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宮中祭祀「破壊」の背景に憲法問題あり/話題「北海道稲作の父」/神社行事の祝辞が違憲ならカトリックは? [天皇・皇室]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2008年4月29日)からの転載です

□□□□□□□□□□ 宮中祭祀「破壊」の背景に憲法問題あり □□□□□□□□□□

 ひき続き、原武史教授の宮中祭祀廃止論を批判します。

 原教授は月刊「現代」5月号掲載の論考で、昭和天皇の時代、「高齢を理由に宮中祭祀が削減または簡略化されて」いった、と書いています。

 これに対して、昭和天皇は「いいがたい不安」を覚えていた。今上天皇は先帝以上に祭祀に「熱心」だが、皇太子はどうだろう、「新しい神話」を模索しなければならない、というのが教授の論理ですから、議論の大前提となっている戦後の祭祀簡略化の事実関係が教授の言い分と異なるのであれば、教授の祭祀廃止論は眉唾ということになります。

 そして、当メルマガはこれまで、

1、「簡略化」の理由は「高齢」ではない

2、「簡略化」はじつのところ祭祀の改変・破壊である

3、不敬を敢行した人物は入江侍従長である

 などと指摘しました。

 今号からは、なぜ側近中の側近である入江侍従長が、皇室の伝統である宮中祭祀の破壊という冒涜的行為におよんだのか、という最大の謎に迫ります。


▽時代の変化、祭祀の激務、天皇の高齢

 まずは原教授の解説です。『昭和天皇』(岩波新書、2008年)を読んでみます。原教授は、入江日記が「魔女」と表現する、祭祀に熱心な今城誼子(いまき・よしこ)女官と簡素化推進者の入江侍従長との対立という構図を提示し、時代の変化、祭祀の激務、天皇の高齢の3つの観点から簡略化の推移を説明しようとしています。

 教授の見方は項目的に並べると、次のようにまとめられるかと思います。

1、主要全国紙は1966年を最後に宮中祭祀に関する記事の掲載を止めた。高度経済成長の結果、農業は廃れ、農耕儀礼と密接な宮中祭祀は社会から浮き上がっていった。

2、68年に侍従次長、70年に侍従長となった入江にとって、祭祀は「頭の下がる、人間業とは思われないような振る舞い」(『昭和天皇とともに』朝日新聞社刊)だった。

3、古希(70歳)を迎えようとする昭和天皇にとって、1年に30前後ある祭祀は過酷な負担だった。

4、こうして天皇みずから拝礼する、毎月1日の旬祭(しゅんさい)の親拝は、68年から5月と10月の2回になった。

5、今城と入江が対立した。今城は昭和天皇の母君・貞明皇后の影響をつよく受け、宮中祭祀を厳修しなければ神罰があたると考えていたようだ。昭和天皇は貞明皇后を恐れていたが、入江は今城を恐れることなく、祭祀の負担軽減を進めようとした。

6、「お上は大事なお方、お祭りもお大事だが、お祭りのためにお身体におさわりになったら大変」という入江の主張に、体力の衰えを自覚していた天皇は理解を示した。

7、しかし今城に影響を受けた香淳皇后は1970年5月30日、「旬祭はいつから年二度になったか」と詰め寄った。口ぶりは今城そっくりだった。

8、入江は新嘗祭の負担軽減にこだわった。70年の新嘗祭は「夕(よい)の儀」だけとし、翌年からは「夕の儀」「暁の儀」とも代拝とすることにつき、天皇の了解を得た。同年11月23日の日記に入江は「明年は何もなしに願ってつくづくよかった」と書いている。


▽原教授の7つの誤り

 こうした原教授の解説は、宮中祭祀に関する無理解に起因する完全な誤りだ、と私は考えています。ポイントは次の7点です。

1、新聞が宮中祭祀を報道しなくなった原因は農業社会から工業社会への転換なのか。

2、宮中祭祀は農耕儀礼ではない。

3、祭祀は肉体的、精神的にご負担が大きいという見方は祭祀の本質を理解していない。

4、入江が祭祀の「簡素化」を進めたのは、天皇のご負担軽減が目的だったのか。

5、宮中三殿での祭祀に「出席」しないことがご負担軽減にはならない。

6、昭和天皇は体力の衰えを自覚して、簡略化に同意されたのか。

7、祭祀簡略化は、入江日記には書かれていない、ほかの要因があったのではないか。


▽農耕儀礼ではない

 教授の勘違いについては、すでに当メルマガで説明したものもありますので、まだお話ししていない点に絞って、以下、申し上げます。

 まず宮中祭祀の儀礼的性格についてです。

 教授は、「宮中祭祀は民俗的な農耕儀礼と密接に関わっている」(「現代」5月号論考)とお考えのようです。雑誌論考では、ご自身の体験や皇太子・同妃両殿下の時代相を織り交ぜながら、農村社会から工業社会への構造的変化によって宮中祭祀、あるいは神社祭祀が形骸化したというような説明がされていますが、一面的です。

 つまり宮中祭祀は、神社祭祀と同様、焼き畑および稲作農耕社会の民俗を踏襲しているのは事実でしょうが、農耕儀礼ではありません。

 以前、このメルマガ(8号、昨年12月4日)で、宮中で行われていたサバの行事という儀礼について書きました。天皇は、皇祖の神勅に基づいて自分が治める国に、飢えた民が一人あっても申し訳ない、というお思いで、毎食ごとに一品ずつ食事をとりわけ、そのあと、はじめて召し上がったのでした。

 サバの行事は、国と民のため、つねに祈る天皇の祈りそのものですが、明らかに農耕儀礼ではありません。


▽命を共有する食儀礼

「古事記」「日本書紀」には2つの稲作起源神話が描かれています。1つは、死体化生神話と呼ばれるもので、日本書紀では、月夜見尊(つくよみのみこと)が保食神(うけもちのかみ)を殺害するとその遺体から五穀の種子が生じ、「これは国民が生きていくのに必要な食べ物だ」と天照大神が喜ばれた、という物語になっています。もう1つはよく知られている、ニニギノミコトの天孫降臨に際して大神が稲穂を授けたとする斎庭(ゆにわ)の稲穂の神勅です。

 戦前、宮中祭祀に関わった元宮内省掌典の八束清貫(やつか・きよつら)は、伊勢神宮第一の重儀である、大神に稲の初穂を捧げる神嘗祭(かんなめさい)の淵源は保食神の神話で、他方、宮中で天皇みずから米と粟の新穀を神前に供し、ご自身も召し上がる新嘗祭は斎庭の稲穂の神勅に由来する、と説明しています(『祭日祝日謹話』)が、「国平らかに、民安かれ」と祈る天皇の祭祀は、農耕儀礼というのではなくて、皇祖と天皇と国民とが命を共有する命の儀礼というべきです。

 そのことは全国各地の神社の祭りを見ても明らかです。稲作地帯では秋祭りに稲の初穂が神々に捧げられますが、漁村では海の幸が供せられます。神前に命の糧(かて)を供え、参列した氏子(うじこ)がお下がりをいただくという神人共食の儀礼は、神と人間の命の共有にほかなりません。

 原教授は「宮中祭祀は民俗的な農耕儀礼と密接に関わっている」と説明しますが、天皇は宮中三殿で田植えや田起こしを模した儀礼を行うわけではないでしょう。宮中祭祀は、農耕社会に基礎づけられた農民の民俗ではなく、人はみな神によって生かされ、食によって命をつないでいるという万古不易の真理に基づく食儀礼なのです。


▽日本人が日本人であるかぎり

 したがって、農村社会の性格が弱まったからといって、祭祀の意義が失われるわけではありません。

 江戸時代を考えてみてください。人口100万の江戸の町は当時、世界一の大都市で、農村ではありませんが、おびただしい数のお稲荷さんが、俗に「伊勢屋、稲荷に……」といわれるほど、そこかしこにまつられていました。農民の稲作信仰から町人の信仰に発展した稲荷信仰がそこにはありました。そしてその信仰はさらに発展した現代社会にも息づいています。そのことは八重洲や銀座の町を歩けば簡単に分かります。

 農耕儀礼が形骸化した現代では、宮中祭祀は社会から浮き上がっている、という原教授の考えは、完全な誤りです。日本人が日本人であるかぎり、祭りは続くでしょう。たとえば近代国家の幕開けとともに創建された靖国神社ではワインや金平糖が神饌となるように、宇宙時代になれば宇宙食が神々に捧げられるかもしれません。

 つまり、時代の変化として原教授が指摘する、新聞が宮中祭祀を報道しなくなった理由はほかにあるのでしょう。宮中祭祀が社会から浮き上がったのだとしたら、その理由は高度経済成長に伴う社会的な構造変化ではなくて、別にある、ということになります。


▽つねに祈っている

 次に、原教授の宮中祭祀廃止論の大前提となっている、祭祀の肉体的、精神的な負担について考えます。

 教授の説明は、負担が大きい祭祀だが、昭和天皇も今上天皇も熱心である。けれども皇太子の時代になれば、そうもいかないだろう。宮中祭祀の農耕儀礼はすでに形骸化している。だから、廃止を検討したらどうか、という論理です。

 しかし、これも一面的な理解で、宮中祭祀であれ、神社祭祀であれ、祭祀こそ生命力の源であり、祭りには生命力を復活させる力がある、それが祭りの本質である、ということは、以前、このメルマガ27号(4月15日)に書きましたので繰り返しません。

 ここでは、祭祀のご負担が大きいから、祭祀を削減または簡略化させる、という発想の無意味さについてお話しします。

 原教授は「祭祀に出席」という表現を使います。熱心に「出席」することが高齢の天皇には「負担」になるという論理ですが、それなら逆に「出席」しなければ「負担」はなくなるのかといえば、必ずしもそうではありません。

 なぜなら、天皇は宮中三殿での祭儀のときだけ祈っているのではなく、すでにサバの行事の説明でお分かりのように、1年365日、つねに祈っておられるからです。


▽負担軽減にならない

 かつては石灰壇御拝(いしばいだんのぎょはい)という行事がありました。天皇は毎朝、石灰壇に登り、伊勢神宮をはるかに拝したのです。明治以後、侍従による毎朝御代拝(まいちょうごだいはい)に代わりましたが、天皇の祈りの精神は引き継がれ、御代拝の間、天皇は御座所でお慎みになります。

 つまり、天皇の健康や高齢に配慮して、賢所での親祭や拝礼を代拝としたとしても、ご負担は必ずしも軽減されるわけではありません。たとえば、昭和天皇がお風邪を召され、ある儀式が御代拝になったことありました。しかし、陛下は御代拝のあいだ、お部屋で正座のまま過ごされたといわれます。

 それが祭祀王たる天皇なのです。原教授は、祭祀への「出席」を「熱心」といい、「出席」しないことを「簡略化」と見ていますが、誤りです。

 表向きの「簡略化」は何らご負担の軽減にはなりません。また、御代拝とせずに、祭祀を削減、簡略化することは、祭祀の形式を変更するというだけでなく、御代拝中のお慎みの機会すら与えられないということにおいて、天皇の祭祀を破壊することになります。

 原教授は、「昭和天皇はみずからの高齢を理由に宮中祭祀が削減または簡略化されていくことについて、いいがたい不安を覚えていたようです」と書いていますが、「簡略化」ではなく「祭祀破壊」なら「不安」は当然です。


▽祭祀に対する偏見

 原教授は、昭和天皇の高齢に対する入江侍従長の配慮から祭祀の簡略化工作が進められたという理解ですが、そうではなくて、入江の祭祀に対する無理解、すなわち天皇という制度に対する無理解が祭祀の破壊を招いたのではないか、と私は考えます。

 陛下のご健康に配慮し、ご負担を軽減しなければならないのなら、国事行為を皇太子に代行させるとか、あるいは憲法には記載のない公的な行事への出席を削減するとか、方法はいくらでもあります。

 そのような方法をとらずに、祭祀簡略化を選択したのは、入江が祭祀に対するある種の偏見、あるいは合理主義的な考えがあったからでしょう。

 その根拠は入江日記の随所に見受けられます。たとえば、すでに見たように、入江は昭和45年5月30日、香淳皇后から「旬祭はいつから年2回になったか」という抗議を受け、「洗いざらい申し上げ」たようですが、この日の日記に入江は「くだらない」と暴言を吐いています。

 香淳皇后とのお話の中身が「くだらない」ということなのか、それとも祭祀の「簡略化」を議論すること自体が「くだらない」のか、いずれにしても「およそ禁中の作法は神事を先にす」という祭祀王・天皇のお役目を最優先に考える言葉とはいえません。

 新嘗祭が簡略化されて「さわりだけ」になった昭和46年の日記には、出勤も遅くてよくなった、運動に徒歩出勤して気持ちがよかった、大相撲の中継を十両から打ち出し(終わり)まで全部見た、などと書かれてあります。

 天皇が神嘉殿で新嘗祭を親祭なさるとき、侍従長は壁を隔てたところで、近侍することになっているようで、祭祀は侍従職にとっても「負担」です。入江日記を読むと、祭祀簡略化の理由は、昭和天皇の高齢は口実に過ぎず、じつは4歳年少の入江自身のためではなかったかという疑いをいだかせます。


▽勇気ある掌典の告発

 日記には、昭和天皇がお帰りの車のなかで、「これなら何ともないから急にもいくまいが暁(の儀)もやってもいい」とおっしゃったとあり、入江は続いて、「ご満足でよかった」と書いていますが、そうではないでしょう。

 昨年12月18日のメルマガで、徳川三代との熾烈なつばぜり合いを演じなければならなかった後水尾天皇について書いたように、争わずに受け入れるのが古来、天皇の帝王学です。昭和天皇が祭祀の熱心だったとすれば、祭祀の伝統が破壊されて、「ご満足」だったはずはありません。「暁をやってもいい」とのご発言は逆にご不満の表明でしょう。

 原教授にも共通する、入江の祭祀に対する、あるいは天皇という制度そのものに対する無理解、偏見が、祭祀に熱心な女官を「魔女」「神懸かり」と呼び、まるで新興宗教まがいに忌み嫌って追放し、平気で祭祀を破壊したのです。

 しかし、この見方に対する反論もあります。入江の周辺にいた職員たちは、入江を祭祀憎悪思想の持ち主とはけっして見ていないからです。

 そしてまた、原教授が説明しているような、けっして個人レベルに還元されるべき問題でもありません。つまり、もっと大きな枠組みのなかで考えるべき祭祀破壊の要因があります。端的にいえば、皇室祭祀をめぐる憲法問題、政教分離問題です。原教授が社会変化として指摘する、新聞が宮中祭祀を報道しなくなった理由も、むしろこれなのでしょう。教授の分析はこの点でも単純すぎます。

 祭祀簡略化問題は、入江侍従長の工作によって旬祭のお出ましが年2回になった昭和43(1968)年からじつに20年も過ぎて、表面化します。入江が「ウルトラシントイズム」と名指しした、親子ほども年の離れた、一掌典の勇気ある告発が発端でした。

 どのようなことがあったのか、次号でお話しします。


□□□□□□□□□□ 話題「北海道稲作の父」 □□□□□□□□□□

▼政府はアメリカ型農業を導入

 北海道は、米の生産量が60万トン(平成19年)もあり、いまでは新潟に次ぐ米どころですが、そうなったのは近代以後のことで、逆境にもめげずに寒地稲作に挑み、のちに「北海道稲作の父」と呼ばれた1人の男の苦労と涙の物語を忘れることはできません。

 なにしろ、明治の初期、日本政府は北の大地での稲作に執着することはありませんでした。

 明治2(1869)年に開拓使(のちの北海道庁)が設置され、翌年、開拓次官に就任した黒田清隆は、天皇の許しを得て、渡米し、北海道開拓の筋道を与えてくれる助言者を捜しました。

 そして現職のアメリカ農務局長ホーレス・ケプロンが開拓顧問に招かれるのですが、ケプロンが指し示したのは、稲作を中心とした伝統的日本農業からの決別であり、当時、アメリカ東北部で主流だった家畜と畑作との混合農業の導入でした。


▼寒さと孤独に耐え

 北海道は合理主義的欧化政策のいわば実験場でした。明治9年に札幌農学校(現在の北海道大学)が設立されたとき、黒田は開校式で、欧米の科学的な農業を摂取し、全国に普及させることが必要だ、と訴えました。教頭に就任したウイリアム・クラーク(マサチューセッツ農科大学学長)によって聖書教育が実施され、寮の規約には「米飯を食すべからず」と明記されていたほどです。

 こうした政府の方針に逆らうように、寒地の稲作に果敢に挑んだのは民間人であり、明治初期、石狩地方で米作りを成功させたのは中山久蔵その人です。

 文政11(1828)年、河内国(大阪)に生まれた久蔵は、明治維新の前は仙台藩士に仕えていましたが、武士の時代が終わると42歳の厄年を機に、一大決心の末、北海道へ単身移住し、なんと無一物で島松(シママップ。いまは北広島市)に入植、6000坪の開墾を始めました。奇しくもケプロン来日と同じ明治4年のことでした。

 久蔵は粗末な小屋に住み、寒さと孤独に耐えながら、寒地稲作に取り組みましたが、うまくいきません。3年目の6年には寒さに強いという芒(ぼう。のげ)の赤い赤毛種の種籾を渡島地方から取り寄せ、1反歩(10アール)の水田耕作を試みました。

 しかし5月にまいたモミはなかなか発芽しません。風呂の湯を沸かし、昼夜、苗代に流し入れ、さらにかたわらを流れる島松川の水を暖水路であたため、水田に引きました。涙ぐましい苦労と粘りがようやく実り、ついにこの秋、2.3石の収穫が得られたといいます。


▼明治天皇のご下問に接して

 クラークが来日したのはこの3年後の明治9年です。翌年、クラークは「少年よ、大志を抱け」の名セリフを残して、学生に別れを告げたのですが、奇しくもその駅逓こそ、じつは久蔵の自宅でした。

 かたや欧米の農業ばかりかキリスト教教育までも導入したクラーク、かたや伝統的な稲作にあくまでこだわり、成功させた久蔵。そしてクラークは帰国し、久蔵の米は開拓移民を通じて北の大地に着実に根付いていきました。

 久蔵の成功の喜びと重みを象徴する出来事は明治14年9月、東北・北海道を巡幸中の明治天皇が久蔵宅で休息され、昼食を召し上がったことでした。久蔵は親しく天皇のご下問に接し、7年間に収穫した稲穂などをお見せしました。「金300円、並びに御紋付き三つ組み銀杯」を頂戴した久蔵はただただ感涙にむせんだと伝えられます。

 この巡幸が転機となり、開拓使は幕を閉じ、北海道庁が生まれます。開拓当初は米食禁止令が出され、稲作を試みた農民が投獄されるということさえありましたが、道庁は26年に稲作試験場を開設し、寒地稲作を推進します。「米を作りたい」と願い、成功させた民間人の汗と涙を無視できなくなった結果でした。28年には久蔵が育てた新穀が宮中の新嘗祭にささげられました。

 久蔵の苦労そして成功がなければ、今日の北海道の稲作はあり得なかったでしょう。


 参考文献 『新撰北海道史2 通説1』(北海道庁、1937年)、『北海道農業発達史』(北海道立総合経済研究所編、1963年)、『北大百年史 通説』(北海道大学、1982年)、『恵廸寮史』(北海道帝国大学恵廸寮、1933年)、『広島村史』(広島村、1960年)など


□□□□□□□□□□ 神社行事の祝辞が違憲ならカトリックは? □□□□□□□□□□

 以下は、斎藤吉久メールマガジンからの転載です。
http://www.melma.com/backnumber_158883/

 今月7日、名古屋高裁金沢支部で下された政教分離判決の判決文がネット上に公表されましたので、あらためてこの問題について、とくにカトリック教会の問題と対比させながら、考えてみます。
http://www.courts.go.jp/search/jhsp0020?
action_id=search&hanreiSrchKbn=04&recentInfoFlg=1


▽奉賛会発会式で市長が祝辞

 まず事実関係です。

 石川県南部・白山市(旧鶴来町)に白山比め(口偏に羊、しらやまひめ)神社という有名な大社があります。加賀一ノ宮で、全国に3000社あまりあるといわれる白山神社の総本社です。日本三名山の1つ・霊峰白山を神体山とし、「石川県に世界遺産を」という世界遺産登録運動の中心の1つです。
http://www.shirayama.or.jp/

 今年は御鎮座2100年というお祝いの年にあたり、10月には50年に一度の大祭が予定されています。そのために奉賛会が組織され、役員となった角市長は平成17年6月25日(土曜日)、市内ホールでの奉賛会発会式に出席し、祝辞を述べました。

 この市長の行為について、住民が、憲法の政教分離原則に違反する、として訴訟を起こしました。第一審では請求が棄却されたことから、住民はこれを不服として控訴していました。

 そして今回の二審判決は、原判決を変更する違憲判決でした。


▽問われていない祝辞の中身

 裁判所の判断についてのポイントは以下のようになります。

1、まず最初に指摘したいのは、じつに興味深いことに、判決文には論点の欠落があります。少なくとも二審の判決文には市長の祝辞の内容についての言及がありません。高裁支部は祝辞の中身ではなく、もっぱら市長の行為について法的判断を下しています。

 市長は何を祝辞として語ったのでしょうか。たとえば白山信仰を広め、信者獲得を目的とするような発言をしたのなら、「国およびその機関は宗教的活動をしてはならない」という憲法の条文に明らかに反します。

 たとえば、関東大震災と東京大空襲の犠牲者の遺骨を安置する東京都慰霊堂の大法要で、私は導師の大僧正が「皆さん、南無阿弥陀仏を唱えましょう」とよびかけ、参列者が唱和するのを見たことがあります。これに類することを市長が出席者に話したというのなら、違憲判決は妥当ですが、この裁判では問われなかったとすれば不思議です。


▽「特定宗教団体の援助・助長・促進」

 判決文を少し拾い読みします。

2、白山比め神社は宗教団体にあたり、神社の大祭は宗教上の祭祀である。奉賛会の事業は宗教事業であり、奉賛会は宗教上の団体である。奉賛会の発会式の目的は、宗教活動遂行の意思を確認し合い、団体発足と活動開始を宣命することにある。

3、したがって、市長が発会式に出席し、祝辞を述べた行為は、宗教活動に賛同・賛助・祝賀を表明したのであり、神社の宗教的祭祀を奉賛・祝賀する趣旨の表明と解することができるし、市長自身そのように意図したと認められる。

4、発会式は境内の外にある一般施設で行われているが、それであっても、上記の判断は左右されない。

5、市長の発会式出席・祝辞は、時代の推移によって宗教的意義が薄れ、社会的儀礼化しているとは考えられない(筆者注。この点について判決文には明確な論拠が示されていません。判決は発会式そのものが宗教的か否かを判断していますが、そうではなくて、宗教性というのは出席者との相互関係によって見出されるべきだと思います。たとえば宗教関係者にとっては宗教的行事であったとしても、行政関係者にとっては社交である場合もあり得るでしょう)。

6、以上のことから、市長の行為は、神社の大祭を奉賛・賛助する意義・目的を有し、特定の宗教団体に対して援助・助長・促進する効果を有するものといえる(筆者注。この判決はいわゆる目的・効果論に立ちながら、つまり絶対分離主義をとっていないはずなのに、結論は絶対分離主義になっています。これでは市長は神社であれ、お寺であれ、およそ宗教団体と名のつくところとは交際ができなくなり、逆に無宗教といいつつ、非宗教を援助・助長・促進することになります)。


▽「社会的儀礼の範囲を超えている」

 さらに判決は、特定宗教の援助・助長ではない、とする市長側の主張に対して、次のように斥けています。

7、市長側は、神社の大祭は市の観光イベントで、市は関わりがある。市の行為は儀礼的交際、と主張する。友好・信頼の維持増進が目的と客観的に見ることができ、社会通念上の儀礼の範囲なら、許容されるが、市長が儀礼の範囲を逸脱していることは明らかで許されない。(筆者注。なぜ「明らか」なのか、明確な論拠が示されていません)

8、市長側は、大祭は観光イベントだと主張するが、神社自身の個別的事業であり、それにとどまっている。観光イベントとして習俗化されていると認めるべき事情は見当たらない。

 さらに判決文は続くのですが、このへんで止めます。

 判決の内容を簡単に言えば、神社の年祭は宗教活動であって、観光イベントとはいいがたいから、奉賛活動に行政が参加することは儀礼とはいえず、憲法に違反する、ということかと思います。


▽行政が関与した二十六聖人記念碑建設

 書きたいこと、書くべきことは山ほどありますが、とりあえず思い起こされる2点についてのみ申し上げます。1つは長崎市の市有地にある二十六聖人記念碑、もう1つはこれまた長崎で県をあげて現在進行中の教会群の世界遺産登録運動です。

 JR長崎駅前の丘に建つ二十六聖人記念碑は昭和37(1962)年に完成しました。殉教百年を記念したもので、市が所有する西坂公園内にイエズス会が建てたのでした。むろん今回の判決が依拠する完全分離主義ではなく、緩やかな政教分離政策の結果といえます。

 当時のカトリック新聞によると、記念碑建設計画はさかのぼること15年前、敗戦直後の新憲法公布のころ、つまり占領前期に、行政を巻き込んで、始まったようです。

「昭和22年、二十六聖人殉教350年祭にあたって『日本二十六聖人聖地保存会』が田中耕太郎氏(筆者注。のちの最高裁長官。カトリック信徒)を総裁に、北村徳太郎氏(政治家。芦田内閣の蔵相)を会長として発足して以来、長崎県知事、長崎市長、財界、文化人たちの有志によって、二十六聖人殉教者の偉徳を顕彰しようとの動きは年々引き継がれてきたが、一昨年あたりからふたたび急激に二十六聖人ムードが盛り上がり、世界の聖地として相応しい施設を建設し、あわせて聖人列聖百周年を盛大に祝おうとの意欲が高まった。幸いに記念施設がイエズス会の尽力によって立派に完成しつつあるし、さらにメキシコ、スペインなどから多数の巡礼団がやってくるというので、長崎市でも列聖百年記念行事と観光とを結びつけてその準備や宣伝、巡礼団受け入れなどに非常な努力をしてきている」


▽記念碑の除幕は市長

 そして列聖記念百年祭が始まり、6月8日には大浦天主堂で荘厳ミサが、10日には西坂公園で記念式典が行われ、内外の信徒一万人が参列しました。5000人の信徒のロザリオの祈りになかで、記念碑の除幕、資料館のテープカットを行ったのは田川市長でした。聖歌の大合唱のあと、長崎大司教が祝辞、市長のあいさつ、ローマ教皇ヨハネス23世の祝辞が続いたと伝えられます。

 また長崎市の記録によれば、市が中心となって『日本二十六聖人列聖百年記念観光行事委員会」が特設され、参列者の受け入れなどに万全が期されました。百年祭は翌年の5月まで続きました。

 今回の違憲判決のように、神社の年祭は宗教活動で、これに伴う施設建設事業などのための奉賛会活動に行政機関が参加することが憲法違反だとするならば、二十六聖人の列聖百年記念行事に行政が関わることも違憲となるでしょう。しかしそのような議論は聞いたことがないばかりでなく、私の取材では、記念碑はその後、市に寄贈され、しかしカトリックの公式巡礼地とされた公園では毎年、野外ミサが行われています。他方、聖人の遺骨が安置されているという記念館はいまも市有地にあり、しかも税金免除の特典を受けているといいます。

 政教分離裁判といえば、神社についてばかり取り上げられる傾向がありますが、このように似たような事例は他の宗教についても枚挙にいとまがないほどあり、そして容認されています。白山市長の違憲判決が確定し、厳格主義が広がれば、行政に一大混乱をもたらすことになります。


▽県が主導する「教会群」の世界遺産登録運動

 もう一つ、思い起こされるのは長崎教会群の世界遺産登録運動です。県庁内に事務局が置かれ、県のサイトに特別のホームページが掲載されるなど、県をあげて推進されています。

 白山比め神社の訴訟は、奉賛会の発会式に市長が出席し、祝辞を述べたのに際して、公用車の運転手の聞く務時間外手当など15,800円などを請求するもので、名古屋高裁金沢支部は、奉賛会は宗教上の組織で、市長のその参加は特定宗教への援助にあたるとし、費用の返還を求めています。

 これに対して、教会群の世界遺産登録はむろん宗教団体の宗教活動ではありません。しかし行政が組織的に多額の公費を投じて登録運動を推進することは、この訴訟の論点である特定の宗教団体に対する援助・助長・促進にあたらないのかどうかが問われます。

 すでに世界遺産として登録されている熊野であれば、神社もあれば、お寺もあるでしょう。これから世界遺産を目指している白山比め神社のある石川県も同様でしょうが、長崎の場合はもっぱら「教会群とキリスト教関連遺産」に限定した世界遺産登録だからです。


▽厳格主義か否か、それとも二枚舌か

 しかも長崎教区の高見三明大司教は名にし負う政教分離論の伝道師で、厳格主義を以前から布教しています。たとえば、「信教の自由と国家」(『信教の自由と政教分離』カトリック中央協議会、所収)では、「憲法20条の諸規定は、できるだけ厳格に解釈されるべきです。なお、憲法89条では、公金が宗教団体の青、便益または維持のために支出されることが禁じられています」と述べられています。

 であれば、もし本気で絶対主義を唱えるなら、高見大司教は県主導による登録運動を辞退すべきです。白山比め神社を含む石川県の世界遺産登録運動が地元経済団体に事務局をおいて推進されているように、行政主体で進めなければならない理由はどこにもないからです。

 逆に、たとえば今年の3月、長崎県教育委員会が主催し、大浦天主堂を会場に開かれた世界遺産シンポジウムに高見大司教がパネリストとして参加しているように、行政の支援を求めたいのであれば、厳格主義が判例とならないように、高見大司教は白山市長の上告審を応援すべきです。

 大司教のとるべき道は2つに1つです。そうでなければ、ご都合主義もしくは二枚舌のそしりを免れず、真理を語る宗教者としての資格性を問われます。


□□□□□□□□□□ 天皇・皇室の一週間 □□□□□□□□□□

4月24日(木曜日)

□天皇・皇后両陛下が都内で開かれた日本人のブラジル移住百周年記念式典に出席され、お言葉を述べられました(時事ドットコム)。
http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2008042400776

4月23日(水曜日)

□天皇・皇后両陛下が都内で開かれた日本国際賞授賞式にお出ましになりました(時事ドットコム)。
http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2008042300751

4月21日(月曜日)

□天皇・皇后両陛下は皇居で、韓国の李明博大統領夫妻と会見されました(MSN産経ニュース)。
http://sankei.jp.msn.com/culture/imperial/080421/imp0804211820004-n1.htm

4月19日(土曜日)

□皇太子殿下は山口市で開かれた第19回全国「みどりの愛護」のつどいにお出ましになりました(宇部日報)。
http://www.ubenippo.co.jp/one.php?no=4901

4月17日(木曜日)

□春の園遊会が赤坂御苑で行われました(時事ドットコム)。
http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2008041700555


□□□□□□□□□□ お知らせ □□□□□□□□□□

1、「明日への選択」4月号(日本政策研究センター)の「一刀両断」欄に拙文が載っています。「苦言」騒動について書きました。
http://www.seisaku-center.net/

2、発売中の「別冊正論」第9号に拙文「靖国合祀『日韓のすれ違い』」が載っています。
http://www.sankei.co.jp/seiron/etra/no09/ex09.html

3、「人形町サロン」に拙文「日本人が大切にしてきた多神教文明の価値」が載っています。
http://www.japancm.com/sekitei/sikisha/index.html

4、斎藤吉久メールマガジンの読者登録もお願いします。
http://www.melma.com/backnumber_158883/

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