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明治期の祭式を踏襲か──親祭なき今年の新嘗祭 [宮中祭祀]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2011年12月4日)からの転載です

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明治期の祭式を踏襲か──親祭なき今年の新嘗祭
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 先月23日の新嘗祭は、ご承知のように、陛下は入院中で、親祭がありませんでした。「宮中第一の重儀」とされ、本来、天皇がみずから祭りを行う新嘗祭ですが、今年はどのような祭りとなったのでしょう?

 あらかじめお断り申し上げますが、天皇の祭祀は、天皇が余人を交えずに行われる「秘儀」とされます。したがって祭式の中身について、安易に詮索することは厳に慎まれるべきです。

 私が敢えて追及するのは、とくに昭和50年8月以降、ご健康問題とは別の理由から、端的にいえば、歪な憲法解釈・運用の「忠臣」たちによって、原則のない、簡略化が進んでいることを、心から憂えずにはいられないからです。

 今日のメルマガは資料が多いため、特別長くなっています。その点もご容赦ください。


▽1 昭和の前例に従った「代拝」?

 先月1日の段階では夕の儀、暁の儀ともお出ましの時間が短縮される、と発表されていました。根拠は、医師の指示、つまり陛下のご健康、それと昭和の先例が根拠とされています。
http://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/koho/kohyo/kohyo-h23-1101.html#K1101

 しかしその後、陛下は入院され、さらにご入院が長引き、18日の段階では、医師の判断に従って、お出ましが差し控えられ、そのうえ皇太子殿下のお出ましまでもが時間的に短縮されることになりました。
http://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/koho/kohyo/kohyo-h23-1101.html#K1118

 実際の祭儀について、産経新聞は前日の22日の段階で、「今年は宮中祭祀をつかさどる掌典職のトップ、掌典長が陛下に代わり供物を供え、祝詞を読み上げる『代拝』を行う。……昭和時代の前例に従ったものだという」と伝えています。
http://sankei.jp.msn.com/life/news/111122/imp11112222520001-n1.htm

 陛下が親祭なさる、神嘉殿の聖なる空間にまで掌典長が立ち入り、陛下がなさる神饌御進供、御告文奏上を、掌典長が陛下に代わって行い、これを「代拝」と称し、さらに昭和の時代に行われていた前例の踏襲だと関係者が記者に説明した、ということでしょうか?

 にわかに信じがたい気がします。


▽2 旧皇室祭祀令「注意書き」の援用か?

 さっそく、昭和天皇の祭祀に携わった経験のある宮内庁OBたちに、取材してみました。すると、案の定、「御告文を陛下に代わって奏上するようなご代拝なんて、あり得ない」という答えが一様に返ってきました。

 旧皇室祭祀令(明治41年9月公布)では、新嘗祭は、天皇がみずから祭祀を行う「大祭」と位置づけられ、第8条第2項には「天皇、喪にあり、その他事故あるときは、前項の祭典(大祭)は、皇族または掌典長をして、これを行わしむ」と定められています。

 したがって、皇室祭祀令本文に従えば、神饌御進供、御告文奏上、御直会を、天皇に代わって、掌典長が奉仕していいはずですが、「新嘗祭だけは違う」とされています。

 どういうことでしょうか?

 旧皇室祭祀令には「附式」があり、「天皇、襁褓(きょうほう)にあるときは出御なし。神饌は掌典長これを供進し」という注意書きが加えられています。簡単にいえば、天皇が赤ん坊のときは、祭儀にお出ましがなく、掌典長が神饌を供進する、と定められていた、というのです。

 践祚、即位礼、大嘗祭について定めた旧登極令にも、同様の注意書きがあります。

「今回はこの定めを援用し、掌典長が神饌を供進したのではないか。天皇だけがなさる御告文奏上、御直会を掌典長が代わって行うことはない。拝礼がないのだから、『代拝』と呼ぶこともない」というのが、旧職員たちの説明でした。

 あるOBは、「掌典長が祝詞を読み上げる」と伝えた新聞記事について、「神嘉殿での新嘗祭ではなく、同日に宮中三殿で行われる三殿新嘗祭ならあり得る」と指摘します。もしかしたら記者が両者を混同しているのかもしれません。

 ともあれ、OBが推測するように、旧皇室祭祀令を援用し、掌典長が神饌を供進したというのなら、宮内庁がくり返し説明してきた「昭和の前例」の踏襲には当たらない、ということになります。正確にいえば、「皇室の伝統」に基づいて、です。そのように説明されないのはなぜか、が逆に問われます。


▽3 掌典長が奉仕した明治の先例

 じつは明治の時代に、掌典長が新嘗祭を奉仕した先例があります。

 先日、神社本庁で行われたシンポジウムで、パネラーの1人として、宮中祭祀簡略化問題についてお話ししましたが、旧知の神道学者から、その指摘を受けました。大正9(1920)年以降、大正天皇が新嘗祭にお出ましになっていないことは以前に調べたことがあり、知っていましたが、明治にさかのぼってまで、具体的に調べていませんでした。

 これは探究する必要があります。

 明治天皇(嘉永5[1852]年─明治45[1912]年)に関することなら、読むべき資料はもちろん、『明治天皇紀』です。さっそく全12巻を読み返し、新嘗祭のお出ましについて検証することにしました。

 同書には嘉永6年から新嘗祭についての記述があります。宮中祭祀は「近代の創作」と考える研究者もいるようですが、そうでないことは明らかです。以下、拾い読みします。引用文は使用漢字、仮名遣いなど、適宜、編集してあります。

 最初の関連記事は嘉永6(1853)年です。明治5年の改暦布告、すなわち太陽暦導入以前は11月の下卯日(三卯あれば中卯日)に行われましたので、日付が11月23日でないことも注目されます。

嘉永6年11月14日 新嘗祭、内廷より夜食として餅、芋蒸しなどを侍臣および中山忠能の家族に賜う

 明治天皇は孝明天皇の第2皇子として、前年9月22日、西暦でいえば1852年11月3日、権大納言中山忠能の次女・慶子を母に、お生まれになりました。幼少のころの『明治天皇紀』の記述は、内廷から夜食の雑煮や籤の品を賜ったというような話題に終始しています。慶応元(1865)年の記事にその慣習について説明があります。

慶応元年11月18日 新嘗祭、その儀深更に及ぶをもって、内廷より雑煮を賜る、従来祭事その他ことによりて深夜なお寝に就かれざるときは、准后より物を親王に贈進せらるるを例とす、しかれども自今以後、月障によりて里殿に退出せられたる場合はこれを停めらる、翌日、神斎すでに解くるをもって、親王、准后とともに鮮魚おのおの一折を天皇に献じたまう


▽4 王政復古後の祭祀の整備

 翌年の慶応2年12月25日、西暦でいえば1867年1月30日に孝明天皇が崩御され、翌3年1月9日に践祚の儀が行われました。明治天皇は14歳の若さでした。諒闇中だった同年の新嘗祭の記事には、新嘗祭の歴史、祭場の変遷、王政復古後の祭祀の整備、諒闇中の祭式について、解説されています。

慶応3年11月18日 新嘗祭を神祇官代において行わせらる、新嘗祭は往昔神嘉殿において行われ、諒闇に際したるときのみ神祇官において行うを例としたりしも、中世廃絶すること久しく、元禄元年以後わずかに新嘗御祈と称し、吉田家の宗源殿においてこれを挙行するに止まりたり、元文5(1740)年にいたり、新嘗祭ようやく再興せられたれど、宝暦12(1762)年桃園天皇の諒闇に際し、また元文以前のごとく新嘗御祈を行わせられ、爾来、諒闇の節はその例によれり、しかるに王政復古とともに祭典復古の議起こるあり、すなわち例幣ならびに臨時奉幣にならい、神祇官代においてこれを執行せんとすれども、狭隘にして祭式を挙げ難し、ここにおいて従来新嘗御祈を挙行せし宗源殿をもって臨時に神祇官代に擬し、祭典を行い、神祇権大副吉田良義および奉行蔵人頭右中弁坊城俊政これに勤仕す

 翌年慶応4(1868)年9月8日に、同年元日にさかのぼって「明治」と改元されます。この年の新嘗祭は前年同様、吉田神社内で行われ、明治天皇は山里の遥拝所で遙拝されました。これに先立って、新嘗祭に関する布告が行われ、その趣旨が説明されたことが注目されますが、その内容は稲に偏重するものでした。

明治元年11月18日 前左大臣近衛忠房を上卿として、新嘗祭を京都吉田神社境内神祇官代に挙行す、よりて新たに遥拝所を山里に設け、戌の刻前同所に渡御あり、西室において黄櫨染御袍に召し換えたまい、東室において坤方に向かいて遙拝あらせらる、還御ののち、侍臣その他に鬮(くじ)・包物および一盞をたまい、子の半刻頃、御寝に就かせらる、これより先、とくに新嘗布告書を公布し、新嘗祭の趣旨を諭告するところあり

来18日新嘗祭に相当り御祭は於京師被為行候得共 主上御遙拝被為在候右祭の儀は先 皇国の稲穀は 天照大神顕見蒼生の食而可活ものなりと詔命あらせられ於天上狭田長田に令殖給いし稲を 皇孫降臨の時下し給えるものなれば其神恩を忘給わず且つ旱淋の憂無之様にと 神武天皇以来世々の 天皇11月中卯の日当年の新穀を 天神地祇に供せらるる重礼にて三千年に近く被為行来る11月朔日より散斎到斎の御斎戒被為在万民御撫恤の為に 御親祭被為在候事誠以下々の身にては難有御儀に候諸般の事は中世以来他邦の風儀も立交候えども神事のみは古代の儘にて聊かも駁雑無之純粋の古道に候京都および山城国中は当日より明朝まで梵鐘誦経の音を禁止し庶人に至迄一意に神祇を尊崇すべき御定に有之を天下一統昔は新嘗の日は戸を閉斎戒いたし候赴古歌に相見え候えども只今に至候ては其子細も不存徒に打過候故及御布告候右の譯にて全御仁恤の 叡慮より被為行御祭に候條公卿諸侯大夫夫子庶人に至迄篤く相心得当日は潔斎神祇を拝し共に五穀豊熟天下泰平を神祇に祈奉るべし面々毎日食し候米穀は其元 天祖の賜物なる事を知御国恩の辱き事を相弁候わば遊興安臥して在べきにあらず寒村僻邑の土民雨を祈晴を願候も必感応有之況天下一同 至尊の御仁慮を体認し奉り共に祈請し奉るに於ては神祇の冥感殊に速なるべきことに候


▽5 大嘗祭、新嘗祭の整備

 明治4(1871)年に大嘗祭が行われました。『明治天皇紀』が、以前の旧例墨守を批判し、「偏に実際に就くを旨」として祭儀が整備された、と記述していることは注目すべきです。全文は数ページにわたっていますので、冒頭のみ引用します。

明治4年11月17日 大嘗祭を行いたまう、これより先、政府祭儀の趣旨を定む、その概要にいわく、大嘗の大礼は国家の重典にして神代の遺範なり、故をもって世に治乱あり時に隆替ありといえども、歴代その儀を更めず、一に旧に依る、中葉以降大権武門に移りてより百官その職を失い徒に空名を存す、殊に神代より沿襲せし職官に至りては其の名実すでに亡ぶといえども、なお中臣代・忌部代らのごとく、某代と称して儀式に列せしむることこれ近代の通例なり、いまや皇業古に復し、百事維れ新たなり、大嘗の大礼を行うに、あに旧慣のみを墨守し有名無実の風習を襲用せんや、よりて大礼の儀式のあるいは未定に属するものは、姑く現時の形勢に鑑みあえて就職を用いず、偏に実際に就くを旨としてこれを制定す…(以下略)…

 大嘗祭の翌年、明治5(1872)年に新嘗祭が整備されました。明治天皇は神殿で神饌御進供、御直会を行われました。

明治5年11月22日 下の卯の日に当たるをもって、新たに式典を整え新嘗祭を行わせらる、その儀、午後2時神殿を装飾して、殿内四隅に歌の屏風をめぐらし、榊を殿前左右に樹て、鏡・剣・玉を懸け五色の絹を著く、4時式部寮員神座を殿内に設け、忌火の燈籠を神座の間の四隅に点ず、5時、参列の幟仁親王・熾仁親王および参議西郷隆盛・同板垣退助以下左院・諸省長次官便宜のところに候す、尋いで天皇山里御苑御茶屋に幸し、6時祭服を著して神殿に出御あらせらる、式部頭坊城俊政前行し、宮内卿徳大寺実則これに次ぎ、次ぎに侍従二人おのおの脂燭を秉る、宸儀、侍従長剣璽を奉じて従い、親王および参議以下の諸官扈従し、御茶屋より神殿に通ずる廊を進ませられ、御座に著したまう、侍従長剣璽を奉じて簀子に候し、式部頭および従一位中山忠能廂の座に、自余の諸官ら庭上の幄舎に著く、次ぎに式部頭進みて降神の儀を行う、次ぎに神饌行立あり、掌典・采女これを奉仕す、この間、神楽歌を奏す、天皇、手水の儀ありて親ら神饌を天神地祇に供し、直会の式を行わせらる、畢りてさらに手水を執らせられる、この間、親王および諸官階下に進みて庭上より拝礼す、次ぎに撤饌・昇神の儀ありて入御あらせらる、供奉は出御の時に同じ、午前1時ふたたび神殿に渡御して暁の祭典を行いたまう、その儀前に同じ、また神宮・皇霊・八神殿・官国幣社に幣帛を奉り、祭典を執行せしめらるるに依り、この日、午前8時神宮奉幣使・地方官を太政官に召し、大広間に於いて班幣の式を行う、また前夜鎮魂祭を修せしめらるること例の如し、小御所代を宮内省庁代としてこれを行う、本日休暇を百官に賜い、服者の参朝を停む


▽6 明治の改暦以後、11月23日に

 明治6(1873)年から太陽暦が採用されました。以後、新嘗祭は11月23日に行われるようになりました。この年の祭儀はたいへんでした。皇居が失火により焼失したからです。

明治6年11月23日 新嘗祭、仮皇居狭隘にして神殿建設の地なきのみならず、女官の祭服など焼失せるをもって、賢所行宮において、貞愛親王を御手代とし、式部寮員らをしてこれを行わしめたまう、而して夕・暁の両祭行わるるや、大広間南廂に出御して遙拝あらせらる、その際、右大臣・参議以下勅任官祗候するの定めなりしかど暁の儀にはこれを免じたまう、新嘗祭は午後4時ごろより翌暁に亘りて行わるるを例とすれども、この日午後10時30分にして夕・暁の両祭まったく畢る、前日太政官代において神宮以下諸社班幣の議あり、同夜小御所代において鎮魂祭修せらる

 皇居炎上の影響は翌年、明治7(1874)年も続きました。供饌の儀と御告文奏上の順序が入れ替わり、新嘗祭神殿は毎年建て直す方式から恒久施設に変わりました。

明治7年11月23日 その儀、明治5年の次第に準じて行わる、ただし本年より御供饌 後御告文を奏したまうこととす、また新嘗祭神殿は一昨年仮殿を新築せるが、昨年皇居炎上後、これを赤坂仮皇居に移して一時賢所仮殿に充用せり、ために改修せる箇所尠なからず、また狭小なるをもって、本年新たに神殿を造営す、なお新殿ははじめ祭典後これを撤却し、その用材をもって翌年復建することとなせしが、かくてはその失費少なからざるをもって、のち、この予定を改め、爾後建造のままにて存置することとなす

 明治8(1875)年以降、今日のように神嘉殿で親祭が行われる形式が続きます。剣璽の取扱に若干の異動がある程度で、祭式はほとんど変わっていないようです。

明治8年11月23日 新嘗祭、神嘉殿に出御、これを行わせらる、その儀客歳に同じ


▽7 御違例でも親祭

 明治14(1881)年はご体調が万全ではなかったのでしょうか、明治天皇は「御違例」でした。しかし親祭は行われました。もう一点、注目したいのは、慶応4年の説明では欠落していた粟について言及されていることです。

明治14年11月23日 新嘗祭、御違例にあらせらるといえども神嘉殿に出御して親祭あらせらる、その儀恒例のごとし、ただし神饌用の玄米・粟、従来東京府をしてこれを納めしめしが、本年以降は新宿御苑におい収穫せる品を供進することとなしたまう、また本年は新築御会食所の側に神嘉殿を建築せしめ、御会食所を経て同殿に渡御あらせらる

 明治15(1882)年以降は毎年、親祭が続きました。『明治天皇紀』の記述も判で押したように変わりません。

明治15年11月23日 新嘗祭、親祭あらせらるること例の如し

 明治21(1888)年以降は勅使として掌典が神宮新嘗祭に差遣されたことの記録が加わります。同年は掌典男爵萬里小路正秀、22年は掌典宮地厳夫、23年は掌典子爵千種有任、24年は掌典子爵千種有任、25年は掌典子爵前田利鬯、26年は掌典小西有勳でした。

明治21年11月23日 新嘗祭、親祭あらせらるること例の如し、掌典男爵萬里小路正秀を勅使として神宮新嘗祭に参向せしめたまう


▽8 行幸中、御喪中は掌典が奉仕

 大きな変化があったのは、明治27(1894)年です。

 同年7月、日清戦争が開戦します。9月に明治天皇は広島に行幸になり、大本営が置かれました。10月には帝国議会も広島で開かれました。このため新嘗祭は掌典長の「代拝」となりました。しかしその内容について、『明治天皇紀』には言及がありません。この時点では皇室祭祀令はまだ公布されていません。

 もう一点、陛下が祭典終了まで休まれることなく、祈りのときを共有されたことは注目されます。

明治27年11月23日 新嘗祭、広島行幸中なるに因り、掌典長公爵九條道孝をして代拝せしめられ、また掌典北卿久政を勅使として神宮に参向せしめらる、東西処を異にせらるといえども、深更祭典の了るまで天皇寝御あらせられず、御寝を仰出されたるはじつに翌暁3時5分なり

 明治28(1895)年4月に講和条約が調印されます。同年、翌29年の新嘗祭は親祭でした。

明治28年11月23日 新嘗祭、親祭あらせらる、儀例の如し、また掌典宮地厳夫を勅使として神宮新嘗祭に参向せしめたまう

 明治30(1897)年1月、英照皇太后が亡くなります。喪中のため、同年の新嘗祭に明治天皇の出御はありませんでした。『明治天皇紀』は「掌典部限りにて」とあります。その内容は不明です。

明治30年11月23日 新嘗祭、御喪期中の故をもって親祭あらせられず、掌典部限りにて行わしめたまう、また勅使掌典子爵前田利鬯を神宮新嘗祭に差遣したまう


▽9 御不例中で出御なし

 明治31(1898)年の新嘗祭はお出ましがありませんでした。明治天皇は風邪を召されたようです。「御風気の故」と記録されています。

明治31年11月23日 新嘗祭、御風気の故をもって臨期出御あらせられず、また掌典宗重望を勅使として神宮新嘗祭に参向せしめたまう

 明治32(1899)年、33年は親祭でした。

明治32年11月23日 新嘗祭、神嘉殿に渡御、親祭あらせらる、儀例の如し、また掌典北郷久政を勅使として神宮新嘗祭に参向せしめたまう

 明治34(1901)年にはやはり体調を崩されたようです。

明治34年11月23日 新嘗祭、不予に因りて出御あらせられず、掌典北郷久政を勅使として神宮新嘗祭に参向せしめたまう

 明治35(1902)年から38年までは親祭が続きました。『明治天皇紀』は勅使の名前以外、毎年ほとんど同一の記述が続きます。そして38年が新嘗祭の最後の親祭となりました。

明治35年11月23日 新嘗祭、神嘉殿に渡御、御親祭あり、儀例の如し、また掌典男爵久我通保を勅使として神宮新嘗祭に参向せしめたまう


▽10 明治39年以後は掌典長が奉仕

 明治39(1906)年、明治天皇はにわかにご体調を崩され、親祭はお取り止めとなりました。『明治天皇紀』は31年、34年の先例に従って、掌典長が祭典を奉仕したと記録しています。

明治39年11月23日 天皇軽微の感冒に罹り、胃腸を害したまう、よりてにわかに予定を変じて新嘗祭の出御を停め、31、34両年度の例に倣い、掌典長岩倉具綱をして祭典を行わしめたまう、また掌典男爵久我通保を勅使として神宮新嘗祭に参向せしめたまう、なおこの日より表出御を闕きたまうこと旬余、12月7日に至りて平常に復したまう

 明治40(1907)年もご病気のため、お出ましがなく、同じく掌典長が祭典を行いました。けれども27年の広島行幸中と同様、明治天皇は祭典が終了するまで休まれませんでした。以降、『明治天皇紀』は、出御がなく、掌典長が祭祀を行ったと記録しています。

明治40年11月23日 新嘗祭、不予に因りて出御あらせられず、昨年の例に沿い、掌典長岩倉具綱をして祭儀を修せしめたまう、而して天皇、暁の儀の神饌供進訖るまで寝に就きたまわず、翌日午前1時55分に至りてはじめて寝御を傳う、なおこの日、掌典子爵前田利鬯を勅使として神宮新嘗祭に参向せしめたまう


▽11 皇室祭祀令の公布

 明治41(1908)年9月に皇室祭祀令が公布されました。しかし明治天皇のお出ましはなく、掌典長が祭典を行いました。その内容が注目されますが、『明治天皇紀』はまったく言及していません。

明治41年11月23日 新嘗祭、出御あらせられず、掌典長岩倉具綱をして祭典を行わしめたまう、また掌典北郷久政を勅使として神宮新嘗祭に参向せしめたまう

 明治42(1909)年以降も出御はなく、掌典長が祭祀を奉仕していますが、明治天皇は神饌供進が終わるまで、あるいは祭典が終了するまでお休みにならなかった、と記録されています。

明治42年11月23日 新嘗祭、臨期出御あらせられず、掌典長岩倉具綱をして祭典を行わしめたまう、この夜零時35分暁神饌の供進終われる由を聞きたまいてのち、はじめて寝御を傳う、なおこの日、掌典子爵前田利鬯を勅使として神宮新嘗祭に参向せしめたまう

明治43年11月23日 新嘗祭、臨期出御あらせられず、掌典長岩倉具綱をして祭典を行わしめたまう、また掌典北郷久政を勅使として神宮新嘗祭に参向せしめたまう、この夜天皇、祭典訖るまで寝に就きたまわず、1時20分に至りてはじめて寝御を傳う

明治44年11月23日 新嘗祭、臨期出御あらせられず、掌典長岩倉具綱をして祭儀を修せしめたまう、この夜1時20分に至りてはじめて寝御を傳う、なお神宮新嘗祭には、掌典子爵前田利鬯を勅使として参向せしめたまう

 以上で『明治天皇紀』は閉じることにします。

 さて、ふたたび現代です。もしかして、今年の新嘗祭は、『明治天皇紀』に記されているような、明治天皇晩年の祭式の先例を踏襲し、すなわち旧皇室祭祀令を援用して、掌典長による祭祀執行が行われているのではないでしょうか?

 もしそうだとすれば、「昭和の先例」を踏襲などといわずに、「皇室の伝統」に従って、と説明されるべきではないかと思います。そのように説明されないのは、「皇室の伝統」を口にすることをはばかる、何か特別に不都合な理由でもあるのでしょうか?

 それとも完全に伝統無視の、掌典長による「代拝」が行われているのでしょうか? そうだとすると、前号で申し上げたような、文字通りの「際限のない祭祀の蹂躙」ということになるでしょう。

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