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3 日常的な信仰から見つめ直す「日本人の天皇」──島根県松江市・美保神社の巻 その4 太平洋を縦横無尽に疾走する海の民の信仰 [天皇・皇室]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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 3 日常的な信仰から見つめ直す「日本人の天皇」
   ──島根県松江市・美保神社の巻 その4
     太平洋を縦横無尽に疾走する海の民の信仰
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▽1 所功先生の新著に感謝しつつ

 出雲・島根の旅をつづけます。美保神社の巻は今号で終わります。

 いつものように前号までのおさらいをするまえに、つい最近、発刊された所功・京産大教授の『天皇の「まつりごと」──象徴としての祭祀と公務』について気になることがありますので、軽く触れたいと思います。

 著者からご寄贈いただいた本なので、批判めいたことはいいにくいのです。しかも拙著を巻末の参考文献のなかに明記してあるのでなおさらなのですが、逆にそれだからこそ、蛮勇をふるってひと言申し上げます。

 先生の新著は、さすが専門家らしく、宮中祭祀の内容や法律関係について詳しいのですが、ジャンルがご専門からいったん外れると、記述内容が通俗論的になってしまうようです。

 たとえば、84ページのコラム「プラス7 ジャポニカの『コクホーローズ』」です。「お米には大別してインディカとジャポニカがある」という書き出しで始まり、両者は粒の形、粘り気に違いがあるというような趣旨の記述が続いています。

 ああ、分かっていないな、と私は思いました。

 といって、私は所先生を批判するつもりはありません。天皇はきわめて多角的、多面的存在ですから、総合的にアプローチする必要があります。専門分野を深く探求することを使命とする学術研究者にはおのずと限界があります。学問領域が細分化されている現代なら、なおのことです。

 つまり、研究者の天皇論からは天皇の総体が見えない、ということを読者は肝に銘ずる必要があります。


▽2 受け入れて統合する天皇の祭り

 アジアで栽培される稲をジャポニカとインディカの2つの亜種(あしゅ)に分類できることを見出したのは九州大学の加藤茂※(しげもと。※は草かんむりに包)教授で、昭和3(1928)年のことでした。交配可能かどうかが分類の物差しでした。

 むろんジャポニカは丸くて粘りがあり、インディカはパサパサした長粒種であるというように簡単に割り切れるものではありません。東南アジアやインド世界にいけば、丸いインディカ米やモチ米が市場でふつうに売られ、食されています。外形や形質での分類は不完全です。

 最近はジャポニカとインディカは種(しゅ)が異なるとさえいわれているようです。

 所先生は、日本でご飯に食べられることが多いジャポニカが海外に広がり、最高品種にみがかれ、評価されているとコラムに書いているのですが、世界に広がった日本の米をジャポニカと簡単に書いてしまっては、天皇をテーマとする本の価値が半減してしまいます。

 拙著で紹介したように、佐藤洋一郎・総合地球環境学研究所教授(京都)によれば、日本の米は揚子江流域を起源とする温帯ジャポニカと東南アジア島嶼地域を源流とする熱帯ジャポニカが自然交雑して成立した、とされます。

 20年近く前に発表された、最先端の遺伝学による佐藤先生の「日本稲の南北二元説」は、考古学などほかの分野からも注目されているのですが、面白いのは、古代において熱帯ジャポニカと温帯ジャポニカとが自然交雑し、それによって早生(わせ)が生まれ、日本稲はまたたく間に北上することができた、と説明していることです。

 そして佐藤先生は、両者の自然交雑は南九州で起きたと推理します。自然交雑で成立した日本の稲が、古代日本の建国物語である初代神武天皇の東征さながらに、日本列島に広がっていったのです。時代的にも両者は重なります。

 なぜ広がったのか、早生で東北地方でも栽培が可能になった、というだけなのか、そうではないと思います。佐藤先生に直接お話しして同意を得たことですが、美味しかったからでしょう。同様にして、今日、人々の命を支える食糧としての価値が高いからこそ、日本の米は世界に広がったのです。

 遺伝的に系統が異なる稲の自然交雑によって日本稲が生まれたように、統合による新たな価値を見出していくのは日本の文明の特徴であり、その中心には受け入れて統合する天皇の祭りがあります。所先生はもしかしたら、重要なこの本質を見落としているのかもしれません。

 天皇の祭祀をいかに詳しく説明したとしても、そこに文明的な大きな価値が見出せないなら、アナクロニズムに終わってしまいます。拙著などで詳しく論じ、批判した入江侍従長の「簡素化」や原武史教授の「廃止」論が出てくるのは、理由のないことではありません。


▽3 日御碕神社と美保神社の類似

 というわけで、先週までのおさらいです。

 漁業の神様として知られる美保神社に稲作の信仰が伝えられているというお話をしてきました。その稲作というのは水田稲作とは異なるもので、より古い縄文の信仰であろうと想像されます。美保神社が2つの本殿から成り立っているのも、岬と先島をめぐる縄文人の自然観・神観に由来するのではないか、と思います。

 岬と先島を神聖視する観念は、興味深いことに、同じ島根県にある日御碕(ひのみさき)神社にも指摘されます。

 日御碕神社には皇室の祖・天照大神(あまてらすおおかみ)をまつる「下の社」と素戔嗚尊(すさのおのみこと)をまつる「上の社」の2社から成り立っています。そして社伝によれば、「上の社」は素戔嗚尊(すさのおのみこと)がしずまるとされる隠ケ丘(かくれがおか)の社、「下の社」は経島(ふるしま)の百枝槐(ももいだみたま)社を遷(うつ)したとされています。

 隠ケ丘は日御碕神社の背後にある岬の小高い丘で、目の前に浮かぶのが経島です。日御碕神社の「上の社」と「下の社」には、岬と先島の信仰的関係が投影されているということになります。

 それなら美保神社はどうでしょうか。島根半島の西端に立地するのが日御碕神社なら、東の端にしずまるのが美保神社です。同様のことが見いだせるのかどうか。さっそく半島の東端にまで足を運んでみました。

 すると案の定でした。島根半島の東の先端は地蔵岬ですが、ここには遥拝所(ようはいじょ)があり、美保神社の境外末社(境内の外にある関連神社)と位置づけられる地之御前(じのごぜん)、沖之御前(おきのごぜん)を一直線に拝することができます。岬と先島の関係が一目瞭然です。

 祭神・事代主命が釣りをしたとされる沖之御前は一見すると凝灰岩の単なる岩礁ですが、じつは千数百年前に火を噴いていた海底火山だといわれます。5月の神迎(かみむかえ)神事では、深夜、神楽を奏しつつ、神舟でここに向かい、沖之御前、地之御前の神を迎えるそうです。まぎれもなく岬と先島をめぐる神の道を伝える神事です。

 とすると、日御碕神社とは異なり社伝が失われている美保神社ですが、日御碕神社に上の社と下の社があるように、美保神社に2つの本殿があるのは、岬と先島の古い信仰の投影といえるのかもしれません。


▽4 想像を絶するほど壮大な神話世界

 別な言い方をすると、朝廷の物語が伝わってきて信仰の世界が広がったのではなく、そのはるか以前から壮大な神話世界がここにあったということでしょう。美保神社の稲作信仰もその枠組みで見直されなければなりません。国家の中枢から見た神々の世界と共存して、地方には地方の神々の宇宙が存在しているということです。

 美保神社の信仰圏は但馬(たじま)以西に広範囲に広がっています。土佐・高知から海流に乗せて奉納された「鳴り物」もあるくらいです。美保神社の祭神は鳴り物を好まれるという信仰があり、しばしば楽器が奉納されます。むかしは参拝して楽器を収めるのではなく、海流に乗せて奉納する人もいたようです。

 そのほか瀬戸内や九州沿岸、さらに遠く新潟北部や北海道沿岸にも信仰圏は及んでいるそうです。人々の信仰が海でつながっています。

 たとえば、祭神の御穂須須美命が所造天下(あめのしたつくらしし)大神大穴持(おおなむち)神と高志(こし)の国の奴奈宜波比賣(ぬながはひめ)命とのあいだに生まれたとする神話は、北陸・越後(えちご)との交渉を物語っています。

 島根半島は縄文時代まで、地続きの半島ではなく、完全な島だったようですが、古代出雲人は朝鮮半島などから「国引き」し、その結果、半島になったと考えたようです。大陸移動説を思わせる気宇壮大な物語は古代朝鮮との交渉を想像させます。

 横山宮司さんが聞かせてくれたお話は想像を絶するほど、もっと壮大です。美保神社の諸田船神事と長崎の「ペーロン(爬竜)」、沖縄の「ハーリー」とが似ている。それだけではなく、世界につながっている、というのです。

 民俗学者の直江広治先生によると、これらは華中・華南に広く分布する端午節の竜船競漕行事の伝播・受容だと説明しています。しかしそう簡単にいっていいものなのかどうか、私は疑問です。


▽5 ニュージーランド先住民との近似性

 国内では、長崎県対馬・海神(わたつみ)神社の「船ぐろ」、愛媛の「漕(こ)ぎぬき」、山口の「押船(おしふね)」など、競漕は各地に伝えられています。

 しかし海外に目を転じると、東南アジア諸地域にも広く分布し、さらにニュージーランドの先住民マオリにもあるようです。マオリが使うのは船体が2つあるダブルカヌーで、船体が1つしかない美保神社の諸田船とは異なりますが、横山宮司さんにいわせると「漕ぎ方が似ている」そうです。

 類似が見られるのは、なにがしかの歴史的なつながりがあるからかもしれない。そう思った私は、マオリの歴史をひもときました。

 国立民族学博物館の石森秀三先生は、太平洋の広い地域に住むポリネシア人はもともと東南アジア地域に住んでいたモンゴロイド(黄色人種)で、紀元前3000年ごろは中国南部に居住していたが、中国大陸での民族移動の影響を受けて、太平洋地域に押し出された。ポリネシアには紀元前1200年ごろに到達した、と説明しています。

 美保神社の横山宮司さんが美保関周辺の主食は芋だったというように、マオリの生活を支えるのはヤムイモやタロイモなどの根菜です。

 日本語とマオリ語の類似も指摘されます。たとえばマオリ語の「ミオ」は「先端」を意味しますが、なるほど「美保」神社は島根半島の東の「先端」にあります。美保神社最大の祭りは12月の「諸田船(もろたぶね)」神事ですが、マオリ語の「モロト」は「内海用」の意味です。なるほど神事は美保湾の内海で氏子たちが競漕します。

 マオリには、日本の男女2神による「国生み」や天照大神の「天の岩戸隠れ」に似た神話も伝えられているそうです。

 数千年の時を超えて見出される、美保神社とニュージーランド先住民の驚くほどの近さです。


▽6 海の民の信仰

 美保神社の真正面に、湾をへだてて向き合う山があります。祭神の三穂津姫命が稲穂をたずさえて天降ったとされる客人(まろうど)山です。客人社がしずまり、尾根上には古墳があります。

 諸田船神事は「八百穂祭(いやほのまつり)」とも呼ばれ、秋の収穫を祝う新嘗の祭りでもありますが、神事ではまず2艘のくり舟をこぎ出したこぎ手たちが海上から客人社に拝礼し、競漕はそのあとに始まります。

 山のふもとにしずまる神社は地主社と呼ばれ、事代主命もしくは御穂須須美命がしずまると伝えられます。神社のさや堂のなかはストーンサークルで、古い時代を感じさせます。和歌森先生によれば、事代主命の墓だという伝承もあるそうです。

 水田稲作が大陸から伝わってくるはるか以前に、熱帯ジャポニカの稲や里芋、粟(あわ)などの焼畑(やきはた)農耕が、東南アジア島嶼地域から台湾、沖縄・南西諸島とつづく「海上の道」を通って伝来したといわれます。

 しかし私には、どこからどこへ伝わった、というのではなく、広大な太平洋文化圏を海流に乗って縦横無尽に疾走する海の民の勇姿が見えます。彼らこそ、美保神社を自分たちの守り神として、そして稲作の神として、信仰したのでしょう。(この項、終わり)

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