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やっと巡り合えた粟の酒 ──稲作文化とは異なる日本人の美意識 [米と粟]

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やっと巡り合えた粟の酒
──稲作文化とは異なる日本人の美意識
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 知り合いの神社関係者から粟の焼酎が送られてきました。私が長年、粟の酒を探し続けているのを知って、お気遣いくださったのです。念願がかない、感無量です。すっきりした味わいに、かすかな粟の香りがしました。

 いただいたのは、鹿児島・阿久根市の大石酒造が生産した粟焼酎100%の古酒「御吉兆」で、同社の説明によれば、1992(平成4)年に粟と米麹を原料にもろみをしこみ、限定的1100本を蒸留、長期間、甕で貯蔵したとあります。アルコール度数28%、「0138」のシリアルナンバーが付されていました。

 大石酒造は明治32年創業の比較的新しい酒蔵のようで、商品のラインアップを見ると、創業以来の代表銘柄「鶴見」をはじめ、すべてが芋焼酎です。

 ならばなぜ、粟焼酎を限定生産することになったのでしょう?

 同社のHPには、粟はかつて山里に暮らす日本人にとって大切な作物だったこと、日本の焼酎の黎明期には主要な原料の1つとされたことが説明されています。

 鹿児島は火山灰土壌の土地柄で水田稲作には不向きです。たびたび飢饉が起こり、救荒作物として江戸初期にひそかに導入されたのがサツマイモ(甘藷)でした。良民を救うため、琉球に密航し、ご禁制の芋を持ち帰り、人々を救ったものの、重罪に問われ、のちになって神社に祀られた義人もいます。

 大石酒造5代目、現在のご当主・大石啓元氏にうかがったところでは、市内の南方神社(諏訪神社)の鳥居は17世紀、焼酎醸造に関連して奉納されたことが知られているそうです。阿久根焼酎の起源を記録する史料ともいわれます。

 しかし、5代目によると、当時はまだサツマイモはなかったはずだから、芋焼酎のはずはない。雑穀を原料に造ったのではないか、と興味を持ち、粟の焼酎を再現することになったというのです。

 焼酎王国と称される九州には、米、麦、そば、イモ、黒糖など、さまざまな原料から造られる焼酎があります。南蛮時代に蒸留器が伝わってくる前は、それぞれの醸造酒があったのだろうと私は想像します。やがて蒸留技術の導入で、全国に轟く焼酎文化が豊かに花開いたのでしょう。

 大石酒造の「御吉兆」は、ラベルに「粟穂に鶉(うずら)」の絵が描かれています。「収穫の季節が到来したことを表すおめでたい情景として、美術や建築の題材として描かれてきた」と説明されています。銘柄の「御吉兆」は、「ウズラの鳴き声が『ゴキッチョー』(御吉兆)と聞こえる」ことが理由だそうです。

 化粧箱に納められた一枚の説明書きに、江戸時代、関東一円を席巻し、明治維新後、衰退した宮大工「立川流」が、この「粟穂に鶉」を好んで彫刻したことが書かれています。たとえば、日光東照宮以来の徳川幕府による大造営といわれる静岡浅間神社(静岡市葵区)の本殿には、二代立川和四郎冨昌が制作した「粟穂に鶉」の極彩色の彫刻があります。

「粟穂に鶉」は水田稲作とは異なる、畑作農耕と食の歴史と文化をいまに伝える日本人の伝統的美意識なのでしょう。

 しかし、いつの間にか、粟食も粟酒も失われてしまいました。ある著名な民俗学者が、大正のころまではごくふつうに飲まれ、飲みやすい半面、悪酔いしたと教えてくれた粟酒の実物に、私が巡り会えずにいたのはそのためです。

 けれども、ほんとうに美味しいなら、歴史が途絶えるはずはありません。その点、5代目の大石さんから、じつに興味深い話を聞きました。

「御吉兆」の原酒が蒸留されたのは平成4年ですが、逆に「美味しくなかった」のです。ところが、それから20数年、検査のため試飲してみると、味が激変し、美味しくなっていたというのです。「これなら市場に出せる」と商品化されたのが2年前でした。

 この秋、天皇陛下は1世一度の大嘗祭で、米とともに、粟の御飯(おんいい)を天神地祇に捧げられ、みずから召し上がり、国の平安と民の安寧を祈られます。

 同時に捧げられる白酒(しろき)黒酒(くろき)の神酒は、いまはいずれも米の新穀を原料に用い、延喜式に掲載される製法で醸されますが、かつては米の酒と粟の酒だったのではないかと私は想像しています。

 畑作民の粟と水田農耕民の米による複合儀礼であることが、スメラミコト天皇の御代替わり儀礼にはもっとも相応しいと思うからです。白酒黒酒という呼び方自体、後世、陰陽五行説の影響を受けた結果ではないかとも想像するのです。

 来年、阿久根の南方神社では、8年ごとの例祭が行われるそうです。粟焼酎の「御吉兆」も奉納されるのでしょうか?


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やっと巡り会えた粟の神事 ──滋賀・日吉大社「山王祭」の神饌「粟津御供」 [米と粟]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2019年6月20日)からの転載です


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やっと巡り会えた粟の神事
──滋賀・日吉大社「山王祭」の神饌「粟津御供」
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 粟の神事にやっと巡り会えました。

 探しに探し続けて、もう何年になるでしょうか。宮中新嘗祭、大嘗祭では古来、神饌に粟が登場します。祭りが天孫降臨神話に由来するのなら、皇祖神に米の新穀を捧げれば足りるはずなのに、米だけではなく、粟が捧げられるのはなぜでしょう。粟とは何でしょうか。

 古代において、民間に粟の新嘗があったことが知られています。民俗学者によると、大正時代の人たちは粟や稗の酒を自家醸造し、ごくふつうに飲んでいたそうです。飲み過ぎるとたちまち悪酔いしたとも聞きます。

 であるなら、各地の神社に粟を用いた祭礼が伝わっていていいはずなのに、意外にも聞きません。いつの間にか消えたのでしょうか。いや、きっとどこかに歴史の断片が残っているはずだと思い、資料を探し続けましたが、残念ながら見つかりません。

 それが昨年の新嘗祭に、都内での集まりでその話をしたところ、「滋賀県大津市の日吉大社にある」と聞き、勇んで文献を探しまくりましたが、やはり見つかりませんでした。

 すっかり落胆し、あきらめかけていたところ、先日、ほかならぬ滋賀県の神社関係者から「粟津の御供」があるということを直接、教えられました。日吉大社御遷座の歴史物語を再現する山王祭に、まさに御鎮座の故事に深く関わる粟飯が登場するというのです。

 私は心の中で快哉を叫びました。


▽1 膳所五社が毎年交代で

 比叡山の麓、大津市坂本には、全国3800社あまりともいわれる日吉神社、日枝神社の総本宮・日吉大社が鎮座しています。約13万坪の広大な境内には、多くの社殿が建ち並び、凜とした空気が張り詰め、大木が林立するなかを巡拝すると、玉砂利を踏む音に境内を流れる谷川や社殿をめぐる水路の水音が共鳴します。

 中世には「社内百八社」の社殿がひしめいていたようですが、もっとも中心的なお宮は西本宮(大宮)と東本宮(二宮)です。

 歴史的により古いのは、地主神・大山咋神(おおやまくいのかみ)をまつる東本宮です。西本宮は、天智天皇が667年に都を近江大津京に遷されたおり、大和国の三輪山から大己貴神(おおなむちのかみ)を勧請されたと伝えられています。

 1か月半にも及ぶ、勇壮豪快な山王祭のなかで、粟の神饌が登場するのは「粟津の御供献納祭」です。4月中旬の申の日、夕刻に行われます。

 その昔、大己貴神は琵琶湖の八柳の浜に現れました。そのとき沖合を通りかかったのが、膳所(ぜぜ)の漁師・田中恒世の舟で、恒世が大神に、粟を混ぜて炊いた粟飯を差し出すと、大神はことのほか喜ばれました。

 唐崎の地に着いた大神は琴御館宇志丸(ことのみたちうしまる)に、「年に一度、あの粟飯が食べたい」とおっしゃいました。宇志丸は日吉社社家の始祖とされ、この故事が粟津御供の始まりといわれます。

 祭りでは、七社の御輿を乗せた御座船による、七本柳から唐崎への船渡御が行われます。琵琶湖の唐崎沖で、膳所五社の当番神社や日吉大社の宮司らを乗せた一艘の小舟が近づき、接舷すると、湖上で献納祭が始まります。

 小舟には膳所五社が毎年交代で用意した七社分の神饌が整然と並んでいます。献饌の中心となるのが、正方形に成形された、粟飯なのです。

 祝詞の奏上、大御幣の奉幣のあと、日吉神社の宮司が御座船に乗り移ると、御供舟は御座船から離れていきます。その後、粟津の御供は次々と湖上に投げ入れられます。他方、御座船は比叡辻の若宮港に向かい、七基の御輿は大御幣とともに、西本宮へと帰還されるのです。

 こうして献納祭は終わります。

 以上は、地元にお住まいのフリーカメラマン・山口幸次さんがまとめた『日吉山王祭』(サンライズ出版、2010年)のつまみ食いです。さすが山王祭の御輿をかつぐ駕輿丁を長年務められてこられただけに、写真の素晴らしさもさることながら、詳細な祭りの紹介には頭が下がります。


▽2 かつては粟だけだった?

 蛇足ながら、神饌の粟飯について、私の想像を、以下、何点か書き連ねてみます。

 1点は、粟飯の調理法です。山口さんの説明では「雑穀の粟を混ぜて炊いた御飯」とされていますが、山口さんの写真では、白い米の御飯のうえに、黄色い粟の御飯が乗る、二層構造をしているように見えます。

 とすると、「混ぜて炊いた」のではなく、別々に炊いたのち、整形するのではないでしょうか。

 2点目は、「炊く」という調理法ですが、現在、私たちが知る炊飯法の意味だとすると、いまはともかく、古代は別の方法、つまり「蒸す」方法だったのではないかと想像されます。

 というのも、現代の炊飯法は、平安期に始まったとされる、大量のお湯でボイルする煮飯の調理法から進化したものだからです。炊き干し法と呼ばれます。繊細な調理法で、電気炊飯器が発明される前は、主婦にとっては煩いの種でした。

 西本宮が遷座した7世紀の当初から献納祭が始まっていたとすれば、粟飯は「炊く」のではなく、蒸して作られたのではないでしょうか。

 3点目は、「粟飯」は本来、米と「混ぜて」ではなく、粟だけだったのではないでしょうか。

 宮中神嘉殿の新嘗祭や大嘗祭の大嘗宮の儀では、米の御飯(おんいい)と御粥(おんかゆ)、粟の御飯と御粥が、天皇みずからの手で、ともに捧げられます。御飯は蒸して作られ、御粥は煮て作られます。より古い形は、むろん御飯の方です。

 とするなら、山王祭の「粟飯」は、もともとは粟と米の混ぜ御飯ではなくて、粟の御飯、つまり粟の蒸し飯だけではなかったでしょうか。

 4点目は、山口さんが粟を「雑穀」、粟飯を「粗末なもの」と説明されていることへの疑問です。

 粟津御供の始まりを説明する社伝は、恒世が粟飯を大己貴神に捧げた物語と宇志丸が粟津御供を始めるにいたる物語の二部構成になっています。神饌のルーツを考えるなら、より重要なのは前者です。

 日本最古の神社といわれ、大和国の三輪山を神体山とする大神神社(奈良県桜井市大三輪朝)に祭られているのが大己貴神です。山の神にふさわしいのは焼畑農耕の作物であり、米よりも粟であり、粟は神聖な命の糧だったはずです。

 だからこそ、大神は粟飯を心から喜ばれたのでしょう。祭神と神饌にはきわめて密接な関係があります。

 大己貴神を祭るのが西本宮なら、より古い地主神の大山咋神を祀るのが東本宮で、これまた山の神です。古書には「日枝の山」に祀られると記されているようです。

 とすれば、焼畑農耕の粟こそ、日吉大社の山王祭にはふさわしいということになります。

 最後に、貴重な資料を提供していただいた日吉大社の馬渕宮司さま、ご多忙のなか境内を親切に案内してくださった菱川権禰宜さまに、心からお礼を申し上げます。


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