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画一化する稲の品種──背後に経済至上主義あり [稲作]

以下は斎藤吉久メールマガジンからの転載です


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 画一化する稲の品種──背後に経済至上主義あり
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 先日、日経新聞(電子版)に興味深い記事が載りました。

 昨年産の魚沼産コシヒカリの値段が下がっているというのです。大震災以降、高値が続いたことから、需要がしぼみ、生産者や流通業者は在庫の安値放出を迫られていると記事は説明しています。

 その一方で、お手頃価格の北海道産のきらら397、青森のつがるロマンやまっしぐらなどが業務用として引き合いが強いのだそうです。

 記事には書かれていませんが、コシヒカリ時代の終わりを実感させられました。


▽もう種籾がない

 7年前のちょうどいまごろ、朝日新聞は、一面トップにじつに面白い記事を掲載しました。「新潟コシヒカリ」に「銘柄騒動」が起きているという内容でした。

 というのも、新潟では前年産米から「新潟コシヒカリ」をいっせいに、新しい品種「コシヒカリBL」に切り替えたのですが、消費者から「味が違う」という声が出始めたというのです。

 もともと「コシヒカリ」という品種は、昭和19年に、福井の農業試験場で、農林22号と農林1号との交配によって生まれました。品種登録はそれから10年以上も経った31年でした。登録番号はキリ番の100番、「越国に光り輝く」という願いをこめて「コシヒカリ」と命名されたといわれます。

 それからすでに60年近くになります。ということは、種籾はもうない、ということになります。

 どういうことかというと、稲の品種は新しく品種として認められた元種(もとだね)が何百キロか冷蔵保存され、そこから毎年、少しずつ取り分けられ、何段階かを経て、種籾がつくられ、その種籾をつかって各農家がお米を生産するという体制になっているからです。

 何十年か後には元種はなくなります。

 コシヒカリの場合は、冷蔵庫のない時代の品種ですから、福井県から分かたれた元種から、各県で昔ながらの自家受粉によって種籾の生産がなされ、その後、各県の元種が冷蔵保存されるようになり、その元種も何世代目かに切り替わっているものと思われます。


▽別品種なのに

 新潟の「コシヒカリBL」は、朝日の記事によると、病害に弱い「コシヒカリ」の欠点を克服するため15年かけて開発されたようです。産地偽装に対する切り札とも伝えられています。

「BL」というのは「Blast resistance Line」の略で、「いもち病に強い系統」という意味のようです。「コシヒカリ」をつかって、いもち病に強い新しい品種を新潟県が総力をつかって育成したということです。

 簡単にいうと、新しい品種なのですが、なぜ「コシヒカリ」の名前が認められたのでしょう。朝日の記事では、農水省が「特徴や味が変わらないという県の報告と、見た目にも区別しがたいことから判断」し、「コシヒカリ」の表示が認められた、と説明されています。

 しかし「コシヒカリ」の形質を引き継ぎ、性質の優れた新品種なら山ほどあるし、それでいて、新潟の「コシヒカリBL」以外、「コシヒカリ」の名前を踏襲したものはありません。そのため、稲作の専門家は「なぜ農水省は認めたのか?」と首をひねっています。

 そして、「新潟コシヒカリ」の将来について、こう語ります。

 ──結局、「コシヒカリ」から出た新品種は「コシヒカリ」というブランドを超えられないということだ。「新潟コシヒカリ」のブランドをつくり、そのブランドで生き残りを図ろうとしている新潟の稲作がその現実を認めてしまった。しかし、消費者が「味が違う」と反発しているとすれば、「新潟コシヒカリ」のブランドの将来はどうなるのか。

 倒れやすく、病害虫にも弱いコシヒカリは生産者にとってはつくりづらい品種ですが、「美味しくて売れる」ことから、作付面積は圧倒的で、コシヒカリ一辺倒といわれる状況が生まれました。消費者もコシヒカリといえば「美味しい」と思い込んでいます。コシヒカリが米の代名詞になっています。


▽佐藤先生の警告

 しかし、コシヒカリが独り勝ちしているような時代は、いつまでも続くとは限りません。

 以前、伊勢神宮神田で発見されたイセヒカリの取材でお世話になった、総合地球環境学研究所(京都)の佐藤洋一郎教授は、次のような警鐘を鳴らしていました。

 ──品種改良の現場にいる人たちまでがコシヒカリ以外の稲を知らない。コシヒカリが現れてからすでに50年、あと50年後には確実に消えている。それなのに、いまだにコシヒカリが品種改良の物差しで、これを越えるものがイメージできない。コシヒカリを超える稲は生まれてこない。

 そしていま、魚沼産コシヒカリの、いやコシヒカリBLの値崩れが現実になりました。

 ただ、今後、多様な品種の時代がやってくるのかどうか。日経新聞の記事にある青森の品種も、コシヒカリの血を引き継いでいますから、コシヒカリの時代を生産者も消費者もまだまだ引きずっていることになります。

 というわけで、平成9年5月に宗教専門紙に掲載された拙文を転載します。一部に加筆修正があります。

 それでは本文です。



 2年前、バングラデシュのモンゴル系少数民族ラカイン族の村を訪ねた。ミャンマーとの国境に近く、村人はみなビルマ系仏教徒で、高床式の家が並ぶ。服装もベンガル人とは違う。

 自家製のモドゥ(焼酎)がある、というので出かけたのだが、原料の米にも興味があった。

 というのも、タイ北部・東北部、ラオスとその周辺は「モチ稲栽培圏」で、モチ米が主食とされる。ラカインの村はその西端に近いから、モドゥの原料もモチ米に違いないと踏んだのだ。

 ところが、村人から分けてもらった白米はモチ米どころか、雑多な品種の寄せ集めのようだった。

 村では小さな田んぼで粗放的な稲作が慎ましく行われる。品種を選抜して栽培する「進んだ技術」はないのだろう。無意識のうちに近代的農業の常識にとらわれている自分を、そのとき私は恥じた。

 けれども、彼らの農業が「遅れている」と決めつけることはできない。遺伝的に多様な稲を無差別に栽培する彼らの農業の方が自然で、かえって「科学的」だとする見方さえあるからだ。


◇古代人は品種を特定せず
◇画一的でもろい現代稲作

 古代、日本に伝わった水田稲作は、またたく間に北部日本にまで展開した。

 青森県田舎館村の垂柳(たれやなぎ)遺跡は弥生中期、約2000年前の稲作遺構といわれる。秋冷の早い津軽地方で米が稔るためには、早稲(わせ)の品種でなければならない。古代東北の人々は早稲種を選抜し、栽培していたのだろうか?

 宮崎大学の藤原宏志先生によると、どうもそうではない。「垂柳では遺伝的に多様な稲が栽培されていた。古代人には品種という概念はなく、栽培種を1つに特定使用とはしなかった」

 そして意外にも、「それはむしろ『科学的な態度』ともいえる」と先生は指摘している。

 どういうことなのか?

 米の品種は数え切れないほどある。実際に栽培されている水稲ウルチ米だけでも、160品種以上あるという。

 ところが、シェアでは、上位十傑で作付面積は6割近くになる。1番人気のコシヒカリは、味の良さや収穫の安定性に加えて、広い地域で栽培できるから、じつに30府県で銘柄に指定され、全国の作付面積は3割に及び、県によっては7割、市町村によっては8割を超えるらしい。

 驚くほどの寡占化だが、なぜこれほどモノカルチャー化が進んだのだろうか?

 かつて米は「近江米」「讃岐米」というように国銘柄で呼ばれ、土地に特有の米や農家独自の品種があり、農家はそれぞれに誇りを持っていた。同じに見えても田んぼは1枚1枚が微妙に違うそうで、多様な品種が栽培されていたのだ。

 ところが戦後、栽培指導や種子供給の簡便さという、もっぱら政府側の論理で、品種の多様性は切り捨てられ、「奨励品種」に統一される。

 供給過剰時代になると、「指導」はいちだんと強化され、販売する側の都合に合わせて、画一的な「売れる品種」が広範囲に作られるようになった。

「ササ・コシ」神話はその過程で生まれたようだ。

 消費者は「美味しい米」と思い込み、生産者は「高く売れる」と期待する。実際に「魚沼産コシヒカリ」は茨城・栃木産の1・7倍もの売値で取引される。標準米に比べれば、2倍以上の高値となる。

 結果として、不適地にまで栽培されるわけだから、凶作の悲劇が生じるのも当然であろう。コシヒカリの欠点はいもち病に弱いことと草丈が高く倒伏しやすいことだが、画一化がここまで進むと、冷害や病害などによる大凶作を懸念する専門家は少なくない。

 実際、過去に例があるからだ。アイルランドでは、目を覆うようなモノカルチャーの悲劇が起きている。

 1845年夏、長雨と冷害が主食のジャガイモを襲ったうえに、ウイルス病が蔓延した。遺伝的に単一の品種に依存したことが病害を急拡大させ、大飢饉を招いたのだ。

 被害は3年間に及び、200万人が餓死し、それ以上の人々が国外に脱出、人口は半分以下に激減したと伝えられる。

 日本でも、4年前の大凶作は記憶に新しい。青森では「皆無作」の地域すら伝えられたことを思えば、けっして対岸の火事ではない。

 それなら古代人はどんな備えをしていたのか、というと、多様な稲を同じ水田にいっしょに植えることで、危険の分散を図っていた。品種を選抜せずに多様性を放任する方が多収性などは期待できなくとも、安全なのである。

「今後は古代の農業を学ぶべきではないか」と藤原先生はいう。


◇安定性を生む自然の多様性
◇植林の理想は明治神宮の森

 戦後の「経済至上主義」は日本の稲作農業を画一化させた。農薬や化学肥料の多用、大規模な圃場整備で、ドジョウもメダカもトンボも姿を消し、水田はまるで生命感のない米の製造工場と化している。

 水田ばかりではない。資本の論理は日本の自然を画一的な空間に変えてしまった。

 広葉樹は皆伐されて、もっぱら人間にとって利用価値の高い針葉樹の人工林に一律に置き換えられ、豊かな照葉樹林に覆われていたはずの日本列島はいまや見る影もない。都市部では緑そのものが失われ、砂漠のような無機物的世界に変質してしまった。

 しかも国内ばかりか、東南アジアや南米にまで自然破壊を輸出したとして、批判を浴びている。自然と対決し、大森林を消滅させたヨーロッパ人と同じ愚行を、私たち戦後の日本人は繰り返している。四季折々の花鳥風月を愛し、多様な自然と共存してきた古き良き日本人とはまったく別人のようだ。

「経済学の時間はあまりに短い」と指摘するのは、生態学者の宮脇昭先生である。経済の刹那的打算が、経済学が扱う時間の物差しでは計算不可能な生態系の破壊をもたらしたとみる。

 宮脇先生は、興味深い自然の仕組みについて語る。自然は多様性の固まりで、絶えず変化しながらダイナミックな安定性を維持している。多様性こそが安定した姿であり、もっとも強い自然の条件だという。

 したがって災害時には、高木や低木が雑多に混じり合う天然の雑木林が強さを発揮する。一見、雑然とした多様性が安定性を生むのだ。自然林に近いほど安定性は高まり、手入れは不要になる。

 ところが、画一的な人工林は台風や集中豪雨にきわめてもろく、つねに人手を加えないと荒れてしまう。多様性を失い、画一化するとき、自然は生命力や抵抗力を低下させてしまうのだ(『緑の証言』)。

 それなら、どうすればいいのか?

 植林の理想として、よく引き合いに出されるのは、明治神宮の森だ。人工林でありながら、人工林であることを忘れさせるほど、自然に近い多種多様な森の表情が見える。宮脇先生は、「都会の中の見事な立体的なオアシス」と表現する。

 オアシスを実現させたのは、経済の論理を超えた信仰的な力であろうか。

 明治神宮の森に学ぼうとする人たちが海外にいる。

 バングラ南東部の海岸地域で、乱伐で消滅したマングローブ林の再生に数年前から取り組んでいる日本の援助団体オイスカの代表者は、「明治神宮の森のような植林が目標なんですよ」と語る。多様な自然、本物の自然を蘇らせたいというのだ。

 ここにもカネの論理とは異なる強固な信念がある。

 多様な自然を回復するには、経済よりも「生」を優先させなければならない。そのため経済学と生態学は歩み寄るべきだと宮脇先生は主張するのだが、近年、その兆しが見えてきた。

 それは「21世紀の科学」として注目される「複雑系」の研究成果である。


◇次世紀の科学が示唆する
◇「クローン人間」の愚昧

「複雑系」とは何か?

 古代ギリシャの時代から人間は世界を小さな要素に還元し、基本的法則を発見して理解しようとした。本来的に「自然は単純」で、「単純さの総和」が世界の秩序だとする楽観主義が、科学の前提であった。

 その発想は近代にも受け継がれ、20世紀初頭には原子の実在が証明された。ニュートンによる「万有引力の法則」の発見で、私たちは今日、古代人が宇宙の神秘と考えた日食や月食、彗星の接近を正確に予知することができる。宇宙飛行も可能になった。

 ところが一方、明日の天気予報が当たらない。なぜか? 気象現象は「複雑系」だからである。わずか5000分の1の「誤差」が温度や気圧変化の予測を不可能にさせているらしいのだ。

 お天気のみならず、動物の個体数、伝染病の流行、経済予測、社会動向、国際政治など、近代科学が解明できない複雑な「謎」は枚挙に暇がない。

 DNA遺伝子の発見と構造解明は分子レベルにまで分解して解明したはずなのに、私たちはいまだに生命の本質を理解することができない。物理学者は6種類のクオークにまで物質世界を分解してみせたが、自然はなお神秘のベールに包まれている。

 それは自然あるいは生命が「単純さの総和」ではなく、「複雑」だからだ。

 それなら、複雑なものを複雑なものとして把握できないか? それが「複雑系」の研究である(米沢富美子『複雑さを科学する』ほか)。


▽「人の智は限りありて」

「複雑系」の科学は経済学に大変革をもたらしつつあるらしい。

 大阪市立大学の塩沢由典先生は、「人は利潤を最大化しようと理性的に判断し、行動する」という従来の経済学の前提を見直すべきだと主張する。消費者も企業も、効率や利潤の最大化を目的として行動してはいないというのだ。

 人間の「目的関数」の計算能力には限界がある。複雑な経済状況に柔軟に対応させているのは習慣や慣習などの「定型行動」であり、人間はそれに「満足」しているという(『複雑性の海へ』)。

 経済至上主義が招いた農の崩壊、自然の破壊による経済的損失はそれ自体、私たちが紅葉や利潤の複雑な計算ができないことの証明だが、複雑系は人間観、組織論にも大きな影響を与えそうだ。

 戦後の偏差値教育は人間を、米の品種のように選別してきた。子供たちはいい学校、いい会社を目指す。企業は人材を選び、優秀な「企業戦士」を求める。しかし画一的な会社人間を集めても無駄なばかりか、危険だと複雑系の経済学は教えている。

 バブル崩壊など不測の事態になれば、画一的な針葉樹林のように、企業は一気に脆弱さを露呈する。むしろ多様な社員を抱えた企業の方が、さまざまなストレスに柔軟に対応できる。天然の雑木林のような多様性が長期的には安定性を示すのだ。

 本居宣長は「凡て人の智(さとり)は限りありて、まことの理はえしらぬものなれば」(『古事記伝』)と書いたが、世界を複雑なままに理解しようとする複雑系の手法は、唯一神にまで遡って世界を単純化して解くのではなく、あるがままの世界をあるがままに「ありがたい」と受け入れる多神教的信仰に似ていないか?

 一神教世界から生まれた近代科学には「理性」への限りなき信頼がある。しかし「複雑系」の科学は一神教的な近代科学、近代思想からの脱却を私たちに迫っているように見える。

 近代科学は今日、「クローン人間」の技術をも開発した。人類の古代からの夢である不老不死を可能にしたわけで、死後の甦りや復活を説いてきた宗教への挑戦でもあるが、じつは20世紀の科学が犯した最後の愚昧といえるかも知れない。

 というのも、「米にはそれぞれの美味しさがあり、この世はいろんな人がいるから楽しい」はずだからである。

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「米の骨」を食べる──神話が伝える米食の起源 [稲作]


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「米の骨」を食べる──神話が伝える米食の起源
(「神社新報」平成10年12月14日)
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なぜ人間は米を食べるようになったのだろう?

静岡大学の佐藤洋一郎先生(植物遺伝学)によると、私たちが食しているジャポニカの野生種は多年生で、栄養繁殖性が強く、種子の生産は多くない。したがって、そのままではとても食用作物として栽培されることはなかったという。

ところが、7000年ほど前を境に地球が寒冷化する。食糧資源の欠乏は人間を苦しめ、とくに冬期の食糧の蓄積を迫られた。都合のいいことに、寒冷化は植物の種子生産性を高めた。足がなく、容易に暖かい地方に移動できない植物は種子のかたちで寒さをしのぐのである。種子生産性を高めた植物は栽培化をもくろむ人間からも歓迎された。

寒冷化は一方で水位の低下をもたらした。雨が少なくなり、それまで水性植物が繁茂していた空間は、乾燥して草原に変わる。また森は移動して草原が広がる。こうして開墾が容易で、原始的な稲作に相応しい立地条件が整備され、7000年前、長江・中下流域で稲の栽培が始まった(佐藤『DNAが語る稲作文明』)。

それなら7000年前の人間はどんなきっかけで、どうやって米を食べたのか? 種子の生産性を高めたといっても、所詮、野生の稲である。一粒一粒が小さな稲の種子を食糧として選択するには、あるきっかけと大きな決断があったろう。


▽東南アジアに伝わる神話

面白いのは、「米の骨」の神話である。民族学者の大林太良先生によると、東南アジア地域には「米の骨」の神話が伝わっているという(大林『稲作の神話』)。

たとえば、タイ北西部のラワ族ではこうだ。

そのむかし、ラワ族は米のモミ殻を食べていて、米の実の方、つまり胚の部分は「米の骨」であって、食用には不適だと考え、なんと捨てていた。貧しい孤児がいて、ある日、「米の骨」をもらって食べた。少年はほかの子よりも大きく成長した。それ以来、ラワ族は米の実を食べるようになった。

やはりモン・クメール語族に属するベトナム東南山地のスレ族の神話では、はじめ米の糠(ぬか)を食べ、「米の骨」は捨てていた。

孫と2人で暮らす貧しい老婆がいた。働き手がなく、食べられるものは何でも食べた。「米の骨」をスープに入れて食べることを思いつき、孫に「米の骨」を集めさせた。煮て食べると、糠よりもうまかったのはいうまでもない。この発見を内緒にして、村中から「米の骨」を集めた。家の中は「米の骨」でいっぱいになった。

あるとき孫はほかの子と水牛の番をした。弁当を開けると、孫だけは糠ではなく「米の骨」が詰まっていた。

「お前、骨を食べているのか?」

孫はほかの子にも食べさせてやった。うまかった。

「米の骨」を買い戻そうと村人たちが老婆のところにやってきた。老婆はたちまち裕福になった。


▽焼畑陸稲栽培民に特徴的な神話

これらの物語に共通するのは、孤児や貧しい老女、碑女というような苦しい境遇にある人たちが苦し紛れに「米の骨」を拾って食べ出したのが米食の起源とされることだ。

大林先生によると、インドシナ半島から中国西南部の焼き畑陸稲栽培民に特徴的な米食神話であるらしい。

だが、「米の骨」の神話は稲という食用植物の発見と選択を説明していない。なぜ古代人は稲を食糧として見出したのだろう?

ここで思い起こされるのは、鳥が稲を運んでもたらしたとする、民俗学でいう「穂落神」の伝承である。

たとえば神宮に伝わる『倭姫命世記』には、こう書かれている。

第11代垂仁天皇の皇女・倭姫命が皇大神宮の御饌を奉るのに相応しい地を求めて巡幸される。昼夜、鳴き続ける鳥がいた。臣下を遣わすと、葦原に1茎で千穂の霊稲が生え、白真名鶴が穂をくわえて鳴いていた。倭姫命はこの稲を御料とされ、千田の地に伊雑宮を創建された。

「穂落神」の物語は各地に伝えられている。鳥たちが米をついばむのを見て、古代人は神々からの賜りものと考え、米を食することを始めたのであろうか?


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系譜が異なる2つの稲作起源神話──大気津比売殺害と斎庭の稲穂の神勅 [稲作]

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系譜が異なる2つの稲作起源神話
──大気津比売殺害と斎庭の稲穂の神勅
(「神社新報」平成10年11月16日号から)
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 日本人が主食とするだけでなく、神々への第一の捧げ物とされる米、つまり稲は帰化植物である。日本列島からは野生の稲が発見されていないから、そう断言できる。

 稲はどこからやって来たのか、稲作はどのように伝わってきたのか、を探ることは、同時に日本人のルーツを突き詰めることでもある。

 ここでは神話学の成果をもとに、考えることにする。

『古事記』『日本書紀』には、2つの稲作起源神話が描かれている。

 1つは天照大神が保食(うけもち)神から五穀の種子を得たとする神話であり、もう1つは天孫降臨に際して大神が稲穂をお授けになった斎庭(ゆにわ)の稲穂の神勅である。

 先月中旬、伊勢の神宮では1年でもっとも重要な神嘗祭が斎行され、今月下旬には宮中神嘉殿で皇室第一の重儀といわれる新嘗祭が親祭になる。

 いずれも神話の時代に連なる稲の祭りだが、元宮内省掌典の八束清貫氏は、神嘗祭の淵源は、保食神の神話で、その起源は倭姫(やまとひめ)命の巡幸に始まるとし、他方、新嘗祭は遠く天照大神の時代に起源し、大神が保食神から得られた稲穂を天孫降臨に際して瓊瓊杵(ににぎ)尊に授けられたことにそれぞれ由来する、というふうに書いている(『祭日祝日謹話』)。

 祭りの神話的由来がそれぞれ異なるようにも読める書きぶりだが、じつのところ、2つの神話は系譜が異なるらしい。東京大学教授・大林太良氏(民族学)の研究を中心に考えてみたい。


▢『記』と『紀』で内容が異なる
▢死体化生神話と稲穂の神勅

 まず記紀神話を読み直してみよう。

『古事記』では、高天原を追放された須佐之男(すさのお)命が出雲国の肥河(ひのかわ)の川上に下られる途中、食物を大気津比売(おおげつひめ)神に乞う。

 神は鼻や口や尻からさまざまなご馳走を出して奉った。命は汚いと思い、殺害する。

 すると死体の頭部に蚕、両目に稲穂、両耳に粟、鼻に小豆、陰部に麦、尻に大豆が生(な)った。

 神産巣日御祖(かみむすびのみおや)命はこれを五穀の種とした、と記述されている。

「死体化生型神話」と呼ばれるこの物語は、興味深いことに、『日本書紀』の本文にはない。記載があるのは、国生み神話のあとの日神、月神、素戔鳴(すさのお)尊出生のくだりの一書である。

 一書の二では、簡単に、伊弉冉(いざなみ)尊が生んだ火神軻遇突智(かぐつち)が土神埴山(はにやま)姫を娶り、そこで生まれた稚産霊(わくむすび)の頭部に蚕と桑が、臍(ほぞ)に五穀が生った、と記している。

 詳しいのは一書の十一だが、『記』では須佐之男命による大気津比売神の殺害だったのが、ここでは月夜見(つくよみ)尊による保食神の殺害に変わっている。

「葦原中国に保食神がいるから見てきなさい」と天照大神から命じられた月夜見尊が降りてみると、保食神の口から米の飯や魚などが出てくる。尊は憤然となって殺害する。大神は非常に怒り、大神と月夜見尊とは昼と夜に分かれて住まわれるようになる。

 死体の頭部から牛馬が、額に粟、眉に蚕、目に稗(ひえ)、腹に稲、陰部に麦と大豆、小豆が生じる。大神は「民が生きていくのに必要な食物だ」と喜ばれ、粟、稗、麦、豆を畑の種とし、稲を水田の種とされた。

『記』と『紀』では、神話全体のなかに占める物語の位置づけや殺害される神がおられる場所、稲が生じる死体の部位、種を採用される神がそれぞれ異なるのが注目される。

 死を生の前提に置く観念や、農耕の開始が宇宙の秩序設定と関連して語られていることも見逃せない。

 もう1つの稲作起源神話は三大神勅の1つ、斎庭の稲穂の神勅で、『紀』の天孫降臨の場面に登場するのだが、本文にはない。

 一書の二によれば、天照大神は天忍穂耳(あまのおしほみみ)尊の降臨に際して、手に宝鏡(たからのかがみ)を持ち、これを尊に授けられて「同床共殿して斎鏡(いわいのかがみ)とせよ」と語られる。いわゆる宝鏡奉斎の神勅である。

 そして大神は「わが高天原にある斎庭の穂をわが子に与えよ」と斎庭の稲穂の神勅を勅される。

 高皇産霊(たかみむすび)尊の娘万幡(よろづばた)姫を天忍穂耳尊にめあわせ、尊が降臨される途中、大空で生誕されたのが天孫瓊瓊杵尊で、天忍穂耳尊の代理として降臨された、と記されている。

 天照大神お一人で瓊瓊杵尊を降臨させたとするのは『紀』の一書一のみで、『記』と『紀』の一書の二は大神と高皇産霊尊(高木神)が、『紀』本文および一書四、六では高皇産霊尊お一人が降臨を指令している。

 天孫降臨神話全体のなかで、意外にも天照大神の影は薄い。

 このため、高天原神話の主神は高皇産霊尊であり、高皇産霊尊の神話と天照大神の神話とは本来、系統が異なる、ともいわれる。


▢焼畑農耕文化複合とともに
▢伝来した大気津比売型神話

 大林太良氏によると、女神の死体から作物が出現するという神話は、きわめて広い地域に分布するという(『稲作の神話』『東アジアの王権神話』など)。

 そのなかで日本の大気津比売型神話は粟など雑穀を栽培する焼畑耕作の文化に属し、その源郷は東南アジアの大陸北部から華南にかけてで、縄文末期に中国・江南から西日本地域に伝えられた、と推理されている。
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 根拠のひとつは大気津比売の神名で、『記』の国生みの条には「粟(阿波)の国は大宜都比売という」と記されている。大気津比売は粟の女神であった。

 また、『紀』の一書の十一に、月夜見尊による保食神殺害として描かれているのは、この神話が太陽と稲作を中核とする古典神話体系の片隅に生き残った古い月と粟の神話の断片であることを示す、と解釈されている。

 一書の二では、火の起源神話と農耕起源神話が密接に結びついている。火神の軻遇突智から農耕神の稚産霊が生まれ、さらに五穀が化生するのは、焼畑農耕の有力な手がかりといわれる。

 実際、作物起源神話に登場する、保食神の死体に化生する作物は稲を除けば、すべて焼畑の作物である。

 今日、大気津比売型神話は民間伝承には見出すことができない。もしこの神話が水稲の起源神話だったなら、いまなお伝えられる稲作の伝説や儀礼に痕跡が多く残っているはずだが、そうでないのは水稲栽培に圧迫された焼畑穀物と結びついているからだろう、と大林氏は推測している。

 記紀では水稲の起源説話と焼畑作物の起源説話が同居しているが、焼畑が水稲耕作に圧倒されるのに従って、水稲起源神話が盛んになり、大気津比売型神話は凋落していくと理解される。

 海外では、大気津比売型神話は中国南部から東南アジア北部の焼畑農耕地域に点々と分布している。

 中国の古典『山海経(せんがいきょう)』には、いまの四川省成都のあたりに都広の野があり、そこに中国の農耕神后稷の墓がある、そこには膏菽(豆)、膏稲、膏黍、膏稷(粟)という美味しい作物があり、百穀が自生している、と書かれている。

 大林氏は、この物語は后稷の死体から作物が発生したとする大気津比売型神話が崩れた痕跡と考えている。

 面白いのは、朝鮮地域からは大気津比売型神話の手がかりがほとんど見つかっていないらしいことだ。


▢天孫降臨神話に結合する
▢内陸アジアと東南アジア

 もうひとつの稲作起源神話で興味深いのは、天孫降臨とともに語られていることである。前述の保食神から得られた作物が葦原中国に起源するのに対して、この物語では高天原から稲がもたらされる。

 天神が子や孫を地上の統治者として山上に天降らせるという神話は朝鮮半島から内陸アジアに分布する。

 たとえば、13世紀の『三国遺事』に描かれた古朝鮮の檀君(だんくん)神話では、天神が子神に三種の宝器を持たせ、風師、雨師、雲師という三職能神を随伴させて、山上の檀という木の傍らに降臨させ、朝鮮を開いた、と伝えられている。

 天孫降臨神話ときわめてよく似ている。

 また、高皇産霊尊の別名は高木神であり、檀君の名が木と関連することも類似する。

 瓊瓊杵尊が降臨された地が『紀』の一書六では日向の高千穂の「添(そほり)」と呼ばれたとあるのは、朝鮮語の「都」の意味の「蘇伐」または「折夫里(ソウル)」と通じ、高千穂の「槵日(くしひ)」(『紀』の本文および一書二、四)あるいは「槵触峯(くしふるのみね)」(一書の一)という地名は六加羅(駕羅)の首露神話で始祖王首露が天降る聖峯「亀旨(クイムリ)」と同じという。

 もうひとつ、『紀』本文は瓊瓊杵尊は真床追衾に包まれて天降ったと記されているが、駕羅の首露神話では首露は金の卵に入って降り、衾のうえに置かれたとある。

 新羅の初代王赫居世(かくきょせい)や金氏の始祖閼智(あち)も嬰児の形で天降る。

 朝鮮だけではない。ブリヤート・モンゴル族のゲセル神話では、至高神デルグエン・サガンの子カン・チュルマス神を下すとき、カン・チュルマス神は老齢を理由に固辞し、末子で4歳のゲセル・ポグドゥが6種の所望品を手にして代わりに天降る。

 これまた記紀神話と似ている。

 息子が建国の旅に出る門出に母神が穂を授けるという神話も、朝鮮にある。

『旧三国史』に記される高句麗の朱蒙神話では、扶余を去る朱蒙に母が五穀の種を与えるのだが、別れの悲しみのあまり、朱蒙はこのうち麦を忘れる。

 大樹の陰で休んでいると2羽の鳩が飛んでくる。母が麦を届けてくれたのだと思い、朱蒙は鳩を射落とし、喉から麦を取り出す。その後、朱蒙は高句麗を建国する。

 天忍穂耳尊が母である天照大神から稲穂を授けられるのと似ている。

 驚いたことには、遠くギリシア神話とも類似する。

 ギリシアの大母神デメテルは、聖婚によって穀物の豊かな稔りをもたらす神子ブルトスを生み、また寵愛する神子トリプレトモスに麦の穂を与えて、天から地上に広めさせた。

 インド・ヨーロッパ語族の神話がアルタイ語族を媒介として、朝鮮半島経由で日本に渡来した可能性があると大林氏はいう。

 ギリシア神話と天孫降臨神話をつなぐ環として朝鮮の朱蒙神話が存在するというのだ。

 ただ、母神が授けるのは朱蒙神話やデメテル神話では麦であって、稲ではない。

 天照大神から稲穂が授けられるとする要素は、高皇産霊尊を中心とする天孫降臨神話と元来は無関係で、東南アジアの稲作文化に連なる、と大林氏はいう。

 倭姫命が御巡幸の折、鶴がくわえていた霊稲を大神に奉ったのが神嘗祭の始まりともいわれる(『倭姫命世紀』)が、こうした鳥が稲穂をもたらしたとする「穂落神」の伝承は、焼畑農耕、粟栽培と結びつき、東南アジアで比較的よく保存されている。

 朝鮮半島から内陸アジアに連なるアルタイ系遊牧民文化に属する高皇産霊尊の天降り神話と東南アジアに連なる天照大神の稲の神話が接触融合して、天孫神話ができあがった、と大林氏は推理する。


▽ 朝鮮文化の亜流ではない

 記紀の編纂には百済系、新羅系の渡来人が関わっていたといわれるが、だからといって記紀神話は朝鮮文化の亜流ではない。

 記紀は創世神話から農耕の起源、王朝の創立まで神話が体系化されているが、中国や朝鮮には神話を体系化した古典はない。

『三国史記』『三国遺事』に描かれた朝鮮の神話は、あくまで王朝起源神話に過ぎない。

 記紀には系統の異なる神話の統合が図られ、壮大な神話体系が形成されている。

 それはなぜか。

 哲学者の上山春平氏は、記紀神話は古代日本の律令的君主制の由来を説く国家哲学と理解している(『天皇制の深層』)が、わが祖先たちは古代国家の建設に当たって神々の壮大なドラマを作り上げ、多元社会の宗教的統合を追求したのかも知れない。

 あらためて思いを致すべきなのは、万世一系の天皇の祭りが南北アジアどころか、遠くヨーロッパに連なる起源と系譜のうえに続いてきたということだろう。

「農業基本法」を作った男の不明──筆を折った東大名誉教授東畑精一 [稲作]


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「農業基本法」を作った男の不明
──筆を折った東大名誉教授東畑精一
(「神社新報」平成10年9月14日)
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 農業基本法──日本の農業が向かうべき新たな道筋を明らかにし、農業に関する政策目標を示すため、昭和36年に制定された。
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 農業の法律的基準を示した最初の立法で、根底には西欧的な経済合理性の精神が流れている。戦前までの農本主義的な農業に代わって、新しい近代的な、むしろ工業的ともいえる農業の確立が期待された。

 農基法は戦後の日本農業の指針であり続けたが、農業生産の選択的拡大、生産性の向上、総生産の増大、構造改善などの政策目標は立法から40年近くが過ぎたいまなお達成されていない。農基法農政はなぜ挫折したのか?

 新農政策定に尽力した東畑精一は東京大学名誉教授で、日本の農業経済学を確立した功績から文化勲章を受章したが、晩年は

「私の考えに誤りがあった」

 と不明を恥じ、筆を折った。いったい何がそうさせたのか。東畑は何が誤りだと考えたのだろうか?


▢ 当初から不幸な星を戴く
▢ 3つの課題は達成されず

 農業基本法が制定された昭和30年代、“曲がり角論”が語られるほど、日本の農業は大きな岐路に立たされていた。

 31年度「経済白書」は

「もはや『戦後』ではない」

 と書いた。工業は強気の経済成長路線を驀進(ばくしん)し始めていたけれども、農業は取り残されていた。

 農村から若者が急速に消え始め、後継者を引き留めるための“引き留めオートバイ”が流行した。嫁不足も深刻になった。30年の大豊作以後、反収は頭打ちで、米価は横ばいから下降局面になり、増産すれば所得が増えるという楽しみは薄れた(林信彰『コメは証言する』)。

 32年8月、農林省は「農林水産業の現状と問題点」という副題のついた初めての『白書』をとりまとめる。『白書』は、

①農業所得の低さ、
②食糧供給力の低さ、
③国際競争力の低さ、
④兼業化の進行、
⑤農業就業構造の劣弱化

 ──という当面する「日本農業の5つの赤信号」を率直に指摘したうえで、「日本農業の基本問題」として生産性の低さをあげて訴えた。

「いまや、日本農業の基本問題を直視すべきときである。今後の農業発展、農民の経済的地位の向上は、農業の生産性の向上を基礎としないかぎり、将来に明るい展望はない」

「明るい展望」を求めて、34年5月、総理府の付属機関として農林漁業基本問題調査会が発足、農業基本法の本格的な検討が始まった。調査会の会長に就任したのが、東大を退職したばかりの東畑であった。

 35年5月、基本問題調査会は「農業の基本問題と基本対策」を岸首相に答申、これをもとに翌年6月に農基法が制定されるのだが、「農業基本法は成立の当初から不幸な星を頂いていた」(古野雅美「農業基本法を超える農政展開を」=「日本農業の動き96」)。

 岸退陣で池田内閣に代わっていたが、「前年の『60年安保』をめぐる政治的対決の余韻が続き、何事も与党対野党という対決ムードのなかでぶつかり合う」状況下で、国会はイデオロギー論争に終始し、実質審議はたったの10数時間、衆院農林水産委は「強行採決」、本会議は社会党が「審議拒否」、参院本会議は社党の引き延ばし戦術で徹夜の審議、こうして可決成立は午前4時をまわった。

 農基法の目的は、生産性、所得、生活水準について、農業と他産業との不均衡を是正するため、農業の近代化と合理化を推進することにあった。そのために、

①農業生産の「選択的拡大」(需要の高い農産物の生産を重点的に増やすこと)、
②「農業構造の改善」(零細経営からの脱却)、
③他産業との「格差是正」

 ──の3つの課題が提起された。

 それから30数年が過ぎ去ったいま、基本法農政はこれらの課題をほとんど達成していない。

 たとえば「選択的拡大」。

 農政ジャーナリストの会会長で、共同通信論説委員の古野氏によれば、畜産物や果樹、花卉など需要が増加する農産物はたしかに生産が飛躍的に増大した。しかし、米は違っていた。

 当時、米の供給過剰時代の到来を予測する見方が多かった。ところが、政府は逆に米の需要は微増ないしは横ばいに推移したのち、やがて減少すると見通して、農基法制定直後から米の増産運動を展開した。

 他方、農工間所得格差是正のかけ声のなかで、生産者米価は次々に引き上げられ、その結果、ますます米の過剰基調を促した。

 また、単品目の大規模栽培が進められた結果、各地で連作障害や知力の低下を招いた。畜産と耕種農業が分断され、畜産公害が顕在化した。性急な近代化、合理化は、機械の過剰投資、過剰な農薬投与・施肥、農産物の安全性、環境汚染など、諸問題を発生された。


▢ 「私の考えに誤りがあった
▢ 生活の視点が欠けていた」

 池田内閣の所得倍増計画では、当時25万戸しかなかった2・5ヘクタール以上の自立経営農家を10年間で100万戸育成するとしていた。農基法による農地改革以来の大改革で、他の産業に匹敵するような高所得の大規模農家が増えるはずだった。

 しかし、現実はそうはならず、挫折した(岸康彦『食と農の戦後史』)。

 なぜであろうか?

 農基法農政の立案者である東畑は53年春、日本経済新聞に連載した「私の履歴書」で、調査会当時を次のように回顧している。

 農基法の成立後、農政審議会が生まれ、東畑は初代会長となる。しかし

「審議会を続けること数年間、どうも事柄の進行が思うようにならない」のであった。

 調査会の答申では、高度成長が続くことを前提として、零細農家が第2次、第3次産業に流れることを期待していた。ところが離農は進まず、農家といっても農業収入より農業外収入の方が多い「第二種兼業農家」が増えた。出稼ぎで農業所得以上の収入を得ても、農民は土地を捨てなかった。

 若者は「金の卵」となって都会に流れ、農業就業者は激減したが、「3ちゃん農業」というように高齢者や女性が従来の農業を支えたのである。

 東畑によれば、「これを促進した最大の事情」は、「全国の地価の大暴騰であった」。

 高度成長に伴う地価の高騰が農民の土地保有欲をかき立て、規模拡大を妨げるとともに、兼業農家だけが増加した。こうして

「農業構造改善も経営規模の拡大もまったく吹っ飛んでしまった。基本法の基本観念が崩されてしまった」。

 東畑は調査会の速記録を読み直し、「驚くべきことを発見した」。

 調査会は地価問題をなんと一度も議論したことがなかった。問題にしてもいなかったのだ。

「議長としての私の問題提起力を疑わしめるものであるのに気づいた。他を責める要はない、自分の頭が問題なのだ。そう気づくと自己嫌悪、敗残兵のように背骨が抜けていくように思った」

 東畑は任期途中で審議会議長の職を辞し、それ以来、

「長らく農業問題を扱う気力も気概もなくして沈黙を守った」。

 39年の夏、滋賀県大津市で開かれた夏期大学で講演したとき、東畑は旧知の谷口知事から詰問された。

「いろいろ教わろうと思って出席したが、農業問題を審議せずに後進国問題ばかりを論ずるとはどういうことか?」

 東畑は

「恥ずかしながら、その資格がないのです」

 と答えざるを得なかった(『私の履歴書』)。

 しかし問題の核心は「地価」ではない。

『履歴書』執筆から3年後の56年5月、ある記念パーティーの席上で東畑はこう語ったという(石見尚『農協』)。

「経済の高度成長の過程で、農村の環境が大きく変わった。私は農業基本政策の相談にあずかってきたが、私の考えに誤りがあった。それは私の学問に生活の視点が欠けていたことである。これは学者としての私の不明の致すところで、今後、私は筆を折らなければならない」

 この前年、東畑は農業経済学を確立した功績で、文化勲章を受章した。伝達式のあとの記者会見で、

「賞をもらったのは小学校4年生以来のこと。いうところを知らず、ただ恐縮しています」

 と喜びを語った東畑であるが、胸中は晴れやかではなかっただろう。

 石見氏が指摘するように、東畑最晩年のスピーチは「じつに率直な学問上の自己批判であった」が、東畑は「生活」の観点として、「住生活をはじめとする生活環境への視野を持つことの大切さ」を例に挙げたものの、「それ以上具体的に言及することはなかった」。

 そして真意を語らぬまま、東畑は58年5月、84歳でこの世を去った。


▢ 深い人間洞察に欠けていた
▢ 一神教的な進歩史観の呪縛

 東畑はほんとうは何を言いたかったのだろうか。農基法の挫折の真因をどう考えていたのだろう?

 石見氏は農民の勤労観すなわち勤労哲学に着目し、こう説明する。

 日本の農基法が、1955(昭和30)年に立法化されたばかりの西ドイツ農業法を模範にしていることは知られている。農基法が「自立経営農家」と呼ぶ適正専業農家の勤労哲学は、西ドイツ農民のプロテスタント的職業観を暗黙のうちに持ち込んでいる。

 そこに問題があるという。

 宗教改革をおこしたマルチン・ルターは、人間の原罪は人が生涯、悔い改め続けることによって免償されると説いた。カルヴァンは禁欲による社会改革を説いた。こうした倫理観が社会の根底にあって、西ドイツでは土地の公的管理をも容易にした。

 しかし、日本の農民はキリスト教徒ではない。それでも日本の農民にプロテスタント的勤労哲学と勤労観があれば、西ドイツの農業法の精神が適用するかも知れないが、そうではない。

 日本農民の伝統的な労働観は、神道や仏教、儒教などが混じり合った「報恩観と自然観から合成されたもの」であり、キリスト教的免償論や天職論、あるいは「神の国」への奉仕という労働観は適用しない。

 日本の農民は農業を通して自然との一体感を求めている。したがって農業の営みを失うことは自然とのつながりが切断されることであり、アイデンティティの喪失にほかならならない。農地を手放すことはアイデンティティを与えてくれた祖先の恩恵に反することで、だからこそ農地の流動化に強く抵抗する。

 兼業農家から専業農家へ土地を移転させ、経営規模を拡大し、農業構造を改革する農基法の流動化政策の失敗はここに起因する、と石見氏は理解する。

 東畑は優れた経済学者ではあった。しかしその学問は、欧米キリスト教世界からの、いわば借り物であった。

 自然が相手の農業は、ビジネスではない。国土、風土の特性に合わせて、それぞれの民族が長い歴史をかけて築き上げてきた、生の営みそのものである。よくも悪しくも、日本の農業には日本人の自然観と祖先崇拝が染みついている。

 東畑はそれが見えなかった。合理では割り切れない日本の農民の生き方という「木」に、西欧的な合理主義的な経済学という「竹」を、接ぎ木しようと試み、案の定、失敗したということか?

 京大の渡部忠世先生は、近代合理主義で割り切る農政のあり方をこう批判している。

「稲作の収量や、その経済効率などという判断基準をもって優劣を論じることが、まさに理不尽な思い上がりであることが理解されるだろう」(『稲の大地』)

 農基法成立から30年目の平成2年、『農業白書』は、「国民経済の発展と食料・農業」と題する一章を設け、農基法農政30年を振り返り、指摘している。

「農業・農村をめぐる制度・施策のあり方について、中長期的展望に立って、積極的かつ総合的に見直しを行っていくことが重要である」

 ここ数年、農基法の本格的な見直しと新農基法制定が広範囲に議論されているが、失敗を繰り返さないためには、戦後の農政史をあらためて謙虚に見直していく必要がある。さもなければ、食と農の破壊がいま以上に進みかねない。

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「米離れ」を呼び起こしたのは誰か──恐るべしアメリカの世界戦略 [稲作]

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「米離れ」を呼び起こしたのは誰か
──恐るべしアメリカの世界戦略
(「神社新報」平成10年4月13日)
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 昭和40年代──それは日本の稲作の歴史にとって、そして同時に日本人の精神史にとって最大のターニング・ポイントであったといえるだろう。

 米の生産がピークに達した一方で、消費は一転して下降する。「米離れ」は「米余り」を加速させ、政府はついに歴史的な「減反」政策を開始させる。

「米離れ」の原因は、国民所得が増えて消費構造が変化したからだ、と一般には理解されているが、はたして豊かさの代償であろうか?

 米の消費量が減ったのとは逆に、小麦の消費量が増えた。ところが国内産小麦は「安楽死」させられ、実際に増えるのは輸入小麦であり、とくにアメリカ産である。子供たちにパン食を定着させた学校給食はマッカーサーの置き土産であり、小麦食奨励のパンフレットを何十万部とばらまいたのは小麦業界であった。

 日本の米は輸入小麦に喰われたのであり、「米離れ」はアメリカの食糧戦略の果実なのではなかったか。その結果が日本人の稲作信仰の衰退ではなかったのか?


▢「走る台所」に出費した狙い
▢米食民族の食習慣を変える

 ここに、20年前(昭和54年)に出版された1冊の名著がある。『日本侵攻 アメリカ小麦戦略』。著者はNHKの高嶋光雪氏である。

 著者は最初の章で、「キッチンカー」を取り上げている。年輩の読者ならご記憶かも知れないが、冷蔵庫や調理台を備えた大型バスが昭和31年から、軽快な音楽を奏でながら田舎道を走り、山村や離島に至るまで、くまなく巡回した。

 神社の境内などに駐車すると、野良着姿の主婦などが集まり、ホットケーキなど、ハイカラな料理の実演に見入り、舌鼓を打った。「走る料理教室」はどこでも人気の的だった。栄養士は「米偏重」の粒食をやめて。もっと小麦中心の「粉食」を採るよう奨励した。

「動く台所」は厚生省の外郭団体日本食生活協会が主催し、厚生省が後援した。当初は8台、その後は12台に増え、36年までに沖縄をのぞいて、ほとんど全国を回り、2万回を超える講習会を開いた。参加者の数は200万人。走行距離はのべ57万5千キロで、地球を14周したことになるというからすごい。

 じつは、この事業の資金を支出したのは、日本政府ではない。1億円を超える資金はすべて、何とアメリカ農務省が支出した。

 事業は31年5月、アメリカ農務省の代行機関であるオレゴン小麦栽培者連盟と食生活協会との契約で始まり、協会はまさにこの事業のために創設されたのだという。

 アメリカの狙いは何だったのか? ずばり言って、米食民族の食習慣を小麦に変えることだったという。

 大戦中、アメリカ小麦の生産は飛躍的に伸び、連合国の兵糧をまかなった。戦後は生産が回復しない各国から援助の要請や商談が殺到した。その後、朝鮮戦争でふたたび需要が膨らんだが、1953(昭和28)年の休戦で需要は一気に冷え込む。

 ちょうど1953〜54年は小麦の大豊作で、倉庫からあふれた小麦は港に野ざらしにされ、余剰問題は深刻化した。政府の在庫は小麦、綿花、乳製品など計55億ドル(2兆円=当時)にのぼった。

 アイゼンハワー大統領は海外にハケ口を求めることを決め、ベンソン農務長官は「10億ドル相当の余剰農産物を大統領権限で処分する法律案」を発表する。翌54(昭和29)年春には大統領特命の使節団が日本にもやってきた。

 そのころの日本は食糧不足に悩まされていたから、割安のアメリカ小麦はノドから手が出るほどほしかった。だが、慢性的な外貨不足で買うことができない。

 同年夏、ドル不足の隘路を克服する画期的な法律がアメリカ議会を通過する。「PL480」、正式には「農業貿易促進援助法」、一般には端的に「余剰農産物処理法」と呼ばれた。

 画期的なのは、たとえば日本ならドルではなく、日本円でアメリカ小麦が買えることである。しかも代金の一部はアメリカが日本国内の現地調達などに使ってくれる。残りは後払いで、さしあたり日本の経済開発に使えるのがミソである。

 こんな美味しい話はない。


▢外貨節約は好機と飛びつく
▢農業は工業発展の捨て石に

 農産物の余剰問題を解決する大統領の切り札は同時に、余剰処理で生まれた資金をアメリカの世界政策に利用するという狙いを持っていた。時代は冷戦下、借款は自由陣営の経済強化という目的があった。

 そして、もうひとつ。販売代金の一部はアメリカ農産物の海外市場開拓に運用されることになる。日本をアメリカ農産物のお得意さんにするための種が蒔かれたのだ。

 吉田首相は大いに乗り気だった。

 なにせ前年の昭和28(1953)年は不作だった。しかもワンマン政権は崩壊寸前、首相は小麦輸入に延命を賭けた。

 東畑四郎農林事務次官が呼び出され、極秘のプロジェクト・チームが組まれる。

「アメリカの小麦を入れれば、日本の農業がつぶされる」

 という厳しい指摘もあったが、

「外貨を節約できるならチャンス」

 とする現実論がまさったらしい。

 受け入れ推進派の東畑次官らは、愛知用水、八郎潟干拓など推進中の巨大農業プロジェクトに、見返り資金が使えることに注目した。

 29年秋、愛知揆一通産相を団長とする政府使節団がワシントンに乗り込んだ。難航の末、11月13日に日米交渉が妥結し、翌年5月、「余剰農産物協定」が正式調印される。

 日本は2250万ドル相当の小麦(35万トン)のほか、綿花、米、葉タバコの計1億ドル(360億円)を受け入れることになった。

 1億ドルのうち15%の55億円相当は学校給食用の小麦などの現物贈与で、残る85%の306億円が円貨買い付け分、そのうち7割が電源開発や愛知用水などに、3割が在日米軍用住宅建設、そしてアメリカ農産物の日本市場開拓などに運用される。

 日本の1億ドルは他国に比べて、ずば抜けて多かった。市場開拓の最大の標的とされたのだ。日本はPL480の見返り資金で産業開発を推進し、工業先進国への道を驀進する。その一方で農業は捨て石にされた。

 けれども東畑氏は責任を認めず、のちに次のように述懐している。

「PL480は願ってもない外貨導入になると思った。日本の農業を圧迫したとは思っていない。いまでも誇りに思っている。米離れの責任の一端はあるが、ここまで農産物の輸入依存を野放しにしたのはその後の農政の誤りにある」

 しかし高嶋氏が指摘するように、外貨導入で愛知用水や八郎潟の干拓は完成するが、愛知用水はその後、工業用水と化し、八郎潟は減反政策をまともにかぶることになる。「責任の一端」では済まされまい。

 余剰問題に悩むオレゴン州の小麦農民はPL480の成立に小躍りした。小麦栽培者連盟は弱冠31歳の市場アナリスト、のちに「小麦のキッシンジャー」の異名を取る、リチャード・バウムを1954(昭和29)年に来日させ、アメリカ小麦の売り込みに当たらせる。

 そしてバウムは東京で、キッチンカー作戦を思いつく。

 だが、「動く調理台」はなかなか動き出さなかった。農林官僚が頑強に抵抗したからだ。30年は空前の豊作であった。抵抗を抑えたのは河野農相だという。

 昭和31年春、バウムはアメリカ農務省との事業契約に調印する。初年度分として40万ドルの使用が認められた。同年秋、キッチンカーの出陣式が厚生大臣、農林政務次官などが出席して、東京・日比谷公園で行われた。

 アメリカは資金は出したが、口は出さなかった。注文はただひとつ。

「献立に一品だけ小麦料理を入れてほしい」

 ということだけだった。日本人に小麦の味を覚えさせることが売り込みの第一歩という考えで、アメリカは陰に回った。

 外国資金で推進される事業だと知る国民はほとんどいなかった。食生活協会では資金の出所に触れることはタブーに近かったらしい。

 農林省はパン食推進の後押しのために製パン技術者の講習会を開き、文部省は学校のパン給食を推進した。


▢日本人の胃袋に翻る星条旗
▢イセヒカリに大神の御神慮

 PL480は3年間の時限立法だった。農産物の余剰を解決するために考えられた法律だが、3年後には皮肉にも余剰は増えていた。

 法律の見直しが検討されたのは当然だが、1957年6月の上院農業委員会の公聴会で、バウムはこう証言する。

「日本は伝統的な米の国で、パン屋すらなかった。しかしいまや1200万人の小学生の半分がパン給食を食べている。一人当たり米消費量は戦前の149キロが119キロに減り、小麦は14キロから都市部では41キロに増えた」

 日本はアメリカ戦略の成功のお手本なのだった。高嶋氏がいみじくも指摘するように、知らぬ間に日本人の胃袋に勝利の星条旗が高々と掲げられていた。

 振り返ってみると、アメリカの世界戦略は深刻な余剰が発端である。余剰小麦を世界市場に売るために、アメリカはじつに戦略的に用意周到に行動している。恐るべき世界戦略である。

 これに対して、日本はどうだろうか?

 ときあたかも今年(平成10年)は史上最大の減反が実施されるが、96万ヘクタールにおよぶ減反の発端は、4年連続の豊作によって官民の在庫が500万トンを超えると予想されたことである。食糧庁は昨夏(平成9年夏)、6億円をかけて備蓄米「たくわえくん」の販売キャンペーンを展開したが、効果は薄かった。

 結局のところ、日本政府は生産調整を農家に押しつけるしか策がない。余剰問題を世界的視野で解決しようというような発想はまるで出てきそうにない。海外に日本の米を売りさばく食糧戦略もなければ、マーケティングのプロもいないようだ。その結果、民族の命を支え、信仰を育んできた稲作農業の未来は暗澹としている。

 アメリカの小麦戦略に、日本の米がかろうどて完敗を免れたのは、以前、この連載で取り上げた、民間人による電気釜の発明のおかげではなかったか?

 台所に電化革命をもたらした「戦後最大のヒット商品」が売り出されたのは、昭和30年12月で、キッチンカーが走り出す前年であった。電気釜の開発がもしあと1年でも遅れていたら、日本の米はアメリカの小麦に完全に駆逐されていたかも知れない。

 同時に思うのは、日本人の宗教観の行方である。

 海を望む佐渡の棚田では、田植えの日に、村人は神饌を供え、水田を開いた先祖の名を、声を限りに叫ぶという(渡部忠世『稲の大地』)。稲作は日本人の祖先崇拝と深く結びついている。小麦が米に取って代わることは、単に食生活が変わることにとどまらない。米を失ったとき、日本人は日本人でなくなってしまうだろう。

 さて、こうした稲作農業の危機、稲作信仰の危機の時代に、伊勢の神宮で発見されたのが、イセヒカリであった。

 昨年(平成9年)に続き、今年(平成10年)も、神宮ではイセヒカリの種籾が23県、50社に下賜された。栽培は篤農家を中心に、確実に拡大している。

 とくに指摘したいなのは、この米が腰、粘り、香りにすぐれ、「若者向き」と評価されることである。パン食に慣らされた若い世代の嗜好を呼び戻す効果は、十分に期待できるといわれる。この時代に「御神米」が神宮神田で生まれたことの意味をあらためて噛みしめたい。

森と共存する日本の稲作 ──アニミズムの可能性 [稲作]

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森と共存する日本の稲作
──アニミズムの可能性
(「神社新報」平成9年4月14日号)
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 日本の水田稲作は3000年前、中国大陸から伝来したといわれます。大地を耕して食糧を生産する「農業革命」です。けれどもそれは深い森に包まれた日本列島に初めての大規模な自然破壊をもたらしました。

 しかし興味深いのは、破壊はそれほど大きなものとはならなかったことでした。ヨーロッパでは麦作と牧畜の展開によって大森林が消滅し、ヒース(低灌木)が広がる荒野と化しましたが、日本はそうではありません。

 森林が破壊されなかった理由は何でしょうか。樹木の新芽を食べ、破壊の元凶となる家畜を放棄したからだ、という見方もあります。水田稲作をもたらした渡来系弥生人は大陸から家畜を連れてきたが、渡来後は蛋白源を魚に求めた。そのため森と共存する農耕社会、つまり「森の文明」を作り上げることができた、というのですが、それなら、なぜ彼らは家畜を捨てたのでしょう。

 むしろ森という風土で生まれた多神教的世界観が山紫水明を守ったのではないでしょうか。つまり、自然の神霊を信じるアニミズムの力です。かつてアニミズムといえば、「未開の宗教」のレッテルを貼られてきたのですが、環境問題が人類の共通課題となった今日、再評価が求められているということなのでしょう。

 日本最初の歴史書である「日本書紀」をひもとくと、木神・植林神であるイタケルノミコト(五十猛神)のくだりがあります。父神のスサノオノミコトとともに、木の種を持って新羅(しらぎ)国に天降られるのですが、面白いことに、韓地(からくに)では植えずに種を持ち帰り、大八洲(おおやしま)に植え、すべて青山にしてしまわれた、というのです。

 このためイタケルノミコトと命名され、有功(いさおし)の神とされて、いまは紀伊国においでになる、と書かれてあります。「木の国」(紀国)の一宮・伊太祁曽(いたきそ)神社です。〈http://www.nextftp.com/itakiso-jinja/


▢ 大八洲を青山にした日本の神と
▢ 森林を破壊したヨーロッパ文明


 朝鮮半島が乾燥した岩山であるのとは対照的に、縄文時代の日本列島は99パーセントまでが照葉樹林と呼ばれる深い森に覆われていたといいます。森の豊かな恵みは縄文人に稲作を必要とさせなかったともいわれます。ところが、3000年前、地球の寒冷化で状況が変わります。

 中国大陸では戦乱の時代を迎え、多くの稲作民が難民として日本列島に殺到しました。他方、縄文文化はやはり寒冷化によって危機に瀕していました。森や海から豊かな食糧を得ることが困難になり、深刻な飢餓がもたらされます。危機に直面し、縄文人は稲作を受け入れた、と国際日本文化研究センターの安田喜憲先生は説明しています(季刊「考古学」1996年8月)。

 水田農耕は瞬く間に北部日本にまで展開しました。原野を切り開き、整地をし、川から水を引く。稲作の始まりは日本列島の生態系に大きな変革をもたらさずにはおきませんでした。

 ところが、です。生態学者の宮脇昭先生によると、深刻な自然破壊には至らなかったのでした。この2000年のあいだに開発された水田は国土の1割にも満たず、7割は以前、森に包まれています。それは私たちの祖先が自然への畏怖の念によって、弱い自然を守り、共存を図ってきたからだ、と先生は解説しています(『緑の証言』など)。

 今日、地球の自然は疲弊しています。大気汚染、熱帯林の破壊、海洋汚染、オゾン・ホール、そして温暖化など、地球環境の悪化を耳にしない日はありません。

 なぜこうなってしまったのでしょう。原因は近代ヨーロッパ文明の繁栄と関わりがある、と安田先生は指摘します(『講座文明と環境9』)。大自然と闘い、征服してきたのがヨーロッパ人の歴史でした。

 安田先生は『ギルガメシュ叙事詩』に着目します。1872年に古代アッシリアの遺跡で発見された粘土板には、くさび形文字で人類最古の神話が書きつづられていました。そのうちの「第五の書板」は、シュメール王ギルガメシュが聖なる香柏(レバノンスギ)の森に遠征し、親友と太陽神の助けを借りながら、森の守り神フンババを殺害し、香柏を伐採する場面です。

 安田先生が指摘するように、5000年前に書かれたこのメソポタミアの神話はイタケルノミコトの神話とはまったく対照的に、森の神を怪物とし、逆に森の破壊者を英雄と称えます。「都市文明の誕生は森の王殺しと軌を一にしている」のです。やがて自然への畏敬を失った人間によって、メソポタミアの森は消滅し、同時に最古の文明は崩壊するのでした。

 エーゲ海に栄えたミケーネ文明も愚かにも同じ運命をたどります。紺碧のエーゲ海と青い空、白い岩山に建つ白亜の神殿は人々の旅情をかき立てます。しかし、絶景はけして自然の芸術ではありません。石灰岩の岩山は最初から不毛のはげ山だったのではないというのです。

 安田先生によると、ペロポネソス半島には5000年前、ナラやマツの森が繁茂していました。ところが、ミケーネ文明の発展期に当たる3600年前ごろになると、船や建築材、燃料として木材が乱伐され、麦作や牧畜で硬葉樹の森は消滅しました。豊かな森を食いつぶし、地中海の文明は崩壊、痩せた土地と無生命の海だけが残ったのです。


▢ 自然支配を命じた唯一神
▢ 破壊の先頭に立つ宣教師


 どうしてこのような愚かしい森林破壊が繰り返されたのでしょうか。

 安田先生は一神教の成立と伝播が森を破壊し、消滅させた、と考えます。

 一神教はエジプトのナイル川流域で生まれました。5000年前、寒冷化と乾燥化で人々は大河のほとりに集中し、流民を奴隷とする古代エジプト文明が成立します。森林の消滅と砂漠化で大地の神など多神教の神々が脱落し、一神教が生まれます。3200年前の寒冷期、ちょうどモーセの出エジプトのころのようです。

 唯一絶対神のもとで人間を世界の中心に位置づけ、自然を征服し支配する思想はユダヤ・キリスト教に受け継がれます。『旧約聖書』には、神が天地創造のあと最初の男女を創造し、こう祝福したとあります。

「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」

 ヨーロッパが自然破壊の文明に席巻されるのは「12世紀のルネッサンス」のころからといいます。温暖な気候と農業技術の進歩で、ブナやナラで覆われたアルプス以北の大森林地帯は急速に開墾され、消滅していきました。

 森林破壊の先頭に立ったのは宣教師だといいます。彼らは森に住むケルト人やゲルマン人の伝統的なアニミズムの神々を排斥し、聖なる森を切り開き、聖木を切り倒しました。邪教の巣窟である森の闇に光を与え、異教徒を野蛮な儀式から解放することが正義と信じて、疑うことはありませんでした。

 自然征服の文明は、15世紀の地理上の発見によって、ヨーロッパから全世界へと広がっていきます。侵略の先兵となったのはやはりキリスト教の宣教師です。

 北アメリカでは、ヨーロッパ人による開拓で、インディアンによる野火などとは比較にならないほど、森林が破壊されました。入植から300年間でじつに8割の森林が北アメリカ大陸から消滅したと安田先生は指摘します。

 砂漠に成立した一神教が森の文明を侵略し、緑の大地を砂漠化したのです。ヨーロッパ文明は物質的には豊かながら、無機質的、無生命の近代都市を築き、砂のような大衆と都市の病理を生んだのです。

 近年は環境問題に熱心なキリスト者を見かけることがあります。たとえば、学習院大学の飯坂良明教授(故人)はこう書いています。

「惑星地球は、今や危機的状況に立ち至っている。……手をつけても無駄だといわれる前に、壊滅的危機に至る趨勢を止めるために、私たちは必要な手を打つことを求められている」(『未来への軌跡』)

 飯坂教授は、環境の危機が生じた原因は

「人間が自分たちのために勝手に自然を支配し、人口は幾何級数的に増大してしまった」ことにあり、

「私たち宗教者は悔い改めや懺悔の気持ちをもって、私たち自身に重大な問いかけをする必要がある」

 と指摘するのですが、森の聖霊を否定し、森を破壊してきたキリスト教の歴史について言及が見当たらないのはどうしたことでしょうか。


▢ アニミズム・ルネッサンス
▢ 鎮守の森にご関心の陛下


 環境問題解決の処方箋は西ヨーロッパの一神教的世界観からは見いだせないのでしょう。安田先生が指摘するように、むしろキリスト教が未開・野蛮の宗教として否定したアニミズムにこそ可能性が見いだせるかも知れません。

 とはいえ、ヨーロッパのキリスト教信仰のなかにも、じつはアニミズムは生きています。

 早稲田大学の植田重雄教授によると、キリストの誕生を祝うクリスマスは元来は古代ローマの冬至の祭りだといいます。古い暦では12月25日は冬至に当たります。日がもっとも短くなり、ふたたび光が増すこの日を太陽神ミトラが誕生する日として祝ったのです。古代インドで生まれたミトラの信仰は西に伝播し、ローマの国教となる勢いだったようです。

 原始キリスト教の時代にはキリストの生誕を祝う日はありませんでした。ミトラ信仰との宗教抗争のなかで,祭日を奪ったのです。冬至は「世の光」であるキリストの誕生日に最適で、381年、クリスマスは第2公会議で公認されたといいます。

 キリスト教はヨーロッパ世界に浸透していく過程で、ゲルマンやケルトの農耕儀礼と習合します。クリスマスツリーが現れるのは300年前です。古代ローマでは季節の変わり目に月桂樹の枝を戸口に飾りましたが、ゲルマンには巨木の下で祈り踊る成就信仰がありました。それらはやがて聖書の生命の木の観念やキリスト磔刑(はりつけ)の木の十字架と結びつきます(『ヨーロッパの祭と伝承』)。

 けれども、これは異教の習俗を換骨奪胎して取り込んだのだという見方もあります。キリスト教以前のゲルマン社会では木を切った者は命で償い、立木の皮をはいだ者はへそをえぐり出される重罰に処せられました。しかし、キリスト教は逆に、樹木崇拝を大罪とし、聖樹を切り倒したあとに教会を建てました。

 ハーバード大学のS・ハンチントン教授は、21世紀は「西欧対非西欧」の「文明の衝突」の時代になると予測しました。しかし安田先生は対立の発想それ自体が一神教的であり、「衝突」よりも「融合」が求められる、と批判します。

 とすると、欧米人はみずからのアニミズム信仰を呼び覚ますべきなのではないでしょうか。安田先生は私たちの祖先が培ってきた森の文明の伝統に人類の未来を救済するカギがあるとし、

「アニミズム・ルネッサンス」

 と名付けています。宗教の原点であるアニミズムの大切さを思い起こすときではないか、というのです(『蛇と十字架』)。

 同様の意見は神道人のなかからも聞こえてきます。戦後唯一の神道思想家といわれる葦津珍彦は、神道がアニミズムであることは明らかであり、

「日本の神道こそは,最高のアニミズム」

 であることを誇り、アニミズムの信に戻るべきだと主張しています(『神国の民の心』)。

 けれども、残念なことには、日本の森はまた病んでいます。

 日本列島は自然の照葉樹がいまや0・1パーセントにも満たないようです。明治以来、近代思想や近代科学の導入で、日本人の心は自然から離れています。もはや私たちの自然観は観念に流れています。「山川草木に霊を感じる」人は東京では5人に1人しかいない、という調査もあるようです。

 宮脇先生は、あるとき学生たちと自然の照葉樹林を足を棒にしながら探し歩いたといいます。毎日、探しても見当たらない自然林は、猫の額ほどのところにこんもりと茂っていました。果たせるかな、タブの林の中には小さな祠(ほこら)がありました。

 森の文明を守ってきたアニミズムが衰退し、逆に小さな村の鎮守が自然の森の最後の砦になってしまっているという現実です。

 さて、それなら日本の森の文明をどう回復していくのか。

 宮脇先生は、日本の自然のシンボルである鎮守の森の保護に、今上陛下が深い関心を寄せていることを指摘しています(『鎮守の森と生態学(エコロジー)』)。思えば、天皇が、つまり国の統治者がみずから稲作をし、さらに植林し、森を育てている、そのような国は日本以外にはないでしょう。

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稲作を伝えた人々の神──なぜ「八百万の神々」なのか [稲作]

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稲作を伝えた人々の神──なぜ「八百万の神々」なのか
(「神社新報」平成9年3月10日)
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前回は、日本の稲作の源流として注目される長江文明について紹介した。5千年前、地球の寒冷化によって、中国・長江流域に稲作を基盤とした古代文明が誕生する。メソポタミアと肩を並べる世界最古の文明である。

3千年前にふたたび寒冷化がおこり、北方民族が南下、中国は春秋戦国の動乱期を迎える。戦乱を避けて、稲作民が周辺地域に散った。日本に稲作が伝来するのは、じつにこのときという。

その後、古墳時代までに100万人が渡来したともいわれるが、興味深いことに、先住の縄文人と混血同化し、「本土日本人」が成立する。

稲作の伝来は宗教をどう変えたのだろう。多神教から一神教への転換がおこったのか。激烈な神々の戦争がおこったのかというと、そうではない。縄文人が信じた大地の神と渡来人が崇めた稲作の神が、併存したらしい。

八百万(やおよろず)の神々が共存する日本人の信仰は、弥生時代にはじまるようだ。そのことはどんな意味を持つのか、世界の文明史からひも解いてみたい。


▢ 砂漠で生まれた一神教
▢ 大地の神からは天候神

東京大学の鈴木秀夫先生によると、一神教は5千年前、エジプトのナイル川のほとりで生まれたという(『森林の思考・砂漠の思考』)。

このころ地球は寒冷化と乾燥化が平行しておこる。緑に包まれていたサハラは砂漠化した。人々はナイル河畔に集中し、流民を安い労働力や奴隷とする古代エジプト文明が誕生する。

乾燥化は森林を消滅させ、宗教を変えた。農耕生活で信じられていた地母神、雨の神など多神教の神々が離脱し、太陽神だけが残る。

エジプトで唯一神が生まれたのに触発されて、イスラエルの民が一神教に移行する。砂漠の周辺で牧畜生活をおくる彼らに大切なのは草であり、恵みの雨をもたらす嵐であった。嵐の神バールから唯一神ヤハウェが生まれる。モーセの「出エジプト」の時代らしい。

西洋の宗教はこうして砂漠で生まれたが、一方、東洋の宗教はインドの森林で成立した。

3500年前、地球の乾燥化が進み、インダス文明が終焉する。その後、侵入したアーリア人は森林を火で焼き、農地を開いた。イスラエルの影響で、インドにも一神化がおこる。火の神、太陽神、モンスーンの神がその座を去った。

造物主の概念も展開される。しかしアーリア人は万物の根源より、万物を生じさせる根本の力に注目し、ブラフマン(梵)と名づけた。独自の世界観を生んだのは森林である。日常を離れた瞑想と思索のなかで、アートマン(我)と梵とが1つになる梵我一如の真理に到達する。

灼熱の砂漠の思想はやがてユダヤ・キリスト教となり、深い森林の黙想はバラモン教、仏教に展開した。かたや唯一絶対神、天地創造と終末を信じ、かたや世界の無始無終、万物流転を説く。西洋と東洋の文明の違いは、3500年前の地球の乾燥化から生まれた、と鈴木先生は説明する。

国際日本文化研究センターの安田喜憲先生は、3200年前ごろの気候変動を境に、西アジアでは天候をつかさどる嵐の神バールが力を増してくると指摘する(『文明と環境1』)。

遺跡には蛇を殺すバール神の浮彫りが見られるようになる。蛇は大地の神で、バール神は左手に豊穣のシンボル、右手に斧や棍棒を持ち、蛇神と戦っている。

大地の神から天候神への転換だが、この背景には、気候変動が影響しているという。

気候が安定していた時代は大地の恵みに感謝すればよかった。しかし天候が不順になり、麦が稔らなくなると、天候神への祈りが捧げられる。バール神は新たな豊穣の神であった。

奇しくもこの時期は、カナンの地にイスラエル人が居住を始めた時期と重なるようだ。バール神からヤハウェが生まれることはすでに触れた。『聖書』は悪魔(サタン)を蛇として表現している。

蛇神を殺すバール神は、須佐之男命による八岐大蛇退治を想起させる。安田先生は、須佐之男命は日本のバール神だと理解する(『文明と環境2』)が、何かつながりがあるのだろうか?


▢ 中国・長江の稲作民の神
▢ 縄文人の神と弥生人の神

5千年前、中国・長江流域で成立した長江文明は、アジア稲作の源流といわれている。ところが下流域で5千年前に栄えた良渚(りょうしょ)文化は、4200年前に襲った大洪水によって突如、崩壊する。その後、遺民が黄河流域に建てたのが黄河文明だとされる。

なぜ良渚文化は滅亡したのだろう。それほどすさまじい洪水だったのか?

金沢大学の中村慎一先生によると、文明の爛熟の結果、自滅したのだという(『講座文明と環境5』)。

洪水は稲作の予祝をつかさどる祭祀王の権威を失墜させる。災害の責任は祭祀王に帰せられ、王は殺され、秩序回復が図られた。しかし、何十年も続く洪水は神聖王権の基盤そのものを崩壊させた。

長江文明を支えた稲作民は、どのような神を信じていたのだろうか?

国際日本文化研究センターの徐朝龍先生によると、殷(いん)から西周前期にかけて、長江上流に栄えた三星堆(さんせいたい)文明では、太陽信仰、神鳥崇拝を核にした宗教が崇拝されたという(季刊『考古学』96年8月)。

アジア民俗学の萩原秀三郎先生によると、長江の稲作民の末裔が湖南省などに住むミャオ族だという。

人口は503万人(82年)。文字はない。洪水で生き残った兄妹が人類の始祖となるという洪水神話を持ち、もちろん稲作を行い、高床住戸に住む。祖先祭や正月を大切にし、餅、おこわ、糯(もち)稲の酒を欠かさない。チガヤ信仰や鳥霊信仰がみられる(月刊『しにか』93年8月号)。

黄河文明最初の夏王朝の始祖となるのは、江・河・淮・済の四瀆(とく。河川)を改修するなど、治水の大業を果たした古聖王禹(う)である。

禹王が掘削したと伝えられる龍門は登竜門の故事で知られる。鬼門の祭りを立派にし、灌漑を広め、みずから耕し、天下を治めた。そして、のちに農業の神と崇められた。

夏・殷・周の皇帝は、神木を依り代とする「社」を建立し、土地神と穀物の神をまつった。皇帝は社の前で、上帝の命を受けて即位したことを宣言した。上帝を祀ることは天子の特権であった(水上静夫『中国古代王朝消滅の謎』)。

また、周では藉田の儀礼が行われた。皇帝みずから田植えをされるのである。

3000年前、気候の寒冷化で北方民族が南下すると、中国では春秋戦国の動乱期が始まる。「気候難民」や「ボート・ピープル」が大量に発生し、混乱を避ける稲作民が周辺地域へと拡散する。稲作が拡大し、森に覆われた日本列島にもおよぶ。

縄文人は大地の神々を信じ、蛇を大地の主と考えていたらしい。縄文土器には蛇の文様が見られる。ところが、弥生時代には蛇を追いかけるような文様が銅鐸などに現れるという。

天理大学の金関恕先生によると、3世紀の南朝鮮・馬韓(百済)地方では、農耕神として鬼神がまつられていたという(『弥生文化の研究8』)。穀倉を兼ねた神祠に男女2対の祖先像がまつられ、木の鳥をあしらった背の高い竿(烏杵。そと)を立てて聖域とした。

弥生時代後半から古墳時代に入ると、大地の神々をまつる信仰と同時に、天を祀る信仰が生まれる。従来の祭祀具である銅鉾や銅剣は人里離れたところに埋納されたままになり、代わって銅鏡が中心的な役割を果たすようになる、と安田先生は書いている。

古社中の古社である大神(おおみわ)神社は、大国主命が国作りの際、御諸山(三輪山)に大物主神を祀られた社とされているが、興味深いのは箸墓伝説である。

孝霊天皇の皇女・倭迹迹日百襲姫(やまとととびももそひめ)命は、いつも夜になって通ってこられる夫の大物主神に、お顔を見せてほしいと願う。神は

「翌朝、櫛箱に入っていよう。でも驚かないように」

とお答えになった。

姫が箱を開けると蛇だったので驚く。神は恥じて山にお帰りになる。命は座り込んだ拍子に箸を陰部に突き刺して亡くなられる。奈良県桜井市の箸墓古墳は命の墓とされる。

大物主神や須佐之男命など国つ神は蛇信仰と関係がある、と安田先生はいう。そしてまさに、最古の巨大前方後円墳といわれる箸墓古墳が造られた時代から、天つ神と国つ神が同時に祀られると指摘する。


▢ 天つ神と国つ神の統合
▢ 記紀に秘められた英知

弥生時代から古墳時代にかけては、やはり気候が寒冷化した時代だという。

中国では洪水が多発し、反乱が激化する。そして、黄巾の乱で後漢は崩壊していく。老荘思想がおこり、仏典が翻訳されるのはこのころである。

日本では、『魏志』倭人伝のいう「倭国大乱」の時代に相当する。大乱を収めたのは卑弥呼の共立、邪馬台国の成立で、卑弥呼は鬼道に仕え、民衆を導いた。鬼道は中国の初期道教だとの説がある。魏の皇帝は卑弥呼に銅鏡100枚を贈った。道教と関係があるらしい。

この古墳寒冷期は、世界的な民族移動の時期でもある。ヨーロッパではゲルマン民族の大移動が起こる。中国では後漢末の大動乱で、難民が大挙して南下した。朝鮮半島では洪水と豪雪が襲い、高句麗が南下、百済から日本列島に渡来人が安住の地を求めて殺到する。

秦始皇帝の子孫とする秦氏、後漢霊帝の子孫と称する漢氏など古代氏族の一大勢力は応神朝に渡来した。今来神も渡来する。秦氏は京都盆地などで水田開発を行い、のちに伏見稲荷大社や松尾大社を創建する。

つづく7世紀も寒冷期で、ヨーロッパがイスラム勢力によって席巻されたころ、東アジアも激動の時代を迎える。大化改新、百済滅亡、白村江の戦い、大津遷都、壬申の乱はこのころに起こる。

激動を乗り越えて、日本は律令時代を迎える。

記紀の編纂は、壬申の乱後、天武天皇の詔によって始められた。既述したような国際的な環境のなかで、記紀神話は成立する。

哲学者の上山春平先生は、記紀の特徴は中国の正史に見られない神代巻にあり、神代巻は氏姓制を打破し、律令的君主制の由来を説く国家哲学だと理解している(『天皇制の深層』)。神話は体系化され、各氏族の神は国家の神として秩序づけられた。

たとえば、天地開闢で、まず天之御中主神が成り、つぎに皇祖高御産巣日神、出雲系の神産巣日神が成り出る。皇祖神天照大神と出雲系の須佐之男命は御姉弟であられる。神武天皇は天孫瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)の子孫が国つ神の娘たちと婚姻を重ねあとに生誕される。

上山先生は、大化改新の前後に神々の序列に変動があるとし、「神祇革命」と呼んでいる。その仕掛人は藤原不比等だというのだが、だとすれば、なぜ藤原の氏神を最高神とする一神化を図らなかったのか。なぜ多神教的世界が存続したのか?

西洋では一神化の過程で多神教の神は駆逐され、古代ローマではキリスト教の浸透で祖先崇拝は廃れた。だが、日本ではそうではない。

大嘗祭は新帝が手ずから天神地祇に稲作民の米と畑作民の粟とを供せられ、御みずから聞こし召される国家の最重儀である。ここに神聖な祭祀に基づいて、八百万の神々と国家とを統合し、統治される天皇の偉大な本質が見えてくる。天武天皇が

「大君は神にしませば」

と詠われるゆえんであろう。

おりしもいま閉山が伝えられる三池炭鉱では、戦後の御巡幸のとき、坑夫が赤旗を振って気勢を上げていた。しかし昭和天皇が御到着になると、シュプレヒコールは歓喜の万歳に変わったという。

陛下はキャップランプに白の坑内服姿で地下深い坑道をめぐられた。祭り主の権威は民族の分裂を救うのだ。

世界には2000年もつづく血生臭い宗教的抗争すらあるが、古代においてすでに、日本人は、世界に稀なる、平和と秩序を持続させるための英知を獲得していたのではないか?


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水田稲作を伝えた人々 ──縄文人と混血同化した渡来人 [稲作]

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水田稲作を伝えた人々
──縄文人と混血同化した渡来人
(「神社新報」平成9年2月10日)
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「長江文明」──。黄河文明より何と1000年も古い古代の都市文明。その存在を裏づける遺跡が発見された、という世界史の常識を塗り替えるニュースに驚かされたのは昨年(平成8年)10月下旬。

「第5の古代文明」の存在は、すでに長江中・下流域から5000年前の城壁などが発見され指摘されていたが、今回、日中共同の発掘調査によって、上流の成都市郊外「隆馬(りゅうま)古城遺跡」が神殿を備えた巨大な城壁都市であることが判明し、間違いなく都市文明が存在したことが実証された。

 年代は5〜4000年前にさかのぼり、メソポタミアと並ぶ「世界最古の文明」。「4大文明」がすべて麦作文明であったのに対して、稲作が基盤だという。稲作は都市文明を作らないとする歴史の通説は覆された。

 8〜7000年前の世界最古の稲作遺跡が続々と発見される長江はまた日本の稲作文化の原郷といわれるが、さてそれでは、「長江のたまもの」である稲作を日本列島に伝えたのはだれなのか。謎が解かれる日はいずれはやってくる。


▢ 稲作は「長江のたまもの」
▢ 民族移動でアジア各地へ

 昨年(平成8年)10月28日、京都市西京区の国際日本文化研究センター1階の会議室に、100人を超す報道関係者が詰めかけた。「長江文明学術調査隊」(日本側総団長梅原猛=同センター顧問)の記者会見は歴史的発見の驚きに満ちていたようだ。

 無理もない。地下レーダーや衛星などを駆使するハイテク考古学が、「中国最古」の黄河文明を一気に1000年もさかのぼる4500年前の城壁都市を四川省・成都高原で発見したからだ。

 これまで中流域の湖北省石家河(せっかが)遺跡、下流域の湖南省城頭山遺跡の発見で長江文明の存在が提起されてきたが、今回は城壁のほかにピラミッド形の祭壇が同時に発見され、長江の稲作農業が都市を形成していたことが明らかになった。

 1100×600メートルの長方形の城壁に囲まれた遺跡の中央部の丘「鼓墩(ことん)」から見つかった三重の基壇は、南北60メートル、東西40メートル、高さ6メートル。同じ四川省の羊子山(ようしざん)遺跡から出土した周の時代の基壇より1500年も古い、世界最古の祭壇という。

 メソポタミアの古代都市では中央の神殿ジッグラトで王が祭祀を執行したが、今回、発見された基壇の北東隅からは生け贄にされたらしい人骨も発見された。

「鼓墩」の地名は王が太鼓をたたいた伝承に由来するという。どんな祭祀が、何の目的で、斎行されたのだろう。

 調査隊長を務めた同センターの安田喜憲先生は10数年前から小アジア周辺で湿原のボーリングによる花粉分析を行い、古代文明が誕生した5500〜4500年前は地球史上特筆すべき気候変動期に当たるという重大な発見をした。

 5000年前にヒプシサーマル(気候最適期)が終了し、気候は急速に寒冷化する。北緯35度以南の北半球では乾燥化が進み、大河の周辺に住む牧畜民は水を求めて大河のほとりに集中、先住の農耕民と融合する。

 ここに古代文明が同時期に誕生したのではないか、と安田先生は環境考古学の立場から推理する(「科学」88年8月号所収論文)。

 ところが、この仮説では黄河文明の成立が1000年も遅れる理由が説明できない。いや、そうではなかった。それがここ数年来の長江文明の発見だ。そして今回の遺跡発見は、長江文明の存在を決定づけた。

 しかし長江文明は4200年前に起こった世界的な洪水で突如、崩壊する。茨城大学の徐朝龍先生によると、生き残った人々が北上して黄河流域に夏王朝を開いたという。

 つまり黄河は文明の先進地ではない。崩壊した長江文明の衝撃波によって生まれた2次文明だという(梅原猛ら編『良渚(りょうしょ)遺跡への旅』)。

 その後、3000年前に起こった寒冷化で北方から狩猟・麦作民族が南下し、中国は春秋戦国の動乱期を迎え、「気候難民」や「ボートピープル」が発生する。

 長江の稲作文化がアジア各地に伝播するのは、じつにこのときらしい(『講座文明と環境5』所収論文など)。


▢ 「渡来系弥生人」の原郷は
▢ 長江流域か北東アジアか

 5000年前、長江下流域では稲作による都市文明が築かれていたのに、わずか600キロしか離れていない日本列島の九州で稲作が始まるのは、それから2000年後のことであった。

 その間、漆や瓢箪、鹿角斧、玉器などの大陸文化は伝来したが、稲作は普及しなかった。安田先生が説明するように、縄文人は稲作を拒否したのだろうか。それとも日本列島がまだ深い森に覆われていて、稲作に適した湿地草原が形成されていなかったからなのか?

 今回の日中学術調査隊の隊員でもある、皇學館大学の外山(とやま)秀一先生が書いているように、日本列島での稲作の開始と波及は従来、考えられていたよりも一時期、あるいはそれ以上さかのぼり、東日本への普及は予想以上に早かったことが分かってきた(『講座文明と環境5』所収論文など)。

 しかし、誰が日本列島に稲作をもたらしたのか、稲作を伝えた弥生人の正体を把握するのはなかなか難しいらしい。

 稲作が伝来した縄文晩期〜弥生前期の人骨がほとんど見つかっていないからである。北部九州で甕棺から膨大な量の弥生人骨が出土するようになるのは、弥生中期という。

 一口に弥生人といっても、一様ではないらしい。

 山口県・土井ヶ浜遺跡人類学ミュージアムの松下孝幸先生は、西日本の弥生人を次の3タイプに分類している(季刊「考古学」96年8月号所収論文)。

①北部九州・山口タイプ=面長+鼻の付け根が扁平+彫りが浅い+背が高い
②西北九州タイプ=顔が短い+顔幅は広い+鼻が高い+背が低い
③南九州・南西諸島タイプ=顔が非常に短い+顔面が小さい+上から見ると頭が円に近い+身長が非常に低い

 このうち農耕民は①で、大陸からの渡来系弥生人と推定される。②と③は漁労民だろうと松下先生は推測する。また、②は縄文人の直系の子孫だというのだが、だとすると、③はどうなのか?

 ③の出土例の1つ、種子島・広田遺跡は弥生中期の埋葬跡で、昭和32年からの発掘調査では100体を超える人骨が発見された。骨格の特徴は現在の島民に似るという。

 遺跡から宇宙センターを隔てて南西6キロのところに、宝満神社が鎮座している。同社では古来、赤米が栽培されてきた。この米は東南アジア起源の熱帯ジャポニカとされ、御田植祭の踏耕(ホイトウ)などに南方系の農耕文化の名残が見られる。

 赤米を伝えたのは広田人なのだろうか?

 さて、①の渡来系弥生人だが、松下先生によると、7000年前の稲作遺跡といわれる長江下流域の河姆渡(かぼと)遺跡から出土する河姆渡人とは共通性がない。

 河姆渡人は日本の縄文人とも、中国の新石器時代人とも違う異様な容貌をしている。

 けれども、山東省の東周と漢代の人骨は予想以上に①にそっくりで、直接の渡来元はともかく、渡来人の源流が大陸にあることはおそらく間違いないという。


▽ 縄文と弥生の「二重構造」

 国際高等研究所の埴原和郎先生の見方は少し違う。

 縄文人は東南アジアに源流をたどれるが、北九州や山口地方から出土する弥生人は中国ではなく、朝鮮半島からの渡来人で、原郷は北東アジアにあるという。

 渡来系弥生人は朝鮮半島人のみならず、モンゴリア、中国東北地方、東部シベリアなどの高度な寒冷適応を遂げた民族にきわめて近い特徴を持っているというのである(埴原『日本人と日本文化の形成』など)。

 しかし、北東アジアから稲作がやってきたとは考えにくい。

 静岡大学の佐藤洋一郎先生(植物遺伝学)は、朝鮮半島南部をかすめる程度ならいざ知らず、半島経由で稲が渡来したとすれば、元来は晩生の稲が早生化し、のちにまた晩生に戻ったとしなければ説明できない。遺伝学的にその可能性は低いという(佐藤『稲のきた道』)。

 これに対する埴原先生の答えはこうだ。

「文化と遺伝子の流れは違う」

 つまり、「北方の民族が南方の米を持ってくる」可能性は十分あるというのだ。

 朝鮮半島では紀元前8〜前6世紀ころに中・南部で稲作が始まったようだが、中国東北部の森林地帯から南下していた北方ツングース系の民族が朝鮮半島南部で稲作の技術を摂取、習熟したのではないかと推測するのである。

 その後、紀元前3世紀ころから朝鮮半島は西方の漢族の攻撃にさらされる。さらに避難民などが殺到すると、動乱を避けて日本列島に渡来したということか?

 他方で、埴原氏は、中国からの直接渡来の可能性も指摘しているが、ともかくも渡来人の大量出現で、日本列島の民族と文化は縄文系と渡来系の「二重構造」を示すようになる。


▢ 渡来人の数は千年で百万人
▢ なお遠き古代天皇制の成立

 弥生時代から古墳時代に移行すると、朝廷が渡来人を積極的に受け入れたため、その数はさらに急増する。

 埴原先生は、弥生初期から6世紀末までの1000年間に数十万〜100万人以上が渡来し、日本人全体の6〜7割にまで達したと推計する。古代の日本列島の国際的環境が浮かび上がる。

 当然、西日本では渡来人の特徴が強まり、その一方で、縄文系と渡来系の中間的特徴を示す個体が多く見られるようになるという。混血が進んだ結果らしい。

 西日本の古墳人は縄文系と弥生人が2対8、または1対9の割合で混血した、と埴原先生は推定する。

 記紀は、葦原中国に天降った瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の子孫が国譲りののち、国つ神の娘たちと結婚を重ね、やがて神武天皇が生誕されたとし、天つ神と国つ神の葛藤と和解をつづっている。

 古代史の記憶が神代史にこめられていることは間違いないだろう。

 佐藤先生は、大陸起源の温帯ジャポニカと東南アジア起源の熱帯ジャポニカが日本列島で自然交雑し、早生が生まれ、その結果、短期間に稲作が北東北にまで伝播したとの斬新な説を提起したが、稲作を伝えた渡来系弥生人もまた縄文人と混血し、同化したとは何という符合だろうか?

 日本の稲がそうであるように、複数の民族と文化が混合し、汎アジア的性格を持つ「本土日本人」とその文化が誕生したと見ることはできないだろうか?

 「稲作東漸」と同様に、渡来系稲作民の特徴はその後、まるで「神武東征」さながらに西から東へと拡大していく。

 しかも、埴原先生によれば、縄文系と渡来系の混血同化は現在も進行しているという。

 それにしても、なぜ渡来人は同化したのか?

 かつては縄文人は日本人の祖先によって駆逐されたという説もあったぐらいで、稲という食糧と鉄の武器を持つ渡来人が縄文人を征服することは不可能ではなかったはずである。しかし征服説は今日、否定されているという。

 埴原先生はこう説明する。

「渡来人は一度に大量にやってきたのではない。砂に水が染み込むように、やってきた。縄文人は山に隠れることもできたから、平地に住む渡来人と棲み分けが成立した。混血は人間の本性の結果で、自然に、平和的に進んだのだろう」

 けれども弥生時代はけっして平和の時代ではない。むしろ激動と戦乱の時代である。稲作は富の蓄積をもたらし、同時に犯罪と戦争が発生する。村は侵入者を防ぐために濠で囲まれ、柵や門、物見櫓で固められた。鏃(やじり)や剣、楯などの武器も生まれる。

『魏志』倭人伝は、弥生末期に倭国が乱れ、互いに攻伐し、その後、女王卑弥呼の共立で邪馬台国が誕生したと記している。

 戦いと同化から地域的な政治集団が形成され、やがて統一国家が生まれる。邪馬台国はその過程らしい。古代天皇制の成立はまだ遠いが、その延長線上にあることはたしかだろう。


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稲の早晩性の不思議──月の夜長に天下の秋を知る [稲作]

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稲の早晩性の不思議──月の夜長に天下の秋を知る
(「神社新報」平成8年10月14日)
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 東北・北海道の水稲の作付面積は71・8万ヘクタールで全国の33・8パーセント、収穫は200・4万トンで全国の25・7パーセントを占める(平成5年度、農水省「作物統計」)。米作適地とはいえない日本列島の、しかも北国の地が日本第一の穀倉地帯となっているのは驚きだ。

 その背景には稲作にかける祖先たちの強い執念もあろうが、忘れてならないのは早生(わせ)品種の出現である。関東以南の稲を東北で植えると、出穂しても秋冷に阻まれて満足には稔らない。一定の生育期間がたてば稔るという早生の稲が生まれなければ、東北地方で稲作が本格化することはなかっただろう。

「海上の道」を伝わってきた熱帯ジャポニカと中国・長江に起源する温帯ジャポニカが日本列島で自然交雑し、早稲種が生まれたとする説もあるが、そもそも稲の早晩性はなぜ起こるのか、究明していくと、意外や、日本人の信仰の世界が垣間見えてくる。


▢ 日本に伝来した晩生の稲
▢ 北の品種ほど早生になる


 稲は夏が過ぎ、昼の長さが短くなると花芽を付ける。これを短日植物と呼ぶが、それほど単純ではない。

 たとえば、フィリピン・ルソン島では年中、田植えが可能で、ときが来れば稔る。穀倉地帯が広がるマニラ北部は雨季と乾季が明確に分かれるが、平均気温は年間を通じて25〜8度とあまり変わらない。日照時間の年較差も小さく、二期作ばかりか三期作も行われる。

 フィリピンをはじめ、東南アジアで栽培される「ミラクル・ライス」は、同国の国際稲研究所(IRRI)が開発した品種で、感光性が弱い。基本栄養生長性も短いから、一定の生育期間が過ぎれば開花する。

 この稲はインディカだが、もともと東南アジア島嶼地域では短日性の弱い熱帯ジャポニカが広く栽培されてきた。

 面白いことに、熱帯ジャポニカを日本で栽培すると、晩生(おくて)になる。短日性が弱いと早生になるはずだが、熱帯ジャポニカは基本栄養生長性が長いため、短日条件に置かれると晩生になってしまうのだ。つねに短日条件にある熱帯の稲ならではの特性のようだ。

 種子島・宝満神社の赤米は熱帯ジャポニカの一種と見られている。御田植祭は5月上旬、収穫は9月初旬だが、

「今年(平成8年)は色づくのが遅れて10月初旬になった」

 と神社では語っている。

 7月下旬に収穫される早期米とは違って、やはり晩生らしい。

 もちろん稲の品種は晩生ばかりではない。晩生だけだったら、東北・北海道が今日、日本の穀倉地帯になることなど、あり得なかっただろう。

 青森・田舎館村の垂柳(たれやなぎ)遺跡は2000年前の稲作遺跡だが、寒冷地での稲作を可能ならしめたのは、早生の出現である。

 宮崎県で「日本一早いコシヒカリ」の収穫が始まった、というニュースが伝えられたのは7月下旬。同県の海岸部は早場米地帯で、3月下旬になると「コシヒカリ」や「ヒノヒカリ」が植えられるのだが、山間部では「ユメヒカリ」や「かりの舞」など晩生の品種が栽培される。田植えは6月初旬〜中旬、刈り入れは10月初旬から中旬となる。

 同じ宮崎県内でもこれだけのズレがある。台風襲来の前に収穫を終わらせたいと、30年前(昭和40年代)、早期米の栽培が始まったそうだ。

 しかし在来品種の場合では、南から北へ緯度が高くなるに従って、晩生から早生、極早生(ごくわせ)になる傾向が見られる。

 たとえば、静岡大学の佐藤洋一郎先生の実験によれば、静岡・三島では、東北北部の在来品種が7月上旬〜下旬に開花したのに対して、九州・四国の品種は8月末〜9月上旬に開花した。つまり、九州の晩生品種と東北北部の早生では、開花に約60日間の隔たりがある。

 また、九州の晩生を青森の弘前で栽培すると、10品種のうち、6品種は9月末までに開花しなかったという(佐藤『稲の来た道』)。


▢ 熱帯型と温帯型の2系統の
▢ 稲の交雑で早生が生まれた


 以前、取材でお世話になった東北農業試験場の横尾政雄さんから、丁寧な手紙をいただいた。

 稲には12対の染色体があり、6番目の染色体に花芽形成をつかさどる、早生・中生(なかて)・晩生の3種類の重要な遺伝子が乗っているという。横尾さんはLm座と命名したが、Se—1座と呼ぶ人もいるそうだ。

 晩生遺伝子は日長がかなり短くならないと感応しない。一方、早生遺伝子は日長に感応せず、温度が十分に確保されれば、一定の生長を経て、花芽を形成する。

 早生遺伝子を持つ東北の稲は不感光品種と呼ばれる。北海道の極早生品種はさらにほかの染色体上の遺伝子も関与しているという。

 稲の早晩性は短日性だけでは説明しきれない。早生の発生の謎もそこに隠されているらしい。

 熱帯ジャポニカと温帯ジャポニカの晩生同士の自然交雑によって早生が生まれた、とする画期的な説を提起したのは、佐藤先生である。

 温帯ジャポニカは、基本栄養生長性は短いが、短日性がある。熱帯ジャポニカは、短日性を失っているが、基本栄養生長性が長い。

 短日性と基本栄養生長性は異なる遺伝子に支配され、短日性が強く、基本栄養生長性が短いのがそれぞれ遺伝的には優性らしい。

 両者が交雑して、基本栄養生長性が短く、短日性の弱い品種が生まれる。これが早生品種の出現である。

 アジアの辺境に位置し、アジアでもっとも遅く稲作が始まったとされる日本列島だが、この島国で温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカが運命的に出会い、北国でも栽培が可能な早生品種が生まれ、津々浦々にまたたく間に稲作が展開していった。

 ここに人間業ではない不思議な因縁を感じるのは記者だけではあるまい。

 佐藤先生は東北の早生品種はもともと西南暖地で生まれたと推測する。東北の早生と西南暖地の早生は兄弟関係にあるからである。なるほど急速に稲作が北進したはずである。

 佐藤先生はまた、考古学者に根強い支持がある朝鮮半島からの稲の伝来説に疑問を投げかける。晩生から早生は派生するが、その逆は起きにくいからだ。

 朝鮮半島北部の冬は厳しく、早生でなければ栽培できないから、朝鮮半島経由で九州に伝来したとすれば、朝鮮半島で早生に変化した稲が、九州でふたたび晩生に戻ったとしなければ説明がつかない。

 しかしその可能性は低いという(前掲書)。


▢ 日長の変化を感じる仕組み
▢ 夜の闇を忘れた現代人たち


 稲が日照時間の変化を読み取り、秋の訪れを知るのは、じつは日長ではなく、逆に夜の時間を計っているらしい。

「一定の時間以上の暗が続くと、稲の身体のなかに穂を作る物質が蓄積し、葉を作っていた生長点に花芽すなわち穂を作り出す」(横尾『米のはなしⅡ』)

 これを花成物質というそうだが、詳しいことはまだ解明されていないという。

 晩生、中生、早生と、日本列島には夜の感じ方が異なる多様な稲が栽培されている。

「夜を感じない稲よりも、夜に敏感な稲の方が、何となく愛着が湧きます」(前掲書)

 と横尾さんは書いているが、短日性がなく、夜を感じない早生品種というのは不夜城のごとき都会に棲息し、夜の闇を忘れてしまった現代人に似ているかも知れない。

 4年前(平成4年)、バングラデシュ南東部コックスバザールの村を訪ねた。電気も水道もない。むろんテレビも電話もない。現代文明とは無縁の僻村だが、星空の美しさには感動した。

 オレンジ色の巨大な太陽が沈み、夜のとばりが降りると、360度、遮るもののない満天の星が前進を包み込む。自分が宇宙のなかに吸い込まれていくような錯覚さえ覚える。数秒おきに流れ星が、手が届きそうなところを飛び交う。やがて太陽にも負けない巨大な満月が姿を現す。

 まさに神々の造形、芸術である。都会では味わえない最高の贅沢に身体が震えた。

 仏教国のスリランカでは、太陰暦が用いられ、満月の日が重視される。学校も役所も休みになり、とくに5月の満月の日は仏陀の生誕、成道(じょうどう)、涅槃(ねはん)を記念するウエサック祭で沸き立つ。

 聖山スリー・パーダの登拝も、12〜5月の満月の晩が最良とされ、翌朝、御来光を仰ぐという(『もっと知りたいスリランカ』など)。

 昨年(平成7年)5月末、古都アヌラーダプラ近くの村の寺を訪ねたのは、ちょうど満月の晩で、数十人の年輩の男女が白衣に身を包んで寺に集まり、地べたに座り込んで、法話に耳を傾けていた。


▽ 月読命を祀る式内社


 記紀神話に登場する月読命は、伊邪那伎(いざなぎ)命から生まれた3貴子の第二神で、別名、月神(つきのかみ)、夜を治める神とされる。農耕神でもある。

 遠く長崎・壱岐島、芦辺町国分に式内社、月読神社が鎮まっている。

『日本書紀』には、顕宗天皇3年2月、阿閇臣事代(あへのおみことしろ)が任那に使し、壱岐を通過した際、月読が神憑りし、託宣したとある。

「わが祖(みおや)、高皇産霊(たかみむすび)、預(そ)いて天地(あめつち)を鎔(あ)い造(いた)せる功(いさお)有(ま)します。民地(かきところ)をもて、わが月神に奉(つかまつ)れ。もし請いのままに、われに献(たてまつ)らば、福(さいわい)慶(よろこび)あらん」

 式内社の月読神社は同町箱崎の箱崎八幡宮に比定されるともいう(『式内社調査報告第24巻』)。

 顕宗紀は続けて、事代が京に帰り、山城国葛野(かどの)郡の歌荒樔(木偏に巣の旧体)田(うたあらすだ)を奉り、壱岐の県王の先祖がお祀りして伝えたと記す。

 京都・西京区、松尾大社の山麓には葛野坐(かどのにます)月読神社が鎮座し、壱岐県王の先祖・押見宿禰(おしみのすくね)を祖とする氏族が祭祀を司ってきた(『日本の神々5』)。

 このほか月読をまつる式内社が伊勢・度会郡、山城・綴喜郡、丹波・桑田郡などに鎮座する。

 神宮には内宮、外宮の別宮月読宮、月夜見宮がそれぞれ鎮まっている。

 3年前(平成5年)、在京各紙の記者たちと神宮の月次祭を拝観する機会があった。浄闇のなか松明を先頭に、浄衣の神職がザッザッと玉砂利を踏みしめながら参進してくる。

 月夜ではなかったが、人工的なものを排した、深い闇と静寂の持つ神秘は心を打つものがあった。現代人が忘れかけている、月読命が統治する「夜の食国(おすくに)」の神々しさである。


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青森・古代北方稲作の謎──なぜ短期間に伝播したのか [稲作]

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青森・古代北方稲作の謎──なぜ短期間に伝播したのか
(「神社新報」平成8年8月12日)
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 あるときフィリピン・ルソン島出身の農業青年に、

「お国ではいつ田植えをするのか?」と聞いたことがある。キョトンとした顔で

「分からない」

 と答えたのには、聞いた方が驚いた。農家の跡継ぎが田植え時を知らないはずはない。

 よくよく話を聞いてみると、いつでも苗を植えることができるし、ときがくれば稔る。つまり年中、米が採れるのだという。

 同じ稲作といっても、熱帯モンスーンのフィリピンと温帯に属する日本では、これほど違うものか、と思い知らされた。

 古代、日本列島に伝わってきた稲作は、またたく間に北日本にまで広がった。

 40年前(昭和31年)に発見された青森・垂柳(たれやなぎ)遺跡は弥生中期、2000年前の水田遺構である。北緯40度を越える寒冷地に、稲作が短期間に伝播したのは驚きだが、背後に何があったのか。

 最北の水田跡を見ようと(平成8年)6月下旬、夜行列車で青函トンネルをくぐり、北海道から青森へと向かった。


▢ 定説を覆す「垂柳遺跡」の発見
▢ 無数の足跡は集落滅亡の痕跡


 十和田湖から弘前に向かって走る国道102号線。津軽平野にひときわそびえ立つ岩木山が前方に見える。残雪を頂く秀峰は澄み切った初夏の空に映える。

 黒石バイパスに乗って数キロ、弘南鉄道の高架橋を越え、すぐまたもうひとつの高架橋を渡ろうとすると、

「垂柳遺跡はこの橋の下にあります」
垂柳遺跡.gif
 という小さな案内板が左肩に立っている。うっかりすると見過ごしてしまいそうな小さな案内板だ。

 北限の水田遺構・垂柳遺跡はバイパスの高架下にひっそりと隠れている。科目で飾り気のない津軽人そのままである。

 しかしその発見は当時、紛れもなく

「日本古代史研究上の革命的な発見」(東北学院大学・伊東信雄、青森県教育委員会発行『垂柳遺跡』序文)

 であった。

 垂柳遺跡は昭和31年に発見された。

 津軽平野のほぼ中央に位置する田舎館村垂柳で耕地整理が行われたとき、大量の土器が出土したのだ。発見者は地元・猿賀中学校の工藤正教諭である。

 工藤氏は社会科の教諭で、若いころから考古学に興味を持ち、放課後などは学校近くの遺跡で、生徒たちと土器や石器の収集に夢中になったという。

 垂柳で土器が発見されて、さっそく収集が始まったが、素人の悲しさで整理に行き詰まる。そのとき出会ったのが、当時、東北大学教授だった伊東氏。

「籾あとのある土器はないか?」

 との助言を受けてからまもなく、歴史的発見の幕が開く。

 200粒以上の炭化米などの発見で、伊東氏は水田稲作の可能性を唱えたが、多くの考古学者は受け入れなかった。

 それもそのはずで、当時の定説では群馬・高崎市の日高遺跡が弥生期の水田跡の北限とされていた。「化外(けがい)の地」と呼ばれ、蝦夷(えみし)の住む東北北部に、稲作が伝播するのは8世紀以降と考えられていたのだ。

 その根拠は文献であった。

『日本書紀』に遣唐使が唐の高宗に謁見するくだりがある。斉明天皇5(659)年7月、遣唐使は男女2人の蝦夷を連れていた。

 高宗が問う。

「蝦夷には何種類あるか?」

「3種類あります。遠いところの蝦夷を都加留(つがる、津軽)、次を麁(あら)蝦夷、いちばん近いものは熟(にぎ)蝦夷。ここにいるのは熟蝦夷です」

 高宗がまた問う。

「五穀はあるのか?」

「ありません。肉を食べて暮らしています」

 蝦夷は採集・狩猟による移動生活を送っているという固定観念は、最近まで長く尾を引いた。常識的に見て、半年も雪に閉ざされるような雪国で、古代、大規模な水田稲作が行われていることなど考えられない。

 ところが、昭和56〜58年の発掘で、、弥生中期の水田跡が火山灰の下から姿を現し、畦畔や水口、水路までが出土したから驚いた。

 1枚10平方メートル前後の水田が656枚、総面積3967平方メートル。東、西、南方向にさらに広がっているという。予想を超えた高度な稲作が大規模かつ長期に展開されていたらしい。

 炭化米のほか稲の植物成分プラント・オパール、水田雑草なども検出されるに及んで、水田農耕は否定しがたい事実となった。

 弘前大学の村越潔氏は、

「押っ取り刀で現場へ駆けつけて、ようやく顔を覗かせた水田跡を眼中にした再、驚きでしばし呆然とわが眼を疑った」(前掲書序文)

 と書いている。

 田んぼの真ん中にある、村の小さな歴史民俗資料館を訪ねた。

 移設保存された4畳半ほどの水田遺構には、畦畔とともに弥生人の足跡がくっきりと刻まれている。大きさは12〜24センチ。想定される成人の身長は130〜160センチ。現代人に比べて小柄だったようだ。

 印象的なのは、5本の指が扇のように広がっていることだ。「立ち構え」という前屈みの姿勢で、素足のまま機敏に歩いていたらしい(青森県立郷土館・市川金丸氏、前掲書所収論文)。

 大地に食い込んだ指先や踵は2000年前のものとは思えない生々しさがある。体温のぬくもりや鼓動までが伝わってくるようだ。稲作を通じて民族の命がつながっているという実感と親しみが湧いてくる。

 ところが、それほど感傷に浸ってばかりはいられないらしい。

 なぜ数千という大量の足跡が崩れずに残ったのか?

 市川氏は、大型台風の襲来で山崩れと未曾有の大洪水が引き起こされ、30センチを超える土砂が水田を襲い、村は壊滅、人々は移動を余儀なくされた、と推察している。

 2000年を経て蘇った足跡は、弥生人集落の断末魔の痕跡だというのだ。


▢ 熱帯型と温帯型2系統の稲の
▢ 自然交雑で早生が生まれた!?


 ついうっかり「弥生人」と書いてしまったが、垂柳で米作りにいそしんだ古代人は、どんな人々だったのだろう?

 田舎館式土器という独特の文化を編み出したのは、はたして弥生人だったのか、それとも津軽蝦夷なのか?

 戦後、北部九州や山口地方から出土した2000体を越える弥生人骨の特徴は、高顔と高身長である。推定身長は男性162・6センチ、女性151・3センチという。縄文人とは形質が異なるらしい(『弥生人の研究1』)。

 しかし残念ながら、垂柳からは人骨は発見されていない。

 津軽では8月のねぶた囃子がやむと秋風が吹き、11月には初雪が降る。夏は短く、冬は長い。そんな北国で、古代人はなぜ熱帯の作物を栽培しようとしたのか。また栽培できたのか?

 気候が現代より温暖だったともいわれるが、稲作技術が発達した現代ならいざ知らず、簡単に米が作り得たとは思われない。

 宮崎大学の藤原宏志氏は、

「弥生時代の気候が現在と大差ないとすれば、当時の稲作期間もおおむね5月下旬〜10月中旬だったと考えられる。すなわち、イネの立毛期間(播種〜刈り取り収穫までの期間)は約150日しかなく、現在の品種より以上に極早生(ごくわせ)でなければ栽培できない」(前掲書所収論文)とする。

 そこで俄然、注目されるのは、国立遺伝学研究所の佐藤洋一郎氏が平成2年、雑誌「考古学と自然科学」(第22号)に発表した、「日本におけるイネの起源と伝播に関する一考察──遺伝学の立場から」なる論文である。

① 日本の稲は遺伝学的に均一ではない。従って単一の祖先から派生したとは考えられない。“雑種弱性遺伝子”地理的分布から、中国大陸と熱帯島嶼地域にそれぞれ由来する温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカの2つの伝来経路があると考えた方がよい。

② 北日本に分布する早生品種は北進の過程で突然変異が繰り返し起こって成立したと考えられてきたが、それでは急速な北進を説明できない。むしろ熱帯型と温帯型の2系統の稲が日本列島で自然交雑を起こして早生が生まれたと考えた方が説明しやすい。

 論文の骨子は以上の2点である。

 突然変異が起こる確率は10万分の1の低さだが、自然交雑の確率は1%といわれる。熱帯型も温帯型も本来は晩生(おくて)だそうだが、晩生同士の自然交雑から早生が生まれるというのがじつに面白い。

 佐藤氏は理論的解明だけではなくて、実県によっても証明している。

 佐藤氏の南北二元説は稲の伝来の謎とその後の急速な展開を一挙に解明する画期的な仮説として、考古学者や文化人類学者の注目を浴びずにはおかなかったらしい。

 そのうえ考古学者などから見向きもされなかった、柳田国男の南方説、いわゆる「海上の道」説が見直されることにもなった。

 最初に東南アジア起源の熱帯ジャポニカが「海上の道」を通って日本列島に伝来する。畑作的あるいは水陸未分化の稲で、モチ種だったのではないか、と佐藤氏はいう。

 現在ではオーストラリア以外の世界各地で広く栽培されるほど適応能力の高い米だから、南西日本から広範囲に広がっていっただろう。

 やがて揚子江中・下流域に起源する温帯ジャポニカが伝わってくる。こちらはウルチ米で、水田耕作という技術的革新を伴っていた。

 水田耕作は連作障害が起きない利点があり、増収にも結びついた。大がかりな土木工事は必要だが、規模拡大が容易になり、定住化が進んだであろう。

 水稲を畑で栽培することはできないが、陸稲は水田でも栽培できる。もし畑作的な米作がすでに日本列島に広範囲に広がっていたとしたら、その基礎のうえに水稲栽培が短期間に北進することは十分可能なはずだ。

 収量が増えるとなればなおのことで、早生の発生は一層の拍車をかけることになっただろう。

 実際、垂柳ではどのような米が栽培されていたのだろうか?

 藤原氏は、プラント・オパール分析の結果、垂柳の米はジャポニカで、対馬・多久頭魂(たくずたま)神社の赤米に近いと書いている(前掲書所収論文)。

 あらためて聞いてみると、

「温帯型と熱帯型とが混じっている。古代人には品種という考え方はなく、遺伝的に多様な稲が栽培されていた」

 という答えが返ってきた。ますます面白いではないか。


▢ 自動車文明がもたらした発見を
▢ 車社会の進展が日陰に追いやる


 資料館で「弥生の酒」を見つけた。化粧箱に、現代技術で弥生時代の米を再現したとある。

 炭化米からDNAを取り出して、というのなら、まるで映画「ジェラシック・パーク」だ。これはぜひとも呑まなければならない。

 黒石に戻り、醸造元を訪ねて1本、買い求めた。すっきりとした味わいは古代のロマンを感じさせる。

 原料は「赤もろ」。「もろ」は米という意味らしい。芒(のげ)が長い赤米で、モチ種だという。耐冷性があり、津軽地方ではつい最近までどこの田んぼでも水口で栽培された。数年前(平成5年)の冷害の年も、赤もろだけは平年並みに稔ったそうだ。

 田舎館小学校では11年前(昭和60年)から、「弥生の稲作」を授業に組み入れている。6年生約40人が手製の貫頭衣を着て、田おこしや田植え、稲刈りに挑む。手にマメを作ったり、泥だらけになったり、子供たちの歓声が響く。

 農家の子弟とはいっても、最近は機械化が進んで農作業の経験がほとんどない。最大の楽しみは秋の餅つき大会だという。

 他方、村の「垂柳遺跡を学ぶ会」が10年前(昭和61年)から高架下で続けてきた稲作は今年(平成8年)限りで幕を閉じ、会も解散されるようだ。

 昭和56年の発掘はバイパス建設工事がきっかけだった。水田跡の発見は路線計画変更を実現させ、約2アールの水田と竪穴式住居を復元させた。

 ところが、

「道路拡張で4車線になれば、田んぼは完全に橋下に隠れ、稲は作れなくなる」(「学ぶ会」代表・工藤兼太郎氏)らしい。

 現代の自動車文明によって奇しくも日の目を見た古代の稲作が、やはり車社会の進展によって日陰に追いやられるのは皮肉というほかはない。(注=参考文献の執筆者の肩書きなどは発行当時)

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