SSブログ

百地先生にとって「国家神道」とは何だったのか?──百地章日大教授の拙文批判を読む その3 [百地章天皇論]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
 百地先生にとって「国家神道」とは何だったのか?
 ──百地章日大教授の拙文批判を読む その3
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 百地先生への再批判を続けます。


▽1 近代化された明治の皇室祭祀

 前回、依命通牒について書きました。百地先生は、昭和22年5月に発せられた依命通牒が50年9月に破棄されたについて、ほとんどご存じないようです。「『依命通牒』と『女性宮家』とは無関係である」「ちなみに、依命通牒が『廃棄』されたかどうか、真偽の程は定かでない」と述べています。

 依命通牒が重要なのは、天皇の祭祀に関する通達だからです。祭祀王である歴史的天皇像そのものに関わるからです。天皇のあり方に歴史的変更をもたらす、女系継承容認=いわゆる「女性宮家」創設論と「無関係」ではありません。

 後鳥羽上皇の日記には、若くして即位される第3皇子、すなわち順徳天皇に大嘗祭の秘儀について教えられたことが記録されています。申詞(もうしことば)には「国中平らかに、安らけく」の一節があります。

 その約10年後、順徳天皇がまとめられた『禁秘抄』の冒頭には、「およそ禁中の作法は神事を先にし、他事を後にす」とあります。歴代天皇は国と民のためにひたすら祈る祭祀を第一とお務めと信じ、実践してこられました。

 公正かつ無私なる祭りを行うことが、天皇の天皇たる所以です。

 明治になって、欧米列強に対抗しうる近代的な立憲君主として確立されると同時に、祭祀王としての天皇の祭りが合理的かつ現実的に整備されました。

 たとえば、平安期の宇多天皇に始まる、天皇みずから清涼殿で伊勢神宮並びに賢所を遥拝された石灰壇御拝は、明治4(1871)年10月、側近の侍従に賢所で拝礼させる毎朝御代拝に代わりました。

 同年の大嘗祭斎行について、『明治天皇紀』は、「いまや皇業古(いにしえ)に復し、百事維(こ)れ新(あら)たなり。大嘗(おおにえ)の大礼を行うに、あに旧慣のみを墨守し有名無実の風習を襲用せんや」と批判し、「偏(ひとえ)に実際に就くを旨」として整備されたと、数頁にわたり説明しています。

 新嘗祭は、以前は11月の下卯日に行われていましたが、6年の太陰太陽暦の廃止、太陽暦の導入によって、11月23日に固定されました。41年には皇室祭祀令(皇室令第1号)として明文化されます。


▽2 歴史的天皇の命綱

 敗戦後、天皇の祭祀は歴史的変革を迫られました。

 アメリカ政府は戦時中から「国家神道」こそが「軍国主義・超国家主義」の主要な源泉であると考え、「国教としての神道、国家神道の廃止」を占領政策の基本に置きました。

 ハーグ陸戦協定は占領軍が被占領国の宗教を尊重すべきことを規定し、ポツダム宣言には「宗教・思想の自由は確立せられるべし」の項目があったにもかかわらず、です。

「国家神道」の中心施設とされた靖国神社は、アメリカ軍の東京進駐後、「焼却」の噂が持ちきりでした。上智大学のビッテル神父(法王使節代行)が「国家のために死んだものは、すべて靖国神社にその霊を祀られるようにすることを進言する」と最高司令官マッカーサーに答申し、免れたという経緯があります。

 しかし昭和20年暮れになって、いわゆる神道指令が発せられます。「神道国家主義の根絶」が目標とされ、東京駅の門松や注連縄までが撤去されました。翌21年には「国家神道」の教義とされた教育勅語の奉読や神聖的取り扱いが禁止されました。

 22年5月に日本国憲法が施行され、これに伴って皇室令は廃止され、宮中祭祀の明文法的根拠は失われました。

 それでも「従前の条規が廃止となり、新しい規定ができないものは、従前の例に準じて事務を処理すること」(第3項)とする、宮内府長官官房文書課長高尾亮一名による依命通牒、いまでいう審議官通達によって、祭祀の伝統は辛うじて守られました。

 何しろ占領期ですから、皇室の伝統を守るため、当面、「宮中祭祀は皇室の私事」という解釈で凌がざるを得なかったといわれます。「皇室の私事」として祭祀を存続することについては、占領軍は干渉しませんでした。

 依命通牒こそ、戦後の皇室祭祀の、したがって祭祀王たる歴史的天皇の命綱でした。


▽3 政教分離問題最大のテーマ

 ところが、数年後、占領軍は神道指令の「宗教と国家の分離」を「宗教教団と国家の分離」に解釈を変えました。実際、26年6月の貞明皇后の御大葬は旧皇室喪儀令に準じて行われ、国費が支出され、国家機関が参与しています。

 宮内庁高官の証言によれば、占領軍は当時、日本政府の照会に対して、「喪儀については、宗教と結びつかないものは考えられない。国の経費であっても、ご本人の宗教でやってかまわない。憲法に抵触しない」と答えたといわれます。

 一方、斂葬当日の6月22日、全国の学校で「黙祷」が捧げられると、数日後、アメリカ人宣教師の投書が英字新聞の読者欄に載りました。「戦前の国家宗教への忌まわしい回帰」。数カ月にわたる宗教論争が始まりました。

 同年9月のサンフランシスコ平和条約調印日にふたたび学校で「黙祷」「宮城遥拝」が実施されると、宣教師たちはふたたび猛抗議しました。けれども、GHQは宣教師たちの反神道的立場をけっして擁護しませんでした。

「神道指令は(占領中の)いまなお有効だが、『本指令の目的は宗教を国家から分離することである』という語句は、現在は『宗教教団』と国家の分離を意味するものと解されている。『宗教』という語を用いることは昭和20年の状況からすれば無理のないところであるが、現状では文字通りの解釈は同指令の趣旨に合わない」(ウッダード「宗教と教育──占領軍の政策と処置批判」)

 10月には吉田茂首相が靖国神社に参拝することも認められています。

 翌27年4月の平和条約の発効で、日本は独立を回復し、神道指令も失効しました。

 焦点は「国家神道」です。より正確にいえば、アメリカにとっての「国家神道」とは何だったのか、です。なぜ占領軍は神道指令を発したのか、なぜ天皇の祭祀を「皇室の私事」に押し込めたのか、しかも数年も経ずして、またたく間に政策を変更させたのか?

 百地先生が専門とする政教分離問題の最大のテーマです。


▽4 「国家神道」研究より「闘い」

 先生は「斎藤氏は、戦後皇室行政史とやらを研究すれば、それだけで『天皇統治の歴史と伝統を守り得る』などと本気で考えているのであろうか」と私を批判しています。つまり、研究より「闘い」を選んでいるわけです。

 しかし、話は逆だと私は考えています。

 百地先生は、『政教分離とは何か─争点の解明』(1997年)の第11章「『主基斎田抜穂の儀』参列訴訟の問題点」(書き下ろし)に、「いわゆる『国家神道』をめぐって」と題する項目を設け、こう書いています。

「実のところ、筆者の『国家神道』研究は漸く緒に着いたばかりであり、詳細な検討は今後の研究に俟つ」

 1人の研究者が一生のうちにできることは限られていますから、研究不足は批判されることではありません。不足があれば補えばいいことです。だから、私は共同研究の進展を訴えているのですが、「ここでは現時点における研究成果をもとに、若干言及することにとどめたい」として、展開された先生の「言及」にはどうしても違和感があります。研究の方向性がまったく違うからです。

 つまり、先生は「さて、『国家神道』とは何かということであるが、実はこの『国家神道』なるものはかなり曖昧かつ不明確な概念であって、様々な意味で用いられているように思われる」などと述べ、もっぱら日本人による「国家神道」論について「言及」しています。

 解明されなければならないのは、日本人の「国家神道」ではなく、アメリカ人にとって「国家神道」とは何だったか、でしょう。

 宮中祭祀を「皇室の私事」に貶めたのは、訴訟の原告ではなく、占領軍です。しかも占領後期には政教分離政策は変更されました。その理由もまた謎のままです。

 謎が具体的に、歴史的に明らかにされれば、戦後の政教分離問題なるものは解決へ大きく前進するはずです。運動に走るより賢い方法があるのではないかと私は考えますが、甘いでしょうか?

 つづく。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:ニュース

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

Facebook コメント

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。