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皇室は近代の理念と対立しない ──西尾論文批判の続き [西尾幹二天皇論]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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皇室は近代の理念と対立しない
──西尾論文批判の続き
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「WiLL」誌上に発表された西尾幹二論文に対する批判を続けます。今回は、東宮批判の背景となっている論理の妥当性について、あらためて総合的に問い直します。
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 まず5月号です。西尾・電通大名誉教授は、伝統主義と近代の能力主義との衝突という図式を掲げます。簡単にポイントをまとめるとこうです。

 ──皇室制度は近代の理念が立ち入れない伝統の世界である。皇太子殿下と雅子妃とのご結婚は伝統主義と能力主義との衝突であり、その結果、軋(きし)みが生じ、妃殿下は病を得た。雅子妃問題は反天皇論者の標的となり、危険水位が上がっている。皇族は一時的に天皇制度をお預かりしている立場であり、船酔いで船に乗っていられないなら、下船していただくほかはない。

 妃殿下や父君・小和田氏の出自である官僚社会は、皇室とは水と油の関係にある、と断定されています。

▽1 西尾先生の妃殿下批判

 6月号の論文は、天皇の存在は国民にとって信仰問題である、という指摘から始まります。

 ──天皇家という神聖家族に神聖でない血脈が不規則、無定見に入り、神聖性が薄れることは神秘性の消滅をもたらし、権威の失墜をもたらす。いちばん恐れるのは、皇室の内部に異種の思想が根付き、増殖し、外から取り除くことができなくなることである。雅子妃殿下にも「国母」になっていただかなくてはならない。皇室がいつも祈っていてくださるから、国民は皇室を崇敬できる。皇太子ご夫妻は皇族としてのご自覚があまりにも欠けている。

 西尾論文は、皇后陛下の「伝統的な徳」を例示し、妃殿下に対しても同様の徳を要求しています。

 8月号では、天皇の精神的特別性という徳の要求がさらにつづられ、両陛下の努力を称える一方で、皇太子ご夫妻は「民を思う心」を育まれていないようには思えない、と批判を加えています。

 9月号では、ソ連崩壊後のロシアや第二次大戦後のドイツと対比させながら、長々と日本の敗戦の歴史が描かれています。国家の権力が失われ、国家中枢が陥没する恐怖の到来を警告するとともに、その主因は東宮殿下の世代になって、皇室みずからがパブリックであることをお忘れになっていることにある、と批判するのです。


▽2 一夫一婦天皇論の誤り

 結論からいうと、西尾論文には、議論の背景に4つの誤りがあります。

1、皇位は天皇お一人が継承するものであり、両殿下がお二人で継承するわけではありません。
2、皇位は世襲であると説明しながら、将来の天皇である皇太子のみならず、妃殿下にまで徳を要求するのは矛盾です。
3、天皇とは肉体をもった個人ではなく、歴史的存在です。
4、天皇にとってもっとも重要なことは祭祀を行うことです。

 ここでは第一の誤りについてお話しします。

 西尾先生が一方では、雅子妃問題は妃殿下個人の問題だ、と指摘しながら、その一方で大仰に国家的問題であると大騒ぎするのはなぜか、それは「ご夫妻は国家の象徴となられる方とその配偶者」だからです。

 しかしそこに基本的な誤りがあります。

 たしかに宮内庁のホームページには、「天皇皇后両陛下のご日程」が載っており、祭祀に関しても、「天皇皇后両陛下は,宮中の祭祀を大切に受け継がれ,常に国民の幸せを祈っておられ,年間約20件近くの祭儀が行われています」と表現されています。

 マスコミも、「天皇・皇后両陛下が国体の開会式に出席されました」などと報道しています。

 しかし、あたかも天皇と皇后がお二人で皇位を継承し、公務をお務めになるかのような、一夫一婦天皇論ともいうべき理解は誤っています。


▽3 皇族とは認められなかった

 歴史的に見れば、臣家出身の皇后や皇太子妃は皇族とは認められなかったようです。

 宮内庁書陵部が編纂した『皇室制度史料』には、古代の法体系である大宝律令では親王・王の配偶者は内親王・女王でないかぎり皇族とは認められなかったと推測される、とあります。

 日本書紀に載っている皇后の出自を見ると、仁徳天皇の皇后以降は皇女を通例としています。皇后の出自が皇女もしくは皇族に限られるとする慣習は、大宝律令以前に成立していたと考えられていますが、聖武天皇は新例を開き、その後、臣家の女子の立后が相次ぎました。

 けれども、江戸時代までは、臣家の女子は皇族に嫁したあとも皇族の範囲には入りませんでした。明治維新になって、つまり明治の皇室典範で、皇后や皇太子妃が皇族と称することが規定されたのです。

 皇后が陛下の敬称で呼ばれ、したがって天皇・皇后両陛下と併称されるようになったのも、明治の皇室典範が制定されてからのことです。古代においては、太皇太后、皇太后、皇后の三后、皇太子は殿下の敬称を用いることとされていました。

 また、明治の皇族身分令などで、皇后は大婚に際し、皇太子妃は結婚成約に際して勲一等に叙し、宝冠章を賜うことが定められました。

 皇后の崩御も古代においては必ずしも「崩」とは呼びませんでした。「崩御」と呼ぶようになったのは大正15年の皇室喪儀令以後であり、天皇と同じく追号を贈られるようになったのも近代になってからのことです。


▽4 近代化に伴う改革

 このような改革はなぜ起きたのでしょうか。

『皇室制度史料』は、明治19年の皇族叙勲内規制定に関する『明治天皇紀』の文章を引用しています。

「皇族叙勲のこと、従来、成法なし。欧州諸国にありては皇族の品秩おのずから備わり、生まれながらにしてその国最高勲位を帯ぶるものとす。しかれども本邦においてはまたおのずから皇族待遇の慣例あり。概して欧州の法にならうべからずといえども、外交、日に熾旺なるに際し、彼我の権衡を得しむることまた必要なりとす……」

 日本の皇位継承とヨーロッパの王位継承を比較すると、ともに世襲でありながら大きく異なるのは、父母の同等婚という原則の有無です。

 たとえばイギリスやスペインで女子の王位継承を可能にしているのは、父母がともに王族だからで、女系子孫に王位が継承されれば王朝が交替し、新たな父系の継承が始まります。しかし日本の天皇は父母の同等婚を要求しない代わりに父系の皇族性を厳格に求めてきたのです。万世一系という原則上、女系が認められるはずはないからです。

 別ないい方をすれば、日本では臣家の女子が皇太子妃や皇后となる可能性が大いにあります。近代の日本はその場合、欧米列強に伍していくために、たとえ臣家の出身であったとしても皇族待遇とした歴史に学んで、皇后や皇太子妃を皇族扱いとし、近代の皇室制度を整備したものと思われます。

 思えば、皇室こそ日本の近代化の先頭に立たれたのです。西尾先生は皇室の伝統主義が近代の理念と相対立するかのように書いていますが、一面的です。そして、皇族待遇である妃殿下に「君徳」を要求し、あまつさえ「下船せよ」と迫るのは行き過ぎです。

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