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関東大震災90年 その1 首都壊滅 [関東大震災]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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 関東大震災90年 その1 首都壊滅
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 関東大震災が発生して、今日でちょうど90年になります。

 犠牲者の遺骨が安置される東京都慰霊堂では、遺族などが参列し、仏式の法要が営まれました〈http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130901/k10014194321000.html〉。


▽1 340万人が罹災

 90年前の大正12(1923)年9月1日午前11時58分、相模湾沖を震源地とするマグニチュード7・9の大地震が関東・東海地方を襲いました。その直後、100数十カ所から同時に火災が発生し、東京の下町や横浜は火の海となり、壊滅します。

 関東の1府6県中(当時、東京都は東京「府」でした)、被害がもっとも大きかったのは東京府と神奈川県で、とくに神奈川の被害がはるかに大きかったそうです。損害を被らなかった家屋はなかったほどだといいます。

 1府6県の被害世帯数64万4000世帯のうち、57パーセントにあたる39万7000世帯は東京府の被害世帯で、そのほとんどは東京市内に集中していました。

 神奈川県の被害世帯数は23万7000世帯で、1府6県全体の35パーセントを占めていました。

 罹災者の総数は340万4900人、うち死者・行方不明者は10万4619人に上ったと記録されています。

 物的損害は国家予算の3倍以上に上る45億円、あるいはそれ以上ともいわれ、経済活動が1カ月間、停止するという未曾有(みぞう)の被害がもたらされました(『大正震災志 上』内務省社会局、大正15年など)。


▽2 大正天皇は日光でご静養中

 震災当時、大正天皇(明治12[1879]~大正15[1926])と貞明皇后(1884~1951)は栃木県日光の田母沢(たもざわ)御用邸で御静養中であした。

「震災記念号」と銘打たれた全国神職会の機関誌『皇国』大正12年10月号や『大正震災志 下』(内務省社会局、大正15年)、および秩父宮、高松宮、三笠宮の三妃殿下の協力で戦後、まとめられた伝記『貞明皇后』(主婦の友社、昭和46年)を読むと、この年の夏は海辺の暑気と湿気が異常なほどで、病を得られた大正天皇は不快に感じておられました。

 毎年、夏は葉山の御用邸でお過ごしになるのが恒例でしたが、さわやかな山の冷気がお体にはよろしかろうという皇后のお考えから、この年は日光にお出かけだったのでした。

 地震発生時、日光の御用邸も激しい振動に見舞われ、側近の者たちからも大きな悲鳴が上がりました。皇后はひとり落ち着き、うち騒ぐ女官たちを制し、天皇のお体に手を添えられて、庭先の広い芝生に導かれようと努められました。

「ひどい地震ですね。急いで東京に電話して、こちらは無事でいることを知らせ、また東京の様子をうかがうようにしてください」

 皇后は侍従に命じられましたが、すでに電話は不通でした。重ねての命令で、御用邸を警備する近衛部隊の伝書鳩により、天皇の御無事が東京に伝えられました。伝書鳩とはいかにも時代を感じさせます。


▽3 加藤首相急死のあとの政局混乱時

 折しも東京では、加藤友三郎首相(1861~1923)が在任中の8月25日に死去したあと、鹿児島生まれで、加藤同様に海軍軍人出身の山本権兵衛(ごんのひょうえ。1852~1933)が、大命を拝して第二次内閣の組閣に取り組んでいましたが、その作業は困難をきわめました。軍備拡張に伴って軍部、ことに陸軍の政治介入が目立つようになり、政党側は強く反発していたからです。

「維新の三傑」の一人、大久保利通の次男で、文部大臣、外相などを歴任し、この年の2月に宮内大臣に任命された牧野伸顕(のぶあき。1862~1949)の日記(『牧野伸顕日記』1990年)や、日露戦争や第一次大戦で輝かしい武勲をあげた名将で、その後、大正天皇の侍従武官となった四竈(しかま)孝輔(こうすけ)の日記(『侍従武官日記』昭和55年)、同じく大正天皇の侍従武官長奈良武次の日記(『侍従武官長奈良武次日記・回顧録』平成12年)などによると、加藤首相が亡くなったあと、外交官出の内田康哉(やすや)外相(1865~1936)が臨時首相を兼務することになるのですが、あくまで暫定措置でした。

 数日前には神戸で潜水艦が沈没し、80名が殉職する事故もありました。25日に摂政(皇太子)が軽井沢から帰還されると、直ちに内田内相の首相兼任の親任式が行われ、潜水艦事故の報告もなされました。

 次期首相をめぐって、元老、侍従長などがあわただしい動きをみせ、28日、山本に大命が下ります。摂政は赤坂離宮に山本を召して、

「内外多難の際、はなはだ苦労ながら、内閣組織のことを卿にわずらわさんと思う。切にこの大任にあたらんことを望む」

 という趣旨のお言葉をたまわりました。山本は熟考し、時勢の容易でないこととお召しに対する謝意を申し上げたのち退出します。山本が大命拝受を決意したのは、2日後の30日でした。

 31日は天長節(てんちょうせつ。大正天皇の御誕生日)。東京では特別の行事はありませんでしたが、日光では天皇が秩父宮、澄宮(三笠宮)両殿下と御対面になり、宮内大臣はじめ側近高等官らに酒肴をたまわりました。夜には小学校の子供たちや青年団員らによる提灯行列が行われました。


▽4 新内閣親任式は赤坂離宮の四阿で

 9月1日は土曜日で、いつもなら摂政は午前中は赤坂離宮から参内され、政務をこなされたあと、昼過ぎに還啓の予定でしたが、正午前に大地震が起こります。四竈は地震発生時のようすをその日の日記にこう書き記しています。

〈このとき自分は倉賀野武官とともに侍従武官府にありしが、地震は最初上下動に始まり、しばらく継続し、次いで水平動となる。三十秒もたちたるころならんか、隣接する小使室の、瓦屋根より延長されたる仮造ひさしはメリメリと音して落ち始め、瓦がポツポツ落ち始めたれば、いまは一刻も猶予すべくもあらず。〉

 四竈は摂政の御座所である西一の間に駆けつけようとしましたが、地面が揺れて、途中、満足に走ることができません。皇太子は侍従次長らとともに正殿前の御庭に避難されていましたが、大地震にもかかわらず、動じられている御様子はいささかもなかったといいます。最初の3分は激震、さらに強震が3分間継続し、その後も余震が続きました。

 難航していた組閣交渉は地震発生後、急速にまとまります。

 宮内省御用掛で海軍少将の山本信次郎の談話をまとめた『摂政宮殿下の御日常を拝して』(日本警察新聞社、大正14年)によると、新内閣の親任式は翌2日夜、摂政宮台臨(たいりん)のもと、赤坂離宮の庭の小さな四阿(あずまや)で、ろうそくの光に照らされて行われました。

 不気味に余震が続き、停電で電灯が消えたなかでの親任式を、山本は「日本開闢以来」と表現しています。日露戦争後の日比谷焼き討ち事件以来という戒厳令が、すでに関東南部全域に布告されていました。


▽5 犠牲となった皇族お三方

 当時、テレビはもちろん、ラジオ放送さえありませんでした。東京の新聞は発行不能に陥り、情報は途絶え、代わりに根も葉もない流言飛語が飛び交うという始末で、被害状況を正確に把握できません。

 想像を超える大惨事に至っていることが日光の御静養先で理解されるようになったのは、震災から一週間も過ぎたあとだったといいます。

 被害は皇室とて例外ではありません。皇太子のお住まいであった高輪御所が全焼し、夏の御静養先だった葉山御用邸も大きな被害をこうむっていました。この年、天皇は例年の葉山ではなく日光で御静養されていて、難を逃れることができたのです。

 震災発生時、政務のため皇居におられた皇太子は、

「ああ、よかった。両陛下が日光にいらしって、ここにおいでにならないで」

 と洩らされたといいます(前記『御日常を拝して』)。

 しかしながら山階宮(やましなのみや)武彦王妃佐紀子女王は鎌倉・由比ヶ浜の御用邸で、閑院宮(かんいんのみや)姫宮寛子女王は小田原の御別邸で、東久邇宮(ひがしくにのみや)師正(もろまさ)王は藤沢・鵠沼(くげぬま)の御別邸で遭難され、犠牲となっていました。


つづく

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