前の10件 | -
国連女性差別撤廃委が「皇位の男系継承」の改正を勧告 [天皇・皇室]
報道によると、国連の女性差別撤廃員会(CEDAW)が昨日(2024年10月29日)、日本政府への勧告を含む「最終見解」を発表したという。皇位継承を「男系男子」に限定する皇室典範の改正を勧告しているというから穏やかではない。
https://digital.asahi.com/articles/ASSBY4417SBYUTIL01DM.html
朝日新聞の報道では、「男系男子」継承を定める皇室典範について、「委員会の権限の範囲外であるとする締約国の立場に留意する」としつつ、「男系男子のみの皇位継承を認めることは、条約の目的や趣旨に反すると考える」と指摘し、「皇位継承における男女平等を保障するため」に法改正するよう勧告した。政府側は17日の審査で、「皇位継承のあり方は国家の基本に関わる事項であり、女性差別撤廃条約に照らし、取り上げることは適当でない」と反論していたと伝えている。
◇1 天皇の制度を認めることは「平等」概念とは別なのに
さっそく同委員会のサイトを開いてみた。
https://tbinternet.ohchr.org/_layouts/15/treatybodyexternal/TBSearch.aspx?Lang=en&TreatyID=3&CountryID=87
今月24日づけの「最終見解」(Concluding observations)は、「E. 主な懸案事項と推奨事項」の2番目に、「女性差別の定義と差別的法律」の小見出しのもとで、次のように記述している。
11. The Committee notes the absence of a comprehensive and explicit definition of discrimination against women, covering both direct and indirect discrimination against women in the public and private spheres, in line with article 1 of the Convention, resulting in inconsistencies in legal interpretations and enforcement. It also takes note of the State party’s position that the provisions of the Japanese Imperial House Law are not within the purview of the Committee’s competence. However, the Committee considers that allowing only male offspring in the male line belonging to the Imperial Lineage to succeed to the throne, is incompatible with articles 1 and 2 and contrary to the object and purpose of the Convention. The Committee also notes with concern that several of its previous recommendations regarding existing discriminatory provisions have not been addressed, in particular:
(委員会は、条約第1条に則り、公的および私的領域における女性に対する直接的および間接的な差別を対象とする、女性に対する差別の包括的かつ明確な定義が存在しないことに留意するとともに、法解釈および執行に一貫性が生じていることに留意する。委員会は、日本の皇室法の規定が委員会の権限の範囲内にないという締約国の立場にも留意する。しかし、委員会は、皇統に属する男系の男子だけに皇位を継承させることは、第1条および第2条と両立せず、条約の目的と目的に反すると考える。委員会はまた、既存の差別的規定に関するこれまでの勧告のいくつかが、とくに取り組まれていないことにも懸念とともに留意する。)
たしかに日本国憲法は「世襲」を定め、皇室典範は「男系の男子が継承」と規定している。歴史を振り返れば、8人10代の女性天皇が存在し、女性天皇・女系継承が否認されたのは明治以後のことである。それはヨーロッパ王制に学び、終身在位制が採用された結果である。譲位が認められない近代の継承制度では、女子の継承は「万世一系」の「王朝の支配」を崩すことになるからだ。
とすれば、なぜ悠久なる皇室の歴史に変更を加えてまでして、「女性差別」を撤廃し、「ジェンダー平等」を実現しなければならないのだろうか? 皇室典範は一方で、皇后や皇太后が摂政に就任することを認めている。民間から入内した女性でも、摂政となれる。これは「差別」であろうか?
そもそも天皇という国民から超然たる法的地位を認めることは、「法の下の平等」とは異次元の世界を法的に認めることであろう。したがって、「平等」概念とは異質であるはずの「皇位継承」に、「平等」概念を持ち込むことは矛盾も甚だしい。委員会のメンバーはそうは思わないのだろうか?
◇2 喜びに沸く「愛子さま」応援団と「スルーして良い」と強気の男系派
委員会のサイトを見ると、9回目となる今回の定期報告に関連して、日本政府のほかに、さまざまな団体等から文書の提出があったことが分かる。そのなかで、「愛子さまを皇太子に」と応援する団体からの情報提供が目を引いた。
どうやらオンラインで署名活動を展開する団体らしいのだが、文書の冒頭は次のように始まっている。
We would like CEDAW to know Japan’s Imperial succession rule is still standing on serious gender discrimination. Japanese are living in a country where “women” cannot be the emperor, the symbol of Japan!
(女性差別撤廃委員会(CEDAW)には、日本の皇位継承制度が依然として深刻な性差別に基づいていることを知ってもらいたいと思います。日本人は「女性」が日本の象徴である天皇になれない国に生きている!)
In my opinion, this is because the Japanese government (dominated by LDP politicians with a very large percentage of older men) is strongly biased against gender discrimination.
(これは、日本政府(自民党の政治家が支配し、年配の男性が非常に高い)が性差別に対して強い偏見を持っているからだと思います。)
文書は、現行制度を「性差別」と断定し、その原因は「自民党政府の偏見」にあると決め付けている。ただそれだけである。初代神武天皇以来、126代にわたって、皇位が男系で紡がれてきた意味を謙虚に考えようとする姿勢はない。そして、委員会が陳情を取り上げてくれたと喜びに沸いている。思索に深みがない。
https://voice.charity/events/784/reports/6858
それなら男系派はどうなのか? 報道では、今月14日、同委員会の会合に参加した「皇統を守る国民連合の会」の葛城奈海会長が、「天皇は祭祀王だ」「内政干渉すべきでない」と、わずか35秒の持ち時間のなかで訴えたという。
https://www.sankei.com/article/20241021-Q5TNNZP64VCY5OX7MX7CSWAU4M/?492464
35秒といえば、早口で話しても、400字詰めの原稿用紙1枚分にもならない。皇統はなぜ男系主義なのか、そこにどんな価値を日本人は見出してきたのか、説明することは至難であろう。わざわざ遠くジュネーブにまで出かけて、会合に参加し、発言の機会を得たことは、大きな意味があったのは間違いないが、委員会のメンバーの心にどこまで響いただろうか?
報道によれば、葛城会長は委員会の勧告について、「毅然と『国家の基本』を継承していく姿勢を貫くべきだ。勧告はスルーして構わない」と語ったという。強気の姿勢は立派だが、さらなる一歩を期待したい。
https://www.sankei.com/article/20241030-GK34WBNKHJEI7CI6XA3Y5HFGSU/
池上彰先生がポチを演じる理由──先帝陛下の「長い天皇の歴史への思い」に気づかない(令和6年9月8日) [天皇・皇室]
◇1 政府・宮内庁の広報マンもしくは解説者
池上彰先生の「皇位継承」論について検証を続けます。テキストは東洋経済オンラインに載った『池上彰が説く「女系宮家」という選択の現実味──皇位継承を確保するための諸課題』(2018/08/08)です。
前回までを簡単におさらいすると、池上先生の「皇位継承」論は政府・宮内庁の論理を単になぞっているだけのように見えます。さながら政府・宮内庁の広報マンもしくは解説者ということです。なぜそうなってしまうのでしょうか?
先生のエッセイは冒頭、平成28年8月8日の先帝陛下のビデオメッセージから説き起こされています。陛下の「おことば」は「象徴としてのお務めについて」と題されているように、高齢化による御公務御負担への苦悩が表明され、「お務めの安定」を願いつつ、「譲位」の意思が示されたのでした。ところが、池上先生のエッセイでは「皇室の将来」の展望ヘとすり替わり、「女性宮家」創設についての検討へと議論が展開されていきます。
このすり替えの論理こそ、政府・宮内庁の「女性宮家」創設論そのものでした。御公務の御負担が重いのなら、軽減策を図れば済むことです。実際、軽減が図られ、しかしみごとに失敗し、そしてビデオメッセージの「譲位」表明へと進んでいったのです。
そして「女性宮家」創設です。先生が仰せのように、「退位に関する特例法」の「附帯決議」には「安定的な皇位継承を確保する」ための「女性宮家の創設」が明記されています。しかし少し考えれば分かることですが、「皇位継承」と「女性宮家」は本来、無関係です。ところが先生は、政府・宮内庁と同様、126代の天皇がなぜ男系継承なのかを追究することもなく、女系継承容認の是非へと論理を飛躍させ、さらに皇族減少対策の検討へと話題を進めていくのでした。
◇2 民主党政権と安倍政権との安易な対比
池上先生は、野田内閣、さらに安倍内閣の動きにも言及しています。
いわく、2011年、民主党の野田佳彦内閣では、女性宮家の創設が検討されたが、主な焦点は女性天皇や女系天皇の容認ではなく、皇族の減少対策だった。皇族が減少すると公務が続けられなくなるため、女性宮家を設立し、皇族の安定を図ることが提案されたが、法案にはまとまらなかった。議論の中で、女性宮家の範囲や財政的な問題も浮上したが、安倍内閣が反対の立場を取ったため、議論は進展しなかった。
先生はここで何を言いたいのか、私にはさっぱり理解できません。民主党政権は開明的で、「女性宮家」創設に積極的だったけれども、安倍政権は頑迷固陋で、これを押さえつけたとでもいうのでしょうか? まったく安易な対比ではありませんか?
なぜなら、平成以降、女性天皇・女系継承容認推進のきっかけとなったのは、7年9月に自民党総裁選で小泉純一郎議員(のちの首相)が「女性が天皇になるのは悪くない」と発言したことだったし、その後、容認論を陰に陽に進めてきたのは官僚たちでした。官僚が陰で糸をひき、御用学者やメディアとのトライアングル体制によって、世論を巻き込みつつ、展開されてきたのが女帝・女系継承容認=「女性宮家」創設論であって、政治家たちが主導してきたわけではありません。
民主党が16年夏の参院選で、「女性の皇位継承」容認をマニフェストに掲げたのは事実だし、羽毛田長官が民主党政権に働きかけたのも事実のようですが、より正確にいえば、長官は政権が代わるたびに現状報告を行ったというのが真相であり、官僚が権力ににじり寄るのは世の常です。
安倍総理をウルトラ保守主義者のように見なすのは自由ですが、実際のところ、官房長官時代には「憲法第2条に規定する世襲は、天皇の血統につながるもののみが皇位を継承するということと解され、男系、女系、両方が含まれる」と国会答弁しています(18年1月27日の衆院予算委)。単に血がつながっているというのが「世襲」なら、「女系」も容認されます。令和の大嘗祭で、悠紀殿や主基殿は板葺き、膳屋はプレハブにと、皇室の歴史と伝統にない変更が加えられたのは、まさに安倍政権の所業でした。
◇3 「皇位は世襲」だから女系が認められるのか?
池上先生は、旧宮家の皇籍復帰案に言及し、国民の7割が反対しているから、現実的ではないと斥けていますが、そもそも皇位継承問題は国民が介入すべきことでしょうか?
先生はまた憲法論に立ち返り、第1条は天皇の地位が「国民の総意」に基づくと規定し、第2条は「皇位は世襲」と定めているから、皇室典範を改正し、女性天皇・女系継承を認めることは可能だと指摘しています。
要するに、池上先生は126代続いてきた皇位継承のあり方を拒否し、その根拠を現行憲法の主権在民主義においているということでしょう。現行憲法の公布・施行によって、正統性が断絶されたという考え方なのでしょう。
しかしこうした考え方について、たとえば小嶋和司・東北大教授(憲法学、故人)は疑問を投げかけています。1つは、まさに「世襲」です。憲法は「皇位の世襲」を規定し、伝統を尊重しているからです。
「世襲」は、もともとdinasticの和訳であり、「王朝の支配」を意味します。古来、姓を持たず、家なき家として、公正・中立のお立場で、国と民をひとつにまとめ、統治してきたのが皇室です。それが、女帝ならいざ知らず、女系継承までが容認されたとき、同一の王朝として認められるでしょうか? 「憲法上問題ない」と言い切れるでしょうか?
126代続く皇統は男系ですが、なぜ池上先生は男系の絶えない制度を考えようとしないのでしょう。百人一首に親しみ、桃の節句に内裏雛を飾り、源氏物語の世界に思いを馳せる日本人が支持しているのは、「2.5代」象徴天皇制ではないはずです。
◇4 先帝の「おことば」への一面的な理解
池上先生は、エッセイの最後を、再度、先帝の「おことば」を引用し、締めくくっています。すなわち、陛下は「象徴天皇の務めが安定的に続いていくこと」を願っているのだから、国民もまた天皇・皇室の将来をしっかり考えるべきだと訴えているのですが、一面的といえませんか? 陛下は、けっして「象徴天皇」の伝道師でも、護憲派政党のシンパでもないからです。
それはほかならぬ陛下の「おことば」が証明しています。
たとえば、平成21年11月、御即位20年の記者会見では、「長い天皇の歴史に思いを致し,国民の上を思い,象徴として望ましい天皇の在り方を求めつつ,今日まで過ごしてきました」と語られています。陛下はつねに、皇室の歴史と憲法の理念の両方を尊重してこられたのです。
池上先生の「皇位継承」論には「長い天皇の歴史」が抜けています。だから、政府・宮内庁のポチを演じることになるのです。男系で続いてきた悠久の歴史に思いを馳せるなら、「女性宮家」創設などあり得ません。
池上彰先生の「皇位継承」論について検証を続けます。テキストは東洋経済オンラインに載った『池上彰が説く「女系宮家」という選択の現実味──皇位継承を確保するための諸課題』(2018/08/08)です。
前回までを簡単におさらいすると、池上先生の「皇位継承」論は政府・宮内庁の論理を単になぞっているだけのように見えます。さながら政府・宮内庁の広報マンもしくは解説者ということです。なぜそうなってしまうのでしょうか?
先生のエッセイは冒頭、平成28年8月8日の先帝陛下のビデオメッセージから説き起こされています。陛下の「おことば」は「象徴としてのお務めについて」と題されているように、高齢化による御公務御負担への苦悩が表明され、「お務めの安定」を願いつつ、「譲位」の意思が示されたのでした。ところが、池上先生のエッセイでは「皇室の将来」の展望ヘとすり替わり、「女性宮家」創設についての検討へと議論が展開されていきます。
このすり替えの論理こそ、政府・宮内庁の「女性宮家」創設論そのものでした。御公務の御負担が重いのなら、軽減策を図れば済むことです。実際、軽減が図られ、しかしみごとに失敗し、そしてビデオメッセージの「譲位」表明へと進んでいったのです。
そして「女性宮家」創設です。先生が仰せのように、「退位に関する特例法」の「附帯決議」には「安定的な皇位継承を確保する」ための「女性宮家の創設」が明記されています。しかし少し考えれば分かることですが、「皇位継承」と「女性宮家」は本来、無関係です。ところが先生は、政府・宮内庁と同様、126代の天皇がなぜ男系継承なのかを追究することもなく、女系継承容認の是非へと論理を飛躍させ、さらに皇族減少対策の検討へと話題を進めていくのでした。
◇2 民主党政権と安倍政権との安易な対比
池上先生は、野田内閣、さらに安倍内閣の動きにも言及しています。
いわく、2011年、民主党の野田佳彦内閣では、女性宮家の創設が検討されたが、主な焦点は女性天皇や女系天皇の容認ではなく、皇族の減少対策だった。皇族が減少すると公務が続けられなくなるため、女性宮家を設立し、皇族の安定を図ることが提案されたが、法案にはまとまらなかった。議論の中で、女性宮家の範囲や財政的な問題も浮上したが、安倍内閣が反対の立場を取ったため、議論は進展しなかった。
先生はここで何を言いたいのか、私にはさっぱり理解できません。民主党政権は開明的で、「女性宮家」創設に積極的だったけれども、安倍政権は頑迷固陋で、これを押さえつけたとでもいうのでしょうか? まったく安易な対比ではありませんか?
なぜなら、平成以降、女性天皇・女系継承容認推進のきっかけとなったのは、7年9月に自民党総裁選で小泉純一郎議員(のちの首相)が「女性が天皇になるのは悪くない」と発言したことだったし、その後、容認論を陰に陽に進めてきたのは官僚たちでした。官僚が陰で糸をひき、御用学者やメディアとのトライアングル体制によって、世論を巻き込みつつ、展開されてきたのが女帝・女系継承容認=「女性宮家」創設論であって、政治家たちが主導してきたわけではありません。
民主党が16年夏の参院選で、「女性の皇位継承」容認をマニフェストに掲げたのは事実だし、羽毛田長官が民主党政権に働きかけたのも事実のようですが、より正確にいえば、長官は政権が代わるたびに現状報告を行ったというのが真相であり、官僚が権力ににじり寄るのは世の常です。
安倍総理をウルトラ保守主義者のように見なすのは自由ですが、実際のところ、官房長官時代には「憲法第2条に規定する世襲は、天皇の血統につながるもののみが皇位を継承するということと解され、男系、女系、両方が含まれる」と国会答弁しています(18年1月27日の衆院予算委)。単に血がつながっているというのが「世襲」なら、「女系」も容認されます。令和の大嘗祭で、悠紀殿や主基殿は板葺き、膳屋はプレハブにと、皇室の歴史と伝統にない変更が加えられたのは、まさに安倍政権の所業でした。
◇3 「皇位は世襲」だから女系が認められるのか?
池上先生は、旧宮家の皇籍復帰案に言及し、国民の7割が反対しているから、現実的ではないと斥けていますが、そもそも皇位継承問題は国民が介入すべきことでしょうか?
先生はまた憲法論に立ち返り、第1条は天皇の地位が「国民の総意」に基づくと規定し、第2条は「皇位は世襲」と定めているから、皇室典範を改正し、女性天皇・女系継承を認めることは可能だと指摘しています。
要するに、池上先生は126代続いてきた皇位継承のあり方を拒否し、その根拠を現行憲法の主権在民主義においているということでしょう。現行憲法の公布・施行によって、正統性が断絶されたという考え方なのでしょう。
しかしこうした考え方について、たとえば小嶋和司・東北大教授(憲法学、故人)は疑問を投げかけています。1つは、まさに「世襲」です。憲法は「皇位の世襲」を規定し、伝統を尊重しているからです。
「世襲」は、もともとdinasticの和訳であり、「王朝の支配」を意味します。古来、姓を持たず、家なき家として、公正・中立のお立場で、国と民をひとつにまとめ、統治してきたのが皇室です。それが、女帝ならいざ知らず、女系継承までが容認されたとき、同一の王朝として認められるでしょうか? 「憲法上問題ない」と言い切れるでしょうか?
126代続く皇統は男系ですが、なぜ池上先生は男系の絶えない制度を考えようとしないのでしょう。百人一首に親しみ、桃の節句に内裏雛を飾り、源氏物語の世界に思いを馳せる日本人が支持しているのは、「2.5代」象徴天皇制ではないはずです。
◇4 先帝の「おことば」への一面的な理解
池上先生は、エッセイの最後を、再度、先帝の「おことば」を引用し、締めくくっています。すなわち、陛下は「象徴天皇の務めが安定的に続いていくこと」を願っているのだから、国民もまた天皇・皇室の将来をしっかり考えるべきだと訴えているのですが、一面的といえませんか? 陛下は、けっして「象徴天皇」の伝道師でも、護憲派政党のシンパでもないからです。
それはほかならぬ陛下の「おことば」が証明しています。
たとえば、平成21年11月、御即位20年の記者会見では、「長い天皇の歴史に思いを致し,国民の上を思い,象徴として望ましい天皇の在り方を求めつつ,今日まで過ごしてきました」と語られています。陛下はつねに、皇室の歴史と憲法の理念の両方を尊重してこられたのです。
池上先生の「皇位継承」論には「長い天皇の歴史」が抜けています。だから、政府・宮内庁のポチを演じることになるのです。男系で続いてきた悠久の歴史に思いを馳せるなら、「女性宮家」創設などあり得ません。
タグ:池上彰
「天照大神、また天神地祇、諸神明」を祀る天皇の「資格」 [宮中祭祀]
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「天照大神、また天神地祇、諸神明」を祀る天皇の「資格」
(令和5年1月15日、日曜日)
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
知り合いの経営者と皇位継承について、ちょっとした議論をした。「愛子さんは天皇になれないのか? 愛子さんで良いではないか?」と言う。「そのあとはどうなるのか?」と聞き返すと、返答に窮している。「愛子さま天皇」の是非で、思考が止まっている。
「愛子内親王が継承すれば、あとは女系化することになる」と指摘すると、「それで良い。日本を変えよう」と来た。要は、安易な気分優先の革命論である。それで良いのかどうか、そこが問われている。
どうしても革命が必要なら、断行しなければならないが、男系で続いてきた皇位継承の大原則を変えなければならない理由はいったい何だろうか。
というより、逆に、大原則の意味は何だったのか。なぜ男系なのか、男系で続いてきた天皇とは何だったのかが理解されていない。説明する人も見当たらない。そこに問題があるのではないか。「昔からそうだった」というだけでは、革命論に太刀打ちできまい。
▷1 大嘗祭の原型
前回、宮中新嘗祭・大嘗祭の歴史について言及した。古来、「11月の下の卯の日」に行われていたものが、明治の改暦後、太陽暦の「11月23日」に固定された。歴史と伝統を重んずるならば、旧制に復すことを検討しても良いと私は思う。
とここまで考えたときに、何をもって「伝統」とすべきなのか、新たな疑問が湧いてくる。つまり、干支はそもそもが外来の文化なのであり、古典に記録された「卯の日」の新嘗祭が元々の原型なのかどうか。
『日本書紀』に記録された宮中新嘗祭の初出は皇極天皇元年(642)11月16日のそれで、「卯の日」だったようだが、皇極天皇以前には宮中新嘗祭はなかったのだろうか。
干支は古代中国・殷の時代に生まれ、日本に伝来したのは古墳時代といわれるが、それならそれ以前には宮中新嘗祭はなかったのだろうか。記紀神話は皇祖天照大神が新嘗祭を行ったとさえ記している。
天皇の即位儀礼は古来、太極殿での即位礼と大嘗宮での大嘗祭とがある。前者は古代中国の影響を受けたもので、後者が日本オリジナルの儀礼である。とすると、海外の影響を受けていない大嘗祭の原型があったのかどうか。
▷2 天皇のお役目とは
その場合、大嘗祭で何をなさることが「天皇」と考えられたのか、天皇のお役目は何だと考えられたのか。
真弓常忠・皇學館大学名誉教授は著書の『大嘗祭』で、平野孝国・新潟大学名誉教授(神道学)を引用し、天皇の「全国の神々をお祀りになる特別の御資格」について言及している。平野先生は「天皇にあらゆる神を祀って頂く御資格をお与えする唯一の機会は、大嘗祭を除いてはあり得ぬ」(『大嘗祭の構造』)と指摘している。
古代律令「神祇令」の「即位の条」に「およそ天皇、位に即きたまわば、すべて天神地祇を祭れ」と記され、天皇は大嘗祭、新嘗祭で皇祖神ほか天神地祇をまつり、「天照大神、また天神地祇、諸神明」に祈りを捧げる。天皇以外に、あらゆる神をまつり、祈る祭り主は、世界中何処にもいない。
真弓先生の発想では、大嘗宮の神座に天照大神が座し、天神地祇と「相嘗」するのが大嘗祭だが、これでは「米と粟」を供饌する意味を説明できない。天孫降臨、斎庭の稲穂の神勅では「粟」は説明できない。
そうではなくて、畏れ多いことだが、一座の神座に、皇祖神ほか天神地祇をあたかも1柱の神のごとくにまつり、「米と粟」を神人共食し、「国中平らかに安らけく」と祈るのが、皇室第一の重儀の目的ではないだろうか。
▷3 あり得ない女系継承
あらゆる神に祈ることが天皇のお役目だとしたら、女系化はあり得ないことになる。
古来、天皇は「無私」なる存在であり、だからこそ皇室に姓はなく、即位後の天皇は固有名詞では呼ばれない。無私なる天皇だからこそ、あらゆる神を平等にまつる資格がある。
しかし内親王が皇位を継承するのならまだしも、終身在位制のもとで、あまつさえ女系化を容認したとき、「あらゆる神をまつる資格」が確保されるとは思えない。真弓先生の説に従ったとしても、女系化した天皇が皇祖神を祀ることは容認されるべきだろうか。
過去の歴史においては、女性天皇は何人もおられるが、夫があり、あるいは妊娠中・子育て中の女性天皇は1人もおられない。近代以降の終身在位性のもとで、内親王が即位し、さらにその子女へ皇位が継承されれば、祭り主たる地位は変更されざるを得ない。
それでも女系化を受け入れるべきだろうか。天皇=祭り主、天皇=スメラミコトの大原則に関わる大問題といわねばならない。
新嘗祭は太陽暦の「11月23日」で良いのか? [宮中祭祀]
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
新嘗祭は太陽暦の「11月23日」で良いのか?
(令和5年1月11日、水曜日)
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
今週月曜日の1月9日は「成人の日」で祝日だった。昭和のころは「1月15日」だったが、6日も早い。いまは「1月の第2月曜日」と祝日法で決められているからだ。
法律に従えば、年によっては「1月8日」もあり得ることになるが、松が明けて早々では、早過ぎないだろうか。25年前の改正はハッピー・マンデー制度で、余暇を増やそうとの趣旨からだが、いまのご時世、全国民が連休を満喫できるというわけではないだろう。
もともと「成人の日」が「1月15日」だったのは、元服の儀式が古代から小正月すなわち「1月15日」に行われてきたかららしい。
ということは、「1月の第2月曜日」の「成人の日」は、古代から1000年余におよぶ歴史を失ったということにならないだろうか。個人的には「1月15日」に戻してほしいと願っている。
▷太陽暦の日付の決め方
ただ、その場合、悩ましいのは、いまの太陽暦(グレゴリオ暦)の場合、1年の起点となる「1月1日」には、天文学的に見て、何の意味もないことである。春分の日、夏至、秋分の日、冬至は天文学的に定まるが、もっとも重要なはずの元日はそうではない。
太陰太陽暦と太陽暦では「小正月」の日は異なる。なぜそうなったのか。
古代ローマでは、太陽を崇拝するミトラ宗教が大きな教勢を誇っていて、冬至にあたる「12月25日」はミトラの誕生を祝う祭日だった。これに真っ向から対抗しようとしたのが、少数派のキリスト教徒だった。
異教徒の最大の祭りの日をわがものとし、クリスマスに仕立て上げようとしたのだ。聖書にはキリストの誕生が「12月25日」とは書いていないが、217年12月25日にキリスト誕生を祝う祭りを行った。これがクリスマスの始まりだった。
案の定、宗教紛争が火を噴き、なんとキリスト教が圧倒し、やがてローマの国教となった。キリストは「世の光」「義の太陽」と呼ばれ、381年のコンスタンチノープル会議第二回公会議で、「12月25日」がクリスマスと定められたということらしい。
「1月1日」は「12月25日」の1週間後ということになるのだが、そもそもなぜミトラ宗教では冬至の日を「1月1日」と定めなかったのだろう。その方がスッキリすると思うのだが…。
▷なぜ「11月23日」なのか
さて、前置きが長くなった。私が問題にしたいのは、宮中新嘗祭および大嘗祭のことである。古来、「11月の下の卯の日」に行われてきたが、いまは違う。変わったのは明治の改暦以後である。
東京に賢所が遷座するとともに、宮中祭祀の大改革が行われ、明治4年に行われた大嘗祭では、『明治天皇紀』によれば、「いまや皇業、古に復し、百事維れ新たなり。大嘗の大礼を行うに、あに旧慣のみを墨守し、有名無実の風習を襲用せんや」と批判され、現実主義的な整備が実行されたという。
翌5年11月9日、改暦の布告が行われた。太陰太陽暦が廃され、太陽暦が採用されることとなり、同年12月3日をもって6年1月1日とされた。5年の新嘗祭は旧暦の11月22日に行われたが、翌6年は太陽暦の「11月23日」だった。
こうして新嘗祭は「下の卯の日」ではなくなり、「11月23日」に固定され、およそひと月、季節感のズレが生じることになった。
欧化主義と合理主義による近代の改革を是とするのか、それとも古代からの歴史と伝統を重視すべきか、判断は難しい。ちなみに昨年の「11月23日」は旧暦では「10月30日」で「辰の日」だった。他方、旧暦の「11月23日」は太陽暦の「12月16日」で、「卯の日」だったらしい。
干支は古代中国・殷代に始まり、日本には古墳時代に伝来したという。今年は卯年だが、「卯」はウサギの跳躍のごとき発展を意味する。「卯の刻」は夜明けの6時、「卯月」は陰暦4月をいう。
『日本書紀』によれば、最初に新嘗祭を行ったのは皇極天皇で、642年11月16日のことだった。むろんこの日は「卯の日」だったという。
蛇足だが、令和の大嘗祭・大嘗宮の儀は令和元年11月14日の夕刻に始まった。旧暦なら「10月18日」だが、「卯の日」であった。
新嘗祭は太陽暦の「11月23日」で良いのか?
(令和5年1月11日、水曜日)
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
今週月曜日の1月9日は「成人の日」で祝日だった。昭和のころは「1月15日」だったが、6日も早い。いまは「1月の第2月曜日」と祝日法で決められているからだ。
法律に従えば、年によっては「1月8日」もあり得ることになるが、松が明けて早々では、早過ぎないだろうか。25年前の改正はハッピー・マンデー制度で、余暇を増やそうとの趣旨からだが、いまのご時世、全国民が連休を満喫できるというわけではないだろう。
もともと「成人の日」が「1月15日」だったのは、元服の儀式が古代から小正月すなわち「1月15日」に行われてきたかららしい。
ということは、「1月の第2月曜日」の「成人の日」は、古代から1000年余におよぶ歴史を失ったということにならないだろうか。個人的には「1月15日」に戻してほしいと願っている。
▷太陽暦の日付の決め方
ただ、その場合、悩ましいのは、いまの太陽暦(グレゴリオ暦)の場合、1年の起点となる「1月1日」には、天文学的に見て、何の意味もないことである。春分の日、夏至、秋分の日、冬至は天文学的に定まるが、もっとも重要なはずの元日はそうではない。
太陰太陽暦と太陽暦では「小正月」の日は異なる。なぜそうなったのか。
古代ローマでは、太陽を崇拝するミトラ宗教が大きな教勢を誇っていて、冬至にあたる「12月25日」はミトラの誕生を祝う祭日だった。これに真っ向から対抗しようとしたのが、少数派のキリスト教徒だった。
異教徒の最大の祭りの日をわがものとし、クリスマスに仕立て上げようとしたのだ。聖書にはキリストの誕生が「12月25日」とは書いていないが、217年12月25日にキリスト誕生を祝う祭りを行った。これがクリスマスの始まりだった。
案の定、宗教紛争が火を噴き、なんとキリスト教が圧倒し、やがてローマの国教となった。キリストは「世の光」「義の太陽」と呼ばれ、381年のコンスタンチノープル会議第二回公会議で、「12月25日」がクリスマスと定められたということらしい。
「1月1日」は「12月25日」の1週間後ということになるのだが、そもそもなぜミトラ宗教では冬至の日を「1月1日」と定めなかったのだろう。その方がスッキリすると思うのだが…。
▷なぜ「11月23日」なのか
さて、前置きが長くなった。私が問題にしたいのは、宮中新嘗祭および大嘗祭のことである。古来、「11月の下の卯の日」に行われてきたが、いまは違う。変わったのは明治の改暦以後である。
東京に賢所が遷座するとともに、宮中祭祀の大改革が行われ、明治4年に行われた大嘗祭では、『明治天皇紀』によれば、「いまや皇業、古に復し、百事維れ新たなり。大嘗の大礼を行うに、あに旧慣のみを墨守し、有名無実の風習を襲用せんや」と批判され、現実主義的な整備が実行されたという。
翌5年11月9日、改暦の布告が行われた。太陰太陽暦が廃され、太陽暦が採用されることとなり、同年12月3日をもって6年1月1日とされた。5年の新嘗祭は旧暦の11月22日に行われたが、翌6年は太陽暦の「11月23日」だった。
こうして新嘗祭は「下の卯の日」ではなくなり、「11月23日」に固定され、およそひと月、季節感のズレが生じることになった。
欧化主義と合理主義による近代の改革を是とするのか、それとも古代からの歴史と伝統を重視すべきか、判断は難しい。ちなみに昨年の「11月23日」は旧暦では「10月30日」で「辰の日」だった。他方、旧暦の「11月23日」は太陽暦の「12月16日」で、「卯の日」だったらしい。
干支は古代中国・殷代に始まり、日本には古墳時代に伝来したという。今年は卯年だが、「卯」はウサギの跳躍のごとき発展を意味する。「卯の刻」は夜明けの6時、「卯月」は陰暦4月をいう。
『日本書紀』によれば、最初に新嘗祭を行ったのは皇極天皇で、642年11月16日のことだった。むろんこの日は「卯の日」だったという。
蛇足だが、令和の大嘗祭・大嘗宮の儀は令和元年11月14日の夕刻に始まった。旧暦なら「10月18日」だが、「卯の日」であった。
大嘗宮の神座に座す神 [宮中祭祀]
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
大嘗宮の神座に座す神
(令和5年1月2日、月曜日)
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。
さて、昨年来、大嘗祭・大嘗宮の儀の神饌御親供の実態から、天皇による「米と粟の祭り」の意味を考えてきた。テキストに使用したのは、真弓常忠・皇學館大学名誉教授の『大嘗祭』である。考察を深める過程で、ひとつの大きな謎として浮かび上がってきたのは、先生が問いかける、大嘗宮の神座である。中央に置かれた神座はただひとつ、そこに座するのは如何なる神なのか、である。
話を進める前に、大嘗祭の「秘儀」について、書いておくことにする。大嘗祭、とりわけ大嘗宮で新帝がなさることは秘儀である。だから、一条兼良が書いたように「委しく記すに及ばず」「たやすく書きのすることあたはず」である。
しかしそれにしては酷すぎる。「米と粟の祭り」のはずが、「稲の祭り」とされ、オカルトチックな真床追衾論がまことしやかに徘徊している。誤解の上に誤解を重ねるのは許されないと思い、おっとり刀で挑み始めたのだが、皇室のイメージ・ダウンを狙う左派たちの真床追衾論より深刻なのが、保守派たちが信じ込んでいる「稲の祭り」論である。口をきわめて「米と粟」を訴えても、暖簾に腕押しの感が否めず、途方に暮れる。
秘儀であれば、詳細は書くべきではない。しかし誤りを正すには、書かざるを得ない。じつに悩ましい。
▷1 1座=1神なのか?
大嘗祭の秘中の秘といえば、真弓先生が問いかける、大嘗宮の中央に位置する神座である。先生は神座はただの一座だから1柱の神と考え、天照大神だと結論づけている。
しかしそうなのだろうか、私は違うのではないかと思う。そして、天皇の祭りの奥深さに打ち震える感慨と感動を覚えるのである。
真弓先生の推論の前提は、1神座=1柱の神という原則論である。しかしこれは絶対的とはいえないだろう。
たとえば、真弓先生が宮司として奉職した摂津国一之宮・住吉大社(大阪市住吉区)の場合を考えると、境内には第一本宮から第四本宮までのうち、第一、第二、第三本宮が東から西へ、大阪湾に向かって直列に配され、それぞれに住吉三神の底筒男命、中筒男命、表筒男命が祀られている。
これはまさに1座=1柱ということになる。余談だが、皇學館大学の神道博物館には、住吉大社から寄贈された、本殿神座として殿内に安置されていた御帳台が展示されている。江戸期に火災で焼失した本殿に代わり、火災を免れた摂社の神座が代用された。そのときのものとされる。ただし、大嘗宮にも登場する色鮮やかな八重畳などは復元品らしい。むろん1座である。〈http://kenkyu.kogakkan-u.ac.jp/museum/collection_museum.php〉
ところが、同じ住吉三神を祀るお宮でも、長門一宮・住吉神社(下関市)の本殿の場合は様相が異なる。
▷2 国民統合の国家儀礼
第一殿から第五殿までが、ほぼ東西に直線に連結され、それぞれに神座があり、それぞれの神が祀られている。そして第一殿に鎮まるのが住吉三神(底筒男命、中筒男命、表筒男命)である。つまり、3柱の神が1座の神として祀られているということになる。
もう一例を挙げると、近代になって創建された靖国神社の場合は、246万余柱の祭神が1座の神として祀られている。さまざまな立場の英霊が、かけがえのない命を国に捧げたという一点において、分け隔てなく、あたかも1柱の神のごとくに祀られている。
とするならば、大嘗宮の1座の神座をどのように理解すべきだろうか?
あくまで天照大神1神だとするなら、「天照大神、また天神地祇、諸神明にもうさく」と神前に祝詞が奏上されること、「米と粟」を供饌することをどのように説明するのか、説明できるのか?
真弓先生は、神座は1座で、神膳薦の枚手が10枚であることについて、神座に座すのは天照大神一神で、神膳を供薦する対象となる神々が多数おられるという解釈だが、十分に納得できるだろうか?
もし「天照大神、また天神地祇、諸神明」をあたかも1柱の神のごとくにまつり、それゆえ「米」のみならず「粟」を供饌し、直会なさるのだとしたら、どうだろう。これこそが天皇=スメラミコトによる国民統合の国家儀礼に相応しいということにならないだろうか?
だとしたとき、これを衆人環視のもと、公開で行わずに、誰も見ない聖域で、代々、「秘儀」として行われてきたことの意味をこそ噛みしめたいと思う。
記紀神話から読み解く大嘗祭論の限界 [宮中祭祀]
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
記紀神話から読み解く大嘗祭論の限界
(令和4年12月31日、土曜日)
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
大嘗祭の「粟の御飯(おんいい)」を再現する実験を繰り返し、真弓常忠・皇學館大学名誉教授の『大嘗祭』をテキストにしつつ、「米と粟」が捧げられる意味について考えてきた。
今日は大晦日なので、ここでひと区切りとしたい。
真弓先生の大嘗祭論は、事実に基づいて考察しようとしている。祝詞の文面、古典の記述を客観的に踏まえようとしている。しかしもっぱら「米」にばかり捉われ、大嘗祭、新嘗祭で「粟」が供される事実が見落とされている。
事実に基づいて考えようとしながら、結局のところ、事実の部分的つまみ食いとなり、そのため「米」中心の一面的な大嘗祭論を展開する結果を招いている。つくづく残念だ。
▷天孫降臨神話には異伝がある
真弓先生の関心は、大嘗宮の神座に祭られる神はどなたなのか、に移る。そして記紀神話に注目する。
先生の理解では、「大嘗宮の祭神は、天照大神および天神地祇と解」されるが、これは「神食薦に神膳を供薦する対象となる神々」であって、中央の神座に座す神ではないとされている。「大嘗宮の神座は中央に唯の一座であり、…神膳薦に盛り供えられる枚手の数は十枚である」のをどう考えるのか、が先生の関心事である。
先生は、戦前は海軍教授、戦後は大谷大学教授、同志社大学教授、仏教大学教授などを歴任した神話学者・三品彰英氏の学説を紹介している。すなわち、「天孫降臨神話には諸異伝があり、稲米収穫儀礼から大嘗祭に発達する段階に応じて祭神が変化し、それが神話では降臨を司令する神として投影している」というのである。
記紀の天孫降臨、斎庭の稲穂の神勅のくだりを読むと、なるほど「神話にはいくつかの異伝がある」ことが分かる。三品先生はこれを一覧表にまとめているのだが、天孫降臨が天照大神一神によって司令されたと書かれているのは、書紀の「第一の一書」だけで、異伝によっては、降臨を司令する神は天照大神とは限らないし、降臨する神もニニギノミコトとは限らない。授与される神器も、神勅も一様ではない。
これについて三品先生は、神話形成の過程を想定し、「大嘗宮の主神が天照大神とされるにいたった時点を反映している」としたうえで、「もっとも完成された段階は、『日本書紀』の第一の一書に降臨を司令する神を天照大神一神としていることによって窺えるように、天照大神が大嘗宮の主神となったと考えられ、その時期はこの所伝の成立した天武天皇の頃であろう」とする説を提示している。
▷記紀に描かれた2つの稲作起源神話
以前、神社界の専門紙に連載していたとき、大林太良・東大教授(神話学、民族学)の研究を紹介しつつ、記紀神話には稲作起源を説明する物語として、死体化生神話と天降り神話のふたつが描かれていることについて書いたことがある。
たとえば『古事記』では、高天原を追放された須佐之男命が出雲国の肥河の川上に下られる途中、食物を大気津比売神に乞う。女神は鼻や口や尻からさまざまなご馳走を出して奉った。しかし須佐之男命はこれを汚いと嫌い、殺害する。すると死体の頭部に蚕、両目に稲穂、両耳に粟、鼻に小豆、陰部に麦、尻に大豆が生った。神産巣日御祖命はこれを五穀の種とした、と記述されている。
「死体化生型神話」と呼ばれる類型の物語だが、興味深いことに、『日本書紀』の本文にはない。
もうひとつの稲作起源神話は三大神勅の1つである、斎庭の稲穂の神勅の物語で、『日本書紀』の天孫降臨の場面に登場するのだが、本文にはない。
一書の二によれば、天照大神は天忍穂耳尊の降臨に際して、手に宝鏡を持ち、これを天忍穂耳尊に授けられて「同床共殿して斎鏡とせよ」と語られる。いわゆる宝鏡奉斎の神勅である。そして大神は「わが高天原にある斎庭の穂をわが子に与えよ」と斎庭の稲穂の神勅を勅される。
真弓先生が指摘する通り、天照大神一神で瓊瓊杵尊を降臨させたとするのは『日本書紀』の一書一のみである。高皇産霊尊一神が降臨を指令している所伝さえある。天孫降臨神話全体のなかで、意外にも天照大神の影は薄く、このため、高天原神話の主神は高皇産霊尊であり、高皇産霊尊の神話と天照大神の神話とは本来、系統が異なる、とする説さえある。
▷ヨーロッパにまで連なる起源と系譜
斎庭の稲穂の神勅が興味深いのは、天孫降臨とともに語られていることである。神の死体から得られた作物が葦原中国に起源するのに対して、この物語では高天原から稲がもたらされる。大林先生によると、天神が子や孫を地上の統治者として山上に天降らせるという神話は朝鮮半島から内陸アジアに広く分布するという。
それどころか、遠くギリシア神話とも類似する。インド・ヨーロッパ語族の神話がアルタイ語族を媒介として、朝鮮半島経由で日本に渡来した可能性があると大林先生は解説する。ただ、母神が授けるのは、日本神話以外は麦であって、稲ではない。
つまり、天照大神から稲穂が授けられるとする要素は、高皇産霊尊を中心とする天孫降臨神話と元来は無関係で、東南アジアの稲作文化に連なる、と大林先生は説明している。朝鮮半島から内陸アジアに連なるアルタイ系遊牧民文化に属する高皇産霊尊の天降り神話と東南アジアに連なる天照大神の稲の神話が接触・融合して、天孫神話ができあがった、と大林先生は推理している。
ということは、天皇の祭りが南北アジアどころか、遠くヨーロッパに連なる起源と系譜のうえに続いてきたということになるだろう。
真弓先生は事実とは申せ、もっぱら記紀神話の記述に注目している。参考とした三品先生の研究は、考古学に民俗学や文化人類学など周辺の学の視点を採り入れ、深められたが、たとえば大林先生のような比較的新しい研究成果に学んだとしたら、もっと別の展開があり得たのではなかろうかと残念に思う。
▷「米と粟の祭り」から「稲の祭り」へ
真弓先生の大嘗祭論では、キーワードは稲、米、天照大神である。しかし先生が依拠する記紀神話の天孫降臨神話では、よく読めば天照大神の存在感は薄い。女神殺害の物語は五穀発生の物語であり、稲ではない。死体化生型神話が分布する東南アジアは焼畑農耕文化圏であり、たとえば台湾先住民パイワン族がそうであるように、粟食が一般化し、稲作が忌避されていることもある。
本来、天皇の社とされる伊勢の神宮では、1年365日、稲の祭りが行われ、最大の祭りとされる神嘗祭はその昔、倭姫命が御巡幸の折、鶴がくわえていた霊稲を大神に奉ったのが始まりとされているが、こうした鳥が稲穂をもたらしたとする「穂落神」の伝承は、焼畑農耕、粟栽培と結びつき、東南アジアで比較的よく保存されているという。不思議なことに、記紀には登場しない。
真弓先生の研究では、稲は稲としか表現されていないが、作物学の立場からいえば、陸稲もあれば水稲もある。天孫が稲穂を携えて山上に降られるという物語は、水稲ではなく、むしろ陸稲を想像させる。神話が伝わる高千穂は山そのものである。神宮のお田植え祭には東南アジアの焼畑農耕文化との共通性さえ指摘されている。
とした場合に、稲、米、天照大神で読み解こうとする真弓先生の大嘗祭論にはおのずと限界があると思わざるを得ない。換言すれば、「米と粟の祭り」であった大嘗祭がある時点で、「米の祭り」に解釈が変わったのかも知れない。そうであったとして、天皇は「米と粟」を捧げ続けている。実態は「米と粟」であり続けているのである。
では、良いお年を。
記紀神話から読み解く大嘗祭論の限界
(令和4年12月31日、土曜日)
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
大嘗祭の「粟の御飯(おんいい)」を再現する実験を繰り返し、真弓常忠・皇學館大学名誉教授の『大嘗祭』をテキストにしつつ、「米と粟」が捧げられる意味について考えてきた。
今日は大晦日なので、ここでひと区切りとしたい。
真弓先生の大嘗祭論は、事実に基づいて考察しようとしている。祝詞の文面、古典の記述を客観的に踏まえようとしている。しかしもっぱら「米」にばかり捉われ、大嘗祭、新嘗祭で「粟」が供される事実が見落とされている。
事実に基づいて考えようとしながら、結局のところ、事実の部分的つまみ食いとなり、そのため「米」中心の一面的な大嘗祭論を展開する結果を招いている。つくづく残念だ。
▷天孫降臨神話には異伝がある
真弓先生の関心は、大嘗宮の神座に祭られる神はどなたなのか、に移る。そして記紀神話に注目する。
先生の理解では、「大嘗宮の祭神は、天照大神および天神地祇と解」されるが、これは「神食薦に神膳を供薦する対象となる神々」であって、中央の神座に座す神ではないとされている。「大嘗宮の神座は中央に唯の一座であり、…神膳薦に盛り供えられる枚手の数は十枚である」のをどう考えるのか、が先生の関心事である。
先生は、戦前は海軍教授、戦後は大谷大学教授、同志社大学教授、仏教大学教授などを歴任した神話学者・三品彰英氏の学説を紹介している。すなわち、「天孫降臨神話には諸異伝があり、稲米収穫儀礼から大嘗祭に発達する段階に応じて祭神が変化し、それが神話では降臨を司令する神として投影している」というのである。
記紀の天孫降臨、斎庭の稲穂の神勅のくだりを読むと、なるほど「神話にはいくつかの異伝がある」ことが分かる。三品先生はこれを一覧表にまとめているのだが、天孫降臨が天照大神一神によって司令されたと書かれているのは、書紀の「第一の一書」だけで、異伝によっては、降臨を司令する神は天照大神とは限らないし、降臨する神もニニギノミコトとは限らない。授与される神器も、神勅も一様ではない。
これについて三品先生は、神話形成の過程を想定し、「大嘗宮の主神が天照大神とされるにいたった時点を反映している」としたうえで、「もっとも完成された段階は、『日本書紀』の第一の一書に降臨を司令する神を天照大神一神としていることによって窺えるように、天照大神が大嘗宮の主神となったと考えられ、その時期はこの所伝の成立した天武天皇の頃であろう」とする説を提示している。
▷記紀に描かれた2つの稲作起源神話
以前、神社界の専門紙に連載していたとき、大林太良・東大教授(神話学、民族学)の研究を紹介しつつ、記紀神話には稲作起源を説明する物語として、死体化生神話と天降り神話のふたつが描かれていることについて書いたことがある。
たとえば『古事記』では、高天原を追放された須佐之男命が出雲国の肥河の川上に下られる途中、食物を大気津比売神に乞う。女神は鼻や口や尻からさまざまなご馳走を出して奉った。しかし須佐之男命はこれを汚いと嫌い、殺害する。すると死体の頭部に蚕、両目に稲穂、両耳に粟、鼻に小豆、陰部に麦、尻に大豆が生った。神産巣日御祖命はこれを五穀の種とした、と記述されている。
「死体化生型神話」と呼ばれる類型の物語だが、興味深いことに、『日本書紀』の本文にはない。
もうひとつの稲作起源神話は三大神勅の1つである、斎庭の稲穂の神勅の物語で、『日本書紀』の天孫降臨の場面に登場するのだが、本文にはない。
一書の二によれば、天照大神は天忍穂耳尊の降臨に際して、手に宝鏡を持ち、これを天忍穂耳尊に授けられて「同床共殿して斎鏡とせよ」と語られる。いわゆる宝鏡奉斎の神勅である。そして大神は「わが高天原にある斎庭の穂をわが子に与えよ」と斎庭の稲穂の神勅を勅される。
真弓先生が指摘する通り、天照大神一神で瓊瓊杵尊を降臨させたとするのは『日本書紀』の一書一のみである。高皇産霊尊一神が降臨を指令している所伝さえある。天孫降臨神話全体のなかで、意外にも天照大神の影は薄く、このため、高天原神話の主神は高皇産霊尊であり、高皇産霊尊の神話と天照大神の神話とは本来、系統が異なる、とする説さえある。
▷ヨーロッパにまで連なる起源と系譜
斎庭の稲穂の神勅が興味深いのは、天孫降臨とともに語られていることである。神の死体から得られた作物が葦原中国に起源するのに対して、この物語では高天原から稲がもたらされる。大林先生によると、天神が子や孫を地上の統治者として山上に天降らせるという神話は朝鮮半島から内陸アジアに広く分布するという。
それどころか、遠くギリシア神話とも類似する。インド・ヨーロッパ語族の神話がアルタイ語族を媒介として、朝鮮半島経由で日本に渡来した可能性があると大林先生は解説する。ただ、母神が授けるのは、日本神話以外は麦であって、稲ではない。
つまり、天照大神から稲穂が授けられるとする要素は、高皇産霊尊を中心とする天孫降臨神話と元来は無関係で、東南アジアの稲作文化に連なる、と大林先生は説明している。朝鮮半島から内陸アジアに連なるアルタイ系遊牧民文化に属する高皇産霊尊の天降り神話と東南アジアに連なる天照大神の稲の神話が接触・融合して、天孫神話ができあがった、と大林先生は推理している。
ということは、天皇の祭りが南北アジアどころか、遠くヨーロッパに連なる起源と系譜のうえに続いてきたということになるだろう。
真弓先生は事実とは申せ、もっぱら記紀神話の記述に注目している。参考とした三品先生の研究は、考古学に民俗学や文化人類学など周辺の学の視点を採り入れ、深められたが、たとえば大林先生のような比較的新しい研究成果に学んだとしたら、もっと別の展開があり得たのではなかろうかと残念に思う。
▷「米と粟の祭り」から「稲の祭り」へ
真弓先生の大嘗祭論では、キーワードは稲、米、天照大神である。しかし先生が依拠する記紀神話の天孫降臨神話では、よく読めば天照大神の存在感は薄い。女神殺害の物語は五穀発生の物語であり、稲ではない。死体化生型神話が分布する東南アジアは焼畑農耕文化圏であり、たとえば台湾先住民パイワン族がそうであるように、粟食が一般化し、稲作が忌避されていることもある。
本来、天皇の社とされる伊勢の神宮では、1年365日、稲の祭りが行われ、最大の祭りとされる神嘗祭はその昔、倭姫命が御巡幸の折、鶴がくわえていた霊稲を大神に奉ったのが始まりとされているが、こうした鳥が稲穂をもたらしたとする「穂落神」の伝承は、焼畑農耕、粟栽培と結びつき、東南アジアで比較的よく保存されているという。不思議なことに、記紀には登場しない。
真弓先生の研究では、稲は稲としか表現されていないが、作物学の立場からいえば、陸稲もあれば水稲もある。天孫が稲穂を携えて山上に降られるという物語は、水稲ではなく、むしろ陸稲を想像させる。神話が伝わる高千穂は山そのものである。神宮のお田植え祭には東南アジアの焼畑農耕文化との共通性さえ指摘されている。
とした場合に、稲、米、天照大神で読み解こうとする真弓先生の大嘗祭論にはおのずと限界があると思わざるを得ない。換言すれば、「米と粟の祭り」であった大嘗祭がある時点で、「米の祭り」に解釈が変わったのかも知れない。そうであったとして、天皇は「米と粟」を捧げ続けている。実態は「米と粟」であり続けているのである。
では、良いお年を。
粟餅を食べたら、ふたたび疑問が湧いてきた [宮中祭祀]
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
粟餅を食べたら、ふたたび疑問が湧いてきた
(令和4年12月26日、月曜日)
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
年内最後の実験を試みた。
国産のもち粟を使用し、12時間吸水させたのち、今回はお茶の粉末を入れ、よくかき混ぜて、炊飯器の白米おこわモードで炊いた。炊き上がったら、すりこぎで餅につき、半分はそのまま丸め、残りは粒あんをつき入れてから丸めた。
画像の手前が前者で、奥が後者である。粒あんをつき入れたのは、神武東征のおりに作られたという「つき入れ餅」の故事を思い出したからである。にわかに船出することになり、あんころ餅をこしらえる時間的余裕がないため、いっしょにつき入れたという物語になっている。
▷なぜ粟餅にしないのか?
粟餅はわりと簡単に調理できて、なかなか美味しく出来上がった。ということで、あらためて疑問が湧いてきた。大嘗祭・新嘗祭に「米と粟」を神前に捧げるのに際して、米が強飯であるのはまだしも、粟をなぜ粟餅のかたちで供しないのか、ということである。
原則論からいえば、神饌というのは、血縁共同体もしくは地域共同体の主食が、神から与えられた命の糧として、もっとも美味しく食される形態で、供饌されるべきもののはずである。とするならば、粟は、台湾先住民パイワン族の粟の祭祀がそうであるように、粟餅として供されるべきものではなかろうか?
ところが、現実には、少なくとも今日では、宮中新嘗祭も大嘗祭も、竹折箸では扱いにくいにもかかわらず、蒸したままの御飯(おんいい)が大前に捧げられている。なぜなのか?
歴史的に考えると、『常陸国風土記』は粟の新嘗が古代、民間に存在したことを記録している。この粟の新嘗は、台湾先住民と同様に、粟の神に粟餅を捧げる儀礼であったろうことは十分に推測できる。同時に、粟の酒も供せられたのではなかろうか?
▷いつ、なぜ変わったのか?
天皇の祭祀が、粟の民と米の民とを統合する象徴的儀礼だとするなら、粟の餅と米の御飯、粟の酒と米の酒を神前に供することが元々の原型だったのではないかと私は想像する。
それがいつの日か、米も粟も蒸した御飯に調理法が統一され、酒は米だけを使用した白酒・黒酒に変わったのではないか? いつ、なぜ、そのように変えられたのか?
神饌調理の重大な変革は、宮中祭祀の根底を貫いているらしい陰陽五行思想によってもたらされたのか。それとも、天照大神を至高の神と仰ぐ一神教的な考え方によって、稲の儀礼として統一されていったということなのか?
答えを探るために、もう一度、真弓常忠・皇學館大学名誉教授の著書を読み込むことにしたい。ヒントが隠されているように思うからだ。(つづく)
大嘗祭の「相嘗」の意味──真弓常忠「大嘗祭」論から考える [宮中祭祀]
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
大嘗祭の「相嘗」の意味──真弓常忠「大嘗祭」論から考える
(令和4年12月20日、火曜日)
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
さきごろサッカーW杯が行われたカタールは人口250万人の9割が移民である。カタール国籍保持者のほとんどがスンニ派のムスリムで、イスラムが国教なのに、全人口で見るとムスリムの割合は7割を切る。非ムスリムのほとんどはキリスト教徒とヒンドゥーという。批判されている移民労働者の人権問題などには、宗教的な背景が見え隠れしている。
日本ではこの宗教的差別ということがなかなか分かりづらい。それは古来、天皇が天照大神ほか天神地祇を祀り、祈りを捧げてきたことと無縁ではないと思う。天皇は祭り主であると同時に、仏教の外護者であり、近代以降はキリスト教の社会事業を物心共に支援し続けてこられた。
▽誰と誰が「相嘗」するのか?
一視同仁。天皇にとっては、伝統的宗教を信ずるものであれ、舶来の宗教を信ずるものであれ、みな赤子なのである。その精神こそが日本の社会的秩序を平和に保ってきたのだと思う。そして、その精神を実践してきたのが天皇の祭りなのだと思う。天皇の祭りは、葦津珍彦が説いたように、国民統合の国家的儀礼なのだと思う。
しかし、神道学の研究者たちは、どういうわけか、そうは考えないらしい。
先日、取り上げたように、真弓常忠・皇学館大名誉教授が著書のなかで、大嘗宮の儀での「相嘗」について書いている。その内容はたいへん興味深い。
真弓先生は、天皇が「天照大神、又天神地祇」に祝詞を白されるのだから、天皇は天照大神ほか天神地祇に供饌されると解釈するのが妥当だと、事実に基づいて指摘したうえで、これを古典に「諸神の相嘗祭」(神祇令の義解)とも「皇神等相宇豆乃比奉り」(祝詞式)とも記述されていることの意味を問いかけている。
つまり、大嘗宮の儀で、天皇が供した新穀を、誰と誰が「相嘗」するのか、そのことが如何なる意義を持つのか、である。
▽真弓先生の限界
真弓先生は、国語学者の西宮一民・元皇學館大学学長との討論を重ねたうえでの結論として、以下のような見解を述べている。
「天皇が皇祖天照大神より賜った新穀を聞こしめすにあたって、まず諸神に献り、天照大神より賜った新穀にこもる霊質を、諸神との共食によって相互に補強せられるものと解するのである。つまり、相嘗とは、神と人と相互に『嘗』することにより、神々も天照大神の霊質をうけ、これを『嘗』する人もまた、大御神の霊質とともに相嘗の神々の霊質を以て補強するものと解するのである。かくして、天神地祇に奉られることは、神々の神性をも強化更新されるとともに、これを親らも『嘗』されて、天皇としての霊質を一層強化されるものである」
きわめて宗教的な説明でいささか分かりにくいが、要するに、「相嘗」とは天照大神と天皇との共食、諸神と天皇との共食であり、それは新穀にこもる霊力を神々も天皇もうけ、強化・更新することであり、それが「相嘗」の意味だということなのだろう。
真弓先生は、大嘗宮の儀で祭られる神は「天照大神、又天神地祇」と認めている。しかし、一方で、神事で捧げられるのは「稲」と考えている。であればこそ、これが限界なのだと思う。真弓先生の「相嘗」論には、見事に「粟」が抜けている。
▷「米と粟」を「相嘗」する意味
大嘗宮の儀で「米と粟の御飯(おんいい)」が捧げられることは疑いのない事実である。それなら、真弓先生の「相嘗」論では「粟」はどう説明されるのか、説明できるのか?
斎庭の稲穂の神勅によって、天照大神から賜った稲の新穀には、稲の霊力が備わっているとして、逆に、必ずしも「稲の神」ではない諸神が、なぜその「稲」を共食しなければならないのだろうか。なぜ「稲の霊力」を受けなければならないのか?
真弓先生の「相嘗」論は、「粟」は無かったことにしないと、とうてい成り立たない。「粟の神」は存在してはならないことになる。日本民族=稲作民族論、天照大神一神教の限界である。
たぶん古典に「諸神との相嘗祭」とあるのは、天照大神だけとの「相嘗」ではないことを強調しているのだと私は思う。真弓先生が説明するように、「天照大神、又天神地祇」と天皇との「相嘗」であることは当然だが、同時に「米と粟」を「相嘗」することにこそ祭儀の意義があるはずである。
真弓先生が説くような「稲の霊質」論では「米と粟の祭り」は説明できない。だから、勢い半ばオカルトチックな説明に傾くのだろう。稲作社会に根ざした宗教的儀礼という説明ではなく、「米と粟」による、一段と高い立場での国民統合の国家的儀礼であることに、なぜ気づけないものか?
▷日本だからこその諸宗教協力
余談だが、粟の祭りを行う台湾の先住民パイワン族は、稲作をタブーとしていたが、近代になり、稲作を行うようになったという。おそらく日本の統治が及ぶことになって、稲の神が受け入れられたのだろうと想像する。
バングラデシュの孤児院を支援するボランティア活動をしていたとき、チッタゴン周辺の孤児院の代表者たちを集めて、夕食会を開いたことがある。イスラム、ヒンドゥー、仏教と宗教はさまざまだが、そのため「同じ孤児院運営者として顔を合わせたこともない」という話に驚くと同時に、宗教的偏見のない日本人の可能性に気付かされたものだ。
今月に入り、世間はすっかりクリスマス・モードだが、弘前では昭和の時代から、カトリックとプロテスタントが協力し、「メサイヤ演奏会」が開催されてきた。旧教・新教の共催は世界的にみても珍しいと聞く。コロナの影響か、今年は行われないらしい。残念だ。
諸宗教の協力といえばWCRP(世界宗教者平和会議)の活動がある。日本という多神教的世界から生まれた団体は世界の平和を牽引している。その背景には間違いなく、天皇による天神地祇への「米と粟の祭り」があると私は思う。
カタールなど一神教の国ではあり得ない。熱心な信仰者ほど、むしろ違和感を覚えるのではないか? とすれば、天皇の「米と粟の祭り」について、もっと深く探究すべきだ。
一条兼良は「大嘗祭の祭神は皇祖天照大神」と主張していない [宮中祭祀]
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
一条兼良は「大嘗祭の祭神は皇祖天照大神」と主張していない
(令和4年12月18日、日曜日)
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
真弓常忠・皇學館大学名誉教授(故人)は著書の『大嘗祭』で、大嘗祭の大嘗宮の儀で祀られる神について諸説あることを解説し、その筆頭に天照大神説を掲げている。その根拠とされているのが、室町時代の公卿で、古今の有職故実に通じた不世出の古典学者・一条兼良の「代始和抄」であった。
兼良といえば、青年期に将軍から「白馬の節会はなぜアオウマノセチエと読むのか?」と訊ねられ、古典を引用して、たちどころに解答し、感心されたという逸話が残るほど、博覧強記の才人である。「代始和抄」は即位大嘗祭の解説書である。
当ブログは、令和の御代替わりのおり、これを何度か取り上げたのだが、泣く子も黙る兼良の解説書が「大嘗祭の祭神=天照大神」説の根拠となっているとあっては、これはあらためて読み返し、確認するしかない。
結論からいえば、「天照大神」説は資料の誤読ではないだろうか? 天照大神一神教に固まる研究者たちが兼良の神通力にあやかり、いわば虎の威を借りて、自説を主張しているのではないかとさえ疑われる。
▽「代始和抄」に祭神論はない
「代始和抄」の写しが国会図書館のデジタルコレクションに納められている。もともとは宮内大臣・渡辺千秋の蔵書だったものらしい。90ページほどに、御譲位、御即位、御禊行幸、大嘗会の4項目について、分かりやすく説明している。
大嘗宮の儀については、「大嘗会のこと」の後半に登場する。「中の丑の日」に「舞姫参入帳台の試し」が行われるとの説明に続き、「卯の日」の大嘗宮の儀に関する用語が説明される。そして廻立殿、膳殿、嘗殿などが簡単に説明されたあと、真弓先生も引用された一文が続いている。
「まさしく天照おほん神をおろし奉りて、天子みづから神食をすすめ申さるることなれば、一代一度の重事これにすぐべからず」
これをどう解釈すれば良いのかだが、真弓先生の著書には何の説明もない。
兼良は、皇祖天照大神をお迎えし、天皇が手づから供饌されるのだから、一世一度の重儀だと述べているのであって、祭神論を展開しているわけではない。天皇の祭りなら、皇祖を祀ることはいうまでもないが、皇祖のみが祀られるという根拠とすべきかどうか。大嘗祭の神は天照大神がすべてなのかどうか?
▽天照大神祭神論には無理がある
兼良はこのくだりで、「重事たるによりて、委しく記すに及ばず」「口伝さまざまなれば、たやすく書きのすることあたはず」と克明な説明を意識的に避けている。実際、祭神論のほか、供饌の儀も、御告文も、神饌御親供も、具体的な説明はない。博識の兼良にして、文章化していない事実があるということだ。
つまり、兼良の上記の一文をもって、皇祖天照大神のみを祀るという祭神論の根拠とすることには無理があるのではないか? だからこそ、真弓先生は、説を紹介するのみで、考察を加えなかったのだろう。
真弓先生はそのあと天皇の御告文(申し詞)に「天照大神、又天神地祇諸神明」(後鳥羽院宸記)とあることを根拠に、「天照大神はじめ天神地祇」を大嘗宮の祭神とする説は「そのまま肯定できる」と素直に認めているが、これは客観的事実に基づくストレートな解釈で、まったくその通りだと同意できる。
逆に、新帝が「伊勢の五十鈴の河上にます天照大神、また天神地祇、諸神明にもうさく」と奏上される事実が分かっていながら、祭神は天照大神だけと研究者たちが言い張る理由が私には分からない。
何度も繰り返し書いてきたように、天照大神のみを祀るのなら、大嘗祭の大嘗宮も新嘗祭の神嘉殿も不要だろう。祭場は皇祖を祀る賢所で十分である。現に皇族方のなかには、大嘗宮不要論さえあるが、研究者たちの天照大神祭神論に引きづられた結果ではないか? 天神地祇を祀るのなら、賢所での大嘗祭はあり得ないし、あってはならない。
▽隠されているもうひとつの論理
大嘗祭は天孫降臨神話を根拠に、斎庭の稲穂の神勅に基づいて厳修されると理解するのは一見、論理的であり、したがって大嘗祭の祭神=天照大神論とすることも演繹的にリーズナブルである。
しかしながら、それだけなら、新帝が米のほかに粟の新穀を供して、神人共食する必要はない。そんなことは少し考えれば分かることで、だから天照大神論者は「粟」を無視しようとするのだろう。理解の外にある事実は捻じ曲げられ、消去される。
大嘗祭には天孫降臨神話とは異なる、もうひとつ別の論理が隠されている。田中初夫・東京家政学院短大教授が『践祚大嘗祭 研究篇』で指摘しているように、古代律令「神祇令」の「即位の条」に、「およそ天皇、位に即きたまわば、すべて天神地祇を祭れ」と記されているのがそれであろう。
天皇には皇祖神の子孫というお立場だけでなく、国と民をひとつに統合するスメラミコトという機能がある。ならば、天神地祇を祭らなければならない。真弓先生が平野孝国を引用し、「あらゆる神を祀って頂く御資格」に言及されているのがそれである。
だから、天皇の祝詞は「天照大神、また天神地祇、諸神明に」となり、神饌は米のみならず粟も捧げられるのではないか? 研究者たちがいつまで経っても、天孫降臨・稲穂の神勅にばかりこだわり、大嘗祭の神=皇祖天照大神論に固執しているのは、知的怠慢、思考停止以外のなにものでもない。兼良を誤読し、引用するなど、もってのほかであろう。
一条兼良は「大嘗祭の祭神は皇祖天照大神」と主張していない
(令和4年12月18日、日曜日)
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
真弓常忠・皇學館大学名誉教授(故人)は著書の『大嘗祭』で、大嘗祭の大嘗宮の儀で祀られる神について諸説あることを解説し、その筆頭に天照大神説を掲げている。その根拠とされているのが、室町時代の公卿で、古今の有職故実に通じた不世出の古典学者・一条兼良の「代始和抄」であった。
兼良といえば、青年期に将軍から「白馬の節会はなぜアオウマノセチエと読むのか?」と訊ねられ、古典を引用して、たちどころに解答し、感心されたという逸話が残るほど、博覧強記の才人である。「代始和抄」は即位大嘗祭の解説書である。
当ブログは、令和の御代替わりのおり、これを何度か取り上げたのだが、泣く子も黙る兼良の解説書が「大嘗祭の祭神=天照大神」説の根拠となっているとあっては、これはあらためて読み返し、確認するしかない。
結論からいえば、「天照大神」説は資料の誤読ではないだろうか? 天照大神一神教に固まる研究者たちが兼良の神通力にあやかり、いわば虎の威を借りて、自説を主張しているのではないかとさえ疑われる。
▽「代始和抄」に祭神論はない
「代始和抄」の写しが国会図書館のデジタルコレクションに納められている。もともとは宮内大臣・渡辺千秋の蔵書だったものらしい。90ページほどに、御譲位、御即位、御禊行幸、大嘗会の4項目について、分かりやすく説明している。
大嘗宮の儀については、「大嘗会のこと」の後半に登場する。「中の丑の日」に「舞姫参入帳台の試し」が行われるとの説明に続き、「卯の日」の大嘗宮の儀に関する用語が説明される。そして廻立殿、膳殿、嘗殿などが簡単に説明されたあと、真弓先生も引用された一文が続いている。
「まさしく天照おほん神をおろし奉りて、天子みづから神食をすすめ申さるることなれば、一代一度の重事これにすぐべからず」
これをどう解釈すれば良いのかだが、真弓先生の著書には何の説明もない。
兼良は、皇祖天照大神をお迎えし、天皇が手づから供饌されるのだから、一世一度の重儀だと述べているのであって、祭神論を展開しているわけではない。天皇の祭りなら、皇祖を祀ることはいうまでもないが、皇祖のみが祀られるという根拠とすべきかどうか。大嘗祭の神は天照大神がすべてなのかどうか?
▽天照大神祭神論には無理がある
兼良はこのくだりで、「重事たるによりて、委しく記すに及ばず」「口伝さまざまなれば、たやすく書きのすることあたはず」と克明な説明を意識的に避けている。実際、祭神論のほか、供饌の儀も、御告文も、神饌御親供も、具体的な説明はない。博識の兼良にして、文章化していない事実があるということだ。
つまり、兼良の上記の一文をもって、皇祖天照大神のみを祀るという祭神論の根拠とすることには無理があるのではないか? だからこそ、真弓先生は、説を紹介するのみで、考察を加えなかったのだろう。
真弓先生はそのあと天皇の御告文(申し詞)に「天照大神、又天神地祇諸神明」(後鳥羽院宸記)とあることを根拠に、「天照大神はじめ天神地祇」を大嘗宮の祭神とする説は「そのまま肯定できる」と素直に認めているが、これは客観的事実に基づくストレートな解釈で、まったくその通りだと同意できる。
逆に、新帝が「伊勢の五十鈴の河上にます天照大神、また天神地祇、諸神明にもうさく」と奏上される事実が分かっていながら、祭神は天照大神だけと研究者たちが言い張る理由が私には分からない。
何度も繰り返し書いてきたように、天照大神のみを祀るのなら、大嘗祭の大嘗宮も新嘗祭の神嘉殿も不要だろう。祭場は皇祖を祀る賢所で十分である。現に皇族方のなかには、大嘗宮不要論さえあるが、研究者たちの天照大神祭神論に引きづられた結果ではないか? 天神地祇を祀るのなら、賢所での大嘗祭はあり得ないし、あってはならない。
▽隠されているもうひとつの論理
大嘗祭は天孫降臨神話を根拠に、斎庭の稲穂の神勅に基づいて厳修されると理解するのは一見、論理的であり、したがって大嘗祭の祭神=天照大神論とすることも演繹的にリーズナブルである。
しかしながら、それだけなら、新帝が米のほかに粟の新穀を供して、神人共食する必要はない。そんなことは少し考えれば分かることで、だから天照大神論者は「粟」を無視しようとするのだろう。理解の外にある事実は捻じ曲げられ、消去される。
大嘗祭には天孫降臨神話とは異なる、もうひとつ別の論理が隠されている。田中初夫・東京家政学院短大教授が『践祚大嘗祭 研究篇』で指摘しているように、古代律令「神祇令」の「即位の条」に、「およそ天皇、位に即きたまわば、すべて天神地祇を祭れ」と記されているのがそれであろう。
天皇には皇祖神の子孫というお立場だけでなく、国と民をひとつに統合するスメラミコトという機能がある。ならば、天神地祇を祭らなければならない。真弓先生が平野孝国を引用し、「あらゆる神を祀って頂く御資格」に言及されているのがそれである。
だから、天皇の祝詞は「天照大神、また天神地祇、諸神明に」となり、神饌は米のみならず粟も捧げられるのではないか? 研究者たちがいつまで経っても、天孫降臨・稲穂の神勅にばかりこだわり、大嘗祭の神=皇祖天照大神論に固執しているのは、知的怠慢、思考停止以外のなにものでもない。兼良を誤読し、引用するなど、もってのほかであろう。
大嘗祭・新嘗祭に祀られる神──真弓常忠「大嘗祭」論から考える [宮中祭祀]
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
大嘗祭・新嘗祭に祀られる神──真弓常忠「大嘗祭」論から考える
(令和4年12月11日、日曜日)
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
令和の御代替わりのおり、國學院大學博物館で企画展が行われた。展示は「米」だけでなく、「粟」も含まれ、さすがは國學院だと感心した。「稲の祭り」論で凝り固まる人たちとはちょっと違う。
ただ、このとき行われていたミニ講演会の中身はいただけなかった。若い研究者は、大嘗祭は天皇が皇祖天照大神を祀ると断言していた。画竜点睛を欠くとはこのことである。
なぜそう理解するのか、私にはまったく理解できなかった。「皇祖を祀る」のなら、なぜ「米と粟」を捧げなければならないのか、なぜ「粟」なのか、説明が十分でない。
▷祝詞と神座
このところ繰り返し学んでいる真弓常忠・皇學館大学名誉教授(故人)の『大嘗祭』を読んで、少しは納得できた。神道学者はそもそも「粟」を無視している。
真弓先生は著書のなかで、大嘗祭の本質を考えるためには、大嘗宮の儀にどのような神が祭られていたかを考察する必要があるとしたうえで、以下の4説があったことを紹介している。
1、皇祖天照大神とする説
一条兼良『代始和抄』には、「まさしく天照おほん神をおろし奉りて…」とある。
2、天照大神はじめ天神地祇とする説
『後鳥羽院宸記』に大嘗祭の御告文(祝詞)が引用され、「天照大神、又天神地祇諸神明」とある。以後もおおむね同様。
3、悠紀・主基それぞれ別の神とする説
たとえば、悠紀は天神、主基は地祇を祀るなどの説があったが、三浦周行は平安期の資料の対句表現を誤認した結果と批判している。つまり、悠紀・主基とも同じ神と考えられるが、それなら如何なる神かと真弓先生は畳みかける。
真弓先生は、2説は現に祝詞に「天照大神および天神地祇」とあるのだから、そのまま肯定できるとし、そのうえで後鳥羽院以前、太古以来、そうだったのかと問いかけている。『令義解』が撰された天長年間には「天神地祇を祭る」とする観念があったと見なければならないけれども、大嘗宮の神座は一座のみで、それでいて神食薦に供えられる枚手は10枚あるのをどう理解すべきか、というのである。
そして、大嘗祭・新嘗祭の当日の朝に、304座の神々に幣帛を奉る由縁を述べる祝詞に、「皇御孫命の大嘗聞こしめさむための故」と目的が明示されていることから、「新穀を至尊に供する」ために「諸神の相嘗祭」が行われるものと解釈できると真弓先生は説明している。
4、御膳八神を祭るとする説
御膳八神は、悠紀田・主基田の側などに祭られる神である。だが、真弓先生は、神饌の準備過程で祭られる神であって、大嘗宮に祭られる神とは考えられないと批判している。
そのうえで、真弓先生は、平野孝国の「天皇には全国の神々をお祀りになる特別の御資格有り」とし、「天皇にあらゆる神を祀って頂く御資格をお与えする唯一の機会は、大嘗祭を除いてはありえぬ」とする理解を紹介し、「現に『天照大神、又天神地祇』に祝詞を白されているのであるから、天照大神をはじめ、天神地祇に神膳を献るものとするのが妥当であろう」と一応、結論づけている。
要するに、祝詞と神座という客観的事実から、真弓先生は、大嘗祭・新嘗祭の祭神は、主神が皇祖天照大神であり、天神地祇が相嘗をすると理解するらしい。日本民族=稲作民族論、天照大神一神教的神道論、大嘗祭・新嘗祭=「稲の祭り」論に立つならば、当然の帰結かと思われるが、神饌に「米と粟」が供される厳たる事実が相変わらず見落とされているということになる。
しかし真弓先生の祭神論はこれでは終わらない。「相嘗」とは何かを先生は探求し続けるのである。(つづく)
大嘗祭・新嘗祭に祀られる神──真弓常忠「大嘗祭」論から考える
(令和4年12月11日、日曜日)
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
令和の御代替わりのおり、國學院大學博物館で企画展が行われた。展示は「米」だけでなく、「粟」も含まれ、さすがは國學院だと感心した。「稲の祭り」論で凝り固まる人たちとはちょっと違う。
ただ、このとき行われていたミニ講演会の中身はいただけなかった。若い研究者は、大嘗祭は天皇が皇祖天照大神を祀ると断言していた。画竜点睛を欠くとはこのことである。
なぜそう理解するのか、私にはまったく理解できなかった。「皇祖を祀る」のなら、なぜ「米と粟」を捧げなければならないのか、なぜ「粟」なのか、説明が十分でない。
▷祝詞と神座
このところ繰り返し学んでいる真弓常忠・皇學館大学名誉教授(故人)の『大嘗祭』を読んで、少しは納得できた。神道学者はそもそも「粟」を無視している。
真弓先生は著書のなかで、大嘗祭の本質を考えるためには、大嘗宮の儀にどのような神が祭られていたかを考察する必要があるとしたうえで、以下の4説があったことを紹介している。
1、皇祖天照大神とする説
一条兼良『代始和抄』には、「まさしく天照おほん神をおろし奉りて…」とある。
2、天照大神はじめ天神地祇とする説
『後鳥羽院宸記』に大嘗祭の御告文(祝詞)が引用され、「天照大神、又天神地祇諸神明」とある。以後もおおむね同様。
3、悠紀・主基それぞれ別の神とする説
たとえば、悠紀は天神、主基は地祇を祀るなどの説があったが、三浦周行は平安期の資料の対句表現を誤認した結果と批判している。つまり、悠紀・主基とも同じ神と考えられるが、それなら如何なる神かと真弓先生は畳みかける。
真弓先生は、2説は現に祝詞に「天照大神および天神地祇」とあるのだから、そのまま肯定できるとし、そのうえで後鳥羽院以前、太古以来、そうだったのかと問いかけている。『令義解』が撰された天長年間には「天神地祇を祭る」とする観念があったと見なければならないけれども、大嘗宮の神座は一座のみで、それでいて神食薦に供えられる枚手は10枚あるのをどう理解すべきか、というのである。
そして、大嘗祭・新嘗祭の当日の朝に、304座の神々に幣帛を奉る由縁を述べる祝詞に、「皇御孫命の大嘗聞こしめさむための故」と目的が明示されていることから、「新穀を至尊に供する」ために「諸神の相嘗祭」が行われるものと解釈できると真弓先生は説明している。
4、御膳八神を祭るとする説
御膳八神は、悠紀田・主基田の側などに祭られる神である。だが、真弓先生は、神饌の準備過程で祭られる神であって、大嘗宮に祭られる神とは考えられないと批判している。
そのうえで、真弓先生は、平野孝国の「天皇には全国の神々をお祀りになる特別の御資格有り」とし、「天皇にあらゆる神を祀って頂く御資格をお与えする唯一の機会は、大嘗祭を除いてはありえぬ」とする理解を紹介し、「現に『天照大神、又天神地祇』に祝詞を白されているのであるから、天照大神をはじめ、天神地祇に神膳を献るものとするのが妥当であろう」と一応、結論づけている。
要するに、祝詞と神座という客観的事実から、真弓先生は、大嘗祭・新嘗祭の祭神は、主神が皇祖天照大神であり、天神地祇が相嘗をすると理解するらしい。日本民族=稲作民族論、天照大神一神教的神道論、大嘗祭・新嘗祭=「稲の祭り」論に立つならば、当然の帰結かと思われるが、神饌に「米と粟」が供される厳たる事実が相変わらず見落とされているということになる。
しかし真弓先生の祭神論はこれでは終わらない。「相嘗」とは何かを先生は探求し続けるのである。(つづく)
前の10件 | -