SSブログ
日本の稲作 ブログトップ

米の「減反」について考える──命を支え、信仰を育んできた稲作農業の暗澹 [日本の稲作]

以下は斎藤吉久メールマガジンからの転載です


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
 米の「減反」について考える
 ──命を支え、信仰を育んできた稲作農業の暗澹
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 報道によると、政府・与党は米の減反政策の抜本的見直し、廃止の検討を進めているようです〈http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20131027-OYT1T00299.htm〉。

 日本の稲作農業の歴史にとって、大きな転換点となるばかりでなく、日本人の精神文化にも大きな影響をもたらしそうです。

 というわけで、15年前に書いた記事を転載します。当時は史上空前の減反が進められていました。なお若干の加筆修正があります。



 記者たるもの、方向音痴であってはならない。つねづね自分に言い聞かせている筆者だが、不覚にも迷ってしまった。関東中部の稲作地帯を取材したときのことである。

 あぜ道をひたすらさまよい歩いて、そして驚いた。道を聞こうにも、留守宅ばかりで、番犬に吠え立てられるのが関の山だった。いまどきの農家は土日型の農業で、平日はほとんど不在らしい。

 ヨシの生える荒れ放題の休耕田は珍しくないが、ところどころにこんもりと築かれた小山は異様である。ひとつやふたつではない。お山の大将よろしく、ショベルカーが頂きに陣取っているものもある。名づけて「平成新山」。

「昭和の時代にはなかった。あれは絶対に復田できない」。農家はつらそうに語る。

 建設残土などが休耕田に運び込まれ、たちまち山をなした。祖先が営々として築き上げた水田が、産業社会の掃きだめになっている。荒涼たる減反の風景は、ひとつの文明の終わりを暗示しているようでもある。

 というわけで、今回は米の生産調整について考えてみたい。

▽40年代に需給関係が逆転
▽食管維持のために生産調整

 減反政策が始まったのは、昭和40年代である。

 30年代までは300万ヘクタールの水田でフル生産しても需要を満たせず、「まずい外米」を輸入せざるを得なかった。

 ところが、40年代に入って状況は一変する。42年から3年連続して1400万トンの総生産量を記録したのである。品種改良や生産技術の進歩で、反収が453キロ(42年)に跳ね上がり、とくに東北・北海道で収量が急増した。

 農業人口が減少する一方で、米価の値上がりと生産性の向上で農業所得は増加し、勤労者との所得格差も縮まる。

♪ 笹に黄金が成り下がる──

 39年の東京オリンピックを機に高度経済成長期を迎えた日本。それは米の黄金時代の到来でもあったが、あまりにも短いわが世の春であった。

 というのも、米の消費量が減少し、需給関係が逆転したからである。

 43年10月末には300万トン、44年には550万トン、45年には年間消費量の6割におよぶ720万トンもの大量の古米を在庫として抱えることになった政府は、増産政策を撤回し、過剰対策に取り組むことになる。

 対策としては、(1)自主流通米制度の創設、(2)生産調整すなわち減反、(3)古米の処理──の3つの方法が考えられた(岸康彦『食と農業の戦後史』)。

(1)の自主流通米制度の生みの親は、檜垣徳太郎食糧庁長官である。自主流通米は食管の傘の下にはあるが、政府が売買や保管をするわけではないから、膨大な赤字を抱える食管会計の負担を減らすことができる。

 しかし自主流通米制度の創設は、政府が生産量の全量を管理する建前の食管制度を、政府みずから突き崩す結果にもなった。

(2)の生産調整は要するに減反である。供給が需要を上回ったとき、市場原理に従えば米価を引き下げるのが筋だが、もともと食管法は市場原理に基づいてはいない。確実に減産効果を上げる方法として、減反が考え出された。

 過剰米対策には農協の協力が不可欠であった。しかし「食管制度をパンクさせないためには生産調整が避けられない」という認識は浸透していたが、意思統一が進まなかった。

 44年秋、長谷川四郎農相は大口駿一事務次官と檜垣食糧庁長官を伴い、宮脇朝男全国農協中央会会長をお忍びで訪問し、「減反を頼む」と直談判した。

 農協が最終的に生産調整への協力に踏み切ったのは、同年12月の農協中央会・連合会会長合同会議だった。

 議論は紛糾してまとまらない。宮脇会長の依頼を受け、農林事務次官に昇格した檜垣氏が会場に乗り込んだ。

「減反は神武以来の悪政である。しかし過剰で食管制度が維持できなくなるから、悪政をあえてやろうとするのである」

 数時間にわたる事務次官の異例の説得に、農協は「生産調整やむなし」で固まった。歴史的な生産調整はこうして始まり、2年後の46年から本格化する。

▽余剰問題を放置した政府
▽民族の信仰的基盤が崩壊

 不可解なのは、過剰問題が急に浮上したことである。

 需要の伸び以上に供給が増えていけば、いずれ供給過剰の事態に陥ることは容易に想像がつくはずで、実際、研究者の間では供給過剰は10年も前に予見されていたらしい。

 それどころか政府自身、37年春にはじめて発表した「農産物の需要と生産の長期見通し」で、10年後の46年には100万トン程度の生産過剰になると予測している。

 政府は過剰問題が顕在化するまで、打つべき手を打たずにほうちしてきたのではないか。長期的戦略の欠如は如何ともしがたい。

 無策のツケを稲作農家に押しつけて、責任を回避したのが、減反だったのではないか。

 しかも、である。

 前掲『食と農業の戦後史』の筆者、日経の岸記者が指摘するように、40年代になってもなお、各県では「米づくり運動」が強力に推進され、秋田県では八郎潟の干拓が国家プロジェクトとして進められた。

 政策が首尾一貫していない。

「米が余るのが分かっていながら、もっと作れとシリを叩き、いまさら減反では──」

「米が余っていると、どっちを向いても言われ、だんだん『俺たちは国賊なのではないか』といういやな感じを持つようになっています」(林信彦『コメは証言する』)

 農家の不満や嘆きは無理もなかろう。

 46年の減反目標は230万トン、面積にして54万7000ヘクタール、全水田面積の17パーセントにおよんだ。勤労者でいえば、6日に1度の自宅待機を命じられるようなものである。

 最初は「緊急避難」であったはずの「悪政」はその後も続いた。それどころか、政府が全量を統制する食管制度が幕を閉じ、「作る自由」「売る自由」が認められたはずの現行の新食管法の下でも続いている。

 減反の常態化は国家と農民との信頼関係を著しく損ね、稲作農家の誇りや生産への意欲を奪い、民族の信仰的基盤を崩壊させた。

 それにしても、ほかに妙案はなかったのか。

 古米処理では、韓国に輸出されたのをはじめ、対外援助や酒、味噌、煎餅などの書こう原材料、飼料に利用された。米を「主食用」と固定的に考えるかぎり、こうした在庫処理は弥縫策でしかないが、単なる過剰対策ではなく、もっと積極的に構想することはできなかったのか?

 農業ジャーナリストの林信彦氏がいうように、食糧の安全保障を考えれば、多収を追求するのは当然だろう。そのうえで余剰分は青刈りし、飼料に転用する。あるいは良質な米を食糧とし、くず米を飼料にする。いざというときには、飼料から食糧に転用する。

 そうすれば、在庫米が売れ残る心配はなく、稲作と畜産の新たな関係が構築できる。自給率も上がる(前掲『コメは証言する』)。

 林氏の20年前の提言はいまなお新鮮さを失っていない。問題は採算が合うかどうからしいが、何よりも重要なのは、国家的農業戦略の確立ではなかろうか。

▽今年の減反は「過去最大」
▽食糧危機の備えは万全か

 今年(平成10年)の史上空前の減反は国家戦略の欠如をあらためて強く印象づけている。

 昨年8月、「4年連続の豊作」が確実となり、官民合わせての在庫は10月末に400万トンを突破し、平成10年秋には500万トンに達するとの予測まで飛び出した。国内消費量の半年分に相当する量である。過剰問題は焦眉の急を告げた。

 すでに市場はだぶつき、米価は低迷している。

 政府は昨年夏、人気スポーツ選手を起用した販売促進キャンペーンを展開するなど、必ずしも手をこまねいているわけではない。しかし、政府売り渡し米価も下がったのに、それでも割高感は否めず、政府米は敬遠される。

 もともと農業団体は儲けの大きい自主流通米の販売を先に進めるのがふつうで、政府米には人気の低い銘柄の売れ残りが集中する。買い上げられた政府米は1年間の備蓄後、古米となって市場に還流するから、売れ行き不振は当然だ。

 他方、かつて「闇米」と呼ばれた計画外流通米の存在がある。

 政府の需給計画とは無関係に自由に売買され、流通経費がかからない分、価格が安い。農家にとっては即金取引の魅力がある。

 330万トンにも及ぶともいわれるが、計画外米が増えれば増えただけ、政府米も自主米も売れ残る。

 10月27日に農水省が発表した作況指数は全国平均で102の「やや良」、予想収穫量は1001万4000トンに上り、過剰問題はいよいよ現実となった。

 農水省が前年より17万6000ヘクタール多い、96万3000ヘクタールを減反目標とする「平成10年度緊急生産調整推進対策」を決定したのは昨年11月20日である。率にして35・5パーセント、面積で100万ヘクタール近い、過去最大の減反である。地域によっては5割にも及ぶというから尋常ではない。

 政府は減反を円滑に進めるため、転作農家を助勢する「全国とも補償」、米価の値下がりを補填する「所得補填」などを柱とする新たな米政策を同時に決定したが、どれほど実効性があるのだろうか。

 第一に、新食糧法は政府による生産調整を定めているが、半強制的な減反はもう限界ではないか。

 米の過剰と米価の低迷は大規模農家を直撃しているという現実は、稲作の展望を失われている。減反に協力しない農家は計画外米に流れ、そのシェアは拡大している。減反強化は計画外米をさらに増やす結果になりはしないか。

 政府は在庫減らしのため新規購入を削減する方針だが、買い入れが減れば市場のだぶつきはさらに進む。売れ行き不振の銘柄を買い入れないともいうが、北海道のような政府の買い入れに依存してきた地域はどうなるのだろう。

 第二に、国家の戦略が見えてこない政府の「適正在庫量」設定や在庫管理にも問題があろう。

「適正在庫」は平成6年10月に自民・社会・さきがけの政治決定で、「150万トン」とされ、昨年11月に「200万トン」に引き上げられた。

 しかし「天明の大飢饉以来の凶作」となった平成5年は280万トンの減収で、政府は259万トンもの緊急輸入を迫られたのではなかったか。在庫は民間にもあるが、「200万トン」で十分なのか。

 最大の問題は、地球的規模で見た場合、すでに食糧不足の時代が到来していることである。

 5年前の凶作が再来した場合、緊急輸入で凌ぐ道はいちだんと狭くなっている。食味の異なるタイ米の輸入は世論が許さないだろうし、中国は4年前、輸出国から輸入国に転落している。

 アメリカとオーストラリアの輸出能力は両国合わせても362万トン(1995年)しかない。政府は食糧危機に備えるつもりがあるのか。

 政府は2年間で過剰在庫を解消すると表明した。今年はエルニーニョ現象の影響で食糧不足が世界的に拡大するとの予測もあるけれども、まさか在庫整理のために凶作を期待しているわけではあるまい。

 国生みによって生まれ、祖先が築き上げてきた国土は、減反という「悪政」によって荒廃していく。日本人の命を支え、民族の信仰を育んできた稲作農業の前途は悲しいほどに暗い。
タグ:日本の稲作
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:ニュース

祈りの大地 第4回 最北の古代水田稲作 [日本の稲作]

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
祈りの大地 第4回 最北の古代水田稲作
(「農業経営者」44号、平成11年9月発行)
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


▽津軽最大の祭り「お山参詣」
岩木山神社.gif
旧暦8月朔日(ついたち)の前後、青森県津軽地方でおこなわれる「お山参詣」は、この地方最大の祭りである。津軽のシンボルで、津軽人が親しみを込めて「お山」と呼ぶ岩木山をめざし、近郷近在の農家が稲刈りを前に、五穀豊穣を祈りつつ殺到するのだ。

石坂洋次郎の小説『お山』によれば、かつては白装束に身をかため、紅白金銀の幣束を捧げ持ち、10メートルを超える御幣を何十本と押し立て、お囃子に合わせて、「サイギサイギ……」と唱え、稲穂の波をかき分けながら、子供も年寄りも長蛇の列で押し寄せた。

麓の岩木山神社の本社にお詣りしたあと、深夜、松明(たいまつ)をかざして、いよいよ山頂の奥宮をめざすのだが、頂上に登ってからがすごい。岩の上の小祠から赤銅づくりの御神体を抱えだし、酒を浴びせてなでさすり、「神様ァ、いま来たでー」と叫んでは、堂内の壁に御神体を荒々しく何度もぶち当てる。そうすることで、山の神が喜ぶと津軽人は考えたらしい。

やがて8月朔日、神社の例祭当日の朝、太平洋の彼方から朝日がのぼってくる。参詣者は御来光を感激をもって礼拝する。

この祭りは岩木山が津軽の「土着の神」であり、津軽人の底知れぬエネルギーの源泉であることをよく示している。


▽2000年前の水田跡「垂柳遺跡」

その岩木山を遠くに望む津軽平野のほぼ中央、田舎館村に「最北の古代水田遺跡」がある。垂柳(たれやなぎ)遺跡。弥生中期、2000年前の水田跡である。
垂柳遺跡.gif
発見は昭和31年。耕地整理の際、大量の土器に混じって、200粒以上の炭化米が出土した。このため、古代稲作の可能性を指摘する考古学者もいたのだが、ほとんど受け入れられなかった。当時の定説では、群馬県高崎市の日高遺跡が弥生の水田跡の北限とされ、東北北部に稲作が伝播するのは8世紀以降、と考えられていた。青森のような北国で、古代、水田稲作があったとは想像しにくい。

ところが、56年からの本格的発掘で、水田跡が火山灰の下から姿をあらわし、畦(あぜ)や水口、水路までが出土したから驚いた。1枚10平方メートル前後の小ぶりの水田が656枚、総面積3967平方メートル。さらに東、西、南方向に広がっていた。

炭化米のほかに、「プラント・オパール」とよばれる稲の植物成分や水田雑草などが最新の技術で検出され、古代水田農耕の存在は否定しがたいものとなった。北緯40度を超える寒冷地で、稲作が確かに営まれていた。古代の稲作は驚くほど短期間に東北北部にまで伝播したのだ。


▽扇のように広がった5本の足指

3年前、村をたずね、田んぼのまん中の小さな資料館を訪れた。4畳半ほどの水田跡がガラスケースのなかに保存されている。そこに弥生人の足跡がくっきりと刻まれていた。

大きさは12~24センチ。印象的なのは、5本の指が扇のように広がっていることだ。前屈みの姿勢で、機敏に歩き回っていたらしい。大地に食い込んだ指先やかかとは、2000年前のものとは思えないほど、生々しい。体温のぬくもりや鼓動までが伝わってくるようだ。米作りという営みを通じて、民族の命が古代から現代までつながっている、という実感と親しみがわいてくる。

けれども、感傷にひたってばかりはいられない。発見された数千もの足跡は、じつは弥生人集落の断末魔の痕跡だからだ。大型台風の襲来で、山崩れと未曾有の大洪水がひきおこされ、大量の土砂が水田をおおい、村は壊滅した、と考えられている。大自然の猛威のまえに右往左往する阿鼻叫喚が目の前の足跡なのだ。
垂柳遺跡の足跡.gif
弥生人の足跡を見つめながら、ボクは平成5年の悲しい大凶作を思わずにはいられなかった。青森ではあの年、「皆無作」さえ伝えられた。夏が短く、秋冷の早い雪国で、けっして簡単ではない、いやむしろ無謀ともいえる米作りに、津軽人はなぜ挑んだのか。考えあぐねるボクの脳裏に、「お山参詣」の明るくエネルギッシュなお囃子がよみがえってきた。


追伸 この記事は「農業経営者」44号、平成11年9月発行(農業技術通信社)に掲載された拙文「祈りの大地 第4回 最北の古代水田稲作」に若干の修正を加えたものです。

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:ニュース

祈りの大地 第3回 森と共存する日本の稲作 [日本の稲作]

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
祈りの大地 第3回 森と共存する日本の稲作
(「農業経営者」43号、平成11年8月)
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


平成10(1998)年の夏は異常気象が世界を覆い、日本列島や朝鮮半島、中国大陸などでは記録的な豪雨で大洪水が発生、大きな被害がもたらされた。
イセヒカリ田植え.gif
とくに中国の長江(揚子江)流域では、被災面積が2000ヘクタールを超え、2億4000万人が被害を受けた。想像を絶するような未曾有の水害だが、中国の大洪水は昨年ばかりではない。1980年代以降、被災面積が1000万ヘクタールを超える大水害は毎年のように起きているらしい。

恒常的な水害の背景には、自然破壊があることは間違いない。中国政府は、1998年の記録的な洪水には「人災」的側面がある、と認めている。上流の森林伐採などで保水能力が低下し、表土の流失現象が起きていると指摘される。

たとえば四川省では、新中国成立以来、広大な森林が半減してしまったといわれる。とくに1978年に「改革・開放経済」に移行して以来というもの、経済が驚異的な発展を遂げた一方で、信じられないほど大規模な自然破壊が深刻化したのである。

ひるがえって日本の場合はどうか。


▽稲作が自然破壊をもたらしたけれど

日本の水田稲作は3000年前に中国大陸から伝来した、といわれる。大地を耕し、食糧を生産する「農業革命」の導入は、深い緑に覆われていた日本列島にはじめて大規模な自然破壊を招いた。原野を切り開き、整地をし、川から水を引く。水田稲作の始まりは、生態系を激変させずにはおかなかった。

ところが、水田稲作を携えてやってきた渡来人による自然破壊は深刻なほどには進まなかった。結果として、この2000~3000年の間に開発された水田面積は国土の1割にも満たず、今日なお国土の7割までが森林に包まれている。

なぜだろう。
吉野森男さん.gif
ふつうはボクたちの祖先が自然への畏怖という強い感性を持ち、それが自然を守り、自然との共存を図らせたと説明されているが、単純すぎないか。

渡来系弥生人は当初はたしかに間違いなく自然を破壊した。しかしその後、彼らは自然を破壊する稲作ではなくて、森と共存する新しい稲作を選択したのである。稲作のあり方が変わったのだ。いや、変えざるを得なかったという方が正しいのかも知れない。

その背後に何があったのか。その謎を解くことがたぶん重要なのだろうが、それは、「渡来人はなぜ、どのような状況で、日本列島にやってきたのか」という理由と深く関係しているようにボクは思う。

ある考古学者は、3000年前、地球は寒冷化し、北方民族が南下した。中国大陸は戦乱の時代を迎え、多くの稲作民が「難民」となって日本列島など周辺地域に殺到する。他方、日本列島にする縄文人も寒冷化によって危機に瀕していた。銛や海から豊かな食糧を得ることが困難になり、深刻な飢餓が発生する。危機に直面した縄文人は渡来人が携えてきた水田耕作を受け入れた--と説明する。

縄文人と渡来系弥生人とでは顔つきも体つきも違うが、面白いことに、両者の混血同化によって「本土日本人」が成立した、と人類学者は理解する。以前、ある記事で、日本の稲が熱帯ジャポニカと温帯ジャポニカとの自然交雑によって成立したという最新の学説を書いたことがあるが、日本稲と同様に、現代日本人も同化によって成立したというのである。


▽縄文と弥生の同化がもたらしたものの今

おそらくこの縄文と弥生の同化こそが、森と共存する日本の稲作文化の成立を促したのではないかとボクは思う。米倉の形をした神殿が深い森の中に建つという神社の形態は、もっとも典型的に縄文の自然崇拝と渡来人の稲作信仰の一体化を表していると見ることができる。

けれども、こうしたことを書くこと自体が、もうはるか昔の、実感のない、絵空事であるように感じるのは、ボクだけだろうか。

7年前の夏、鹿児島県の屋久島を訪れた。

翌年、「世界遺産」に登録された島は古来、御獄信仰が盛んで、春と秋の二回、集落ごとに「岳参り」という信仰登山が行われる。島を主宰する「嶽の神」に背いては島には住めない。山の杉は神のもので、古くは必要なときに、そのつどおうかがいを立て、木材を頂戴したという。こうした信仰が樹齢何千年という、うっそうとした屋久杉の森を守ってきたのだ。

しかしいまや縄文の自然崇拝も弥生の稲作信仰もはるかに遠い。飽食に慣らされた現代人には、自然の恵みをありがたく頂戴するという感覚そのものが失われている。

都会だけではない。日本でもっとも早い早場米がとれる屋久島は、ボクが訪れたとき、収穫の真っ最中であったが、島の人たちは「一年、一年、山が荒れていく」と深いため息をついていた。
縄文杉.gif
自然との共生観念をボクたちは失ってしまったのである。なぜだろう。


追伸 この記事は「農業経営者」43号(農業技術通信社発行、平成11年8月)に掲載された拙文「祈りの大地 第3回 森と共存する日本の稲作」に若干の修正を加えたものです。

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:ニュース
日本の稲作 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。