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目の前で繰り広げられる「国家キリスト教」イベント──島薗進東大大学院教授の国家神道論を批判的に読む 4 [島薗進国家神道論]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(平成22年12月31日)からの転載です

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目の前で繰り広げられる「国家キリスト教」イベント
──島薗進東大大学院教授の国家神道論を批判的に読む 4
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 今年最後のメルマガです。

 冬至から年初にかけてのこの時季、私は毎年、じつに憂鬱な気分になります。日本の宗教伝統である神道には厳格な政教分離主義を要求し、キリスト教にはきわめて甘い、ダブルスタンダードそのものというべき、現代日本の宗教的現実を見せつけられるからです。

◇1 陛下のお膝元で

 たとえば、陛下のお膝元である皇居外苑では、今月21日から29日まで、ライトアップによる光の祭典「光都東京・ライトピア」が開かれていました。
http://kouto-tokyo.jp/index.html

 主催する実行委員会は東京都、千代田区、東京商工会議所、JR東日本、三菱地所などから構成され、環境省や観光庁などが後援したようで、官民一体のイベントであることが分かります。今年で5回目だそうです。

 公式サイトにはどこにも「クリスマス」とは書いてありませんが、丸ビルではクリスマス・ツリーが飾られ、関連イベントとして、その名もずばり「クリスマス・ライブ」が行われました。

 ここだけではありません。

 昭和天皇のご在位50年を記念して立川市に開設された国営昭和記念公園では、ほとんど12月いっぱい催されるウインター・ビスタ・イルミネーションがたいへんな人気で、毎年20万人の人出があるそうです。

 拝観者たちのお目当ては、数千個のシャンパングラスを数十段積み上げた、クリスマス・ツリーに似たシンボルツリーです。

 さながら日本の皇室は、行政によってキリスト教の宣教師を演じさせられている観があります。

◇2 「国家キリスト教」の儀礼の場

 島薗進東大大学院教授の『国家神道と日本人』は、教育勅語を教義とする国家神道が神社や学校で広められた。皇室神道・神社神道・学校行事が国家神道の主要な儀礼の場だった、と説明しています。

 先生の論理に従えば、現代は皇居外苑、公営施設が「国家キリスト教」の儀礼の場となっています。天皇崇敬を牽引車として、です。

 島薗先生は、国家神道は必ずしも解体されていない、信教の自由や思想・言論の自由は保たれるべきだ、と主張しておられます。

 ならば、目の前で繰り広げられている「国家キリスト教」政策に反対しなければなりません。

 占領前期の神道撲滅政策さながら、政教分離政策を神道にはきびしく、キリスト教には緩やかに運用することが、行政にあるまじきダブルスタンダード政策であるように、「国家神道」復活の現象はきびしく批判し、「国家キリスト教」化の現象に目をつぶるのもダブルスタンダードであって、学問の客観性に反します。

 さて、最後になりましたが、皆様、どうぞよいお年をお迎えください。

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国家神道はキリスト教である──島薗進著『国家神道と日本人』をテキストに考える その3 [島薗進国家神道論]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(平成22年11月22日)からの転載です


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国家神道はキリスト教である
──島薗進著『国家神道と日本人』をテキストに考える その3
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 島薗進・東大大学院教授の『国家神道と日本人』を批判的に読んでいます。

 誤解しないでほしいのですが、私は個人攻撃しているのではありません。先生の近著をテキストにして、日本の近代宗教史を見きわめたいというのが、私の目的です。

 島薗先生は人格的に立派な方ですし、現代日本における最高水準の宗教学者です。したがって先生の近著は、現代宗教学のレベルを示していると同時に、課題が見えてきます。

 まず簡単におさらいをすると、これまで私は、キリスト教的な一神教モデルに縛られ、そのために日本の宗教史の現実が正確に理解できないでいるのではないかと指摘しました。

 先生の著書は「日本人の多くは『無宗教』だといわれる」という書き出しで始まります。「戦前はおおかたの日本人が国家神道の影響下で生活」していたのに対して、戦後は「特定宗教の教えや礼拝に慣れ親しむ」ということが無くなった、という見方です。

 創始者がいて、宗教的な教えがあり、宗教指導者が行う儀式に信者が参加する、というキリスト教モデルに従えば、先生のご指摘通り、日本人の多くは「無宗教」だということになるでしょう。けれども、日本人は十分に宗教的だし、戦争の時代を境にして「宗教」的な日本人が「無宗教」に変わったというようなことは、常識的に考えてあり得ないでしょう。

 国家神道をめぐる現代宗教学の発想は完全に誤っているということになります。キリスト教徒ではない日本人の宗教を、キリスト教モデルで論じても始まりません。当たり前のことです。

 けれども、戦前の、いうところの国家神道なるものが、キリスト教モデルに照らし合わせて「宗教」的だという見方は、まったく注目に値します。欧米のキリスト教文化を大胆に受容したのが日本の近代です。日本人の宗教伝統がその影響を免れなかったのはいうまでもありません。というより、西暦を記載する暦を発行する発行元となった伊勢神宮を筆頭にして、キリスト教文化を積極的に受容したのが近代の神社でした。

 先生の著書に話をもどすと、戦前の日本人の宗教性を検証する手始めとして、教育勅語を取り上げます。先生によれば、教育勅語こそ国家神道の「聖なる教え」であり、日本人は折に触れて、ご真影と教育勅語に頭を垂れるという神道的な拝礼に親しんだ、と解説します。

 つまり、キリスト教モデルによる宗教分析に取り組む先生の発想では、戦前の国家神道なるものには、教育勅語という教えがあり、神道的な礼拝を伴う宗教だった、ということなのでしょう。

 先生はこれを、「神道の形態」である、と断言しています。

 けれども、これは完全な勘違いというべきでしょう。

 第一にキリスト教モデルの視点からすれば、たしかに教義と礼拝という宗教的要素を備えているように見えます。日本人は「無宗教」どころか、「宗教」的だったという論理が成り立つように見えます。

 しかしキリスト教モデルでもっとも肝心な、創始者としてのイエス・キリストが国家神道にはいません。少なくとも先生の著作の冒頭には見当たりません。宗教指導者である国家神道の宣教師も見当たらないのです。教育勅語が国家神道の教義だと断定するのも、性急に過ぎるでしょう。

 キリスト教モデルによる国家神道論に無理があるのです。そのことは日本人の宗教伝統である神道の視点から見つめ直すとはっきりします。

 もともと神道は自然発生的な宗教ですから、宗教指導者はいません。キリスト教の場合、教会を建て、人々に教えを説き、教勢を拡大させる宣教師がいますが、日本の神道には宣教師はいません。神社を建てるのは神職ではなく、氏子です。神職は氏子と神とを仲立ちする仲執持(なかとりもち)という立場です。

 神道には教義がありません。神職が氏子に教えを説くという形態はありません。布教という概念がありません。

 キリスト教的な礼拝もありません。戦前期に日本人が御真影や教育勅語に頭を垂れたのは、日本の伝統的宗教儀礼とはまったく異なります。神社で行われるのは、神々に供え物をし、家内安全や豊年満作などの祈願です。教育勅語の儀礼は祈願ではありません。

 先生は「伊勢神宮や皇居を遥拝し、靖国神社や明治神宮に詣で、天皇の御真影と教育勅語に頭を垂れた」のは、「天皇と国家を尊び、国民として結束することと、日本の神々の崇敬が結びついて信仰生活の主軸となった神道の形態である」と断定しています。

 しかしそうではありません。

 拝礼の対象や儀式の場に神社が利用されていることはたしかですが、これは日本人の宗教伝統とは別でしょう。国民個々の信仰生活ではなくて、近代国家が要請する国家的儀礼というべきものであり、「神道の形態」に擬せられているだけです。

 島薗先生は、国家神道がいかに神道的だったか、を論じるのに懸命ですが、そうではなくて、むしろ、国家神道はいかにキリスト教的だったか、を論じる必要があります。


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国民一般の宗教性は一朝一夕に変わらない──島薗進著『国家神道と日本人』をテキストに考える その2 [島薗進国家神道論]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(平成22年10月31日)からの転載です


 神無月(かんなづき)を締めくくるメルマガです。神無月の語源については諸説があるようで、一説によれば、全国の神々が出雲に集まるので、神々がいなくなるのだといわれます。このため出雲では逆に、神在祭(かみありまつり)が行われます。

 これは俗説に過ぎず、有力なのは、神祭りを行う「神の月」がなまったのだともいわれます。なるほど皇祖神をまつる伊勢神宮では、「神がいない」どころか、1年でもっとも重要な神嘗祭(かんなめさい)が行われるほどです。

 もっとも、神の存在というのは時空を超えているわけですから、神がいるとか、いないとか、どこにいるとか、という議論は意味がありません。

 神無月だからというわけではありませんが、当メルマガは、「神がいない」というより、日本人の「無宗教」性について、前号にひきつづき、現代を代表する宗教学者・島薗進東大大学院教授の『国家神道と日本人』をテキストにして、考えてみます。

 その前に、それこそ神がいない、宗教を否定している隣国・中国での「反日デモ」への連帯を、読者の皆さんに呼びかけたいと思います。

 宮崎正弘さんのメルマガによれば、どうやら「反日」は口実のようです。日本人を見かけないような片田舎で「反日」デモが起きていて、そのプラカードには「多数政党制度を認めよ」「腐敗粛正」などと書かれ、ネットは「反政府に華麗に変身」と書き込まれているからです。
http://www.melma.com/backnumber_45206_5005296/

 日本とは異なり、言論の自由のない中国では、「反日」というかたちでしか抵抗権を行使できません。それでも民主化を求める声が陸続として上がっていることに、目を覚まされる思いがします。

 さらにチベットでは、AFPによれば、チベット語で学習する権利を求める学生たちのデモさえ起きています。彼らにとって、それは命がけのはずです。
http://www.afpbb.com/article/politics/2768645/6349475?utm_source=afpbb&utm_medium=topics&utm_campaign=txt_topics

 時代錯誤もはなはだしい武力支配と異民族侵略を続ける中国共産党政府、およびこれに付和雷同する日本の民主党政府は、日中両国人民の共通の敵といわざるを得ません。皆さん、中国大陸内での民主化の動きを応援しましょう。

 それでは本文です。


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国民一般の宗教性は一朝一夕に変わらない
──島薗進著『国家神道と日本人』をテキストに考える その2
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◇1 関東大震災の追悼式は無宗教形式で行われた

 「日本人の多くは『無宗教』だといわれる」。島薗先生の著書はこの一行で始まります。そして先生は、敗戦を境にして日本人の宗教性が変わった、という歴史認識を提示しています。「戦前はおおかたの日本人が国家神道の影響下で生活」していたのに対して、戦後は「特定宗教の教えや礼拝に慣れ親しむ」ということが無くなった、というわけです。

 この書き出しに、私は大きな違和感を覚えずにはいられません。1つは現代の日本人に「無宗教が多い」という意味についてで、それは前回取り上げました。先生の分析はキリスト教的な一神教モデルに縛られているというのが私の見方です。

 「……といわれる」という表現も、現代を代表する宗教学者にしては、かなり曖昧に聞こえます。先生は人格的に立派な方だし、専門書ではない、一般書であればこそ、おだやかな表現をなさったのかもしれませんが、ジャーナリズムならまだしも、アカデミズムとしては、おおざっぱな感じが否めません。

 しかし、それよりも、戦争の時代を境に、日本人の宗教性が「有」から「無」に変わったという見方は、にわかに信じがたいのです。国民一般の精神性、宗教性が一朝一夕に変わるというようなことがあるとは思えないからです。それが宗教学のイロハのはずです。

 まず、戦前について、少しだけ考えてみます。先生は、すでに書いたように、「戦前はおおかたの日本人が国家神道の影響下で生活し、その崇敬様式に慣れ親しんでいた」というお考えです。しかし、その国家神道なるものは「宗教」的なのでしょうか。

 たとえば、大正12年の関東大震災のあと、犠牲者を慰霊する東京府・市合同の追悼式は宗教者や宗教儀礼を排除する、「無宗教」形式で行われました。このため、「行政は宗教に無理解だ」という宗教者たちの猛反発を招いたという歴史があります。無宗教儀礼としての黙祷が国民的に導入されたのは、翌年の震災1周年のようです。
http://homepage.mac.com/saito_sy/yasukuni/SRH1802mokutou.html

 いま東京都慰霊堂で年2回、行われているのは仏教者による仏教形式による慰霊法要ですから、戦前の方が「無宗教」的なのです。「国家神道→無宗教」という先生の図式は、必ずしも成り立ちません。


◇2 現代の日本人は宗教を失っていない

 戦後になると、日本の住環境が変わり、木造の一軒家はめっきり減りました。アパートやマンションには神棚も仏間もありません。竈(かまど)神をまつる竈もないし、水神をまつる井戸もありません。その点では日本人は「無宗教」化しました。しかし「移動するリビング・ルーム」である自家用車には、必ずといっていいほど、お札がまつられています。日本人はけっして宗教を失っていないのです。

 神社関係者が積極的に呼びかけているわけではないのに、初詣の人出は増えています。「関東最古の神社」といわれる鷲宮(わしのみや)神社にアニメ好きの若者がお参りにやってくるのは、よく知られていますが、それ以外にも、パワー・スポットとして脚光を浴びる神社は少なくありません。

 先生は「特定宗教の教えや礼拝に慣れ親しんでいない」ということをもって、戦後の日本人を「無宗教」と呼んでいるのですが、日本人はけっして「無宗教」的ではありません。むしろ先生の定義にこそ、誤りがあります。

 以前、お世話になったムスリムは、日本人と付き合っていることを、母国の友人たちからからかわれることがある、とときどき話してくれたものです。「日本人は、酒は飲むし、豚肉も食べる。女遊びもする。そんな連中となぜ付き合うのか?」というわけです。

 それに対して彼はこう答えたといいます。「イスラムの教えからすれば、日本人は不信仰そのものかもしれない。しかし日本人に犯罪者は少ないし、日本人ほど高潔に生きている民族はいない」。

 むかしもいまも、日本人は十分、宗教的に生きているのです。「無宗教」などとどうしていえますか。


◇3 国家レベルと国民レベルでは異なる

 島薗先生がおっしゃる、一神教世界での「宗教─無宗教」概念と、日本社会における「宗教─無宗教」概念は別だということをしっかりと理解する必要があります。欧米のキリスト教モデルを日本に当てはめても意味はありません。

 たとえば、ヨーロッパの友人たちのなかには、「教会に行っていない」「教会のメンバーではない」と話すだけでなく、教会批判や宗教批判をするインテリがけっこういます。「特定宗教の教えや礼拝に慣れ親しんでいない」という点では、島薗先生のいう「無宗教」であり、かつ「非宗教」ともいえます。

 けれども、友人たちの話を聞いていると、考え方は神と悪魔の二元論的であったり、過去から未来へと続く直線的な歴史理解を示すなど、きわめてキリスト教的です。つまり、キリスト教的無宗教、キリスト教的非宗教なのです。

 それなら、日本人はどうか、といえば、先生が著書の冒頭でおっしゃるように、国民一般のレベルにおいて、敗戦を境に、国家神道的な日本人から無宗教的に変わったのではありません。明治以来の近代国家建設に伴って、国家のレベルにおいては「無宗教」的な国家儀礼が整備された。しかし国民一般は、これとは別に、むかしもいまも多神教的、多宗教的であり続けている、と私は考えます。

 いみじくも島薗先生が指摘しているように、国家レベルと国民レベルとを区別して、歴史を見つめる必要がありますが、そのことについては次回、あらためて取り上げます。

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日本人は「無宗教」が多い?──島薗進著『国家神道と日本人』をテキストに考える [島薗進国家神道論]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(平成22年10月29日)からの転載です


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日本人は「無宗教」が多い?
──島薗進著『国家神道と日本人』をテキストに考える
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 はじめに、築地市場の豊洲移転について書きます。

 その前に、お知らせです。戦前から発行されている老舗宗教専門紙の「中外日報」10月21日号の「読者のひろば」欄に拙文「深刻さ増す陛下の激務」が載っています。定期購読のうえ、ぜひお読みください。多くの方が目前で進行している平成の祭祀簡略化に関心を持ち、声を上げてくださることを願っています。

 以下は同紙ホームページのURLです。
http://www.chugainippoh.co.jp/


◇1 「豊洲新市場」ではなく「新築地市場」としてはいかが

 さて、石原都知事は先日、豊洲移転を決断しましたが、民主党など野党側がつよく反発し、かえって迷走が深まりそうな気配です。

 問題点の1つは予定地の土壌汚染が深刻なことだと伝えられます。都知事は会見で、世界に誇る日本の先端的環境技術の活用を訴え、議会に協力を呼びかけていますが、反対派は処理実験の欠陥などを指摘し、議論がかみ合わないようです。

 以前、少しばかり聞きかじったダイオキシン類の「過剰規制」問題もそうでしたが、環境問題というのは科学的、技術的なことがらのはずなのに、とかく政治化する傾向があります。冷静な議論を望まずにはいられません。
http://homepage.mac.com/saito_sy/religion/H1511STdioxin.html

 都知事が先端技術の活用を唱えているのはいいとして、「議会軽視」の批判を浴びない、より丁寧な説明とともに、もっともっと夢のある、しかも実現可能な、世界のモデルとなり得る環境再生のプログラムを都民に示してはいかがでしょうか。「環境」をテーマにオリンピックの招致を呼びかけたほどの知事なのですから。

 もうひとつの問題点は、「豊洲新市場」(仮称)では「世界の築地」のブランド力が失われることです。新しいブランドをゼロから作るのはたいへんです。それなら「新築地市場」と命名したらどうでしょう。野党も反発するだけでなく、知恵を出すべきです。築地市場の老朽化は明白なのですから。大局を見失った、都民不在の権力闘争をしていては、混乱は深まるばかりです。

 それでは、本論です。


◇2 現代の学問的限界が見えてくる

 今年の夏、島薗進・東大大学院教授(宗教学)の『国家神道の日本人』が出版されました。これはじつにありがたい本です。というのも、現代の学問的な課題が結果的に浮き彫りにされているからです。

 島薗先生といえば、現代を代表する碩学です。以前、本郷の研究室で取材させていただいたとき、「国家神道論の交通整理がしたい」とおっしゃっていたのが先生です。そのときのリポート「新段階に入った国家神道研究」は私のサイトに載せてあります。ご興味のある方はどうぞお読みください。
http://www004.upp.so-net.ne.jp/saitohsy/kokka_shinto.html

 それからほぼ10年、さすがですね、先生の本には日本の近代宗教史全般に関する最新の研究がよく整理され、いまの学問的水準が手に取るように分かります。

 ということは、裏返していえば、現代の学問的限界も見えてきます。

 そんなわけで、先生の本をテキストにして、日本人の近代精神史を考えるうえで、何が今後の課題になるのか、私なりに考えてみます。

 先生は、序文にあたる「はじめに」で、「なぜ国家神道が問題なのか」を自問自答しています。先生の目的は、国家神道の歴史そのものというより、近代宗教史に新たな光を当てることにあるようです。しかし、成功しているといえるのかどうか。注目したいのはその手法です。


◇3 キリスト教モデルに影響されている

 先生はその書き出しの数行で、日本人は多くが「無宗教」だといわれるが、戦前の日本人はそうではなかったのではないか。日本人の「無宗教」について考えるとき、「国家神道とは何か」がキーポイントになる、と説明しているのですが、この議論の立て方に、私は根本的な疑問を感じています。

 まず、日本人は「無宗教」が多い、という意味についてです。先生がわざわざカギ括弧つきで表現している日本人の「無宗教」性とは何なのか。「多い」とはどういうことなのか。

 「無宗教」というのは、「宗教」と同様、案外、定義のむずかしい言葉です。一般読者を対象とした先生の著書では平易に、「特定宗教の教えや礼拝に慣れ親しんでいない」という人たちを「無宗教」と呼んでいます。宗教の教義を学ぶ機会を持たないこと、あるいは宗教団体に属していないこと、そのため宗教儀式に参加したことがないこと、などをあわせて「無宗教」とあらわしているようです。

 けれども、日本人の「無宗教」性というのはもっと別のことではないのでしょうか。先生の「無宗教」論は、創始者がいて、特定の教義を持ち、儀式を行うというキリスト教的な一神教モデルにつよく影響されているようです。宗教の存在に否定的な考えを持つ「非宗教」との違いも不明確のように見えます。


◇4 多神教的、多宗教的であること

 よく知られているように、日本人の宗教人口は、総人口をはるかに超える約2億人に及びます。「無宗教が多い」どころではありません。むろん、教勢を誇りたい各宗教団体の自己申告による数値を基礎にしたデータですから、もともと水増しが多いのでしょうが、それよりも指摘したいのは、複数の団体に所属していると見なされている人が「多い」と想像されることです。それが日本人の「無宗教」性と深く関わっています。

 以前、ボランティア活動のため、世界第2位のムスリム人口を抱えるバングラデシュに通っていたとき、入国カードに宗教欄があって、面食らったことがあります。イスラム、ヒンドゥー、キリスト教、仏教、無宗教(あるいは非宗教)から自分の宗教を選んで、チェックする方式になっていたと記憶します。

 一神教世界では、宗教はこのように択一問題です。人々はあくまでクリスチャンかムスリムかのいずれかであって、キリスト教徒であり、同時にムスリムである、ということはあり得ません。

 しかし日本人にとって、宗教は択一問題ではありません。初詣に神社とお寺をお参りすることなどごく自然であり、かと思えば、いまがそのシーズンですが、ハロウィーンの行事も行うし、年末には自宅にクリスマスのイルミネーションも飾ります。多神教的、多宗教的であることが、日本人の「無宗教」性です。宗教人口が2億人を超えるのは当然です。

 先生の著書にあるように、「特定宗教の教えや礼拝に慣れ親しんでいる」ということが日本人にとって「宗教」的なのではありません。キリスト教的に宗教指導者がいて、指導者から宗教の教えを学ぶということが信仰の出発点ではないからです。宗教儀式に参加することも同様です。


◇5 キリスト教的だった国家神道

 キリスト教モデルに照らして、日本人の多くが「宗教」的ではない=「無宗教」だと考えるのは、大して意味がありません。日本人は一神教世界に生きていない、日本人はキリスト教徒ではない、といっているに過ぎないからです。

 島薗先生の本で、もっと積極的な意味が見出されるのは、戦前の日本人が、つまり国家神道時代の日本人が、キリスト教モデルに照らして宗教的だった、という見方です。戦前の日本人はキリスト教的だった。つまり、国家神道なるものは、先生がいうように「神道の形態」であるというより、「キリスト教の形態」だったのです。

 考えてもみてください。明治5年の改暦でバチカンが制定した太陽暦を導入した日本ですが、政府が公認する暦は神社の中の神社である伊勢神宮から発行されました。きわめて逆説的なことに、キリスト教文化を日本社会に浸透させたのは神社であり、これがまさに日本の近代なのだと思います。

 先生が「戦前はおおかたの日本人が国家神道の影響下で生活し、その崇敬様式に慣れ親しんでいた」と解説しているのは、「キリスト教文化の影響下で生活し、その様式に慣れ親しんだ」と読み替える必要がありますが、この歴史論については、次回、あらためて考えます。

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