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「大喪の礼」の英訳はもともと複数形だった ──検証・平成の御代替わり 第5回 [御代替わり]


以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2011年10月3日号)からの再掲です

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「大喪の礼」の英訳はもともと複数形だった──検証・平成の御代替わり 第5回
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 前回は践祚(せんそ)を振り返りました。今回は御大喪です。

 当メルマガの202号に書いたように、石原信雄内閣官房副長官の著書によれば、昭和天皇崩御ののち、内閣に大喪の礼委員会が設置され、「どういう形で、いつ、執り行うか、新憲法のもとでどこまで伝統的な葬儀を執り行えるか、についてだいぶ議論」が行われ、その結果、「天皇家の公式行事として葬場殿の儀を行ったあと、国事行為の大喪の礼を行うという分離方式を採った」のでした。

 大喪の礼というのは過去の歴史にない新例で、皇室行事としての伝統的な葬場殿の儀に新例としての国事行為である大喪の礼を加え、しかも分離して挙行する方式が採られました。石原氏の説明によれば、葬場殿の儀に「宗教色がある」からでした。

 そして、宗教色がある葬場殿の儀に引き続いて、政府主催の国事行為として行われる大喪の礼は、宗教的なものである鳥居と大真榊(おおまさかき)を撤去して行われた、と石原氏は説明しています。


▽1 葬場殿の儀と大喪の礼の分離

 分離方式は、なぜ、どのようにして生まれたのか? なぜ鳥居と大真榊は撤去されたのか? 宮内庁の『昭和天皇大喪儀記録』(平成5年)の説明を、まず読んでみます。

 同記録「第1章 序説」によると、昭和天皇の崩御後、日本国憲法下ではじめて行われる御大喪のあり方について、憲法の趣旨に沿うかどうか、皇室の伝統を尊重したものかどうか、時代に即したものかどうか、などについて内閣を中心にあらゆる角度から慎重な検討がなされたのでした。

 その結果、皇室伝統の大喪儀を皇室の行事として、伝統に従い、旧制を斟酌して行われることとなり、一方、皇室典範第25条に定める大喪の礼は、国の儀式として、憲法の趣旨に沿い、かつ皇室の伝統を尊重して行うこととなったと説明されています。

 この解説から分かるのは、(1)皇室伝統の大喪儀を国の行事として行うことは憲法の趣旨に反すると考えていること、(2)皇室典範第25条に定められる「天皇が崩じたときは、大喪の礼を行う」の「大喪の礼」は皇室伝統の大喪儀とは別だと考えられていること、の2点です。

 内閣総理大臣官房がまとめた『昭和天皇大喪の礼記録』(平成2年)にも同様の説明がなされていますが、誰が、どのような理由で、そのように考えたのか?


▽2 宮内庁の公式記録の説明

 宮内庁の記録によると、昭和63年6月、つまり、昭和天皇の御体調が目に見えて思わしくなくなったころでしょう、宮内庁次長、管理部長、書陵部長、皇室経済主管、式部副長(儀式担当)、審議官をメンバーとする幹部会が設けられ、毎週定期的な協議が行われました。御病状の進展とともに、先例研究などが主要議題となったそうです。

 64年1月7日、陛下の崩御に伴い、大喪儀に係る重要事項の審議、決定、必要な連絡調整の事務を行う大喪儀委員会が設置されました。委員長は宮内庁長官、副委員長は宮内庁次長、侍従長、東宮大夫、式部官長、委員には審議官など、幹事に秘書課長などが就任し、毎日開催されました。

 内閣総理大臣官房の記録によれば、翌日、大喪の礼委員会が、内閣に設置されました。委員長に竹下登首相、副委員長に小渕恵三内閣官房長官、委員に味村治内閣法制局長官、小沢一郎内閣官房副長官、石原信雄内閣官房副長官、藤森昭一宮内庁長官が充てられました。

 宮内庁では旧制、先例についての検討が行われました。宮内庁の記録には、(1)皇室喪儀令の制定経過、(2)帝室制度調査局作成の皇室喪儀令案(上奏のもの)と皇室喪儀令の主な相違点、(3)天皇大喪儀に係る皇室喪儀令の概要、(4)貞明皇后大喪儀の先例、について解説されています。

 そのうえで、昭和天皇崩御の当日の大喪儀委員会で、皇室の伝統的方式に従い、旧皇室喪儀令、貞明皇后大喪儀等を斟酌して、などとする、大喪儀の挙行方針が決められたのでした。

 注目すべきは2点、(1)新例としての大喪の礼について、(2)葬場殿の儀と大喪の礼との関係、です。


▽3 葬場殿の儀は国事行為としては行えない

 宮内庁の記録によれば、皇室の葬制は旧皇室喪儀令で集大成された。昭和22年5月2日をもって廃止されたが、貞明皇后大喪儀、秩父宮雍仁親王喪儀、高松宮宣仁親王喪儀は旧皇室喪儀令に準じて行われた。昭和天皇大喪儀も旧皇室喪儀令に定める皇室の伝統的方式に従って行われるが、依るべき定めがなくなっているので、大喪儀委員会で挙行方針が定められたのでした。

 現行法制下では、皇室典範第25条に「天皇が崩じたときは、大喪の礼を行う」と定めているだけなのです。この「大喪の礼」は憲法第10条が天皇の国事行為の1つとして定める「国の儀式」として行われることを予定したものと解釈されるけれども、現行法には明文の規定がない。そこで、内閣に設置された大喪の礼委員会の協議を経て、そのあり方が決定された、と説明されています。

 そして、大喪の礼は大行天皇を広く国民および諸外国の代表とともに葬送申し上げる儀式として行われ、憲法の趣旨に沿い、皇室の伝統を尊重して行われることとされたのです。

 言い換えれば、皇室伝統の葬場殿の儀は国事行為として行えないと解釈されたのでした。その理由は、祭官、鳥居、大真榊が社会通念上、宗教的に重要な意義を有すると考えられ、儀式上、重要な要素を占めているから、「国はいかなる宗教的活動もしてはならない」と定める憲法に違反する疑いを否定することができない、と考えられたからです。

 このため、大喪の礼においては、宗教性を排除するため、祭官は退席し、鳥居・大真榊は撤去されたのでした。

 つまり、政府の大喪の礼委員会は、国に非宗教性を求めているのが憲法の政教分離原則だ、と解釈していたということになります。


▽4 別の日に行えば参列者の負担が増える

 次に、葬場殿の儀と大喪の礼との関係について、ですが、同じ日に、同じ場所で行われることになった理由を、同記録は、(1)皇室の伝統によれば、大行天皇にとって斂葬の儀は最後の行幸と観念されている、(2)外国からの参列者にとって、両儀が別の日に行われれば負担が増える、と説明しています。

 内閣の記録にも同様の説明がなされています。

 こうして28の各儀、6の関連行事からなる、1年にわたる大喪儀は行われたのでした。

 批判として、2点だけ指摘したいと思います。

 第1点は、皇室典範の規定について、第2点は石原氏が厳格な政教分離主義の急先鋒のように記述した内閣法制局について、です。

 まず、皇室典範ですが、なるほど第25条は「天皇が崩じたときは、大喪の礼を行う」と定めており、「斂葬の儀を行う」とは書いていません。新例としての「大喪の礼」を予定していると読めなくもありません。

 しかし皇室典範がどのように制定されたのか、を振り返れば、別の局面が見えてきます。


▽5 GHQとの摩擦を避けたいのに

 現行皇室典範の制定過程は、『皇室典範』(日本立法資料全集1、平成2年)で、その全容を知ることができます。

 それによれば、典範の立案作業は、昭和21年3月12日の閣議決定により設置された臨時法制調査会において行われました。会長は吉田茂首相、副会長は金森徳次郎国務大臣、閣僚、官僚のほか、学者、法曹家などが委員として参加しました。

 政府案として枢密院の審査にかけられ、第91帝国議会に提出された確定案は、たしかに「第25条 天皇が崩じたときは、大喪の礼を行う」と明記してあります。

 ところが、です。総司令部に最終的に提出したとされる、この確定案の英訳が残されており、それには「Article 25. When the Emperor dies, the Rites of Imperial Funeral shall be held.」と、「大喪の礼」が1つの儀式(the Rite)ではなく、諸儀礼(the Rites)として、複数形で翻訳されているのです。

 占領期からの歴史的つながりを持つ英文法令社の翻訳でも、「Article 25. Upon demise of the Emperor, rituals of Imperial Funeral shall be observed.」と複数形で表現されています。

 すでに申し上げましたように、法制局次長などとして憲法制定、皇室典範改正などに関わった井出成三氏は、皇室典範の改正過程で、GHQは日本側の原案をほとんど無修正で「アプルーブ」した、「原案そのものがかなり、GHQの態度を予測して、強い摩擦をよけて作成されていた」からだと証言しています(井出『皇位の世襲と宮中祭祀──皇室典範立案者の手記』)。

 GHQとの摩擦を避けたいなら、単数形で表現していいはずですが、立法者たちはそうはしなかったのです。皇室典範に規定されている「大喪の礼」は、新例としての「大喪の礼」ではなく、皇室伝統の形式による御大喪の諸儀礼を意味していると考える方が妥当だと私は思います。


▽6 内閣法制局長官は商法の専門家だった

 もう1点、内閣法制局について、です。

 石原氏の著書では、急先鋒は、味村治法制局長官以下、内閣法制局だった、とされています。「どう考えても、鳥居は宗教のシンボルだから、鳥居を置いたまま国事行為を行うわけにはいかない。絶対ダメだ」と主張したというのですが、なぜそうだったのか?

 味村氏はもっぱら法曹畑を歩み、最高裁判事にまで上り詰めた、そのキャリアからいって、法律のプロ中のプロでしょうが、そもそもは商法のスペシャリストであり、書き残された数十冊の著書は商法関連のものばかりです。

 だとすると、味村氏は宮中祭祀についての知識はほとんど乏しかったのではないかと想像します。その結果としての厳格な政教分離主義であり、平成の御代替わりに大きな影を落とすことになったのではないでしょうか?

 つまり、葬場殿の儀と大喪の礼とが分離して行われ、大喪の礼で鳥居や大真榊が撤去された理由は、皇室の伝統儀礼に宗教色があるからではなくて、天皇統治の本質、宮中祭祀の本質に関する、政府関係者の無理解にこそある、と私は考えます。

 神代にまで連なる歴史を持つ皇室に宗教性は不可分です。あえて宗教性を排除したいなら、天皇を否定するほかはありません。

 長くなりましたので、詳しくは稿を改めて書こうと思います。次回は即位の礼について、です。(「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン2011.10.3)

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