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憲法理論は法廷闘争の方便か──百地章日大教授の拙文批判を読む その7 [百地章天皇論]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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 憲法理論は法廷闘争の方便か
 ──百地章日大教授の拙文批判を読む その7
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 月刊「正論」3月号に掲載された百地先生の拙文批判を読み続けています。前回に引き続き、先生が専門とする政教分離について考えます。

 突然ですが、私は学生のころ、しょっちゅう風邪をひきました。きまって扁桃腺炎を併発し、高熱に悩まされ、ぜんそく症状を引き起こしました。ほとほと困り果てました。

 20年以上、お付き合いした主治医は名医中の名医でした。ふつうの医者なら、解熱剤や気管支拡張剤などを処方してすませるでしょうが、主治医は違っていました。

 主治医が投薬のほかに、私にくれたのは、自分も長年愛用しているというタワシでした。「皮膚を摩擦して鍛え、風邪にかからない体質を作りなさい」というのです。

 おかげで、いつの間にか滅多に風邪をひかなくなりました。実の息子以上に可愛がっていただき、海外旅行もご一緒した、いまは亡き主治医に、感謝の言葉もありません。

 熱が出たから解熱剤、風邪には抗生物質という対症療法は、持続可能な医療ビジネスという観点からは好ましいでしょう。タワシでは医者は一文の得にもなりません。けれども安易なモグラたたきは、患者になんら根本的解決を与えず、国民医療費を増大させ、抗生物質の効かない耐性菌の恐怖を招きます。

「闘い」の人である百地先生の憲法論にも、そのような側面がないでしょうか?


▽1 モグラたたきの政教分離論

 先生の著書の1つに、一般読書向けに書かれた『憲法の常識 常識の憲法』があります。「第1章 国家と憲法」「第2章 占領下に作られた日本国憲法」「第3章 象徴天皇制と国民主権」と続き、第7章で「政教分離について」が取り上げられています。

 書き出しは「政教分離とは何か?」で、「『政教分離』をめぐる混乱」という小見出しのあとに、以下のような文章がつづられています。

「政教分離とは、一般に、国家と宗教の結合を禁止し、信教の自由を保障するための制度であるといわれる。しかしながら、具体的に何が政教分離であり、いかなる場合に政教分離違反が生ずるかという問題になると、なかなか意見は一致しない」

 政教分離の定義をめぐるこの文章は、百地先生らしさがにじみ出ているように思います。

 まず憲法に定められた政教分離規定がある。制度の目的は、信教の自由を保障することにある。しかし現実には、定義が一致していないために、混乱が生じている、というのです。

 つまり、議論の出発点として憲法があり、社会的混乱はそのあとに存在します。その逆ではありません。最初に社会的混乱があって、そのために政教分離という憲法上の制度が生まれた、という説明ではないのです。

 この一節の最後を、百地先生は

「このような混乱を解決するためにも、政教分離とはいったい何なのか、改めて考えてみる必要があると思われる(詳しくは拙著『政教分離とは何か─争点の解明─』)。」

 と締めくくっていますが、当メルマガでしばしば取り上げてきた、この参考資料についても同様です。

 先生の『政教分離とは何か』は、いみじくもサブタイトルが「争点の解明」とされているように、政教分離制度の成り立ちの背景ではなくて、政教分離をめぐる対立・論争・訴訟問題をテーマにしています。著書の大部分は靖国訴訟、大嘗祭訴訟に割かれています。

 なぜ「国家と宗教の結合を禁止し、信教の自由を保障するための制度」が必要なのか、必要とされるようになったのか、という意味での「政教分離とは何か」の説明は、先生の著書には見当たりません。

 そのため、先生の政教分離論は「争点」の「解明」となり、憲法解釈をめぐる法律論争が主たるテーマとなります。「闘い」の人を自任する先生ならでは、です。激しい調子で拙文を批判するのとも通じるものがあります。

 目の前に現れたモグラを叩きのめす対症療法が、先生の政教分離論なのでしょう。


▽2 異なる価値観を激しく排除する矛盾

 しかしこれは大きな矛盾です。

 政教分離は「信教の自由を保障するための制度である」というからには、憲法以前の問題として、信教の自由が脅かされかねない社会的な現実があるということです。

 1つの神、1つの信仰だけがあるというのではなくて、複数の神と複数の信仰が社会に存在するということです。

 それら複数の信仰のそれぞれの価値を同等に認め、すべての人々が平安な精神生活を送れるように、国家は特定の宗教との結びつくのではなくて、国民の信教の自由を保障しなければならない、ということになります。

 百地先生は「信教の自由の保障するための制度」という定義を否定しているわけではありません。だとすれば、社会にはいろんな考えがあり、人それぞれ価値観が異なることを認めるということに、反対ではないはずです。

 けれども、もしそうであるなら、前回、申し上げたように、なぜ横田耕一九大名誉教授などを「一部学者」と突き放さなければならないのか、なぜ私を「粗雑な頭脳」と切り捨てるのでしょうか?

 憲法とは、国家、社会の基本的あり方を定めるものであり、国民の生活のありようを律するものでしょうが、先生の憲法理論は、憲法をめぐる訴訟に勝つための便法であって、先生ご自身の生き方とは別の次元にあるのではないでしょうか?

 少なくとも千年以上の歴史を持つ、日本の天皇のあり方とは異質のように思います。


▽3 昭和天皇のご下問「双方に死者は出たか?」

 大学時代のサークルの先輩に、危機管理の専門家として知られる佐々淳行初代内閣安全保障室長がいます。

 佐々さんは昭和44年の東大安田講堂事件の警備を指揮し、そのときの体験を『東大落城』に記録しています。

 私が興味を持ったのは、昭和天皇のエピソードです。

──安田講堂の攻防が決着したあと、秦野章警視総監が内奏のため参内した。昭和天皇から御嘉賞のお言葉があれば、機動隊員の士気昂揚につながると期待されたが、帰庁した秦野氏はけげんそうな表情を浮かべていた。

「天皇陛下ってえのはオレたちとちょっと違うんだよなァ。……『双方に死者は出たか?』と御下問があった。幸い双方に死者はございませんとお答えしたら、たいへんお喜びでな、『ああ、それは何よりであった』と仰せなんだ」

 加藤雅信名古屋大学教授(当時。民法)は『天皇-昭和から平成へ。歴史の舞台はめぐる(日本社会入門1)』のなかで、昭和天皇はすべての国民を赤子ととらえ、機動隊と学生の攻防をまるで自分の息子の兄弟ゲンカのように見ておられた、というように解説していますが、同感です。

 すべての民のために、公正かつ無私なる祈りを捧げてこられたのが、天皇です。たとえ刃向かうものであろうと、一様に祈りを捧げるのが天皇です。敵も味方もありません。

 日本列島には古来、さまざまな民がおり、さまざまな暮らしがあります。さまざまな神がいます。天皇は、稲作民の米と畑作民の粟を、皇祖神のみならず天神地祇に捧げ、「国中平らかに安らけく」と祈られます。古代においては仏教の守護者となり、近代以降はキリスト教の社会事業を支援する最大のパトロンでした。

 天皇の祭祀こそ、古来、信教の自由を保障する要であり、天皇の存在があればこそ、日本では深刻な宗教対立を経験することなく、宗教的共存が図られてきたのだと思います。

 異端を弾圧し、魔女裁判を行い、異教徒を殺害し、異教世界を侵略し、異教文化を破壊してきた一神教世界の政教分離論と一律に論ずるべきではありません。

 宮中祭祀=「皇室の私事」、大嘗祭=宗教的儀礼とするような百地先生流の政教分離論を克服していく必要があるのだと思います。そのためには学問研究の深化が求められます。

 つづく。
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コンクラーベで思い出した白柳枢機卿の信仰──百地章日大教授の拙文批判を読む その6 [百地章天皇論]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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 コンクラーベで思い出した白柳枢機卿の信仰
 ──百地章日大教授の拙文批判を読む その6
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 百地章日大教授が月刊「正論」3月号にお書きになった拙文批判について、検証しています。今回は、先生が専門とされている政教分離について、ほんの少しだけ考えてみます。

 その前に、新しいローマ教皇が選出されましたので、そのことについて書くことにします。


▽1 5人の日本人枢機卿
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 第265代ローマ教皇ベネディクト16世の退位に伴い、教皇選挙(コンクラーベ)が行われ、13日、アルゼンチン人のブエノスアイレス大司教ホルヘ・マリオ・ベルゴリオ枢機卿が選出されました。新教皇はフランシスコ1世を名乗ることとなりました。

 コンクラーベは世界から集まった、100人を超える枢機卿によって行われましたが、参加できる日本人の枢機卿は今回はいませんでした。

 過去には5人の日本人枢機卿がいました。

 土井辰雄元東京大司教(1892―1970年)、田口芳五郎元大阪大司教(1902―1978年)、里脇浅次郎元長崎大司教(1904―1990年)、白柳誠一元東京大司教(1928―2009年)、濱尾文郎元横浜教区司教(1930―2007年)の5人です。

 田口、里脇両大司教は、キリシタンの歴史を伝え、遠藤周作の名作『沈黙』の舞台となった長崎県外海町(いまは長崎市)の出身です。そもそもキリスト教人口が少ない日本で、同じ町から2人の高位聖職者を輩出しているのは、それだけ長い、キリスト教色の強い、この地の歴史を感じさせます。

 濱尾大司教は濱尾四郎子爵の三男だそうですが、戦時中に母親が改宗した影響で、戦後、兄の実氏とともに洗礼を受けたといわれます。実氏は今上陛下が皇太子時代の東宮傳育官で、東宮侍従となってのちは現在の皇太子、秋篠宮殿下の教育にも携わりました。

 土井、白柳、濱尾のお三方はそれぞれコンクラーベに参加しているようです。


▽2 地球に「感謝」することはできない

 私が面識を得たのは、白柳枢機卿でした。

 そのころの白柳枢機卿は、世界宗教者平和会議(WCRP)日本委員会理事長という、もうひとつの顔をもっていました。

「カトリックというより、立正佼成会に近い」

 と信徒たちに囁かれるほど、庭野日敬立正佼成会開祖の提唱で始まったWCRPの諸宗教協力を熱心に展開しました。

 西暦2000年を契機に、最貧国の債務を帳消しにしようという「ジュビリー2000」の国際運動を、WCRPが強力に展開したのも、白柳枢機卿の指導力があってのことだったと思います。

 白柳枢機卿について、私が興味を持ったのは、それから数年後、WCRP日本委員会内で「地球感謝の日」制定推進運動参加の是非が問われたときです。

 この運動は、1972(昭和47)年に国連環境会議が「人間環境宣言」を採択し、「環境の日」とされている6月5日を、「地球感謝の日」として制定し直し、環境保護運動を世界的に推進しようとするものです。

 日本委員会に結集する諸宗教の代表者たちの多くは、とりわけ日本の伝統宗教の代表者たちは賛同し、盛り上がったのですが、理事長の白柳枢機卿はなかなか首を縦に振りません。

 なぜ賛成しないのか、カトリックが主導した「ジュビリー2000」はわれわれも賛成したではないか、という不満の声も聞かれました。

 都内で関連するイベントがあったとき、直接、白柳枢機卿に質問してみました。すると、なるほど、と思われる答えが返ってきました。それは

「あなたには私のほかに神があってはならない」

 とする、一神教に特有の信仰問題でした。

「キリスト教は神に感謝することはあっても、地球に感謝することはありません。感謝するというのなら、地球ではなく、地球を創ってくださった神に対して、行われます」

 地球への「感謝」は信仰的に受け入れられないということなのでした。枢機卿はぶしつけな私の質問に、じつに丁寧に答えられました。


▽3 唯一神信仰と異なる拝礼を国家に要求されたら

 唯一の神を信じるキリスト教徒にとって、それ以外のものに「拝礼」することは信仰上、不可能です。もし「拝礼」を要求されたとしたら、熱心な信徒であればあるほど、深刻な悩みを抱えることになるでしょう。唯一神への信仰を捨てることと同じだからです。

 亡き友人の葬儀でも、戦没者追悼でも同じことがいえます。キリスト者は、友人や戦没者の御霊に祈るのではありません。祈りの対象は唯一神以外にないからです。キリスト者は唯一神に対して、死者の魂の安寧を祈るのです。

 宮中祭祀も同じことがいえるでしょう。大嘗祭が神道の神に祈りを捧げる宗教儀式だとするなら、キリスト教徒は抵抗を感じるに違いありません。

 もしそのようなキリスト者に対して、信仰に抵触するような祈りを、国家が要求したとしたら、どうすべきなのか、ということが、キリスト者には大きな問題となります。キリスト者にとっての国家と宗教をめぐる政教問題です。

 これは、同じ神社の境内に八幡様もお稲荷さんも神明社も祀られるというような日本的な多神教世界では分かりづらいところですが、一神教の信仰者なればこそ、異教の存在を意識し、他者による圧迫を意識し、信教の自由を確保するため、国家に宗教的中立性を要求するのです。

 信教の自由を制度的に保障するために、厳格な政教分離が要求されると考えるのは、間違いなく、一神教的な発想が背景にあります。政教分離問題とは、つまるところキリスト教問題といえます。

 日本の歴史のなかで、国家と宗教のあり方が問われた大きな事件として、まっ先に昭和7年の上智大学生靖国神社参拝拒否事件が取り上げられるのは、きわめて象徴的です。カトリック信徒が戦没者を祀る靖国神社に参拝すべきかどうか、は信仰上の大問題でした。

 結局、バチカンは画期的なことに、靖国神社での国家的儀礼と神社での宗教的礼拝とを区別したうえで、靖国神社で行われる儀式の意味が歴史的に変化していることを認め、国民儀礼として行われる靖国神社の儀礼に、信徒が参加することを許したのでした。

 これが1936年の指針「祖国に対する信者のつとめ」でした。


▽4 敵対者を一刀両断に切り捨てる「反天皇」的姿勢

 前置きが長くなりました。百地先生の拙文批判のなかで、気になることがあります。

 それは、

「斎藤氏のいう断絶説など、天皇制否定論者の横田耕一教授などごく一部学者の私的学説にとどまり」

 と、横田九州大学名誉教授の固有名詞を挙げ、突き放していることです。

 私が一部学者の説に乗っかって、「断絶説」を唱えていると、意図的かどうかは別にして、曲解しているようにも見えます。

 私がいう「1・5代」象徴天皇論が「一部」にとどまる、という見方も誤っています。それどころか、昭和40年代以降、行政全体に深く浸透したのが今日の皇室の危機を招いたのであり、大きな転機となったのは、先生が

「『廃棄』されたかどうか、真偽の程は定かでない」

 と関心を示そうともしない、昭和50年の依命通牒の「破棄」でした。

 それはともかくとして、日本のキリスト教界(白柳枢機卿とは異なり、プロテスタント)と関係が深く、しばしば百地先生の論考にも取り上げられている横田名誉教授がなぜ反天皇的なのか、を内在的に検証せずに、切り捨てるのは、私を

「粗雑な頭脳」

 と罵り、一刀両断にするのと同様に、注目されます。

 なぜなら、そのような姿勢こそ、逆に「反天皇的」だと思うからです。

 最後に蛇足ながら、補足しますが、

「地球には感謝しない」

 と言い切った白柳枢機卿が、興味深いことに、神社で玉串拝礼していました。

 WCRPの会合はしばしば著名な神社やお寺の会館などで開かれます。神社での場合は、会議の前に、参加者は神社に正式参拝します。そんなとき、理事長の白柳枢機卿は代表として、神前に玉串を捧げていました。プロテスタントの代表者が拝殿の隅で直立しているのとは、きわめて対照的でした。

 白柳枢機卿はなぜそうされるのか、「拝礼」ではなく、「表敬」という意味だったのか、唯一神信仰と矛盾しないのか、残念ながら、ご自身から直接、伺うことはできませんでした。

 つづく。
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オウンゴールに気づかない百地先生の「大嘗祭」論──百地章日大教授の拙文批判を読む その4 [百地章天皇論]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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 オウンゴールに気づかない百地先生の「大嘗祭」論
 ──百地章日大教授の拙文批判を読む その4
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 百地章日大教授が月刊「正論」3月号にお書きになった拙文批判について、検証しています。今日は、百地先生にとっての大嘗祭論について、考えます。
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 サッカーの試合でエース・ストライカーがオウンゴールを蹴ったときほど、悲劇的なものはありません。当の選手は頭を抱えてピッチにへたり込み、監督の怒号が響き、サポーターはブーイングの嵐です。相手チームとそのサポーターばかりが歓声を上げるでしょう。

 同点だったなら、勝利には2点の追加点が必要です。接戦なら、たったの1点がチームにずっしりと重くのしかかります。

 けれども、もし選手自身がオウンゴールを蹴ったことに気づかないでいたら、どうでしょう。いったい何が起きるでしょうか?

 プロ・サッカーの試合ならふつうはあり得ないことですが、百地先生はじつのところそのことに気づいていないようです。逆に得点を勝ち誇っています。


▽1 宮中祭祀=「皇室の私事」説を確定させた

 百地先生は拙文批判のなかで、大嘗祭が「皇室の公事」として斎行されたことを、みずからの「闘い」の成果として、次のように強調しています。

「御代替わりに際し、皇位継承儀礼として不可欠な『大嘗祭』を『皇室の公事』として位置づけ、皇室の伝統に則って斎行するためにはどうしたら良いか。これは関係者一同の等しく憂慮したところであった。なぜなら、政府は大嘗祭を国事行為としては行うことはできない、との立場を採っていたし、かといって、『皇室祭祀』=『皇室の私事』論のままでは、国からの財政的支援が困難となり、大嘗祭を斎行することも難しくなるからである。

 そこで葦津珍彦先生や大石義雄教授たちの驥尾(きび)に付し、元内閣法制局第一部長井出成三氏の説を参考に、筆者も『大嘗祭』=『皇室の公事』論を構築した。『大嘗祭は皇位継承に不可欠な重儀、つまり『皇室の公事』であって、皇位の世襲を定めた憲法の容認するところである。それゆえ、大嘗祭と皇室祭祀一般とは分けて考えるべきである』との理論であり、これを人を介して政府に進言している。それが拙著『政教分離とは何か』所収の『憲法と大嘗祭』であった。そして、幸い政府もこの理論を採用し、大嘗祭はほぼ伝統通りに斎行することができた」

 先生の大嘗祭論のポイントは3点です。

(1)大嘗祭と宮中祭祀一般とは分けて考えるべきである

(2)宮中祭祀一般は「皇室の私事」である

(3)けれども、大嘗祭は皇位継承に不可欠の重儀であり、「皇室の公事」である

 確かに、大嘗祭が斎行できたのは、ひとつの成果であることは間違いありません。石原信雄官房副長官(当時)がのちに「きわめて宗教色が強いので、大嘗祭をそもそも行うか行わないかが大問題になりました」と著書『官邸2668日』で回想しているくらいだからです。大嘗祭の斎行できるかどうかは、御代替わりの最大の難問でした。

 しかし、大嘗祭斎行と引き替えに、百地先生は、宮中祭祀一般=「皇室の私事」説を確定化させました。オウンゴールとはこのことです。


▽2 宮内庁中枢にいる「1・5代」論者の「私事」論

 百地先生の説明では、政府は大嘗祭を「国事行為(筆者注。国事行為と国事は概念が別です)としては行えない」と考えていた。しかし「私事」となれば、内廷費で費用を賄うほかはない。そこで「大嘗祭は宮中祭祀一般とは異なり、皇位継承儀式=皇室の公事である」という理論を立て、政府に進言し、政府がこれを採用した、とされています。

 つまり、先生は、「1・5代」象徴天皇論者たちが主張する、宮中祭祀=「皇室の私事」説について、何ら抵抗することなしに丸呑みしたということになりませんか?

 たとえば、「1・5代」論者の1人である渡邉允前侍従長は、こう述べています。

「昭和天皇は、新憲法下の天皇として戦後を生きられましたが、やはりそれ以前に大日本帝国憲法下の天皇として在位されたことは否めないことでした。一方、今上陛下はご即位のはじめから、現憲法下の象徴天皇であられた」(「諸君!」平成20年7月号インタビュー)

 昭和天皇は在位の途中から、今上天皇は即位のはじめから「現憲法下での象徴天皇」であったという、この「1・5代」象徴天皇論の理解は、皇室の伝統より現行憲法の規定を優先させる宮中祭祀=「皇室の私事」説に直結します。

「これは皆さまご承知のことではありますが、今の憲法の政教分離の原則からいって、宮中祭祀は陛下が公としての国の機関として行っておられることではないので、これは皇室の私事だというのが法律論になっております」(平成21年6月9日、伊勢神宮・伊勢神宮崇敬会参与・同評議員会の講演の要旨。文責は神宮司庁弘報課。伊勢神宮広報誌「瑞垣」213号掲載)

 そして、渡邉前侍従長こそ、平成の祭祀簡略化の進言者の1人でした。「私も在任中、両陛下のお体にさわることがあってはならないと、(祭祀の)ご負担の軽減を何度もお勧めしました」と前侍従長は前掲「諸君!」インタビューで明らかにしています。

「1・5代」論はさらに、いわゆる「女性宮家」創設論を生みました。21年11月11日、「日本経済新聞」連載「平成の天皇 即位20年の姿(5) 皇統の重み 「女系」巡り割れる議論」に渡邉前侍従長のコメントが載りました。

「宮内庁には『このままでは宮家がゼロになる』との危機感から女性皇族を残すため女性宮家設立を望む声が強い。しかし、『女系天皇への道筋』として反発を招くとの意見もある。渡邉允前侍従長は『皇統論議は将来の世代に委ね、今は論議しないという前提で女性宮家設立に合意できないものか。女系ありきではなく、様々な可能性が残る』と話す」

「女性宮家」創設論議は、一昨年11月25日づけ「読売新聞」が伝えた「『女性宮家』の創設検討 宮内庁が首相に要請」という「スクープ」がきっかけではなく、御在位20年を契機として始まったのです。火を付けたのは、「1・5代」論者の前侍従長でした。

 百地先生は、拙文批判の中で、「斎藤氏が言う、今上陛下をもって『1・5代』の天皇であるなどといった荒唐無稽な理屈は成り立たない」と切り捨てています。私を「1・5代」論者だと読んだとしたら、まったくの誤読ですが、それはともかく、「荒唐無稽」どころか、政府・宮内庁の中枢にまで「1・5代」論が浸透し、皇室の伝統である天皇の祭祀を改変させ、「女性宮家」創設論を生んだのです。


▽3 神社人こそ最後の防波堤だった

 そして、ほかならぬ百地先生の憲法論こそが、先生自身が気づいているか否かは別にして、渡邉前侍従長ら「1・5代」論者の宮中祭祀=「皇室の私事」とする憲法解釈を確定させたのです。

 先生のいう大嘗祭=「皇室の公事」説は、たしかに平成の大嘗祭斎行をもたらしたのでしょう。それは成果ですが、一方で皇室伝統の祭祀=「私事」とする考えを認めてしまったことは、皇室の伝統に圧迫を加えてきた「1・5代」論者たちの言い分を皇室崇敬の念が篤いはずの保守派自身が呑んだということになります。

 そして超然たる地位にあるべき天皇の祭祀を、ドグマチックな政教分離問題の火中に投げ入れてしまったということです。

 それは成果とはほど遠く、まぎれもない敵失であり、歴史的な汚点といわざるを得ません。先生はそのことに気づかないのでしょうか? まさか先生ご自身が「1・5代」論者のお仲間ではないでしょうに。

 私は以前から不思議に思っていたことがあります。それは、先述したように、宮中祭祀=「皇室の私事」説を、全国を代表する神社関係者の前で自信たっぷりに堂々と語っていたことでした。

 歴史を振り返れば、昭和34(1959)年4月の皇太子(今上天皇)御成婚で、皇祖神を祀る賢所での神式儀礼は「国事」と閣議決定され、国会議員が参列しました。宮中祭祀はすべて「皇室の私事」とした神道指令下の解釈が打破されたのです。

 昭和57年暮れに昭和の祭祀改変が明らかになり、宮内官僚たちが「祭祀は天皇の私事」と繰り返していたとき、猛抗議したのはほかならぬ葦津珍彦ら神道人で、全国約8万社の神社を包括する神社本庁は翌年、抗議の質問書を富田朝彦宮内庁長官あてに提出しました(『神社新報50年史』など)。

「昭和34年の皇太子殿下御結婚の儀は『国事』であると閣議決定され、他方、39年の常陸宮殿下、55年の三笠宮寛仁殿下のご結婚は『公事たる宮務』とされた。ことによって国事、ことによっては『内廷限りのこと』とされていると理解される。これは『神道指令』から解放されたあとの宮内庁当局の見解と考えていいか」

 神社界の専門紙である「神社新報」は58年2月28日号に、異例なことに「富田宮内庁長官へ」と名指しする論説を掲載し、質問書よりもさらに詳細に、神道指令以降の歴史を振り返り、祭儀の法的位置づけについて、変更があるのか、と迫りました。

1、神道指令は天皇の神道的儀式を私事として以外、認めなかった。しかし独立後、神道指令は失効した。宮内庁当局は「憲法の認める限度」で皇室の伝統的慣例を守ろうと考えており、昭和34年の東宮御成婚の際、賢所で行われた神式儀礼は国事行為として行われた。

2、神事を専門とする掌典は占領下では公務員ではないとされ、今日もそのまま続いているが、占領中であっても、侍従の毎朝御代拝は認められたし、掌典を補佐する掌典補は公務員が奉仕してきた。神道指令失効後は、社会党内閣時代も、当然のこととされた。

3、とくに重大な臨時の祭事は、内閣の助言と承認を得て「国事」として執行されるが、憲法20条(信教の自由)を守って参加を強制するかのような誤解が生じないようにする。

4、皇室の祭儀は法的に複雑だが、ときによっては「国事」と解される儀式もあるし、ことによっては国事と相関連する公的儀式と解されるものがあり、あるいは「内廷」限りの場合もあろう。

5、風説には「内廷限りのもの」と解されるものが多いが、宮内庁当局者が「皇室の祭事は陛下の私事以外のこととしては扱えない」と放言しているのは黙過できない。富田長官以下、新任者が前任者たちの言動を誤り、不法と思うのなら新見解を明示すべきだ。

 宮内官僚などによる揉み消し工作などもあったようですが、紆余曲折の末、宮内庁は「皇族親王殿下以下の御結婚の諸儀が国事で行われ、また公事として執り行われたことはご承知の通り。今後も国事たり得る場合もあり、公事として行われることもあると考えている」とする、神道人の言い分を完全に認める「公式見解」を発表したと伝えられます(「神社新報」5月23日号)。

 尊皇意識において人後に落ちぬ神社人こそ、宮中祭祀=「皇室の私事」説を阻む、最後の防波堤でした。


▽4 「1・5代」論者が自信満々な理由

 しかし「皇室の私事」説は、「公式見解」をくつがえし、御代替わりに蘇りました。

 考えてもみてください。皇太子御成婚が「国事」で、皇位継承の儀礼である大嘗祭が「皇室の公事」とされるのは、明らかに不自然です。それどころか、今上陛下の御在位20年を契機に、「私事」説はさらに拡大しています。

 なぜそうなったのか、謎は解けました。観念的な左翼系学者が「皇室の私事」説を唱えるのならいざ知らず、保守系の憲法学者が「私事」論者だったのです。

 伊勢神宮での講演で前侍従長は「皆さまご承知のこと」と前置きして、祭祀=「皇室の私事」説を臆面もなく語ったのは、百地憲法論を想定してのことなのでしょう。

 御代替わりのときに、「1・5代」論に立つ官僚たちが百地理論を採用したのは、十分理解できます。百地先生は「幸い政府もこの理論を採用」と誇らしげですが、官僚たちは文字通り、これ幸いと飛びついたのでしょう。

 天皇の祭祀の法的位置づけは、占領軍ではなくて、一般には保守系と目されている日本人自身によって、占領前期に完全に先祖返りしたのです。「1・5代」象徴天皇論者の宮中祭祀=「皇室の私事」とする法解釈を確定させた憲法学者として、百地先生の名前は歴史に刻まれなければなりません。

 しかしながら、なぜ天皇の祭祀=「皇室の私事」なのか、なぜ大嘗祭=「皇室の公事」なのか、なぜ大嘗祭=国事とはされないのか。百地先生は天皇の祭祀を、大嘗祭をいかなるものと考え、祭祀=「私事」説を唱えているのでしょうか?

 信じがたいことに、少なくとも著書を読むかぎり、先生は宮中祭祀の本質を掘り下げようとしていないのです。天皇の祭祀のありようについてほとんど考察せずに、宮中祭祀=「皇室の私事」説を認めたのです。

 オウンゴールの原因は何か、といえば、学問的な追究不足だと私は考えます。

 私の連載の第2回しか読まず、依命通牒の破棄の歴史を考えようとせず、「国家神道」についての考察も未熟なまま、つまり、木を見て森を見ない、それでいて、瞬間湯沸かし器のように反応し、闘犬のように吠えたてるという、国民運動家にはうってつけの性格がオウンゴールを招いたのではないか、と想像しますが、長くなりましたので、詳細は次回、お話しします。

 つづく。

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百地先生にとって「国家神道」とは何だったのか?──百地章日大教授の拙文批判を読む その3 [百地章天皇論]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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 百地先生にとって「国家神道」とは何だったのか?
 ──百地章日大教授の拙文批判を読む その3
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 百地先生への再批判を続けます。


▽1 近代化された明治の皇室祭祀

 前回、依命通牒について書きました。百地先生は、昭和22年5月に発せられた依命通牒が50年9月に破棄されたについて、ほとんどご存じないようです。「『依命通牒』と『女性宮家』とは無関係である」「ちなみに、依命通牒が『廃棄』されたかどうか、真偽の程は定かでない」と述べています。

 依命通牒が重要なのは、天皇の祭祀に関する通達だからです。祭祀王である歴史的天皇像そのものに関わるからです。天皇のあり方に歴史的変更をもたらす、女系継承容認=いわゆる「女性宮家」創設論と「無関係」ではありません。

 後鳥羽上皇の日記には、若くして即位される第3皇子、すなわち順徳天皇に大嘗祭の秘儀について教えられたことが記録されています。申詞(もうしことば)には「国中平らかに、安らけく」の一節があります。

 その約10年後、順徳天皇がまとめられた『禁秘抄』の冒頭には、「およそ禁中の作法は神事を先にし、他事を後にす」とあります。歴代天皇は国と民のためにひたすら祈る祭祀を第一とお務めと信じ、実践してこられました。

 公正かつ無私なる祭りを行うことが、天皇の天皇たる所以です。

 明治になって、欧米列強に対抗しうる近代的な立憲君主として確立されると同時に、祭祀王としての天皇の祭りが合理的かつ現実的に整備されました。

 たとえば、平安期の宇多天皇に始まる、天皇みずから清涼殿で伊勢神宮並びに賢所を遥拝された石灰壇御拝は、明治4(1871)年10月、側近の侍従に賢所で拝礼させる毎朝御代拝に代わりました。

 同年の大嘗祭斎行について、『明治天皇紀』は、「いまや皇業古(いにしえ)に復し、百事維(こ)れ新(あら)たなり。大嘗(おおにえ)の大礼を行うに、あに旧慣のみを墨守し有名無実の風習を襲用せんや」と批判し、「偏(ひとえ)に実際に就くを旨」として整備されたと、数頁にわたり説明しています。

 新嘗祭は、以前は11月の下卯日に行われていましたが、6年の太陰太陽暦の廃止、太陽暦の導入によって、11月23日に固定されました。41年には皇室祭祀令(皇室令第1号)として明文化されます。


▽2 歴史的天皇の命綱

 敗戦後、天皇の祭祀は歴史的変革を迫られました。

 アメリカ政府は戦時中から「国家神道」こそが「軍国主義・超国家主義」の主要な源泉であると考え、「国教としての神道、国家神道の廃止」を占領政策の基本に置きました。

 ハーグ陸戦協定は占領軍が被占領国の宗教を尊重すべきことを規定し、ポツダム宣言には「宗教・思想の自由は確立せられるべし」の項目があったにもかかわらず、です。

「国家神道」の中心施設とされた靖国神社は、アメリカ軍の東京進駐後、「焼却」の噂が持ちきりでした。上智大学のビッテル神父(法王使節代行)が「国家のために死んだものは、すべて靖国神社にその霊を祀られるようにすることを進言する」と最高司令官マッカーサーに答申し、免れたという経緯があります。

 しかし昭和20年暮れになって、いわゆる神道指令が発せられます。「神道国家主義の根絶」が目標とされ、東京駅の門松や注連縄までが撤去されました。翌21年には「国家神道」の教義とされた教育勅語の奉読や神聖的取り扱いが禁止されました。

 22年5月に日本国憲法が施行され、これに伴って皇室令は廃止され、宮中祭祀の明文法的根拠は失われました。

 それでも「従前の条規が廃止となり、新しい規定ができないものは、従前の例に準じて事務を処理すること」(第3項)とする、宮内府長官官房文書課長高尾亮一名による依命通牒、いまでいう審議官通達によって、祭祀の伝統は辛うじて守られました。

 何しろ占領期ですから、皇室の伝統を守るため、当面、「宮中祭祀は皇室の私事」という解釈で凌がざるを得なかったといわれます。「皇室の私事」として祭祀を存続することについては、占領軍は干渉しませんでした。

 依命通牒こそ、戦後の皇室祭祀の、したがって祭祀王たる歴史的天皇の命綱でした。


▽3 政教分離問題最大のテーマ

 ところが、数年後、占領軍は神道指令の「宗教と国家の分離」を「宗教教団と国家の分離」に解釈を変えました。実際、26年6月の貞明皇后の御大葬は旧皇室喪儀令に準じて行われ、国費が支出され、国家機関が参与しています。

 宮内庁高官の証言によれば、占領軍は当時、日本政府の照会に対して、「喪儀については、宗教と結びつかないものは考えられない。国の経費であっても、ご本人の宗教でやってかまわない。憲法に抵触しない」と答えたといわれます。

 一方、斂葬当日の6月22日、全国の学校で「黙祷」が捧げられると、数日後、アメリカ人宣教師の投書が英字新聞の読者欄に載りました。「戦前の国家宗教への忌まわしい回帰」。数カ月にわたる宗教論争が始まりました。

 同年9月のサンフランシスコ平和条約調印日にふたたび学校で「黙祷」「宮城遥拝」が実施されると、宣教師たちはふたたび猛抗議しました。けれども、GHQは宣教師たちの反神道的立場をけっして擁護しませんでした。

「神道指令は(占領中の)いまなお有効だが、『本指令の目的は宗教を国家から分離することである』という語句は、現在は『宗教教団』と国家の分離を意味するものと解されている。『宗教』という語を用いることは昭和20年の状況からすれば無理のないところであるが、現状では文字通りの解釈は同指令の趣旨に合わない」(ウッダード「宗教と教育──占領軍の政策と処置批判」)

 10月には吉田茂首相が靖国神社に参拝することも認められています。

 翌27年4月の平和条約の発効で、日本は独立を回復し、神道指令も失効しました。

 焦点は「国家神道」です。より正確にいえば、アメリカにとっての「国家神道」とは何だったのか、です。なぜ占領軍は神道指令を発したのか、なぜ天皇の祭祀を「皇室の私事」に押し込めたのか、しかも数年も経ずして、またたく間に政策を変更させたのか?

 百地先生が専門とする政教分離問題の最大のテーマです。


▽4 「国家神道」研究より「闘い」

 先生は「斎藤氏は、戦後皇室行政史とやらを研究すれば、それだけで『天皇統治の歴史と伝統を守り得る』などと本気で考えているのであろうか」と私を批判しています。つまり、研究より「闘い」を選んでいるわけです。

 しかし、話は逆だと私は考えています。

 百地先生は、『政教分離とは何か─争点の解明』(1997年)の第11章「『主基斎田抜穂の儀』参列訴訟の問題点」(書き下ろし)に、「いわゆる『国家神道』をめぐって」と題する項目を設け、こう書いています。

「実のところ、筆者の『国家神道』研究は漸く緒に着いたばかりであり、詳細な検討は今後の研究に俟つ」

 1人の研究者が一生のうちにできることは限られていますから、研究不足は批判されることではありません。不足があれば補えばいいことです。だから、私は共同研究の進展を訴えているのですが、「ここでは現時点における研究成果をもとに、若干言及することにとどめたい」として、展開された先生の「言及」にはどうしても違和感があります。研究の方向性がまったく違うからです。

 つまり、先生は「さて、『国家神道』とは何かということであるが、実はこの『国家神道』なるものはかなり曖昧かつ不明確な概念であって、様々な意味で用いられているように思われる」などと述べ、もっぱら日本人による「国家神道」論について「言及」しています。

 解明されなければならないのは、日本人の「国家神道」ではなく、アメリカ人にとって「国家神道」とは何だったか、でしょう。

 宮中祭祀を「皇室の私事」に貶めたのは、訴訟の原告ではなく、占領軍です。しかも占領後期には政教分離政策は変更されました。その理由もまた謎のままです。

 謎が具体的に、歴史的に明らかにされれば、戦後の政教分離問題なるものは解決へ大きく前進するはずです。運動に走るより賢い方法があるのではないかと私は考えますが、甘いでしょうか?

 つづく。


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私の指摘は図星だった──逆上的な百地章日大教授の拙文批判を読む その1 [百地章天皇論]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2013年10月2日)からの転載です


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 私の指摘は図星だった
 ──逆上的な百地章日大教授の拙文批判を読む その1
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 月刊「正論」昨年12月号から3回連続で「『女性宮家』創設賛否両論の不明」という連載を書きました。これに対して、同誌3月号で、百地章日大教授が反論を書いてくださいました。

 反応してくださったのはありがたいことですが、私の予想を完全に裏切るすさまじい剣幕です。ほとんど逆上しています。


▽1 北朝鮮メディアのような反応

 2つのことを思いました。

 1つは、私の体験談です。駆け出しのころから調査報道というものに携わってきた私は、デイリーの記者とは異なり、文献を読み、その道の碩学に取材することが習慣になりました。

 興味深いのは、素人のような素朴な疑問に、現代を代表する知性たちから、しばしば「分からない」という答えが返ってきたことです。「学問的に解明されていない」ということもありましたし、「私の研究分野ではない」ということもありました。

 前者の場合は、それだけ研究領域の全体に精通していればこその返答であり、現在の研究水準を簡単に理解することができる点で、門外漢の私にはありがたいことでした。後者は、知ったかぶりをしない正直さにさわやかさを覚え、好感が持てました。

 いずれにしても、最高レベルにある学者たちは、少なくとも私がお世話になった方々はきわめて謙虚です。1人の研究者が一生のうちにできる学問研究は限られています。高い目標を持つ人ほど、謙虚にならざるを得ないのでしょう。

 これに対して、まったく別の反応を示す人たちがいました。私が単刀直入に指摘すると、逆に食ってかかってきたものです。それは研究者ではありません。政治家でした。

「(私の)粗雑な頭脳を哀れむだけである」と書くような、百地先生の反応は研究者というより、政治家に似ています。

 もうひとつ、百地先生の反論を読んで思い起こしたのは、北朝鮮メディアの勇ましい論評です。

「やられたらやり返せ」風に、ごく最近も、米韓合同演習に対して、「敵対勢力の増大する核戦争挑発策動に対処して、核実験以上のこともしなければならない」と威嚇したと伝えられています。闘鶏でも見ているかのようなけたたましさです。

 百地先生は、教室で学生たちが率直な指摘をしたとき、怒号を返したりするのでしょうか? いつもにこやかで、親爺ギャグの大好きな先生です。それであればこそ、学生には人気のはずです。間違っても、「お前は頭が悪い」などと大声を張り上げたりはしないでしょう。

 だとすると、先生はなぜ「北朝鮮人」になってしまったのか? なぜ百地教授は逆上したのかが、私の新しいテーマになりました。


▽2 3回の連載を読み通していない

 理由はいくつか考えられます。

 1つは、連載をすべて読み通していないからでしょう。

 先生の記事の冒頭には、「1月号に連載の第2回が掲載された。筆者(百地先生)の『女性宮家』反対論を批判したものだというから、さっそく読んでみたが……」と書かれています。

 先生は第2回だけを読んで、逆上したのでしょう。

 もともと拙文は1本の原稿でしたが、100枚近くになる長文のため、編集部から連載にするよう勧められ、書き改められました。

 私が書きたかったのは、個人攻撃ではなく、いわゆる「女性宮家」創設論のいびつさです。歴史にあるはずもない「女性宮家」創設論がなぜ急浮上してきたのか、政府の目的は何か、が見えてきません。議論は混乱しています。

 一般には、百地教授も同様ですが、一昨年の秋に、読売新聞の「スクープ」に始まるとされている「女性宮家」創設論は、じつは10年以上も前に、女系継承容認論と一体のかたちで始まっていることが分かります。

 ところが、有識者たちの議論に、そのような指摘は見当たりませんでした。

 政府の官僚たちは「皇室制度」改革と命名したはずですが、マスコミは「女性宮家」創設と報道し、識者たちは、百地教授の拙文批判も同様ですが、「女性宮家」問題を論じていきました。議論が矮小化し、曲がっていくのは当然です。

 私は連載で、恩義あるお三方を取り上げました。百地先生も含めて、先生たちなら、私の指摘を理解してくださるだろうと期待したからです。百地先生の文章にあるように、「自己宣伝」のためにケンカするだけなら、先生のいう「天皇制否定論者の横田耕一教授など、ごく一部学者」をやり玉に挙げればすむことです。

 私はなぜ連載を書いたのか、第2回しか読んでいない百地先生には、残念ながら理解できないのでしょう。「誹謗・中傷」にしか見えないとすれば、私は私自身の「不明」を恥じるほかはありません。

 第2回までを読んで、「自分だけが知っている」というような書き方をするなと忠告してくれた知人がいますが、第3回を読んで納得してくれました。百地先生も「的外れ」「高みの見物」などと決めつけずに、連載全体を読んでいただきたいと思います。


▽3 私の指摘を認めている

 百地先生が逆上した第2の理由は、私の指摘が図星だったからでしょう。

 先生は「特に問題と思われる箇所を中心に、簡潔に反論を加えておく」として、拙文批判を展開していますが、肝心要の私の指摘には触れてもいないのです。

 私は、拙文に書いたように、有識者ヒアリングでの百地先生の意見に、ほとんど同感しています。批判のための批判を展開しているのではありません。ただ、歴史的理解が欠落しているのではないか、だから問題の全体性が見えないのではないか、というのが私の指摘です。

 百地先生は「産経新聞」24年3月2日付の「正論」欄で、「女性宮家」創設問題の発端は、羽毛田信吾宮内庁長官が野田佳彦首相に、「女性宮家」創設を要請したことにある、と断定しています。

 なぜ断定できるのか、なぜ断定してしまうのでしょうか?

「読売新聞」23年11月25日付は「『女性宮家』の創設検討 宮内庁が首相に要請」と報道しましたが、「長官が要請」とは書いていません。

 そればかりか、「週刊朝日」同年12月30日号は、岩井克己朝日新聞記者の記事で、羽毛田長官自身が「長官が提案」の報道を否定したと伝えています。

 アカデミズムであれ、ジャーナリズムであれ、ものごとを断定するのはそれに足る十分な事実の確認が必要です。百地先生の文章には事実の確認に危うさがある、そのことが「女性宮家」問題のみならず、先生の専門分野であるはずの政教分離問題にも大きく影響しているように私には見えます。

 ところが、百地先生が「長官が要請」と断定し、私がそのことを指摘したことについて、百地先生は触れていません。なぜなのか?

 要するに、触れられないからでしょう。

 1から10まで論点を並べ、拙文を完膚無きまでに批判したように見えて、主要な指摘については避けている。それはつまり、認めたということです。

 もし「長官が要請」が事実だとすると、「読売新聞」は「宮内庁が要請」と報道すべきだったし、当世随一の皇室ジャーナリストが書いた「週刊朝日」の記事は誤報だということになります。「長官要請」を否定する羽毛田長官はウソをついていることになります。

 百地先生は私を攻撃するのではなく、日本の大手メディア、著名記者、陛下の側近をこそ、批判すべきなのです。

 そうはなさらないのは、図星だからでしょう。認めざるを得ないけれども、認めたくない。だから、逆上し、目くらまし的にほかの論点で、足腰が立たないくらいにまで打ちのめすという手法を採ったのではないでしょうか?

 それはケンカ殺法というべきものであって、謙虚に真理の追究に打ち込む研究者の姿勢とは異質のもののように見えます。そういえば、先生は「積極的に関わり、政府解釈の変更のため、筆者なりの『闘い』を続けてきたつもりである」と自負しています。先生は「闘い」の人なのでした。


 つづく

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