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御名御璽はどうなる? 河野行革大臣が「ハンコ廃止」を全府省庁に要請 [天皇・皇室]


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御名御璽はどうなる? 河野行革大臣が「ハンコ廃止」を全府省庁に要請
(令和2年9月26日)
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報道によると、河野行革大臣は昨日、全府省庁に対し、デジタル化の一環として、行政手続きでの押印の必要性を検討し、可能なかぎり不要とするよう求めたことを明らかにしました。

となると、陛下の御名御璽はどうなるのでしょうか。


▽1 近代的法体系の出発点

歴史を振り返ると、日本では江戸時代にはすでに公文書、私文書に押印の慣習が行き渡っていたようです。明治になり、政府は欧米に倣い、印章に代えてサイン制度の導入を試みましたが、成功しませんでした。現実問題として、自分の名前の書ける国民がすべてではなかったからのようです。

公式文書に押印する義務が法的に決められたのは、明治6年7月5日でした。この日の太政官布告(第239号)には、「人民相互の諸証書面に爪印あるいは花押等の相用い候は、間間これあり候ところ、当10月1日以後の証書には必ず実印を用ゆべし」(原文は漢字カタカナ混じり。以下同じ)とあります。(画像は国会図書館所蔵の『法令全書』から)

M060705太政官布告

公益社団法人全日本印章業協会はこの10月1日を重視し、「印章の日」と定めています。

御名御璽の歴史は、日本の近代的法体系の出発点である、明治19年2月26日の勅令第1号、公文式(こうぶんしき)に始まります。第3条には「法律勅令は親署の後、御璽を鈐(けん)し、内閣総理大臣これに副署し、年月日を記入す」と記されています。(画像はアジア歴史資料センターのサイトから)

M190226公文式

明治憲法制定後もこの形式が続いていましたが、同40年1月末日公布の勅令第6号、公式令が制定されると、これに伴って公文式は廃止されました(公式令附則)。公式令第6条は、公文式をほぼ踏襲して、以下のように定められています。

「法律は上諭を付してこれを公布す。
 前項の上諭には帝国議会の協賛を経たる旨を記載し、親署の後、御璽を鈐し、内閣総理大臣年月日を記入し、これに副署し…」


▽2 慣例に従い、公式令に準じて

戦後、昭和22年5月3日、日本国憲法が施行されました。天皇の国事行為には「憲法改正、法律、政令及び条約を公布」がまず掲げられていますが、公布の手続きを定めていた公式令はこの日、廃止されました。しかも公式令に代わる法令はいまなお制定されていないようです。

内閣法制局のサイトでは、「法律は成立後、後議院の議長から内閣を経由して奏上された日から30日以内に公布されなければなりません」「公布に当たっては、主任の国務大臣の署名及び内閣総理大臣の連署がされます」としか説明していません。「天皇」という表現すら避けているように見えます。〈https://www.clb.go.jp/law/process.html#process_6

国会法第65条は「議長から、内閣を経由して奏上」と定めていますが、当然のことながら、「奏上」後のことは規定していません。

結局、奏上から公布までの手続きは慣例に従い、具体的には公式令に準じて、御名御璽が行われてきたということでしょう。

とすれば、今回のハンコ廃止の検討は御璽にまで及ぶことになるのでしょうか。それとも皇室の文化を重視し、守る観点から、慣例のまま存続するのでしょうか。

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陛下のお稲刈りに思う。天皇の祭祀は神勅に基づくとする通説への疑問 [宮中祭祀]

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陛下のお稲刈りに思う。天皇の祭祀は神勅に基づくとする通説への疑問
(令和2年9月20日)
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陛下が9月15日、皇居内の水田で、恒例のお稲刈りをなさったと各メディアが伝えています。〈https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200915/k10012618931000.html〉〈https://www.asahi.com/articles/ASN9H52G6N9HUTIL024.html〉〈https://www.47news.jp/5260653.html

以前に比べると、こうした皇室関連報道が増えました。それでも、古来、天皇第一のお務めとされてきた祭祀など、あまり伝えられない多くのことがあるように思います。いまや天皇は祭り主でなく、国事行為のみを行う特別公務員のごとく考えられているからでしょうか。

天皇が稲作をなさるようになったのは最近のことで、即位直後の昭和天皇が最初でした。先帝はこれを引き継がれるとともに、粟の栽培をも始められました。今上は昨年の皇位継承後、稲と粟の栽培を受け継がれています。

陛下の稲作のことはメディアもしばしば取りあげていますが、粟についてはそれほどでもないように思います。粟とは何でしょうか。なぜ米と粟なのでしょうか。


▽1 なぜ演繹法による説明なのか

皇室に詳しい方はたいてい「神勅」について話されます。たとえば、昭和天皇の祭祀に携わった八束清貫は、皇室第一の祭儀とされる宮中新嘗祭は、記紀に記される、皇祖天照大神が天孫降臨に際して、瓊瓊杵尊に稲穂を授けられた、いわゆる斎庭の稲穂の神勅に由来すると書いています(八束『祭日祝日謹話』昭和8年)。

しかし八束自身が、「(新嘗祭の神饌で)なかんずく主要なのは、当年の新米・新粟をもって炊いだ、米の御飯(おんいい)および御粥(おんかゆ)、粟の御飯および御粥…」(八束「皇室祭祀百年史」=『明治維新神道百年史第1巻』1984年所収)と書いているように、新嘗祭の主要な神饌は米だけでなく、米と粟なのです。むろん大嘗祭も同様です。

つまり、古典にあらわされた神勅では、天皇による米と粟の祭祀は説明できません。八束の解説は間違っています。

もっと別な言い方をすると、まず神の存在があり、神の言動があり、それを記録した書物があってという、いわばキリスト教的な、演繹的な説明がなぜされなければならないのでしょうか。まるでヨーロッパの王権神授説に対抗するかのように、演繹的理解を試みようとするから、粟の存在が見えなくなってしまうのではありませんか。説明の方法論に誤りがあるのではありませんか。

神勅に基づく演繹的な解説はいつ始まったのでしょうか。少し調べてみると意外なことが分かります。私たち現代の神勅の理解と近代、近世とでは大きく異なるようなのです。ますます、斎庭の稲穂の神勅に基づいて、米と粟による天皇の祭祀を解釈するのは、限界があるように見えてきます。


▽2 三大神勅の中味がいまとは異なる

ふつう神勅と呼ばれているのは、「天壌無窮の神勅」「宝鏡奉斎の神勅」「斎庭の稲穂の神勅」の3つで、まとめて「三大神勅」と言い慣わされています。きわめて常識的な知識ですが、どうもこれはそれほど古い考え方ではないようです。

国会図書館の検索エンジンで「三大神勅」を調べると、ヒットするのは26件。もっとも古いのは、戦前を代表する神道家・川面凡児の『天皇宮』(昭和7年)ですが、川面が「三大神勅」と説明するのは「天壌無窮の神勅」「斎鏡斎穂の神勅」「神籬磐境の神勅」の3つで、私たちの理解とは微妙に異なります。

次に注目されるのは、川面としばしば比較される神道思想家・今泉定助の『国体原理』(昭和10年)ですが、これも「天壌無窮の神勅」「斎鏡斎穂の神勅」「神籬磐境の神勅」の3つです。

昭和15年に三大神勅奉戴会(岩隈虎雄理事長)が三大神勅の普及を目的に展開した三大神勅奉戴運動というのがあって、同会本部が発行した、その名も「三大神勅奉戴運動」と題する、30ページの冊子が国会図書館に納本されていますが、この場合は「第一神勅 天照大御神 天孫降臨の神勅」「第二神勅 天照大御神 斎鏡斎穀の神勅」「第三神勅 高皇産霊神 天孫奉斎の神勅(神籬磐境の神勅)」となっています。

「第二神勅」の説明では、日本書紀の、いわゆる宝鏡奉斎の神勅と斎庭の稲穂の神勅が続けて引用されています。「三大神勅の内容」の項目では、「第二神勅よりは、大嘗祭の御精神と祭りの真意を解し、天皇の御本質を拝し奉り」などと説明されており、米と粟による祭祀の実態が完全に忘れられています。


▽3 文部省編「国体の本義」が誤解を広めた?

さて、神勅といえば、「大日本帝国は、万世一系の天皇、皇祖の神勅を奉じて、永遠にこれを統治し給ふ」で本文が始まる「国体の本義」(文部省編、昭和12年)を無視するわけにはいきません。そしてここに果たせるかな、「天壌無窮の神勅」「神鏡奉斎の神勅」「斎庭の稲穂の神勅」が掲げられています。

ただし、「三大神勅」の表現は見当たりません。また、大嘗祭、新嘗祭の御親祭は斎庭の稲穂の神勅に基づくと説明し、「皇祖の親授し給ひし稲穂を尊み、瑞穂の国の民を慈しみ給ふ神代ながらの御精神が拝察せられる」と続け、粟の存在をこれまた完全に忘れています。

こともあろうに、文部省が編纂したあの「国体の本義」が天皇の祭祀への誤解を国民の間に広め、いまなお改められずにいるということなのでしょうか。

 【関連記事】系譜が異なる2つの稲作起源神話──大気津比売殺害と斎庭の稲穂の神勅〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/1998-11-16-1
 【関連記事】大嘗祭は米と粟の複合儀礼──あらためて研究資料を読み直す〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2011-12-18
 【関連記事】宮中新嘗祭は稲の儀礼ではない──誤解されている天皇の祭り〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2013-11-24?1600608478
 【関連記事】岡田先生、粟は貧しい作物なんですか?──神道学は時代のニーズに追いついていない〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2019-02-17
 【関連記事】やっと巡り会えた粟の神事──滋賀・日吉大社「山王祭」の神饌「粟津御供」〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2019-06-20
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 【関連記事】大嘗祭は、何を、どのように、なぜ祀るのか──岡田荘司「稲と粟の祭り」論を批判する〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2019-11-10
 【関連記事】男系継承派と女系容認派はカインとアベルに過ぎない。演繹法的かつ帰納法的な天皇観はなぜ失われたのか〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2020-04-05

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安倍前総理の靖国参拝。私的行為説の法律家と縁切りできなかったツケ [靖国問題]


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安倍前総理の靖国参拝。私的行為説の法律家と縁切りできなかったツケ
(令和2年9月19日)
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安倍前総理が今日午前、靖国神社に参拝し、総理退任を英霊に報告した、と自身のTwitterで明らかにしました〈https://twitter.com/abeshinzo/status/1307120105478934528?s=21〉。

第二次安倍内閣が発足したのは平成24年12月、翌年暮れに靖国神社に参拝して以来の参拝で、保守派からの熱い要望があったものの、その後、結局、在任中の参拝は実現しませんでした。

▽1 公人として命を捧げた英霊たち

実現しなかった理由はむろん、内外に批判があるからです。憲法の政教分離はそのひとつで、問題の発展を避け、総理は参拝を自粛し、大真榊の奉納に代えてきました。裁判の判決では玉串料の奉納も私的なら合憲とされ、政府は参拝も大真榊も私的行為だと言い張っています。

今回の参拝は総理を退任したうえでの参拝となりました。たぶんそのつもりだろうと予想していましたが、案の定でした。それは中国の内部事情に詳しい方から、胡錦濤政権のころでしたが、総理など一部の政府要職が参拝を自粛してくれさえすれば、中国政府は閣僚・議員の靖国参拝を黙認すると言っていると聞いていたからです。

総理の参拝自粛がもっぱら中国対策なのかどうかは分かりませんが、憲法改正、戦後レジームからの脱却を大きく訴えていた総理としては、無様な妥協を図ったものです。

なぜそうなったのか、前号では、安倍長期政権の暗転が平成27年、安全保障関連法案成立のための妥協から始まったとする中西輝政先生のエッセイを紹介しましたが、じつはもっと早く、靖国参拝の自粛を決めたとき、戦後体制からの脱却は見果てぬ夢となっていたのかもしれません。

 【関連記事】安倍「一強」政権の「暗転」がもたらす皇室と靖国の未来──中西輝政先生の分析を読んで〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2020-09-17

総理は、首相参拝はあくまで公人としての公的参拝だと、なぜ言い切らなかったのでしょうか。

わが伯父貴もそうですが、国家の非常時に戦死・戦病死した国民は、私人として命を捧げたわけではありません。国の代表者が戦没者を慰霊追悼するのに、なぜ私人でなければならないのですか。当たり前のことではありませんか。

総理の周辺には、首相参拝=私的行為説に固まる保守系の法律家もいるようですが、彼らこそオウンゴールを蹴り続ける諸悪の元凶です。利敵行為に走る取り巻きと縁切りできなかったことが長期政権の暗転を招いたのではありませんか。

▽2 公人の表敬行為となぜ言えぬ

何度も繰り返し書いてきたことですが、バチカンは信徒の靖国神社参拝を認めています。参拝はカトリック信仰を侵さない。つまり信教の自由を侵害しないと公式に認められています。参拝は信仰上の行為ではなくて、表敬だからです。

公人に求められているのはほかならぬこの表敬であり、総理は公人として堂々と参拝すべきでした。

ところが総理は靖国神社を避け、あまつさえ千鳥ヶ淵墓苑や防衛省内のメモリアルゾーンを戦没者追悼の場に選びました。そして逆に、靖国神社は私的信仰に格下げされました。英霊への侮辱といわずして何でしょうか。支持者の失望で済むはずはありません。

 【関連記事】バチカンは靖国神社を一貫して認めてきた──教皇庁の指針を否定する日本の教会指導者〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2007-02-26
 【関連記事】神社人とキリスト者の溝──伊勢神宮を表敬したバチカン大使〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2007-06-04
 【関連記事】首相の靖国神社参拝は「政教分離」に違反しない──バチカンは戦前から一貫して認めてきた〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2013-05-17?1600497859
 【関連記事】O先生、政教関係は正されているのですか ──政教分離問題への素朴な疑問〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2016-09-04?1600498142

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安倍「一強」政権の「暗転」がもたらす皇室と靖国の未来──中西輝政先生の分析を読んで [天皇・皇室]


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安倍「一強」政権の「暗転」がもたらす皇室と靖国の未来──中西輝政先生の分析を読んで
(令和2年9月17日)
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中西輝政京大名誉教授が、安倍「一強」政権がいつ「暗転」したのかについて文春オンラインに書いておられるのを読んで、我が意を得たりと強く納得しました。〈https://bunshun.jp/articles/-/40236


▽1 妥協で見失われた大義

中西先生によれば、歴代最長の長期政権をもたらした理由は官僚を強力に支配するシステムを構築したことなどで、その結果、安定政権が成立し、外交政策の安定などが得られましたが、反面、周辺環境への対応から「妥協」が多く図られました。

とくに2015年に安全保障関連法案を可決させるために払った「妥協」の犠牲は大きく、これが安倍政権「暗転」の分岐点となった、と中西先生は分析しています。

つまり、政権の第一の目標は憲法改正だったはずだったのに、解釈変更という手段で対応したため改憲の大義が薄弱になり、道を閉ざす結果になった。この代償は大きく、政権の大方針が見失われていったというのです。

同じ年の「戦後70年談話」も妥協の産物で、村山談話、小泉談話の踏襲でした。侵略戦争史観を安倍政権は固定化したのです。そして政権は迷走し始め、行き当たりばったりの政権運営に陥っていったのでした。

さすが中西先生ならではの的確な分析といえますが、引用はこのぐらいにします。

先生のエッセイを読んで気がつくのは、現実的妥協が優って、本質的改革の機会が失われたのは、先生が例示した外交問題などのほかに、いわゆる靖国神社問題や皇室問題も同じなのだろうということです。


▽2 首相の靖国参拝も御代替わりの無惨も

保守派の悲願とされる公人としての首相参拝が実現するどころか、首相参拝=私的行為論が定着しています。そして安倍総理は大真榊を私的に奉納することで、現実的妥協を図りました。靖国神社が国家的追悼施設に戻るなど夢のまた夢です。いうまでもなく、その本質は憲法の政教分離問題です。

 【関連記事】O先生、政教関係は正されているのですか─政教分離問題への素朴な疑問https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2016-09-04

令和の御代替わりも無惨でした。過去にない「退位の礼」が創作され、譲位と践祚は分離され、それどころか「譲位」は法的に認められませんでした。代始改元は退位記念改元に変質し、大嘗宮は角柱、板葺にされました。それでも現実に大嘗祭が遂行できたと保守派は喜ぶべきなのかどうか。

 【関連記事】「退位の礼」はどうしても必要なのか?──退位と即位の儀礼を別々に行う国はあるだろうかhttps://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2019-03-10
 【関連記事】5つの「改元日」。プラスとマイナス──日本だけの無形文化財を後世にどう伝えるべきかhttps://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2018-09-30
 【関連記事】回立殿は板葺き、膳屋はプレハブの異常──荷田在満『大嘗会便蒙』を読む 7https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2019-10-12

目下の問題は皇位継承です。政府・宮内庁は平成8年以降、女性天皇はまだしも、歴史にない女系継承容認=「女性宮家」創設へと舵を切っています。

前提となるのは、日本国憲法であり、現行憲法に基づく象徴天皇制です。もはや憲法改正はされず、できず、国民の多くは象徴天皇制を支持しているということだとすれば、「愛子さま」天皇の実現もあり得ることになります。


▽3 保守派は本質的議論を

中西先生が指摘された安倍政権の分岐点が日本の歴史の分岐点とならないことを心から願うばかりです。そのためには保守派こそ、現実的妥協に安住せず、本質的な議論をあらためて喚起し、深めていかなければなりません。

なぜなら、安倍政権の「妥協」の原因は、本質論を回避している保守派の人材不足にあると強く思うからです。

靖国参拝=私的行為論も宮中祭祀=私的行為論も、ほかならぬ保守派の憲法学者らが、本質論を抜きにして、現実的妥協から主張していることです。官僚、ジャーナリストは言うに及ばずでしょう。

 【関連記事】男系継承派と女系容認派はカインとアベルに過ぎない。演繹法的かつ帰納法的な天皇観はなぜ失われたのかhttps://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2020-04-05

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