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橋本明さんの見かけ倒し、西尾幹二先生のお門違い───「WiLL」10月号の緊急対談を読む [橋本明天皇論]


以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2009年9月1日)からの転載です


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2 橋本明さんの見かけ倒し、西尾幹二先生のお門違い
 ───「WiLL」10月号の緊急対談を読む
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 今週も橋本明『平成天皇論』の批判を続けます。ただし、予定を変更して、雑誌「WiLL」10月号に掲載されている、橋本さんと西尾幹二先生の「雅子妃問題・緊急対談 雅子妃のご病気と小和田王朝」を取り上げ、批判することにします。

 すでに何度も指摘しているように、この問題のポイントは大きくいえば、3点です。つまり、(1)議論の手法、(2)天皇・皇室観、(3)事実認識の3つです。


▽正確にいえば「昔の級友」

 まず第1に、議論の手法について。

 西尾先生は、「雅子妃問題」を皇太子妃殿下個人の問題ととらえ、療養中の妃殿下に対して、「船酔い」で船に乗っていられないなら「下船せよ」と迫ります。

 一方、橋本さんは、「2代目」の皇太子殿下は公務の大半が単独行動で、今上天皇と皇后陛下がお2人で積み重ねてこられた「象徴天皇」像の継承が難しい、という理由から、殿下の「廃太子」を勧めています。

 西尾先生も、「陛下の級友」の橋本さんも、いずれもマスコミという公の場で議論を進めようとしているところに最大の共通性があります。そして、問題の解決を望んでいるように見せかけて、逆に社会の混乱を呼び寄せているように、私には見えます。

 お2人の対談がのっけから興味深いのは、とくに橋本さんが「級友」を自任し、特別親密な立場から「天皇の心を推し量ることに全力を挙げた」と、あたかも陛下の意思に基づいた「象徴天皇」論であるかのように精いっぱい装いながら、見かけ倒しが見え見えだということです。

 橋本さんは対談の冒頭で、著書の執筆に当たって「天皇に直接、お聞きしなかった」と告白していますが、それどころか「直接、聞ける」立場にないのだろう、と私は想像しています。

 というのも、橋本さんの一連の文章や発言に例示される今上陛下との直接的会話や交流は、50年前の学習院時代か、20年以上前の皇太子時代といった古い記憶しか見当たらないからです。

 橋本さんは、いまも交流が続く「級友」ではなくて、かつて机を並べていた「昔の級友」なのでしょう。


▽友人同士の言語空間を逸脱

 そもそも友人関係というのは、お互いに親友だと認め合えばいいことです。他人に向かって「俺はあいつと友だちだ」などと、ことさら公表する必要はありません。

 しかもです。その親友が取り返しのつかない、大きな過ちを犯しているとしたら、もし親友だというのなら、直接、面と向かって諫言(かんげん)すればいいのです。いくらいっても分かってくれない友人なら、机をたたき、涙を流し、ときには命を張ってでも、説得するはずです。

「友のために命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と教えたのはイエス・キリストですが、それが親友です。書店に並ぶ分厚い本を書いている時間などないし、その必要もありません。私信で十分です。

 橋本さんが、「皇室は日本文化の砦(とりで)で、いちばん大事なもの」といいつつ、マスコミなど第三者の力を借り、安易に国民的な議論を喚起しようとするのは友情に反することで、橋本さん自身の言葉を借りるなら、「気楽」な印象さえ受けます。

 要するに、親友という立場をすでに失い、余人を交えない親友同士の言語空間を失っているため、直接的に進言したくても、できないのでしょう。そして、もはや「級友」としての言語空間を逸脱した橋本さんの進言は、「級友」としての立場をも、いまや完全に放棄することになったのではないかと心配します。

 皇室が「残さなくてはならない、いちばん大事なもの」だとすれば、公の場で議論するには、それなりの節度があってしかるべきですが、あるべき節度を失っているのは友情を失っている結果でしょう。

 皇太子ならまだしも、天皇は私なきお立場です。すべての国民の天皇であるなら、一部の人間の「友人」という立場はとれません。橋本さんは「陛下の級友」を一方的に装っているに過ぎないということです。


▽問題を直視しないのではない

 さらに橋本さんは、「天皇陛下や宮内庁から反応はあったか」という西尾先生の問いに、「とくにない」と答え、「とくに問題がないからだと思っている」と解説していますが、独善の上塗りというべきです。

「争わずに受け入れる」のが天皇の帝王学であり、したがって天皇は臣下を批判なさらないのです。反応がないのは「とくに問題がない」ことの証明にはなりません。もし「天皇無敵」という天皇のお立場を知ったうえで、自己正当化に利用しているのなら、いよいよ罪が深いといわねばなりません。

 西尾先生もまた「ご忠言」にふさわしい言語空間を見失っています。

 たとえば先生は、皇室問題について知識人たちがそろって「妃殿下には問題はいっさいない」といっていると指摘し、皇室の尊厳が内側から傷つけられ、汚されても、病気なら黙って治癒されることをお祈りしている以外にないといっている、と批判するのですが、これもまた橋本さんと同様、一方的な理解です。

「問題がない」と理解しているのではなくて、皇室を大切に思うがゆえに、公の場で議論すべきではない、と判断するからでしょう。問題を直視しないのではなく、国民としては静かに見守ることが重要だと考えるからです。

 西尾先生にはそうしたデリカシーが決定的に欠けています。

 妃殿下の一日も早いご快復を願うなら、とりわけ主治医を複数にするなど、治療体制の改善が必要だというのなら、私も同感ですが、そのように進言すれば足りることです。「下船せよ」だの「廃太子」だのと、マスメディアを使って声を張り上げれば、張り上げるほど、妃殿下のご快復はますます長引くでしょう。もしやそれがほんとうの目的でしょうか。

 西尾先生も橋本さんも、宮中に頻繁に出入りする小和田家の人々に節度を求め、「小和田王朝の危険」さえ指摘しています。節度は間違いなく必要ですが、節度を求められているのは小和田家の人々だけではなさそうです。


▽橋本さんたちこそ「つべこべ」

 第2に、天皇・皇室観です。

 西尾先生も橋本さんも、(1)一夫一婦天皇制、(2)徳治主義、(3)倫理的要求のドグマから抜け出せないでいます。

 橋本さんはこう述べています。「両陛下がお互いに協力し合って支えるところに『日本の皇室』を守る姿があった」。

 一方、西尾先生は、「現実を見ない人たちは、雅子妃の現状に問題がないことの論拠として、宮中祭祀は天皇が行うもので、皇后が行うものではない、と強調している」と指摘し、これに同意する橋本さんは「論点のすり替え、『つべこべ』だ」と非難しています。

 さらに、「『天皇はひとりでやっていればいい』ということだ。けしからん」(橋本)、「香淳皇后は戦争中、どれだけ昭和天皇を支えたか」(西尾)、「支え合っている姿が重要なんじゃないか」(橋本)と2人の批判はとどまるところを知りません。一夫一婦天皇制こそ本来のあり方であるかのような口ぶりです。

 たしかに、いまは「天皇皇后両陛下」と併称され、宮内庁発表はお2人がおそろいでご公務をこなされているように発表し、マスコミもそのように報道しています。けれども、昔は天皇を「上御一人(かみごいちにん)」と呼び、さらに古くは「陛下」は天皇のみの尊称だったのです。いまも憲法上の国事行為は天皇のみが行います。

「つべこべ」と議論をすり替えているのは、橋本さんたち自身なのです。

 両陛下が互いに支え合うお姿は麗しいことですが、その美徳が天皇制を維持する要因ではありません。天皇は国と民のため無私なる祈りを捧げることを第一のお務めとし、国民の多様なる天皇意識が皇室を支えてきたのであって、天皇皇后両陛下の意識的な行動が皇室を守ってきたのではないと私は考えます。

 したがって、雅子妃問題が国民の天皇意識を揺るがしている。皇室は徳治の世界だが、東宮ご夫妻は逸脱している、などとして、両殿下に倫理性を要求するのも誤りです。

 橋本さんが、皇室を徳治の世界と考える根拠はいったい何でしょう。有徳の士が皇位に就くのではなくて、皇位は世襲によって継承されています。そして祭祀を重ねることで徳を磨かれるのが天皇なのです。


▽まったく逆の事実認識

 3番目、最後は、事実認識の問題です。これには2つの問題があります。(1)雅子妃問題の経緯、(2)陛下のご心痛とは何か、の2つです。

 西尾先生は、自分が「ご忠言」を書いたのは、「両陛下が心配でならなかったからだ。ご病気もあるし、皇統問題や東宮家のことでご心痛が重なっているようにお見受けした」と説明しています。

 そして「案の定、昨年12月、羽毛田長官がご心痛を報告され、皇室が妃殿下にとってストレスであるとの考えに傷つかれたと仰せになった。妃殿下のお振る舞いに対する天皇のご心痛は、同時に国家、国民の問題でもあるからだ」と続けています。

 長官は両陛下が妃殿下のお振る舞いについて心を痛めていることを明らかにしたが、自分はそのことを予見していた、と西尾先生は自慢げですが、まったくのお門違いです。

 もう少し正確に引用すると、昨年暮れの長官「所見」は、こうです。

「妃殿下の適応障害との診断に関し、『皇室そのものが妃殿下に対するストレスであり、ご病気の原因ではないか』、また『妃殿下がやりがいのある公務をなされるようにすることが、ご快復の鍵である』といった論がしばしばなされることに対し、皇室の伝統を受け継がれて、今日の時代の要請に応えて一心に働き続けてこられた両陛下は、深く傷つかれた」

 今上陛下が妃殿下の行動自体に心を痛めているのでもありません。

 いみじくも長官の「所見」は、「天皇陛下は、皇后陛下とともに妃殿下の快復を願われ、心にかけてこられた。この数年、一部の報道の中に『両陛下は、皇太子妃殿下が公務をなさらないことを不満に思っている』『両陛下は、皇太子、同妃両殿下がオランダに赴かれたことに批判的であった』といった記事が散見されるが、妃殿下がご病気と診断されてこの方、両陛下からこのたぐいのお言葉を伺ったことは一度もない」と、逆の内容になっています。


▽的外れの「所見」を先取りしたトンチンカン

 何度も申し上げてきたことですが、この長官の「所見」自体にこそ、誤解を招く原因があります。

「所見」は陛下のご不例のあと、発表されました。医師が「急性胃粘膜病変があったのではないか」と説明した2日後、長官は何を思ったか、「ここ何年かにわたり、ご自身のお立場からお心を離れることのない皇統の問題をはじめ、皇室に関わるもろもろの問題をご憂慮のご様子……」と述べ、東宮家の問題に言及したのです。

 陛下のご病気が「急性」なら、その原因とされる心身のストレスが「ここ何年かにわたる」問題であろうはずはありません。「所見」自体が的外れなのです。

 トンチンカンな「所見」を先取りして、「ご忠言」を書いた、などというのは、誇るべきことではありません。むしろ逆でしょう。

 西尾先生は「皇室の『民を思う心』と国民の信仰が一致している。その関係が危うくなっていくのではないかというのが、雅子妃のご不例以降の問題である」と語り、一方、橋本さんは「東宮は雅子妃のご病気によってガタガタになってしまった」と述べて、もっぱら妃殿下あるいは両殿下を非難します。

 しかし、平成11年暮れに、全国紙が妃殿下の「懐妊の兆候」をスクープし、その後、流産という悲劇を招いた「勇み足」報道がそもそもの発端であることへの説明は、対談のどこにも見当たりません。情報をリークした宮内官僚とプライバシー暴きを続けるマスコミという外的要因を、西尾先生も橋本さんも完全に黙殺しています。

 ところで、西尾先生は、妃殿下が精神の病を抱えることになることなど、いくつも予感を的中させたと鼻を高くしています。それなら、先生が主張される妃殿下の「下船」のあと、どんなバラ色の世界が広がるとお考えなのでしょう。皇室の平安、社会の安定を招くことになるのでしょうか。

 少なくとも私はそのようには思えません。むしろ逆でしょう。したがって先生の意見に同調することはできません。

 長くなりましたので、今週はこの辺で終わります。 

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