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天孫降臨の高千穂を訪ねて──皇室と稲作発祥の聖地 [神社]

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天孫降臨の高千穂を訪ねて
──皇室と稲作発祥の聖地
(「神社新報」平成9年8月11日)
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(平成9年)7月上旬、天孫降臨の聖地、皇祖発祥の地であり、日本の稲作発祥の地と伝えられる宮崎県高千穂を訪ねた。

『古事記』は、天照大神(あまてらすおおかみ)と高木神(たかぎのかみ)の仰せで、邇邇藝命(ににぎのみこと)が

「竺紫(つくし)の日向(ひむか)の高千穂の久士布流多気(くじふるたけ)」

 に天降られた、と記している。いうまでもなく伝承地には2説があり、新井白石以来、霧島説も有力だが、今回はご勘弁願って宮崎を目指した。

 梅雨前線がどっかと居座り、各地に大雨洪水警報が発令される生憎の天候だが、要所要所では不思議に晴れた。

 高千穂神社・後藤俊彦宮司夫妻の運転で、阿蘇山まで足を伸ばした帰り、『日向風土記』逸文に瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が天降られた、と記される「高千穂の二上の峯」、二上山が雨雲から顔をのぞかせる。

 山頂が男岳と女岳のふたつに分かれる秀麗な姿には、神々しさを感じる。

 それにしてもなぜ、1000メートル級の山々が連なるこの山里が、皇祖発祥の地として伝えられてきたのだろうか?


▢西日本最大の女狭穂塚
▢神武天皇お船出の港町

 日向国、そして高千穂は、じつに不思議なところである。2000年以上の時を超えて、古代の神話がいまもそのまま生きているからだ。

 早朝の便で宮崎空港に降り立ったあと、車で西都(さいと)市に向かった。目指すのは、古墳群としては日本最大規模の西都原(さいとばる)古墳群だ。東西2キロ、南北3・5キロの広大な台地に、309基もの古墳が群集するのは圧巻である。

 民家や畑が点在し、蝉時雨のなか、ナツアカネが舞う。

 史跡公園としてすっかり整備された中央部に、柵に囲まれ、鬱蒼たる巨木に覆われた、ひときわ大きな古墳が2基、重なるように寄り添っている。九州随一の陵墓参考地、男狭穂塚(おさほづか)と女狭穂塚(めさほづか)だ。

 風が吹くと、葉擦れの音が怖いほど、神気に圧倒される。

 先月(平成9年7月)下旬、県教育委員会の測量調査が始まった。自治体単独による陵墓参考地の調査を宮内庁がはじめて許可し、議論を巻き起こしているのは周知の通りである。

 男狭穂塚は瓊瓊杵尊の御陵、女狭穂塚は尊の妃・木花開耶姫(このはなさくやひめ)の御陵と伝えられる。数百年前まで可愛(えの)神社が鎮まり、祭りが斎行されていたと聞く。

 とくに女狭穂塚は西日本最大の前方後円墳である。西都は律令時代に国府が置かれ、国分寺なども建立された古代日向の中心地であり、そこに御陵が伝えられている。

 しかも、である。

 女狭穂塚からわずか2キロのところに姫を祭神とする式内社・都万(つま)神社が鎮まる。

 境内の周辺には、瓊瓊杵尊が姫を見初められた逢初(あいぞめ)川、新婚宮殿の八尋殿跡、姫が火中で3皇子を出産した無戸室(むつむろ)、3皇子が産湯をつかった児湯(こゆ)の池、2神がはじめて田を開かれた井門田里(いもんだのさと)がある。

 瓊瓊杵尊と木花開耶姫の間に生まれたのが海幸彦・山幸彦の兄弟である。宮崎市の青島神社は弟の彦火火出見(ひこほほでみ)命を祀る。

 社伝によると、失った兄の釣針を求めて海神宮を訪問、そこで結ばれた豊玉姫とこの島に帰還され、大宮を建てられた。旧暦12月の裸祭りは、命の急な帰還を村人が衣服を着る暇もなく、赤裸のまま出迎えた故事にちなむ。

 命は鵜(う)の羽を葺草にして海浜に産屋を作られた。屋根が葺き終わらないうちにお生まれになったのが鵜鶿草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)である。日向市の鵜戸神宮に祀られる。尊の生誕地という。

 宮崎市の宮崎神宮が尊の4子・第1代神武天皇を祀るのはいうまでもない。

 西都の北東35キロ、耳川の河口に、古い港町、美々津がある。神武天皇は御東征のため、ここから船出された。

 そのとき航海の安全を祈願、底筒男命・中筒男命・表筒男命を祀られ、そののち景行天皇の御代に創祀されたとされる立磐(たていわ)神社の小さな境内には、何と注連縄を張られた「神武天皇御腰掛岩」がある。

 社伝によると、天候が良くなって、お船出の日取りは急に変更になった。旧暦8月1日の夜明けに、

「起きよ、起きよ」

 と神の声が聞こえると、村人は奉祝の旗を掲げて浜辺に馳せ参じ、別れを惜しんだとされる。

 この日、美々津では七夕飾りを手にした子供たちが早朝、各家の戸を叩いて起こす「起きよ祭り」が斎行される。

 町には「つきいれ団子」という名物がある。小豆餡と餅をつき混ぜたもので、急なお船出に慌ててこしらえたのが始まりという。残念ながら食べ損ねた。

 河口の波打ち際を歩いてみた。日向灘から押し寄せる波は思いのほか荒い。目をこらしても、四国も瀬戸内の島々も見えない。ここを出港された神武天皇には、遙かなる大和の地がお見えになったのであろうか?


▢稲作の起源地は山また山
▢南北アジアの文化的接点

 延岡から国道218号線に入る。雨足が強まる。やがて高千穂の峰々が見えてきた。白雲が谷間から次々に湧いてくる。

 翌朝、高千穂神社の後藤宮司さんに案内されて、国見ヶ丘に上った。筑紫国の統治を命じられた神武天皇の皇孫・健磐龍(たけいわたつ)命が四方を望んだと伝える高台で、山里が一望できる。

 天孫降臨に際して、天照大神は

「高天原にある斎庭(ゆにわ)の穂をわが子に与えよ」

 と勅された。斎庭稲穂の神勅。天孫降臨は稲作の始まりでもある。

 だが、行乞の俳人・種田山頭火が

「分け入っても分け入っても青い山」

 と詠んだように、高千穂は山また山である。静岡・登呂遺跡のような平地の水田農耕を想定していると、疑念ばかりが頭をもたげてくる。考古学者がもっぱら稲作は朝鮮半島から北部九州に伝えられたと主張し、高千穂が眼中にないのも無理はない。

 ところが、静岡大学の佐藤洋一郎先生(植物遺伝学)が提唱し、注目される、稲の「南北二元説」からすると、俄然、現実味を帯びてくる。

 日本の稲は遺伝的に2系統があり、温帯ジャポニカは中国・揚子江流域が起源の水稲、熱帯ジャポニカは東南アジア島嶼地域から伝播した陸稲的な稲である。両者が日本列島で自然交雑し、早生が発生、稲作は北部日本にまでまたたく間に伝播することが可能になったという。

 自然交雑はどこで起きたのかといえば、西南暖地だという。東北の早生品種と西南暖地の早生品種は遺伝的に兄弟関係にあるらしい(佐藤『稲のきた道』)。

 中国に起源する温帯型の稲と東南アジアに連なる熱帯型の稲が、日向の高千穂で運命的に出会い、新しいタイプの稲と稲作が生まれたとしたどうだろう。やがて早生品種による新たな水田稲作はさながら神武東征のごとく、日本列島に浸透していくのである。

 上古、高千穂は日向、豊後、阿蘇にまたがる広大な丘陵地域一帯を指したらしい。肥後に42か村、日向に18か村。『日本書紀』本文は

「日向の襲(そ)の高千穂峯に天降ります」

 と記しているが、西都原古墳研究所の日高正晴先生は、この山岳地帯に「襲」という勢力圏があったと推理する(日高『古代日向の国』)。

 ついでにいうなら、上代の日向はいまの宮崎県をはるかに越え、南九州全体を指した。大隅、薩摩が分置されたのは8世紀である。高千穂は南北九州の分水嶺に位置し、日向は南北アジアの文化的接点に当たる。

 神が山に降臨する天降(あも)り神話は朝鮮から内陸アジアにかけて広く分布するという。朝鮮の檀君神話は、天神が子神に三種の宝器をもたせ、風師、雨師、雲師を伴わせて、太白山上の壇という木の傍らに降臨させ、国を開いたと伝える。

 他方、『古事記』は、瓊瓊杵尊が醜女の石長比売(いわながひめ)を避け、美人の木花之佐久夜毘売(このはなのさくやひめ)を娶った。姉妹の父・大山津見神は

「岩のように揺るぎなく、木の花のように繁栄することを願ってふたりを奉ったのに」

 と深く恥じたと記している。

 これに似た人間の寿命に関する神話は「バナナ型神話」と呼ばれ、インドネシア系の隼人族が伝えたといわれる。

 たとえば、セレベス島の神話は、人々はバナナを命の糧としていた。ある日、神が石を下すと人々はバナナを求める。神は語る。

「人間の命は石のようではなく、バナナのようにはかなくなろう」

 失った釣針をめぐって兄弟が争う海幸・山幸の物語に似た神話は、インドネシアやメラネシアなどに広く見られるという(松村武雄『日本神話の研究』など)。

 日本三大神話に数えられる日向神話に、北方アジアと南方アジアの神話の混合が見られるのは興味深い。

 高千穂神社では旧暦12月3日に猪々掛(ししかけ)祭が斎行される。鎌倉以前に遡る古い神事で、3升3合3勺(古くはこの10倍)の米飯のほかに、初猪がまるごと供せられる。南方的な縄文の狩猟文化と北方的な弥生の稲作文化が同居している。

 山がちな高千穂では石垣を積んだ棚田が目につく。後藤宮司さんによれば、農民は

「迫田(さこだ)で作った米ほど、美味しい米はない」

 と語るという。小さな扇状地に、ヨシやアシを踏み固めて作られた猫の額ほどの水田。古代の農業を彷彿とさせる稲作がいまも行われている。


▢周辺には高天原や天岩戸
▢百済や江南とのつながり

『日向風土記』逸文に、天孫降臨のとき、この地が暗かったので、瓊瓊杵尊は先住民の土蜘蛛の進言を聞き入れて、稲籾を四方に蒔かれると明るくなり、日月が輝いた。それで高千穂という地名になったとある。

 厚い雲が垂れ込める高千穂を歩くと、古代の神話が昨日の出来事のように思えてくるから、不思議だ。

 宿から数百メートルのところに槵触(くしふる)神社が鎮座する。瓊瓊杵尊を祀る。

 付近には天孫降臨後に神々が高天原を遥拝したといわれる高天原、神武天皇の兄弟4皇子が降臨されたと伝えられる四皇子峰がある。

 高千穂峡で知られる五ヶ瀬川は、神武天皇の兄・五瀬(いつせ)命の名に由来するといわれる。

 その翌日は朝から雨。ときおり激しく降りしきるなか、天岩戸神社へ向かう。祭神は天照大神である。岩戸川を挟んで東本宮と西本宮が鎮座する。西本宮は拝殿のみで本殿はなく、対岸の岩窟を御神体とする。大神がお隠れになった天岩戸と伝えられる。

 流量を増した深い渓谷の底から轟音が響く。

 神社の近くには、大神の岩戸隠れの際、神々が神議されたという天安河原(あめのやすかわら)がある。

 高千穂に天香山(あまのかぐやま)という山がある。日向市には伊勢ヶ浜があり、その近くを五十鈴川が流れる。大和や伊勢との関連を感じさせる地名が散見される。考古学者が女狭穂塚に関心を示すのは畿内との比較である。

 時代が下ると、朝鮮半島とのつながりは一段と明確になる。いよいよ雨足が強まるなか、「百済の里」として脚光を浴びる南郷村に車を走らせた。

 奥深いのどかな村に百済の王侯が移り住んだという伝説が残る。百済の王族・禎嘉王を祀るのは神門(みかど)神社である。神さびた境内に異国の香りが漂う。

 村の伝説では、百済滅亡後、畿内に亡命した人々はやがて筑紫を目指した。その途中、時化に遭い、日向に漂着したのだという。

 それなら、なぜこの村を第2の故郷としたのだろうか。朝鮮と日向を結ぶ、さらに古い時代の記憶がそうさせたのかも知れない。

 他方、九州と中国・江南地方との関連性を指摘するのは、民俗学者の谷川健一先生である。

 神武天皇が船出された美々津は耳川の河口だが、上流の諸塚山は呉(ご)の太伯が住んだところと伝えられる。神武帝の皇子には多芸志美美命、岐須美美命など、不思議に御名に「耳」が含まれる。

 谷川先生は、南中国に起源する耳輪の習俗の名残ではないかとする。江戸期の国学者・藤井貞幹は同帝が太伯の後裔とする説を唱え、本居宣長はこれを罵倒したが、俗説と退けることはできないというのだ。

 百済や新羅は山東半島を経由して、南中国と密接な関係を持っていたともいう(『谷川健一著作集5』)。

 古代の謎は明らかになったかと思う間もなく、ふたたび闇に覆われる。雲に見え隠れする高千穂の峰々のようである。

 しかし日本の建国神話は、悠久の時を超えて、いまも継承されている。そこに日本の特色がある。後藤宮司さんはある鼎談でそう語っている(『神棲む森の思想』)。

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