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良質な皇室ジャーナリズムを育てる読者の見識 [皇室ジャーナリズム]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2008年10月7日)からの転載です


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良質な皇室ジャーナリズムを育てる読者の見識
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▽1 市村・京大名誉教授の西尾批判
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 先週、発行された雑誌「日本」10月号(日本学協会)で、畏敬する市村眞一・京都大学名誉教授が西尾幹二・電通大名誉教授の東宮批判を取り上げています。

「自由な言論に責任と慎みあれ」と題するエッセイは、言論の責任、品格を訴えるもので、前半において、ソ連崩壊後、自己の誤りを反省し、原因を検証、啓発することを怠ってきた社会主義者たちの無責任を問いかけ、後半では西尾名誉教授の「御忠言」を「不謹慎」と指摘しています。

 ──忠言・諫言は、誠心誠意、私信をもって目立たないように直接するのが礼儀であり、限度である。国家の根幹に関わることを論じるには、よほど勉強もし、思慮を重ね、それでもなお自己の知見の不足を恐れる謙虚さを要する。扇情主義や商業主義に乗せられるほど、軽薄であってはならない。

 先生がおっしゃるのはその通りであり、毎週、このメルマガを書いている私自身、先生の言葉が身にしみます。

 大正末生まれの先生は、人生の大半を大学人として送ってきました。戦後教育のまさに生き証人であり、社会主義国のソ連や中国を理想と考え、左翼教育の実践を主張する戦後の教育界や言論界の主流との対決を余儀なくされたのが先生の半生でした。そうした先生であればこそ、知識人のとるべき態度をずばり指摘されたのでしょう。


▽2 編集者の責任放棄

 しかし私は、少しばかり編集者を務めた経験から、同時にまた別な観点があり得るだろうと考えています。

 先生は新聞・雑誌のセンセーショナリズムとコマーシャリズムを問題にしていますが、新聞・雑誌は筆者だけでは成り立たないからです。メディアのクオリティーは編集者と筆者と読者の相関関係において定まります。「乗せられたピエロのような知識人」がいるとすれば、筆者をおだてた編集者がいるのであり、扇情主義・商業主義のメディアを歓迎する読者がやはりいるのです。

 資本主義社会で生きる商業ジャーナリズムが「売らんかな」に走るのは、やむを得ません。まして日本の出版界はいま、深刻な不況にあえいでいます。名前で売れる筆者を登用し、見出しで読者を挑発し、話題づくりを心がけるのは、ビジネスとして当然です。

 問題はその先へ議論が進まないことです。批判は往々にして感情的対立を生み、冷静で建設的な対話が深まらないのです。それは市村先生がいうような知識人自身の無責任であると同時に、編集者の責任放棄があるのだと思います。

 市村先生の『日本の教育を守るもの』というエッセイ集があります。本論は福田恒在氏との思い出に始まります。ソ連に改革者ゴルバチョフが登場し、大変動が起きつつあった平成の初年、新幹線の車内で出会った福田氏は「言論の無力を感じますなあ」と嘆息(たんそく)したといいます。現代史の一大画期であるソ連崩壊を導いたのはアメリカの強大な軍事力・政治力であり、言論ではなかったのです。

 市村先生は社会主義者たちの無責任を指摘しますが、社会主義の誤りを検証しないのは同時に議論を喚起しないメディアの責任放棄でもあります。


▽3 成熟した読者の役割

 同様のことは皇室ジャーナリズムにもいえます。

 たとえば私がこのメルマガに書いてきたようなことは、天皇・皇室の歴史を研究する知識人にはほとんど常識のはずですが、そのような人たちは公の言論の場にはいっこうに姿を現しませんし、一方、メディアの側もそのような知識人の存在を無視し、登用しようとはしません。「軽薄」ではあっても、名のある「ピエロ」がメディアに露出するのは、その結果です。

 良質なジャーナリズムを求める健全な読者が数多くいれば、こうした現象は修正されざるを得ないでしょう。逆に女性週刊誌的な話題を求めるような読者ばかりなら、たとえ天皇・皇室問題が国家の根幹に関わることであったとしても、皇室ジャーナリズムの質的向上は望めないでしょう。扇情主義や商業主義に乗らない成熟した読者がどれだけいるのか、試されているのではないかと思います。

 かつて葦津珍彦という人物がいました。戦後唯一の神道思想家といわれ、国家神道イデオローグとも見なされる葦津ですが、みずから進んで左翼人士と交わりました。思想的に一致することはありませんでしたが、人間としての信頼を獲得しました。そのような人物を私は寡聞にしてほかに知りません。

 葦津は、「天皇制」特集号を出版社が編集者の了解を得ずに裁断してしまった、昭和三十六年末の「思想の科学」事件の渦中の人でもあります。葦津が書いた天皇制支持論文「国民統合の象徴」を掲載することを躊躇(ちゅうちょ)する版元の自己規制が事件の発端だったようです。

 葦津のような人がいたとしても、その価値を理解できる編集者や出版社、支持する読者がいなければ、歴史に埋もれてしまうだけです。


 財団法人日本学協会の雑誌「日本」についてはこちらをご覧ください。
http://members.jcom.home.ne.jp/nihongakukyokai/

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