SSブログ

頭山満とイスラム───亡命ムスリムを支援した戦前の日本人 [イスラム]

以下は斎藤吉久メールマガジン(2013年4月21日)からの転載です


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
頭山満とイスラム───亡命ムスリムを支援した戦前の日本人
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 ボストン爆弾テロ事件の容疑者兄弟は一家がチェチェン共和国出身で、敬虔なイスラム教徒だと伝えられます。祖国との関係は途絶え、イスラム過激派との関連もないようですが、だとすると、なぜ2人が事件を起こしたのか、今後の解明が待たれます。

 というわけで、今日は戦前の日本とイスラムとの交流史について書いた拙文を転載します。宗教専門紙(平成18年4月)に掲載された記事を一部、加筆少し修正しています。

 戦前の日本では「国家神道」による宗教弾圧があったかのような歴史論がしばしば語られていますが、実際はそれとはまったく異なる事実がありました。俗に「右翼の総帥」といわれる頭山満たちがロシア革命後、日本に亡命してきたムスリムたちを支援していたのです。



 今年平成18年は頭山満(とうやま・みつる。安政2~昭和19年)の生誕150年に当たり、2月には年祭が盛大に執り行われました。

 頭山は、戦前世代にとっては知らぬ者のいない、いわゆる大アジア主義の巨人ですが、敗戦後、占領軍は頭山たちが興した玄洋社を「侵略戦争推進団体」と決めつけて解散させ、左翼色の強い戦後の学界、言論界は「負」のイメージに染まった頭山を顧みることがありませんでした。このため長い間、多くの日本人の記憶から消えていました。

 けれども近年になってようやく歴史の封印が解かれつつあり、中国や朝鮮との深い関わり、とくに金玉均や孫文などアジアの革命家を支援していたことなどが一般にも知られるようになってきました。

 頭山の功績で異色なのはここで取り上げるイスラム教徒への支援で、ソ連の圧政を逃れて亡命してきたイスラム教徒たちが故国にあったとき以上に平安なる生活を送っただけでなく、戦時下の日本に協力したという史実は、一般に流布している「国家神道による他宗教迫害」という常識論的な近現代史の書き換えを迫るものといえます。


▽ 東京モスクの建設

 東京都渋谷区大山町──。明治神宮にほど近い住宅街に、異国情緒たっぷりの円形ドームと尖塔を備えた本格的なモスク「東京ジャーミイ」が建っています。現在の建物は6年前に完成した2代目で、「ケーキのように美しくそびえる」と形容された初代モスクがここに落成したのはおよそ70年前の昭和13年5月。そこには知られざる歴史があります。

 当時の新聞報道によると、モスクの建設は在日イスラム教徒にとって20年来の夢であったといわれます。

 落成式は預言者マホメットの誕生日に合わせて行われ、イエメン王子ほか世界40数カ国の使節が参列しました。午後2時、イスラム聖職者が塔にのぼり、「オーオー」と開会の合図を送ると、頭山がとびらを開け、参列者がしずしずと入場しました。続く野外での祝賀式では、「君が代」斉唱のあと、満州国皇帝溥儀の従弟・溥侊の発声による「天皇陛下万歳」、松井石根大将の音頭で「回教徒万歳」が唱和されました。

 なぜ頭山が開扉することになったのでしょうか。記事は「日本人の手ではじめて造られたモスク」で、イスラム教徒が建てたモスクではないと説明しています。どういうことなのでしょう。

 東京ジャーミイの資料によれば、1917年にロシアで共産革命が起きたとき、トルコ系(トルキスタン)イスラム教徒が大挙して国外に避難することになりました。モスクワとウラル山脈との間に位置するカザン州のトルコ人の多くが満州を経由して日本にやってきました。渋谷・富ヶ谷小学校の分校という位置づけで避難民たちの小学校が設立され、日本政府が援助して礼拝堂やイスラム学校が建設されたと記述されています。

 ところが「日本政府の援助」ではなく、イスラム世界を含めた大アジアの復興を目指していた民間の有志による義侠の精神から、亡命者たちに深い同情を寄せたことがモスク建設の始まりだった、とする記録もあります。

 日本イスラム界の長老であった小村不二男氏の『日本イスラーム史』(日本イスラーム友好連盟)によると、尊皇愛国と反共排ソを主義主張とし、しかもイスラムにきわめて深い理解力を持っていたのが実川時次郎、岩田愛之助、権藤成卿らで、彼らは杉浦重剛、三宅雪嶺らとのつながりもあって、やがてその熱情は頭山や内田良平を動かした。

 その後、犬養毅や大隈重信が共鳴して財界に呼びかけ、山下汽船社長が土地約五百坪を提供、森村、三井、三菱、住友の各財閥が寄金し、モスクが建設された、と記録されています。

 頭山はモスク建設の要の位置にいたことになります。


▽ イスラム・ブーム

 東京モスクが完成した昭和13年は、日本宗教史の節目となる宗教団体法案が国会に提出された年であると同時に、日本のイスラム史にとっても転換期でした。この年を境に、林銑十郎前首相・陸軍大将を初代会長とする大日本回教協会を中心に、外国人ではない、日本人イスラム教徒の組織的な活動が開始されたのです(重親知左子「宗教団体法をめぐる回教公認運動の背景」)。

 宗教団体法が成立、公布されたのは翌14年4月です。最初に宗教法案が提案されてからじつに40年の歳月を経て、名前も改まり、非常時の波に乗って国会を通過したのでした。

 同法は治安維持法とともに戦前・戦中の宗教弾圧を象徴する元凶のように見なされ、敗戦直後に占領軍によって廃止されましたが、じつは宗教団体法の審議過程では、「弾圧」どころか、イスラム教公認運動が起きています。

 イスラム教徒は同法第一条の「宗教団体とは教派神道、仏教宗派およびキリスト教その他の宗教の教団」に「回教」の二文字を入れるよう強く政府に要望しました。イスラム教は世界三大宗教の一つであるから、日本で唯一の宗教関係法ができようとするいま、これを見落とすべきではないし、満洲や蒙古、北支などに多くのイスラム教徒がいるので、大陸政策上も必要だ、というのがその主張でした(杉山元治郎『宗教団体法詳解』)。

当時の新聞には、イエメン王子に随行して来日した同国宗教大臣が「防共日本よ、イスラム教を公認せよ」と語るインタビュー記事が大きく取り上げられていますが、イスラム教公認運動には大日本回教協会や内田良平の黒龍会などが積極的に関与したといわれます。

 結局、努力は実らず、神仏基三教体制に加わることはできませんでしたが、14年11月には上野のデパートでイスラム団体が主催し、中央官庁や新聞社が後援、宮家ゆかりの品も展示する日本史上空前絶後の「回教圏展覧会」が開かれるなど、イスラム・ブームが起きました。

 そして3年後、日米開戦を受け、17年4月に結成された国策機関・興亜宗教同盟は神仏基三教のほかにイスラム教が加えられ、イスラム教は事実上、公認されました。


▽ 「米英撃滅」を祈る

 外国人であれ、日本人であれ、イスラム教徒は戦争中、国策遂行への協力を惜しみませんでした。

 当時の新聞には、「回教徒児童の献納」「回教徒も聖鍬、宮城前で奉仕」「天帝に祈る回教徒。鬼畜米英撃滅に神助あれ」の記事が載っています。

 先述の『日本イスラーム史』によれば、日本人イスラム教徒による戦争協力の白眉はインドネシアのジャワ、セレベス両島での対イスラム教徒工作であったといいます。ジャワでは優秀なイスラム青年が育成され、のちの独立運動の闘士や独立後の指導者が輩出されました。

 日本のイスラム教徒は国に身を捧げたことを誇りとしています。

 祖国の非常時に国民が身を挺するのは当然で、そこには宗教による違いはないはずですが、キリスト教とイスラム教ではなぜか好対照を見せます。

 むろんキリスト者たちも国家の戦争政策に大いに協力したのですが、戦後になると一転して自身の戦争協力を懺悔する一方で、宗教弾圧の存在を強く主張しています。「宗教が政治の手段として利用された。ある宗教を特別扱いし、他の宗教は弾圧してはばからなかった」(飯坂良明『キリスト者の政治的責任』)というようにです。

 けれどもイスラム教徒は「そんな(宗教弾圧の)話は聞いたことがない」と否定します。
  
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:ニュース

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

Facebook コメント

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。