します。<br />
<br />
ともかく、戦後何十年もの間、皇位継承の重要事について具体的なあり方を検討してこなかった政府が、昭和天皇の最晩年になってようやく重い腰を上げたのです。昭和天皇は昭和６２年４月、お誕生日の宴会の儀で御体調を崩され、９月には開腹手術を受けられました。翌年６月に宮内庁次長ほかによる幹部会が設けられ、７月には藤森昭一長官が準備指令を出しました。泥縄です。<br />
<br />
以前、「文藝春秋」に書いたように、戦前は憲法と同格の皇室典範を頂点とする宮務法の体系があり、天皇の大喪儀については皇室喪儀令およびその附式（大正１５年）に具体的かつ詳細な規定がありました。<br />
<br />
ところが、戦後、皇室典範は改正され、新憲法の公布に伴って皇室令は全廃されました。依拠すべき具体的な定めを失ったのです。〈<a href="https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2012-04-17-1https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2012-04-17-1" target="_blank">https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2012-04-17-1https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2012-04-17-1</a>〉〈<a href="https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2012-04-22-1" target="_blank">https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2012-04-22-1</a>〉<br />
<br />
だから、外務省も宮内庁も振り出しにもどって、大喪儀のあり方を模索するほかはない、と考えたのでしょうか。しかしそれは誤った判断ではなかったでしょうか。<br />
<br />
第一に、戦後の皇室典範の立法者たちは「大喪の礼」を新例とは考えていないと推定されます。むしろ皇室伝統の形式による大喪儀の諸儀礼を意味していると考えるのが妥当です。というのも、皇室典範改正案として帝国議会に提出された確定案は、「大喪の礼」が一つの儀式（the Rite）ではなく、複数形の諸儀礼（the Rites）として表現されているからです。皇室儀礼の体系に変更はないという趣旨の議会での答弁がされているからです。<br />
<br />
また、「文藝春秋」のインタビューで永田さんが述べているように、皇室の儀礼の伝統は皇室令の廃止後、宮内府長官官房文書課長による依命通牒第三項によって、「從前の規定が廢止となり、新らしい規定ができていないものは、從前の例に準じて、事務を處理すること」とされ、かろうじてながら存続しています。祭祀令は廃止されたけれども、祭祀令の附式は生き残ったのです。<br />
<br />
この依命通牒はその後も廃止されていません。だからこそ、貞明皇后の御大喪は２６年６月、占領中で神道指令が効力を有しているにもかかわらず、旧皇室喪儀令に準じて行われ、国費が支出され、国家機関が参与しました。昭和３４年の皇太子御成婚の結婚の儀は賢所大前で、天皇の国事行為として行われています。<br />
<br />
<br />
<strong>▽２　参加を強制しなければ済む</strong><br />
<br />
依命通牒は生きている、と平成になって宮内庁幹部が国会答弁しています。とすれば、皇室喪儀令の附式に準じて、昭和天皇の大葬儀は行われるべきでした。しかしそうはならず、「大喪の礼」なる新例が開かれ、皇室行事の斂葬の儀と分離・ドッキングして行われました。そして静謐なる祭儀の途中に、鳥居や大真榊を取り外す無様なドタバタ劇が演じられました。<br />
<br />
原因は政教分離であり、宮中祭祀や神道にだけは厳しい政策の二重基準です。昭和５０年８月１５日に宮内庁が長官室会議で、政教分離の厳格主義を採用することに改め、皇室儀礼の非宗教的改変を密室で断行したのがそもそもの始まりです。宮内庁や外務省が国内ではなく海外の例を参考に「大喪の礼」の挙行を模索したのは、当然の成り行きだったでしょう。<br />
<br />
神道指令下の占領中でも、社会党政権下でも、側近の侍従による御代拝が粛々と行われたのに、公務員が祭祀に関わることはまかりならんとにわかに解釈運用を一変させた法的根拠が明らかにされるべきです。<br />
<br />
最後に蛇足ながら申し上げると、かつては大喪儀に際して「大喪使」という特別の官制が臨時に設けられました。明治３０年の英照皇太后の場合は、宮内省達で宮中に設置され、長官には皇族が親任されました。同４５年の明治天皇崩御に際しては、勅令で大喪使官制が裁可公布され、大喪使が宮中に設置され、総裁には皇族が勅命されることとされました。<br />
<br />
そして大正１５年１０月の皇室喪儀令です。崩御の公告、追号の勅定広告、廃朝、大喪使設置などが定められました。大正天皇崩御の日に勅令で公布された大喪使官制は、大喪使は内閣総理大臣の管理に属し、総裁は皇族から勅定されるとされました。皇室喪儀令の附式は第一編大喪儀、第二編皇族喪儀からなり、第一編第一の天皇大喪儀には殯宮移御の儀、追号奉告の儀、陵所地鎮祭の儀などが細かく定められています。<br />
<br />
現代の官僚たちはなぜ大喪使という特別組織を立てようとしないのでしょう。そうすれば、宮内庁職員が日常業務をこなしながら皇位継承儀礼に携わる業務の過酷さを回避できるはずです。政府が直接関わるという形式も避けられたはずです。皇室典範は「天皇が崩じたときは、大喪の礼を行う」と定めているだけなのです。<br />
<br />
東日本大震災の追悼式は毎年、政府主催で行われます。兵庫県の阪神大震災追悼式典は県などの主催です。前者は行政が直接関わり、後者は実行委員会方式で、民間組織も加わっています。犠牲者の追悼は明らかに宗教行為ですが、いずれも政教分離違反とはされません。兵庫では毎回、キリスト教の宗教音楽が演奏されますが、違憲との批判はありません。<br />
<br />
それなのになぜ皇室の宗教伝統は重視されないのですか。参列を強制しなければ済むことでしょうに。時事通信の記事にある昭和５０年代の宮内庁にはまだ大正天皇の先例に学ぼうとする幹部がいたようですが、外務省ＯＢが中枢を占めるいまの宮内庁に伝統重視を期待するのは無理なのでしょうか。<br />
<br />
<a name="more"></a>
]]> 
</content>
</entry>
<entry>
<title>皇室の伝統破壊を記載する皇統譜──保守派人士たちはなぜ怒らないのか</title> 
  <link rel="alternate" type="text/html" href="https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2019-12-28" />
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  <modified>2020-03-16T21:19:24Z</modified> 
  <issued>2019-12-28 19:47:24+09:00</issued> 
  <id>tag:blog.ss-blog.jp,2020:saitoyoshihisa.111263338</id> 
  <summary type="text/plain"> </summary> 
  <dc:subject></dc:subject> 

<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2019-12-28">
<![CDATA[
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇<br />
<strong><span style="font-size:large;">皇室の伝統破壊を記載する皇統譜</span></strong><br />
<strong><span style="font-size:large;">──保守派人士たちはなぜ怒らないのか</span></strong><br />
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇<br />
<br />
<br />
一連の御代替わりの儀礼がすべて終了した。報道によると、宮内庁は２７日夕刻、今上天皇のために新調された大統譜に「即位」のことを記載した。<br />
<br />
毎日新聞電子版には喜屋武真之介氏撮影による画像が７枚載っている。真新しい大統譜（天皇・皇后の皇統譜）は和綴で、表紙には「第百二拾六代　大統譜」と楷書で記されている。<br />
<br />
中の記載は漢字カタカナ混じりである。歴史仮名遣いで、句読点はない。２枚目と３枚目の写真は同じページを写しているが、撮影の角度が異なる。前ページからの続きなのだろうか、次のように文章が途中から始まっている。<br />
<br />
<br />
<strong>▽１　政教分離の厳格主義の結果</strong><br />
<br />
「ビ同日皇太子徳仁親王皇位継承ノ公告ニ依リ登録ス<br />
（平成参拾壱年四月参拾日ノ翌日カラ令和ト改元サル）［注＝「令和」にはカタカナで「レイワ」とルビがある］<br />
　令和元年拾弐月弐拾七日<br />
　　宮内庁長官　西村泰彦<br />
　　書陵部長　坂井孝行<br />
令和元年五月壱日剣璽等承継ノ儀及ビ即位後朝見ノ儀ヲ行フ<br />
右令和元年五月弐拾弐日ノ公告ニ依リ登録ス<br />
　令和元年拾弐月弐拾七日<br />
　　宮内庁長官　西村泰彦<br />
　　書陵部長　坂井孝行<br />
令和元年拾月弐拾弐日即位礼正殿ノ儀ヲ行フ<br />
右令和元年九月弐拾六日ノ公告ニ依リ登録ス<br />
　令和元年拾弐月弐拾七日<br />
　　宮内庁長官　西村泰彦<br />
　　書陵部長　坂井孝行<br />
令和元年拾壱月拾四日及ビ拾五日大嘗祭ヲ行フ<br />
右令和元年五月八日ノ公告ニ依リ登録ス<br />
　令和元年拾弐月弐拾七日」<br />
<br />
１２６代というからには皇位が初代神武天皇から続いていることを政府は認識していることになるが、改元は４月３０日の先帝退位の翌日からであり、５月１日に剣璽等承継の儀及び即位後朝見の儀が挙行されたという記録は、逆に１２６代続く皇室の歴史と伝統の断絶を皇統譜に刻み付けるものとなった。<br />
<br />
前回の改元は先帝崩御の翌日で、まだしも代始め改元の形式だったが、今回はいわば退位記念改元であり、いみじくも皇統譜にそのことが記録された。<br />
<br />
また、平安時代に践祚と即位が区別されたのを、政府は前回の御代替わりで、法律から「践祚」が失われたことを理由に践祚の概念を失わせ、今回は３日間の賢所の儀のあとに行われるべき朝見の儀を践祚当日に挙行させたのである。前回も今回も剣璽渡御とは呼ばれない。<br />
<br />
目的は宗教性の排除で、政教分離の厳格主義の結果である。憲法は宗教の価値を認めているのにである。歴史ある皇室の祭祀の意味が理解できないからである。政教分離訴訟が影を潜めている状況を評価する保守主義者がいるが、話は逆だろう。<br />
<br />
<br />
<strong>▽２　長期保守政権下での大義なき変革</strong><br />
<br />
４枚目の写真は先帝の大統譜であろうか、次のように記載されている。<br />
<br />
「　宮内庁長官　西村泰彦<br />
　　書陵部長　坂井孝行<br />
平成参拾壱年四月参拾日限リ退位ス<br />
令和元年五月壱日上皇トナル<br />
右令和元年五月壱日ノ公告ニ依リ登録ス<br />
　令和元年拾弐月弐拾七日<br />
　　宮内庁長官　西村泰彦<br />
　　書陵部長　坂井孝行」<br />
<br />
「退位」とあるのは特例法が根拠である。政府は「譲位」を認めていない。「上皇トナル」も同様である。「上皇」は尊称ではない。かつては「太上天皇」の尊号は新帝から贈られたが、いまは国民の代表者が作る法律が根拠である。２００年前の光格天皇の場合、仁孝天皇に譲位されたのは文化１４年３月２２日、太上天皇の尊号が贈られたのは翌々日の２４日であった。<br />
<br />
皇室の原理は伝統と革新であり、変革が必ずしも悪いことではないが、何のために変えるのか、大義名分が不明といわざるを得ない。大義名分なき変革は伝統の破壊そのものである。戦前戦後を通じて最長の保守政権下で、皇室の伝統の破壊が行われたことにあらためて長嘆息を禁じ得ない。保守派人士たちはなぜ怒りの声を上げないのだろうか。政府にとっての皇室の歴史とはけっして１２６代のそれではないことを知るべきだ。<br />
<br />
先月だったか、討論会で、前回の御代替わりを振り返り、大嘗祭が挙行できたことを相変わらず勝ち誇る法学者がいた。挙行が危ぶまれた最重要儀式が行われたことは間違いなく成果だが、３０年後のいまもなお、やったやったで終始するのは知性的とはいえない。むしろこの間の知的停滞こそがさんざんな御代替わりの遠因であることを、この識者を見て痛感したものである。<br />
<a name="more"></a>
]]> 
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<title>やはりそうだったか、令和大嘗宮の違和感 ──宮内庁さま、経費節減はまだしも政教分離違反では？</title> 
  <link rel="alternate" type="text/html" href="https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2019-12-08" />
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  <modified>2020-03-16T21:19:24Z</modified> 
  <issued>2019-12-08 20:42:06+09:00</issued> 
  <id>tag:blog.ss-blog.jp,2020:saitoyoshihisa.111093179</id> 
  <summary type="text/plain"> </summary> 
  <dc:subject></dc:subject> 

<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2019-12-08">
<![CDATA[
<br />
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇<br />
<strong><span style="font-size:large;">やはりそうだったか、令和大嘗宮の違和感</span></strong><br />
<strong><span style="font-size:large;">──宮内庁さま、経費節減はまだしも政教分離違反では？</span></strong><br />
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇<br />
<br />
<div align="center"><a href="https://saitoyoshihisa.c.blog.ss-blog.jp/_images/blog/_8e1/saitoyoshihisa/467E1A17-3B40-4E2D-8A11-8A6D34DEA7DD.jpeg" target="_blank"><img src="https://saitoyoshihisa.c.blog.ss-blog.jp/_images/blog/_8e1/saitoyoshihisa/m_467E1A17-3B40-4E2D-8A11-8A6D34DEA7DD.jpeg" width="350" height="262" border="0" align="" alt="467E1A17-3B40-4E2D-8A11-8A6D34DEA7DD.jpeg" onclick="location.href = 'https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/upload/detail/m_467E1A17-3B40-4E2D-8A11-8A6D34DEA7DD.jpeg.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a></div><br />
前から気になっていたことがありました。大嘗宮周辺の地面の色です。<br />
<br />
遠目で見ると廻立殿と大嘗宮の周りだけが白く見えます。プレハブ幄舎の屋根のように、白いビニールを敷いたのか、まさかそんなことはないだろうと疑っていました。<br />
<br />
それで方々に話を聞いてみたところ、前回同様、細かい白い砂（砂利）を敷いたというのです。もともと芝生があったところなどは、「歩くとフワフワする」ようです。<br />
<br />
でもヘンなんです。中途半端なんです。白砂の部分が一部に限られているのです。で、やっぱりそうだったんです。<br />
<br />
<br />
<strong>▽１　一部にしか白砂利がない</strong><br />
<br />
前回はどうだったのか、工事に関わったという社寺建設業者のサイトを見ると、幄舎のビニール屋根の違和感は同じですが、地面はというと、外周垣まで一面に白砂利が敷き詰められていることが分かります。<br />
〈<a href="http://www.daibun.co.jp/photo/work-h02-2.html" target="_blank">http://www.daibun.co.jp/photo/work-h02-2.html</a>〉<br />
<br />
それなら、今回はどうなのでしょう。<br />
<br />
大嘗宮の儀の前日に撮影されたという新聞掲載の画像を見ると一目瞭然ですが、板葺屋根の違和感だけではありません。幄舎のほか膳屋や斎庫その他に、無機的なビニール屋根が侵食しています。そして地面です。<br />
<br />
柴垣内すなわち悠紀殿と主基殿および廻立殿の周辺だけに限定して白砂利が敷かれているようで、柴垣の外すなわち膳屋や幄舎周辺は色違いの砂利になっています。違和感を覚えざるを得ないのはそのためです。自然な統一感がないのです。<br />
〈<a href="https://www.chunichi.co.jp/article/front/list/CK2019110902000269.html" target="_blank">https://www.chunichi.co.jp/article/front/list/CK2019110902000269.html</a>〉<br />
<br />
政府は前例踏襲を基本方針の１つに掲げたはずですが、それならばなぜ全面に白砂利を敷かなかったのでしょう。<br />
<br />
都立図書館に木子文庫があります。明治の初期に宮中の作事に関わった宮大工で、帝国大学で教鞭をとったこともある木子清敬さんの関係資料が所蔵され、そのなかに明治の大嘗宮の透視図があります。<br />
〈<a href="https://intojapanwaraku.com/travel/48605/" target="_blank">https://intojapanwaraku.com/travel/48605/</a>〉<br />
<br />
これを見ると、今回と基本構造が酷似していることが分かります。近代の巨大化した大嘗宮の原型なのでしょう。<br />
<br />
かつては紫宸殿の南庭に建てられたのが大嘗宮です。南北40メートル、東西60メートルに収まっていたということです。いまはほぼ２倍の１ヘクタールあります。<br />
<br />
巨大化の原因は幄舎です。もともと人に見せることを予定しない大嘗宮の儀なのに、1000人にも及ぶ内外の要人を参列させようとしたからです。欧米諸国と張り合おうとした結果でしょう。<br />
<br />
<br />
<strong>▽２　皇居宮殿東庭では駄目なのか</strong><br />
<br />
明治22年の皇室典範では即位礼、大嘗祭は京都で行うこととされました。現行の皇室典範ではそれはありません。皇位継承儀式は都で行うことが原則であるなら、皇居宮殿東庭に大嘗宮を建てることは不可能でしょうか？<br />
<br />
幄舎を建てないなら4500坪の広さは十分のはずです。問題は全面に敷かれた安山岩の石畳です。一時的に撤去するか、土砂を敷き入れるか、対策が必要です。<br />
<br />
もし可能なら、参列者は寒くて暗い屋外の幄舎ではなく、宮殿内でビデオ解説を見ながら大嘗宮の儀の進行を見守ることになるでしょう。少なくとも外周垣の外はアスファルトむき出しという無粋な光景は避けられるのではないでしょうか？<br />
<br />
ちなみにですが、砂利というのは、１立米あれば５センチの厚みで２０平米に敷くことができるようです。とすると、１ヘクタール＝１００００平米なら、５００立米で足ります。仮に１立米１万円でも、５００万円です。実際はもっと安いし、３センチの暑さなら３３平米に敷けます。大嘗祭が済めば再利用も可能でしょう。<br />
〈<a href="http://www.takagikenzai.com/syouhin_tuti.htm" target="_blank">http://www.takagikenzai.com/syouhin_tuti.htm</a>〉<br />
<br />
大嘗祭は宗教儀式だというのが政府の見解で、だから政教分離の観点から、国の行事ではなく、皇室行事とされました。それなのに、経費節減を口実に、やれ茅葺ではなく板葺だ、なんだと不当に介入することは、それこそ政教分離違反ではないでしょうか。裁判をも辞さないと構えているキリスト者たちなどは、ぜひ政府を批判してほしい。<br />
<a name="more"></a>
]]> 
</content>
</entry>
<entry>
<title>新帝はいかなる神と一体化するのですか？ ──「正論」12月号掲載、竹田恒泰大嘗祭論を批判する</title> 
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  <modified>2020-03-16T21:19:24Z</modified> 
  <issued>2019-11-28 15:00:17+09:00</issued> 
  <id>tag:blog.ss-blog.jp,2020:saitoyoshihisa.111005398</id> 
  <summary type="text/plain"> </summary> 
  <dc:subject></dc:subject> 

<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2019-11-28">
<![CDATA[
以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン（2019年11月28日）からの転載です。<br />
<br />
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇<br />
新帝はいかなる神と一体化するのですか？<br />
──「正論」12月号掲載、竹田恒泰大嘗祭論を批判する<br />
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇<br />
<br />
<br />
「正論」12月号に、「『大嘗祭』の意味を理解する」（12月号）と題する竹田恒泰さんのエッセイが掲載されました。残念ながら、保守派言論人の大嘗祭論としては物足りなさを強く感じました。「意味を理解する」前に、新帝が何をなさるのが大嘗祭なのか、理解の前提として必要とされる事実認識が中途半端に思えるからです。<br />
<br />
竹田さんは、前回の御代替わりで話題になった、折口信夫流のオカルトチックで、非実証的な真床覆衾論を否定しています。天皇が神になるのではなく、天神地祇を拝し、直会なさるのが大嘗祭のあり方であることも指摘されています。いずれも正しい理解でしょう。<br />
<br />
そのうえで、大嘗祭の「意味」について、竹田さんは、神人共食の儀礼によって、神と一体化し、即位が神に承認されることだと説明しておられます。竹田さんの文章では、天神地祇に新穀を捧げる神人共食の儀礼によって神と一体化し、承認を受けるということですが、それで意味が通じますか。<br />
<br />
<br />
▽１　天神地祇と一体化する？<br />
<br />
必要な事実のポイントは、祭神と神饌の２点。いかなる神に、何を捧げるのか、です。竹田さんの解説は論理が首尾一貫しないように思われます。<br />
<br />
竹田さんの論理では、もし新帝が大嘗宮で皇祖天照大神をまつり、稲の新穀を供え、祈り、直会なさるというのなら、斎庭の稲穂の神勅に基づいて、皇祖神と一体化し、皇祖神の承認を受けるという意味に解され、納得もできそうです。<br />
<br />
けれども、大嘗宮の儀はそういう儀礼ではありません。<br />
<br />
まず祭神ですが、竹田さんご自身が書いておられるように、大嘗宮内陣に祀られるのは皇祖神ほか天神地祇であり、皇祖神のみではありません。そのことはすでに知られている過去の御告文を見れば明らかです。<br />
<br />
もし皇祖神のみを祀るのであれば、祭場は賢所で十分であり、新嘗祭の神嘉殿も大嘗祭の大嘗宮も不要でしょう。逆に、皇祖神との一体化が大嘗祭の本義なら、天神地祇を祀る必要はありません。<br />
<br />
つまり、大嘗宮を建て、皇祖神ほか天神地祇を祀るという大嘗祭の実態からすれば、竹田さんの主張なさる一体化と承認説には無理があります。<br />
<br />
キリスト教会の典礼なら、葡萄酒とパンはキリストの血と肉であり、聖体拝領は文字通り神との一体化を意味しますが、天皇による神饌御親供と御直会はむしろ命の共有という意味ではないでしょうか。<br />
<br />
明治に惜しくも廃されてしまった「サバの行事」は、竹田さんもご存知でしょう。歴代天皇は毎食ごとに、わがしろしめす国土に飢えたる民が1人あっても申し訳ないとの思し召しから、食膳からみずから一箸ずつ取り分け、衆生に捧げたと聞きます。民と命を共有してきたのが天皇です。<br />
<br />
<br />
▽２　命の共有による国民統合<br />
<br />
２つ目は、大嘗祭の神饌です。<br />
<br />
竹田さんの今回のエッセイでは「神饌」としか書いてありませんが、『皇統保守』などを拝読すると、以前は、新嘗祭や大嘗祭は稲の祭りだと説明されています。日本人は「稲作民族」「米食民族」であることが強調されています。<br />
<br />
しかし、以前、指摘したように、これは間違いです。<br />
<br />
古来、粟を食し、粟を聖なる食物として供饌する民や神社の存在が知られています。正月に米の餅を食べない「餅なし正月」の民俗は全国各地に分布しています。日本列島は「稲作」「米食」一色ではありません。粟の民は粟の神に粟を捧げ、稲の民は稲の神に稲を供してきたのです。<br />
<br />
例外は天皇です。<br />
<br />
天皇が新嘗祭や大嘗祭で、神前に供し、直会なさるのは、米と粟の御飯（おんいい。強飯）と白酒・黒酒です。稲だけではありません。天皇だけが天神地祇に米と粟の新穀を捧げて祈りを重ねてきたのです。なぜなのか。<br />
<br />
稲の民なら、稲の神のほかに粟の神を祀り、粟を捧げる必要はありません。粟の民も同様です。しかし国と民と１つに統合するお立場の天皇なら、稲の神、粟の神、あらゆる神に祈りを捧げる。そのためには米と粟の神饌が当然、必要でしょう。多神教を前提とする複合儀礼とならざるを得ないのです。<br />
<br />
歴代天皇が即位の直後に大嘗祭を、毎年秋には新嘗祭を執り行ってこられたのは、「国中平らかに、安らけく」という祈りからです。皇祖神のみならず天神地祇に、米ならず粟の新穀を捧げるのは当然です。<br />
<br />
大嘗祭のあとには節会が行われ、神と天皇と民の命の共有が図られ、国は１つに統合されるのです。天皇は古来、国民統合の象徴なのです。新嘗祭、大嘗祭は命の共有による国民統合の国家的儀礼なのです。き<a name="more"></a>
]]> 
</content>
</entry>
<entry>
<title>伊勢雅臣さん、大嘗祭は水田稲作の農耕儀礼ですか？ ──国際派日本人養成講座の大嘗祭論に異議あり</title> 
  <link rel="alternate" type="text/html" href="https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2019-11-24" />
  <link rel="service.edit" type="application/x.atom+xml" href="https://blog.ss-blog.jp/atom/blog_id=1385836/entry_id=110971877" title="伊勢雅臣さん、大嘗祭は水田稲作の農耕儀礼ですか？ ──国際派日本人養成講座の大嘗祭論に異議あり" />
  <modified>2020-03-16T21:19:24Z</modified> 
  <issued>2019-11-24 18:20:39+09:00</issued> 
  <id>tag:blog.ss-blog.jp,2020:saitoyoshihisa.110971877</id> 
  <summary type="text/plain"> </summary> 
  <dc:subject></dc:subject> 

<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2019-11-24">
<![CDATA[
以下は<strong>「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン</strong>（2019年11月24日）からの転載です<br />
<br />
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇<br />
<strong><span style="font-size:large;">伊勢雅臣さん、大嘗祭は水田稲作の農耕儀礼ですか？
</span></strong><br />
<strong><span style="font-size:large;">──国際派日本人養成講座の大嘗祭論に異議あり</span></strong><br />
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇<br />
<br />
<br />
　伊勢雅臣さんの「国際派日本人養成講座」は定評あるブログで、私もファンですが、１１月１７日の「大嘗祭」はいただけませんでした。思い込みに囚われ過ぎているからです。とはいえ、他人様の文章にいちいちケチをつけるのも大人気ないし、唇を噛んでおりました。<br />
<br />
　しかし、渡部亮次郎・元NHK 記者主宰の人気メルマガ「頂門の一針」に転載されるに及んで、看過できなくなりました。というわけで、以下、押っ取り刀で批判させていただきます。<br />
<br />
　ポイントは、（１）大嘗祭の「根っこ」は稲の収穫儀礼なのか、（２）稲作＝水田耕作なのか、（３）大嘗祭は天孫降臨神話のみを根拠とすべきなのか、（４）大嘗祭の精神はアニミズムなのか、などでしょうか。<br />
<br />
<br />
<strong>▽１　工藤隆名誉教授に依拠した必然</strong><br />
<br />
　具体的に検証します。<br />
<br />
　まず、伊勢さんは、新嘗祭、大嘗祭を、「稲の収穫儀礼」と断定し、無批判に議論を進めています。最大の問題はこれです。<br />
<br />
　当メルマガの読者なら常識でしょうが、神嘉殿の新嘗祭、大嘗宮の大嘗祭で天皇が神前に捧げ、直会されるのは米と粟の新穀です。伊勢さん自身、メルマガの後半で「米と粟」と明記する『国史大辞典』を引用しています。<br />
<br />
それなら、なぜ伊勢さんは「稲の収穫儀礼」として解説するのですか。一面的な議論に終わることは明らかでしょうに。大嘗祭の粟は付け足しなのですか。<br />
<br />
　伊勢さんの論拠となっているのは、工藤隆・大東文化大学名誉教授の大嘗祭論でした。一昨年、発刊された著書は、新嘗祭、大嘗祭をアマテラスオオカミに新稲を捧げる祭りと決め付けています。しかも、工藤教授にとっては稲作＝水田稲作です。焼畑の陸稲が無視されています。<br />
<br />
　これに依拠する伊勢さんの大嘗祭論がねじ曲がっていくのは必定です。<br />
<br />
　伊勢さんが引用しているように、工藤教授は水田稲作の源流を長江文明とし、そこから派生したマレー半島の稲作の収穫儀礼と大嘗祭との類似点を指摘します。「大嘗祭の重要な要素のほとんどすべてが揃っている」というわけです。<br />
<br />
　しかし日本の稲の源流は１つではないことが分かっています。遺伝学者の佐藤洋一郎さんによると、東南アジア島嶼部を源流とする熱帯ジャポニカと長江中下流域から伝わった温帯ジャポニカとがあり、日本列島で両者が自然交雑し、日本の稲が生まれたというのが「南北二元説」です。早稲の出現で稲作は瞬く間に北進したのです。<br />
<br />
　工藤教授が説明しているのは後者だけです。<br />
<br />
　前者すなわち熱帯ジャポニカはいわゆる「海上の道」を通ってやってきたと考えられています。東南アジアと共通する踏耕（ホイトウ）は黒潮沿いの神社の祭礼に伝わり、伊勢神宮のお田植祭はその１つと指摘されています。<br />
<br />
　熱帯ジャポニカは陸稲で、もち米といわれます。焼畑農耕文化です。大嘗祭の米は甑で蒸して調理されます。古くはもち米だったのでしょう。私はタイ北部の焼畑農耕地域で、もち稲の蒸し米を常食とする農家にお世話になったことがあります。ほっぺたが落ちるほど、美味しいご飯でした。<br />
<br />
　工藤教授および伊勢さんは、大嘗宮の神座（寝座）にも言及し、天孫降臨神話について説明するのですが、神話学の知見では、天降り神話はユーラシア大陸全域に伝わっているようです。関連する穀物は日本以外はすべて麦であり、日本の天孫降臨神話は大陸の天降り神話と東南アジアの稲作神話との融合だと神話学者の大林太良さんは推理しています。<br />
<br />
　天孫降臨神話は火の神との関連で伝わっており、焼畑農耕の伝承と想像されます。そういえば、神話の原郷である高千穂も霧島も、稲荷信仰の総本社である伏見稲荷大社もすべて山です。霧島はいまも火を噴いています。<br />
<br />
<br />
<strong>▽２　真弓常忠教授も粟を無視</strong><br />
<br />
　伊勢さんは真弓常忠・皇學館大学教授の大嘗祭論も引用していますが、真弓教授にも粟は登場しません。むろん天孫降臨神話には粟は無関係です。<br />
<br />
　伊勢さんのように、工藤教授や真弓教授も同様ですが、水田稲作や天孫降臨神話で新嘗祭や大嘗祭を説明しようとするところに限界があるのです。伊勢さんは、そして渡部亮次郎先生は、新嘗祭や大嘗祭の粟は何だとお考えですか。<br />
<br />
　古来、粟を捧げる新嘗の祭りや神社が知られています。粟穂は、稲穂と同様、豊穣のシンボルであり、「粟穂に鶉」は絵画や彫刻の題材とされてきました。そうした日本の伝統的観念が宮中の祭祀とつながっていることは容易に想像されますが、無視されていいのでしょうか。<br />
<br />
　何度も指摘してきたことですが、天孫降臨神話に基づいて、稲の新穀を皇祖神に捧げる祭りなら、祭儀は賢所で十分なのであり、神嘉殿も大嘗宮も不要でしょう。なぜ天皇は米と粟を捧げ、祈り、直会なさるのか、あらためて考えるべきではありませんか。<br />
<a name="more"></a>
]]> 
</content>
</entry>
<entry>
<title>大嘗祭は、何を、どのように、なぜ祀るのか ──岡田荘司「稲と粟の祭り」論を批判する</title> 
  <link rel="alternate" type="text/html" href="https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2019-11-10" />
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  <modified>2020-03-16T21:19:24Z</modified> 
  <issued>2019-11-10 19:15:34+09:00</issued> 
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  <dc:subject></dc:subject> 

<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2019-11-10">
<![CDATA[
以下は<strong>「誤解だらけの天皇・皇室」メルマガジン</strong>からの転載（2019年11月10日）です<br />
<br />
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇<br />
<strong><span style="font-size:large;">大嘗祭は、何を、どのように、なぜ祀るのか</span></strong><br />
<strong><span style="font-size:large;">──岡田荘司「稲と粟の祭り」論を批判する</span></strong><br />
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇<br />
<br />
<br />
　大嘗祭は「稲の祭り」であるという思い込みに、国学者や国文学者、歴史学者、そして政府などが取り憑かれています。雑誌「正論」最新号に掲載された、保守派論客・竹田恒泰氏の論考もまた、残念なことに「稲」でした。<br />
<br />
　そんななかで、ほとんど唯一、「稲と粟の祭り」論を展開しているのが、岡田荘司・國學院大学教授です。前回の御代替わりでは折口信夫の直観に始まる、非実証的なマドコオブスマ論の否定と克復に貢献された岡田先生が、献饌される「米と粟」の存在に着目されたのはさすがの慧眼で、賞賛に値します。しかし、その内容にはとうてい納得しがたいものがあります。<br />
<br />
　いかなる神を祭るのか、粟とは何か、なぜ粟を捧げるのか、説明が不十分で、少なくとも私の理解とは天と地ほどの違いがあリます。<br />
<br />
<br />
<strong>▽１　なぜ神宮祭祀と比較するのか</strong><br />
<br />
　先生は今春、『大嘗祭と古代の祭祀』を出版されました。第二部第一章は「稲と粟の祭り──大嘗祭と新嘗」です。初出は「國學院雑誌」（2018年12月）ですが、ここにご主張が網羅されていると思われますので、少し詳しく読んでみることにします。<br />
<br />
　けれども、論考は事実認識および問題意識がのっけから誤っています。先生はまず、神祇祭祀一般と伊勢神宮祭祀、そして宮中の神今食（じんこんじき、６月と１２月）および新嘗祭・大嘗祭とを比較していますが、比較のあり方に問題があります。<br />
<br />
　先生は「古代いらい神祇祭祀は稲祭りであることが常識」と仰せですが、違います。粟を捧げる神社が近江の日吉大社をはじめ、各地に存在します。非稲作文化を継承する地域は全国に広がっていることが見落とされています。<br />
<br />
　他方、神宮の祭祀は確かに徹頭徹尾、稲の祭りですが、同様に宮中三殿の祭祀も稲の祭りです。案外、知られていないことですが、現在では、神嘉殿の新嘗祭と大嘗宮の大嘗祭のみが「稲と粟の祭り」なのです。<br />
<br />
　先生は神宮祭祀と宮中祭祀が祭神を同じくするにも関わらず、天皇の祭祀はなぜ稲と粟なのか、と発問するのですが、そうではなくて、天照大神を祭神とする伊勢神宮および賢所（宮中三殿）の祭祀と、皇祖神ほか天神地祇を祀る新嘗祭・大嘗祭との違いにこそ着目すべきなのです。<br />
<br />
　先生はつい最近まで広範囲に、いやいまなお粟が栽培され、神社の祭りに捧げられていることをご存知ないようです。それどころか、せっかく粟に着目しているのに、粟そのものについての情報が不十分です。その結果、「粟は飢饉の備蓄のため」という珍説を導くことになったものと思われます。粟を主食とする民が古来、日本列島に間違いなくいたのです。畑作民にとっては粟は神聖な食物であり、だからこそ神への捧げものともなるのです。<br />
<br />
　先生の論で面白いのは、ご自身で粟ご飯を炊いてみたという「実験祭祀学」です。米のご飯に比べると、美味しいとはいえないが腹持ちするのが特性で、古代の食事には適していたと指摘されるのですが、先生が実験に用いた米は水稲でしょうか、陸稲でしょうか。もち米でしょうか、うるち米でしょうか。品種はなんですか。調理は炊飯器を使用されたのでしょうか。粟はどうですか。<br />
<br />
　米の場合、古くはもち米をこしきで蒸して食べていたのだといわれています。粟も同様でしょう。大嘗祭に登場する米と粟の御飯（おんいい）は蒸した強飯で、現在の炊き干し法の原型となる煮飯（姫飯、粥）は平安時代に始まるようです。前者はもち米、後者はうるち米なのでしょう。<br />
<br />
　実験で確認されようとした意欲には敬意を表しますが、方法に誤りがありそうです。というより、日本列島に住む日本民族の食文化はけっして一様ではなく、稲の民と粟の民は別だという歴史にこそ目を向けるべきではないでしょうか。<br />
<br />
　民族の成り立ちが単線的ではなく、ルーツは１つではないからこそ、国と民を１つにまとめ上げるスメラミコとの存在と祈りが必要とされたのではありませんか。<br />
<br />
<br />
<strong>▽２　記紀神話を根拠とする限界</strong><br />
<br />
　先生は次に、水田稲作と畑作の源流を神話のなかに探り当てようとなさるのですが、神話学者ではないのですからやむを得ないとはいえ、かなり荒っぽいように思われます。<br />
<br />
　日本書紀には、先生が引用するように、五穀の発生を物語るくだりがあります。天照大神は「民が生きていくのに必要な食物だ」と喜ばれ、粟、稗、麦、豆を畑の種とし、稲を水田の種とされたというのですが、先生が引用しない重要部分があります。<br />
<br />
　古事記の場合は、須佐之男命による大気津比売（おおげつひめ）神殺害の物語として描かれ、死体の頭部に蚕、両目に稲穂、両耳に粟、鼻に小豆、陰部に麦、尻に大豆が生った。神産巣日御祖（かみむすびのみおや）命はこれを五穀の種とした、と記述されています。<br />
<br />
　神話学では「死体化生型神話」と呼ばれるのですが、日本書紀の本文には見当たらず、国生み神話のあとの日神、月神、素戔鳴尊出生のくだりにあり、とくに詳しいのは一書の十一で、古事記とは異なり、月夜見（つくよみ）尊による保食神の殺害に変わっています。<br />
<br />
　岡田先生の論考では、このあと斎庭の稲穂の神勅に話を展開させるのですが、この物語は「天降（あも）り神話」と呼ばれ、既述した「死体化成型神話」とは源流が異なるといわれます。<br />
<br />
　斎庭の稲穂の神勅は、日本書紀の天孫降臨の場面に登場しますが、本文にはありません。宝鏡奉斎の神勅の物語のあと、天照大神は「わが高天原にある斎庭の穂をわが子に与えよ」と斎庭の稲穂の神勅を勅されました。<br />
<br />
　興味深いことに、天照大神お一人で瓊瓊杵尊を降臨させたとするのは日本書記の一書一のみで、古事記と日本書紀の一書の二は大神と高皇産霊尊（高木神）が、日本書紀本文および一書四、六では高皇産霊尊お一人が降臨を指令しています。天孫降臨神話全体のなかで、意外にも天照大神の影は薄いのです。<br />
<br />
　神話学者の大林太良先生によると、女神の死体から作物が出現するという神話は、きわめて広い地域に分布するそうです。そのなかで日本の大気津比売型神話は粟など雑穀を栽培する焼畑耕作の文化に属し、その源郷は東南アジアの大陸北部から華南にかけてで、縄文末期に中国・江南から西日本地域に伝えられた、と推理されています。<br />
<br />
　根拠のひとつは大気津比売の神名で、古事記の国生みの条には「粟（阿波）の国は大宜都比売という」と記されているのでした。大気津比売は粟の女神なのです。<br />
<br />
　また、火の起源神話と農耕起源神話が密接に結びついているのも注目されます。火神の軻遇突智から農耕神の稚産霊が生まれ、さらに五穀が化生するのは、焼畑農耕の有力な手がかりといわれます。実際、作物起源神話に登場する、保食神の死体に化生する作物は稲を除けば、すべて焼畑の作物です。<br />
<br />
　いや、陸稲なら話は別です。今日では、大気津比売型神話は民間伝承には見出すことができません。もしこの神話が水稲の起源神話だったなら、いまなお伝えられる稲作の伝説や儀礼に痕跡が多く残っているはずですが、そうでないのは水稲栽培に圧迫された焼畑穀物と結びついているからだろう、と大林氏は推測しています。<br />
<br />
　海外では、大気津比売型神話は中国南部から東南アジア北部の焼畑農耕地域に点々と分布しているそうです。日本神話だけで論じようとするところに限界があるのです。ちなみに伊勢神宮の稲作起源神話は死体化成神話でも天降り神話でもなく、鳥が稲穂をもたらす「穂落とし神」という類型になります。穂落とし神は記紀にはなぜか記載がありません。<br />
<br />
<br />
<strong>▽３　皇祖神だけなら賢所で十分</strong><br />
<br />
　岡田先生は、伊勢神宮の祭祀も宮中の新嘗祭・大嘗祭も、祭神が同じ皇祖天照大神なのに、神饌が後者が稲と粟なのはなぜかと問いかけ、それが新嘗祭・大嘗祭の本質を明らかにする研究課題だと指摘されるのですが、前者は皇祖神のみを祀り、後者は皇祖神ほか天神地祇を祀るからではありませんか。祈りの対象が異なるのです。<br />
<br />
　宮内庁は先月、大礼委員会に大嘗祭の関連資料として御告文の先例を５例提示しましたが、たとえば建暦2年の順徳天皇の大嘗祭の場合は、「伊勢の五十鈴の川上に坐す天照大神、また天神地祇諸の神に明らけく曰さく」に始まり、祀られる祭神が皇祖神だけでないことは明らかです。ほかも同様です。<br />
<br />
　岡田先生ともあろう方が、天皇の祭祀の基本を誤るとは信じ難い気がします。天皇が皇祖神に祈るだけならば、神嘉殿ではなく賢所で、米のみを捧げて祈れば足りるはずです。粟を捧げて祈るのは、粟の神が祈りの対象に含まれるからでしょう。皇祖神のみならず天神地祇を同時に祀るのなら、特別の祭場として神嘉殿や大嘗宮が必要になるのでしょう。<br />
<br />
　最後に蛇足ですが、岡田先生は大嘗祭研究に多大な貢献をされました。５W１Hのうち、誰が、いつ、どこで、までは誰でもわかりますが、何を（祭神論）、どのように（祭祀論）、なぜ（意味論）はまだ学問的な課題が尽きないようです。祭祀論研究に果たされた先生の功績を、後進の研究者が引き継ぎ、発展させていくことが望まれます。<br />
<br />
<a name="more"></a>
]]> 
</content>
</entry>
<entry>
<title>所先生、葦津「大嘗祭」論の前提を見落としてませんか ──葦津珍彦vs上田賢治の大嘗祭「国事」論争　４</title> 
  <link rel="alternate" type="text/html" href="https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2019-10-22" />
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  <modified>2020-03-16T21:19:24Z</modified> 
  <issued>2019-10-22 18:36:17+09:00</issued> 
  <id>tag:blog.ss-blog.jp,2020:saitoyoshihisa.110695896</id> 
  <summary type="text/plain"> </summary> 
  <dc:subject></dc:subject> 

<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2019-10-22">
<![CDATA[
以下は<strong>「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン</strong>（2019年10月22日）からの転載です<br />
<br />
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇<br />
<strong><span style="font-size:large;">所先生、葦津「大嘗祭」論の前提を見落としてませんか</span></strong><br />
<strong><span style="font-size:large;">──葦津珍彦vs上田賢治の大嘗祭「国事」論争　４</span></strong><br />
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇<br />
<br />
<br />
　即位礼正殿の儀を目前にして、１８日の日経（電子版）に、「儀式は持続と変化の象徴」と題する<strong>所功・京都産業大名誉教授</strong>のインタビュー記事（聞き手は井上亮編集委員）が載った。<br />
<br />
「古代（の儀式）はもっと豪華盛大で、平城宮や平安京における即位儀式の規模は近代を凌いでいます」「明治以降、それまでの中国式を改め、日本式のものを工夫して作り上げた知恵は大切にしてほしい」「（戦前の意匠が削除されたことについて）古事記、日本書記の伝承だから排除するというのは疑問です」などの指摘は、さすがに傾聴に値すると思う。<br />
<br />
　しかし、ＦＢでも指摘したことだが、政教分離問題に関連して、戦後唯一の神道思想家といわれる<strong>葦津珍彦</strong>先生の名前を出してのコメントには同意しかねる。葦津先生のいわゆる<strong>大嘗祭「公事」論</strong>には暗黙の前提があるということが、無視されていると思うからだ。<br />
<br />
　政府は、<strong>大嘗祭</strong>には宗教性があるとの認識で、前回同様、今回も、大嘗祭は「国の行事」ではなく「皇室行事」として挙行されることになっている。ただし、公的性があるとして、内廷費ではなく、宮廷費から経費が支出されることとされている。<br />
<br />
　このことについて、所先生のインタビューでは、前回、葦津先生は「国の儀式と皇室の行事に優劣があると考えるのは大間違いだという指摘」をしたことになっている。そのうえで、所先生は、次のように述べ、インタビューは締めくくられている。<br />
<br />
「国の儀式は政府が関与するものですが、皇室の儀式、とりわけ宮中祭祀は独自の聖域の行事なのだから、その独自性を守ることに意味があります。つまり、すみ分けをして、即位礼は国の儀式として政府主催でやるが、大嘗祭は皇室の伝統行事として宮内庁中心にやればよい。両者にそういう性格分けをして、堂々と行えるようにしていくことが賢明だと思われます」<br />
<br />
　たしかに天皇の聖域である祭祀に公権力が干渉、介入するのを許さないため、「<strong>国の行事</strong>」と法的に位置づけないことは１つの知恵であり、実際、当初は現行憲法下での挙行さえ危ぶまれた大嘗祭が無事に執り行われたことは大きな成果といえる。<br />
<br />
　しかし、全体として国事であるべき御代替わりの諸儀礼が「国の行事」と「皇室行事」に分断され、予算執行も区別されることは、「賢明」（所先生）なことであろうか。前回、昭和天皇の大喪の礼で、「国の儀式」としての大喪の礼と「皇室行事」としての斂葬の儀が分断して行われたことを、所先生は「賢明」なことと評価するのだろうか。<br />
<br />
　所先生がいう「葦津珍彦さんの言われてきたこと」というのは、当メルマガでも何度か言及した、昭和５９年２月に宗教専門紙「中外日報」に掲載された「<strong>皇室の祭儀礼典論</strong>──国事、私事両説解釈論の間で」での主張を指しているものと思われる。<br />
<br />
　葦津先生の論考は、大嘗祭＝非「国の行事」＝「皇室行事」論の論拠とされ、所先生もそのように信じ込んでいるようだが、私はそういう理解は完全な誤りだと考える。<br />
<br />
　すでに指摘したように、戦後の神社界をリードしたはずの葦津先生が神社界の専門紙ではなく「中外日報」に所論を発表した意味を考えるべきだろう。レトリックを多用した葦津先生の文章は字面だけを読むべきではない。そして当時の自民党政権はきわめて弱体だったことを忘れるべきではない。<br />
<br />
　つまり、今日とは政治状況がまったく異なり、憲法改正など夢のまた夢であり、なおかつ、内閣法制局が政教分離の厳格主義に凝り固まっていた時期である。その厳しい状況下で、御代替わりが刻一刻と目の前に迫りつつあったとき、便法として編み出されたのが、いうところの大嘗祭「公事」論なのだと私は思う。<br />
<br />
　その目的は、良識ある神道人に信頼して、まっとうな議論を喚起し、問題点を浮き彫りにすることだったのだと思う。それにアウンの呼吸で反応したのが、<strong>上田賢治・国学院大学教授</strong>（のちの学長）だったのだろう。<br />
<br />
　葦津先生の議論は正確にいえば、皇室の祭儀礼典に関するものなのに、ひとり大嘗祭に関する主張に曲げられて解釈され、驚いたことに、宮中祭祀一般は「私事」だが、大嘗祭は「公事」などという理解しがたい議論にまで発展している。「<strong>天皇に私なし</strong>」という皇室の原理の否定を葦津先生が容認するわけはないのに。<br />
<br />
　古来、国の中心である天皇の御位の継承が国事でないはずはない。ところが、いまの憲法では「国事」といえば、「国事に関する行為」しかない。憲法は「国事行為」を列挙しているが、「国事」自体の定義はない。<br />
<br />
　皇位継承に関する問題の核心は畢竟、憲法それ自体にある。しかし憲法を改正できないなら、次善の策を見出すしかない。その苦悩のなかで葦津先生がもがいていたであろうことを、所先生はまったく理解していないのではないか。<br />
<br />
「国の儀式と皇室の行事に優劣があると考えるのは大間違いだ」などというのは、言い訳に過ぎない。<br />
<br />
<a name="more"></a>
]]> 
</content>
</entry>
<entry>
<title>意味論がすっぽりと欠けている ──荷田在満『大嘗会便蒙』を読む　１４</title> 
  <link rel="alternate" type="text/html" href="https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2019-10-19" />
  <link rel="service.edit" type="application/x.atom+xml" href="https://blog.ss-blog.jp/atom/blog_id=1385836/entry_id=110668562" title="意味論がすっぽりと欠けている ──荷田在満『大嘗会便蒙』を読む　１４" />
  <modified>2020-03-16T21:19:24Z</modified> 
  <issued>2019-10-19 16:27:29+09:00</issued> 
  <id>tag:blog.ss-blog.jp,2020:saitoyoshihisa.110668562</id> 
  <summary type="text/plain"> </summary> 
  <dc:subject></dc:subject> 

<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2019-10-19">
<![CDATA[
以下は<strong>「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン</strong>（2019年10月19日）からの転載です<br />
<br />
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇<br />
<strong><span style="font-size:large;">意味論がすっぽりと欠けている</span></strong><br />
<strong><span style="font-size:large;">──荷田在満『大嘗会便蒙』を読む　１４</span></strong><br />
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇<br />
<br />
<br />
<strong><span style="font-size:large;">『大嘗会便蒙』下　大嘗会当日次第</span></strong><br />
<br />
<strong>▽１４　意味論がすっぽりと欠けている</strong><br />
<br />
お、次に帛の御衣を著御し、本殿に還御す。伴、佐伯、南門を閉ず<br />
<div align="center"><a href="https://saitoyoshihisa.c.blog.ss-blog.jp/_images/blog/_8e1/saitoyoshihisa/E5A4A7E59897E5AEAEE59CB0E59BB340E5A4A7E59897E4BC9AE4BEBFE8929940E5BEA1E5A4A7E7A4BCE59BB3E8AD9C.png" target="_blank"><img src="https://saitoyoshihisa.c.blog.ss-blog.jp/_images/blog/_8e1/saitoyoshihisa/m_E5A4A7E59897E5AEAEE59CB0E59BB340E5A4A7E59897E4BC9AE4BEBFE8929940E5BEA1E5A4A7E7A4BCE59BB3E8AD9C.png" width="350" height="246" border="0" align="" alt="大嘗宮地図@大嘗会便蒙@御大礼図譜.png" onclick="location.href = 'https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/upload/detail/m_E5A4A7E59897E5AEAEE59CB0E59BB340E5A4A7E59897E4BC9AE4BEBFE8929940E5BEA1E5A4A7E7A4BCE59BB3E8AD9C.png.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a></div><br />
　<strong>回立殿</strong>で帛の御衣に召し改めなさり、<strong>紫宸殿</strong>をさして還御なさるのである。その渡御のあいだの儀は最前の戌の刻の渡御のときに同じである。今年（斎藤吉久註＝元文３年）はこの還御が卯の刻（斎藤吉久註＝午前６時）におよんだ。<br />
<br />
（斎藤吉久註＝『昭和大礼要録』（大礼記録編纂委員会編、昭和６年）によると、昭和天皇の場合、回立殿から頓宮に還御されたのは午前３時１０分と記録されています。<br />
　宮内庁がまとめた『平成大礼記録』では、平成の大嘗祭で、天皇が主基殿を御退出になったのは午前３時２５分でした。<br />
　元文３年の桜町天皇の大嘗宮の儀はずいぶんと時間がかかったもののようです）<br />
<br />
　翌辰の日に<strong>悠紀の節会</strong>ということがある。すべて大嘗会はその年の新穀をまず天神地祇に供しなさり、つぎに天子も嘗なさる儀である。昨卯の日に神祇への供進は畢（おわ）ったので、今明両日は、天子が新穀を召し上がり、そのついでに諸臣へもたまうのである。<br />
<br />
　今辰の日は悠紀の節会で、悠紀の国司から物を賜り、明辰の日は<strong>主基の節会</strong>で、主基の国司から物を賜る。<br />
<br />
　ただ、今日の悠紀の節会のあとで、まず主基の節会の略儀なるをも行い、明日の主基節会の前に、また悠紀の節会の略儀なるをも行われるがゆえに、両日それぞれ両節会があるのである。<br />
<br />
　まず今日の悠紀の節会には、天子が紫宸殿の悠紀の帳に出御なさる。昔は悠紀の帳、主基の帳といって、帳を別に設けられたのだが、いまは帳は1つで、その帳のまわりに<strong>悠紀の御屏風</strong>を立てめぐらせるので悠紀の帳と呼び、<strong>主基の御屏風</strong>を立てめぐらせるので主基の帳と呼び替えるのである。<br />
<br />
　そして、中臣が賢木（さかき）を捧げ、紫宸殿前の版位について、天神の寿詞を奏し、群臣もともに奏することがある。<br />
<br />
　また常の供膳のほかに、白黒の御酒を供する。白酒（しろき）というのはつねのすめる酒である。黒酒（くろき）というのは<strong>常山</strong>（くさぎ）の灰を入れた酒である。黒酒をこのようにするのは、延喜のころから見られ、いまも同じである。しかし、なかごろ（遠くない昔）は、黒酒には黒胡麻の粉を振ったことが見られる。<br />
<br />
　そんなこともあったのだろうか、また一献のあとに、<strong>悠紀方の鮮味</strong>といって、雉子を梅の枝に付けたのと、蜜柑と搗ち栗とを髭籠（ひげこ）に入れて、松の枝につけて奉るのである。これは行事の弁といって、葉室権右弁頼要、悠紀の国司並びに膳部に持たせて、庭中に立てるのである。<br />
<br />
　また三献のあとには、御挿頭（かざし）を奉り、臣下にも挿頭をたまう儀がある。その挿頭は、天子は桜で、銀で作る。大臣は藤、大納言は山吹、参議は梅で、いずれも真鍮で作り、滅金（めっき）をかける。ただ、この定めは昔と同じではない。<br />
<br />
　このほかは内弁の行事、群卿の進退、供膳の次第等、常の節会に異なるところがないので、これを略する。<br />
<br />
　また主基の節会には主基の帳に出御があるばかりで、常の節会と同じである。<br />
<br />
　翌辰の日にも、まず、悠紀の節会がある。天子が悠紀の帳に出御があるばかりで、常の節会と同様である。<br />
<br />
　つぎに主基の節会がある。主基の帳に出御があり、おおかたは昨日の悠紀の節会に同じである。ただ、寿詞の奏はなく、白黒の御酒を供しない。<strong>主基方の鮮味</strong>は、梟を楓の枝につけたのと、鶉を萩の枝に付けたのとを奉る。<br />
<br />
　主基の行事の弁は、烏丸左少弁清胤、主基の国司ならびに膳部に持たせて、庭中に立てるのである。<br />
<br />
　御挿頭を奉り、臣下にも挿頭をたまうのは昨日の悠紀の節会と同様である。<br />
<br />
　このほかは常の節会と同じである。節会が畢（おわ）って、清暑堂代で御神楽がある。<br />
<br />
　翌午の日に<strong>豊明節会</strong>ということがある。これは大嘗の礼が畢ったので、群臣と遊宴なさる儀である。<br />
<br />
　今日は紫宸殿に高御座を飾り、天子がここに出御なさる。内弁の行事、群卿の進退、供膳の次第等以下、常の節会に異なることはない。<br />
<br />
　ただ三献のあとに、<strong>吉志舞</strong>（きしまい）を奏する。昔は大嘗一会のあいだにあまたの歌舞があった。いまは辰巳両日、4度の節会に各風俗を奏し、豊明節会に<strong>国栖</strong>（くず）<strong>の奏</strong>とこの吉志舞とだけである。<br />
<br />
　ただし、この舞も伝わらないということで、ただ伶人数輩が巡回するだけである。<br />
<br />
　大嘗一会の儀式はこの豊明節会でことが畢わる。ただし、１１月晦日まではなお散斎である。これを後斎という。<br />
<br />
以在麿自筆本之写本比校完<br />
<br />
文政１２年７月２６日　信友<br />
<br />
（斎藤吉久註＝以上、<strong>荷田在満『大嘗会便蒙』</strong>を簡単に現代訳した上で、全編をご紹介しました。大嘗祭の全容が手に取るように分かります。<br />
　ただ、在満は５Ｗ１Ｈのうち、誰が、いつ、どこで、何を、どのように、までは説明してくれるのですが、なぜ、までは解説していません。<br />
　なぜ大嘗宮は皮付きの柱を用いるのか、なぜ屋根は萱葺きなのか、なぜ皇祖神のみならず天神地祇を祀るのか、なぜ米と粟の新穀を捧げるのか、なぜ新穀を捧げる祭りが皇位継承の儀礼となるのか、在満は答えてくれません。<br />
　在満だけではありません。天皇の祭祀について解説する、国学者、国文学者、祭祀学者、神道学者らが、天皇の祭祀の実態だけでなく、その持つ意味にまで踏み込んで、あるいは古来、天皇が祭祀をなさってきたことの本質的意味をも説明しているのを、少なくとも私は知りません。意味論がすっぽりと欠けているのです。<br />
　今日、さまざまな混乱が生じているのは、当然の結果であろうと私は考えています。皇位継承論もまたしかりです。天皇学の深まりが急務なのです）<br />
<br />
<a name="more"></a>
]]> 
</content>
</entry>
<entry>
<title>寅の半刻にまで及んだ回立殿への還御 ──荷田在満『大嘗会便蒙』を読む　１３</title> 
  <link rel="alternate" type="text/html" href="https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2019-10-18" />
  <link rel="service.edit" type="application/x.atom+xml" href="https://blog.ss-blog.jp/atom/blog_id=1385836/entry_id=110656107" title="寅の半刻にまで及んだ回立殿への還御 ──荷田在満『大嘗会便蒙』を読む　１３" />
  <modified>2020-03-16T21:19:24Z</modified> 
  <issued>2019-10-18 05:46:20+09:00</issued> 
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  <dc:subject></dc:subject> 

<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2019-10-18">
<![CDATA[
以下は<strong>「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン</strong>（2019年10月18日）からの転載です<br />
<br />
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇<br />
<strong><span style="font-size:large;">寅の半刻にまで及んだ回立殿への還御</span></strong><br />
<strong><span style="font-size:large;">──荷田在満『大嘗会便蒙』を読む　１３</span></strong><br />
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇<br />
<br />
<br />
<strong><span style="font-size:large;">『大嘗会便蒙』下　大嘗会当日次第</span></strong><br />
<br />
<strong>▽１３　寅の半刻にまで及んだ回立殿への還御</strong><br />
<br />
<strong>レ、子の一の刻、神祇官、内膳膳部等を率い、主基の膳屋に還り、神饌を料理す</strong><br />
<a href="https://saitoyoshihisa.c.blog.ss-blog.jp/_images/blog/_8e1/saitoyoshihisa/E5A4A7E59897E5AEAEE59CB0E59BB340E5A4A7E59897E4BC9AE4BEBFE8929940E5BEA1E5A4A7E7A4BCE59BB3E8AD9C.png" target="_blank"><img src="https://saitoyoshihisa.c.blog.ss-blog.jp/_images/blog/_8e1/saitoyoshihisa/m_E5A4A7E59897E5AEAEE59CB0E59BB340E5A4A7E59897E4BC9AE4BEBFE8929940E5BEA1E5A4A7E7A4BCE59BB3E8AD9C.png" width="350" height="246" border="0" align="" alt="大嘗宮地図@大嘗会便蒙@御大礼図譜.png" onclick="location.href = 'https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/upload/detail/m_E5A4A7E59897E5AEAEE59CB0E59BB340E5A4A7E59897E4BC9AE4BEBFE8929940E5BEA1E5A4A7E7A4BCE59BB3E8AD9C.png.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a><br />
　悠紀のときと同様である。<br />
<br />
<br />
<strong>ロ、次に主基寮、御湯を供す</strong><br />
<br />
　これもまた小忌の御湯という。<br />
<br />
<br />
<strong>ワ、御湯殿以下、一に悠紀の儀のごとし</strong><br />
<a href="https://saitoyoshihisa.c.blog.ss-blog.jp/_images/blog/_8e1/saitoyoshihisa/E59B9EE7AB8BE6AEBFE58685E59BB340E5A4A7E59897E4BC9AE4BEBFE8929940E5BEA1E5A4A7E7A4BCE59BB3E8AD9C.png" target="_blank"><img src="https://saitoyoshihisa.c.blog.ss-blog.jp/_images/blog/_8e1/saitoyoshihisa/m_E59B9EE7AB8BE6AEBFE58685E59BB340E5A4A7E59897E4BC9AE4BEBFE8929940E5BEA1E5A4A7E7A4BCE59BB3E8AD9C.png" width="223" height="350" border="0" align="" alt="回立殿内図@大嘗会便蒙@御大礼図譜.png" onclick="location.href = 'https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/upload/detail/m_E59B9EE7AB8BE6AEBFE58685E59BB340E5A4A7E59897E4BC9AE4BEBFE8929940E5BEA1E5A4A7E7A4BCE59BB3E8AD9C.png.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a><br />
　御湯殿の儀で、祭服を召し替えなさることは、悠紀の儀との同様である。ただし、御冠は改めなさらない。<br />
<br />
　次に御手水を供する。陪膳は悠紀のときと同様である。役送は勧修寺右中弁と烏丸左少弁清風とが勤められる。<br />
<br />
　次に采女が時を申すことは悠紀と同様である。<br />
<br />
<br />
<strong>ヰ、主基の嘗殿に還御す</strong><br />
<br />
　この道もまた大蔵の官人が２幅の布の単を敷く。ただし、回立殿から大嘗宮の、北の鳥居の内までは悠紀のときの道と同じである。<br />
<br />
　北の鳥居を入って、行き当たりの袖垣と鳥居との中央から東へ折れて敷く。袖垣の東の端と悠紀殿の縁の端との中央から南へ折れて敷き、正中の鳥居の前から西へ折れて敷く。鳥居と主基殿の東の縁の端との中央から南へ折れて敷く、南の柴垣と主基殿の南の縁との端との中央から西へ折れて敷く。南階の中央に当たって北へ折れて、階下まで敷いて、この上を渡御がある。<br />
<br />
　宮内輔が葉薦を敷き、掃部寮のこれを巻くより以下、路地の供奉ならびに渡御が終わって、大蔵、宮内以下、鳥居の外に出て、関白、外陣の西壁の下に著座しなさるまで、悠紀のときに少しも変わることはない。<br />
<br />
　今年はこの還御が丑の刻（斎藤吉久註＝午前２時）におよんだ。<br />
<br />
<br />
<strong>ヱ、小忌の郡官、各著座。大臣、南鳥居内、西辺東南、納言以下、同鳥居外、東面北上</strong><br />
<br />
　悠紀のときに準じて知るべきである。すなわち納言以下の座は、右大臣の座の巡からやや西に当たる。<br />
<br />
<br />
<strong>ヲ、大忌の公卿、移著の儀なし。</strong><br />
<br />
　これは小忌の人に対していうのである。昔は、このあいだに小忌の人が悠紀の幄の座を起って、主基の幄の座に移り就いた。いまは幄がないけれども、小忌の公卿は主基の座に改め就くのである。<br />
<br />
　ただし、大忌の公卿は座を改め就く儀はない。これは小忌の人に対していうことである。昔も大忌の幄は、悠紀、主基の別がないため、移り就く儀がないからである。<br />
<br />
<br />
<strong>ン、次に大忌の公卿、庭中の版位に就きて、手を拍つ</strong><br />
<br />
　悠紀のときと同様である。ただし、このたびは醍醐大納言は西の方にあり、清閑寺中納言はその東に少し退いて就かれる。また、この前に、開門のことは悠紀のときと同様である。ここに書かないのは、悠紀のときに準じて略したのである。<br />
<br />
<br />
<strong>あ、寅の一の刻に御膳を供し、四の刻にこれを撤し、回立殿に還御す</strong><br />
<a href="https://saitoyoshihisa.c.blog.ss-blog.jp/_images/blog/_8e1/saitoyoshihisa/E5A4A7E59897E5AEAEE58685E59BB340E5A4A7E59897E4BC9AE4BEBFE89299.png" target="_blank"><img src="https://saitoyoshihisa.c.blog.ss-blog.jp/_images/blog/_8e1/saitoyoshihisa/m_E5A4A7E59897E5AEAEE58685E59BB340E5A4A7E59897E4BC9AE4BEBFE89299.png" width="219" height="350" border="0" align="" alt="大嘗宮内図@大嘗会便蒙.png" onclick="location.href = 'https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/upload/detail/m_E5A4A7E59897E5AEAEE58685E59BB340E5A4A7E59897E4BC9AE4BEBFE89299.png.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a><br />
　いずれも悠紀のときと同じである。今年はこの還御が寅の半刻（斎藤吉久註＝午前５時）におよんだ。<br />
<br />
（斎藤吉久註＝『昭和大礼要録』（大礼記録編纂委員会編、昭和６年）によると、昭和天皇が主基殿の儀で、御告文を奏上されたのが午前２時１８分、回立殿から頓宮に還御されたのは３時１０分と記録されています。<br />
　宮内庁の『平成大礼記録』によると、平成の大嘗祭では、天皇が主基殿内陣の御座に就かれたのは１時０４分、神饌御親供ののち御拝礼、御告文奏上をされたのは２時４０分、主基殿を退出されたのは３時２４分でした）<br />
<br />
<br />
<strong>い、次に采女、南戸に進み、還り申すのことあり</strong><br />
<br />
　この采女も、時を申す采女と同じである。還申の詞は「あさめもとり、ゆふべあかつきのみけ、たひらかにつかんまつりつ」と申すという。<br />
<br />
<br />
<strong>う、勅曰云々</strong><br />
<br />
　云々はかくのごとくという心で、この勅はよしとのたもう御ひと言である。<br />
<br />
<br />
<strong>え、采女、称唯して退出す</strong><br />
<br />
　称唯は答えである。その詞はうう。<br />
<br />
<br />
　次回は<strong>節会</strong>です。<br />
<br />
<br />
<a name="more"></a>
]]> 
</content>
</entry>
<entry>
<title>悠紀殿の神饌御親供は「神秘」にして語られず ──荷田在満『大嘗会便蒙』を読む　１２</title> 
  <link rel="alternate" type="text/html" href="https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2019-10-17" />
  <link rel="service.edit" type="application/x.atom+xml" href="https://blog.ss-blog.jp/atom/blog_id=1385836/entry_id=110646944" title="悠紀殿の神饌御親供は「神秘」にして語られず ──荷田在満『大嘗会便蒙』を読む　１２" />
  <modified>2020-03-16T21:19:24Z</modified> 
  <issued>2019-10-17 05:01:20+09:00</issued> 
  <id>tag:blog.ss-blog.jp,2020:saitoyoshihisa.110646944</id> 
  <summary type="text/plain"> </summary> 
  <dc:subject></dc:subject> 

<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2019-10-17">
<![CDATA[
以下は<strong>「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン</strong>（2019年10月17日）からの転載です。<br />
<br />
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇<br />
<strong><span style="font-size:large;">悠紀殿の神饌御親供は「神秘」にして語られず</span></strong><br />
<strong><span style="font-size:large;">──荷田在満『大嘗会便蒙』を読む　１２</span></strong><br />
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇<br />
<br />
<br />
<strong><span style="font-size:large;">『大嘗会便蒙』下　大嘗会当日次第</span></strong><br />
<br />
<strong>▽１２　悠紀殿の神饌御親供は「神秘」にして語られず</strong><br />
<br />
<strong>ム、近衛将、剣璽を捧げ、嘗殿の四面の簀子に候し、中臣、忌部、御巫、猿女ら、鳥居内に跪き、主殿、燭を執り、階下に候す</strong><br />
<br />
　これは天子が大嘗宮に到りたもうたときのことである。ゆえに貞享（斎藤吉久註＝東山天皇の大嘗祭）の次第には、首に「到大嘗宮」の４文字があって聞こえやすい。<br />
<br />
　嘗殿西面簀子は西の方の縁である。悠紀殿のときも、主基殿のときも、各その西の方の入口の、左右の縁の上に候せられる。<br />
<br />
　その宝剣を捧げるのは北の方で、神璽を捧げるのは南の方にあって、階下は南階下である。天子が宮内におられる間、主殿の官人は始終、燭を取って、階下にいるのである。<br />
<br />
<br />
<strong>メ、悠紀嘗殿に御す。大嘗宮の北門ならびに悠紀殿の西を経て、南面戸より入らしめ、大蔵の宮内、掃部、車持、子部、笠取等、鳥居の外に出でて、関白、便所に候す</strong><br />
<br />
　この道筋は、上の布単を敷くところに、委（くわ）しく書いたごとくである。南面の戸は、南向きの入口である。「関白、便所に候す」というのは、定まった座の形式がないがために、こうはいっても、貞享のときの摂政も、このたびの関白も、大嘗宮の外陣の西壁の下に、畳一畳を敷く。ここに東面して著座しなさるのである。<br />
<br />
<br />
<strong>モ、小忌群官、各著座。大臣は南鳥居の内の東辺に西面す、納言以下は同鳥居の外の西面に北上す</strong><br />
<br />
　この座どもは、昔はみな幄中にあった。いまは幄を略されている。あらかじめ簀薦のうえに畳を敷いて設けておく。<br />
<br />
　右大臣は南の鳥居の内の東辺に、渡御の道の布単から少し南に西面して著座される。大炊御門大納言は南の鳥居の外の東辺に西面して著座される。東面に東園中納言、その南に松木宰相中将が並び座される。ただし、この３人の座は右大臣の座の巡からはやや東に当たって、これを設ける。<br />
<br />
<br />
<strong>ヤ、近代、弁、少納言、外記、史ら、これに著せず</strong><br />
<br />
　基本は弁以下も著座することから、小忌郡官であっても、右に見た４人ばかり著かれるのである。<br />
<br />
<br />
<strong>ユ、次に開門、伴、佐伯、大嘗宮の南門を開く。次に大忌の公卿、庭中の版位に就く。南鳥居の外、異位重行。拍手訖（おわ）りて復座</strong><br />
<br />
　この版位は、上に見た、式部が設けた版位である。大忌の公卿が初著座されたところから少しばかり北に進んで、版位のもとにつくのである。<br />
<br />
「異位重行」という並び方は、貞観儀式、西宮記以下に見えるけれども、近代、用いられるのは、後の成恩寺関白の説のように、大臣の後ろに３納言、その後ろに三位の中納言、その後ろに四位の宰相が列し、二位の中納言は大納言の末に少し退いて列し、三位の宰相は中納言の末に少し退いて列する。<br />
<br />
　しかしこれは、大勢が列するときのことであって、ここの大忌の公卿はただ２人なので、清閑寺中納言、二位の中納言であるために、醍醐大納言の西の方に少し退いてつかれるだけである。<br />
<br />
　<strong>拍手</strong>は２つずつ拍つだけである。このときの拍手は４つずつ８度、あわせて１人の拍手の数は３２である。これを八平手という。<br />
<br />
　大忌の公卿は、版のもとに就き、跪いて笏を差しはさみ、拍手しおわって、小拝して、本の座に復される。<br />
<br />
<br />
<strong>ヨ、亥の一の刻、御膳を供す</strong><br />
<a href="https://saitoyoshihisa.c.blog.ss-blog.jp/_images/blog/_8e1/saitoyoshihisa/E7A59EE9A58CE789A9E4B98BE59BB3140E5A4A7E59897E4BC9AE4BEBFE8929940E5BEA1E5A4A7E7A4BCE59BB3E8AD9C.png" target="_blank"><img src="https://saitoyoshihisa.c.blog.ss-blog.jp/_images/blog/_8e1/saitoyoshihisa/m_E7A59EE9A58CE789A9E4B98BE59BB3140E5A4A7E59897E4BC9AE4BEBFE8929940E5BEA1E5A4A7E7A4BCE59BB3E8AD9C.png" width="219" height="350" border="0" align="" alt="神饌物之図1@大嘗会便蒙@御大礼図譜.png" onclick="location.href = 'https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/upload/detail/m_E7A59EE9A58CE789A9E4B98BE59BB3140E5A4A7E59897E4BC9AE4BEBFE8929940E5BEA1E5A4A7E7A4BCE59BB3E8AD9C.png.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a><br />
<a href="https://saitoyoshihisa.c.blog.ss-blog.jp/_images/blog/_8e1/saitoyoshihisa/E7A59EE9A58CE789A9E4B98BE59BB3240E5A4A7E59897E4BC9AE4BEBFE8929940E5BEA1E5A4A7E7A4BCE59BB3E8AD9C.png" target="_blank"><img src="https://saitoyoshihisa.c.blog.ss-blog.jp/_images/blog/_8e1/saitoyoshihisa/m_E7A59EE9A58CE789A9E4B98BE59BB3240E5A4A7E59897E4BC9AE4BEBFE8929940E5BEA1E5A4A7E7A4BCE59BB3E8AD9C.png" width="220" height="350" border="0" align="" alt="神饌物之図2@大嘗会便蒙@御大礼図譜.png" onclick="location.href = 'https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/upload/detail/m_E7A59EE9A58CE789A9E4B98BE59BB3240E5A4A7E59897E4BC9AE4BEBFE8929940E5BEA1E5A4A7E7A4BCE59BB3E8AD9C.png.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a><br />
　これすなわち、上に見た、神祇官の悠紀の膳屋で料理した神膳であって、これより前に東の鳥居の内柴垣の下に八脚の案を立てて、そのうえに運び、並べ置いて、それから悠紀の殿内へ供するのである。<br />
<br />
　その儀は、伴造が火矩を取って前行し、卜部ならびに高橋、安曇の、内膳司、造酒司、主水司などがこれに預かる。<br />
<br />
　その供する次第は、神秘であって、語られないので、いまの様は知ることがないが、貞観儀式、江次第などに詳しく見えているので、大して変わることはないだろう。<br />
<br />
（斎藤吉久註＝荷田在満が、大嘗祭の祭式について最大限に詳述しているのに、<strong>神饌御親供、御告文奏上、御直会</strong>についてはほとんど説明らしきものがないのは、<strong>秘儀</strong>としていかに強く認識されているかが分かります。まさに「凡そ神国の大事ハ大嘗会也。大嘗会の大事ハ神膳に過たることハなし」(一条経嗣「応永大嘗会記」応永２２年)なのです。<br />
　これに対して、昭和天皇の即位礼・大嘗祭についてまとめた『<strong>昭和大礼要録</strong>』（大礼記録編纂委員会、昭和６年）には、以下のようにさらに詳しく記述されています。<br />
「晩秋の夜気身に迫るの時　陛下にはただ１人内陣の中、半帖のみを敷かれたる御座の上に厳然として端座あらせらる。燈籠の火影ほの淡く、神厳の気自ら乾坤に満つ。<br />
　神食薦以下の女官、相次いで外陣に参入し、蚫汁漬を執れる掌典以下順次簀子に進み、捧持せる神饌を女官に伝えて本の所に復す｡女官は受くるに随ひて、後取女官に傅へ、後取女官は之を陪膳女官に進め、陪膳女官すなはち進みて之を陛下に供し奉れば、畏くも神前に御親供あらせらる。<br />
　御親供訖らせ給へば、御拝礼の後、御告文を奏し給ふ。時に８時４０分。此の瞬間こそ、大嘗宮の儀のうちにも最も崇厳なる御時刻と申し奉るべく、御親ら大祀を行はせ給ひ大孝を申べさせ給ふ大御心、大神の感応、如何にましまさむ。<br />
　次に御直会の儀に移る。即ち神に捧げ給へると御同様の御食・御酒を　陛下御躬らきこしめし給ふなり。此等の御食・御酒こそ、神々の威霊と大御宝の至誠との凝り成せる悠紀斎田の斎米もて造られしなれ」<br />
　また、前回、宮内庁がまとめた『<strong>平成大礼記録</strong>』（平成６年）では、次のように記録されています。<br />
「同（斎藤吉久註＝午後）７時０６分、天皇陛下が内陣の御座にお着きになった。掌典長および掌典次長が外陣に参入して内陣の御幌外左右に候し、侍従長は外陣に参入して東方に候した。この間、式部官の合図により、参列の諸員は起立した。<br />
　海老鰭盥槽の掌典が簀子に進み、これを両采女に伝え、所定の位置に復した。陪膳采女および後取采女が御刀子筥及び御巾子筥とともに海老鰭盥槽を奉じて内陣に参入した。多志良加の掌典が簀子に進み、これを後取采女に伝え、後取采女は陪膳采女に伝え、陪膳采女が御手水を供した。掌典が簀子に進み、陪膳および後取の采女から多志良加および海老鰭盥槽を受けて所定の位置に復した。<br />
　神食薦以下の采女８人が外陣に参入した。蚫汁漬を執る掌典以下が簀子に進み、これを外陣の采女に伝えた。采女は神饌等を後取采女に伝え、同采女はこれを陪膳采女に伝えた。<br />
　天皇陛下が神饌を御親供になった。<br />
　同８時３９分３０秒、天皇陛下が御拝礼になり、御告文をお奏しになった。この間、式部官の合図により、参列の諸員は起立した。<br />
　次に御直会の儀があった」<br />
　昭和、平成の記録とも、在満にもまして詳しいのに、もっとも中心的な神饌御親供については、具体的な説明らしきものが欠けています。神饌の御食は、昭和の場合は米としか書いてありません。平成は言及がありません）<br />
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<strong>ラ、四の刻、これを撤す</strong><br />
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　天子が供し畢（おわ）られて、外陣の屏風の内に入り、休息され、四の刻にいたって撤しなさる。<br />
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<strong>リ、宮主、采女等、その儀に従う</strong><br />
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　<strong>宮主</strong>は、いまの宮主は吉田神祇権少副兼成がこれを勤めるべきだが、今日はあまりに近い勤めなので、地下の人を用いがたいことから、吉田神祇権大副兼雄卿が宮主代としてこれを勤められる。<br />
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　<strong>采女</strong>は代とともに６人が出仕して役送を勤め、外に１人が内侍をもって代とし、内陣の供神の御手伝いを勤められる。<br />
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　宮主も采女も供するとき、撤するとき、ともに預かり勤められるのである。<br />
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<strong>ル、次に回立殿に還御す。その儀は初めのごとし</strong><br />
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　御道筋は初めの道を用いなさる。御路の間、前行の大臣以下、御後ろの関白まで出御のときのようにする。今年はこの還御は子の刻すぎにおよび、これから左の儀式は準じて刻限が遅れたのである。<br />
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　次回は<strong>主基殿</strong>のお出ましです。<br />
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