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天皇を学ぶべきだったネパール [天皇・皇室]

□□□□□□□□ 天皇を学ぶべきだったネパール □□□□□□□□

 240年に及んだネパールのグルカ王朝が先月末、廃止されました。制憲議会が王制廃止、共和制樹立を圧倒的多数で決議したと伝えられます。

 2001年のビレンドラ国王暗殺事件の血生臭い国王交代劇も異常でしたが、今回の王制廃止を主導したのが武装闘争を展開してきた共産党毛沢東主義派だというのも異様に映ります。

▽1 毛沢東主義者の時代錯誤

 第一次大戦、第二次大戦を経て、君主制が民主制に取って代わられ、さらに革命運動を経て社会主義社会が実現される、というような社会発展説が無邪気にも信じられた時代がありましたが、20世紀には逆に革命国家のソ連が崩壊しました。

 それどころか、いまロシアで起きているプーチンの強権政治は、まるでツァーリズムの先祖返りです。プーチン「王制」が支持されているのは、ロシア人自身が潜在意識の中で「王制」を欲しているからではないか、とさえ私は思います。

 マルクスの唯物史観はいまや博物館のかび臭い陳列物だ、と思っていたら、あにはからんや、ネパールでは今ごろになって、毛沢東主義者が王制を打倒したというのですから時代錯誤は否めません。

 国王を中心にしてさえ1つにまとまれなかった国民が、みずから国の中心を捨て、なおかつ、民主主義の経験のないところから、どうやって安定した統一的社会を築いていくのでしょう。誰の目にも、前途は多難です。

▽2 王権の制限

 ひるがえって、日本の天皇は少なくとも千年以上の歴史があり、1つの王朝が続いています。何が違うのか。指摘できるのは、まず、王権の制限の有無かと思います。

 哲学者の上山春平先生が指摘しているように、日本は古代律令制の時代、すでに権力の制限が行われています。天皇がみずから権力を振るったのではなく、権力は官僚機構の頂点にある太政官に委任されました(『日本文明史』など)。近代においても、明治元年の五箇条の御誓文は最初に、広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ、と議会主義を宣言しています。

 さらに上山先生は指摘します。プラトンは君主制と民主制とを兼備していなければ善い国家とはいえない、とし、アリストテレスは多くの国制が混合された国制ほど優れている、と書いた。つまり、奇しくも日本では、絶対君主制とは異なる、望ましい混合体制が古来、実現されてきたのでした。

▽3 卓越した臣下を用いる

 王権の制限は、君主個人の統治能力の問題と関わっています。

 ネパール王制に見るように、君主の親政は当然、君主の統治能力によって政治が左右されます。しかし世襲の原理に基づく君主に、何代にもわたって優れた統治能力を期待できる保証はありません。

 日本では例外的に英明な君主が歴代、続いてきたということではありません。実際、古事記、日本書紀は、統治者の適格性を大いに疑われるような天皇を正直に記録しています。それでも天皇は天皇であり、皇位は継承され、国の歴史は続いてきました。

 日本の天皇は、みずから統治者として卓越した能力を発揮してこられたのではないからです。優れた能力を持つ臣下を用いたのが日本の天皇です。

▽4 熱狂が冷めたとき

 血統原理によって王統を維持し、国の歴史的連続性を体現し、社会を安定させ、一方、現実の政治においては、能力ある官僚たちを登用し、善政を行わせる。じつに優れたシステムです。

 アメリカでは民主党の予備選挙がようやく決着しましたが、莫大な時間とお金をかけ、自分の能力や政策の優越性をこれでもかと主張し、他候補との対立をあおり、醜いまでの多数派獲得工作を展開し、期限付きの地上の絶対者を選び出すアメリカの民主主義には、日本の天皇のような謙虚さや清らかさがありません。いったん深まった国民間の溝を修復するにも多大なエネルギーが必要で、どこまで優れた制度といえるのか、疑問です。

 君主制にはそんな無駄は不要ですが、畏敬する市村真一・京大名誉教授が指摘するように、いったん王制が廃止されれば、ふたたび歴史の振り出しに戻って正統性を再構築しなければならないのは欠点です(「君主制の擁護」=『教育の正常化を願って』創文社、昭和60年所収)。そのための労力と時間がどれほど国民の負担となるか、ネパールの人々は王制打倒の熱狂が冷めたとき、噛み締めることになるでしょう。

 ネパールは毛沢東主義ではなく、日本の歴史に学ぶべきだったのです。


□□□□□□□□ ネパール小史 □□□□□□□□

 伝説によると、同国が位置するネパール谷(カトマンズ盆地)はかつては湖だったといわれます。それが中国から巡礼にやってきた文珠師利菩薩によって峡谷が開かれ、湖は大地となりました。菩薩は中国に帰りましたが、残った弟子のダルマルカルがネパール最初の王となったといわれています。その後、次々と王朝が起こったといわれますが、存在が確実なのはリッチャビ王朝(4、5世紀〜9世紀後半)からとされます。

 1742年、西ネパールにいたプリトビナラヤン・シャーはその昔、イスラム教徒の侵入によって故国を追われ、ヒマラヤに移ってきたといわれるグルカ勢力の王となり、さらにネパール谷の諸王国に対して闘いを挑みました。やがてネパール谷を征服した王は1768年、新しい王朝を築きました。これが現在のグルカ王朝のルーツといいます。

 1846年、ちょうど日本では孝明天皇が即位された年に当たりますが、ネパールでは王宮大虐殺事件が起きました。軍務大臣だったジャン・バハドゥールが政敵を一挙に殺害し、実権を握ったのです。バハドゥールはラナ姓を名乗り、国王に準じた大王を号しました。ラナ家は世襲の宰相となり、王権は有名無実化したとい
われます。

 このラナクラシーに終止符が打たれたのは、百年余りたった第二次大戦後の1951年でした。インドに亡命していたトリブバン国王が帰国し、ネパール会議派を中心とした勢力によって王政復古がなり、政党政治が始まりました。同時に19世紀以来の鎖国も解かれました。

 しかし4年後、トリブバン国王が崩御、マヘンドラ皇太子が王位を継承します。ネパール最初の選挙が実施され、新憲法が公布されたのもつかの間、1960年、国王は突然、国会を解散し、政党政治を廃止し、国王親政を敷きました。その理由は政府の無能と腐敗に対する不満で、国民の間に不信が高まったからだとされています。1962年には新憲法が公布され、独特のパンチャーヤット体制が確立されました。

 そのマヘンドラ国王が亡くなり、即位されたのがビレンドラ前国王でした。インド・ダージリンのセント・ジョセフ・カレッジやイギリスのイートン校で近代教育を受け、さらにアメリカのハーバード大学、日本の東大で学ばれました。今上天皇とも親しく、親日家として知られていました。

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