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近代の肖像 危機を拓く 第443回 葦津珍彦(1)──「戦後唯一の神道思想家」を生んだ父・耕次郎の人間性 [葦津珍彦]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2011年3月1日)からの転載です


 明治時代に創刊され、百年以上の歴史を誇る宗教専門紙「中外日報」から依頼を受け、同紙長期連載「近代の肖像」に、葦津珍彦について3回連続で書きました。編集部の了解を得て、転載します。見出しなどは少し変えています。
http://www.chugainippoh.co.jp/NEWWEB/n-rensai/r-kindai005.htm


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近代の肖像 危機を拓く 第443回 葦津珍彦(1)
──「戦後唯一の神道思想家」を生んだ父・耕次郎の人間性
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葦津珍彦3.jpg
 葦津珍彦(あしづうずひこ)は神道人の間で、しばしば「戦後唯一の神道思想家」と呼ばれている。国土が焦土と化し、多くの尊い人命が失われた、敗戦という未曾有の危機に、日本独自の歴史と精神伝統を守ろうと決意し、以後、東奔西走、八十二年の生涯を送った。

 葦津は明治四十二(一九〇九)年、福岡に生まれた。代々、筥崎宮(はこざきぐう)(筥崎八幡宮)の社家だったが、闘う思想家の生涯は、父・耕次郎の存在を抜きにしては語れない。のちに葦津は「父の子でなかったら、私の思想は今日のものとはならなかった」と告白している。

 耕次郎は「俺の全生命は国家と八幡様のもの」という強烈な信念を終生、保ち続けた、激烈な神道の信仰者だった。社家に生まれながらも神職として一生を送ることはなく、事業家となり、しかも採算確実な商売には見向きもせず、前人未踏の分野を開拓することにのみ熱い情熱を傾けた。満州軍閥の張作霖を説いて鉱山業をおこし、あるいは、台湾から檜の大木を移入して、全国数百カ所に上る社寺を建設した。

 豪傑という言葉はこの人のためにあるのではないかと思うほど、逸話に事欠かない耕次郎だが、特筆すべきは戦前の大陸政策との関わりである。今日、日本の強権的植民地支配のシンボルとされる朝鮮神宮に、天照大神と明治天皇を祀ることについて、ほかならぬ神道人たちが民族融和の観点から強く抵抗した、知られざる歴史の中心人物だ。アジアとの融和という見果てぬ夢は、やがて葦津に受け継がれる。

 そもそも朝鮮神宮の歴史は、まだ二十代の耕次郎が明治の元勲・伊藤博文に直接、進言したことに始まる。

 伊藤が初代韓国統監となって赴任するおり、耕次郎は九州日報社長の福本日南を伴って、下関の春帆楼に伊藤を訪ね、「陛下の思召しである日韓両民族の融合親和のために、朝鮮二千万民族のあらゆる祖神を合祀する神社を建立せよ」と一時間余り、居並ぶ高位高官を前に弁じ立てた。枢密顧問官を兼任する伊藤は座布団をおりて傾聴したうえに賛同し、実行を約束する。

 しかし歴史は耕次郎を裏切る。

 その後、具体化した朝鮮神宮には天照大神と明治天皇が祀られるというのだ。とうてい容認できない耕次郎は斎藤実総督に面会を求め、「朝鮮人の祖神を祀るべきだ」と猛抗議した。

 京城・南山に朝鮮神宮が鎮座する大正十四(一九二五)年春から祭神論は沸騰し、初代朝鮮神宮宮司・高松四郎を含む、当時の名だたる神道人たちが反対運動を繰り広げた。なかでも耕次郎の「朝鮮神宮に関する意見書」は「日韓両民族乖離反目の禍根たるべし」と政府を強く批判している。

 社家に生まれた葦津珍彦がすんなりと神道人の人生を歩んだわけではない。むしろ若いころは無政府主義に傾倒したという。しかし根っからの神道人だった父・耕次郎の熱い人間性を見、日本的な忠誠心や同志の交わりの高貴さを知り、葦津は神道思想家としての一歩を踏み出す。

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