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新嘗祭=収穫儀礼説をふりまく驚きの発信源 [宮中祭祀]


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新嘗祭=収穫儀礼説をふりまく驚きの発信源
(令和4年11月30日、皇太弟殿下のお誕生日)
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今日は皇太弟殿下のお誕生日です。心からお慶びを申し上げます。
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さて、このところ宮中新嘗祭について繰り返し書いてきました。粟の御飯(おんいい)を再現する実験を通して、神嘉殿の米と粟の新嘗祭が収穫儀礼ではなく、国民統合の儀礼であることがいよいよ強く確信されることとなりました。

しかし一般には、天皇の祭りは収穫儀礼であり続けています。先週の水曜日は新嘗祭当日でしたから、SNSでも少なからず取り上げられていましたが、残念なことに、ズブの素人とは思えない人たちもまた「稲の祭り」「収穫儀礼」で終始しています。

なぜそう考えるのか、根拠は何かと調べてみたら、これまた驚くべき事実を発見してしまいました。なんと正確な情報を発信すべき立場にある神社本庁周辺が発信源だったのです。

私など足元にも及ばないほど日本史に造詣の深い、あるライターのブログを読んだとき、私はまさかと思いました。日本古来の新嘗祭は、その年の収穫を感謝する日である、11月23日は戦前は「新嘗祭」だったが、敗戦後、「神道色を払拭せよ」とのGHQの意向によって改称を余儀なくされた、と説明されています。

いくつか指摘すると、まず新嘗祭といっても、民間のそれと宮中のそれとは異なります。11月23日が「新嘗祭」という祭日で、国民の休暇日とされたのは、明治6年10月の太政官布告によってです。宮中祭祀にリンクしているのが「祭日」ですから、民間の新嘗祭ではなく、宮中新嘗祭の祭日が暦上の「祭日」とされていたのです。

この記事では、そこが曖昧です。しかも、収穫物は「稲」とは書かれていませんが、挿し絵は紛れもなく「稲」のようです。筆者は収穫物=稲が疑いのない事実として書き進めているように見えます。「粟」はそもそも眼中にないということでしょうか?

問題はそのように考える根拠ですが、最後に参考文献として、神社検定のテキストや皇學館大学名誉教授の著書が挙げられているのを見て、私はまさかと思いました。

著名神社の宮司を歴任した皇大名誉教授の著書が、新嘗祭・大嘗祭=「稲の祭り」説に固まっていることは以前から知っていました。御代替わりのころ、ブログに採り上げようと思いつつ、生来の遅筆で、実現されませんでした。ここでは、神社検定テキストについて書きます。名誉教授の著書は研究不足で済みますが、神社本庁関連の公式テキストに新嘗祭=「稲の祭り」と書いてあるのなら、悪い冗談では済まないと思うからです。

参考文献になっているのは、テキスト・シリーズの第1巻です。奥付によると、監修は神社本庁、企画は本庁関連の財団、執筆は皇室関係専門誌の編集長です。平成24年が初版です。目次を一瞥すると、神社関係の情報が万遍なく散りばめられていて、脱帽します。私にはとても真似できません。

しかしです。「新嘗祭」については、どのように書かれているのか? 公式テキストの誤りは看過できません。

神社の祭りの説明では、「新穀を供える」「稲作を中心として発展してきた日本」などと説明がつづいています。「稲の祭り」説にこり固まっています。

宮中祭祀の新嘗祭については、「恒例祭祀のなかで最も重要」「陛下が神嘉殿で新穀をお供えになり、神恩を感謝される」とあります。「稲」とも「米と粟」とも記述はありません。

神社についていえば、『風土記』の時代には民間に粟の新嘗があったし、いまも神社の祭りがすべて稲の祭りとは限りません。日本の歴史が稲作中心といえないことは、柳田國男が「日本列島は米作適地とは言いがたい」と繰り返し書いていることから明らかです。各地の神社に非稲作文化が伝えられているのを、見過ごすべきではありません。

神嘉殿の新嘗祭は、昭和天皇の祭祀に携わった八束清貫・元掌典によれば、「新米・新粟をもって炊いた米の御飯および御粥、粟の御飯および御粥」などが主要な神饌とされています。神社検定テキストが「新穀」と書いているのは必ずしも間違いではありませんが、祭りの意義を矮小化させ、誤解を招く原因を作っていませんか?

粟の民である台湾先住民が稲作を禁忌したように、米の民と粟の民は本来、別の文化圏に属するのでしょう。天皇が異文化の作物をあらゆる神に同時に捧げて祈る新嘗祭の意義は、単に「新穀を供える」という説明からは生まれません。

逆に、農業社会の遺物であり、現代社会には相応しくない、廃止を検討すべきだという宮中祭祀廃止論を後押しする論拠ともなり得ます。収穫儀礼ではなく、国民統合の儀礼だとの意義づけは、「新穀を供える」ではなくて、「新米と新粟を供える」という事実を、ありのままに理解することが出発点です。

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新嘗祭=「国民統合の儀礼」が理解されない理由 [宮中祭祀]


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新嘗祭=「国民統合の儀礼」が理解されない理由
(令和4年11月23日、新嘗祭)
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今日は新嘗祭だが、生憎の雨である。予報では、都心では土砂降り。夜は10度近くまで気温が下がり、5メートル前後の北風が吹く。宮中新嘗祭が行われる神嘉殿には暖房はない。陛下をはじめ、関係者のご苦労はいかばかりかと拝察される。

さて、前回まで、宮中新嘗祭の粟の御飯を再現する実験を繰り返し、それによって分かったことを書いてきた。台湾先住民の粟の祭祀との比較から、天皇の「米と粟の祭祀」が「国民統合の儀礼」であることを再確認することにもなった。

そして、新たな疑問がいくつか浮かび上がってきたのであった。

ひとつは、民間における「米の新嘗祭」が五穀豊穣を祈る収穫儀礼であるとしても、なぜ天皇の「米と粟の新嘗祭」が、収穫儀礼というような位置づけしかされないのかである。

平成の大嘗祭のとき、宮内庁による記録は、大嘗祭について、次のようにまとめている。政府・内閣官房の解説も大同小異である。
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「稲作農業を中心としたわが国の社会に、古くから伝承されてきた収穫儀礼に根ざしたものであり、天皇陛下が即位の後、はじめて、大嘗宮において、悠紀主基両地方の斎田から収穫した新穀を、皇祖および天神地祇にお供えになって、みずからもお召し上がりになり、皇祖および天神地祇に対し、安寧と五穀豊穣などを感謝されるとともに、国家・国民のために安寧と五穀豊穣などを祈念される儀式」

令和の大嘗祭も、この解釈が踏襲されたが、ここには「粟」はない。だから、「国家・国民のために祈念」という説明にとどまり、「国民統合の祈り」であるというところに考えが及ばないでいる。宗教的ルーツの儀礼であり、国家儀礼であるという理解には遠い。だから、政教分離問題にも発展するのである。

皇位継承直後に行われる天皇一世一度の新嘗祭が大嘗祭だから、毎秋の新嘗祭も、政教分離問題がつきまとうことになる。

第一の疑問は、なぜ「粟」の存在を無視するのかである。それどころか、「粟の新嘗祭」は宮中以外にほとんど存在しない。『常陸国風土記』に記されているように、かつては地方には「粟の新嘗」があったはずなのに、いまではほとんど聞かない。なぜなのか。いつ、どのようにして、消えたのか、である。

神社の神紋や社殿の意匠に「粟」が使われていることからすると、「粟の新嘗」が民間に「あった」ことは間違いないはずなのに、神社関係者でさえ、「新嘗祭は稲の祭り」と信じ込んでいる。いつからそういう理解に固まるようになったのだろうか。

各地に「粟」とつく地名があるのに、米など穫れないはずの山間地域でさえ、「稲の祭り」になってしまったのは、いつのころのことなのか。なぜなのか。

「粟」が消えたのは、もともと「米」とは対立していた、「粟」を主食とする「粟」の文化圏が消えてしまったということである。「粟」の食文化が「米」の食文化に駆逐されたということだろう。

せめて神社の祭りに「粟」が残されていれば、と願うのだが、無い物ねだりになっている。「米」ならいざ知らず、「粟」について語る神社関係者を私はほとんど知らない。

記紀神話には稲作起源説話がふたつあり、五穀誕生の物語では、米と粟は同列に扱われている。他方、斎庭の稲穂の神勅は「米」オンリーである。つまり、今日では後者ばかりが語られることになっている。

つまり、天照大神の神勅が席巻することになったということである。天照大神以前の多神教的世界が忘れられ、一神教的な神道世界が構築され、その結果、「粟」が消えていったということではないだろうか。

なぜそんなことが起きたのか。誰がそうしたのか、というと、私の脳裏にひとりの人物が浮かび上がる。本居宣長である。『直毘霊』の冒頭は「日本は天照大神がお生まれになった国だ」という一節で始まる。

大胆にいえば、宣長の一神教的解釈は、日本が欧米キリスト教世界と渡り合い、近代化を推進していく大きなエネルギーになったと肯定的に解釈される反面、多神教的世界が失われる原因を作ったとはいえないだろうか。

一神教的神道理解は戦前の文部省の『国体の本義』にも描かれ、戦時中はキリスト教世界との抜き差しならない対立の構図を作ったことは、戦時中、アメリカ陸軍省が作製したプロパガンダ映画を見ればよく分かる。アメリカが考える「軍国主義・超国家主義」の背後には一神教的神道理解がある。

未曾有の敗戦・占領を経てもなお、日本人は宣長的な一神教的神道理解を克服できないでいるのではないか。多神教的神道理解こそ神道本来の世界であるはずなのに。陛下が「米と粟の祭り」をなさることの重要さがますます身に染みるのである。

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宮中新嘗祭が「米と粟の祭り」である理由 [宮中祭祀]


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宮中新嘗祭が「米と粟の祭り」である理由
(令和4年11月20日、日曜日)
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台湾総督府のパイワン族リポートを読んで、もっとも衝撃的で、なおかつ得心したのは、粟を神聖視するパイワン族が稲作を禁忌していることだった。首狩の習俗を持つ台湾先住民にとって、米は文字通り、敵対する敵の作物なのである。

そのことはいまの日本人には理解が難しい。農家が田んぼも畑も作るのがふつうだと考えるからである。けれども、かつてはそうではなかっただろう。ヤマとサトは別の文化圏であり、粟と米はそれぞれを象徴する主要作物だったに違いない。ここが重要である。

つまり、なぜ日本の天皇は、祭りをもって第一のお務めとされ、もともと文化圏が異なる米と粟を神前に捧げ、直会なさるのか、である。

いや逆に、天皇というお立場だからこそ、米と粟の神事をなさるのではないか。つまり、天皇が衣食住や信仰、文化の異なるさまざまな民たちをまとめ上げる国民統合のお役目を一身に担っているからであり、であればこそ米と粟による新嘗の神事が「皇室第一の重儀」と位置付けられるのではないかと理解され、あらためて得心するのである。

神嘉殿の新嘗祭でもっとも重視されるのは、いうまでもなく、神饌行立、神饌御親供である。米と粟がそれぞれ甑で蒸され、ひとつの御飯筥に並んで納められ、天皇は御飯(おんいい)を竹折箸を用いて、手づから供饌される。天皇がなさる、天皇にしかできない祭祀の重要さはここにあるということだろう。だから、秘儀とされる。

パイワン族にとっては粟オンリーであり、稲作民にとっては米オンリーである。つまり、ふつう民の立場では「米or粟」だが、天皇にとっては「米and粟」なのである。だとすれば、神饌の調理法も供饌の方法も同じでなければならない。

パイワン族の場合、粟の祭祀に用いられるのは粟餅である。日本でも、たとえば『常陸国風土記』に登場する粟の新嘗は粟餅が神に捧げられていたのかもしれない。今回、私の実験でも、蒸し上がっておにぎりにして食べるより、すりこぎで餅についた方がはるかに美味しく感じられた。

しかし宮中新嘗祭では、延喜式以来、いまは甑で蒸しただけの粟の御飯(おんいい)である。なぜなのか、その調理法はおそらく米の御飯と同等・同格に捧げられる必要性に発したものだろう。神饌は人間の食べ物ではなく、神の食べ物だからである。味は無関係だ。

粟の御飯はその昔はもち粟100%が用いられたのかもしれない。米の御飯もまたもち米100%だったのではないか。だとすれば、甑で蒸すという調理法こそふさわしい。

しかしいまは米も粟もうるち種が混ぜ合わされる。新嘗祭のために献納される米や粟がもち種とは限らないからだ。いやむしろ、うるち種の方が多いのだろう。米はまだしも、粟だとうるち粟だけなら、ポロポロになってしまう。
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地方から献納されることの意義は最大限、優先されなければならない。だが、ポロポロでは祭祀が成り立たない。ポロポロ感を抑えるためには、逆に、献納されたうるち種にもち種をあとから加えることになるが、それでも限界があるのだろう。

実際、宮内庁掌典職OBの証言によれば、粟の御飯を供饌される際、竹折箸では扱いにくいため、陛下がたいへん苦労されるらしい。私の実験でもそのことは容易に想像された。けれどもそれは米の御飯と粟の御飯を同列に扱うことの結果である。

米の御飯と粟の御飯は、皇祖神ほか天神地祇に捧げられる、あくまで神饌として、同等に扱わなければならない。つまり、天皇は一視同仁、米の民と粟の民を同等に思し召され、この国を統治されるという、もっとも重要な天皇の精神がここに凝縮されているのである。

パイワン族は粟を神聖視し、米作は禁忌され、敵視された。けれども、天皇無敵なるゆえに天皇は米と粟をひとしく神々に捧げられる。だとすれば、新嘗祭・大嘗祭は「稲の祭り」ではなく、「米と粟の祭り」でなければならない。

最後に蛇足ながら、パイワン族の祭祀では粟の酒と粟の餅が捧げられる。宮中新嘗祭の酒、すなわち白酒・黒酒は両方とも米が原料だが、延喜式で現在の製法が確立される以前は、もしかすると米と粟だったのではなかろうか。

それにしてもである。いまの日本では粟の酒はない。粟の祭祀も宮中以外にはほとんど見出せない。どこへ消えてしまったのだろう。なぜ消えたのだろう。

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台湾総督府が記録する台湾先住民パイワン族の粟の祭祀 [宮中祭祀]

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台湾総督府が記録する台湾先住民パイワン族の粟の祭祀
(令和4年11月18日、金曜日)
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台湾の先住民が粟を食べ、粟の祭祀を行っているというリポートがある。大正期に台湾総督府蕃族調査会が取りまとめた『蕃族(番族)調査報告書』シリーズで、第5巻にパイワン族のことが書かれている。宗教的分野でもっとも進んでいる先住民と説明されている。

国会図書館のデジタルコレクションで、誰でも、好きなときに読むことができるので、一読をお勧めしたい。
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リポートによると、パイワン族の食生活は、主食物は芋やサツマイモで、粟、稗、米がこれに次ぐという。

ただし、一部の部族は米を食用とするのに、ほかでは古来、これを禁忌してきたとある。米を耕作することを禁忌し、禁を犯せば、粟神の怒りに触れ、粟の不作を招くと信じられた。米作の禁が破られたのは近代になってかららしい。じつに興味深い。

つまり、米と粟は、信仰の世界も含めて、もともと文化圏が異なる食物だったのではないかと考えられる。作物学的に考えれば、同じイネ科とはいえ、粟は水はけの良い土地を好み、湿地を嫌う。逆に、乾燥には強い。水田稲作とはまったく異なるのである。当然、米の神と粟の神は敵対関係になるだろう。

リポートに戻ると、パイワン族は、粟を酒または餅とし、飯とすることは少ない。そして粟の祭りが行われる。農作物に関する祭りのなかで、粟の祭りはもっとも重要で、粟の穂や餅、粟酒が粟の神霊に捧げられる。

たとえば、粟の収穫のあとに行われる祭りは、大祭と位置付けられ、数日間にわたって行われる。その際、新粟の団子が作られ、石焼にし、あるいは雑炊が作られ、新粟が粟神や祖霊に捧げられるのである。

ならば、どのように粟を調理するのかであるが、うるち粟ともち粟では異なるという。

リポートによると、うるち粟は酒や飯にするのだが、その場合、殻や糠を除いたあと、鍋に湯を沸かし、粟を入れ、大杓文字で撹拌して焦げないように煮る。粟飯は粥のように柔らかいと説明されている。

日本では平安期に行われるようになったとされる米の煮飯の調理法と同じである。台湾の粟の場合も、歴史的に新しいのかもしれない。

リポートによると、粟餅の製法は、ふたつある。ひとつは精粟を半日水につけたあと、ザルに移して水を切り、臼にかけて粉にし、水を加えてこね、これを蒸すか焼いて、餅にする。部族によっては、もうひとつの方法がある。日本の餅と同じように、給水させた精粟を蒸しあげ、臼でつくというものである。

前者は、日本の神社の神饌にしばしば登場する米の「ぶと」と製法が似ている。後者はいわゆる餅である。ぶとの方が古い形態ということだろう。春日大社などでは油で揚げて、神饌とするらしい。

さて、宮中新嘗祭である。米の御飯も同様らしいが、粟の御飯はうるち粟ともち粟があわせ用いられている。甑で蒸すという、いまも続く調理法は、延喜式のころに確立されたのだろうけれど、それ以前はもしかすると別だったかも知れない。

うるち粟ともち粟は別物と認識され、調理法も別であり、神饌の形態もかつては違っていたのではないか。天皇が粟の御飯を竹折箸で供饌される際、苦労されるのは、人間が食べる食物ではなく、米の御飯と一対のかたちで、神饌として調理されるからでろう。そして粟の御飯がうるち粟ともち粟を混ぜて蒸すという方法を採用しなければならない、食文化とは次元の異なる理由がほかにあるに違いない。

そしておそらくそれらのことが、米と粟を捧げる神嘉殿の新嘗祭をして、皇室第一の重儀と位置付ける意味と深く関係しているのではなかろうか。

それにしても、今日の神道学者までが新嘗祭・大嘗祭を「稲の祭り」と言い張るばかりで、現実を直視しようとしないのに対して、戦前の台湾総督府が先住民研究に挑戦し、克明なリポートを残していたとは、ただただ驚くばかりだ。(つづく)

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もち粟とうるち粟を合わせ炊いてみた──宮中新嘗祭「粟の御飯」を再現する [宮中祭祀]

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もち粟とうるち粟を合わせ炊いてみた──宮中新嘗祭「粟の御飯」を再現する
(令和4年11月9日、水曜日)
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宮中新嘗祭の粟の御飯(おんいい)を再現する実験を続けている。

これまではもち粟ともち米を合わせ、炊飯器のおこわモードで炊くという方法を採ってきた。古代人はもち粟を甑で蒸したのだろうと想定したものの、もち粟100%で試みる自信がなかったからである。

宮内庁掌典職OBの話を聞いて「12時間以上吸水させる」ことも分かった。同時に、もち粟とうるち粟と混ぜるという事実も知ることとなった。

それでいよいよ粟100%で実験することになったのだが、これまでは中国産の粟を材料にしていたことに気がついた。まったく信用しないというわけではないが、あらためて国産のもち粟とうるち粟と入手し、5対1に混ぜ合わせ、実験を試みた。

ただ、わが家の炊飯器では、白米のおこわモードがあり、これを利用して、12分間のスチームで「蒸す」ことを再現してきたのだが、残念なことに粟用のメニューはないし、雑穀米のメニューにはおこわモードがない。やむなく、これまでと同様、白米のおこわモードで実験することにした。

12時間以上吸水させたのち、炊飯器にかけ、炊きあがったあと、半分はおにぎりにし、残る半分はすりこぎで半殺しにし、餅について、団子風に丸めてみた。画像の奥がおにぎりで、手前が団子である。
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おにぎりの方はなんとか形崩れしないでまとまっている。団子はいい感じに餅になった。食べてみると、断然、団子の方が美味しい。おにぎりはどうしてもパサパサ感が残る。

そこであらためて掌典OBから聞いた言葉が蘇ってきた。「粟の御飯は、陛下が竹折箸で供饌するのに苦労されるようです」。

宮中新嘗祭の粟がどういう比率で、もち粟とうるち粟を混ぜ合わせるのかは分からないが、パサパサ感が残るものなら、供饌、直会で苦労されることは容易に想像される。

別な言い方をすれば、餅の形態で供饌した方がはるかに扱いやすいのに、なぜそうしないのかということである。もともと粟の民による粟の祭祀では、甑で蒸した御飯を捧げるという神饌調理法を採用しないのではないかという疑問が新たに湧いてくるのである。

そして、台湾先住民の粟の祭祀について学ぶとき、疑念は確信へと変わるのである。(つづく)

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宮中新嘗祭「粟の御飯」の調理法への疑問 [宮中祭祀]

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宮中新嘗祭「粟の御飯」の調理法への疑問
(令和4年11月6日、日曜日)
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前回、書いたように、宮中新嘗祭の粟の御飯(おんいい)を再現する実験を繰り返し試みている。

もち粟ともち米を5対1の割合で混ぜ合わせ、数時間、吸水させたのち、炊飯器のおこわモードで炊いてみた。おにぎりにすると、もうこれ以上、もち粟の比率を上げるとポロポロに崩れて、おにぎりにならない限界であることが実感された。

神嘉殿での供饌の儀で、天皇は竹折箸を用い、御飯を供饌され、直会されるのだから、この調理法では無理がある。とすれば、方法的に何かが違うのだろう。

吸水時間が異なるのか、それとも炊飯器を使うことが間違いなのか?

平成の大嘗祭にも携わった宮内庁掌典職OBに聞いてみたところ、「12時間以上、水につける」とのことだった。要するに、吸水時間が「数時間」では足りないということらしい。

さっそく、ほかの条件はそのままに、もち粟ともち米を合わせ、15時間、吸水させて炊いてみた。するとなるほど今度はいい具合に炊き上がった。
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しかし、なのである。OBによると、宮中では「もち粟とうるち粟を混ぜて蒸す」というのである。たしかにそうだろう。地方から献上される粟はもち粟とは限らないからだ。

平成の大嘗祭のとき精粟を担当した秋田の篤農家を以前、取材したことがあるが、それはそれは見事な粟を地域で栽培されていて感動したのだけれども、「虎の尾」という品種のうるち粟であった。

うるち粟だけでは、吸水時間を伸ばしても、竹折箸でつまめるような御飯にはならないだろう。毎年、納められる粟もうるち粟が多いかもしれない。となると、もち粟を加えて、ネバネバ感が出るようにして、竹折箸でつまめるようにするのだろうとまずは解釈してみたものの、どうもおかしい。

もち粟だけではネバネバ感が確保できないからこそ、もち米を加えて実験を繰り返してきたのであって、もち粟にうるち粟を加えたのでは逆にポロポロになってしまい、竹折箸でつまめなくなるのではないか。

さっそく実験で確認しようかと思ったが、思いとどまった。粟を食べ、粟の祭祀を行う台湾の先住民は同じような調理法をするのだろうかと、ふと思いついたからである。

で、古い文献を読んでみて、目から鱗の事実を知ったのである。(つづく)

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宮中新嘗祭の「粟の御飯」を再現する [宮中祭祀]

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宮中新嘗祭の「粟の御飯」を再現する
(令和4年11月3日、文化の日)
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今日は文化の日であるが、そのことについてではなく、あと3週間で祭日当日となる宮中新嘗祭の「粟の御飯(おんいい)」について書こうと思う。

じつはこのところ「粟の御飯」を再現する実験を繰り返し試みている。

天皇は神嘉殿で神前に米と粟を捧げて祈られる。そのとき竹折箸を用いられ、みずからも食される。神事に用いられる米と粟の御飯は「御飯筥」と呼ばれる葛筥にいっしょに納められている。『大嘗祭史料 鈴鹿家文書』の図録にはその様子が示されている。

しかし、天皇の祭りは「秘儀」であり、詳細は一般には知られない。だから、政府の公式解説でも「大嘗祭は稲の祭り」となってしまう。神道学者なども「稲の祭り」で固まっている。神道学の論文目録で「粟の新嘗」をテーマとする学術論文は1本しか私は知らない。お粗末だと思う。

米の御飯の場合、古代の調理法に従い、甑(こしき)で蒸して作られる。古代人はモチ米を蒸して食べていたそうだから、米の御飯は古くはモチ米だったのではなかろうか。

それなら粟の御飯はどうだろうか。竹折箸でつまめるようなものとなるのだろうか。

いまはどうか知らないが、かつてはモチ粟100%の「粟の御飯」が調理されていたのではないかと想定したが、最初からモチ粟100%で挑戦する自信がないので、まずはモチ米と混ぜて、炊飯器のおこわモードで炊いてみることにした。はじめはモチ粟とモチ米の比率を1対1とし、徐々にモチ粟の比率を高めていった。

5対1まで高めると、おにぎりにしたときポロポロと崩れる一歩手前であることが実感された。とすると、たとえモチ粟100%でも竹折箸でつまみ、供饌するのは困難ではないのか。宮中新嘗祭の「粟の御飯」には大きな謎があるのではないかと強く思われた。

そこで大嘗祭の神事にも関わった宮内庁OBに話を聞いてみた。すると、思ってもみない新事実が判明することとなった。そして、宮中新嘗祭の本義、ひいては天皇の存在意義とも関わると思われる新たな知見を得ることとなった。(つづく)

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粟菓子ではなかった銘菓「粟津の里」から皇統論の混乱を憂う [天皇・皇室]

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粟菓子ではなかった銘菓「粟津の里」から皇統論の混乱を憂う
(令和4年1月13日、木曜日)
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滋賀県大津市膳所(ぜぜ)の菓子司・亀屋廣房の銘菓「粟津の里」を美味しくいただいた。手に取るとじつに軽い。口に含むとサクッとした口当たりのあと、しっとりとした味わいが続く。半生の食感を楽しみながら、古代に思いを馳せ、そして皇統の行く末を思った。

なぜ粟のお菓子から皇統を思うのか?

そもそも「膳所」はなかなか読めない。文武両道の名門・県立膳所高校の名声で、私などはその地名と読みを知った。


▽1 日吉大社の粟飯

「膳所」の由来は古代の物語にある。「粟津の里」の菓子折りに入っている説明書きには、次のように書かれてある。

「粟津御供の由来は、天智天皇白鳳2年、日枝山王の神供に始まり、続いて6年、大津宮の大膳に進ぜられたに始まると伝えられ…」

以前、書いたことだが、大津に鎮座する古社・日吉大社で、中心をなすのは西本宮(大宮)と東本宮(二宮)である。西本宮は、天智天皇が667年に都を近江大津京に遷されたおり、大和国の三輪山から大己貴神を勧請されたと伝えられる。年に一度の山王祭には「粟津の御供」が琵琶湖の湖上で献納される。

社伝によれば、その昔、大己貴神に膳所の漁師が舟の上で粟飯を差し出すと、大神はことのほか喜ばれ、「年に一度、粟飯が食べたい」と仰せになったという。この故事が粟津御供の始まりといわれる。いまも膳所の5社の神社の氏子から、一年ごとの輪番で、粟飯が供せられる。

膳所は神への、そして天皇への台所なのであった。

地図を広げてみると、膳所の南東に粟津という地名もある。かつてはこの地域に粟が栽培され、食されていたのではなかろうか。膳所の和菓子もその長い歴史に裏付けられ、「千二百余年の古香を偲び、神供大膳の古式に則り、創製す」と説明される。

「粟津の里」というからには粟が原材料なのだろうと勝手に解釈して、Yahoo!で取り寄せてみたのだった。そして、みごとに一杯食わされた。食品表示によると、原材料は「国産みじん粉」、つまり米である。私は思わず天を仰いだ。「大膳の古式」に「原料米」と記録されているということだろうか。素直には信じられない。


▽2 なぜ米と粟なのか

なぜ私が粟に関心を抱くかといえば、天皇の祭祀と深く関わるからである。大嘗祭、新嘗祭で、天皇が皇祖神ほか天神地祇に捧げ、神人共食されるのは米と粟である。なぜ米と粟なのか。それは天皇の役割と深く関わっているだろう。多様性の統一である。

多様性(diversity)は現代のキーワードであるが、日本ではすでに古代から強く意識されていたに違いない。古代律令に「およそ天皇、即位したまはむときは、すべて天神地祇祭れ」とあるのはその証明である。なぜか?

天皇が天照大神の子孫であり、天孫降臨で稲穂を授けられたという神話に基づくのなら、天皇は賢所で皇祖神を祀り、稲穂を捧げて祈れば十分である。実際、宮中三殿の新嘗祭は神饌は米のみである。ところが、大嘗宮の大嘗祭、神嘉殿の新嘗祭は皇祖神のほか天神地祇が祀られ、米と粟が捧げられる。皇室第一の重儀は米と粟なのである。

つまり、天皇はなぜ天神地祇を祀るのか、である。天神地祇を祀るから、粟もささげられるのである。

神社祭祀なら、血縁共同体や地縁共同体が前提だから、稲作地帯なら稲の神に米が捧げられ、畑作地帯なら畑の神に畑のものが捧げられるだろう。稲の神も畑の神も同時に祀り、稲も畑作物も同時に捧げることはないと思う。

天皇のみが天神地祇を祀り、米と粟を捧げて祈るのである。それはなぜなのか。私は民俗学者の野本寛一先生以外に、見極めようとする知識人に出会ったことがない。現代の日本人は米よりもパンを食べているから、粟などは関心の外なのであろう。知識人の問題意識も大差はない。だから、「新嘗祭は稲の祭り」と神道学者までが信じ込んでいる。

なぜ米と粟なのか。野本先生は私の疑問に対して、「天神地祇に米と粟をささげる新嘗祭、大嘗祭の儀礼は、米の民である稲作民と粟の民である畑作民をひとつに統合する象徴的儀礼として理解できるのではないか」と即座に答えられた。さすがだと思う。


▽3 天皇観の違い

つまり、天皇=スメラミコトだからだろう。稲作民や畑作民の共同体から超然とした立場にあって、すべての民をひとつにまとめ上げることを第一の務めとされてきたからであろう。だから稲作民、畑作民すべての神を祀り、稲作民の米と畑作民の粟を捧げて祈るのである。多神教的多様性の統一である。

すべての民のために祈る、つまり天皇に私なし、ということが私たちにはなかなか分かりづらいかも知れない。だから、米と粟の祭祀にも関心が及ばないのかも知れない。

大学のサークルの大先輩だった佐々淳行は『東大落城』に、安田講堂に籠城する学生たちが排除されたあとの逸話を記録している。報告のため参内した秦野章警視総監に、昭和天皇は「双方に死者はなかったか?」と下問され、秦野が「ありません」と答えると「それは何よりだった」と安堵されたが、秦野は怪訝そうな表情のままだったというのである。

天皇はすべての民を統合する超然たるお立場にある。だから過激派の学生と警察との攻防もまるで兄弟喧嘩のように見えるということになる。それが秦野には理解できないのだった。天皇観の違いである。

秦野だけではない。いつだったか、講演の聴衆者から「宮中祭祀にカトリックの信徒が携わっている」ことへの疑問と怒りが呈された。異教徒が天皇の祭祀に関わるのはけしからん。神道人でなければならぬ、ということだろう。ごく最近では、左翼学者が宮内庁参与に加わっているのは許せない、と保守派で、男系派の大学教授がTwitterで息巻いていた。

つまり、天皇のおそばにお仕えするのは保守派、民族派でなければならないという固い信念の表明である。それはそれで立派で、賞賛に値するのだが、天皇は保守派だけの天皇ではないことを忘れているようなことはないだろうか。

天皇は古来、皇祖神のみならず天神地祇を祀り、稲作民の米と畑作民の粟を捧げて、「国中平らかに安らけく」と祈られる。その意味や理由を考えないなら、天皇は保守と革新の抜き差しがたい政治闘争の只中に置かれることになる。

男系派はむしろ皇位の男系継承主義の理由と意味を説明すべきなのである。そうしないで、祭祀に関心も持たずに、安易にY染色体論を振り回す。原因と結果を取り違える因果の逆転は根拠の説明になっていないことに早く気づいてほしいものである。


▽4 「根拠がない」はずはない

それかあらぬか、女系継承容認派の論客・毎日新聞の伊藤智永編集委員兼論説委員などは、「男系男子論は『ほとんどずっとそうだった』以外に根拠がない」(「天皇のいない国になると」1月8日)と吐き捨てている。

しかしこれもおかしい。「どこにも根拠がない」のではなくて、正確には、「伊藤記者自身は根拠を見出せなかった」という、要するに勉強不足、取材不足ではないのか。千年以上もの間、皇統が男系継承で続いてきたことについて、歴史と伝統以外に、理由や根拠がないなどということが、あり得るだろうか。常識的に考えれば分かるだろう。

伊藤氏が一押しする16年前の皇室典範有識者会議では、「なぜ皇位継承は男系でなければならないのか、を説明した歴史的文書などは見あたらない」と事務局が説明したと伝えられる。当たり前に続いてきた男系継承を合理的に説明することなどありはしない。だからといって、男系継承に根拠がないとするのは論理の飛躍そのものである。

皇室典範有識者会議は皇室の天皇観については検討していないから、皇室の男系継承主義の根拠を見出すことは不可能である。有識者会議の限界を伊藤氏は直視すべきだ。皇室の天皇観では天皇=祭り主である。とすれば、男系主義の根拠は天皇の祭祀にこそ見出されるに違いない。伊藤氏は天皇の祭祀について謙虚に学び直し、読者に問いかけてほしい。

男系派も女系派も、アカデミズムもジャーナリズムも、不勉強というほかはないのではないか。そして、政府・宮内庁は126代皇統の安定化ではなく、2.5代象徴天皇制の安定化のため暴走し続けている。つくづく世も末だと思う。

最後に蛇足だが、「粟津の里」の亀屋廣房にお願いしたい。粟津御供の故事がモチーフなら、ぜひとも粟を原料に作ってほしい。そうでなければならないと思う。


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令和3年下半期のアクセスランキングTOP10 [斎藤吉久]


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令和3年下半期のアクセスランキングTOP10
(令和3年12月31日、大晦日)
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「斎藤吉久のブログ」令和3年下半期のアクセスランキングTOP10は以下の通りです。
今年も1年間ありがとうございました。来年もよろしくお願いします。


1位 君塚直隆先生、126代続く天皇とは何ですか?──5月31日の有識者会議「レジュメ+議事録」を読む 1〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2021-06-27〉 

2位 半井小絵先生、和気清麻呂のご子孫とは知りませんでした──6月7日の有識者会議「レジュメ+議事録」を読む 2〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2021-08-11〉 

3位 皇室伝統の皇位継承法に従うことが「宗教派」なのか──日経編集委員の解説を批判する〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2021-08-15〉 

4位 かつて安倍官房長官と対決した高市早苗・前総務大臣のいたってまともな皇位継承論〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2021-08-28〉 

5位 大石眞先生、男系の絶えない制度をなぜ考えないのですか?──5月10日の有識者会議「レジュメ+議事録」を読む 2〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2021-06-13〉 

6位 百地章先生、結局、男系継承の理由は何ですか?──5月10日の有識者会議「レジュメ+議事録」を読む 4〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2021-06-20〉 

7位 岡部喜代子先生「女帝は認めるが女系は認めない」現実論の前提を疑う──5月10日の有識者会議「レジュメ+議事録」を読む 1〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2021-06-06〉 

8位 皇室の品位は何処へ──内親王殿下「駆け落ち婚」を黙過する現代宮内官僚たちの憲法観〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2021-09-05〉 

9位 綿谷りさ先生、天皇の役割とは何でしょうか?──6月7日の有識者会議「レジュメ+議事録」を読む 1〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2021-08-01〉 

10位 曽根香奈子先生、さすがの見識と学びですね──5月31日の有識者会議「レジュメ+議事録」を読む 2〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2021-07-04〉 


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先帝陛下「米寿」のお誕生日に、将来の皇位継承を思う [皇位継承]


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先帝陛下「米寿」のお誕生日に、将来の皇位継承を思う
(令和3年12月23日、木曜日)
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先帝陛下は今日、88歳の米寿をお迎えになった。歴代最高齢である。心からお祝い申し上げたいが、惜しむらくは、在位のまま迎えていただけなかったことである。

これまでの経緯を簡単に振り返ると、先帝が「私は譲位すべきだと思っている」と参与会議で仰せになったのは、平成22年7月と伝えられる。6年後、28年7月のNHKのスクープに端を発して、「生前退位」なる奇妙な新語がメディアを席捲するようになった。

翌月にビデオメッセージで「お気持ち」が表明されると、あれよあれよという間に「退位」特措法が作られ、御代替わりを迎えることとなったのである。

特措法の採決時には「政府は女性宮家の創設など安定的な皇位継承のための諸課題について、皇族減少の事情も踏まえて検討を行い、速やかに国会に報告する」との附帯決議が行われ、その結果、今回の有識者会議が設けられたのだった。

今年3月から13回の会合を経て、昨日、報告書がまとめられ、岸田首相に提出された。官邸のサイトに載る報告文によると、「附帯決議」とは大きな変化が見受けられる。「附帯決議」に関する有識者会議なのに、報告書には「附帯決議」にある「女性宮家の創設」が見当たらない。この変化は何によるものなのか。


▽1 皇位継承策の脱落

すでに7月の会議資料では「今上陛下から秋篠宮皇嗣殿下、次世代の悠仁親王殿下という皇位継承の流れをゆるがせにしてはならない」「当面は皇族数の確保を図ることが喫緊の課題ではないか」と報告書の内容が先取りされていた。

また、前回、12月6日の会合に配られた「報告書骨子案」では、「皇位継承のあり方」が脱落し、「皇族数の確保」に焦点が絞られていた。

そして今回、報道でも指摘されているように、「皇位継承策については示さず」(朝日新聞)とされたのである。岸田総理は「大変バランスの取れた議論」と評価したが、女系継承容認派には「結論の先送り」と受け止められることだろう。

とにもかくにも、女性天皇・女系継承容認にブレーキがかかったことは、伝統派から見れば一定の評価はできるということになる。

平成17年11月に皇室典範有識者会議が「皇位継承資格を女子や女系の皇族に拡大することが必要」「女性天皇・女系天皇への途を開くことが不可欠」(結び)と明記する報告書をとりまとめたときとは隔世の感がある。

今回の報告書は関係各位の尽力の結果であり、その労を多としたいが、糠喜びは禁物だろう。女系派の巻き返しがあることは目に見えているからだ。


▽2 説明されざる「ありがたさ」

ところで、これに関連して、先日、私も参加したチャンネル桜の討論会で、外交評論家の加瀬英明先生が「皇室をいただくありがたさ」を何度も繰り返されたのが印象に残っている。そのことについて蛇足ながら書いておきたい。

討論会の出席者は男系派ばかりだから、「ありがたさ」を疑問に思うなどということはまずない。しかし一般論として、「ありがたさ」が情緒的にではなくて、理性的に、科学的に自覚できる日本人はどれほどいるのだろうか。

「天皇陛下、万歳」と三唱する光景は、戦後はほとんど見かけなくなった。忌まわしい戦前・戦中の記憶と戦後の民主教育の結果、忌避する人たちは相当数いるに違いない。そんな人たちにとっては「ありがたさ」はあり得ないかも知れない。

それでも「ありがたさ」をいうのであれば、その意味が誰にでも分かるように合理的に説明されなければならない。保守派にはその責任があるのではないか。説明責任が十分に果たされていないことが、皇位継承問題をめぐる今日の混乱の大きな原因だと私は思う。

いみじくも政府は、皇室の「ありがたさ」が安定的に継続されることを目的として、皇室典範有識者会議などを設置してきたのではない。あくまで憲法に定められた「象徴」天皇、すなわち「国事行為」をなさる特別公務員の安定継承が目的なのであった。

他方、国民は「象徴」天皇に「ありがたさ」を感じるのではない。有識者会議での議論とはそもそも次元が異なるのである。そして、「ありがたさ」の理由は皇位の男系継承主義の理由とも通じているはずだ。けれども、いずれの理由もいまだ説明されずにいる。

となると、皇位の男系継承は将来も守られていくのだろうか。

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