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「平成の宮中祭祀簡略化」に尊皇派が慎重な理由──石橋がコンクリート橋になっても渡らない!? [宮中祭祀簡略化]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(平成22年10月12日)からの転載です


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「平成の宮中祭祀簡略化」に尊皇派が慎重な理由
──石橋がコンクリート橋になっても渡らない!?
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「石橋を叩いて渡る」ということわざがありますが、広い世の中には、鉄筋コンクリートに変わっても渡ろうとしない、根っからの慎重派がいるものです。橋が改修された事実が見えないのか、それとも見ようとしないのか。

 何がいいたいのか、といえば、むろん「平成の宮中祭祀簡略化」です。目前で進行している一目瞭然たる宮内官僚たちの無法に、すべてではありませんが、尊皇派の多くは沈黙状態で、正常化を促す社会的な声は生まれていません。

 振り返れば、30年前、「昭和の簡略化」が明るみに出たとき、尊皇派の態度は当初はやはり同様に慎重でした。それは、官僚たちの判断と陛下のご判断との関係が微妙であること、内邸のことは天皇の聖域であって、陛下のご心中を拝察すればただちに公開討論するのははばかれること、という冷静な判断があったからです。

 しかしその姿勢がほどなくして一変します。憂慮する照会者に対して、宮内官僚たちが紋切り型の対応に終始し、「祭祀は天皇の私事」とする占領時代前期の古臭い憲法解釈を繰り返していたからです。

 破られてはならない原則が踏みにじられている現実を知って、尊皇派は危機意識を強め、「もはや遠慮は許されない」と及び腰の姿勢を転換させ、一気に痛烈な批判行動へと向かったのでした。

 尊皇派の腰が重かったのは十分に理解できます。いまでこそ、入江日記など当事者による一次資料が公にされ、無軌道な祭祀の「簡素化」(入江日記)の推移をつぶさに知ることができますが、当時はそうではなかったからです。

 昭和57年暮れに現職の掌典補が勇気をもって問題提起するまで、入江侍従長の祭祀嫌いに発する「工作」(入江日記)の着手から十数年ものあいだ、部外者には、何が起きているのかさえ、はっきりとは見えなかったのです。

 ましてや密室で進められた祭祀変更の背景などは、関係者以外、知り得るものではありませんでしたから、尊皇派が石橋を叩くことになったのは無理もありません。

 しかし、いまはまったく違います。慎重さを必要とする理由がありません。

 昭和の簡略化は密室で進められ、卜部日記などは昭和51年の新嘗祭で「侍従長・侍従次長は暁の儀まで待機……あと(の侍従たち)は(夕の儀のあと)車にて密かに退庁」したと記録しているほど、秘密が押し通されましたが、いまは「平成の簡略化」の張本人がみずから尊皇派たちの前で講演し、「私が陛下にくり返し進言した」「祭祀は天皇の私事」と公言してはばかりません。

 となれば、もはや石橋を叩く必要もないはずで、昭和の尊皇派なら猛然と抗議するところでしょうが、平成の尊皇派は寂として声がありません。

 かつては尊皇派が宮内庁に対して、「祭祀は天皇の私事」と放言しているのは黙過できないと抗議の声を上げたのです。皇太子殿下(今上天皇)の御結婚の儀が「国事」として行われたのを誤りであり、不法だと富田長官らは考えるのか、と迫ったのです。ところがいまは逆に、尊皇派自身が「いつから追従者、傍観者に変節したのか」と問われかねない状況にあるのです。

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