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日本人は「無宗教」が多い?──島薗進著『国家神道と日本人』をテキストに考える [島薗進国家神道論]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(平成22年10月29日)からの転載です


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日本人は「無宗教」が多い?
──島薗進著『国家神道と日本人』をテキストに考える
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 はじめに、築地市場の豊洲移転について書きます。

 その前に、お知らせです。戦前から発行されている老舗宗教専門紙の「中外日報」10月21日号の「読者のひろば」欄に拙文「深刻さ増す陛下の激務」が載っています。定期購読のうえ、ぜひお読みください。多くの方が目前で進行している平成の祭祀簡略化に関心を持ち、声を上げてくださることを願っています。

 以下は同紙ホームページのURLです。
http://www.chugainippoh.co.jp/


◇1 「豊洲新市場」ではなく「新築地市場」としてはいかが

 さて、石原都知事は先日、豊洲移転を決断しましたが、民主党など野党側がつよく反発し、かえって迷走が深まりそうな気配です。

 問題点の1つは予定地の土壌汚染が深刻なことだと伝えられます。都知事は会見で、世界に誇る日本の先端的環境技術の活用を訴え、議会に協力を呼びかけていますが、反対派は処理実験の欠陥などを指摘し、議論がかみ合わないようです。

 以前、少しばかり聞きかじったダイオキシン類の「過剰規制」問題もそうでしたが、環境問題というのは科学的、技術的なことがらのはずなのに、とかく政治化する傾向があります。冷静な議論を望まずにはいられません。
http://homepage.mac.com/saito_sy/religion/H1511STdioxin.html

 都知事が先端技術の活用を唱えているのはいいとして、「議会軽視」の批判を浴びない、より丁寧な説明とともに、もっともっと夢のある、しかも実現可能な、世界のモデルとなり得る環境再生のプログラムを都民に示してはいかがでしょうか。「環境」をテーマにオリンピックの招致を呼びかけたほどの知事なのですから。

 もうひとつの問題点は、「豊洲新市場」(仮称)では「世界の築地」のブランド力が失われることです。新しいブランドをゼロから作るのはたいへんです。それなら「新築地市場」と命名したらどうでしょう。野党も反発するだけでなく、知恵を出すべきです。築地市場の老朽化は明白なのですから。大局を見失った、都民不在の権力闘争をしていては、混乱は深まるばかりです。

 それでは、本論です。


◇2 現代の学問的限界が見えてくる

 今年の夏、島薗進・東大大学院教授(宗教学)の『国家神道の日本人』が出版されました。これはじつにありがたい本です。というのも、現代の学問的な課題が結果的に浮き彫りにされているからです。

 島薗先生といえば、現代を代表する碩学です。以前、本郷の研究室で取材させていただいたとき、「国家神道論の交通整理がしたい」とおっしゃっていたのが先生です。そのときのリポート「新段階に入った国家神道研究」は私のサイトに載せてあります。ご興味のある方はどうぞお読みください。
http://www004.upp.so-net.ne.jp/saitohsy/kokka_shinto.html

 それからほぼ10年、さすがですね、先生の本には日本の近代宗教史全般に関する最新の研究がよく整理され、いまの学問的水準が手に取るように分かります。

 ということは、裏返していえば、現代の学問的限界も見えてきます。

 そんなわけで、先生の本をテキストにして、日本人の近代精神史を考えるうえで、何が今後の課題になるのか、私なりに考えてみます。

 先生は、序文にあたる「はじめに」で、「なぜ国家神道が問題なのか」を自問自答しています。先生の目的は、国家神道の歴史そのものというより、近代宗教史に新たな光を当てることにあるようです。しかし、成功しているといえるのかどうか。注目したいのはその手法です。


◇3 キリスト教モデルに影響されている

 先生はその書き出しの数行で、日本人は多くが「無宗教」だといわれるが、戦前の日本人はそうではなかったのではないか。日本人の「無宗教」について考えるとき、「国家神道とは何か」がキーポイントになる、と説明しているのですが、この議論の立て方に、私は根本的な疑問を感じています。

 まず、日本人は「無宗教」が多い、という意味についてです。先生がわざわざカギ括弧つきで表現している日本人の「無宗教」性とは何なのか。「多い」とはどういうことなのか。

 「無宗教」というのは、「宗教」と同様、案外、定義のむずかしい言葉です。一般読者を対象とした先生の著書では平易に、「特定宗教の教えや礼拝に慣れ親しんでいない」という人たちを「無宗教」と呼んでいます。宗教の教義を学ぶ機会を持たないこと、あるいは宗教団体に属していないこと、そのため宗教儀式に参加したことがないこと、などをあわせて「無宗教」とあらわしているようです。

 けれども、日本人の「無宗教」性というのはもっと別のことではないのでしょうか。先生の「無宗教」論は、創始者がいて、特定の教義を持ち、儀式を行うというキリスト教的な一神教モデルにつよく影響されているようです。宗教の存在に否定的な考えを持つ「非宗教」との違いも不明確のように見えます。


◇4 多神教的、多宗教的であること

 よく知られているように、日本人の宗教人口は、総人口をはるかに超える約2億人に及びます。「無宗教が多い」どころではありません。むろん、教勢を誇りたい各宗教団体の自己申告による数値を基礎にしたデータですから、もともと水増しが多いのでしょうが、それよりも指摘したいのは、複数の団体に所属していると見なされている人が「多い」と想像されることです。それが日本人の「無宗教」性と深く関わっています。

 以前、ボランティア活動のため、世界第2位のムスリム人口を抱えるバングラデシュに通っていたとき、入国カードに宗教欄があって、面食らったことがあります。イスラム、ヒンドゥー、キリスト教、仏教、無宗教(あるいは非宗教)から自分の宗教を選んで、チェックする方式になっていたと記憶します。

 一神教世界では、宗教はこのように択一問題です。人々はあくまでクリスチャンかムスリムかのいずれかであって、キリスト教徒であり、同時にムスリムである、ということはあり得ません。

 しかし日本人にとって、宗教は択一問題ではありません。初詣に神社とお寺をお参りすることなどごく自然であり、かと思えば、いまがそのシーズンですが、ハロウィーンの行事も行うし、年末には自宅にクリスマスのイルミネーションも飾ります。多神教的、多宗教的であることが、日本人の「無宗教」性です。宗教人口が2億人を超えるのは当然です。

 先生の著書にあるように、「特定宗教の教えや礼拝に慣れ親しんでいる」ということが日本人にとって「宗教」的なのではありません。キリスト教的に宗教指導者がいて、指導者から宗教の教えを学ぶということが信仰の出発点ではないからです。宗教儀式に参加することも同様です。


◇5 キリスト教的だった国家神道

 キリスト教モデルに照らして、日本人の多くが「宗教」的ではない=「無宗教」だと考えるのは、大して意味がありません。日本人は一神教世界に生きていない、日本人はキリスト教徒ではない、といっているに過ぎないからです。

 島薗先生の本で、もっと積極的な意味が見出されるのは、戦前の日本人が、つまり国家神道時代の日本人が、キリスト教モデルに照らして宗教的だった、という見方です。戦前の日本人はキリスト教的だった。つまり、国家神道なるものは、先生がいうように「神道の形態」であるというより、「キリスト教の形態」だったのです。

 考えてもみてください。明治5年の改暦でバチカンが制定した太陽暦を導入した日本ですが、政府が公認する暦は神社の中の神社である伊勢神宮から発行されました。きわめて逆説的なことに、キリスト教文化を日本社会に浸透させたのは神社であり、これがまさに日本の近代なのだと思います。

 先生が「戦前はおおかたの日本人が国家神道の影響下で生活し、その崇敬様式に慣れ親しんでいた」と解説しているのは、「キリスト教文化の影響下で生活し、その様式に慣れ親しんだ」と読み替える必要がありますが、この歴史論については、次回、あらためて考えます。

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