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「米の骨」を食べる──神話が伝える米食の起源 [稲作]


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「米の骨」を食べる──神話が伝える米食の起源
(「神社新報」平成10年12月14日)
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なぜ人間は米を食べるようになったのだろう?

静岡大学の佐藤洋一郎先生(植物遺伝学)によると、私たちが食しているジャポニカの野生種は多年生で、栄養繁殖性が強く、種子の生産は多くない。したがって、そのままではとても食用作物として栽培されることはなかったという。

ところが、7000年ほど前を境に地球が寒冷化する。食糧資源の欠乏は人間を苦しめ、とくに冬期の食糧の蓄積を迫られた。都合のいいことに、寒冷化は植物の種子生産性を高めた。足がなく、容易に暖かい地方に移動できない植物は種子のかたちで寒さをしのぐのである。種子生産性を高めた植物は栽培化をもくろむ人間からも歓迎された。

寒冷化は一方で水位の低下をもたらした。雨が少なくなり、それまで水性植物が繁茂していた空間は、乾燥して草原に変わる。また森は移動して草原が広がる。こうして開墾が容易で、原始的な稲作に相応しい立地条件が整備され、7000年前、長江・中下流域で稲の栽培が始まった(佐藤『DNAが語る稲作文明』)。

それなら7000年前の人間はどんなきっかけで、どうやって米を食べたのか? 種子の生産性を高めたといっても、所詮、野生の稲である。一粒一粒が小さな稲の種子を食糧として選択するには、あるきっかけと大きな決断があったろう。


▽東南アジアに伝わる神話

面白いのは、「米の骨」の神話である。民族学者の大林太良先生によると、東南アジア地域には「米の骨」の神話が伝わっているという(大林『稲作の神話』)。

たとえば、タイ北西部のラワ族ではこうだ。

そのむかし、ラワ族は米のモミ殻を食べていて、米の実の方、つまり胚の部分は「米の骨」であって、食用には不適だと考え、なんと捨てていた。貧しい孤児がいて、ある日、「米の骨」をもらって食べた。少年はほかの子よりも大きく成長した。それ以来、ラワ族は米の実を食べるようになった。

やはりモン・クメール語族に属するベトナム東南山地のスレ族の神話では、はじめ米の糠(ぬか)を食べ、「米の骨」は捨てていた。

孫と2人で暮らす貧しい老婆がいた。働き手がなく、食べられるものは何でも食べた。「米の骨」をスープに入れて食べることを思いつき、孫に「米の骨」を集めさせた。煮て食べると、糠よりもうまかったのはいうまでもない。この発見を内緒にして、村中から「米の骨」を集めた。家の中は「米の骨」でいっぱいになった。

あるとき孫はほかの子と水牛の番をした。弁当を開けると、孫だけは糠ではなく「米の骨」が詰まっていた。

「お前、骨を食べているのか?」

孫はほかの子にも食べさせてやった。うまかった。

「米の骨」を買い戻そうと村人たちが老婆のところにやってきた。老婆はたちまち裕福になった。


▽焼畑陸稲栽培民に特徴的な神話

これらの物語に共通するのは、孤児や貧しい老女、碑女というような苦しい境遇にある人たちが苦し紛れに「米の骨」を拾って食べ出したのが米食の起源とされることだ。

大林先生によると、インドシナ半島から中国西南部の焼き畑陸稲栽培民に特徴的な米食神話であるらしい。

だが、「米の骨」の神話は稲という食用植物の発見と選択を説明していない。なぜ古代人は稲を食糧として見出したのだろう?

ここで思い起こされるのは、鳥が稲を運んでもたらしたとする、民俗学でいう「穂落神」の伝承である。

たとえば神宮に伝わる『倭姫命世記』には、こう書かれている。

第11代垂仁天皇の皇女・倭姫命が皇大神宮の御饌を奉るのに相応しい地を求めて巡幸される。昼夜、鳴き続ける鳥がいた。臣下を遣わすと、葦原に1茎で千穂の霊稲が生え、白真名鶴が穂をくわえて鳴いていた。倭姫命はこの稲を御料とされ、千田の地に伊雑宮を創建された。

「穂落神」の物語は各地に伝えられている。鳥たちが米をついばむのを見て、古代人は神々からの賜りものと考え、米を食することを始めたのであろうか?


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