2 日常的な信仰から見つめ直す「日本人の天皇」──島根県松江市・美保神社の巻 その2 [神社]
以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です
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2 日常的な信仰から見つめ直す「日本人の天皇」
──島根県松江市・美保神社の巻 その2
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▽1 にぎやかな港町だった
出雲(いずも)・島根の旅を続けます。
松江市・美保(みほ)神社の目の前には猫の額ほどの美保湾があり、湾を取り囲んで古い旅館が肩を寄せ合っています。じつに静かなたたずまいです。
けれども、昔からそうだったのか、といえば、そうではないようです。かの小泉八雲(こいず・やくも)が「日が落ちると美保関(みほのせき)は西日本でもっとも陽気でにぎやかな港町に早変わりする」と書き残しているからです。
そのにぎわいは何に由来していたのか。ふつうには全国的な海の民の信仰対象として知られる美保神社ですが、八雲の時代には漁民だけではなく、稲作農民の信仰を集めていました。前号で書いたように、「種替(たねかえ)神事」のような神事が行われていたからです。
その昔、閑院宮(かんいんのみや)親王殿下や二条公爵も、そして八雲も投宿したという由緒ある老舗(しにせ)旅館に宿を取った私は、「種替神事」が行われた節分のころのにぎわいについて、人生の大先輩である女将(おかみ)さんに聞いてみました。
▽2 失われた祭り
女将さんによると、昭和20年代まで、節分のころは蒸気船の臨時便が増発されるほどで、岡山や広島などからの宿泊客で、9軒ある旅館は大いににぎわったそうです。「節分詣り(まいり)」と呼ばれたそうですが、それは節分行事というより、むしろ旧正月の年越えで、人々は深夜に神社に参拝し、年越しそばを食べた。新暦の正月よりもにぎやかだった、というのでした。
しかし、いつのことか、節分祭それ自体が絶えました。そして種替神事は幻と消えました。したがって節分詣りがそもそも新年を迎える正月行事だったのか、それとも稲作儀礼としての田の神迎えだったのか、よく分かりません。
代々、美保神社に奉仕する横山宮司さんに聞いても同じでした。
「親父が昭和19年に亡くなり、そのころ神職の顔ぶれががらりと変わった。当時の日誌は紙質が悪く、ボロボロで読むに読めない。祭儀についての記載も見当たらない。いまでは節分祭の内容は分からない」
記録が失われているだけではありません。大正末期の生まれの宮司さん自身の記憶にもない、と嘆くのでした。
▽3 稲作の祭礼があった
あらためて古い文献を探してみることにしました。
すると、『国幣中社美保神社明細図書』(明治19[1886]年)に、御田植祭および田実祭(たのみのまつり)に関する記述があるのを見つけました。
旧暦五月一日に行われる御田植祭、同じく旧暦八月一日の田実祭は古来、美保郷内および美保関、森山村、下宇部尾村、七類浦、諸喰浦、雲津浦などが神領つまり神社の所領だったころはずいぶんと盛んだったというのですが、豊臣氏の時代に所有権が離れてから、祭りが絶えてしまった、と漢字カタカナ交じりで書いてあります。
つまり、豊臣氏が神領を没収するまで、美保神社では稲作の祭礼が行われてきたということになります。
そのほか、五月一日の式年祭に「出雲十郡」と呼ばれた旧神領地からお供えが献上されたことを裏づける、江戸末期のものらしい禁制札も残されています。社殿の造営は神領民が奉仕し、献上は神領地の没収後も続きました。それぞれの旧神領地には美保神社の分霊をまつる神社があるといわれます。
他方、田実祭りの方は、といえば、おそらく八月一日に行われる八朔(はっさく)の祭りなのでしょうが、お祭りの内容はまるで分かりません。
とはいえ、田植えが終わり、一番草の除草がすんだあと、豊作祈願に参拝する農家の楽しみは昭和20、30年ころまで続いたようです。
▽4 八雲が見た農村風景
このときは市が立つほどのにぎわいから、「夏市」と呼ばれました。米や濁り酒を持参してお詣りする宿泊客は旅館の廊下にまであふれ、宿にとっては1年でもっとも多忙をきわめるかき入れ時だった、と老舗の女将さんは語ります。
参詣者は神社で「関札(せきふだ)」と呼ばれる神札(おふだ)と榊(さかき)、神水の授与を受けました。神札は虫除けのために水田の畦に立てられ、神社の山からわく宮水は干ばつよけのため農業用水の水口(みなくち)に注がれました。
そんな農村の風景を八雲が記録しています。
八雲が松江にやってきたのは明治23年8月でした。姫路から人力車に乗り、山を越え、津山を経て、山陰街道に出た八雲は、鳥取県の山あいで「田んぼのいたるところに何か奇妙なもの」を見ました。
それは、榊の三つ葉を頭にして竹ざおにはさんだ、ほかならぬ美保神社の神札でした。「まるで青々とした野面に点々と白い花でも咲いているようだった」と表現されています。
けれども、緑の稲田に映える「祈願の矢」はいまは見られません。「迷信因習の打破」などを目標に掲げる、戦後の「新生活運動」で、村を代表して神社にお詣りした代参者が帰宅後、各農家に神札などを配る風習はすっかり廃れたからだ、と宮司さんが説明していました。
そうはいいながら、稲作信仰の名残はかすかではありますが、美保神社の神事のなかにうかがえます。
▽5 稲作信仰の残映
たとえば、美保神社の祭神・三穂津姫命(みほつひめのみこと)の神紋(シンボル・マーク)は「二重亀甲(きっこう)」に「渦雲(うずくも)」がデザインされたものですが、これは祭神が雲に乗って高天原(たかまがはら)から稲穂をもたらしたという伝説に由来しています。
稲をたずさえて天降ったという伝説はいうまでもなく、日本という国の成り立ちに関連する天孫降臨(てんそんこうりん)神話が知られますが、そればかりでなく地方にはいろいろ類似する神話が伝えられているようです。
それはともかく、美保神社の神紋はもっとも古くは「鶴丸」のデザインが用いられました。たとえば、いまでも有名な蒼柴垣(あおふしがき)神事に登場する猿田彦(さるたひこ)が着る上着には径1尺におよぶ大きさの「鶴丸」の神紋があしらわれています。
鶴が美保神社から周辺地域に稲を伝播させた、という伝承があり、それに基づいているのですが、それはまぎれもなく神社が稲作信仰の中心だったことの証明です。
朝廷に領土をゆずったという「国譲り」神話に由来するのが蒼柴垣神事ですから、つかわれる装束はこの神話に関係するのか、というと、そうではありません。たとえば、田楽(でんがく)の小袖(こそで)は、空を飛ぶ鶴と稲束の刺繍がいくつも施されています。
このように美保神社の祭礼は漁民の信仰というより、稲作民の信仰が濃厚に反映されているのです。
一般的には海の民の神社として知られる美保神社の祭礼は、和歌森太郎先生の『美保神社の研究』によると、中世末、京都から流れてきて、この地で憤死した太田政清という名の公卿が最初に始めた、と説明されています。しかし、中世以前の祭礼・行事の体系はまったく別だったのかもしれません。(次号に続く)
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2 日常的な信仰から見つめ直す「日本人の天皇」
──島根県松江市・美保神社の巻 その2
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出雲(いずも)・島根の旅を続けます。
松江市・美保(みほ)神社の目の前には猫の額ほどの美保湾があり、湾を取り囲んで古い旅館が肩を寄せ合っています。じつに静かなたたずまいです。
けれども、昔からそうだったのか、といえば、そうではないようです。かの小泉八雲(こいず・やくも)が「日が落ちると美保関(みほのせき)は西日本でもっとも陽気でにぎやかな港町に早変わりする」と書き残しているからです。
そのにぎわいは何に由来していたのか。ふつうには全国的な海の民の信仰対象として知られる美保神社ですが、八雲の時代には漁民だけではなく、稲作農民の信仰を集めていました。前号で書いたように、「種替(たねかえ)神事」のような神事が行われていたからです。
その昔、閑院宮(かんいんのみや)親王殿下や二条公爵も、そして八雲も投宿したという由緒ある老舗(しにせ)旅館に宿を取った私は、「種替神事」が行われた節分のころのにぎわいについて、人生の大先輩である女将(おかみ)さんに聞いてみました。
▽2 失われた祭り
女将さんによると、昭和20年代まで、節分のころは蒸気船の臨時便が増発されるほどで、岡山や広島などからの宿泊客で、9軒ある旅館は大いににぎわったそうです。「節分詣り(まいり)」と呼ばれたそうですが、それは節分行事というより、むしろ旧正月の年越えで、人々は深夜に神社に参拝し、年越しそばを食べた。新暦の正月よりもにぎやかだった、というのでした。
しかし、いつのことか、節分祭それ自体が絶えました。そして種替神事は幻と消えました。したがって節分詣りがそもそも新年を迎える正月行事だったのか、それとも稲作儀礼としての田の神迎えだったのか、よく分かりません。
代々、美保神社に奉仕する横山宮司さんに聞いても同じでした。
「親父が昭和19年に亡くなり、そのころ神職の顔ぶれががらりと変わった。当時の日誌は紙質が悪く、ボロボロで読むに読めない。祭儀についての記載も見当たらない。いまでは節分祭の内容は分からない」
記録が失われているだけではありません。大正末期の生まれの宮司さん自身の記憶にもない、と嘆くのでした。
▽3 稲作の祭礼があった
あらためて古い文献を探してみることにしました。
すると、『国幣中社美保神社明細図書』(明治19[1886]年)に、御田植祭および田実祭(たのみのまつり)に関する記述があるのを見つけました。
旧暦五月一日に行われる御田植祭、同じく旧暦八月一日の田実祭は古来、美保郷内および美保関、森山村、下宇部尾村、七類浦、諸喰浦、雲津浦などが神領つまり神社の所領だったころはずいぶんと盛んだったというのですが、豊臣氏の時代に所有権が離れてから、祭りが絶えてしまった、と漢字カタカナ交じりで書いてあります。
つまり、豊臣氏が神領を没収するまで、美保神社では稲作の祭礼が行われてきたということになります。
そのほか、五月一日の式年祭に「出雲十郡」と呼ばれた旧神領地からお供えが献上されたことを裏づける、江戸末期のものらしい禁制札も残されています。社殿の造営は神領民が奉仕し、献上は神領地の没収後も続きました。それぞれの旧神領地には美保神社の分霊をまつる神社があるといわれます。
他方、田実祭りの方は、といえば、おそらく八月一日に行われる八朔(はっさく)の祭りなのでしょうが、お祭りの内容はまるで分かりません。
とはいえ、田植えが終わり、一番草の除草がすんだあと、豊作祈願に参拝する農家の楽しみは昭和20、30年ころまで続いたようです。
▽4 八雲が見た農村風景
このときは市が立つほどのにぎわいから、「夏市」と呼ばれました。米や濁り酒を持参してお詣りする宿泊客は旅館の廊下にまであふれ、宿にとっては1年でもっとも多忙をきわめるかき入れ時だった、と老舗の女将さんは語ります。
参詣者は神社で「関札(せきふだ)」と呼ばれる神札(おふだ)と榊(さかき)、神水の授与を受けました。神札は虫除けのために水田の畦に立てられ、神社の山からわく宮水は干ばつよけのため農業用水の水口(みなくち)に注がれました。
そんな農村の風景を八雲が記録しています。
八雲が松江にやってきたのは明治23年8月でした。姫路から人力車に乗り、山を越え、津山を経て、山陰街道に出た八雲は、鳥取県の山あいで「田んぼのいたるところに何か奇妙なもの」を見ました。
それは、榊の三つ葉を頭にして竹ざおにはさんだ、ほかならぬ美保神社の神札でした。「まるで青々とした野面に点々と白い花でも咲いているようだった」と表現されています。
けれども、緑の稲田に映える「祈願の矢」はいまは見られません。「迷信因習の打破」などを目標に掲げる、戦後の「新生活運動」で、村を代表して神社にお詣りした代参者が帰宅後、各農家に神札などを配る風習はすっかり廃れたからだ、と宮司さんが説明していました。
そうはいいながら、稲作信仰の名残はかすかではありますが、美保神社の神事のなかにうかがえます。
▽5 稲作信仰の残映
たとえば、美保神社の祭神・三穂津姫命(みほつひめのみこと)の神紋(シンボル・マーク)は「二重亀甲(きっこう)」に「渦雲(うずくも)」がデザインされたものですが、これは祭神が雲に乗って高天原(たかまがはら)から稲穂をもたらしたという伝説に由来しています。
稲をたずさえて天降ったという伝説はいうまでもなく、日本という国の成り立ちに関連する天孫降臨(てんそんこうりん)神話が知られますが、そればかりでなく地方にはいろいろ類似する神話が伝えられているようです。
それはともかく、美保神社の神紋はもっとも古くは「鶴丸」のデザインが用いられました。たとえば、いまでも有名な蒼柴垣(あおふしがき)神事に登場する猿田彦(さるたひこ)が着る上着には径1尺におよぶ大きさの「鶴丸」の神紋があしらわれています。
鶴が美保神社から周辺地域に稲を伝播させた、という伝承があり、それに基づいているのですが、それはまぎれもなく神社が稲作信仰の中心だったことの証明です。
朝廷に領土をゆずったという「国譲り」神話に由来するのが蒼柴垣神事ですから、つかわれる装束はこの神話に関係するのか、というと、そうではありません。たとえば、田楽(でんがく)の小袖(こそで)は、空を飛ぶ鶴と稲束の刺繍がいくつも施されています。
このように美保神社の祭礼は漁民の信仰というより、稲作民の信仰が濃厚に反映されているのです。
一般的には海の民の神社として知られる美保神社の祭礼は、和歌森太郎先生の『美保神社の研究』によると、中世末、京都から流れてきて、この地で憤死した太田政清という名の公卿が最初に始めた、と説明されています。しかし、中世以前の祭礼・行事の体系はまったく別だったのかもしれません。(次号に続く)
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