「闘い」にも似た今上陛下の強烈な祈り──東日本大震災発生から2年。慰霊の日に思う [東日本大震災]
以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2013年3月11日)からの転載です
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「闘い」にも似た今上陛下の強烈な祈り
──東日本大震災発生から2年。慰霊の日に思う
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当メルマガはこのところ、月刊「正論」3月号に掲載された百地章日大教授の拙文批判を検証していますが、今日は話題を変えて、以前から気になっているテーマについて、書こうと思います。
今日は慰霊の日です。東日本大震災発生からちょうど2年になります。政府主催の追悼式には陛下がご臨席になる予定です。
http://www.kantei.go.jp/jp/kakugikettei/2013/index.html
聞くところによると、「陛下は大震災発生以後の国難と闘っている(戦っている)」という捉え方をする人たちがけっこうおられるようです。私は間違いだろうと考えています。
大震災以後の状況を国難と理解することそれ自体は、間違ってはいないでしょう。陛下が犠牲者を心から悼み、被災者たちに心を寄せておられるのも事実でしょう。けれども、「闘い」というような表現は天皇には相応しくないでしょうし、まして特定の問題と「闘う」ということはあるべきことではないと思うからです。
▽1 後水尾天皇の「闘い」
歴史を振り返ると、たとえば、後水尾(ごみずのお)天皇という方がおられます。それこそ「闘い」を強烈に意識せざるを得なかった天皇でした。
大阪の水無瀬神宮に、若き日の後水尾天皇がお書きになった、驚愕の宸筆(しんぴつ)が残されています。
その昔、ここには後鳥羽天皇の別宮がありました。天皇は行幸のおり、「見渡せば山もと霞む水無瀬川 夕べは秋となにおもひけむ」とお詠みになりました。
400年後、水無瀬の地を訪れた後水尾天皇は、求められるままにこのお歌を宸翰(しんかん)されたのですが、末尾の「けむ」を「剣(けん)」とお書きになりました。
桃の節句の内裏雛は近ごろでは太刀を帯びていますが、本来、軍事に関することを避けられるのが天皇の帝王学で、「剣」の文字はただならないことでした。居合わせた人々が一様に驚いたと伝えられています。
後鳥羽天皇といえば、「詩聖」と称えられるほどの屈指の歌人であると同時に、北条氏との「闘い」を余儀なくされ、挙兵の挙げ句に失敗され、遠流(おんる)の身となられた、悲劇の天皇として知られます。後鳥羽上皇、土御門上皇、順徳天皇のお三方が配流されるという、まさに国難のときでした。
一方の後水尾天皇もまた下剋上の最終段階にあって、朝廷をも従えようとした徳川三代とのつばぜり合いを迫られた、危機の時代の天皇でした。なればこそ、後鳥羽天皇の御生涯にご自身の姿を投影され、「剣」とお書きになったものと想像されます。
しかしながら後年になると、さすがに円熟の境地に立たれました。皇室の弱体化を図ろうとする徳川幕府の策謀に従容と従い、争わずに受け入れるという至難の帝王学を実践され、徳治という天皇統治の本質を武の覇者である徳川氏に示され、皇室の尊厳を守られました。まさに天皇無敵です。
天皇は「闘い」とは別の世界におられます。考えてもみてください。今上陛下や皇族方はいつも穏やかで、柔和な笑みを絶やされません。いわれないバッシングのなかにあっても、険しい表情はなさいません。
どうしても「闘い」という表現を使わなければならないのだとすれば、それは「闘い」にも似た強烈な祈りの中におられるということでしょう。ひたすら民を思い、民の声を聞き、民のために祈るという心境は、いうまでもなく天皇第一のお務めである祭祀によって磨かれます。
後水尾天皇が第4皇子の後光明(ごこうみょう)天皇に心得を示された直筆の手紙には、順徳天皇の『禁秘抄』が引用され、「敬神を第一に遊ばすこと、ゆめゆめ疎(おろそ)かにしてはならない。『禁秘抄』の冒頭にも、およそ禁中の作法は、まず神事、後に他事……」と、天皇のもっとも重要なお務めは神事であることが明記されています。
▽2 最大の国難は何か
まして特定のテーマとの「闘い」を身に負っておられる、という理解は本来的ではありません。公正かつ無私なるお立場にあるのが天皇だからです。
今上天皇がにわかに御健康を害されたのは、4年半前のことでした。
平成20年暮れ、名川良三東大教授は検査結果を記者会見で発表し、「急性胃粘膜病変があったのではないかと推測される」と述べました。
身心のストレスによって急激に生じ、発症までは数時間から1、2カ月の間、という説明でしたから、胃部の症状が現れた12月2日からさかのぼって2カ月以内に何があったのか、が国民の関心事となりました。
羽毛田信吾宮内庁長官(当時)は「ここ何年かにわたり、ご自身のお立場から常にお心を離れることのない将来にわたる皇統の問題をはじめとし、皇室にかかわるもろもろの問題をご憂慮のご様子……」などと説明しましたが、まったく的外れです。「ここ何年か」のことが急性病変の原因ではあり得ないからです。
公正にして無私なるお立場で、つねに国と民のために祈られる天皇にとって、ご心労は数限りなくあり、ひとつに特定化することは正しい態度とはいえません。
しかしながら、急性病変を発症させるほどの強いストレスとは何だったのか、あえて推測するとすれば、リーマン・ショック後の経済危機に思い当たります。
いみじくも翌年の「新年のご感想」で、今上陛下は、「秋以降、世界的な金融危機の影響により、我が国においても経済情勢が悪化し、多くの人々が困難な状況におかれていることに心が痛みます」と、「百年に一度」ともいわれる経済危機の影響を心配され、「国民の英知を結集し、人々の絆を大切にしてお互いに助け合うことによって、この困難を乗り越えることを願っています」と国民を鼓舞しました。
http://www.kunaicho.go.jp/gokansou/gokansou-21.html
国民の喜びのみならず、憂いや悲しみ、そして命をも共有しようとするのが天皇です。わが治世にあって、住む家も、仕事もなく、苦しんでいる国民がひとりでもいるのは申し訳ない、と陛下はご健康を害されるほどに、深く心を痛めておいでなのでした。
あれから4年半、円安が進んで、株価がリーマン・ショック以前の水準を取り戻した、とメディアは伝えています。
東日本大震災から2年、国難は続いています。しかし最大の国難は大震災ではなく、国と民のために祈るという天皇の歴史的なあり方が、あろうことかほかならぬ側近たちによって脅かされていることです。
百地先生のような保守派の論客でさえ、天皇の祭祀=「皇室の私事」説に固まっています。これにまさる国難があるでしょうか? 「陛下は大震災以後の国難と闘っている」という理解は、国民の目を最大の国難からそらさせることになります。
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「闘い」にも似た今上陛下の強烈な祈り
──東日本大震災発生から2年。慰霊の日に思う
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当メルマガはこのところ、月刊「正論」3月号に掲載された百地章日大教授の拙文批判を検証していますが、今日は話題を変えて、以前から気になっているテーマについて、書こうと思います。
今日は慰霊の日です。東日本大震災発生からちょうど2年になります。政府主催の追悼式には陛下がご臨席になる予定です。
http://www.kantei.go.jp/jp/kakugikettei/2013/index.html
聞くところによると、「陛下は大震災発生以後の国難と闘っている(戦っている)」という捉え方をする人たちがけっこうおられるようです。私は間違いだろうと考えています。
大震災以後の状況を国難と理解することそれ自体は、間違ってはいないでしょう。陛下が犠牲者を心から悼み、被災者たちに心を寄せておられるのも事実でしょう。けれども、「闘い」というような表現は天皇には相応しくないでしょうし、まして特定の問題と「闘う」ということはあるべきことではないと思うからです。
▽1 後水尾天皇の「闘い」
歴史を振り返ると、たとえば、後水尾(ごみずのお)天皇という方がおられます。それこそ「闘い」を強烈に意識せざるを得なかった天皇でした。
大阪の水無瀬神宮に、若き日の後水尾天皇がお書きになった、驚愕の宸筆(しんぴつ)が残されています。
その昔、ここには後鳥羽天皇の別宮がありました。天皇は行幸のおり、「見渡せば山もと霞む水無瀬川 夕べは秋となにおもひけむ」とお詠みになりました。
400年後、水無瀬の地を訪れた後水尾天皇は、求められるままにこのお歌を宸翰(しんかん)されたのですが、末尾の「けむ」を「剣(けん)」とお書きになりました。
桃の節句の内裏雛は近ごろでは太刀を帯びていますが、本来、軍事に関することを避けられるのが天皇の帝王学で、「剣」の文字はただならないことでした。居合わせた人々が一様に驚いたと伝えられています。
後鳥羽天皇といえば、「詩聖」と称えられるほどの屈指の歌人であると同時に、北条氏との「闘い」を余儀なくされ、挙兵の挙げ句に失敗され、遠流(おんる)の身となられた、悲劇の天皇として知られます。後鳥羽上皇、土御門上皇、順徳天皇のお三方が配流されるという、まさに国難のときでした。
一方の後水尾天皇もまた下剋上の最終段階にあって、朝廷をも従えようとした徳川三代とのつばぜり合いを迫られた、危機の時代の天皇でした。なればこそ、後鳥羽天皇の御生涯にご自身の姿を投影され、「剣」とお書きになったものと想像されます。
しかしながら後年になると、さすがに円熟の境地に立たれました。皇室の弱体化を図ろうとする徳川幕府の策謀に従容と従い、争わずに受け入れるという至難の帝王学を実践され、徳治という天皇統治の本質を武の覇者である徳川氏に示され、皇室の尊厳を守られました。まさに天皇無敵です。
天皇は「闘い」とは別の世界におられます。考えてもみてください。今上陛下や皇族方はいつも穏やかで、柔和な笑みを絶やされません。いわれないバッシングのなかにあっても、険しい表情はなさいません。
どうしても「闘い」という表現を使わなければならないのだとすれば、それは「闘い」にも似た強烈な祈りの中におられるということでしょう。ひたすら民を思い、民の声を聞き、民のために祈るという心境は、いうまでもなく天皇第一のお務めである祭祀によって磨かれます。
後水尾天皇が第4皇子の後光明(ごこうみょう)天皇に心得を示された直筆の手紙には、順徳天皇の『禁秘抄』が引用され、「敬神を第一に遊ばすこと、ゆめゆめ疎(おろそ)かにしてはならない。『禁秘抄』の冒頭にも、およそ禁中の作法は、まず神事、後に他事……」と、天皇のもっとも重要なお務めは神事であることが明記されています。
▽2 最大の国難は何か
まして特定のテーマとの「闘い」を身に負っておられる、という理解は本来的ではありません。公正かつ無私なるお立場にあるのが天皇だからです。
今上天皇がにわかに御健康を害されたのは、4年半前のことでした。
平成20年暮れ、名川良三東大教授は検査結果を記者会見で発表し、「急性胃粘膜病変があったのではないかと推測される」と述べました。
身心のストレスによって急激に生じ、発症までは数時間から1、2カ月の間、という説明でしたから、胃部の症状が現れた12月2日からさかのぼって2カ月以内に何があったのか、が国民の関心事となりました。
羽毛田信吾宮内庁長官(当時)は「ここ何年かにわたり、ご自身のお立場から常にお心を離れることのない将来にわたる皇統の問題をはじめとし、皇室にかかわるもろもろの問題をご憂慮のご様子……」などと説明しましたが、まったく的外れです。「ここ何年か」のことが急性病変の原因ではあり得ないからです。
公正にして無私なるお立場で、つねに国と民のために祈られる天皇にとって、ご心労は数限りなくあり、ひとつに特定化することは正しい態度とはいえません。
しかしながら、急性病変を発症させるほどの強いストレスとは何だったのか、あえて推測するとすれば、リーマン・ショック後の経済危機に思い当たります。
いみじくも翌年の「新年のご感想」で、今上陛下は、「秋以降、世界的な金融危機の影響により、我が国においても経済情勢が悪化し、多くの人々が困難な状況におかれていることに心が痛みます」と、「百年に一度」ともいわれる経済危機の影響を心配され、「国民の英知を結集し、人々の絆を大切にしてお互いに助け合うことによって、この困難を乗り越えることを願っています」と国民を鼓舞しました。
http://www.kunaicho.go.jp/gokansou/gokansou-21.html
国民の喜びのみならず、憂いや悲しみ、そして命をも共有しようとするのが天皇です。わが治世にあって、住む家も、仕事もなく、苦しんでいる国民がひとりでもいるのは申し訳ない、と陛下はご健康を害されるほどに、深く心を痛めておいでなのでした。
あれから4年半、円安が進んで、株価がリーマン・ショック以前の水準を取り戻した、とメディアは伝えています。
東日本大震災から2年、国難は続いています。しかし最大の国難は大震災ではなく、国と民のために祈るという天皇の歴史的なあり方が、あろうことかほかならぬ側近たちによって脅かされていることです。
百地先生のような保守派の論客でさえ、天皇の祭祀=「皇室の私事」説に固まっています。これにまさる国難があるでしょうか? 「陛下は大震災以後の国難と闘っている」という理解は、国民の目を最大の国難からそらさせることになります。
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