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酒の起源について考える──神意を求める切なる祈り [酒]

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酒の起源について考える
──神意を求める切なる祈り
(「神社新報」平成9年10月13日号から)
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 ボクが宮崎県西都(さいと)市の都萬(つま)神社に詣でたのは、ちょうど「七夕様」のお昼時である。
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 あいにくの雨の中、数十人の老若男女が集まり、テレビ局の取材を受けていた。隣町の高鍋町堀之内まで浜下りした童神の御神像に綿帽子などを着せ、化粧をほどこすという、「更衣祭」とよばれる、一風変わった神事が前日から斎行されていたのである。御神衣の数の多少によって、繭などの作柄や気候の寒暖が占われる。この年は「暖かい」と出たらしい。

 都萬神社は農業の神様である。

 社伝によると、お宮の西に清流があり、稲の穂が生じた。夫婦二柱の神がこの種を蒔き、田を開いた。そしてこの地を井門田里(いもんだのさと)と命名されたのである。

 ボクが訪れたころ、自治体が単独で立ち入り調査をするというので話題になっていた、西都原(さいとばる)古墳群の中央に位置する陵墓参考地の男狭穂塚(おさほづか)・女狭穂塚(めさほづか)は、この二柱の神の御陵(ごりょう)と伝えられている。

 同社はまた「日本清酒発祥の地」とされている。

 日本最古の歴史書である『日本書紀』には、カムアタカシツヒメ(=コノハナサクヤヒメ)が占いによって定めた「狭名田(さなだ)」の稲で、天甜酒(あめのたむさけ)をかもしてお供えした、と記されている。これが記録に残る、お米を原料にした日本最古の酒である。


▢都萬神社は「清酒発祥の地」
▢神嘗祭の神酒を醸した童女

 他方、都萬神社の社伝では、祭神のコノハナサクヤヒメノミコトは、三つ子をお生みになり、そのお三方のお子さまを、母乳代わりに甘酒でお育てになったという。同社の周辺には「酒元」という集落もあるそうで、酒造りに関係する古い土地柄であることをにおわせている。

 コマハナサクヤヒメノミコトがつくられた天甜酒は、酒造りの担い手は女性で、米を原料とするところに特徴があるのだが、どのようにして造られたものなのか、製法についてはよく分からない。口噛み酒だとする人もいるが、どうだろうか。古代の酒づくりにかかわる、謎解きのヒントになりそうな神事は、残念ながら同社には伝えられていない。

 口噛み酒といえば、地域によっては、ごく最近まで、とくに神事に関連して継承されてきた。

 山口大学の安渓貴子氏によると、沖縄の西表島では、大正末までウルチ米を原料にした口噛み酒(ミシ、ミシャー)が豊年祭などで造られていたという。

 6升入りの大鍋を6人の娘さんが囲み、割れ米をくだいて炊いたものを朝から昼過ぎまでかかって噛み、噛んだらはき出す。作業は2日間にわたり、「とてもつらい仕事だった」らしい。噛み終わったら、石臼でさらに挽き、甕(かめ)に入れる。3日もすると、弱い酒ができる。

 けれども残念ながら、昭和の衛生観念が古風を廃れさせたと安渓氏は書いている(『酒づくりの民族誌』)。
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 この研究で注目されるのは、ここでも酒造の担い手が女性だということである。近世以降、「杜氏」といえば男の仕事になったが、それ以前は一家の主婦である「刀自」が酒づくりをもっぱらにしたのだといわれる。

『古事記』『日本書紀』に最初に登場するもっとも古い酒は、コノハナサクヤヒメの酒ではなく、スサノオノミコトによるヤマタノオロチ退治の物語に出てくる酒である。『古事記』では、何度も繰り返してかもした「八鹽折(やしおおり)の酒」、『日本書紀』本文では、重ねてかもした「八*(やしおおり)の酒」、一書には、果実でつくった酒、あるいは「毒酒(あしきさけ)」とある。

 この酒を用意するのは、クシナダヒメの両親であるアシナヅチとテナヅチだが、誰が酒をつくるのか、女性か男性かということについては記されていない。製法についても同様である。しかし『日本書紀』の一書には、明確に「衆果(あまたのこのみ)をもて」とあるから、日本最古の酒は果実酒であったという可能性があるということになるだろうか。

『日本書紀』には記載がないが、『古事記』のオオクニヌシノカミ(ヤチホコノカミ)の段、高志(こし)国のヌナカハヒメに妻問いする物語にも酒が登場する。

 嫉妬する正妻のスセリヒメノミコトが、大和へ向かうオオクニヌシノカミの「愛しい妻よ」と呼びかける神語歌にこたえて、

「私にはあなた以外に夫はいない。私の腕を枕としておやすみなさい。さあ、豊御酒(とよみき)、奉らせ」

 と歌われる。2人は杯を交わし、夫婦のちぎりをかため、仲むつまじく鎮座しておられる、とある。いかにも文学的な物語に無粋な詮索で恐縮だが、この酒は米の酒だろうか、それとも果実酒だろうか。

 多くの古儀を伝える伊勢の神宮では、10月中旬、伊勢の市民が「大祭り」とよぶ、一年でもっとも重要な神嘗祭(かんなめさい)が斎行される。真の御柱(しんのみはしら)の御前に供される由貴大御饌(ゆきのおおみけ)に添えられる神酒は、古くはやはり女性が関与したらしい。

 延喜23(804)年に太政官に奉られた『皇太神宮儀式帳』には、酒作物忌(さかとくのものいみ)がつくる白酒(しろき)、清酒作物忌(きよさかとくのものいみ)がつくる黒酒(くろき)の二色の神酒を奉る、と書いてある。

 物忌とは、むろん神事に奉仕する、心身を清浄にした童女や童男だが、神宮の禰宜(ねぎ)・矢野憲一氏によると、この神嘗祭の場合は「少女」だという(矢野『伊勢神宮の衣食住』)。父親が補佐したようだが、童女が神酒づくりに関与したというのは、遺風を伝えているようで、興味深い。


▢台湾先住民の口噛の粟酒
▢大嘗祭の黒酒は粟酒では

 コノハナサクヤヒメのほか、スサノオノミコト、オオクニヌシノミコトと、記紀ではいわゆる天つ神ではなく、むしろ国つ神に関連して、酒が描かれているのは興味深い。水田稲作の伝来とともに酒づくりが伝えられた、と一般には考えられているようだが、水田稲作伝来以前から日本列島には穀物や果実を原料にした酒があったということを想像させる。
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 神戸女学院大学の松澤員子氏によると、台湾の先住民には粟(あわ)の酒があったという。彼らは畑作民族で、粟のほかに稗(ひえ)や稲、芋を栽培していたが、粟は儀礼文化には欠かせない、とくに重要な作物だった。人々は粟の神霊を最重要視し、粟の酒と粟の餅とを神々に供えた。酒は処女や巫女が噛んでつくったという(前掲『酒づくりの民族誌』)。
 
 台湾だけではない。安渓氏によると、沖縄の八重山にも粟の口噛み酒があったという。また、江戸時代の代表的な国語辞書のひとつといわれる『和訓栞(わくんのしおり)』には、蝦夷は酒に粟をもちいる。粟酒は蝦夷国の産物だ、と書かれてある。水稲が伝来する以前、粟酒とその儀礼が、日本列島の広範囲に浸透していたのかも知れない。

 粟の酒といえば、思い出されるのは、さまざまの古例・古儀が尊重される天皇の即位の祭り、大嘗祭であろう。

 大嘗祭は一般には「稲の祭り」といわれている。しかし、正確には「稲と粟の祭り」というべきだ、とボクは考えている。大嘗宮の儀の神饌御親供(しんせんごしんく)で、新帝が手ずから皇祖神と天神地祇に供せられ、御直会でみずから食されるのは、米と粟の御飯(おんいい)と御粥(おんかゆ)である。

 神事のなかで、米と粟はほとんど差別がない。これまでの大嘗祭研究は、稲の文化的価値をあまりにも重視しすぎて、粟の存在を見過ごしてきたように思われる。

 それにしても、なぜ米と粟なのか。

 有名な『常陸国風土記』の筑波郡の条には、「新粟(わせ)の新嘗(にいなえ)」「新粟嘗(にいなえ)」の記述があるから、古代、粟の新嘗が存在したことが推測される。同じくだりに書かれている、山の神にたてまつる「飲食(おしもの)」とは、粟の飯と酒かもしれない、とボクは想像している。

 けっして素人の勝手な想像ではない。『大嘗の祭り』の著者・国学院大学の岡田荘司氏によると、「大嘗祭の粟に関する研究はほとんどない」らしいのだが、その数少ない論考のひとつに、民間の神道研究家・落合偉洲氏による論文「新嘗祭と粟」(「神道及び神道史」昭和50年7月)があって、そのなかで落合氏は、宮中祭祀の新嘗祭には民間の粟の新嘗が「残影」として残されている、と指摘しているからである。

 近畿大学の野本寛一氏(民俗学)から以前、次のように聞いたことがある。

「大嘗祭の米と粟の儀礼は稲作民と畑作民を統合する象徴として理解できるのではないか。白酒・黒酒の黒酒はもとは稗酒で、やはり同じ意味を持っていると思われる」

 野本氏によると、実際、静岡の大井川上流にある畑作農耕の村では、終戦直後まで、稗酒や粟酒がつくられたという。

 野本氏は「黒酒は稗酒」というのだが、むしろ粟酒なのではないか、とボクは推理する。
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 つまり、稲作民(天つ神)の米と畑作民(国つ神)の粟、それぞれの御飯と御酒を神々に捧げるのだとすれば、文化の違いを超えて、国と民を統合する天皇一世一度の国家的儀礼の性格が一段と明確化し、「祭祀王」たる天皇の役割もよりはっきりするのではないか。ただ残念ながら、いまのところは単なる想像にすぎない。


▢芋の焼酎が生まれた理由
▢酒造りの宗教的な重要性

 以前から疑問に思っていることだが、「焼酎王国」といわれる九州では、「本格焼酎」の米のほか、オオムギやソバ、キビ、さらにはサツマイモやゴマまでが原料となる。なぜだろう。焼酎が好きで、何でも焼酎にしてしまった、というのでは説明にはならない。

 40年前、鹿児島県大口市の八幡神社(郡山八幡神社)で、施工主がケチで焼酎を一度も飲ませてくれなかった、という落書きのある、永禄2(1559)年の棟札(むなふだ)が発見された。この発見で、16世紀にはすでに日本に焼酎があったことが証明された。

 焼酎つまり蒸留酒の製法は、アラビア世界に始まる。海のシルクロードを通り、タイから沖縄へは15世紀の半ば、沖縄から鹿児島へはその後、伝わったと考えられている。いずれにしても、歴史的には新しい酒ということになる。

 タイの焼酎ラオ・カオも沖縄の泡盛も、原料はモチ米である。ウルチ米ではない、という点も興味深いのだが、それはさておき、なぜ日本、とくに九州では、米以外の焼酎が生まれたのであろうか。インド世界にはヤシ酒を蒸留したアラック、ココナッツ・ウイスキーがあるが、日本の焼酎はバリエーションの豊富さで他を寄せ付けない。

 これもひとつの推理だが、台湾に粟酒があったことは既述したけれど、「海上の道」に連なる畑作の穀物やイモの酒が古くからあったのではないだろうか。もしそうだとすれば、蒸留技術の伝来後、各種の焼酎が生まれるのは造作もない。

 たとえば滋賀県水口町の古社・総社神社では、7月に麦の収穫を感謝する「麦酒祭り」が斎行される。麦芽でつくったビールではない。蒸したオオムギを米麹でかもすのだ、と同社の関係者が教えてくれた。

 穀物の酒は粟や稗ばかりではないことが分かる。

 これに対して、芋の酒は世界的にはあまり例がないようだ。鹿児島の芋焼酎のほかに、東南アジアのマニオク(キャッサバ)の利用があるだけらしい。

 けれども、酒=アルコール飲料と固定的に考えなければ、別な見方もできる。

 太平洋島嶼地域には「カバ」という「酒ではない酒」がある。

 コショウ科の灌木(かんぼく)の根をしぼった液汁で、客を歓迎する儀式など、社会的儀礼にはかならず登場する。カバはアルコール分はない。したがってアルコール飲料としての酒ではなく、厳密には鎮静剤である。車座になり、ヤシの実でつくったコップで回し飲みする。

 このカバ・ドリンキングは、たとえばトンガなどでは、王の即位儀礼の中心をなす神聖な儀式として、いまなお重要視されている。日本の大嘗祭の大饗に似ていなくもない。

 ミクロネシアやポリネシアの海洋民族は東南アジアに原郷を持つモンゴロイドで、5000年前に中国大陸内部の民族移動の影響を受けて、太平洋に押し出されたといわれる。言語や神話など、日本民族との類似も認められる。先史時代に畑作民族共通の「根っこの酒」があった、と考えることは無理だろうか。

 そして、「根っこの酒」の歴史と伝統が芋焼酎を生んだ、という想像は的はずれだろうか。

 そもそも酒とは何か。人はなぜ酒を飲み、神々に供えることをはじめたのか。
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 酒の起源については、一般には「果実酒自然発生説」がとられている。保存した果実から偶然に生まれたといわれているのだが、国立民族学博物館の吉田集而氏は否定する。保存の場合は乾燥させるが、醸造には逆に湿度が必要で、しかも果実をつぶさなければならないからだ。

 そのうえで吉田氏はこう推理する。人間が食べたり、飲んだりするのは、栄養補給のほかに、「薬」としての目的がある。動物にも薬はあるが、人間は単純な試行錯誤ではなく、呪術的な方針から強い味、強いにおい、鮮やかな色の薬用植物を選択した。

 呪術は霊魂を操作する技術であり、旧石器時代末期にはシャーマニズムも登場する。葉や種子、キノコなどをガムのようにチューイングして、魂を飛ばす各種技術が開発され、幻覚剤も見いだされた。人間を酔わせる酒はその一種であり、最初の酒は果実の口噛み酒ではなかったか。

 その後、農耕が始まると、余剰生産物が生まれ、王が出現し、天候の神を祀る王の宗教が発生する。幻覚剤はシャーマニズムの衰退とともに消えるが、代わりに果実酒や穀芽酒が農耕の神との交流の場を提供するものとしてふたたび登場した──と吉田氏は理解するのだ(前掲『酒づくりの民族誌』など)。

 神道の儀礼では酒は重要である。禊祓によって心身を浄め、神前に神酒を供し、神人共食によって神々との交流をはかり、神意をもとめる。そこには人間の切なる祈りがある。祭祀は単なる形式ではない。

 天皇の祭りがおこなわれる伊勢の神宮、外宮の御酒殿(みさかでん)のあたりは、いまは木立の奥の、ひっそりと忘れられた静かな空間となっている。その御前で、遠く平安の昔に思いを馳せるのは、元神宮禰宜の櫻井勝之進氏である。

 櫻井氏によれば、ここにかつて務所庁(まつりごとや)や禰宜の斎殿(いみどの)、附属の炊事所など、どこよりも重要な諸施設が軒を連ねていたという(櫻井『伊勢神宮』)。物忌はそのなかで神酒をかもしたのである。酒づくりの宗教的重要性が何よりも雄弁に物語っているのではないか。


追伸 この記事は、宗教専門紙「神社新報」平成9年10月13日号に掲載された拙文「食と日本人 34 酒の起源について考える--神意を求める切なる祈り」に、若干の修正を加えたものです。(平成13年11月)

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