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下賜直後に始まった神聖化は「聖慮」なのか ──『明治天皇紀』で読む教育勅語成立後の歴史 1 [教育勅語]

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下賜直後に始まった神聖化は「聖慮」なのか
──『明治天皇紀』で読む教育勅語成立後の歴史 1
(2017年4月12日)
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 前回まで、『明治天皇紀』巻7をテキストにして、教育勅語成立に至るまでの課程をトレースしてきた。今日からは成立後を考える。
『明治天皇紀』@福永懐徳堂

 明治23年10月にできあがった教育勅語は、その後、天皇が師範学校にお出ましになり、そこで文相に下賜されるという手続きを踏み、国民に浸透させるというのが山縣有朋首相や芳川顕正文相のアイデアだったらしい。

 ところが、明治天皇はこれを受け入れられず、二人を宮中に呼び、御前で内々に下賜されるといういたって地味な方法が採られた。

 しかも、日付と御名・御璽の記載だけで、大臣たちの副書はなかった。明治天皇にとっては10数年来の悲願であり、待望の勅語渙発のはずで、きわめて異例だが、それは「親しく国民に」が「叡慮」だからと説明されている。

「これを公布するに年月日と御名および御璽を記するにとどめ、大臣の副書を欠くはまったく他の詔勅と異なり、まことに叡慮に出で、天皇親しく国民に訓じせられたるものなるによる」

 しかしその後、事態は急展開する。芳川文相は次の日、訓令を発したうえで、コピーを全国の学校に頒布し、教師たちに周知徹底させようとしたのである。

「翌日、顕正、文部省直轄学校および北海道庁、各府県管内の公私立学校にその謄本を頒(わか)たんとし、左の訓令を発し、およそ教育の職にあるものをして奉体服膺(ふくよう)するを知らしむ」

 文部省がまとめた『学制百年史』(昭和56年)によると、明治政府は以前から教育勅語の発布、精神徹底の方法について慎重に検討していたのだという。訓令とコピーの頒布はその結果だった。

 それにしても文相の訓令はいかにも時代がかっている。「天皇」「勅語」「聖意」の用語を、敬意を表すため、必ず行頭におく、古代からある平出(へいしゅつ。平頭抄出)という書式法が用いられている。明治5年に欠字、欠画などとともに廃されたはずなのにである。

「天皇陛下、深く臣民の教育に軫念(しんねん)したまひ、ここにかたじけなく

勅語を下したまふ。顕正、職を文部に奉じ、躬、重任を荷なひ、日夕省思して、嚮(むか)ふところを愆(あやま)らんことを恐る。いま

勅語を奉承して感奮措(お)くあたはず。謹みて

勅語の謄本を作り、あまねくこれを全国の学校に頒(わか)つ。および教育の職にあるもの、すべからくつねに

聖意を奉体して研磨薫陶の務めを怠らざるべく、ことに学校の式日およびその他便宜日時を定め、生徒を会集して

勅語を奉読し、かつ意を加へて諄々誡告(かいこく)し、生徒をして夙夜(しゅくや。朝夕の意味)に佩服(はいふく。心に留めて忘れないこと)するところあらしむべし」

 文相は式日などに、生徒を集めて奉読することをも訓令している。その結果、「教育勅語は教育の大本を明示する神聖な勅諭として厳粛な雰囲気のもとで取り扱われることになった」(『学制百年史』)のだが、それは師範学校に行幸されたうえで勅語を下賜するという演出に同意されなかった明治天皇の「聖慮」に沿うものだったのかどうか。

 ともかくも、ここに教育勅語の神聖化が始まったのである。『明治天皇紀』は、

「これより諸学校ことごとくこれを遵奉し、教育の大本まったく定まる」

 と記録している。

 しかし、もともと西欧型の知識偏重教育を正すことが勅語渙発の目的だったはずである。内容においては、成立過程で宗教臭さや政治臭さが避けられたのみならず、「帝王の訓戒はすべからく汪洋たる大海の水のごとくなるべく」(『明治天皇紀』)、つまり君主は臣民の良心の自由に干渉してはならないとされたのに、発布後は教育勅語自体が神聖化し、宗教的扱いを受けることになったのは、大きな矛盾にほかならず、当初の構想からの逸脱ではなかったのか。

「父母に孝に」に始まり、教育勅語が謳い揚げる徳目は、むしろ常識的で、ありふれたものだろう。けれども、そのありふれた道徳さえ危ういような現代にあって、道徳教育強化の必要性とともに、教育勅語の積極的肯定論が顔をのぞかせるのは理解できる。

 他方、今国会での論議がそうであるように、教育勅語が厳しい批判にさらされ続けているのは、その徳育論的内容ではなくて、渙発直後からすでに始まったらしい国体論的な神聖化に根本的原因があるように思われる。

 明治政府はなぜ教師や生徒たちに教育勅語の趣旨を浸透させる方策を第一に考えようとしなかったのか。

『明治天皇紀』巻7はこのあと、翌23年12月に、芳川文相の奏請で、御名を親書し、御璽を鈐(けん。金偏に今。押印の意味)した教育勅語を帝国大学以下、文部省直轄学校24校に下賜されたこと、さらに24年2月には1万3072枚のコピーが作られ、全国の学校に配布されたことを記録している。

 当時の文部省は勅語の中身を正しく伝え広め、そのことによって知育偏重を改めるのではなく、教育勅語の権威付けを優先させていたように私には見える。

 その後、ようやく勅語の解説文が編集され、奉安殿が各学校に建てられていくのだが、それについては稿を改める。(斎藤吉久メールマガジン2017.4.12)
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